空が高い。
それは、ルークの周辺を延々と囲むうっそうとした木々の間から見えた、円形の劇場のようだった。
透明で澄み渡り、今いる位置からはまるで手が届かない。
地面に寝転がり、空に向かって左手を伸ばしていたルークは、やがて諦めたようにぱたりと手を下ろした。
当たり前だ。そんなことをしたところでなにかが掴める筈もない。
今のルークには、どんな些細なものでも手に入れるのは容易くはない。
ゆるゆると寝転がっている地面を追って視線を走らせると、すこし離れたその先では、ミュウがこちらに背をむけて、鼻歌まじりにきのこをとっているところだった。
ルークはそれを見て顔を顰めたが、ミュウにとっては好物なので仕方がない。
一心不乱に短い両手を伸ばしているミュウが、お尻をぴょこぴょこと振る様がなんだか可愛くて、ルークは偲び笑いを漏らした。
魔物の気配はなく、地面は太陽の光を吸って暖かく、静かな森の中では、遠くの小川のせせらぎすら聞こえてくる。
ふわり、と心地よい感覚がして、ルークは目を閉じた。
少しだけ、と心に決めて、静かに息を吐いた。
「こんなところで寝るなんざ、相変わらず脳が足りないな。お前は。」
草を踏む足音も荒々しく、アッシュの言葉はそれ以上に激しい。
反射的にルークはぱっと飛び起き、アッシュの声に気がついたミュウが、ルークに駆け寄ってくる。ルークが泣かされるようなことになるとでも思ったのかもしれない。
小さな体で割り込むチーグルの子供に、舌打ちし、アッシュは、来い、と言った。
「・・飯だ。さっさとしろ。」
忌々しそうに吐き捨てると、ルークはもそもそとその場に立ち上がった。
アッシュにしてみれば、その仕草にすらイラつく。
見れば腹が立つ。怒鳴りたくなる。
だから、アッシュはさっさと背をむけて、ルークを視界から追い出した。
今となっては、真っ赤な森と破壊的なほどの熱さしか、ルークは覚えていない。
東ルグニカ方面の森は連日の日照りで空気が乾燥し、たったひとつの火種から一気に大規模な山火事へと繋がった。
遠く大地を隔てた街でもその火の強さは確認でき、大気にはきな臭い匂いが混じり、目の痛みや喉の炎症を引き起こすものが後を絶たないほどの有様だった。
だが、最悪なのはその場にルークとナタリアとティアの3人が取り残された、ということだった。
たまたま行きかった街で、親子連れが立ち往生をしているのをみかね、送っていった帰りに巻き込まれ、帰るに帰れなくなった。
残りの連中は、アルビオール2号機で別行動をしていて、そちらに救出に向かおうにも、10時間はかかるという距離にいた。
たまたま通信が繋がった時に3号機の方が近い距離にいたため、できれば助けに行って貰いたい、と要請を受けたアッシュは現地へと飛び、ギンジが止めるのも聞かずに、いまだ火の勢力が衰えない山の中へと足を踏み入れたのだ。
鋭く頭蓋骨をえぐるような頭痛とともに、その声を聞いたとき、ルークの視界は、目の前が炎の熱風のせいなどではなく、ぐにゃりと揺れた。
助かったというよりも、胸が痛かった。
アッシュは開口一番、他に用はないとでもいうように、ナタリアの安否を確認してきた。
無事だということを告げると、ルークに礼を言うでも、ルークを労わる言葉のひとつもなく、もしもナタリアになにかあったらお前を殺す、とはき捨てる様に言った。
今、彼女の傍にいるのが自分でないことが我慢ならない、というように。
アッシュは本物の騎士だから。
お姫様の為になら、危険を顧みたりしないのだ。
どんなに自分が切望しても、彼に省みられることはけっしてない。それは絶対なのかと自分自身に何度も問いかけてもみたが、この髪もこの顔も彼にとっては忌まわしいものでしかなく、そして唯一別個として存在している性格でさえも、およそ彼の気に入るようなものではない。
諦めろ。
彼はお前のものにはならない。
あの夜を境に何度繰り返しただろう。
しかし何度も夜を越えても、けっしてルークの心はそれを信じなかった。
それが同じ遺伝子のみせる悪あがきなのかもしれなかったが、最後には、結局それが本当のそうなのかどうかを探り、答えも求めて彷徨ってしまう。
どうしたって、同じ答えしかでないのに。
