ファースト・キス?

 


それは、あっと思う一瞬の出来事だった。

 ルークは決して身体能力は低くないし、受身を取れないということはきっとなかったと思う。けれど、階段を話しながら上っていて、振り向いた時、確かに注意力が散漫になっていたのは事実だ。
 持っていた書類の束が手元からすり落ちそうになり、慌てた瞬間、体が後ろに傾いだ。
 体勢を整える間がなく、そのまま足を踏み外して、数段下の踊り場まで滑り落ちた。しかも、数段後ろを上っていたアッシュを巻き込んで。

 派手な音をたてて落ちた割りには衝撃が少なく、それよりもその感覚がなんなのかに気がついて、ルークははっと息を飲む。
 条件反射的にルークに手を伸ばしたアッシュは、ルークのクッションになり、背中を打ったのか少しだけ顔を顰めていたが、さほどの怪我をした訳ではなさそうだった。けれど、同時にそのことに気がついたのか、驚いたようにルークの顔を見る。
 ふたりの顔は数センチも離れていなかった。
「・・ご、ごめん・・・。」
 庇ってもらったのだから、ありがとうだろう、とかその場で思う余裕はなかった。
 ルークは慌ててアッシュから離れ、アッシュもそれに対して、ああ、という短い答えしかしてこなかった。
 何事もなかったかのように階段に散らばった書類を拾う間、ふたりは不自然なほど無言だった。
 ルークはアッシュには気がつかれないように、そっと手で唇を抑える。
 偶然触れただけだと言い聞かせるように繰り返しながらも、唇は燃え尽きそうに熱かった。

 


 数ヶ月ぶりにガイがファブレ邸を訪れていた。
 今回の来訪は、大使としてマルクト訪問していたナタリアが連れて帰ってきたものだ。たまには遊びにいらして、という彼女の誘いに、ちょうど手持ち無沙汰をしていたガイが、調度良い、と乗ったものだ。
「ってお前、貴族なのに仕事ないわけ?」
 ホドをなくしている為、ガイには統治する領地が確かにないが、ブウサギ係だけが彼の仕事ではないだろう。
 今や、グランコクマ内に邸を構え、元老院に席を置いている身のくせに、そちらの仕事がないなどありえない。
 ないって訳じゃないけどな、とガイは答えた。
「けど、キムラスカとの平和条約が保たれているし、心配していたダアトの混乱も、市民への影響がなかった。平和なもんだと忙しくなくなるものさ。」
 ピオニー陛下もこのところ暇そうにしてるぜ、とガイが言い、あの人いつでもヒマそうじゃんか、とルークは答える。
 ルーク、そんなこと言うものではありませんわよ、と紅茶を片手に、ナタリアが言う。
 
 ファブレ家のサンルームで4人でお茶のテーブルを囲みながら、こんな風な雑談をするなんてひさしぶりだ、とルークは思った。
 もっともあの頃にはもっと人がいたし、逆にアッシュはいなかった。
 いったんは崩れた穏やかな日常を取り戻すのに、どんなに時間がかかるだろうと思っていたのに、なってみれば案外、とても簡単なことだったことに驚かされる。
 嵐が過ぎてしまえば、そんなものなのかもしれない。

「そういえば、おふたりとも。ガイには面白い話があるのですってよ?」
 いたずらっぽくナタリアは笑い、ガイは勘弁してくれ〜と顔を覆う。
 その様子はルークの興味を引くもので、なになにと身を乗り出して問いただせば、逃げようとするガイと、ころころ笑うナタリアの声が交差して、サンルームの中は賑やかな雰囲気になる。
「今、ガイにはね。」
 ナタリアは言った。
「縁談が多数、持ちこまれているそうですの。」
「縁談!?」
「・・・ほう・・。」
 えー?というルークの素っ頓狂な声と、それまで静観していたアッシュの関心を示したような声に、ガイはやめてくれよ、と頭を抱えた。ガイはそれらを断り続けているという。
「あいつをどうにかしてくれ、とピオニー陛下にも頼まれてしまったのですけれど。」
 まあ、この体質ですし、とナタリアは悪気もなく笑い、そのうち治りますわよ、と続けて楽観視していることを示してみせた。
「けど、治んなかったら、どうすんの?マジで。」
 このまま一人身っていうのも困るだろう?とルークは言った。なんといってもガイは最後のガルディオス家の生き残りなのだ。このままでは、お家は断絶してしまう。女嫌いが理由で、恋愛経験だってないんだろ〜?と余計なお世話をルークが口にすれば、ほっとけ、とガイは拗ねたように言う。
「こういうことはどうにかなるもんなんだよ!お前、それよりも自分のことはどうなんだよ?キスのひとつもしたことないお子ちゃまなクセに。」
 からかいのつもりで、ガイは言った。もちろん、彼の脳裏には今はユリアシティにいる彼女のことが掠めていた。
 旅の間、ふたりが仲が良いのは仲間内では公認だったが、なによりもお互いの距離を埋めるような激的な出来事がなにもないまま、月日が流れていってしまったことを、ガイは密かに残念に思っていたからだ。
 しかし、そんなことも知らず、子供扱いされたことを心外に感じ、ルークは少しムキになったような声で反論した。
「俺だって、それくらいしたことあるよ!」

