間の抜けた、けれど、どこか鈴の音を思わせるような何かの鳴き声がして、ハロルドは顔をあげる。
調度、最後のボルトを締め、手の甲で顔をこすると頬のあたりに黒い油がついた。
声は向こうの森の中から聞こえたようだ。
イクシフォスラーのエンジンの改良を終え、ハロルドは、さぁこれで終ーわり。と大きく伸びをした。
外から乗降口を閉め、カイルの生まれ育った家へと足を向け、その時、ああ、あれがふくろうというヤツか、と気がついた。
神の卵はまだ、出現してない。
だが、おそらく、すぐだ。
ハロルドは、昼は太陽の光に隠れている彗星も、夜ならば見えるかもしれない、と空へと目を凝らす。
まだ、肉眼で確認できるほどではないらしい。
決戦の時は近い。
裏の方からデュナミス孤児院を見ると、1階の明かりがまだついていた。
家の造りから考えるとキッチンだろう。
初めてここを訪れた時、そこでお茶をふるまって貰った。
数人が座れるような大きなテーブルがあって、手作りらしく表面はでこぼこしていて、椅子は座っただけできしんだ。
けれど、暖かいものがあった。
ガタガタでも、古くても、それに対する愛情があった。
物というのは良いな、とハロルドは思う。
人は朽ちれば、人の記憶に残る。
物は物体である以上、カタチとして残る。
それを使ってきた人物の思い出と共に。
ハロルドが孤児院の表に廻る為の細い道に入ったとき、ふと、家の陰に黒い姿を見たような気がした。
つい先刻までイクシフォスラーの改造を手伝っていた彼は、作業が終わる頃、どこかへと消えていた。
もう一度、家の陰に目を凝らしてよく見たが、そこには誰もいないようだ。
ハロルドは首をひとつ振ると、家の中へと急いだ。
「あら。」
「あら、まだ起きてたの?」
中に入ると、家の主である女性がまだ起きていて、ハロルドに声をかけてきた。
何と呼ぼうかと考えたが、ハロルドがとりあえず、カイルのお母さんと声をかけると、あはは!と笑い、ルーティで良いわよ、そう呼んで。と明るくはっきりとした口調でそう言ってくる。
その目の前には、色も大きさもばらばらのくつ下がテーブルの上に山積みにされていた。
「うちのチビ共の繕い物。」
ハロルドの視線に気がつき、苦笑しながらルーティは言う。
「まったく、育ち盛りはわんぱく盛りってね。遠慮なく穴開けてくれちゃって、もうー。」
「あはは。ご苦労さまね。」
「本当よ、まったく。」
だが口ではそう言いながらも、ルーティの表情はそれを苦としていない。
「今、ひと休みしようと思ってたの。一緒にお茶でもどう?」
「いただくわ。」
昨日、始めて会って、年も離れているのに、ルーティには年上としての構えが少しもない。
まるで友達に話しかけるかのように屈託のない態度で、ハロルドに接してくる姿を見て、カイルの天然的な明るさや、逆境をものともしないロニの力強さは、この人の影響が根底にあるからなのだな、と思った。
「あんたは外で残業?」
「そう。もう終わったけどね。」
目の前にルーティがおいた紅茶を、ハロルドは手に取る。
濃い色をしているが香りは薄い。
だが、ハロルドは味さえあればお茶などどうでも良いという性質だ。
砂糖もなかったが、ありがたく頂く事にした
「今までひとりだったの?」
「うん・・・。」
実際はそうではなかったが、ジューダスの名前を不用意に出して良いのかどうか、ハロルドは迷う。
「まあね。」
「あら、まあ。男が3人もいて、女の子ひとりにやらせる訳?だらしないわねぇ。」
ルーティが澄ました顔で言うのが、可笑しかった。
当然彼女は、そのうちの3分の2が自分の息子だと分かって言っている。
そして残りの3分の1も、実は彼女の身内だ。
「そう、でもね。」
なんとなくだが、ハロルドはそれを言いたくなった。
「ひとり、手伝って行ったわよ?なーんの役にも立たないから、邪魔なだけだったけど。」
そうは言うものの、ジューダスの本当の目的は、改造の手伝いというよりも、町の外でひとりで作業をするハロルドの護衛だ。はっきりそう聞いた訳ではないが、それくらいハロルドには分かる。
