神殿の中庭で、ぼんやりとダリアは花を眺めていた。
季節は今は春を装い、しかし彗星の衝突によりまきあがった砂塵とその後の外殻に奪われてしまったが故に太陽は弱く、もしも日光に直接照られることがあるなら、目に沁みるほどに白いであろう花々に、どこかもの悲しさすら感じてしまう。
こんな感傷的な気分になるのはひさしぶりだった。
いつもは忙しく動いていて、ゆっくりと考え事にふける時間などなかったし(意図的に忙しさに身をおいている帰来があると、ラルフィルドに思われていることなど、ついぞ知らないことだったが)第二騎士団の団長に任命されてからというもの、任務を遂行することが楽しく、我を忘れて没頭していることが多かった。
ついさきほど、廊下ですれ違い様、若い神官が告げてきた会話の内容を思い出し、ダリアは溜息をつく。
彼はどこから聞いたのか、こどもをダリアが連れ帰った事を知っていて、その現状を教えてくれたのだ。
先日より接触を禁じられて以来、一度も顔を合わせたことのないキリ族のこどもは、大人しく図書館で働いてる、という。
「大人しく・・・。」
ではその後、問題を起こしていないのだ。
ダリアがほっとしたのと同時に、神官が流石ですね、と穏やかに言った。
「え?」
「ビショップのことです。」
神官はにこにこと笑った。
「こう言ってはなんですが、私にはビショップがこどもに優しく接する姿が想像できなかったのですよ。しかし、ベベは大層ビショップに懐いていまして。」
「・・・ビショップに?」
「ええ。」
そんなことが。
ベベの誰彼かまわず敵と見做しているとしか思えない態度が、少しでも和んだのなら嬉しいことだが、それにしても。
ダリアはいつの間にか眉を顰めていたが、その事に自分では気付かない。
なぜ、あの総長にこどもが懐くことなどあるのだろうか。
そうして自分の考えに没頭していたダリアの耳に、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえてきたのは、それからずいぶんたってからのようだった。
その証拠に、呼びかけてくる人物は苦笑し、それでもいつもの柔和な印象は絶やさずに、歩み寄って来ようとしていた。
中庭の向こう側にラルフィルドの姿を見つけ、きっと何度か呼びかけたのにも関わらず、返事をしなかったのであろう自分に気がついて、ダリアはバツが悪そうな顔を一瞬したが、すぐに目元を緩め、自然と表情を柔らかいものへと変えた。
それで自分に気がついたことを確信したラルフィルドは少しだけ右手を挙げ、何度かそれを横に振った。まるでこどもが友達にする仕草のようだった。
「ここにいたのか。」
ラルフィルドは言った。
「ええ。何事かあったのですか?」
「いや。」
なにかが可笑しいとでも言うように、ラルフィルドは笑う。
「そんなに色々なことが立て続けに起こる訳もないよ。このラヴィ・ロマリスクで。」
「ええ。」
それは、ラルフィルドに限らず、この国に住まう全ての人間の誇りでもある。
神に守られた平和の国に、争いごとばかりが続く筈もない。・・・それが、なんの根拠もない思い込みだとしても、それで人の気持ちが楽になるのなら、それで良いではないか。
そんな事を思いながら(そしてそう思う自分を不謹慎と感じながら)ダリアはラルフィルドに笑って応える。
「昼食を一緒にどうだろう?」
「まだ取ってらっしゃらないのですか?」
昼はとっくに過ぎ、まもなく2時を指そうという時間である。
ぼんやりしていて食べ損ねたダリアと違い、何事にも几帳面なラルフィルドはあまり決められている時間を、伸ばすことを好まない。いつもの彼なら、とっくに昼食も終え、午後の職務についている筈だ。
「ああ、少しだけのつもりで書類整理に手をつけたのが運のツキというやつでね。」
ラルフィルドは苦笑する。
「以前、ビショップが探してらした事件の記録が出てきたんだ。それを届けに行ったら、ヴァレリーもいて。ついでにお小言をくらってしまったよ。」
