彼女はいつも、黒い服を着ていた。
それはワンピースの時もあったし、所謂、普段着の、ちょっとそこまでのお散歩に適したような格好であったり、そして、最も着用回数の多い、戦闘服の時もある。
だが、彼女が身につけるのは、必ず、黒い服だ。
その日、その雑貨店には主人の10歳になる女の子が、少しの間だけ留守番をしていた。
父親は、近所の別の雑貨店に、めずらしく入ったという高額な回復薬を見せてもらいにでかけていた。
ほんの10分だけ店を頼むよと言われ、素直に頷いたのは、娘がこの歳ながらに立派に仕事ができるからだ。
しっかり者の彼女が店に立つと、なぜか客のサイフの紐も緩くなる。
末は立派な看板娘だね〜と言うのが、常連さんたちの口癖だ。
知ってる、看板娘っていうのは美人になるって意味でしょう?そう聞き返すと、必ず皆は笑い、彼女の頭を撫でるのだった。
その将来の看板娘は、高いスツールに腰掛け、カウンターの下で、足をぶらぶらさせていた。
その足には、買って貰ったばかりの、黒いエナメルの靴を履いている。
足首のところに、ちょこんとリボンがついているのがお気に入りだ。
それに色が黒、というのもとても良い。黒は、ピンクの次に好きな色だ。
なぜならば、それは彼女の憧れの人の色だから。
始祖ユリアという偉い人の子孫であるというその人は、清らかで美しい歌を歌う。
なんでも譜歌、というらしい。
この街の人々は、密かに彼女を、歌姫と呼んでいた。
美しく、高貴なる人、歌姫、と。
「お嬢ちゃん、ひとり?」
その歌姫が、困ったような顔をして立っている。
うん、と頷くと歌姫はますます眉を寄せる。大人なのに、まるで今にも泣き出しそうだ。
「困ったわ・・・大きな箱が欲しいんだけど・・・。」
それなら、そこ。と指差すと、歌姫はそれを確かめて、なにやらぶつぶつと言っている。
「ああいうんじゃなくって、もっとこう、可愛い柄のが欲しいんだけどな・・・。ああ、でも結局は入れてしまえば一緒だし・・・。困ったな、どうしよう・・・。」
綺麗な箱が欲しいの?と娘が聞くと、ううん、そうでもないわ、と訳のわからない言葉が返ってくる。
そこへ、ちょうど娘の父親が帰って来た。
留守番の役目を終え、娘は少しだけ、ちぇ、と思う。
もう少し、歌姫と話していたかった。
できれば、遊んで欲しいのだけれど、それは無理というものだ。
だから、娘は、父親と歌姫が話をしている間、ずっと歌姫の姿に見惚れていた。
背中の中ほどまで届く長い髪は、金とも銀ともつかない美しい色で、彼女が歩くたびに揺れては光を放ち、黒い色とよく映える。
わたしもああいう風になりたい、と娘は思う。
やがて、光沢のある白い組み立て式の箱を父親に薦められ、彼女はそれを買った。
翻るスカートは、ふわふわと軽く黒い。
「おや、テオドーロ市長の、お孫さんじゃないのか?」
入れ違いに入ってきた常連さんが、彼女の後姿を見ながら言った。
「そうなんだよ。なんだか、片付け物をするとかで、箱を買いに来たんだ。」
「片付け物?まさか引っ越すとか言うんじゃないだろうね。」
彼女は街の人気者なので、そんな事になったら寂しがる者が大勢いるだろう。
「違うようだよ。なんだか、もうそろそろ良いかと思って、とかなんとか言ってたし・・・。」
「そうか・・・。でも、足変わらず、黒い服なんだね・・・。」
「そうだね・・・。」
彼女がその色を選ぶその由来を聞くたび、皆、まるで自分の身内の事のように少しだけ悲しくなった。数年前、人々は、色々な形で、大事な人と別れてきた。その痛みが、少しは分かる。
彼女は、もうずっと、愛しい人の死を悼んでいるのだ、という。
もう2年もの間。
彼女は、決して、黒い色以外を身につけない。
いつまでも、そのままにしておけない。
ある意味での一大決心を強いられ、彼女はずっと自分の部屋のクローゼットに、それを仕舞い込んでいた。
それは、時間の硬直。時がただ、虚しく流れるのを食い止めたいと願う、心の現われ。
彼女の時間は、2年前から止まったままだ。