「へえ、そうなの?誰が?」
「仮面小僧。」
「ああ、あの子!」
ん?と一瞬、考えるそぶりを見せた後、ルーティは目を細めた。
「変なヤツよね〜。カイルもよくぞ、あんなのを見つけてくるわよね。あいつ、寝てる時も仮面してるの?」
ジューダスはいつでも仮面かぶってるんだー、と自慢げにカイルが告げていたのを思い出し、ルーティは笑う。
「うん。そうなの。」
「肩、こりそうよね。」
くすくすと、想像したのか笑うルーティにハロルドも目を細める。
今まで、そんな事を口にしているのを聞いてないが、確かにありうる。
意地っ張りだから顔には出さないが、案外、痛い思いをしているのかもしれない。
女同士の夜中のおしゃべりは、どうしてだか楽しい。
ジューダスの仮面をきっかけに、ふたりは話し込んだ。
話はいつのまにか、ルーティの昔話まで遡り、ルーティは、大勢をいつも相手にしているせいか、見かけの凛とした感じと違っておしゃべり上手で、時には身振り手振りでハロルドを笑わせた。
カイルが幼い頃、英雄の子供だからオレは飛べるんだ!と訳の分からない理由で言い張り、屋根の上から飛び降りようとしたのを、町中、大騒ぎをして止めた事。
ロニは昔から女好きで、年上の女の子のスカートをめくって、ある日、集団で仕返しをされ泣いた事。
「仕返しで・・・泣く?」
「そう。相当、恥ずかしかったんじゃない?」
どういう事だろうと思うハロルドに、ルーティはウィンクで答える。
ああ、そういうことか!と仕返しの意味を理解したとたん、ぶぶっと笑いがこみ上げてきた。
「なにそれ〜!マヌケね〜。明日からかってやろう!」
「やめてあげなさいよ、あれ、トラウマなんだから。よく女嫌いにならなかったもんだわ。」
「いっそ、そうなってくれた方が静かで良かったのに。」
「確かに。」
そう言ってふたりは笑いあう。
それは、中にいる者の大半が眠りについているこの家の片隅を、明るく照らすようだった。
「ああ、可笑しい。」
やがて、目尻の涙を指ですくいながら、ルーティが言った。
未だに笑いの発作はおさまっていないようで、肩を震わせている。
「あんたと話していると面白いわ。なんかお酒でも飲みたい気分。」
「明日、私が買ってくるわ。一緒に飲みましょ。」
「そうね。バカ息子たちは抜きでね。」
ルーティは、にこりと笑い、そしてふと、なにか遠くに忘れてきたものを懐かしむような目でハロルドを見た。
「あんたといると・・・昔の友達を思い出すのよね。なんでだろう?全然、似てないのに。」
「似てないのに?」
「うん。全然。あの子は・・・口やかましくって、いつも私にお説教ばかりで。よくケンカしたわ。」
話すうちに、ルーティの表情はどんどん少女の頃に戻っていく。
元々、少女っぽい朗らかさを備えていたが、今は、まるで母親を語る娘のようだ。
「それって・・・。」
「アトワイト、って言うのよ。その友達。」
やはり、とハロルドは思った。
それから無言で頷いた。
カイルがどこまで話したか知らないが、まさか、自分がソーディアンの創造主だと言ってないだろう。
そして、ジューダスの正体も。
「物心ついた時から、いつも一緒にいてくれたの。アトワイトがいてくれたから、ちっとも寂しくなかったのよ。」
「そう・・・。」
「それが・・・。」
ルーティは言いかけ、我に返ったようにハロルドを見て、苦笑した。
「あらヤダ。なんでこんな話してるんだろう。私ったら。」
「続けて?」
「でも、湿っぽくなるわよ?」
「良いの、聞きたいわ。よければ話して。」
そう?と照れたように笑い、ルーティは久しぶりに思いを馳せる。
今まで忙しさを理由に、ゆっくりと思い出す時間を、あえて持とうとはしなかった。
ふと、思い出したときなら、それはいつでも特別な時間だった。
その時は日常を忘れ、一時、時を遡る事を自分に許してきた。
ルーティにとって、それは甘い儀式だった。
ルーティの思い出を、ハロルドは新鮮な思いで聞く。
