たとえば。
お互いに同じ事を考えている、と感じることがある。
そして、向こうもそう思っているのだろうという事も。
それはちょこっとした視線でだったり、手の動きであったりと他者には分からない位些細なことだが、ふたりの間ではそれだけの仕草が言葉を使うよりも雄弁に語る、というそんな時の事だ。
それは名前すらない現象ではあった。
愛しいも愛している、もこの感情を表すにはふさわしくなく、また、言葉に置き換えようとすると、確実にあったはずのその真意はまたたく間に霧散してしまう。
だから、けっして、口には出せない。
それでも心を透明にしてイメージすれば、それは砂漠に降る雨だ。
渇望し続け、けっして、満たされる事はない。
「あ、いたいた、ハロルドー!」
図書室だというのに大声をあげ、カイルがハロルドの座る机へとやってくる。
顔をあげて見ると、その後ろをぞろぞろと全員がついてきていた。
他が無言なのは、カイルとは逆に場所への配慮だろう。
「なに?」
ハロルドは山高く積み上げた本の上に、たった今読み終えた1冊を乗せ、カイルに答えた。
もちろん、大声を出したりはしない。
「うっひゃー。お前もうこんなに読み終えたのかよ?」
感心というよりも、むしろ呆れたようにロニがそれを見て言う。
ハロルドは、朝食を終えた後、図書館に行くと行って席を立った。
それからそんなに時間はたっていない。
「買出しに行こう。」
ナナリーがハロルドを誘った。
それは昨日から今日の予定に入っていた。
うん。と頷いて、ハロルドは本の山を揺らさないように立つと、片付けるために1冊づつ取り上げる。
本を戻すのを全員が、当たり前のように手伝った。
「ああ、そりゃ俺がやってやるよ。」
ハロルドが高い位置になった本を戻そうと脚立を持ってきたのを見て、ロニが言う。
背の高いロニは、ハロルドでは手が届かないような場所へも余裕で本を戻していく。
それを見て、ハロルドはにんまりと笑った。
「ああやってると、なかなか好い男なのにねぇ。どーしてモテないのかしら。」
「ならば、お前がつきあってやったらどうだ?」
笑いを含んだ声が、すぐ後ろでした。
振り向かなくても相手は分かるが、ハロルドは顔をそちらに向ける。
ジューダスは、目が合うとにやり、と笑った。
「そういう冗談は。」
ハロルドは前に向き直り、全員の位置を確認した後、後ろ向きのまま一歩下がって、ジューダスの横に並んだ。
彼にだけ聞こえる小声で言う。
「ナナリーのいないところでしてよ。私まで危なくなっちゃうわ?」
運良く聞こえていなかったらしいナナリーのツインテールを見ながら、ハロルドは含み笑いをした。
それを聞いたジューダスは、もう1度、にやりとハロルドに向かって笑うと、「人体解明学」という本を手に取って、棚へと戻しに行った。
街中へと繰り出せば、ショーウィンドウに並ぶ、あれやこれやに目を奪われる。
その誘惑に逆らうことなく店を覗いたり、何かを買って食べ歩いたりすれば、その日1日が潰れてしまうというものだ。
例によって、目的の店に行く途中で、レースやリボンで飾られた可愛いファンシーショップを見つけ、足をとめたのはリアラだった。
「あ、可愛いー。」
指を差した先には、小さなアクセサリー入れがあった。
陶器でできていて、フタには寝そべっている犬が施されている。
「欲しい?リアラ。オレ、買ったげようか?」
聞きとめて、カイルがリアラの横に並ぶ。
「ううん。だって荷物になっちゃうし・・・。入れるアクセサリーだってないもの。」
「そんなの、これから増やせば良いじゃん!」
「はいはい。」
大げさに両手を広げた仕草でナナリーが溜息をついた。
「もうこっちは当てられっぱなしだよ。よくもまあ、あんだけ人目もはばからず、いちゃつけるもんだよ。」
「完全にふたりの世界、ってヤツだよね。」
ロニも同意する。
「頭の中は、絶対花畑よ。あのふたり。」
ハロルドは笑った。
だが、可愛いものだ、と思う。
人の事など眼中にないほど、お互いの没頭している姿は微笑ましい。
羨ましいとさえ、時々思うわ。
そう言いそうになり、ハロルドはそんな自分に苦笑した。
「何が必要なんだっけ?」