「え?」
 ぎょっとしたようにガイが居住まいをただし、まあ、とナタリアが口元に手を持っていくのを見て、ルークはしまった、と焦った。
 つい言ってしまった・・・。
 そっと隣のアッシュを伺えば、表情を変えもせずに紅茶を口に運んでいる。
 なぜ話してくれませんでしたの?と楽しそうに詰め寄ってくるナタリアに、そんなことべらべらいう事じゃねぇだろう!と反論しながら、ルークは今の失態で、アッシュはなにも感じてくれなかったのだろうか、と考えていた。
 もちろん、あれは事故だった。別にそうしようというお互いの意志があった訳ではない。けれど。
 アッシュにとってあれは単に偶然にそうなっただけの、なんの意味もないものなのだろうか。
 それならばそれで、かなり悲しい。

 

 泊まっていけ、というルークの誘いを、ガイは城下の宿を取ってあるからと辞退して、ファブレ邸を後にした。

 残されたルークは少しだけ寂しくその背を見送り、遊んでいた間にし損なった書類のサインを済ませてしまおうと、職務室へと向かう。
 アッシュも同様だ。
 彼の方がルークよりも要領が良いから、さほど溜まってはいないだろうが、本来の真面目な気質から、今日の予定にしていたものを明日に持ち越すということをしたくないらしい。
「あーあ。」
「なんだ、溜息とは。」
 嫌なのか?と問われ、
「え、ちが・・・。」
 仕事が嫌なのだと思われたくなくって、ルークは慌てて首を振る。
「なんかこう・・・お客がいなくなった後って、独特の寂しさがあるな、と思って。」
「・・・ああ。」
 楽しかった分、それは大きい。切ない、というのに似ている。
 別のどこかに取り残された訳でもないのに、なんとなく時間の方から逃げられたような感覚を覚える。
 丁度下りてきたメイドに、職務室にココアを差し入れてくれるように頼み、彼女が去った後、階段にはふたりだけが取り残される。
 まるでそれを見計らったかのように、アッシュが言った。
「わざわざ、勿体ぶって言うほどの事もなかったと思うがな。」
「・・・え?」
 アッシュの言葉はいきなりで、一瞬なんのことかわからなかったが、今いる場所を意識した途端、それが昼間のサンルームのことを指しているのだと、ルークは気がついた。
「べ・・別に勿体ぶった訳じゃねぇよ!」
 つい勢いでさ、と言い訳のように、もごもごとルークは付け加える。
「それに・・あれがキスと言えないようなもんだって事は、俺だって分かってる・・・。」
 けれど、なにか意味があるものだったのなら、どんなに嬉しいだろう。アッシュも少しはそう思ってはくれないだろうか。そう思い、ルークが顔をあげると、アッシュは口元に笑みを浮かべていた。
 なにかを企んでいる時の顔だ。
「なら。」
 なにをされるのか、と思わず逃げ腰になるルークに、アッシュは言った。
「仕切りなおしてみるか?」
「え?」
「嫌か?」
 意味が分かり、ルークは大きく目を見開く。
「まさか!」
 俺だって、やり直したかった、とルークはアッシュに告げた。
 そうしてアッシュの肘辺りを掴み、言うのに多少の勇気を絞って、顔を俯けた。
「ずっと・・・して欲しいって思ってたんだ・・・。」
 偶然の階段の事故が起こらなくっても、以前から密かにルークが望んでいたことだ。
 アッシュが今や自分を嫌ってはいないだろうということは、察しがついていた。
 しかし、それがルークがアッシュに抱いている気持ちと同じかどうかを、ずっと知りたいと思い悩んでいた。
 望んでいたものは、今まさに開示されようとしている。

 耳まで赤くしたルークに笑い、アッシュを下を示すようにして、階段を指差す。
「お前、一段さがれ。」
 今いる位置は、ふたりが同じ段に並んでいる。
 なんで?と聞くルークにアッシュが言った。
「・・・しにくいだろうが。」
「あ。」
 なるほど、と言われた通り、ルークは一段下がろうとして、
「・・・ちょっと待てよ?」
 思いとどまる。
「なんで、俺が下?」
 上下の位置関係を男女と同じと見なすならば、つまりは下に下がる方が女役ということになるのではないか?
「・・・嫌なのか?」
「嫌っていうかさぁ・・・。」
 確かになんとなくはルークは自分の立場がそっちであるということを覚悟はしていた。というか女役のアッシュというのは思い浮かべようとしても、案外難しい。けれど、自分だって男なのだ。少しはアッシュも、どっちがどうとか、そういうことを最初に考えてくれたって良いのではないか。
「アホか。」 
 アッシュは呆れたように言った。
 そうしてルークが下がらない為、自分が一段、上へとのぼった。
「さっき、お前が言ったんだろう。」
「なにを。」
「"して欲しかった"ってな。」
「あ。」
 『したい』ではなく、『して欲しい』と確かにルークはそう言った。
「その願望事態が、すでにてめぇがそっちの位置だって、証拠じゃねぇか。」
 食いつきたくなるほど可愛いくせに、なに言ってやがると内心で笑い、アッシュは、はやくしないと誰かくるぞ、といつまでも目を閉じないルークを、急かした。