いや、厳密に言えば、それは大分違う。
彼女を取り巻く環境も、立場ももうかなり変わってしまったし、昔はローレライ教団の一兵だったにすぎない自分は、今や祖父の片腕として、2年間健気にも尽力を注ぎ続け、その見返りのように勢力を伸ばしつつある、かつて幼なかった彼女の仲間と共に、教団の中枢に大きな影響力を持ちつつある。
最もそれは、この世界を根底から覆し、造り直した英雄達のひとり(と世間は思っている)という冠に対するものであるところが大きい。
だが、外部はそういう風に変わってきても・・・。
いくら変わったところで、彼女の内面を締めるものは、あの日以来、何ひとつ変わらない。
始めは変わることにさえ、恐怖を覚えた。
なにかが、勝手に動き出すことで、そこに脆く存在する可能性のひとつが、人知れず崩れてしまいそうで怖かった。
彼女が欲しいものは、いくら手を伸ばしても、触れることすら敵わない。
それが、現実になってしまいそうで、何度、うなされ、目を覚まし、眠れない夜を過ごしたことだろう。
だが、人は変わる。
・・・・・・変われる。
それが自分にも言えることだ、と思うようになった変化が、良いことなのか悪いことなのかは判断できなかったが、彼女の時間が止まっていた2年の間も、ずっとその耳には「強情だな〜ティアは。」と笑う声が聞こえていた。
もう少し肩の力を抜いても良いんじゃねぇ?とカラリとした、なにも悪びれない、いつもの口調で。
そんなに私は強情かしら?とティアは少しだけ、微笑んでみせる。
そんな事ないわ、それはあなたが、知らないだけ。
私にだって、弱いところも、脆いところもある。
脆くて弱いから、身を硬くし、外部からの衝撃に耐えようとしているだけなの。
彼女はクローゼットを思い切って開け放つ。
1番奥に、それはそのまま置いてある。
床に膝をつき、這うような体制で手を伸ばし、それを掴んで引きずり出す。
様々な街の、風と土埃の匂いが、それからはする。
ずっと旅に持ち歩いていた、備品を入れる布袋。
使いすぎで擦り切れ、穴が開きそうになった場所は何度となく、縫い合わせたものだ。
その糸が絡まった箇所の感触を、指でなぞって、確かめる。
そして、紐を引き、開けた。
そんな訳はないが、中から異国の空気が流れ出てきたような気がする。
一瞬、また時が流れるのを惜しむ気持ちにさせられる。
彼女は頭をひとつ振ると、ごそごそと中の物を外へと引っ張り出す。
上に乗っているのは、軽いもの。
小さなハンカチや、ミラー、櫛。
擦り傷用の絆創膏や消毒薬。
石鹸や、ハブラシのようなもう古くて到底使えないなくなった日用品。
それから何枚かの着替え。
1番下には、軽いブランケット・・・・。
ブランケットを探る手に、別の柔らかいものが触れた。
そっと取り出し、愛しげに眺める。
それは、クマのぬいぐるみで、中身が詰まっていないから、くたくたとしている。
背中にファスナーがついていて、そこを開けると、中に小さなモノを入れられる。
頭には赤い手提げ部分がついているクマの形のポーチだ。
元から可愛いものが大好きだったが、そのことは隠していた。
別に悪い事ではないのだが、自分に可愛いもの、というのは似合わないし、そう思われてしまうのも恥ずかしい。
もっとも、旅が終わる頃には、いつの間にか皆にはバレていて、なにかにつけては「本当に可愛いものが好きだね。」と呆れ顔をされたものだ。
そう、あの時も、そうだった。
光の街バチカルの、喧騒と、高く聳える王宮。
それが見下ろす街には、いつも活気が溢れ、人の良い住民達がいつでも笑顔を絶やさずにいて・・・。
ううん、違う。
それは、最近の話だ。
それこそ、つい最近になるまで、ティアはバチカルには足を向けなかった。
その時も、教団の使いで嫌々ながらに行ったのだ。
あの頃の、バチカルはいつでもぎずぎすして、今にも追い出されるのを攻撃し返そうとする烏たちの巣のようだった。不穏な空気が立ちこめ、なにかにつけては、すぐに人々は疑心暗鬼に陥った。