あっと思った時には遅かった。
いや、あっと思ったのですら、後から捏造した記憶だったのかもしれない。
覚えているのは、空に放りだされる感覚と、落ちていく手はなにも掴めず、足掻くことすら諦めたこと。
気がついた時、ルークは草むらに横たわっていた。
目を開けると心配そうに覗き込んでいるミュウの顔が視界いっぱいに映って、なぜ自分がそこにいるのかわからなかった。
そして、その寸前に自分が崖から落ちた記憶は、その後しばらくの間抜け落ちていて、取り戻すまでに1週間はかかった。
もっとも取り戻したのは、嬉しくもない記憶で、なくしてしまったほうがいっそ良かったと今でも思う。
声と一緒に。
「ご主人さま。見てくださいですの〜。」
鈴の音が転がるような声がして、ミュウがたんぽぽの綿毛を手に振り返る。
これ以上遅くなれば、アッシュの機嫌が悪くなるのはわかっているが、自慢げに自分の発見したものを主人に見せるミュウのけなげさを無碍にはできなかった。
ルークはにこり、と笑ってミュウの頭を撫でると、綿毛を受け取っていっきに息を吹きかける。
とたんに舞い上がる種を追って、ミュウはきゃっきゃとはしゃいでいた。
その姿は別に計算した訳ではないだろうが、見る者を和ませる。
「ご主人さま、綺麗ですの〜。見てくださいの〜。」
舌足らずの言葉の下には、元気になって欲しいという切なる願いも込められている。
崖から落ちたとき、ルークの肩に乗っていたが故に、巻き添えになったチーグルのこどもはそれに不平不満を言うではなく、事故のショックが主人に齎した不幸に心を痛めてくれている。
ルークはしゃべれなくなっていた。
実を言うと、ルークはなぜ、アッシュもここにいるのかがわからない。
自分が崖から落ちた時のことは思い出したものの、気を失っていたが故にその後の記憶はないし、草の上に横たえ、切り傷やら擦り傷やらの消毒も、アッシュがしてくれたのだろうとは思うが・・・どうしてアッシュは自分と同じ崖の下にいるのだろう。
そう何度も頭のなかで疑問が湧き上がっているのだが・・・。
「なんだ?」
じっと見つめていると、アッシュが不機嫌にルークを睨んだ。
俺の作った飯が食えないってのか?とその顔は言っていて、ルークは慌ててアッシュがつくった、ホワイトシチューを口に入れた。
ルークはミルクが飲めない。だが、こうして野菜と煮込むと美味しく食べられるから不思議だ。
ルークはにんじんも嫌いだが、アッシュも嫌いだから、シチューの中には入れられることはなく、残すと怒られる今までの状況を思えば、喜ばしいことではある。
いや、怒られなくっても、嬉しい。
まさか、アッシュの手料理を食べられる日がくることがあるなんて。
じっと手の中の皿を見つめていると、大きな溜息がした。
「・・・さっさと食え。」
飾っておく気か?と呆れたような声で言われ、ルークは、ぱくん、とスプーンを口に入れる。
舌の上に乗る、ほのかな甘みと、熱さとを楽しみ、そのまま飲み込んでしまうのすら惜しむ。
ゆっくりと時間をかけて食べるルークに、アッシュはなにも言わなかった。
心の中では、バカじゃねぇのかこいつ、くらいは思っていたのかもしれないが、多少なりとも話せなくなったルークを不憫に思っているのか、いつもの数秒単位で飛んでくる罵声も、今は成りを潜めている。
あ、そうだ、というようにルークはアッシュを見て・・・その視線に気がついたアッシュが目をあげた時、ルークは小首を傾げた子犬のような表情で、アッシュを見ていた。
誰が見ても、なにか用がある、という態度だ。
「なんだ?」
アッシュが問うと、ルークは腕を伸ばし、薪にしていた細い枝の、まだ燃えきれていないのを炎の中から取ってペンにしたて、土の上にざらざらと書いた。
どうして。
「・・・・・。」
アッシュは文字を目で追った。
ルークの字を読んだのはこれが初めてだったが、少し丸めでクセがあるが、意外にも読みやすい字で、アッシュのそれとは似ていなかった。
利き手が右と左とで違うのだから、当然なのかもしれないが、どこまでも一緒と言われる完全同位体でも、やはり操る文字には個性が出るのだ、とぼんやりと思う。
どうして、アッシュも一緒に崖の下にいるんだ?
