アニスは普段から気になっていたのだが、それは聞かないでいた。
いくら一緒に暮らしているとはいえ、プライバシーの侵害というものを心得ていて、時に人間の悪いクセである、なにもかも知りたがって良好だった関係を壊す愚かさを十分に理解してもいたから、そこは自分とは関係のない世界と割り切っていたというのも理由のひとつだ。
男女の性別以外で、彼らとアニスの間には大きな隔たりがあった。
アニスは健康な女子で、彼らは図らずも半獣という状態で、それはたぶん切実な問題だ。
普段から本人たちが気にしていないから、つい忘れがちだが、本来はそうなのだろう。
その日は朝から晴れ渡っていて、時折吹く風には初夏の気配すら感じられた。
お日様はぽかぽかで、なにもかもを元気よく乾かしてくれるに違いなく、つまりは、絶好の洗濯日和だったのだ。
だから、自分の洗濯物と一緒に、彼らの毛布も一緒に干してしまおうと思って、リビングから書斎に続くドアをノックをした。
アッシュがいるから、彼らの洗濯物が溜まることはなかったが、なにかあればついでに洗ってあげようくらいの気持ちもあった。
しかし、何度ノックしても中にいる筈の彼らは出てこず、呆れたアニスがドアを蹴飛ばすと、ガン!というその音に驚いたのか、
「ど〜・・・ぞ〜・・・。」
と間延びしたルークの声が中から聞こえてきた。
どうやら寝ているらしいと踏んで、アニスはこのままにしようかとも思ったが、一応許可も出たことだし聞くだけは聞こうと、ドアをそっと空けて中を覗いた。
教団から支給されているのはアニスなので、この書斎も本来はアニスのものなのだが、それでもそれは禁断の扉のようなものだった。
めったに足を踏み入れることも、覗くこともないその部屋は、まだ厚いカーテンに覆われ、薄暗い。
扉をあけたとたんに、窓ごしに焼かれたむっとした空気が出てきたが、それは別段、匂いもしなかった。
男ふたりで、しかも猫なのだから、なんらしかの匂いがしても良さそうなものだが、ふたり揃って綺麗好きなところを見ると、清潔に掃除が行き届いているものらしかった。
この部屋には寝具はひとつしかない。
以前アニスが買い入れたソファーベッドだけだ。
だから、大の男がふたりしてどうやって寝ているのかと想像すれば、まあ、答えはひとつしかないだろうとは思っていた。
・・・のだが。
ソファーベッドにはルークが寝ていた。
アニスの予想を大きく外し、猫ではなく、成人の姿だった。
返事はしたものの、やはり寝ているらしく、ルークは頬のあたりをこそっとかくと、もぞもぞと毛布の間にもぐりこんだ。
ではアッシュは、と見ると壁に寄せられた小さなデスクに頬杖をつき、座ったままで眠っている。
それはまるで、野営の時の見張り番のような様だった。
「え〜と・・・。」
思わずアニスはつぶやいた。
ベッドはひとつしかないのに。
ふたりのうちは小さくなれるのに。
ものすっごく不毛というか節約になってないというか意味がわからない、と思うのは、アニスが変わっているのだろうか?
「ああ・・・それ、俺も言ったんだよ。」
ルークの髪は盛大に寝癖がついていたが、どうせ同じようなものだと言って(それに関しては異論はないが)髪も梳かさないまま、キッチンに立っていた。
その姿は、どこの休日のパパだ、という気がしないでもない。
ルークは市場で安売りしていた紅茶のパックをお湯に浸し、ちゃぷちゃぷとしながら、カップを片手に寄ってくる。
ちなみに、紅茶パックは、便利な旅のアイテムのひとつとしてルークのなかに認識されている。
市民にはなじみ深くても貴族には無縁のその物体に、ルークは心底感心して、それ以来愛用している。
本来ならば、彼にはきちんとしたアフタヌーンティーが用意される生活があるのだから、ある意味ずいぶんとやさぐれてしまったものだ。
「でもさ・・・アッシュが嫌がったから・・・。」
「なんで?」
まったくもって理解できないという風にアニスは言った。
「ルークがちっさくなれば、場所取らないんだし、ベッドをふたりで使えて楽ちんじゃん?」
「俺もそう思うんだけどさ。」
ルークは言い、眉をハの字に下げた。
「けど・・・俺と一緒は嫌だって・・・。」
「え・・・。」
「俺に遠慮とかしてるなら、強引にできるけど・・そう言われちゃったら、どうしようもないじゃん?」
苦笑するルークはひどく傷ついた顔をしている。
「たしかに俺が猫でも、一緒の寝床って・・・ぞっとするかもな。」
そう言いながらルークは紅茶を一口飲む。
その指先が不自然なほど強張っているのに、アニスに笑みを浮かべる姿は、見ていて痛々しい。
たしかに昔ならそうだったかもしれない、とはアニスも思う。
だが、猫になって帰ってきてからも、相変わらずアッシュはルークを屑呼ばわりはするものの、それは口癖みたいなもので(アニスはアッシュが鳩に屑がっ!と怒鳴ったのを見た事がある)決して、ルーク本人を嫌っているということはない筈だ。
けれど、半分は猫でも、ルークは確かに、本来は立派な男の子だ。
それと一種に眠るのに抵抗がある、というのなら、そうなのかもしれない。けれど。
なんで今更?