それでも生活の中には、せわしなく不安を纏いながらも、明るく生きようとする小さく光るなにかがあった。
そんな感じだった。
その頃にはもうミュウから聞かされ、ルークが先が長くないと知っていた。
ルークの歩幅は大きく、歩くたびに少しだけ体を左右に揺らす癖があった。
その体の揺れにあわせ、くせっ毛なのだろう、短くした襟足が鳥の尻尾のようにぴょこぴょこ上下するのを見ながら、後ろを歩いていた。
ふたりきりで。
並んで歩きたいのは山々だったが、その時のティアは自分でも驚くほど少しの事で動揺していた。
たとえば、ルークが空を見上げる時の横顔(ルークは、天気の良い日に浮かぶ、音譜帯を眺めるのが好きだった)。時々、頭を掻く仕草。照れた時は、まず目が笑い、やがてゆっくりと口元に笑みを浮かべるのが、癖だった。
見慣れてきたそれらのひとつひとつを、ルークを構成するパーツとして確認する度、必ず、打ちのめされる。何度でも。
もう、それが見れなくなってしまうかもしれない。
永遠に失われてしまうかもしれない。
そう思うと、圧倒的な喪失感が胸を焦がし、その度に、恐怖で全身が凍りつく気がした。
並んで歩きたいが、歩けない。
いつ又、恐怖に苛まれ、今度こそ冷静な表情を崩してしまわないか、自信がない。
辛いのは、彼女よりも、彼自身だ。
足元の石畳を睨みつけながら、戒めの様に自分に対して言い聞かせる。
その彼に、自分のそんな顔を見せるなど、あってはならないことだ。
「ティア?」
「え・・?あ、なに?ルーク。」
ぼんやりしていたらしい。
呼ばれ、我に返って、ティアは目線を石畳からルークへと移す。
「ここ、綺麗だなって言ったんだよ。」
話しかけたのを聞いてなかったことを責めることもなく、嬉しそうに店先に指差す姿は、母親に見つけたものを報告する子供のようだ。目を輝かせて、口元をうずうずさせている。
「そう?」
その指先が、示しているものの先をティアは確認する。
窓ガラスには書かれた音符のような流れる文字は、ピンクで「チョコレート」ブルーで「キャンディー」。それが上下にふたつ並んでいる。それを囲むように書かれたアートの四方には小花が描かれている。
覗き込めば、中には色とりどりの包装をされたチョコレートの箱や、クッキーの缶がおもちゃ箱のように並べられ、店内にはそれらに夢中になっている若い女の子たちが見える。
「入ってみようか。」
「・・・え?」
「アニスたちに土産!甘い菓子好きだろ?あいつ。」
甘いお菓子はパーティの誰もが好きだ。
なのに、なぜアニスの名前が先に出てくるのだろう?と、ぼんやりと思い、少しだけティアは複雑な気持ちになる。
そういえば、石碑巡りの時も、ルークは案内役にアニスを選んだ・・・。
「ティア〜?」
またもや、自分の考えに耽っている。
呆れてルークは、ティアの手を取った。
「え?」
「ほら、入ろうぜ。」
ぐい、とひっぱられ、たたらを踏むようにしながら、ルークの開けたドアをティアはくぐる。
途端に、むせ返るような甘い空気に包まれる。
そして、一瞬にして、世界が変わったような、そんな感覚。
色とりどりのお菓子はどれも美しく並べられ、まるで宝石のようだ。
店のところどころには、それらをさらに可愛らしく演出しようと、リボンが飾られ、ビー球やおはじきも一緒に並べられている。壁紙はふんわりとしたピンクに花柄で、レースのカーテンが下げられている。
ああ、可愛いなぁ、とティアは思った。
こういうふわふわした女の子らしい部屋で、生活してみたいなぁ・・・。
「ティアは、クッキーとチョコ、どっち食いたい?」
ルークの言葉に我に返る。
「え?なに?」
「またトリップしてたのかよ・・・。」
ルークはほとんど呆れ返っている。
「あ、ごめんなさい。チョコと・・・?」
「クッキー。」
「わ・・私は、クッキー、かな?」
「よし。」
満足げに頷き、ルークはクッキーの缶を手に取る。