「・・・・・。」
訊ねられたことに、素直にアッシュは答えられなかった。
アッシュがここにいるのは、落ちたルークを追って、自分も崖から降りたからだ。
ルークはなにも言わない。
こいつの性格からして他人を責めないのは分かっているし、被害にあったとはいえ、大声で他人を非難しないところを潔いと思いつつも、自分に対する卑屈なのかもしれないとも思う。
過度の卑屈は、人によっては嫌がらせ以外のなにものでもないのに、彼のレプリカにはそれが分からないようだった。
そして、それが世界をありのまま受け止めようと覚悟を決めた子供のけなげさと解釈できるほど、アッシュも大人ではなかった。
ルークが崖から落ちたのは、アッシュが、倒れてきた木からナタリアを庇おうとした時、そこにいたルークを突き飛ばしてしまったからだ。
しまった、と思った時には遅かった。
ルークの体は、吹き荒れた熱風に煽られ、バランスを崩して下へと落ちた。
己と同じ重さがある筈なのに、ルークはまるで舞い上がる火の粉のように、ふわり、と咄嗟に伸ばしたアッシュの手をすり抜けた。
落ちる瞬間、ふたりの目があって、その時アッシュの腹から湧き上がったのは、言うなれば、恐怖に似ていた。
後の事はいちいち細かくは覚えていない。
ただ、ルークの着ていた服の白さだけは、今でもそこに画像が浮かんでいるかのように目の奥に焼きついている。
「・・・・・お前なんぞに、貸しをつくりたくなかっただけだ・・・。」
アッシュが顔を背けると、視界の端に、眉を下げて笑う己のレプリカの顔が映った。
相変わらず、頭がおかしいのではないかと思う。
あやうく殺されかけたくせに、その相手に向かって笑っているなんて。
すぐにルークの仲間に合流できると踏んでいた読みの甘さを、彼らは痛感していた。
落ちた場所は、山火事が起こった森よりもさらに木々がうっそうと繁り、アルビオールは着陸できるような場所はなかった。
そのうえ、どういうことなのか磁石が利かない。
方位を探ろうにも、どちらが北でどちらが東なのかを判断することができなかった。
しかたなくアッシュは、焚き火で残った墨を袋につめ、歩いてきた方向に印をつけながら、ただひたすら、まっすぐに進むよう、心がけながら進んだ。
陸での漂浪生活も一週間になる。
ルークもミュウもそれなりにアッシュの役にたった。
言葉をなくしたルークは、今までの無鉄砲ぶりが成りを顰め、代わりのように周囲の気配に敏感になっていた。
カサリ、と遠くで草が鳴る音にも、少しだけ変わった風にも気がつく。
そしてそれは大概の場合、魔物と行きかうまえぶれであることが多かった。
ルークが立ち止まり、それに気がつくと、あっしゅさんまものですの、とチーグルの子供は知らせる。
1度目はなにも考えずに大声で騒いで知らせ、逆に魔物を呼び込んだことで、アッシュにこっぴどく怒られてからは、ミュウも小声で話すということを心がけている。
魔物がくると分かっていれば、身を潜めて行き過ぎるのを待つことができる。
今更、森で出会う魔物ごときで、てこずるふたりではなかったが、それでも無駄な体力の消耗を避けるべきなのは明白だ。
・・・いつになったらこの森から抜け出せるか、わからないのだから。
ルークの料理はお世辞にも美味しいとはいえなかった。
お前にやらせるのは材料の無駄だと言って、アッシュはルークにはやらせなかった。
こんなに時間がかかるとは露ほども思っていなかったくせに、いつも手にしていたナップザックを咄嗟に掴んで飛び降りた自分の判断を、今では褒めてやりたいくらいだが、それでも入っていた食材は少ない。少しも無駄にできない。
そんな状態で、ミュウがきのこを拾ってきた。
屑のペットにしちゃ上出来じゃねぇか、とアッシュが言うと、ミュウは嬉しそうにきゅうきゅう言ってうざかったが、手柄は手柄なので黙らせるのはやめた。
大きなかさのそれは肉厚で、焼いて塩をふるだけで、余計な手間もかからない。
ミュウは生のまま食べるというので、数個を投げて渡し、残りを火であぶってから(火はミュウにつけさせた)先に焼きあがったものを、ルークに押し付けた。
そのまま火に没頭していたアッシュが、自分の分が焼けた頃に、ふと横を見ると、ルークは食べもせず、じっときのこを見つめている。
「・・・なんだ?」
不機嫌そうに声をかければ、ぴくん、とルークの肩が揺れた。
そして、そろそろと伺うようにアッシュを見ると、困ったように笑う。