「・・・ビショップに、ですか?」
「ああ・・・まぁ。」
苦笑するラルフィルドの言葉は歯切れが悪い。
ヴァレリーのラルフィルドのふたりに対し、一体、総長のどんな小言があったというのだ。
「たいした事ではないのだがね。」
ラルフィルドは言った。
「・・私たちが、ダリアに過保護ではないか、と。」
「私に・・・ですか。」
「そうだ。ダリアをダリアとして見ろ、とね。私たちふたりの心配の仕方は、行き過ぎな感がある。幼馴染の妹だからと甘やかしているようにしか見えない、と。そんな事を。」
「・・ビショップ、が。」
なんだか釈然としないものを感じながらもダリアは、相槌を打った。
カルロの妹という事を、さらりと口にできる事に呆れた訳ではなく・・・その総長が、ふたりにそんな苦言をするほど、自分たちの―部下の―態度に気がついていたという事が意外だったのだ。
「それで昼食に誘っているのでは、意味がないが。」
と、ラルフィルドは笑い、
「まあ、休憩時間くらいは大目に見て貰おう。」
あの総長も鬼という訳ではないし、といつも冷徹な総長の傍にいるラルフィルドが言うのが可笑しくて、ダリアは少しだけ声をあげて笑ってしまった。
食堂は神殿の中、階段を下った地下にある。
そこは騎士のみならず、神官や神殿で生活するもの全ての食事を担う場所だ。
アーチ型の白い柱が連なる回廊を抜けながら、世間話に興じていふたりだったが、食堂に辿り着く前に、騒がしい音が耳に入ってきて、思わず足を止めた。
壁を挟んだ向こう側で、ざわざわと人の声がさざめいている。反響するのとは違うが、それが壁越しに回廊まで届いて、静かな中庭にどこか不安げな雰囲気を流し込んでいた。
ダリアとラルフィルドは顔を見合わせ、遠回りをして壁の向こう側へと様子を見に行く。
そこには大勢の神官が、困惑した顔で、女を遠まわしに眺めていた。
ある者は眉を吊り上げて怒りを露にし、またある者はわざと視線を逸らして、自分の意識がそこへない事をアピールしているかのようだ。
神官たちで円陣を組まれたようなその中央に、ダリアが助けてきたキリ族の女がいる。
中央に辿りつくまでもなく、聞こえてきた音楽に気がつき、ダリアは眉を顰める。
あれほどやめてくれと頼んだのに、彼女は音楽に合わせ、踊っていた。
やがてその姿が神官たちの背中越しに見えるほど近づくと、隣のラルフィルドが息を飲んだのが分かった。それは驚きと困惑とが交じり合った反応だ。
女の踊りは確かに美しかった。
しかし、纏っている服は、胸のあたりを結んだだけの簡素なもので、豊かな胸の谷間やヘソを含むくびれたウエストが丸見えになっている。足首には細い輪が幾重にも捲かれ、足の動きに合わせて鈴の音が響いた。膝は薄い布地の奥から踊りの動きによって露になり、その上の太ももまでもが、時折覗くその姿は、誰の目から見ても艶かしい。
普段の街中で踊れば、大層な見世物として人々を楽しませただろう。
しかし、ここは神殿。観客は神に仕える神官たちだ。
困惑というよりもむしろ迷惑そうに、批難めいた視線を女に送っているのだが、当の本人には一向に通じていないようで、それどころかますます踊りは激しく、また目のやりばに困るような霰にないポーズが多くなっていく。
ダリアが眉を吊り上げ、抗議をしようと一歩手前に足を踏み出した時だった。
よ、というように片手を挙げた黒い制服が目に入り、思わずそちらを見ると、遠巻きにしている神官の中に、なんとも言えない複雑な表情を浮かべたヴァレリーを見つけた。
その横に、総長がいるのも。
しかもこちらは、別段、複雑そうでも逆に面白そうでもない。更に神殿の中だというのに、その淫らにも思える踊りを止めるつもりもないのか、いつものようになんの感情も交えていない表情で、女の動きを眺めていた。
「ビショップ・・・。」
ダリアと同じところに視線を向けたのだろう。ラルフィルドが、わずかな仕草にヴァレリーに合図を送り、その横へと移動する。
「辞めさせますか?」