「えっと・・・。」
店はそれほど混んでなかった。
町の日用雑貨を扱う店とは違い、旅人相手の備品店など、どこの町でもそんなものだ。
なければ困るが、その代わり、流行のない品揃えの為、目新しいものを求めて来る者もいない。
場所によっては、同じ物でも多少の値段の差が出るために、安い場合はまとめ買いする事もあるが、道中持ち歩くうえに、消耗品だ。
旅人の客が途絶えることはなくても、大金を落とす、などという事もない。
「ここらへんは寒いみたいだから、用心の為にブランケットでも買っておくかい?」
ナナリーが言った。
毛布の方が防寒対策には優れているが、その分重い。念のために、というならば軽いブランケットの方が適切だ、とハロルドも思った。
「じゃあ、あの花柄のピンクの・・・。」
言いながらナナリーを振り返る。
だが、その目は自然とナナリーの斜め後ろへと吸い寄せられた。
ジューダスと目があった。
それでときめく訳でもない。
先ほどのカイルとリアラのように甘い空気が流れるわけではないし、何かを期待している訳でもない。
だが、言葉にならない、なにかがある、と思う。
ふたりにしか分からない暗号のようなもの。
それを視線だけで、確認しあう。
「・・・その花柄のピンクなんてどう?可愛くない?」
「うーん、ちょっと少女趣味すぎないかい?」
ハロルドが指差したのを見て、ナナリーは苦笑する。
これが似合うのは、リアラかハロルド自身しかいないだろう。
「だから、良いんじゃないのよ?」
ハロルドは言う。
「これを男どもがかぶっている姿なんて、想像しただけで笑えるわ。」
「おいおい。」
勘弁してくれよ、とロニが聞きとめて嘆く。
そのロニに対して、ハロルドがにんまりと笑い返した時、ジューダスの姿はすでに、店の中から消えていた。
足りない備品はすぐに揃った。
それさえ終われば、今日の予定は夕食まではなしだ。
たまには奮発して、ホテルの中にあったちょっと高めのレストランで夕食を取る、という約束になっていた為、時間にその前で集合する、という事にしてその場で解散になった。
カイルとリアラはさきほどのアクセサリー入れを買いに行くという。
「やれやれ、じゃあ、あたしらはそこらでも見て回るかい?」
「あ、私、行くとこあんのよー。」
ナナリーの誘いを、ハロルドは辞退した。
ロニとナナリーの間に入るのは野暮というものだし、あながち、それも嘘ではなかった。
あからさまのそうとは見せないものの、お互いに照れて、
「じゃあ、行くか・・。」
などと言いながら去っていくふたりに、軽く手を振り、ハロルドは街のはずれにあった公園を目指して歩きだした。
公園には、まるで人気がなかった。
別にさびれている、という感じでもなかったから、そういう時間帯なのかもしれない。
足を踏み入れた途端、青っぽい香りが鼻腔をくすぐり、気持ち良かった。
公園は一面をピンク色に染め、美しかった。
まるで雪のように舞い散る花びらが、今もとぎれる事なく土の上へと落ちていく。
上へ上へと新しく積もる花びらを誰も踏まない為か、それは汚れる事もなく、まるでピンク色のじゅうたんが敷き詰めてあるかのようだ。
生まれ育った時代ではめったに花を見ることはなかったが、それでもこの地方にしか咲かないのか初めて見る花だった。
流れるような幹の木の枝に、それは咲き誇っている。
「桜というんだ。」
ハロルドの心の中を読んだかのように静かな声がその背にかかる。
振り向くと、ひときわ大きな木の根元によりかかって座っている彼の黒い服が、淡い桜色のじゅうたんの上に映えて見えた。
ハロルドはジューダスの隣へと黙ったまま、並んで座る。
どういう気まぐれなのか、めずらしくジューダスは仮面を外していた。
彼の右手のすぐ横にうす汚れた竜の骨が転がっている。
「・・綺麗ね。」
「・・ああ。」
だが、儚く感じる。
美しければ美しいほど、もの悲しく感じる。
ハロルドがそう言うと、ジューダスは、
「この花は散り際が殊更、美しいからな。」
と言った。
伝わっている、とハロルドは思う。
散っていく時のその潔さが、なにものにも負けぬほど気高く感じるのだという事が。
