群生するれんげ草に鼻をつっこむようにして、四つ葉のクローバーを探して遊んでいたルークは、ふと翳った光に夕暮れの影を感じて顔をあげた。
早く帰らなくてはならない。
今夜は、満月だ。
ひと月に一度、大好きな彼が、変化をする日。
ルークと違って彼の変化はそんなにはない。
ただ、猫の耳と尻尾が生えるだけ。
しかし、変化した彼に会えるのはひと月に一度、月が満ちた時だけなのだ。
ルークは耳を揺らし、よいしょ、とクローバーを綱の代わりにしながら立ち上がった。
アニスなどは「自分ひとりだけが猫になるのが悔しいだけなんじゃないの?」と憎まれ口をたたくが、けっしてそうではないと思う。(そりゃ、少しはそういうのもあるけどよ)
月が昇ると同時に、彼は外へはでなくなる。
そうしたら他に行き場がないから、自分たちだけになれるし(アニスはいるけど)うまくいけば自分の部屋にもこもってしまうから(そうしたらアニスも入ってこない)思う存分に独占できる。
以前では、ふたりきりなどけっしてありえない関係だった。
それが帰ってきて、バタバタあって、気がついたら、コレで。
彼にしてみたら、とんだ災難なのは間違いないが、それでも・・・ルークは密かにこの状況を喜んでもいた。
自分だけが猫になったのなら、もしかしたら、アッシュにはとっくに見捨てられたかもしれない。
そんなことを思ったら(自分で考えたことなのに)鼻先がツンと痛くなったけれど、現在はそうでないのだから、良しとしよう、と思う。
自分と違って大きな変化がある訳ではないが、アッシュにも、耳と尻尾が生えるからこそ、アッシュはルークと一緒にいてくれるのかもしれない、と思う。
完全同位体で、今や、ふたりだけの同族だ。
これから先の不安や、不便さを理解できるのは、お互いしかいない。
だから、一緒にいられる、正々堂々とした理由ができたのだ。
「げっ、マジやばい!」
見れば明かりが灯り始めた家々の間に、満月が顔を出し始めていた。
どこかに大きくぶつかっただけの衝撃でもすぐに猫化し、代わりに少し間をおけばすぐに戻れるルークだが、実は、彼もアッシュ同様、月の支配下にある。
アッシュは満月になると猫化するが・・・ルークは、猫化(必然)した挙句、元の姿に戻れなくなってしまうのだ。
ついさっきまで、猫の姿でれんげ草と戯れていたことを、後悔する。
教会の裏にあるアニスの部屋までは、まだかなり距離があるし、今の自分の足では、辿り着くまでに月はすっかりと昇ってしまうだろう。
その間、誰かに見られたりでもしたら・・・大変だ。
『まだ、待ってくれよ・・!』
完全に日が落ちたら、もう成人には戻れない。
ゆるゆると昇る月に願いながら意識すると、ずんと体が重くなる感じがして、視界が高くなる。
まだ成人の姿に戻れるようだ。
ルークは、大の大人ならおよそしないような全力で(しかしルークは見かけは青年なので、気に留める者もいなかった)人並みを器用にすり抜けながら、教会への道を走った。
最初に来た時は、あまりに入り組んだ内部にめまいすら覚えたものだが、今となっては簡単なものだ。
裏庭への近道を脳裏に思い描きながら、2つの扉を通り抜け、右への角を曲がった時、ずん!という地響きとともに床が大きく揺れた。
地震だ!と思うと間もなく、きちんと締めていなかったらしい扉が目の前で開き、驚いたルークは・・・。
「ぎゃ!」
目をあければ、天井が遥かに遠い。
今のショックで、猫化してしまったのだ。
慌てて成人に戻ろうとしたが、今度は一向に視界は高くならず、そろそろ月が影響してきたのだと知る。
ルークは焦った。
ここは教会内の廊下で、後ろも前も重厚な扉に挟まれている。
扉はけっこうの重さがあるから、この姿になったなら、ひとりで開けることはできそうにない。密室状態で閉じ込められて、この姿を人に見られでもしたら、と思うとルークの背中にぞわぞわと鳥肌が立ち、耳は無意識にぴくぴくと揺れた。
地震の際に開いた扉の中は明かりが灯っていなかった。中には誰もいないようだ。
覗き込んで確認したあと、そっと忍び込み、なるべく壁際の影ができている部分を選んで窓際に置かれた机の下へともぐりこんだ。
最悪、一晩ここに隠れていなければならないだろう。
しっぽは力なく床に落ち、頭の上で寝ている耳と同じように項垂れる。
この姿は、軽くて良いが、こういう状況に陥ると、やはり不便だと思い知らされる。
折角の今日なのに、明日までは、アニスの部屋へは戻れそうにない。
どうしてさっさと戻って、夜に備えておかなかったのか。さっきまで外で遊んでいたうかつな自分を、今日という今日は、本気で呪った。
「・・・いててっ!」
『おい、どこにいる!?』
少しだけ焦ったようなアッシュの声が、頭の中からして、ルークは思わず涙ぐんだ。
猫化したルークが人目についたりしたら、面倒なことになることは、アッシュも分かっている。