女の踊りはあきらかに神殿にはあるまじきものだ。
しかし、このキリ族を連れ帰ったのはダリアで、またもやそれが彼女の叱責に繋がるのではないかと心配しているのか、歯切れなくラルフィルドがあげた声には明らかに困惑が混じっていた。
それに対する総長の返事は簡素だった。
「やらせておけ。」
「・・良いのか?」
ヴァレリーが伺うように、総長に確かめる。
「やましいものがない者にとっては、ただの踊りだ。後で神官殿たちの何人かは己を律する為に祈りを捧げるかもしれないが、それだけの事だ。」
邪な目で見る者が悪いというような言い草で、総長は吐き捨てる。
やがて女の踊りが終わった。
誰の拍手も、踊りの代金を得たわけでもないのに、女は満足そうだった。
こめかみを伝う汗を手で拭いながら、ダリアがそこにいる事に気がついたようだったが、声をかけてはこなかった。彼女とは話すことがないとでも言う風に。
しかし、先ほどから冷めたように見ていた総長に対しては、自ら近寄り、声をかける。
「どうだった?あたしの踊りは。」
相手が神仕える騎士だと知って、からかうつもりなのか、口元には笑みを浮かべ、目は意地悪く細められている。
もしも女が、騎士たちの長であると見抜いてわざわざ彼を選んで声をかけたのなら、なかなかの慧眼だと言って良い。けれどダリアは、単に総長の類稀なるその美貌に興味を惹かれただけではないか、と思った。
その手の対応に慣れている総長は、いつもは答えずに立ち去るか、嫌味を言い返すかだったが、その時は違った。
「手の動きは、鳥の翼か?」
「え?」
騎士の3人のみならず、キリ族の女も少しだけ虚をつかれたように、その顔を見る。
「足踏みが激しいのは、大地への祈り。その場で回転するのは風を表していると見たが、どうだ?」
「・・・さあね。」
我に返った女は、笑みを浮かべて総長を見る。
「・・・どうだろう?」
「体をくゆらせる動きは・・・蛇か?」
それまで、面白そうに総長の言葉を聞いていた女は、思いっきり顔をしかめて、一歩分、体を遠ざける。
「やめとくれよ。蛇はキリ族にとっては死を招く生き物だ。薄気味の悪い。」
「そうか?」
対する総長は、少しだけ笑うと、
「蛇は賢い生き物だ。無駄のない姿はいっそ美しいと思うが?」
と澄まして言った。
それを聞き、女は気分が悪そうに、腕を摩る。
正直言って、ダリアも蛇は好きではない。リ・ヴォン教においても、凶兆のシンボルだ。創世記の逸話が元になってもいるだろうが・・・蛇は鶫を食らう生き物と、昔から決まっている。
黒き鶫を名乗る騎士団にとっても、あまり縁起の良いものではない。
ふん、と女は鼻を鳴らす。
どうやら、総長にからかわれたのだと気がついたらしい。
自分がからかおうとした相手に、手玉に取られ、面白くないのだろう。しかしながら、美しい男と話すことは心地よいのか、その場で立ち去ることはしない。
「キリ族に興味でもおありかい?」
「さあな。」
先ほどのお返しのように、女と同じ風に総長は答えた。そっけない口調だ。
「どうだろうな?」
やめときなよ、と女は言った。
「どこか同じ匂いがするから、すぐに分かる。あんたも遠いところから来たようだけど、あたしたちを理解できる者でもない。」
ヴァレリーがわずかに身じろぎをしたのが分かったが、彼がなにに対して反応したのかはダリアには分からなかった。
なによりもキリ族は、どこかの国じゃ凶報を齎すとも言われてるらしいしね、と女が嘯くと、
「それは知らなかった。」
と総長が答える。
恐ろしいことだ、ととてもそうは思っていない口調で言うのに、女は鼻で笑った。
バカにしたというよりも敵わぬ相手に対する強がりのような、笑いだった。
夕刻の祈りが終わってしまうと、その日の務めは終わる。ラヴィ・ロマリスクでは夜はひたすらに長い。
その為か、個人の嗜好に対する戒律は厳しくなく、神官たちにはたしなむ程度の飲酒も許されている。神殿のなかで神官たちが作る果実酒はとくに評判で、遠くからその酒を求め、リ・ヴォン教徒以外の者が国を訪れることも珍しくない。