生身のアトワイト・エックスなら、よく知っている。
けれど、1000年の時を越え、ルーティと共に生きた、もうひとりのアトワイトのことは少しも知らない。
そして、それを話すときの、ルーティの表情で、慈しむような口調で、体と引き剥がされても尚、やはりアトワイトはアトワイトであり続けたのだと、知る。
目の前の女性と生きられた事を、誇りに思っていたのだろうという事も。
ソーディアン創造主としてのハロルドの、心にのしかかっていた後ろめたさが、少しだけ軽くなったような気がした。
「18年前の騒乱はね。カイルたちにも、話してないの。」
「そう・・・。」
「あの子が小さい時は、冒険談として話してくれってせがまれもしたけど、色々と・・私の心の問題でね。失ったものがあまりにも多すぎて。アトワイト・・・それから。」
ふつっと、ルーティは口を噤んだ。
その思考の先に回り込み、助け船を出す気でハロルドは言った。
「それから、リオン・マグナス?」
「・・・そう。」
それからルーティは、ぱっと顔をあげ、ハロルドをじっと見ると、早口で聞いてきた。
「あんた、あの時、失ったものは?」
「何もないわ。」
ハロルドは首を振って答える。
「そう、良かった。」
それで、ルーティが18年間抱えてきた、色々な問題のひとつを、ハロルドは見た。
リオン・マグナスの名を不用意に出すということが、いかにタブーであったか、を。
「そんなに酷い人間だったの?」
気がつかないふりを決め込み、ハロルドは言う。
ハロルドが、騒乱とは無関係な人間を決め込むと、きっとルーティにとっては楽な筈だ。
長い間、口に出来なかった思い出ならば尚のこと。
「え?」
「リオンって。だって、あなた見てると・・・よほど冷酷な性格でもないかぎり、とても裏切れないって思っちゃう。気が良くって優しくって。」
「あはは!私はそんな、大層な人間じゃないわよ!」
ルーティはハロルドの言葉に笑う。
「でも、そうね。あいつには事情があったの。とっても大事な事がね。それは・・・あいつの名誉の為に言わなくって良い?」
「ええ。」
思いを馳せながら、どうしてこんな事を急に話す気になったのだろう、とルーティは、ふと、自分に対して思った。
あの時の、リオンと同じような選択を息子が抱えて帰ってきたのも、きっとあるだろう。
あの子が、こんな辛い選択をしなければならないなんて。
ルーティは、祈るような気持ちで思う。
信じてるわよ、カイル。
そして、目の前の彼女が、アトワイトを思い出させるというのもある。
それが久しぶりに少女時代の記憶をありありと蘇らせる。
今日は全てが、あの時の事を思い出させようとしているかのようだった。
ああ、なんだか今日は、リオンが帰ってきそうな気さえする。
あの扉を開けて、まるで、当たり前の事のように。
そう思う自分を、ルーティ自身、不思議だと思った。
「別れた時、本当に辛かった。」
ぽつりとルーティが語った言葉は、短いのに重みがあった。
氷のつぶてのように、もの悲しい。
「すぐには認められなかったの。色々あって混乱してたしね。それに、どさくさに紛れてあいつ、傷つくような事、言ってくれちゃって。」
うふふ、と無理に笑い顔を作った後、ルーティは左手の中に顔を埋めた。
「それが結構、ダメージ受けてるって気がついたのは、だから、ずっと後よ。落ち着いてきて、考える時間が持てるようになってから。」
あの時。
ぞっとする程、冷たい瞳で見下ろして、リオンはこの世の全てを否定したのだ。
自分にのしかかっていた運命と一緒に。
認めたくなかったのは、その否定した全ての中に自分も含まれている、という事だった。
それが痛くて、辛かった。
「恨んでたの?」
目の前の女性の表情はけっしてそうとは言ってなかったが、ハロルドはあえて、聞いてみる。
もしも、吐き出す気があるのなら、吐き出させてあげよう、と思った。
「ちょこっとだけ。恨んでたんじゃなく、怒ってたわよ?」
やはり、ハロルドの予想通りの言葉だった。
左手からあげたルーティの顔には、悲痛さはなかった。
