ナタリアが流行病にかかった。
前回逗留した街では病が流行していた。うつされることを案じて、早々に立ち去ったのだが・・・このところの強行軍に加えて、寒い地方に来たことで、体力が落ちていたのだろう。病原菌はナタリアについてしまったらしい。朝、起きてきたら真っ赤な顔をしていることをティアに指摘されるまで、本人は自分の体調の悪さに気がついてさえいなかった。
こうなると先を急ぐ旅でも、足を止めざるおえない。
気丈な王女が、安宿の簡素なベッドで熱に浮かされて唸っている横で、ルークは椅子の背もたれを前にして反対に座り、その赤い頬をなんとか冷ます方法はないものか、と思案に暮れていた。
自分の力ではなんともできないのは分かっている。
しかし、眠るナタリアの吐く息は、そのまま華奢な彼女の体が蒸発してしまうのではないかと思えるほど、熱かった。
辛そうな姿をただ見ているだけなのが忍びなかった。
「ルーク。」
ジェイドの声で我に返る。
「あなたが寝てどうするんですか。」
「寝てねーよ!」
確かに背もたれにかけた腕の中に顔を伏せてはいたが、寝てはいない。部屋に入ってきたジェイドにもそれは見えていただろうから、これはいつものからかいなのだが、そうと分かっていながらも毎回毎回それに過剰反応してしまうのは、自分が幼いからなのか。
ルークは自分で考えたことだというのに、ぶーっとふくれる。
それを横目で見てひっそりと笑い、ジェイドは、買出しの時間ですよと言った。
「ああ、もうそんな時間か・・・。」
今日はルークは買い物当番で、その時間をアニスと約束してあった。
アニスは大荷物をもてないから、一緒にいくのはガイかルークと決まっている(ジェイドが大荷物を持つわけもない)。しかも、ルークは最近までモノを買うという行為を自分ひとりではした事もなかったので、アイテムの買出しにはお目付と指導員の役割も兼ねて、金銭感覚のきちんとした(というのは本人の主張だ)アニスが同行するのは都合が良かった。
後ろ髪を引かれる思いで、ルークは椅子から立ち上がる。
ナタリアの症状は未だに落ち着いておらず、ずっと寝ている状態だったから、次に起きた時を逃さず薬を飲まそうと見張りも兼ね、皆が交代で看病をしている。
ルークの次はジェイドの役目で、長丁場を予想してか、ジェイドの右手にはルークでは、なにやらさっぱり分からなそうな厚い書物が数冊、抱えられていた。
立ち上がって、ルークはナタリアを見下ろす。
自慢の金色の髪は艶をなくし、唇は乾いていて、肌も紙のように白くなっていた。
なによりもルークは医者ではないし、一同の中で医学を少しばかりかじっているジェイドが、きちんと医者に聞いて調合した薬を用意してあるのだから、他に打つ手がある訳でもなし、心配しても始まらない。
そうは頭でわかっていても、他に楽にしてやる方法はないか、とルークは思い悩む。
「ルーク。」
動きそうもないルークに、ジェイドが諭すように言った。
「約束の時間でしょう、行きなさい。・・・ついでに私にオレンジを買って来てくれると助かります。絞ってジュースにしたいので。」
「・・・うん。」
「ナタリアも目が覚めれば飲めるでしょう。だから、早く。」
ナタリアが気がつく前に用意しておきたいですからね、と促され、ルークはやっとドアに向かった。
ひっそりと溜息をついたジェイドの声にかぶさり、小さく掠れた声がする。
「・・シュ?」
「え?」
「ナタリア?」
振り返ってみれば薄っすらと目を開け、力の篭ってない視線がこちらを見ていた。
「・・・ルーク。」
「あ。」
ルークは呼ばれるままに、ナタリアのベッドへと寄っていく。
「目、覚ました。」
「宿ですよ、ナタリア。分かりますね?」
ジェイドの問いかけに、一瞬だけ間をおいたが、ナタリアはふとんの中から、頷いた。
「よかった〜。」
それを見て、へにゃりと笑うルークにつられるように、ナタリアは熱で上気した頬を緩ませた。
「看病してくれていたのですね?」
掠れた声だが、しっかりとナタリアは言った。
「・・・ありがとう、ルーク。」
「いや、俺だけじゃないって!」