騎士の宿舎の自分の部屋で、書き物をしていたダリアだったが、手元の灯りにしていたランプの火種が切れそうになっている事に気がついて、火が消えきる前に椅子から立ち上がった。
ランプの油は知識の塔の守り人が管理するのが習わしだった。宿舎を出て、星すら望む事はできない、ただ黒いだけの空を見上げた後、ダリアは神殿の左手に聳える塔へと向かう。
夜半とまではいかないが、それでも夜である事を考慮し、まるべく石畳に足音をさせないように歩いて中に入った。塔の内部を螺旋状に張り巡らされた階段の下まで来た時、ふと見ると、図書室の扉が細く開き、中からうっすらとした明かりが漏れていた。図書室の入り口は、てっぺんまで続く螺旋階段の中ほど、下から数えて3階目にある。夜の冷たい空気で冷やされた石の壁になるべく体が触れないようにしながら、ダリアは階段を上っていった。静かな暗闇には余分な音はまったくなく、今はただ、ダリアの立てる足音だけが異質なものであるかのように、空洞の塔内部に小さく反響していた。
図書室の前まで辿り着くと、中からはぱたぱたと小さな足音が漏れてくる。
不審者が入り込んだのかもという騎士としての使命感もあったが、同時に自分たちが厳重に警備している神殿の中ということもあり、ダリアは多少の警戒をしながら中へと入る。
図書館も塔内部の造りにそっている。階段を利用することで広く長い空間を作り、窓とは反対側の壁際に、一列になるようにして天井まで届く本棚が連なっている。絨毯が引いてある床を足音を忍ばせながら進んでいたが、壁と本棚に挟まれて道一本に制限された視界に入ってくるもの全て、いつもと同じようだった。しかし、しばらく進むと数段階見上げた先のテーブルに、ひとつのランプが灯っているのが見えてきて、思わずそちらへと足を進めようとした時、左手の本棚の陰から飛び出してきたものと、派手にぶつかる。
「・・・あ!」
「・・・!」
倒れこそしなかったが、たたらを踏んでぶつかってきたものを振り返ると、それはキリ族のこどもだった。
べべという名のその少年は相手がダリアだと分かるとバツの悪そうな顔をして、それでも謝罪のつもりなのか、ぺこりとおじぎをすると、すぐに踵を返して階段を上っていく。
「ちょっと・・・。」
どこ行くの、というダリアの言葉など聞きもしない。
とりあえず、図書館にいたのが誰だかはわかったので、目的は果たされたことになる。接触することを禁じられていることを忘れた訳ではなかったが、なにをしているのか気になり、ベベについてダリアは階段を上って行った。
ランプを灯したテーブルの上に本を置き、覗き込むようにしてベベがそれを読んでいた。もうダリアとぶつかったことなど忘れてしまったかのようだ。
ダリアがそっと近づいて積んである本のひとつを手にとっても、ベベは顔をこちらに向けもせず、一心不乱に読みふけっている。その姿はまるで、ここに来た時の、なにかに怯え、攻撃的ですらあった時とは別人のようだった。
そっとダリアは積んである本の背表紙を覗き込んだ。
それはラヴィ・ロマリスクの成り立ちに関わるものや、過去の偉人の伝記、はたまた遠い国に伝わる物語と一貫性がなく、しかも言語はばらばらだった。ラヴィ・ロマリスクにいる人間は大概、2カ国以上の言葉を操れるが、それでも、その全ての言葉を理解することはダリアだけではなく、神官たちも難しいだろうと思われるほどの多くの違う言語の本だった。
「・・・ここで勉強を?」
思わず話しかけると、少年はダリアに目を移し、頷いた。
「・・・こんなに?」
頷くベベに驚きを隠しきれない。
ダリアが素直に感心の溜息をついた時、ベベの視線がダリアを大きく外れ、その後ろへと向けられる。
つられて振り返ったダリアは、あ、と言葉を発して、思わず緊張を走らせた。
「・・・ビショップ。」
ゆったりとした足取りで、総長は階段を上ってくる。