代わりに、愛しむような、穏やかささえ、浮かんでいる。
「後、辛かっただろうな、って思うと・・・申し訳なかった。救ってやれなかったって事も、ずっとひきずっていた。」
それが過去形であることに気づき、ハロルドは訪ねる。
「じゃ、今は?」
「感謝している。」
そう言った後、ルーティは照れたように笑った。
そして、誤解の上に成り立っている世界に宣言するかのように、凛とした声で言った。
「私には解かるの。あいつの、あの時の気持ちが。」
あの時。
どうしてあんな事を。
自分たちが姉弟だという事実を言い出したのか。
これからの戦いの前に、動揺を誘っておきたかったのか。
自分を殺すであろう相手が、憎かったのだろうか。
だから傷つけたかったんだろうか。
それとも。
そう告げる事で、誰かに。
自分に、覚えていて欲しいと。
そう、思ったんだろうか。
「正解は?」
「内緒。」
ルーティはハロルドの質問をはぐらかす。
「あら、残念。」
「ふふ。さ、もうこの話はやめましょう。やっぱり、少しお酒でも飲もうか?」
「え、お酒あったの?」
明日、買ってくるという約束ではなかったのか。
「実は密かに。ロニが帰って来たんで隠したのよ〜。貰い物の果実酒がね。」
「良いわね。」
楽しそうにキッチンに立ち、カップをふたつ用意したところで、ルーティは、はた、とハロルドの顔を見返す。そのまま、じ〜〜〜〜〜っと、見つめて、2秒。
「あんた・・・お酒飲める年?」
「私はこう見えても大人です!」
ふたりは笑いあい、家にないグラスの代わりに、カップに注いだ果実酒で、乾杯した。
どこかでまた、ふくろうが鳴いている。
静かで美しい夜だな、とそれを聞きながら、ハロルドは思った。
藍色の夢が見れそうだ。
傷だらけのテーブルにつっぷして、ルーティが眠っている。
久しぶりのお酒だと言っていたから、酔ったらしい。
眠くなる、というのは悪い良い方でないから、羨ましい。
キィ・・・ときしみをあげ、扉が開いた。
「あら、今帰り?」
音もなく中に滑り込んできた黒い影に、ハロルドは声をかける。
ジューダスは黙ったまま、視線を眠るルーティの上に走らせる。
「座れば?」
ハロルドは、ジューダスが無反応なのも予想していたのか、気にせずに話しかける。
「お酒、飲む?」
「いや。」
ひと言、答えたジューダスは、相変わらず立ったままだ。
「・・・ずっと外で聞いてたの?」
ジューダスは、それのは答えず、目をつむる。
眉間にわずかな皺がよった。なにかの感情を押し殺す時の表情だ。
それで答えが、Yesである事が知れる。
「あんたの考えなんて、分かってたって。」
「・・・・・。」
「良かったじゃない。」
「別に・・・。」
分かって貰えていたからと言って。
許されたとしても、罪まではなくならない。
ひとりだと言いながらも、周りに必要としてくれる人がいる。
それが、あの頃のルーティだった。
その事が、羨ましかった。
多くの人に愛されている事が妬ましかった。
誰かに死を強要される事なく、未来に希望を持てる彼女が。
だから。
傷つけてやりたい気持ちも、確かにあった。
それで、その傷が癒えなければ良い。そうすれば。
彼女は、ずっと自分を忘れる事はない。
そうして、他の誰でもない、彼女の心の中に、自分の墓標を建てさせたかった。
ひっそりと時々、それがたとえ恨みの感情からだったとしても、思い出して貰えるなら。
それを・・・望んだ。
「あはは。」
「・・・何を笑っている。」
「だってさ。」
怒るかと思ったが、ハロルドに笑われても、ジューダスは怒らなかった。
代わりに疲れたように、ハロルドを見る。
「”感謝してる”って。」
「・・・・・。」
「あんたが思っているよりも、彼女はあんたの事を解かってた、って事よね?」
「・・・・・。」
「こんな、完膚なきまでに負けたあんたを見る事なんて、ないかと思ってたわ。」
「・・・僕は・・・。」
「解かってたわよ、彼女は。」
ハロルドはルーティを見る。