「ああ・・あいつがそう言ったのか。」
不機嫌を隠しもせず、アニスが詰め寄ってみれば、アッシュから出たのは溜息だった。
それも、面倒だというよりも、なんだか疲れている気がする。
アッシュはがしがしと髪の毛を掻き毟り(これはルークもよくやるあれだ。変なところだけ完全同位体だな)、仕方ないだろう、とつぶやいた。
「なにが仕方ないのよ?」
アニスがつっこむ。
「ルークが小さくなれば、ふたりでベッドつかえて楽じゃん?なのに、わざわざ成人化させる必要なんかないじゃん?」
第一、ふたりそろって猫になる満月の晩はどうするのだ。
「まさか・・・満月の時も・・・。」
「交替で寝てるが?」
なにか問題でも?というようにアッシュは言った。
「うわっ、信じらんない!」
なんでそんなに頑なにする必要があるのよ!とアニスが叫んだ途端、アッシュのこめかみのあたりが、ブチン、と音をたてた。
「一緒に寝よう、なんて言えるか!!」
逆ギレだ。
小さいか猫かなんて関係あるか!と言うアッシュの顔が、必要ないほどに凶暴になったのを見て、つまりは照れているわけか、とアニスは気がついた。
アッシュは実は単純なので、部が悪くなったり、触れられたくない部分につっこまれると、いきなりキレる。
ただ単純に一緒に寝る、というだけでも、照れ屋のアッシュには、相当の勇気がいるのかもしれなかった。
しかし、困った。
アッシュの照れ屋といえば相当のもので、しかも意固地という性格も加わっているから性質が悪い。
ルークにそう言えば、確かにそれで納得するだろうし、それで諦めるだろう。
アニスも当人たちさえ良いならそれで良いと思わないでもないのだが、しかし、やっぱりなにかをとてつもなく無駄にしている気がして仕方がなかった。
ちょうどこの前の満月の晩に、アニスがルークに言われたことを思い出した。
それを耳打ちすると、ルークはえー?と目尻を下げ(嫌がるアッシュを想像したに違いない)、それって本当に上手くいくか?と不満気につぶやいた。
「嫌ならやらなきゃ良いじゃん?」
アニスは言った。
「今のままでいたいなら、別に構わないし。」
あたしには関係のないことだしね〜というと、ルークは半泣きになる。
「だ・・だってよ・・。」
お前に言うのと訳が違うし、とごにょごにょ言うルークに、それって失礼なんですけど!とアニスは睨む。
「レディの私に言えて、アッシュに言えないってどういうことよ!」
「あ・・・うん・・・。」
アニスに睨まれても、ルークはうわのそらだ。これからアッシュにあれを言うという事が頭から離れないらしい。
ごはんも食べた。
風呂にも入った。
そしてルークは、必要もないのに猫になり(といってもいつも必要のない時に猫になっているので同じだ)、アッシュの後をついて扉が閉まる前に一緒に部屋に入った。
その事を別にアッシュは気にした風もない。
今も窓際に置かれた椅子に伏せられたままだった本を手に取り、そのまま腰掛けて続きを読み始めた。
ルークもそろそろとデスクによじ登り、そこにあった本を開いて、読んでいるふりをした。
実際にそれはルークが昨日も読んでいた本だ。
けれど、ルークの今の心境ではどんなに努力しても内容は頭に入ってこない。
やがて、アッシュは一通り読み終わったようだ。
ぱたん、と小気味の良い音をたてて本を閉じると、ずっと同じ姿勢だった体をほぐすように軽くのびをした。
『そ・・そろそろ、かな・・・。』
それを見たルークの心臓の音はばくばくいってうるさい。
「ア・・・アッシュッ!!」
不自然な大声に、アッシュは怪訝そうにルークを見た。
「なんだ?」
睨まれた訳ではないが、怪しんでいるのかアッシュの表情は険しい。
それをまともに見ないですむように、ルークはぎゅっと目をつぶって、用意していた言葉を一気に言った。
「・・・ひ・・膝の上に乗せて、この本、よ・・読んでくれっ!!」