それには花と小鳥が描かれていて、なんだか大事なものを入れるのに取っておきたくなるようなデザインだ。空になったら貰おうかな、とティアは思った。手紙なんか入れたら良いかもしれない。この旅が終わったら、今度こそ手紙らしい手紙を皆に書いて、その返事で缶の中をいっぱいにしてみたい・・・・・。
どきり、とティアの胸が大きく鳴った。
手紙。
大事な皆の、大事な手紙。
だけど、この旅が終わりを告げたら、最も大事な手紙をくれるであろう人は、いなくなってしまうのだ・・・・・。
「ん?なに?」
そこにいるのを確かめるように慌てて振り返ったティアに、ルークは不思議そうに首を傾げる。
今は、まだここにいる、赤い髪。
「・・・なんでもないわ・・。」
「?そうか?」
ルークはもう1度首を傾げ・・・・・。
「んん??」
さらに首を傾げて、ティアを見た。
「え?」
「いや、あれ・・・。」
正確には、ティアの後ろを見ていたらしい。
指差すその方向を見ると、小さな女の子が、頭のところの紐に手首をいれ、クマのぬいぐるみを提げてながら、母親と一緒にレジに並んでいる。
「ぬいぐるみも売ってんのか?ここ。」
「あ、あれだわ、ルーク。」
目ざとく見つけ、ティアが店の一角を指差す。
そこには、沢山のクマのぬいぐるみがつり提げてあった。
獲物の品評会みてぇ・・とつぶやく声に、なに言ってるのよ見た事ないくせに、見たことねぇけどこんなんだろ?ジェイドが言ってたぜ、たぶん大佐も見たことないんじゃない?軍人だもの、軍人だって見たことあるかもしれないだろう〜、だって大佐のいう事よ?真に受けたらダメよ、う・・・それはそうだけど・・・。という会話した後、ティアはちょこっとだけ、クマに触れた。
柔らかい毛は、指先に暖かい。
「へえ、これ。中にクッキーが入ってるのか。」
「そうみたいね。最近はお菓子も凝った売り方をしているのね。」
「買うか?」
「え?」
ティアはルークを見た。
「これ、可愛いじゃん。」
にか、と屈託笑う姿を、ティアは良いな、と思う。
良いな、この人は。
どんなに胸中に嵐を抱えていても、他人には太陽のような笑顔を向けられる人。
この素直さは見る者をどんなに救うだろう。この力を、私は遥か昔にどこかへと置いてきて、こんなところまできてしまった・・・。
「い・・いいわよ、別に。」
可愛いものを好きなのを隠しているというのとは別な理由で、ティアの口から滑り出たのはそんな言葉だった。
今更、クマのぬいぐるみを愛せるほど、無垢な時代を取り戻せない。
「・・・良いのかよ?」
それに対してのルークの口調は不満げだ。
「良いって言ってるでしょ。さ、行くわよ。」
「・・・・・わかった。」
溜息と一緒の言葉を聞いて、ティアは、自分の態度がルークに誤解をさせたのでは、と慌てた。
今のはあまりにも、冷たい言い草だ。まるでいきなり怒ったかのようではないか。
レジに並ぶルークの後姿に、ティアは謝ろうと思った。
けれど、なんて言って良いのか判らない。
いつだって、そうやって。
何度も彼を誤解して、ひどい言葉を浴びせてきた自分が、今更些細なひとつの事を謝ったところで、どうなるというの、とも思った。
そして、そう思った途端、目頭が熱く鼻がツンと沁みてきて、それを見られまいとティアは、ルークを店に残して、先に出た。
どうしよう。
どうしたら良いんだろう。
どこにも逃げ道がなく、けれど、諦めるなどとても。
身を千切られるような、こんな思いをする日がまさか、自分にくるなんて。
違う、そうじゃなくって。
私が嘆いているのは、単なる独りよがりに過ぎない。
ルークは・・・泣き言ひとつ言わないで耐えているのに。
そしてティアは、兄の事でも師のことでもなく。
唯一彼のことだけが、自分を見失わせるほどの力を持つのだ、と知った。
それは、今まで築いてきたものを根底から覆す脅威だったが、同時に暖かい何かを彼女に齎し、決して悪いものには、思えなかった。
うつむき、石畳の、長い間に人に歩かれてできた石の窪みを見る。
それは、偶然にも、おたまじゃくしのカタチによく似ていた。