「・・・皆にも迷惑をかけてしまって。」
「そう思うなら、早く治してください。」
いつもながらのそっけなさだが、冷たい雰囲気ではない。余計な事を省いたジェイドの言葉は、慣れてないうちは非情にしか感じられなかったが、けっして本心は聞いた通りではないということが、最近では判断できるようになってきた。
薬を飲んでください、とジェイドが薦める声を聞きながら、ほっとしながらルークは、買い物に出かける為にナタリアの部屋のドアを閉めた。早くオレンジを買ってきてやらなければ。今、自分がナタリアにできることはそれしかないのだから。
それしか。
『・・・シュ?』
ナタリアが目を覚ます寸前まで見ていた夢の内容がわかって、ルークは、ここに自分しかいないことをもどかしく思った。
「何度か呼び出してはいるのですけど・・・応答しませんね。」
彼女のせいではないのに、申し訳なさそうな表情でノエルがルーク言った。
「一応、シェリダンにも伝言を頼んでおいたので、もしも兄から連絡があれば、言伝は伝わると思うのですが・・・。」
「そっか。ありがとう、ノエル。」
「いいえ。お役に立てませんで・・・。」
アルビオール3号機へに連絡がつかないか、とルークが聞くと、ノエルはなんとかしてみます、と何度か試してくれたが、結局3号機は捕まらなかった。
そもそも、アルビオール同士で簡単に通信できるならば、こんなに楽なことはない。
今や、2機は世界中を飛びまわっている状態だ。通信用の音機関を積んでいないことはないが、それも万能とはいかない。遠く離れてしまったり、ある程度の速度をあげての飛行中だったりすると音は流れて、お互いへの通信が遮断されてしまう。
「しかたないよな・・・。」
ルークは言って、溜息をつく。
溜息をつくということを、ルークは最近知った。
昔は不平不満をすぐにぶちまけることで、憂さを晴らしていたし、それに対して周囲は苦笑するばかりで諌めることすらなかったが・・・こうして世界には自分ひとりではないとわかり、無力さを知った今では、やるせないという気持ちになることが多くて、つい、ついてしまう。
ジェイドの薬は効きはするものの、即効性はなかったようだ。
それはジェイド本人にも説明されていたので、その部分を心配はしていなかったが、ナタリアの熱は2日の今日になっても下がらなかった。
それでもベッドの上に起き上がり、オレンジを絞ったジュースくらいは口にできるようにはなったのだが、1日の大半は眠っていることが多く、まだ完治まではほど遠い。
今日の朝、これ以上熱が下がらないようならば、バチカルにいったん連れて帰って、完治するまで医者に預けよう、という話がでた。初め、その間のナタリアの不在が寂しいのか、すぐにアニスもティアもうん、とは言わなかったが・・・明日になってもナタリアの症状に改善が見られないなら、そうしよう、ということになっている。
「ナタリアの一大事だってのに・・・。」
がしがしと髪を掻き毟り、ルークは言った。
「どこにいるんだよ、アッシュの馬鹿。」
それはひとりごとだったが、聞いていたノエルに、アッシュさんも忙しくされてますからね、と慰められる。
「うん、そうだよな・・・。」
それは分かっている。
けれど。
「あー、もう!!」
いらついても仕方がないことだとは思っていても、あの熱にうなされた顔を見ていると、もどかしさでいてもたってもいられないくなる。どうにかしてやりたいが、どうしたら良いかわからないルークが考えたのは、ナタリアがきっと今、会いたいだろう彼のことで、もしも会えたなら苦しい病状に伏せる彼女にも、笑顔が戻るだろう、ということだった。
しかし、考えは甘かった。
なにひとつ思い通りにならないことはいつものことだが、それは自分の考えが浅はかだからなのだろうか。
所詮、この広い世界でどこにいるともわからない人間を捕まえることなど自分には不可能なのだろうか。
あちらはいとも簡単に、ルークに接触できるというのに。
もうすぐ陽が沈む。
アルビオールの窓から外をみれば、森がいっそうと覆いかぶさるような黒い影を落とし始めていた。その向こうにオレンジ色に輝く空が見える。