来ると思っていた、とジューダスは言わなかった。
わざわざ意志の疎通のあるなしを、この男は確かめようとはしない。
その全てにおけるさりげなさが心地よい。
人の心の領分に、不必要に入り込もうとしないジューダスの態度を、身近に感じるようになってから、ハロルドは人の心に国境がない、という言葉の意味を改めて考える事が多くなった。
そして同時に、この男の存在が、ハロルドの心の奥に深く浸透していくようにもなった。
人の出会いなど運だ。
けれど、この男に出会ってなかったら、確実に今の私になってなかった、とハロルドは思う。
その場合は、また別の自分になるだけだが、きっと今よりも絶対的になにかが足りない自分だろう。
この男の存在を別のもので補えるとは思えない。
「そういえば。」
永遠にこのまま時が過ぎていってしまうのを待っているかのような、静かで濃密だった空気をふいに壊し、明るい声を出して、ハロルドが言った。
「なんだ?」
答えるジューダスは少し眠そうだった。
そんな顔をハロルドは、可愛いな、と思う。
そして、自分で重症だわ、と思った。
「昨日、女の子に叩かれたところ、どう?」
ジューダスはあからさまに嫌な顔をした。
昨日、完全なとばっちりを彼は受けてしまった。
例によってナンパにせいを出していたロニだったが、相手は気位が高いお嬢様だったらしい。逆上し、いきなりロニをひっぱたいた。しかも、何の関係もないのに、友達だというだけでジューダスまで。
反撃をしたくても、相手は単なる町娘。
手をあげることもできず、まるっきりの叩かれ損だった。
「一対、何を言ってそんなに怒られたわけ?」
笑いを含んだハロルドの声に、ジューダスがむっとしたのが見て取れた。
「知るか。僕が言った訳じゃない。」
「それは知ってるけど?あんたも近くにいたんだから、聞いてなかったの?」
少しだけ、考えているようなそぶりを見せた後、ジューダスは別に、と軽く首を振って答えた。
「あいつが、何を言ったのかまでは知らん。だが・・・その女に、その気がなさそうだったから、さっさと見切りをつけて、違う女に声をかけてたんだ。」
「・・・・んん!?」
「そうしたら、行き過ぎたと思ってたその女が、わざわざ戻ってきて、いきなり、だ。訳が分からん。」
ハロルドは笑った。
「なに、それ〜。まさか、ロニまで叩かれた理由が分からないんじゃないでしょうね?」
「?あいつも分かってないみたいだったが・・?なにかあるのか?」
まったくもう、男ってのは!とハロルドは可笑しくなった。
ロニが自分に気があるそぶりをしておきながら、ダメと分かればさっさと違う女乗り換えた事が屈辱だったのだろう。その娘は、プライドが傷つけられたのだ。
ジューダスは細く長い眉を顰めた後、くだらん、と言った。
「だったら、初めから断らなければ良い。」
「それはそれで別の話なのよ。」
「自分は興味もない男のくせに、他の女に色目を使われるのは、嫌なのか?強欲だな。」
「それとも違うんだってば。」
思わず、ハロルドは苦笑する。
女心の機微に疎いのは、この男も一緒だ。
「あの女の心情など、どうでも良いが。」
ジューダスは言った。
「まったく迷惑な話だ。気の強い女ばかりを見てきたが、あんな女は2度とごめんだ。」
「何が、ごめん、なの?」
口元に笑みを浮かべ、ハロルドは意地悪く言った。
その気の強い女、という分類に、きっと自分も含まれている。
「・・あんな目に合わされるのが、だ。」
ジューダスが答える。
それは、違う意味に私の取られると困るって事?と思ったが口にせず、ハロルドはジューダスの目を覗き込む。
ジューダスは目をそらしもせず、自分を覗き込んでくるハロルドを見返してくる。
ハロルドはそっとジューダスの口の端に指で触れた。
町娘の一撃など、たかが知れている。
けれど、仮面を被っているのが災いして、ジューダスは口の端を少しだけ切っていた。
別に痛んだりはしないようだが・・・こんなくだらない事でこの男が傷を負うなど、あってはならないと思う。
しかも、この頬を誰かが打った、という事。
それだけはどうしても許せない。
「もう痛くない?」