叱責される事を覚悟したが、当の総長は、ちらりと視線でダリアを確認しただけでなにも言わなかった。
代わりにダリアと同じように、ベベの目の前に積まれた本を手に取り、中身を確認する。
「・・・だいぶ読み込んでいるな。」
ぱらぱらと乾いた紙のたてる音をたてる本を、ぱたんと閉じ、総長はベベに言った。
うん、という仕草で大きく頷くと、ベベはその中の一冊を抜き出して、総長へと差し出した。それは天地戦争に纏わる記述で、その中の1ページを大きく開くと、一行を指差す。
「・・・南西部か。ベルクラントに削られたあたりだな。・・これがどうかしたか?」
「・・・こっちの本に。」
ベベが言った。
「この地方の伝説が載っていて。」
「それで?」
「ここに。」
ベベはその本を開く。
ダリアがみた限り、総長の手渡したものと、その本に書かれた言語は違うものだった。
「"天使"に纏わるもので、天空より遥か昔、天から人がやってきて、奇蹟を齎した、っていうんです。」
少年がなにを言いたいのか、興味を引かれてダリアも耳を傾ける。
「・・こっちの本にも同じような伝説が載っていて、でも、別々の地方です。けれど、どっちもベルクラントに削られてて。」
「・・・・・。」
「そういうような伝説って案外、いっぱいあるんだけど、その全部がベルクラントに狙われてて・・・なんだか、変だなぁ、って。」
「え?」
偶然で済む話といえばそれまでだが、なんだか胸騒ぎを覚えてダリアは、ベベの開いた本を総長の横から覗き込む。
ダイクロフトによる地上人支配の最強の兵器とはいえばベルクラントだが、実際に、最大出力で発射された事はあまりない。
そもそものダイクロフトの威力が大きすぎるため、そう何度も地上に向けて発射すれば大地がなくなり人も町もなくなり、それどころか大陸そのものが失われかねないからだ。それが分からぬほど愚かではない天上王は自らが王として君臨することを宣言した直後、3度だけその最大出力のベルクラントを発射した。それにより外殻が空の全てを隙間なく覆い、世界は漆黒の闇に包まれた。
それは後に、暗黒の一週間と呼ばれる。
全ては自分にどれだけの力があるかと見せ付ける為だけのものだったが故に、ミクトランは7日ほどで空全体を覆う外殻を崩した。まったくの漆黒の中では、人間は生きてはいけない。支配しようというのに、自らに貢がせるはずの人間が死に絶えたのでは、元も子もなかったのだ。しかし、その7日の齎した効果は絶大だったといえる。以後、しばらくの間は、天上に抵抗しようという者もなく、天上は思惑通りの地上支配を治められたのだから。地上軍が結成されるまでは。
だが、逆に出力幅の小さなものは今でも、年に何度か、地上に発射されている。それは、ひとつの町を消去できるほど大きくはあったが、山ひとつを失くしてしまうほどではなかった。目的は、大概は天上に対する反抗勢力への脅しで、なにかを意のままにしようとする時の天上王のやりかただった。
最近、ベルクラントが発射されたのは、他ならぬ、このラヴィ・ロマリスクの傍だった。
そして、公には秘密にされている事柄が、このラヴィ・ロマリスクにはある。
それは、かつて天生の民と呼ばれた民族が、ラヴィ・ロマリスクの祖にあたること。その天生の民が一夜にして滅んだ時、空から翼の生えた娘が飛来したという伝説があることだ。
「・・まさか、ね。」
ラヴィ・ロマリスクが天生の民の子孫であることをミクトランは知る由もない。この国が、かつて天生の民がそれを持って世界を制していたという科学技術を、未だに隠し、守っていることも、だ。
そう頭から不安を振り払い、ふと顔をあげると、視線の中に否応でも総長の顔が入ってきた。
彼は口元に人差し指をあて、なにかを考えている。
「・・・まさか、やつが独自で気がつくなどということは・・・。」
「え?」
思わず聞き返したダリアに、なんでもない、と首を振り、総長はこどもへと向き直る。
「・・・しかし、お前もよくここまで短期間のうちに、これだけの言語を習得したものだ。」