以前、このコントラストを綺麗だ、と話した時、彼に鼻で笑われた。お前に美醜を語る情緒があったとはな、と言い捨てられた。俺には綺麗なものを綺麗だという権利もないのかよ、と言い返し、そのままいつもの口喧嘩になった。そこは覚えているのに、どうして夕暮れがきれいだ、などと話すような流れになったのかは思い出せない。
そんなことを考えていて、我に返る。
もう時期、夜がやってくる。
いくらアルビオールが鉄壁の要塞のごとき頑丈さでも、女の子のノエルにここに寝泊りさせるほど、ルークたちは非常識ではない。そろそろ宿へ戻ろうと言おうと思い、体を捻りかけて・・・。
もう一度、窓へと顔を戻した。
窓の外ではなく、窓そのものを見る。
そこには、自分の顔が映っていた。
窓ガラスが映し出しているのは、明るい日の光で見るものとはまるで違う、別人のように暗い姿をした自分だった。
陽に透けると朱色を放つ赤い髪は、ワントーン下の、真紅色をしていた。
・・・彼と同じような。
たとえば。
全てをその腕で隠す夜ならば。
月の光を背に立っていたならば。
白い服を脱いで、声を低くして話せば。
もしかしたら、あるいは・・・・。
「・・・っ、ダメだろう。それは、いくらなんでも。」
たとえ、それが彼女を元気づける為の行為であったとしても、騙されたなんて後で知ったら、きっと悲しむ。自分がその立場だったら絶対だ。ましてや、後でアッシュ本人に気づかれたりしたら。
アッシュのルークへの嫌悪は本物だ。
間違いなく、怒られるだけではすまない。
プライドが高く、どこか清廉潔白である彼は、それゆえ、劣っているルークを決して許さない。
今思えば・・・ヴァンの意向を探らせようとしたくらいだ。
きっと最初のうちは、アッシュにも、ルークに少しは期待していた部分があったのだろう。
それを・・・ルークは裏切った。
同じだからといって、過度の期待をされるのは、たしかに向こうも勝手な話ではあるが、ルークの裏切りは度を過ぎている。
まさか、自分の複製品が。
ここまで劣っているなどとは・・・きっと思っていなかったのだろう。
ルークにとっても、唯一無二の孤高の人。
その孤独の原点は、間違いなく、自分にある。
だから。
・・・アッシュをこれ以上、貶めるような真似をしてはいけないのだ。
夜半の暗闇は、色々なものを人の目から誤魔化してくれる。
人がとっくに眠りについているその時間、黒いフードつきのマントを羽織り、足音を忍ばせながらルークは自室を抜け出した。今夜はひとり部屋で、その行為を誰に見咎められる訳でもなかったが、それでも、胸は早鐘のように打ち、心を鈍らせる。
こんな事をするべきじゃないのはわかっている。
―だけど、少しの間なら。
ばれたら、逆に傷つける。
―ばれなかったら?
うなされている間の、少しだけ夢を見せてあげるのが、そんなに悪いことなのか?
だって、俺は他になにもできないじゃないか。
思考は堂々めぐりで、結局は答えを出せなかった。
ただ、元気づけたいだけ。
そう思えば、そこまで真剣に悩むほどのこともないのかもしれないが、後ろめたいことに違いない。
だが、立ち止まったら最後、やっぱり、と引き返してしまいそうで、ルークは廊下を歩む足を速めた。
とりあえず、ナタリアの部屋の前までは辿りついてしまえば、腹を括るだろう。
ルークはナタリアの部屋まで辿りつき、ノックをする為にあげた手を止めた。
ノックをしてどうする。ナタリアには自分だと気付かれないようにしなければならない。熱にうなされたナタリアが、目を覚ました時に、アッシュと誤解するよう黙って窓辺にでも立っていた方が良い。
そう思い、そっとナタリアの部屋の扉を開けようとした時、ルークがドアノブを掴むより早く、内側へ扉が開いた。
驚いて、ルークは一歩下がる。
その隙間に滑り込むように、部屋から出てきた影がルークの目の前に立った。
その姿を見て、ルークの目が驚きに見開かれる。
「・・・・・アッシュ。」
「・・・おまえか。」
ルークに気がついて、アッシュの眉間に皺がよる。