ルークはこんな些細なものを見つけては、面白いと、はしゃぐ癖がある。
17歳にもなると、失くしてしまう色々なものを、今でも持っている。
それは彼の本当の歳が、7歳だからではけっしてなく。
世界を、あるがまま見たいと思う、純粋な品欲さの表れなのだろう。
「お待たせ〜。」
断りなく先にでたのはティアだと言うのに、ルークは明るく詫びの言葉を口にした。
そう答える代わりに、ティアは少しだけ、自分でも意識して微笑んだ。
ルークはティアを見てにこにこしている。
この無防備さと屈託のなさは、ある意味では最強の盾だ、とティアは思った。
「なぁなぁ、ティア。」
「なに?」
「これ。」
ルークは、右腕で抱えた紙袋と別に、左手に小さな袋を持っていた。
それを、ティアへと差し出す。
思わず受け取ると、それはなんだか、紙の上からでも柔らかい感触がした。
もしかしたら。
袋を覗いて確かめると、それはやはり、先ほどのクマのぬいぐるみだった。
「・・・どうして・・・。」
「こっそり隠して持ってれば、皆には分からないって。良いじゃん、可愛いんだしさ。」
ティアの心情を誤解したまま、ルークはそんな事を言う。
ふいに、またしても目頭が熱くなって、それを見られまいとそっとティアは下を向き、クマのぬいぐるみを見ているフリをした。
目の前のそれを改めて見てみると、だらしなく舌をちょこんと出している様が、寝ている時のルークに似ていないでもない、と思った。
「そうね・・・。」
ティアは言った。
「たまには、良いわね。ありがとう、ルーク。」
ティアは、クマのぬいぐるみをそっと撫でる。
すこしだけ薄汚れてしまったが、まだ、あの柔らかい感触は失われてはいない。
あの後、皆に隠しておくならその方が良いと、中のクッキーはすぐにふたりで食べてしまった。チョコチップの入った小さな丸いクッキーで、素朴な味がするそれを、贅沢な食事で育ったルークが、うん美味いと喜んで食べていた。
それ以来、ティアはチョコチップのクッキーしか食べなくなった。けれど、どんなに有名な店のクッキーでも、自分で作ってみても、あの時の味に敵うことはない。
それはきっと、もう1度この店で、チョコチップのクッキーを買って食べてみたところで、同じだろう。
あれはあの時にしか、味わう事ができないものだったのだ。
そんな事を思いながら、クマのぬいぐるみを撫でていたティアの指が、突然、止まった。
なんだか、カサカサとした感じがある。
ファスナーのついた背中を開き、中に指を差し入れてみると、紙が触れた。
値札でもついたままなのか、と思って引き出してみるとそれは。
小さく、四角に折りたたまれたメモのようなものだった。
クリーム色の端に、薄い緑で地図のような模様が見て取れるその紙を見て、ティアの胸がひとつ、どきりと大きく鳴る。 まさか。
その模様には見覚えがある。
旅の間、ルークがつけていた日記。
その切れ端だ。
『 ティアへ。
なんか改まって手紙なんか書いてると、変な気持ちがする・・・。あ、します。どっちでもいいか。手紙だし。
この手紙をティアが読んでいる頃、たぶん、俺は傍にはいないんだと思う。そう願って、これをぬいぐるみの中に潜ませておいたんだから、たぶん。もしも帰れたなら、こっそり回収しようって思ってるし。そうなったら人知れず、これは消去されるわけだな。まあ、これもどうでも良いことだ。
改まって言うのはなんだけど、これから時間があるとは限らないし、あってももしかしたらなにも言えないかもしれないから、書いておくよ。
今まで、本当にありがとう。
俺の最後の時間に、つきあってくれて、さ。
今更だけど俺は本当なら、色々な人に謝らなくちゃならなくって、それは自分の命を犠牲にすることでも、他を救うことでも許されることでもなく、でも心を込めて謝罪しなくっちゃならない事なんだけど、それをする前に、まるで逃げるようにいなくなってしまう俺を、俺自身、卑怯だと思う。
前に、障気を消す事になった時、死ぬだろう俺に、ティアは、止めないけど許さないって言ったよな?