くうくうと、気持ち良さげに、その肩は上下している。
「私は正解なんて知らないわ。彼女と違って、その時のあんたの気持ちなんて解からない。でも、時間はなかったのよね?」
「・・・・・。」
「じゃ、私、寝るから。」
ハロルドはテーブルを揺らさないように立ち上がった。
音も立てずに移動する、床に落ちた影を、ジューダスはぼんやりと見つめる。
どこか現実感がかけていた。
夢の中にでもいるようだ。
「姉貴、部屋まで連れて行ってあげなさいよ?私には無理だから。」
すれ違いざま早口でそう言って、この世で解からないことなど何もない彼女は、猫のように軽い足取りを残し、階段を登っていった。
その足音すらも完全に消え、耳が痛くなるほどの静けさが訪れた頃、
コツン・・・
テーブルと同じように、汚れて傷だらけの床を鳴らして、ジューダスはルーティに近づく。
昔と同じく、黒い髪は短く、体は細い。
上下する肩のラインも、丸まった背中も。
同じだ、と思った。
18年たっても、少しも変わりはしないと。
ジューダスは一瞬で、時を遡り、リオン・マグナスの頃と同じ気持ちに戻る。
今、現実にはどこで、どこにいるのかさえ、忘れ去っていた。
それくらい、目の前のルーティに、集中していた。
時間がなかった。
もしも、あの時、告げなければ真実を・・・自分たちが姉弟だと、彼女はヒューゴの娘だと教える事はできなかった。
自分が秘密を握ったまま死ねば、傷つかないかもしれない。
けれど、2度とルーティは真実を知る機会を失うことになる。
賭けでもあった。
ヒューゴが自らから言うかもしれない。
猫がねずみをいたぶるように、ルーティが傷つくのを見て、ほくそ笑む為に。
言うか、否か。迷っている暇はなかった。選択の余地はなかった。
考えている時間が、なかった。
だから。
最後の、一生のうちの最後の満足を得る為に、口にした。
そういう事だ。単なる自己満足だ。自分勝手なエゴイズム。
なのにルーティは、それを感謝している、と言う。
外で、ふくろうがまた鳴いた。
今夜は、よくあの声を聞くな、と思い、ジューダスは時を遡っていた意識を、引き戻す。
眠る18年前と同じ姿を目にし、先ほど、ハロルドに言われた事を思い出した。
『ルーティ・・・。』
ジューダスは、白いシャツの下の肩を揺り起こしたい気分に駆られた。
今なら、それをしても許されるような気さえした。
『起きろ。部屋へ行くぞ。』
「・・・・・。」
けれど、その言葉は喉の奥から出てこなかった。
ジューダスは黙ったまま、つっぷして眠るルーティの体を引き起こした。
「ん・・・。」
ルーティは、短く声を発したが起きる気配はなく、くったりとその背中をジューダスの胸元に預けてくる。
そのまま、ためらいがちに腕を回すと、目を覚まさせないように気をつけながら、そっと眠るルーティの体を抱きあげる。
18年たって初めて、抱き上げてみて。
こんなに、軽かったのか、と思った。
その体を揺らさぬように、そっとジューダスは、階段を登った。
気持ちよくまどろみながら、自分の体が舞い上がる感覚をルーティは覚えた。
夢の中で飛んでいる光景さながらに、体に重力を感じない。
ふわりふわりとした、その感覚を気持ちよく思いながら、とても安心できる気配を感じた。
それはとても、なつかしい。
よく知っている気配だ。
あれ、スタン、起きてたっけ。
と考えたところで、一瞬、意識はふつりと途切れ、次に浮上した時、ああ、違うわ、と思った。
スタンのように全て包み込むような暖かさではなく、細くてトゲトゲしく、そのくせ、触れると熱い。
ああ、リオン。
あんた、いつ帰ってきたの?
そうだ、リオンだ。
とルーティは、まどろみの中でぼんやりと思う。
じゃあ、今日の夕食のシチューは、にんじん抜かなきゃ。
まったく、いつも好き嫌いばかりして。そんなんじゃ大きくなれないぞ、ってマリーにいつも言われてるじゃない?
うっすらと目を開けるとぼんやりと、顎の細い輪郭が白く浮かんで見えた。
なにか、言う事があったんじゃなかったっけ?