憎憎しげにルークを睥睨したアッシュは、顔を背けて舌打ちをした後、無言のまま、左手で示して、ルークに道を開けさせた。ルークはその左手に押されるようにして、一歩さがる。アッシュのたてる固い足音が、あたりに響いた。
「・・アッシュ・・・。」
どうして、と言いかけたルークは、アッシュに一瞥されて出かけた言葉を飲み込む。
ルークを見るアッシュの視線は、いつでも冷たい。急ぐ道を阻む魔物に対する視線でも、これほど冷たくはないだろう。
思わずその視線を避けるように、ルークは頭を下げた。
アッシュはそれに対してはなにも言わず、そのまま横を通り過ぎようしたのだが。
「・・・おい。」
俯いた視線の先、アッシュのブーツが立ち止まり、つま先がこちらを向く。
いつもの違う黒い服に、ルークがしようとしていたことを察せられ、罵声でも浴びせられるのかとルークは思った。
しかし。
「・・・・・ギンジから話は聞いた。」
「あ・・・。」
ルークは顔をあげた。そこにはいつもの硬い表情のアッシュがいた。
ノエルからの伝言は、ギンジを通して、確かにアッシュに伝わったのだ。それでアッシュがここにいる理由にも合点がいった。
・・・どうしてナタリアの部屋から出てきたのかも。
その時、飛来した思いにルークは自分で自分がわからなくなった。
思わず、胸元の布を右手で掴む。
「本来なら、お前になど死んでも言いたくないが。」
アッシュが言った。ルークは胸を掴んだ時にさげていた視線を、もう一度あげた。
「・・・・礼を言う。」
「・・・・・・!」
「お前がナタリアのことを知らせてくれたおかげで、こうして見舞えたのだからな。」
「・・・うん。」
ルークは俯いた。
自分の足先と、アッシュの足先が床の上で向かい合っている。
間もなく片方の軸がずれ、そして離れていく。
話はそれだけだ、と言ってアッシュは、去って行った。一度も振り返ることはなく、廊下を曲がりやがて見えなくなった。
「・・・ルーク!?」
まだ闇が去りきらない明け方に、早朝稽古の為に起きてきたガイは、驚いて声をあげた。
「どうしたんだ?こんなところで!?」
ルークが階段の途中の踊り場で、壁に背中を預けて座り込んでいる。なにか用事があって、起きだしてきたとは到底思えない。
ルークは自分の肩を抱き、寒さに耐えるように、がたがたと震えていた。
ただならぬ様子に、ガイが肩を強く掴むと、それは石膏のように冷え切っていた。
「まさか・・・昨日からここにいた、なんてことはないよな?」
確かにこの地方は寒いが、この冷え方はただ大気にやられたとか、そんなものではない。まるで羽織るものもなしに、何時間も雪の中にいたかのような冷たさ。
「ガ・・・イ・・。」
見上げる視線には覇気がなく、呼気も荒い。
「どうした?」
「おれ、俺は・・・。」
「まさか、ナタリアの病がうつったのか?」
ガイは心配そうな顔で、ルークの額に手を当てた。
ひんやりと冷たく、熱はありそうには見えないが、発熱する前触れかもしれない。とりあえず冷えるこの階段から移動させようと、ガイはルークの腕を取った。
されるがまま引かれるルークの体は重く、どこか重心を失って倒れそうに見える。
おい、大丈夫か?と顔を覗きこむと、ルークは右手の中指と薬指の爪を噛んでいた。
「・・・・・。」
その表情が泣きそうなことにガイは気がついた。
幼い頃のルークは、なにかしらを我慢している時、爪を噛むクセがあった。体が成長した最近では見なくなったが、ガイにはなじみのある顔だ。
「・・・なにか、あったのか?」
「・・・いや。」
昔はこういう顔をしている時に促せば、待ってましたとばかりに理由を捲くし立てたものだった。家庭教師が気に入らなかったり、母親の具合が悪いことが心配だったり。
だが、今幼い子供はガイの手を離れ、ひとり、耐えることを覚えてしまった。
罪の意識に苛まれる、という痛みにも。
もしかしたら、アクゼリュスの夢でも見たのかもしれない、とガイは思った。
ルークが魘され、飛び起きては、その後眠れなくなる夜があることは、とっくに気がついている。
「とりあえず、部屋に戻ろう、な?」