正直、俺はちょっと嬉しかった。
許されたり、褒められたりしたくなかったんだ。だって、俺は死にたいわけじゃなかったし、偉い事をしようと思ってたわけでもなかったから。
誰かに讃えられるのは嫌だった。
俺は、俺の卑怯さを、そんな風に美化されたくなかった。
それで許しを請ってるみたいで、逆にみじめな気持ちになった。
だから、許さないってティアに言われて、憎まれても良いから、ティアには俺をありのまま忘れないで欲しい、って思った。
我が儘言って、ごめん。
俺は、ティアに俺の事を忘れないでいて欲しいって思ってる。
常にっていうんじゃないんだ。
ただ、時々思い出してくれたら、それで良い。
そんでもって他の皆には・・・逆に早く俺の事は忘れて欲しい。俺がいない世界でも、笑っていて欲しいんだ。
だけどティアには、俺の事を覚えていて欲しくって、それでいて、やっぱり笑っていて欲しい。俺がいなくても。
なんか、すんごくめちゃくちゃ言ってるよな、俺。
でも、最後の願いだと思って、聞かなくても良いから、聞くふりだけはしてやってよ。
ティアにだけは覚えていて欲しいんだ。だって、俺の本当の人生の始まりは、ティアだったから。
ティアと初めて会って、屋敷から出て世界を知った。
世界は、俺が安全な屋敷の中で思い描いていたようなものでは決してなくて、いつだってどこかで人同士が憎みあって、今この瞬間にも殺しあってる。そして、殺された方の大事な人たちは、相手を憎んで、そんな連鎖の中にあって、俺は正直、うんざりだった。
人が人を殺すなんて、馬鹿げた事をなんでするのか、それになんで気がつかないのか、こいつら本当に馬鹿なんじゃって思った。今でもそれは少しだけ思ってる。
人が、人を殺しても、なんにも残らないんだよな。たとえ、それがどんな大義名分を掲げていたとしても。自分の身を守る為であっても。
人によっては感じ方が違うのかもしれないし、割り切ったつもりでも、俺にとってはやっぱり、後味の悪さと寝覚めの悪さだけしか残らない、無意味な行為としか思えない。
それは俺が甘いからなのかな?そういえば、ティアにも散々甘ちゃんだって言われたっけ。でも、仕方ないや。本当に俺って甘ちゃんだし。
それでも、世界を知って、本当に良かったって思う。
世界ってそれだけじゃなくってさ、ほんの些細な事にも奇蹟みたいなものを含んでいるって思わないか?
そういう小さなものを集めて、幸福なものも立派に構成されていて、俺たちはもっとちっぽけな存在として、生きている。そういう俺達でさえ、当たり前のように生きる事を許されて、懐が深くって、世界って本当に、綺麗だと思う。
俺は世界が大好きなんだ。
その世界が、俺がいなくなるなんて、そんな些細な事など意に介せず、これからもそこにあり続けてくれるのが、俺にはなによりも嬉しい。
だから、皆には、俺の好きな世界で、笑い続けて欲しいなって思う。
ティア、どうか元気で。
そして、あの譜歌をいつまでも世界中に聞かせてやってくれ。
俺は、ティアの譜歌も、好きだからさ。
いや、マジ。本当に、ここは嘘じゃない。
それから皆にも。
ありがとう、と元気でって伝えて。
・・・たぶん、俺からじゃ、やっぱり言えない、と思うから。最後まで意気地なしで、ごめん。
それから、ティアにはもう1度。
本当に、ありがとう。
ルーク 』
「・・・・・・・っ!!」
思わず、喉から叫び声が出そうになって、ティアは自分の口元を両手で塞ぐ。
その拍子に、手に持っていた手紙は、床へと落ちた。
それを見て、今度は口から手を離し、慌てて手紙を拾った。
頭ががんがんと割れるように痛み、目の前のものが歪んで見える。
それは無理矢理に嚥下した、叫びそのものの痛みだと分かっている。
見慣れた、子供のもののようなクセ字。
日記もそれで綴っていた、どこにも気取ったところがない話口調の文章。
長い間ずっと、失ってしまっていたものだ。
あの空を見上げる横顔と一緒に。
ダメよ。泣いてはダメ。
そう思う先から、鼻がツンと痛む。
視界がぼやける。
泣いてはダメだ、と思うのならば。
それはもう、泣いている、という事。
「・・・ルーク・・!」
一気にあの時に戻る。
2年もたち、尚も鮮やかに思い出す。まるで昨日の事のように。
飲み込み、決して伝えまいと決めた言葉が、堰を切ったように、彼女の中に溢れるのを止められない。
イカナイデ
ドウカ
セカイナンテステテ
ドウデモイイトイッテ
オネガイダカラ
ソバニイテ
どうか。
時を戻す術を。
ルーク、ルーク、ルーク!!