「しゃべれはしないけど・・・。」
実際に発音を聞いている訳でもないので、それがどのように話されるのかは分からないのだそうだ。文字を記号と配列として覚えたので、意味はわかる。そういう事のようだ。
「では・・・次からは各国の言葉に長けた司教を紹介しよう。」
話せるようになるには、教師を変えなければならない。
「・・お前が望むのならば、だが。」
「はい。」
こどもは即答した。とても嬉しそうだった。
それを見てダリアは、先日、神官のひとりがベベがビショップに懐いていると話していたのを思い出していた。
意外、という感想はダリアも一緒だ。
しかし、懐いているというのとは違う気もする。言うなれば。
「では、明日にでも手配しよう。・・・勉学に励んでいるところを邪魔したな。」
無理をするなとか、夜更かしするなとかという類の気配りの言葉もなく、総長は踵を返した。視線でダリアに着いて来るように促す。ベベの勉強の邪魔をするな、という風に。
はい、と頷きながらベベを見ると、ぺこりと去っていく総長に頭を下げているところだった。
それは、言うなれば、尊敬。
しかも、信頼の篭った、尊敬の意を示しているようにしか見えなかった。
「キリ族が他国民に厭われる理由は、なにも国を持たぬ民族だからではない。」
図書室を出て、螺旋階段を下りながら話し始めた総長の後ろで、ダリアはえ、と目を丸くする。
先ほどのこどもへの態度といい、今日は本当に珍しいことが重なる。この総長が聞かれもしないことを、自ら話し出すなんて。
「他にどんな理由があると?」
そもそもラヴィ・ロマリスクは豊かで恵まれているが、国の特色が理由で、リ・ヴォン教に関わりを持たない他国にはあまり踏み込むことはできない。特に絶対的に、リ・ヴォンを受け入れないであろうキリ族のような民族とは、関わることすら稀だ。
故に、ダリアもキリ族に関することは人づてに聞く程度のことしか知らないが、それは迫害と差別の歴史だった。なにも彼女が浅学な訳ではなく、彼女の生きる範囲内に、今までキリ族がいなかった、というだけの話だ。
「彼らにとってもっとも恥ずべき行為なのは、人から施しを受けることだ。」
総長は言った。
「それは、幼い子供にも適応する。普通なら親が子の面倒をみるのは当たり前ではあるが、しかしキリ族の間では、子供でも働かぬ者に対しては厳しい。・・彼らは幼い時から自分の仕事や役割を自分自身で見つけ、それをまっとうする事で・・・初めて親に養って貰うだけの権利を持つんだ。」
「子供なのに、ただ遊んで暮らすことが許されないのですか?」
子供は、遊びの中から、人としての全てを最初に学ぶと考えられているラヴィ・ロマリスクとは正反対だ。
つい厳しいのですね、と呟いたダリアに、それが国を持たずに身一つで生きる者の知恵なのだろう、と総長が言った。
根無し草で生きるということは、定職がないということだ。賃金を得ずに生き抜くには、相等の過酷な状況に追いやられる。想像するに、明日あさっての命の保障もないということではないだろうか。
「だからこそ、彼らの生き様はシビアだ。子供であろうと働かぬ者は生きるに値しない・・・そういう事なのだろう。働かぬならなにかを得ることは敵わない。それは他人から施しを受けると同じことだからだ。施しを受けるくらいなら死を。そうでないなら・・・他人から奪って、生き延びろ・・・。」
「それでは本末転倒なのでは?」
「しかし、そういう掟なんだ。」
総長は振り向きもせず、一定の歩幅を崩すことをしなかった。まるで正確な振り子時計のように、淡々と歩みを進める。しかもその歩みは小柄な体躯に似合わず、早い。ダリアは置いていかれまいと必死にならざるおえない。
「こちらからみれば神殿内の盗みという大罪でも、彼らにしてみたら生きる為の掟に従っただけのことだ。この社会に置ける生きる為の認識の差が、他国民とキリ族との軋轢を呼ぶ。」
「・・・・!」