気分がむかむかするのを押し殺し、ハロルドが聞く。
「初めから痛くはない。気にするな。」
「そうね。」
ハロルドはその手をひっこめようとした。
その動きよりも早くジューダスがハロルドの手首を捕らえる。
「なに?」
その行動に対して、ハロルドが問うと、
「・・・・・細いな。」
まるで、今、初めて目にしたかのように、ジューダスはハロルドの手首に向かって言った。
そのつぶやく声が、ぞくりとする寸前の感覚をハロルドに齎した。
ハロルドは反射的に強めに手を引く。
だが、今度もそれよりも早く、ジューダスは自分の手から逃れないように、ハロルドの手首を掴む手に力を込める。
別に痛くはなかった。
だが、それよりも。
そのまま、一瞬、指の先にあてがわれた、ジューダスの唇の感触に、衝撃を受けた。
柔らかいも、暖かいも、じっくりと感じる余地もなかったが、そんなものは重要ではなかった。
ハロルドは自分たちの関係は天秤のようなものだ、と思う。
ほんのあとひとカケラの差で、大きく傾いてしまう。
問題なのは、自分が欲している、という事だ。
そして、相手もそれを知っている、という事。
まるで、それきり興味を失ったかのように、ふっと、ジューダスはハロルドの手を離した。
視線すらも、ハロルドから桜へと戻している。
そして、しばらくすると、なにもなかったかのように再び、濃密で静かな時間が流れ出す。
ハロルドは、今しがた感じたぬくもりを忘れてしまうのを惜しむように、自分の指先を、そっと自分の唇へとあてがった。
この街の豊かさを物語っているかのように、宿というよりもホテルの中の、食堂というよりもレストラン、といった呼び方の方がふさわしいその店は、豪華な装飾さえないものの、どこか品が良く、テーブルも椅子も質の良いものが使われていた。テーブルの上には、銀の蝋燭たてと、小さな花瓶に生けられた花が置かれている。
約束どおり、全員が夕食の席で顔をあわせた。
アクセサリー入れを買ったカイル達はなんと、中に入れるアクセサリーまで、早速買ったという。
「で、何を買ってもらったんだい?」
「指輪なの。」
はにかんだようにリアラが言い、右手を上げて見せた。
ピンクの石が花を象ってできているそれは、リアラの薬指を美しく演出できる事を誇っているかのように、キラキラと輝いていた。
「カイルのやつ・・・意外と気が利くじゃねぇか?」
小声でこっそりとロニが隣に座るハロルドに言う。ハロルドもそれに頷いた。
「やるわね、小僧のくせに。」
そのカイルはリアラの隣で、にこにこと嬉しそうに、見ようによってはだらしなく笑っている。
「たいした物じゃないけどさ。ほら、闘技場でかせいだお金があったから。」
「折角、カイルが戦ったんだもの。自分の為に使えば良かったのに・・・。」
「良いんだよ!また出れば良いんだし。あれ?それともリアラは、今度はオレが勝てないかもって思ってるの?」
「そんな事あるわけないわ。」
「だったら、遠慮なんてしないでよ。オレがリアラにプレゼントしたいからしたんだからさ・・・。」
またふたりだけの世界に行っちゃってるよ・・・とナナリーが言った。
それは小さい声でもなかったのに、当の本人たちの耳には届いてもいない。
それが可笑しく、くすくす笑いながら、ハロルドはそら豆のスープをすくう。
口に入れる時、一瞬、そら豆独特の匂いがした。
「うえ。けっこう、そら豆の匂いすんな、これ。」
ハロルドがこくんと飲み込むのと同時に、ロニの嫌そうな声がした。
それに反応したのは、ナナリーだ。
「なんだい?そら豆、嫌いなのかい?」
「バカ言え。塩茹でなんかうまいじゃねえか。けどよ、やっぱスープにするには青臭くないか?」
「う〜ん。そこがおいしいと思うんだけどね、あたしは。」
料理上手の彼女は、今度作ってみようかと思ったのに、と不満そうにつぶやいた。
「ジューダスは?嫌いかい?そら豆のスープ。」
「・・・いや。」
ピーマンやにんじんのような苦い野菜がダメという子供のような味覚のジューダスだが、別に青臭いのは平気らしい。
彼の前にはすでに空になったスープ皿があった。
「私も好きよ。」
ハロルドが同意した後、ロニに向かってにんまり笑いかける。