手伝うことあるかい?と喉まで出かかかった言葉を、ガイは飲み込む。
久しぶりに皆で訪れたティアの家は、あいかわらずなにも散らかってなかったのに、彼女は昔の旅の荷物を片付ける、と言い出した。
そんなの後にしたら〜?というアニスの不満げな声も、言い出したら聞かないティアには届かない。
せめても、と早く片す為に手を貸そうと思ったのだが・・・。
部屋を開けた途端、ティアが泣いているらしい、と気がついた。
ティアは決して泣かない。
だが、それはいつでも、泣かないことで自分を保とうとする、彼女の精一杯の強がりであることを、みんなが承知していた。
見なかった事にする。
それが、その時は最良の方法に思えて、ガイはティアの部屋を気づかれない様に、そっと出た。
少しだけ、乱暴な感じでドアが開く。
背まである髪を面倒臭さそうにかきあげて、部屋の中まで入りきらないうちに声をあげる。
「おい、ティア・・・・・。」
そして、彼は彼女の姿を確認し、ぎょっとした様に足を止めた。
彼女の方は、いきなりの騒がしい侵入者を、目を大きく見開いて振り返る。
「・・・な、なんで泣いてんだよ!?」
あまり見た事のない彼女の姿に、すっかり動揺してうわずった声は、まるで責めているかのようだ。
「・・・ルーク・・・。」
なんと返答して良いやら、彼女の声も戸惑いが含まれ、その場は一瞬、なんともいえない、気まずい雰囲気になった。
視線を泳がせていた彼の目に、彼女が膝の上に抱えているものが、止まる。
「・・・げ。」
あ〜しまった、と彼はバツの悪そうな顔で天を仰いだ。
「見つけちまったのかよ・・・。」
それは、彼が、この世から消え去る自分を覚悟した時に隠したものだ。
面と向かっては渡せなかった。
その代わり、いつの日にか彼女の手に渡るようにと、忍ばせていた手紙だ。もしも、生き延びることがあったなら、必ず人目に晒される前に、取り戻しておこうと思っていたものでもある。
だが、タイミング悪く、その前に見つかってしまったらしい。
「・・・ま、良いか。」
妙に卑屈なところがあるくせに、あまり小さな事に拘らないのが彼の性格だ。
彼はずんずんと部屋の中に入り込んできて、どさり、と床に座り込んでいるティアの隣に腰掛けた。
「しかし、今頃見つけたのか?もうとっくに読んでると思ってたぜ。」
「・・・・・ずっと荷物の整理ができなかったから。」
それは忙しいからではないだろう。
普段から鈍いと言われる彼でも、それぐらいは分かる。
だから、なるべくそっけなく、加害者の立場から言うしかない。
「そっか・・・。」
「ルークこそ。」
ティアは、頬に張り付いた数本の髪の毛を払いながら、彼の顔を見返す。
「なにか用なんじゃないの?」
片付けものをしている、と告げてあったのに部屋に入ってきたのは、自分に用事があるからだろう、とティアは思った。
「いや?ガイが・・・。」
「ガイ?」
「ティアのところに行ってやれって。行けば分かるからって。・・・まあ、こういう事だったんだな。」
「・・・そう。」
「あ〜、ちくしょ!」
がしがしと頭を掻いて、ルークは言う。
そもそも気まずい雰囲気が苦手な彼である。
「笑える内容だろ?あの時はなにか残したくって、これでも真剣だったんだぜ?まさか、こうもぬけぬけと帰って来ちまうなんてな・・・。」
「そんなこと、ないわ。」
静かに、けれどしっかりとした口調で、ティアはルークの言葉を否定する。
「あなたが帰ってきてくれて、皆とっても喜んでる。だって皆、あなたを待って・・・。」
待って。
その先をティアは言うのをやめた。
この後に及んで、理由を他人に置き換えようとする自分の言い方を、妙に卑怯に感じた。
待っていたのは、本当は。
「・・・ずっと待ってた。」
私だから。
「ずっと信じてたの・・・。」
必ず、帰ってきてくれると。
「そっか・・・。」
ルークはそれだけの相槌をうち、まず、目が笑った。それから口元が緩む。
見慣れた照れ笑い。
つられるようにティアも笑う。
「ルーク。」
目の前にあるのは、間違いなく彼を構成するパーツのひとつひとつ。
やっと彼女は。
取り戻した、と思った。
「おかえりなさい。」
fin
|