とその顔を見て、思う。
ああ、そうだ。
ルーティは目を閉じた。
心地よい感覚の中で、安心して眠りに戻る。
おかえり、リオン。
『おかえり。』
一瞬、息をつめ、ジューダスは階段の途中で足を止めた。
息を殺して数秒待ったが、ルーティは目を覚ましていないようだった。
さっきよりも早足で階段を登り、開け放してあるドアをくぐってルーティの部屋に入ると、揺らさないようにそっと、腕の中にある人を、ベッドへと横たえる。
すうっと寝息をたてているルーティの顔を一瞬だけ見ると、ジューダスはきびすを返した。
なにかから逃れるように、一歩を大きく踏み出し急いで部屋の外へと出る。
パタリとドアを閉めた後、そのドアへ背中を預けた。
こめかみのあたりで、鐘が鳴っているかのようだった。
鼻の周りが何かがしみたように痛い。
みるみるうちに視界がにじみ、ジューダスは左手で自分の口元を押さえた。
声が嗚咽となって、もれないように。
あんなふいうちを食らったせいだ。
眠ってるくせに何を言い出すんだ、と心の中で毒づき、落ち着く為に息を深く吸おうと胸を開くと、それで逆に抑えきれなくなり、つきあげてくる。
同時に、後から後からこみ上げてくるものが、どんどん世界を歪ませていく。
そうしてまだ、自分に涙が残っていたのか、と思った。
もうすでに枯れ果てたと思っていたのに。
葬られる墓すらなかった、朽ち果てた体と共に。
とうに、なくなったものだ、と。
だが、頬を伝ってくるものを、熱い、と思った。
そうして、これが生きているという証だ、と。
そう、思った。
『おかえり。』
窓から入ってくる日差しを、いつもよりも明るく感じて、ルーティは目を覚ます。
寝起きのぼんやりとした頭で、よく寝たな・・・と思った。
その証拠のように、体の筋が妙に痛い。
外からは、彼女の大事な子供たちの遊んでいる声が聞こえてきていた。
はっ、と我に返る。
今は何時だろうか?
子供たちの後から起きるなんて、大変だ。
本当に、寝過ごしてしまったらしい。
急いで朝食の準備をしなければ。
ベッドから飛び起きると、服装は昨日のままだった。
パジャマにも着替えずに眠ったのか。
えっと、昨日は確か・・・。
考えながら、部屋のドアを開けると、とたんにいい匂いがただよってくる。
これは、トマトスープだろうか。
「あ、おはようございます!」
急いで階段を下りると、キッチンに赤毛をツインテールにした子と、カイルの好きな子が、ふたりして立っていた。
鍋にはトマトのシチューが、くつくつと煮えている。
「あー、ごめんごめん。すっかり寝坊しちゃって・・・。」
慌てて謝ると、テーブルのわきに立っていた小さな女の子が、つんつんとルーティの上着を引っ張った。
「ん?」
「あのね、ルーティ母さん、もう少し寝かせてあげなさいって、ピンクの髪のお姉ちゃんが。昨日、遅くまで、みんなの靴下、直してたからって。」
「そっか・・・。」
「だからね。皆で、朝ごはん、母さんの代わりに作ったの。あたしも手伝ったのよ!」
そう言って、小さな胸を張る幼い姿に、ルーティは微笑をこぼす。
「そうなの。偉いわ。ありがとね。」
女の子はそれを聞くと、嬉しそうに目を輝かせ、えへへーと笑いながら、外へと飛び出していく。
「悪いわね、迷惑かけちゃって・・・。」
ルーティが謝ると、リアラは軽く首を振り、笑った。
「そんな、大勢で押しかけて・・・こちらこそ、すみません。」
その姿を、ルーティはまぶしい気持ちで見つめる。
「いいのよ。」
息子が選んだ子は、とても良い子だ。
その事が嬉しかった。
「あ、母さん、おはよう!」
外から戻ってきた、その息子に声をかけられ、ルーティはぎょっとする。
カイルよりも遅く起きるなど・・・。
ルーティは頭が痛くなってきた。
そういえば、昨日はお酒を飲んだんだっけ。二日酔いだろうか。
「ねえ、カイル〜、ごはんまだ〜?」
外の子供たちから声がかかり、カイルはそれに答える。
「もう、そろそろできたみたいだ。皆、来いよ。」