お前まで倒れちまったら大変だよ、と冗談めかして笑い、ガイはルークを促す。
ルークは抵抗もなく、ガイに引かれるまま立ち上がったが、顔は俯き床を見ていた。
ルークよりも背の高いガイは、そうされるとルークの顔を見る事はできなくなった。
担ぐように促しながら訪れた、ルークの部屋は、冷たい空気に満ちていた。
まだ夜明け前だということもあって外は確かに寒いが、この冷たさは、暖房をつけていた様子もない。やはりルークはずっとあの階段にいたのか、とガイは眉を顰めた。
なんだか、変だった。
しかしガイは問い詰めることをせず、とりあえず、冷え切った体のルークをベッドの中へと押し込み、ふとんをかぶせて、ぽんぽんと上から叩く。
幼い子供を寝かしつける時のその仕草は、つい出てしまったものだ。
昔、何度となくルークにしてやった。幼かった時のルークは寝つきが悪く、夜中までむずかってはメイドたちを困らせたものだった。
そんな保護者のクセを披露したところで、ルークは子供扱いされたことにも別段怒らなかった。まだ夜が明けきらない暗い窓辺をぼんやりと見ている。
その視線の先を追い、カーテンすら閉めていないことに気がつき、内心で驚きながら、閉めるか?とルークに聞くと、別にいい、と覇気のない声で答えた。
「まさか、本当に熱でもあるんじゃないよな?」
言って、もう一度ルークの額を撫でたが、やはり別段、体温が高いということもない。
ルークはその手の動きに、猫のように気持ち良さそうに目を伏せ、ガイ・・と小さくつぶやいた。
「なんだ?」
「俺・・・ずっと、思ってた・・・。」
「・・・・なにを?」
「俺は世界を知らなすぎるってこと。」
「・・・ああ。」
「俺は普通の人間よりもずっと得てきた知識が少なくって、でも、小さな屋敷の中で暮らすならそれで十分だった。世界のしくみがどうなっていても、それは対岸にある砂みたいなもんで、知ったとしても、それが自分に降りかかってくることはない、と思っていた。・・・皆と世界に出るまでは。」
「・・うん。」
それに対しては、ガイとて贖罪の意識がない訳ではない。
運命により死ぬ時期が決められていた子供は、自由も、たいした知識も与えられなかった。彼は、彼自身のことなのにその運命を知らず、知らないで良い大人たちに、知識など必要のないものだ、と勝手に判断された。
知識に対して欲望を持つことは、誰にでも与えられる最大の権利だというのに。
知らなかったとはいえ、甘やかすという行為によって、それに加担したガイも、同罪なのだ。
「けど・・・それじゃいけないって知ったし・・・。俺も知りたかった。」
「・・・ああ。」
本来のルーク、というものは好奇心が旺盛で、行動的だ。
押し込められていた間、彼は彼のなかの大半を、殺してこなければならなかったという事実に気付き、ガイはますます胸が痛くなる思いがした。
「世界が好きなんだ。」
ルークが言った。
透き通る鐘のように、夜明け前の静かな空気のなかに響く言葉だった。
「色々な事を知りたいって思うんだ。」
「・・・ああ。」
知っていけば良い。これからはなんの遠慮もいらない。
ガイの相槌に、けど、とルークが力なく答える。
「けど・・・世の中には。」
彷徨うような視線で窓を見て、そのままルークは右腕を自分の目の上におく。そうされるとガイからは表情が隠れて見えない。
「世の中には、知ってはいけないこと、も、あるんだ・・・。」
「・・・え?」
「知らなくっても良いことが、必ず、この世にはある。」
「・・・ルーク?」
ガイが名前を呼んでも、ルークは答えなかった。
顔を隠したままで、長いこと沈黙が流れた。
実際にはそんなに長いことでもなかったが・・・あまり静寂を得意としないルークと一緒にいて、初めてといって良いくらいの無音の時間だった。
「・・・もう寝るよ。」
やがてルークがぽつん、と言った。
「どうせ、ナタリアのことがあるから、今日も出立できないだろう?昼まで寝かせてくれると助かる・・・。」
「・・・ああ。」
どうして今まで起きていたのか、と聞くことはできそうもない。
ルークの様子を見て、そう判断したガイは、毛布の間から出ている赤毛をひと撫でしてから、出口へと体を向けた。