元より、ルークのなにもかもが気に入らないアッシュだが、ルークのその人の顔色を伺うような態度が最も嫌いだった。
「食いたくないなら、食うな!」
アッシュが言うと、ルークの肩は盛大に跳ねる。
その反応も気に入らない。
これでは自分が、無防備なこどもを一方的に怯えさせているようではないか。
「気に入らないなら、気に入らないと、そう言え・・・!」
続けて怒鳴りつけようとしたアッシュは、そこではっと口を閉じた。
ルークはじっとアッシュを見た。
その目が心配そうに揺れているのを見て、こいつは口が利けなくなった分、表情が読みやすくなったな、とアッシュは思った。
けれど、果たしてそれはそうだろうか。
アッシュが、今までルークを見つめたことなど、ほんの数回しかない。
そのわずかな回数で、ルークの表情にいちいち気を留めていたことなどあるだろうか。
いつだって、ルークの自分に向ける表情は困惑と、恐れと、その他ないまぜになったものばかりで、その奥にかくれている心情までは読み取れることはない。
そもそも知りたいとも思わないが、しかし、ルークのことをそれで判断できるほどの数でもない。
どれだけ、そのままじっとしていただろう。
今度は、見詰め合っていたことに気がついて、アッシュははっと我に返った。
今、ルークはなにも言えない。
だからこそ、怒鳴りつけることでその場の雰囲気を変えるようなやりかたは気が引けて、アッシュはルークから目を逸らすと、
「・・・・・とりあえず、食え。」
とだけ言った。
ルークがそろそろと、きのこに口をつけるのが視界の隅に入った。
その様子を、アッシュはそっと伺い見る。
ルークはゆっくりと食事をする。
まるで、その一口が、最期の晩餐でもあるかのように、大事そうに、大切そうに。
「みゅ?」
と首を傾げる仕草で、ルークを見上げ、ミュウがくりくりとした目を動かした。
「ご主人さま、偉いですの〜。いっつもきのこ残すのに、今日は食べているですの〜。」
「・・・なんだと?」
おいコラ、ブタザル!とアッシュが怒鳴ると、ミュウは、普通に・・・怯えた様子も驚いた様でもなく・・・はいですの?とアッシュのほうを向いた。
ブタザルが自分のことだとわかるヤツもどうかと思うとアッシュが思ったかどうかはさておき、さきほど、聞き捨てならないことを、この魔物は言っていなかったか?
「こいつが・・・なんだ?」
「みゅ?なんですの?」
「今、こいつがきのこをなんとかって言ってただろうが!」
アッシュの怒鳴り声に首をすくめたのはルークのほうで、ミュウはむしろ、嬉しそうにそうですの〜と甲高い声で言った。
「ご主人さまは、きのこが嫌いですの。ぼくはきのこが好きですの。だからいっつもご主人さまは、きのこをぼくにくれるんですの〜。」
でもそうするとティアさんに怒られるですの〜と続いたミュウの言葉は、アッシュにはどうでもよかった。
アッシュはルークを見た。
ルークはいまにも怒られると身構えているが、その手にはしっかりときのこを握っている。
嫌いなら嫌いとそう言え、とはもはやアッシュには言えなかった。
そんなことを聞きたいのではなく、言葉が通じないゆえのコミュニケーション不足の改善を図ろうというのでもなかった。
どうして。
「なら、どうして、てめぇは・・・・・。」
さきほど視界にうつった時、きのこを齧るルークはどこか幸せそうだった。
とても嫌いなものを口にしようとしている人間の表情ではなかった。
それは何故だろう、とアッシュは思った。
・・・こいつはわからないことだらけだ・・・。
炎の熱さで気管が焼けそうだった。
むっとした空気を吸いこむのが辛く、ルークは喘ぐ。
目の前には、熱せられた空気が歪み、周囲から立ち上る僅かな水分も蒸気に変えていく。
ルークは手を伸ばし、助けを求めるようにもがいた。
指先はなにかに触れ、それを必死で掴もうと力を込めた。
とたん。
パシン!と手が振り払われるような音がして、体が宙に浮かぶ。
ゆっくりと落ちていく視界の中で、炎にまかれながらも、一層鮮やかに際立つ真紅が映った。
ああ、そうだ。
ルークは思った。
俺は、彼に突き落とされたのだ。
だって・・・・。
俺は死んだって構わないんだから・・・・・。
「―――――――――――――っ!!」
声にならない悲鳴をあげて、ルークは飛び起きた。
喉の奥は、未だに焼けた空気が纏わりついているかのように熱く、必死に息を紡ごうとするたびに、強烈に痛んだ。
ごほっごほっと咳き込みながら、ルークは額をつけるようにして、地面を這った。