先日、自分の正義を疑えと言われた意味が分かり、ダリアの頬に朱が散った。
それは、一方的な視線でしか考えなかった自分への戒めだったのだ。
キリ族を迫害されるもの、弱きもの、と決め付けた事で、ダリアはあの時、ベベによりしっぺ返しを食らっていたのに、それにすら気がつかなかった。自ら気がつかねばならない事だったというのに。
己の無知さ加減に、羞恥を覚えた。
「申し訳ありません・・・。」
わざわざ目の前の総長が、その道への目印を示していたというのに、ダリアはあれ以後、その事を考えもしなかった。
人の話を聞かぬ者、使えない部下だと、思われても、当たり前だろう。
無能な総長と思っていたというのに、相手の期待に応えられなかった自分に落胆している事を、ダリアはこの時気がつかなかった。
「そうか。」
ダリアははっと、顔をあげた。
「だから、あの子に仕事を与えたのですね?仕事をしてさえいれば、生きる権利を得られる。神官から食事を貰うことがあっても、それはまっとうな代金であって施しにはならないから。」
それに対し、一瞬だけ、ちらりと総長は後ろを見やったが、だからと言って返事をしたりはしなかった。逆にダリアもその答えを得る機会を逃してしまった。まもなく階段を下りきってしまったからだ。
「どこへ行くのかは知らんが。」
総長は言った。
「夜分に見回りの任でもない騎士が出歩くのは感心しない。ラヴィ・ロマリスクにおいて他人の嗜好にとやかく言うつもりもないが、たとえ僅かだとしても、酒場に出入りする騎士の姿を人目に晒せば、不安を感じる民もなかにはいるだろう。酔った姿というのは、見ていて気分の良いものではないからな。」
暗に早く帰れ、とダリアに促していた。
騎士団の風紀に関する意見を、総長が話すを聞いたのは初めてで、ダリアはこの時、この目の前の男が、自らの総長という肩書きを決してただの自慢の種のように捕らえているのではないのだ、とわかった。
きちんと、上の者として部下の動向に対する責任があるということを、弁えている。
「ランプの火種を取りに神殿に行くところでした。」
ダリアは答えた。
「貰い受けたらすぐに戻るとお約束いたします。・・・ご心配をおかけして申し訳ありません。」
ダリアは頭をさげた。殊更、丁寧に見えるように。
「ビショップ。」
下げた頭を上げきらないうちに、ふわり、と風が動いた気配がして、目をあげるとすでに総長はマントを翻し、ダリアに背を向けて宿舎へと向かっていた。そうして彼が用を終えたことを知ると、本当に総長の目的が、あのこどもの様子をみることだったのだと分かって少しの困惑と少しの合点を得、しかしそれは、ダリアにとっては大きな出来事だったのだ。
果実の甘い香りが漂い、女も男も神官たちも、明るい歓声をあげている。その声はまるで罪のない子供に返ったかのようだ。
5つの並んだ大きな桶のなかには葡萄のジュースが、もう十分に溜まっているだろう。
たくし上げたスカートから見える素足はすでに紫色に染まり、ジュースを跳ね上げた白い脛もふくらはぎも、軽いステップを踏み続けている。
自慢の足は、こんなところにも役にたったようだ。
にこにこしながら見ていたダリアを、女は軽く睨んだが、そうはいってもその目尻は緩く、少しも怒っているようには見えない。
どちらかというと、それをさせられている事よりもむしろ、手伝わないことに文句を言いたそうだ。
大方のジュースを絞れると、それを樽に開ける為に一旦、休憩となった。
重く水分を含んだ桶を引きずり、ジュースをワイン樽へと移し変えている神官の姿を見ながら、キリ族の女はダリアの隣に座った。
「音楽があった方がやり易かったですか?」
ダリアが軽口のようにいうと、女はフン、と鼻を鳴らし、
「どっちにしたって同じだよ。しかし、人使いが荒いね、あんたも。」
とこのワイン作りに半ば無理矢理参加させた本人を軽く睨む。
「貴女の足裁きは必ず役に立つと思いまして。」
悪びれもせずにダリアは笑う。