「おやすみ・・・。」
ゆっくりと休め、と言うとルークは、うん、と短く返し、そしてその後は、なんの音も立てなかった。
ぱたん、と配慮の見られる静かな音で扉が閉まり、ガイが去ってから、ルークは毛布から顔を出した。
毛布のなかは暖かかったが、震えは止まらなかった。
毛布を跳ね除け、ルークは窓へと走り寄った。
そろそろ山の向こう側が黄色く変わりだしていて、もうすぐ夜は明ける。
それを察して、窓に背を向け、部屋の反対側の鏡の前まで逃げた。
肩で息をし、顔をあげれば・・・そこには顔色も悪く、唇もあれ、そのクセ瞳はギラギラと光っている、追い詰められた形相の人物と目があった。
それは、まるで見慣れた自分の表情ではなく、けれど、見慣れた自分の顔だった。
そのうえに彼の姿を幻影のように重ね、ルークは、唇を寄せる。
知ってはいけなかった。
後悔しても、もう遅い。
何故ナタリアを見舞う為に、アッシュに成りすますことにあれほどの罪悪感を感じたのか、今ならわかる。彼に見舞ってやって欲しいと思いながらも、片方で、彼には来て欲しくなかったのだ。
彼が来ることで、ナタリアの具合が良くなるのを見たくなかった。彼にとって、ナタリアの為に無駄に時間を割くことなど、なんでもないということを知りたくなかった。
アッシュは、ナタリアの為に、ルークに礼を言った。
あれほどまでに嫌っているルークに頭を下げ、感謝するといった。
それを屈辱と感じさせもせず、むしろ当然のように礼を言い、ルークは、ナタリアがいかに彼にとって特別なのかを、まざまざと思い知らされたのだ。
ルークではけっしてアッシュにそこまでしては貰えない。
これがルークなら、病に倒れ、たとえ明日をもしれない命になろうとも、アッシュは決して時間を割いたりはしないだろう。死んだら死んだで勝手にすれば良いと言うかもしれない。いやむしろ、気にもかけて貰えない可能性の方が高い。
アッシュが、ナタリアをどんなに大事に思っているか。それを分かっていたつもりでいて、本当はどこかで、単に幼馴染として大事なだけだと期待していた。
今、ルークの目の前には、絶望を宿した目のこどもが映っている。
鏡に触れている指は、日々の戦闘のおかげで爪が割れ、ささくれができている。
髪も埃に塗れてばさばさで、唇は水気を失って、切れていた。
どこも美しくも、可愛らしくもない。
愛される理由がどこにもない、薄汚れたこども。
「・・・だせぇな、俺って。」
その時初めてルークは、胸が引き裂かれそうな時に勝手に笑えるものなのだ、と知った。
彼のまぶしいほどの赤を思い、健康的な肌を思い、かざぶたのない唇を思い、目の前に映るものに、彼の幻影を重ね、もう一度そっと唇を寄せる。なにかを確かめようとしたそれは単に自虐以外のなにものでもなく、ただルークに、自分の愚かさを思い知らせただけだった。
こんな恋など、誰に言われなくても自虐的なだけだ。
そして誰も救われない。自分もナタリアも・・・アッシュも。
こんな気持ちは眠らさなければ。そうして、なかったことにしてしまえば、ふたりに対して、また明日からは普通に笑って、接することができる。
均衡の保たれているものを、わざわざ壊す必要がどこにある。
俺はこの気持ちを眠らせないとならない。
気付いてはいけないことはなかったことに。
知らなくてもよいことは、初めからなかったことに。
昨日まで時間を戻してしまえば、それで良い。
ルークは、ナタリアを案じて、アッシュに連絡を取りたがっていた。その彼がようやくやってきて、きっとナタリアも明日からは良くなるだろう。
それだけのことだ。
すべてを眠らせようと覚悟して、ルークは、これが最後と鏡に唇を寄せる。
それは、冷たく無機質で、きっと彼本人にしたとしても、同じとしか思えなかった。
アッシュは、冷たい視線で見下ろし、ルークの心を凍らせるようなことしか言わない。
そしてそれこそが彼なのだ、と悲しく思った。
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