「ほのかに甘みもあって美味しいじゃない?匂いが嫌なら、口に入れる時、鼻でも摘んどけば?」
「お前なぁ・・。」
とん、とハロルドは右の膝に軽くぶつかったものを感じた。
そっちにはジューダスが座っている。
自分の足を引こうかと思ったが、なんとなく、ハロルドはそのままにしておいた。
理由などないのが、一番の理由だ。
6人がけのテーブルに、6人が座っているのだ。お互いの膝があたっていても不思議はない。
わざわざ避ける必要もないし、引いて貰う事もない。
わずかにあたっている足からは、ほんのりとした相手の体温が伝わってきている。
ロニがそら豆のスープについて、まだ何か言っていた。
ジューダスがそれに何かを答えている。
それをうわの空で聞きながら、ハロルドは、そのなんでもなく触れ合っている膝を、必要以上に意識していた。
くしゅん、と小さなくしゃみが響いた。
「リアラ、風邪か?」
カイルよりも早く、目の前に座っているジューダスが、彼特有の静かな口調で言った。
「ううん、平気・・・。」
「そういえば、冷えてきたよね?」
ナナリーが窓でも開いているのかと、確かめるように首をめぐらす。
「そういや、ここらへんって、昼と夜の温度差が激しくねぇか?」
それはハロルドも思っていた。
昼の間はぽかぽかとした陽気なのだが、夜は急激に冷え込む。
部屋には春だというのに、まだストーヴが用意されている。
「今は特にそうだな。花冷えの季節、というくらいだ。」
「へえ?綺麗な表現だね。」
「綺麗なのは、結構だけど。」
ジューダスとナナリーの会話に割り込みながら、ハロルドがスープの次に運ばれてきたメインのチキンに、ナイフとフォークをぶつり、と刺す。
「私の部屋のストーヴ、壊れてるみたいなのよ。寒いったら。」
フォークでおさえ、ナイフで肉を骨から剥がそうとするが、身のしまった肉は弾力があって、なかなか剥がれない。
面倒臭いな、と思いながらカイルを見ると、手掴みで鶏の足を持ち、かぶりついている。
まねしちゃおうかな、とハロルドは、指についた油を舐めながら思った。
「まさか、カイルと同じ事をしようと思っているのか?」
横から笑い声で言われ、そのタイミングにぎょっとなる。
「お・・思ってないわよ。」
「別にやっても良いぞ?どうせお前は子供にしか見えない。女性としてのマナーがどうの、と眉を顰めるやつもいないだろう。」
「むっきー!しません!」
気にしている童顔をからかわれ、ハロルドはふくれた。
「でも、ジューダス・・・。」
斜め前からナナリーが変に申し訳なさそうな顔で言った。
「あたしも、しようかなぁって思ってたんだよね。コレ、食べにくいからさ。」
「僕に断るな。好きにしたら良い。」
ハロルドをからかうだけのつもりが、ナナリーにまで飛び火してしまい、ジューダスはなんとも言えない表情をして言った。
デザートのチョコレートケーキが、運ばれてきた時、少しだけワインを飲もうという事になり、1本を全員でわけあった後、夕食の席はおひらきとなった。
銘々が眠る為に、自分の部屋へと階段を上る。
ハロルドの部屋は一番奥の右側だった。
ひとりづつにおやすみを言い、別れた後、ハロルドは自分の部屋のキーを差し込む。
酔うほど飲んではいないが、先ほどのワインでほんのりと頬が温かかった。
「ハロルド。」
ハロルドは振り返る。
廊下を挟んで向かい側は、ジューダスの部屋だ。
「何?」
「暖房が壊れているなら・・・来れば良い。」
さらりとした口調で、ジューダスが言った。
特別な意味など何もないように。
表情も平静なままだ。
けれど、その言葉の意味が解からないほど、ハロルドは子供ではない。
そして、言葉の曖昧さを利用して、自分に逃げ道を用意してくれている相手の意図も、ちゃんと理解している。
「そうね・・・。」
ハロルドはたいしたことを考えているのではないように言った。
どっちでも良いけど、面倒だし、というような感じで。
「そうしよっかな・・・・。」
月が出ていた。
夜はその手で人間の本性を曝け出す、という。
人間本当の罪深さも、隠れている弱さも、月は全部知っている、という事だ。