空気を吸い込むよりも吐き出す量の方が多く、あまりの息苦しさに、涙が体を支える手の上にも、湿った地面の上にもこぼれ落ち、それを見た途端、みじめさで、また別の涙が流れる。
ひゅーひゅーと風が鳴るような音をさせて、息を整えようともがいていた時、
「・・・おい。」
かけられた声に、ルークの体は、びくん、と跳ねた。
ばっと体を回転させると、目の前に炎があった。
アッシュの姿を捉える前に、炎に視線を奪われ、呪縛のように外すことができない。
ゆらゆらと揺れる光は、夢の中の山火事をそのまま髣髴とさせた。
「・・・・なにしている・・・。」
困惑気味に眉を顰めて、ルークを見つめているアッシュの口元は、一瞬、違う言葉を紡ぎかけたが、実際に出たのはいつものそっけない言葉だった。
ルークは、肩で息をしながら、ようやく炎からアッシュを見た。
夢のなかと、寸分違わぬ姿と、表情。
これが現実なら、自分と一緒にいる彼は偽物だろうか。
これが夢なら、またどこかに突き落とされるのだろうか。
いつもなら、いつまでもその視界のなかにとどめておきたいと女々しくも願うその姿を今は直視できず、ルークはすっと目を逸らす。
アッシュは眉間に皺を寄せると、イラついたように立ち上がったが、その動きに反応してルークの体がびくんと跳ね、さらにそれがアッシュの怒りを煽った。
どかっという表現が正しいほどの乱暴な足取りで、アッシュはルークに近づく。
ルークは、自分の両肩を手で抱きこみ、逃げこそしなかったが、それでも見るからに身を竦めた。まるで、アッシュに殴られるとでも思っているようだ。
いくらなんでも、アッシュはいきなりルークを殴ったりなどしない。
別段、信用などして欲しくもないが、ここまで怯えられる覚えもない。
怒鳴っている訳でもなく、ただ近づいただけだ。さきほど、酷く魘されていたから、それを心配して・・・。
・・・心配?
自分の考えに呆れて、アッシュは自嘲した。
この屑が、この出来損ないが、どうなろうと知ったことではないくせに、目の前で怯えられると気分が悪いなど、ずいぶんと自分も甘くなったものだ。
しかし。
『埒があかねぇな・・・。』
なにがあったと聞くことくらいは別段おかしなことでもない。
図らずも一緒に行動している以上、具合でも悪くされたら足手まといなことこのうえない。ふたりで戦える今なら、魔物に遭遇してもたいした危険を感じないが、こいつに倒れられたら、それもしんどい・・・。
なにを考えている、とアッシュは首を振った。
無意識のうちに、さきほどからでてくるルークに対する見解は好意的なものばかりだ。
こいつがいようがいまいが、魔物相手に梃子摺るほど、ヤワな鍛え方をしてはいない。
ふと我に返れば、ルークは相変わらずアッシュを見ていなかった。
まるでそこに注目すべきなにかがあるかのように、一心に炎を凝視している。
ルークは、会えばいつでも饒舌だった。
時には、口を挟む暇もないほど、捲くし立て、アッシュの考えを乱しては、腹を立てさせていた。
そのルークが、しゃべらない。
声が出なくなったことで、まるで別人のように、ルークは、アッシュのなかのルークの姿を変えた。
ルークが今、なにを考え、なにを思って、なにを伝えたいと思っているのか。
口がきけなくなった彼の様子からは伺い知ることはできない。
そう思った瞬間、己の愚かさに、アッシュは近くの木を殴りつけた。
アッシュのいきなりの行動に驚いて、ルークがびくぅと震えたが、それは怒鳴られることの危惧にではなく、アッシュの奇行に驚いたからだった。
『俺は・・・バカかっ!』
確かに他人の思考など伺い知ることができないが、自分たちは違うではないか。
「おい、屑!」
アッシュが振り返ると、ルークは疑わしそうな目で見返してくる。
「回線、繋げるぞ!」
思えば、初めからコレを使えば良かったのだ。
今まで、なぜか思い浮かばなかったことに自分で腹をたてながら、アッシュがルークの方に神経を集中しようとすると。
「・・・・・?」
ルークが頭を抱えていた。
チャネリングの時の頭痛は知っていたし、それに耐えているのかと思いきや、それにしては様子が変だった。
それはどこか必死さを感じさせるほどで、目をきつく閉じ、耳を塞いで、まるで世界と自分とを分断してしまおうとしているかのようだ。
アッシュが訝しみながらも、頭の奥底に、一本の線をイメージする。
それが空に伸び、周辺へと広がりながら、後頭部が熱くなるような気がし出した時・・・
お前なんか嫌いだ!!