「"働かざるもの喰うべからず"が、キリ族の掟でしょう?」
「あたしはきちんと働けるよ!」
「けれど・・・貴女の踊りではここでは賃金は得られません。見事なものだとは思うけど、神への冒涜を気にする者たちに見せても、無駄なだけです。」
「はいはい、そうですか。」
女は面白くもなさそうに言うと、足を投げ出し後ろの壁に寄りかかる。
裸足の足は紫に染められ、洗ったらどうか?とダリアがタオルを差し出すと、まだ葡萄踏みをやるから良い、という。
「しっかし、なんかあんた、変わったかい?」
女がダリアを見て言う。
「疑問系で聞かれましても・・・。」
「この前までは、物分りの良い顔をしながら、あたしたちを自分の枠に嵌めようとしているって感じだったけど・・・。あたしたちの事は諦めたのかい?」
「そんなこと・・・。」
けっしてそんな風には思っていなかった。しかし、受ける側がそう感じたのなら、それも紛れもない真実なのだ。
ダリアはそう思い、傲慢な自分自身の一面に、殴られたような気分になった。
だからそれには答えず、違う言葉を返す。それの方が本心に近く、そしてわずかに堅実的に思えたからだ。
「貴女たちを好きになったからです・・・。」
そのままの貴女たちを。
「へぇ?」
女は笑う。
「本当に前と違うね。なんか、この前の綺麗な兄さんと同じ感じがする。」
「・・・綺麗な。ビショップですか?」
「そう。あんたたちの中で一番偉い人を、ビショップって呼ぶそうだね。あの兄さん、偉いんだって?」
「ええ。」
「あの人は・・・なんだかいけ好かない感じだった。けど不思議な男だった。瞳が違う、纏う空気が違う。どこか懐かしい感じがする。どこか遠くの匂いがする。どこにいても誰にも似ていなくって、所詮この世には、自分はひとりしかない、という孤独と絶望を知っている。そういう男だ。」
キリ族は旅をしながら、色々な土地を廻る。
音楽と占いを生業に、死ぬまでひとところに留まらないという。
彼女の血の中に、人の魂のようなものが、記憶されているのならば、どんな異邦の民の本質をも見分ける感性に長けているのかもしれない。
ダリアは、そんな事を思った。
「でも、あまり吉報を呼ぶ人間でもない。あんた、あんまりいれ込まない方が良いよ?」
「え?」
「あの男にさ。女が不幸になるタイプだ。」
一瞬のうちに、女の勘違いに気がついて、えー、とダリアは手を振った。
「違います!なにを言ってるんですか!」
「なんだ、違うのかい。」
女の声はどこかがっかりした風だ。
「そんな気もするし、違う気もするし、どっちかと思ってたんだけど。そうなら面白いと思ったのに。」
「人で楽しまないでください!」
いっせいに掛け声があがり、新しい葡萄が束になって桶の中に入れられる。
汗をかき、力仕事のしんどさを顔に滲ませた神官が、きょろきょろと葡萄踏みを手伝ってくれる人を探しているのが見える。
「じゃあ、行ってくるか!」
女は威勢良く言うと、すっくと立ち上がる。
その動きに、しゃらん、と腰に捲いた鈴の束が鳴った。
その瞬間、ひらめいた。
「あ、そうか!」
ダリアは、手を打ち、
「あの腰の動き!くねらせるのは、川を表しているんだわ!」
大地を這う、命の恵み。
行き着く場所へと流れ着く、まるでキリ族のように。
女はそれには答えなかった。しかし、にっと大きく笑った事が、証明のようだった。
ワイン作りに戻っていく女の後姿を満足げに見送り、そしてダリアは、どこかに自分が行き着いたことに気がついた。
一皮剥けたと表現する人間もいるかもしれないが、自分の場合は、彷徨い歩く旅路の中で、ようやく目印が見つかったというところだろうか。
その目印は黒い旗で、きっと荒れ狂う海の中でも、羅針盤のように必ず、ダリアの行く道を示すだろう。
恋や、憧れの、浮かれたものではけっしてない。
そう敬愛に値する。
ダリアは思った。
Fin
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