ならば、最後の日の審判を下すのは、太陽よりも月の方がふさわしい。
ジューダスの背にすがりつくように手を回して、大きくひとつ息を吐き、ハロルドが薄く目を開けると、月が浮かんでいるのが、その目に飛び込んできた。
大きく、圧倒的な支配力を持つ、月だ。
金とも銀ともつかない神々しいほどの光を放ちながら、その姿は荒々しく、どこか凶暴で、魅入られてしまいそうだ、と思った。
月に見下ろされているのを、感じる。
「あ・・・。」
そろそろとハロルドは月へと手を伸ばす。
けっして掴めないそれを手に入れたい、と思う。
月は具体的な何かを象徴していたはずだ。
ジューダスは月へと伸ばされていたハロルドの手首を掴んで、引き寄せた。
同時に、自分でも抑えられなかった嬌声を漏らし、ハロルドの背がしなる。
その背に腕が回され、胸元に深く抱き寄せられる。
その始めての熱に浮かされながら、どうして溶けてしまわないのか、不思議だ、と思った。
物理的にも科学的にも、証明される何かがあったって良い位だ。
「そんなに気になるのか?」
「え?」
「月の事だ。」
シーツの上に身を横たえて、窓の外の月を飽きることなく眺めていると、少し掠れたような声で、ジューダスが言った。
「うん・・・。」
寝返りをうち、顔をジューダスの方へと向ける。
「綺麗だなって思って。」
「綺麗か・・・。今日の月を見て、そう無邪気に言えるところが、流石だな。」
「どうして?」
ハロルドは少しだけ頭をあげて、ジューダスの顔を覗き込む。
ジューダスはくぐもった笑い声で返しながら、左手でハロルドの頭を枕へと戻す。
「月は満ち欠けする。月齢、というのは知っているな?」
「うん。」
月とは縁のない世界に生きてきたとは言え、それくらいはハロルドには、基礎知識の範囲だ。
「今日の月に、人は狂いやすいという。」
「・・・ああ。」
そういえばそうだった。
「どうりで・・・見飽きないと思った。」
「僕は・・・。」
ジューダスは言い、月の光を嫌がるように顔を背けた。
「好きじゃない。」
どうして?とハロルドは思う。
月こそ、この男にふさわしい。
月の方も、彼を愛するだろう。
これほど美しい男は、他にいない。
「少し眠らせて貰うぞ。」
枕に半分、顔を埋めながらジューダスが言った。
もうお互いがお互いの一部を共有しあっているというのに、きちんと越えてはいけない一線を保っている。
それはある種の孤立ではあるが、規則を持って、彼自身を守ってもいる。
静かにまぶたを閉じたジューダスの髪に、ハロルドは触れた。
自分のと違って、少しもクセのないそれは、絹糸のように、指からすり抜ける。
「なんだ?」
まだ眠っていなかったらしく、うっすらと目を開け、ジューダスが口元に笑みをつくる。
今夜の月のように、ぞくりとするほどの美貌でもって。
いいえ、なんでもない、と言うとジューダスは安心したかのように、目を閉じた。
頬の上に濃く影を落とす長いまつげを眺めた後、薄いがしっかりと筋肉で覆われている胸へと視線を移動する。
手に入れてしまった。
手に入らなかったからこその、美点がそこにはあったとハロルドは思う。
桜の木の下の沈黙や、テーブルの下で触れ合った膝の艶かしさ。
次の行動へと移ってしまった今、繊細な何かで覆われていたそれらは壊れ、もう2度と体験することができないのだろうか。
いいえ、とハロルドは思った。
それは違う。
新しく何かを得れば、また新しい何かに飢えるだけだ。
人間の持つ渇きにはかぎりがない。
次から次へと、何かを求め続ける。
それは、新しく散ったその上へ上へと積もっていく、桜の花びらのように。
そして、水を吸い込み続ける、砂漠の砂のように。
昼間見た桜と、夜の月の残像がまぶたの裏に浮かぶ。
手足が暖かく、感覚はぼんやりと麻痺していく。
とても近くに、暖かな、愛しい男の気配がする。
今度からは、はっきりと愛しいと口にしても構わないのだ。
心地よく重くなっていく体を感じ、ああ、私はもうすぐ眠るのね、とハロルドは思った。
Fin
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