「わ〜い!」
「おなかすいた〜!」
はしゃぐ子供たちに、カイルは明るい声で答えている。
それに、ルーティは注目した。
強い子。
そして、いつのまにか他人への気遣いも覚えたようだ。
厳しい状況にある自分の事よりも、それを他人に悟られないように明るく振るまう事を忘れていない。
ひとまわり大きくなって帰ってきた息子に、もう子供ではないのだな、と思った。
それは誇りに違いないが、同時に少し寂しい。そうも、思った。
テーブルの席が足りない為、大人たちは子供たちの食事が終わった後に、朝食となった。
「よく眠れた?」
席につくと、ルーティの斜め前に座ったハロルドが話しかけてくる。
昨日は楽しかったわね、と目配せしながら、ルーティは答えた。
「ええ。なんだか、久しぶりにぐっすりよ。カイルが帰ってきて気が抜けたのかしら。」
ふふふ、と笑い、テーブルを見渡して、ルーティはそれに気がつく。
「あら?足りなくない?あの仮面かぶった子は?」
「ああ、ジューダスは・・・。」
「急に用事ができたとかって、朝早くに。昨日、私が改造したイクシフォスラーに乗っかってっちゃった。まあ、試運転にもなるし、調度良いけど。」
ハロルドの説明を聞き、「そうなの。」と答えながら、ルーティはなにかひっかかるものを感じた。
何か、思い出せそうで思い出せない。
そんな感じだ。
「じゃ、食べよう!」
カイルの食事を促す声の我に返り、ルーティは、まあ、いいか、と思った。
そのうち、なんだったか思い出すでしょう。
そして、スプーンを手に取った時には、その場で無理に思い出す事を、やめてしまっていた。
以前に来た時もそうだったが、瓦礫の山だった。
かつて、王都と呼ばれ、栄華をつくしていた頃の面影は微塵もない。
これがリオン・マグナスがした事の結果だ。
消える運命だとしても、その前に、罪の意識を再確認し、何かに区切りをつけたくて、ここに来たのかもしれない。
なんとなく足が向いた理由を、ジューダスは自分でそう結論づけた。
足早に通り過ぎながら、かつて自分が暮らしていた館を見る。
アタモニ神団の管理下にあるそこは、外殻の落下時にも耐えて残った。
それよりも巨大で頑丈だった王城は押し潰されたというのに。
「寄付をお願いします。」
かつてのヒューゴ邸の前には、少女がひとり、小さな箱を持って立っていた。
「寄付?」
「はい。」
何のための寄付か、と少女は言わない。
アタモニ神団の者だとも、町の慈善者だとも。
見れば、少女の身なりは相当、貧しそうだった。
もしかしたら、寄付とは、自分に対してのものかもしれない。
その時、鐘が鳴った。
昔のヒューゴ邸に、そんなものはなかったから、アタモニ神団の人間が持ち込んだのだろうか。
大きく響くその音を追うようにして、歌が聞こえてきた。
聖人を讃える歌だ。
讃えられるべき人。
それはけっして自分ではない。
そう思いながらも、ジューダスは、高く響く透明感のある歌声に耳を澄ます。
かつて、自分が讃えていたのも、崇める女神も、たったひとりの女性だけだった。
全て捧げた。
文字通り、心も、命も、なにもかも。
彼女の事は今でも愛してる。
けれど、今、自分が讃えるならば、たぶん、もう彼女ではない。
この、罪にまみれた自分を救える者があるとすれば、それは、もう違う。
昨日、テーブルにつっぷしていた姿を思い出す。
ジューダスは、コインを、少女の持つ箱の中に投げ入れた。
礼も言わず、少女はジューダスに背を向け、走り出す。
取り返されたらたまらない、とでも思っているようだ。
その姿を見ながら、それでも良いだろう、とジューダスは思った。
ほんの少しの嘘ぐらい、見逃してやっても構わない。
歌はまだ、続いていた。
耳を澄まし、深く呼吸をして、ジューダスは覚えていたその一節を口ずさむ。
自分すら救えるであろう、唯一の。
慈悲深い彼女の、その微笑を讃える為に。
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