いつまでも帰ってこないルークの居所を心配したのだろう。
実は・・とルークは説明をした。
今日は帰れそうにない、ということと、ここにじっとしているから大丈夫だ、と言い終えると、アッシュは黙っていた。
「・・・アッシュ?」
『・・・隠れてるっていう、その机には乗れそうか?』
「え?・・・うん。」
見あげると椅子が少しだけずれている。そこの隙間をつたって、椅子の上に上れば、机の上にも行けそうだ。
「なら、机に乗って窓から顔を出せ。」
よたよたと椅子によじ登り、次に机の上に乗る。その間も通信は切られなかったので、痛む頭とも戦う羽目になった。
それでも体を持ち上げてなんとか這い上がり、首を伸ばして外を見てみれば、そこには期待しているような光景はなかった。
『顔を出したか?』
「・・それが・・・。」
『どうした?』
「すぐ下は外じゃない・・・。」
『あ?』
「なんか・・・バルコニーになってる・・。」
しかも、人が乗れるほど大きくはない。せいぜい鳩が休むくらいのことしかできそうもない。そう伝えると、アッシュは逆に、そこか、とつぶやいた。
「そこ?」
アッシュはここどこかだわかるの?とルークが聞くと、おまえも知っているだろう、とアッシュは答えた。
『たぶん"悲恋のバルコニー"だろう。』
「ああ・・・そうか。」
アニスの部屋に住みだしてからのルークと違い、アッシュは教団内を知り尽くしている。
だから、広く迷路のようなこの建物のなかを、ルークはアッシュに説明されながら、一緒に歩いたことがあった。もちろん、迷子防止の為だ。その時に、このバルコニーの話も一応聞いていた。
"悲恋のバルコニー"などと言われるが、別にロマンチックな所以がある訳ではなかった。
そもそもここは、預言を遵守した大詠師が執務室に使っていた部屋だ。大詠師は好学で人となりも申し分ない人物だった為、多くの人に慕われたが、そそっかしい性格でもあった。
窓際に物を置いては、忘れて窓を開け、落としてしまうという事があまりに頻繁だった為、ある時、落下防止の為に小さなバルコニーを窓の外につけたのだ。人が乗れないほど小さいのはその為だが・・・。
中庭から見ると、その小さなバルコニーは凝った装飾を施していて美しい。その為いつしか、ヒロインが恋人の名前を呼びながらバルコニーから乗り出す、有名な悲恋を題材にした戯曲になぞられて、"悲恋のバルコニー"と呼ばれるようになったのだ、という。
『だが、チビのお前なら乗れるんじゃねぇか?』
「窓、開いてるかどうかわかんねぇ。」
『開いてないなら、ガラスを叩き割って出て来い。』
乱暴だなぁと思いながらも、それしか策はなく、ルークは机の上にインク瓶が乗っていることを確認する。ふたの部分から垂れているインクは乾いてがびがびになっていた。
案の定、窓の鍵は開いておらず、ルークはアッシュに言われた通り、ガラス割りを決行することにした。どうせさっきの地震で割れたのだとでも、思われるだろう。
ガラスから数歩離れて、えい、とインク瓶を叩きつける。
ガラスは外側へと割れたが、破片がルークの方に飛んできて、少しだけひやりとした。
残っている破片に注意しながら、割れた場所から外へと出る。
もうそろそろ夕食時だからだろう。中庭には人がいなかった。
もともと教団内は、規律で縛られているから、あまり自由な時間というのは個人には持たされないので、折角の中庭も、普段からくつろいでいる人間がいないのだが、こういう時は好都合だ。
暗闇だし、今の自分は小さいからまさか目撃されないとは思うが、念のため、バルコニーに腹ばいになってそっとあたりを伺う。
窓の真下に、ひとりだけ立っている人物が見える。
全体的に黒い服は闇に溶け、しかし鮮やかな赤い色だけが夜目にもはっきりと見える。
「アッシュ・・・。」
『俺が見えたか?』
「うん。」
小さい自分が何階か上のバルコニーから顔だけ出したところで、アッシュには見えないのだろう。
あたりまえのことなのに、なんだか、ルークの胸はきゅんと痛んだ。
そっと見下ろしたアッシュのその頭には黒い三角の耳がシンボルのようについていた。
黒いマントの下からは、一目で布とはまるで違うとわかる、黒い紐が出ている。
それが先の方だけがうねるようにひらひらと動いていた。
アッシュの毛並はまるでビロードのように優雅で美しく、貴婦人さえうっとりしそうな手触りをしていて、ルークは満月になるといつだって、触らせてくれるように頼み込む。
そうするとアッシュは、本当に嫌そうに顔を歪めるものの、そっとしっぽの先をルークに差し出してくれるのだ。
でも今日はそれもできそうもない。
無事だよ、というようにルークはそっとアッシュに手を振った。どうせ見えはしないだろうが、気持ちの問題だ。
そう思っていたのに。
『手なんぞ振らなくてもわかる。』
「え?」
あんな下から、小さいルークが見えるとでも言うのだろうか?