お、俺には難しくってわからねぇ!!とさらに叫んで、ルークは下を向く。
アッシュからは、うんともすんとも返事が返ってこない。
しばらくの沈黙に耐え切れず、ルークは思わず泣きそうになった。
やがて、覚悟を決め、そろそろと顔をあげて、涙のたまった目尻でルークが見れば、アッシュは固まっていた。
「ア・・・アッシュ・・・。」
やっぱナシ!今の嘘!とルークが思わず叫ぼうとした瞬間、アッシュは唸って手で顔を覆い、
「・・・なにを読んでいるんだ。」
とルークが指差した本を手にとった。
それは過去のフォニック・ウォーに関する本だが、ルークには難解で読みづらく、けれど勉強しようとがんばって読んでいた本だった。
アッシュはそれを知っていた。
昔は理解しようともせずに、卑屈だと一言で言い捨てていた、ルークの黙々とした努力も、過去の自分を悔いる姿勢も、今は素直に賞賛できるものだ。
本の下からちらっと見ると、ルークはアッシュを見上げていて、その顔は期待とそれ以上の緊張とで強張っている。
は〜と溜息をつき、アッシュは言った。
「・・・仕方ねぇな。」
ぴん!と横に寝ていたルークの耳が立った。
「ほ・・・ほんとかっ!?」
「ああ・・・。」
来い、というように襟首を摘みあげ、アッシュが椅子に戻ろうとすると、あっしゅあっしゅ、と小さく声がする。
「なんだ?」
「えっと・・・寒くって・・・ふとんの中じゃダメか?」
「・・・・・。」
なるほど、とアッシュは思った。
どうも不自然だと思っていたら、これはアニスの入れ知恵か、と。
けれど、アッシュはそれに乗ることにした。
いつまでも意固地になっている自分を多少なりとも大人気ないと思ったし、それに。
アッシュの腕のなかにいるルークは、自分でも気がついていないだろうが、実はさっきから小刻みに震えている。極度に緊張しているのと、アッシュに拒否されるのを恐れているのと、どっちもだろう。
アッシュは溜息をひとつつくと、本を手に取り、ソファーベッドへと向かった。
『いい?そんである程度、読んで貰ったら、そのまま寝ちゃったふりするのよ?』
『えー?だって読んで貰ってる途中で寝たりしたら、怒られるだろう?』
『だいじょーぶだって。それで起こされたら、あ、ごめんって言って、起きたふりして、またしばらくしたら寝たふりを繰り返すの。』
『えー?』
自分の膝の上で、安心して寝られて、悪い気のする人間はいない。
アニスのそのまま寝てしまえ作戦を教えられ、そのまま実行することにしたルークの最大の心配ごとは、ルークが果たして、どこまでアッシュにばれないように演技ができるかだったのだが。
くすー・・・と柔らかい呼吸音が聞こえて、アッシュは膝の上にいるルークを見た。
おおかた打ち合わせでは、眠ってしまった演技でもする予定だったのだろうが、このバカにそこまでの演技力がある訳もないし、初めからバレバレだった。
アッシュは、ぱたんと本を閉じた。
アッシュの膝の暖かさとふとんの暖かさは堪えられないものだったようで、ルークは本当に眠ってしまっていた。
その顔を見ながら、まあいいか、とアッシュは思う。
無防備で、安心しきっていて、そのうえ、むにゃむにゃとアッシュの服の端を掴んでいる。
けっして離すまいとしているその手を、無理矢理引き剥がす理由は見つからない。
アッシュはそのまま後ろに倒れて、テーブルランプの灯りを消した。
腹の上にある暖かさに、自分も眠くなってくる。
眠りに落ちる寸前、これで朝起きたら、俺がこいつをつぶしていたら笑えないな、と小さなぬくもりを感じながら、思った。
果たして翌日、アッシュの肩口で目を覚ましたルークは上機嫌だった。
しかし、いつのまにアッシュの肩の位置まで移動したのかは、わからないのだった。
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