『そりゃあ、見えるだろう。』
アッシュはなにをあたりまえのことをというように、答えた。
『・・・この姿になりゃあ、普段より夜目も利くからな・・・。』
「あ。」
月に一度、猫の習性が活性化するのは、アッシュも一緒なのだ。
そうか、と思いルークはにっこりと笑い返した。
ルークからもアッシュの姿はよく見える。
見上げているアッシュにルークの笑顔が見えたのか、なんともいえない顔をした。
笑い返してくれたことなど一度もないのに、一瞬ルークは、アッシュが笑い返してくれるのではないかと思った。
ここから見ても、アッシュの髪は鮮やかで赤く、高級なルビーですら敵わない。
月に一度しか目にすることができない彼の姿に、思わずため息が漏れた。 ルークは猫になると体も小さくなってしまうが、アッシュの場合は、多少顔はいつもよりも幼い感じになるものの、すらりとした成人の姿に耳と尻尾がついている。
自分と全然違う、とルークは思った。
アッシュのこの姿は、猫というよりもどこか野生の黒豹を思わせる。
本当に綺麗だった。生まれながらに神々しく、美しい魂というものがあるのだとしたら、それはきっとアッシュのことに違いない。
『お前・・・。』
そんな風にうっとりとしているところに、タイミングよく話しかけられ、考えていることが伝わってしまったかと思い、ルークは内心、飛び上がるほど驚いた。
「・・な、なに?」
『高いところは大丈夫だったな?』
「高いところ?うん、平気だけど・・・。」
だろうな、馬鹿は高いところが好きと決まっていると、くすりと笑う声が聞こえ、なんだよーとルークが唇と尖らせると、
『そこから飛び降りろ。』
「・・・え。」
『別に怖くもないなら、できるだろう?』
猫だしな、とアッシュは言った。
「で・・でもよ・・。」
確かに今のルークは猫だが、身体能力まで猫とは限らない。
最悪な場合はなすすべもなく地面に激突する。ぺしゃんこになりました、ではすまないだろう。
『・・・怖いのか?』
「だ・・だって・・・。」
『俺が受け止めてやる。』
「え。」
だから、早くしろと言われ、ルークの鼓動は違う意味で速く打ち出した。
それはまるで心臓だけが別の生き物になってしまったかのようで、到底、自分のものとは思えなかった。
それで動揺し、いつまでも合図を送らないルークに痺れを切らしたのか、アッシュが催促する。
『なんだ、まだ、文句でもあるのか?』
「ちが・・・。」
『安心しろ。』
暗闇のなか、彼が姿勢を正し、的確にルークのいるバルコニーに腕を伸ばしたのが分かった。
『俺は、絶対におまえを落としたりしない。』
だから信じろ、とアッシュは言った。
(うわっうわっ。アッシュ、めっちゃくちゃかっこいいんだけど・・!)
ルークの顔は、火がついたように熱い。
(――夢みたいだ。こんなこと言ってもらえるなんて・・!)
『おい、早くしろ!』
アッシュの少し焦ったような声が聞こえた。もしかしたら人の気配がしたのかもしれない。
『夢に浸っている場合か!』
「・・・・・!」
いち、にのさん、で合図をして、ルークはバルコニーの外へと身を躍らせた。
ふわりとたよりない感覚のあと、落下の空気抵抗を感じ、暗い空に大きな月が浮かんでいるのが見えた。
大きな傘を持っていれば良かった、とルークは思った。
大きな傘で空気を受け、アッシュのところへ落ちてみたい。
それならきっと、この幸福な時間をもう少し伸ばすことができるかもしれない。
ルークはひっくりかえりながら、空を見て、アッシュの腕の中に落ちる瞬間を待った。
('08 12.12)
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