「!?」
お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか嫌いだ!!お前なんか・・・・・!
吐きかけられる呪詛の言葉は、耳から聞こえないからこそ、目の前にレプリカの発しているものに間違いがなく。
そう思った途端、アッシュは、カッと頭に血が上り、ルークの胸倉を掴むと、殴りつけていた。
ルークが地面に倒れこんだが、アッシュに対して向かってこなかった。
それでも怒りは治まらず、尚も首ねっこを掴んで引きずり起こし、続けて殴ろうとした時、騒ぎで目を覚ましたらしいミュウが止めに入った。
やめてくださいですの〜!やめてくださいですの〜!と必死に訴える姿に、未だに腹の虫は治まらないものの、地面に投げつけるようにして、ルークを離す。
ルークは地面に転がり、口の端は切れて血が出ていたが、アッシュに視線を預けることもないまま、それをぬぐった。
ご主人様だいじょぶですの〜?とミュウの心配そうな声と、アッシュが肩で整える息遣いと、炎の爆ぜる音がその場に響き、静かでどこか重い、森の中の夜のしじまに、一瞬だけの騒々しさを齎した。
「・・・俺は寝る!」
今度はてめえの番だからな!と吐き捨て、アッシュはその場で乱暴に毛布をかぶって、ルークに背を向けた。
横になったからといって、今の状態で眠気などくる筈もなかったが、もそもそとルークが起きだしている気配と、みゅうみゅう泣くチーグルのこどもの声が、アッシュを一層苛立たせていた。
何時間たっただろうか。
ふ、と静かな気配にアッシュは体の位置を静かに変え、そっと炎の向こうを伺い見る。
「・・・寝てたら見張りにならねぇだろうが。」
やはり屑は屑だな、と吐き捨てるものの、それを聞くべき相手は今はいない。
それでもきちんと、見張りをする気だけはあったのだろう。
ルークは木にもたれかかり、肩膝をたてた体勢で、眠っていた。
付き添っていて、自分も睡魔に襲われたのだろう。チーグルの子も、その足元で丸くなって寝ている。
「・・・・・。」
自分の怒りの原因は間違いなくルークにある為、いたたまれない気持ちにはならないが、それでも、いきなり殴りつけたことは、頭が冷えた今となっては、バツが悪い。
そもそも、なぜ、自分はあそこまで腹を立てたのだろう?
アッシュは音をたてないように立ち上がった。
静かに傍に行き、ルークの顔を見る。
よく見れば、そこには泣いてでもいたのか、涙のあとらしきものが頬の上を走っていた。
男が泣くなどと、己のレプリカの脆弱さに嫌気がさすものの、それでも、その原因がなんなのか、アッシュは皆目検討もつかなかった。
そもそも。
チャネリングなどいつものことだった。
あの時、流れ込んできたルークの思考は意図的で、必死にその言葉だけしか考えないようにしていたとしか思えなかった。しかし、そもそも人間は同じことだけを繰り返し考えながら生きる動物ではない。
なぜ、そんなことをする必要がある?
そしてアッシュは、ふと、ルークは自分に対して隠しておきたいことを胸の中に秘めているのでは、と思いついた。
そっと目を閉じ、アッシュはルークの額に自分の額を近づける。
試したことはなかったが、このチャネリングは、お互いの額と額がぶつかるほど近ければ、ルークの頭痛が軽減されるような気がしてならなかった。
いつものように、なにかを無理矢理つきぬけるような感覚ではなく、異なる色のふたつの液体が交じり合うようなそんな感覚がした。
アッシュはルークのなかに進み、その奥へと、本人に気がつかれないように入り込む。
アッシュのまぶたを閉じた目のなかに、歪んだ映像が映りこんでくる。
いくつもの、本来のものではない、カタチを残しているもの、残していないもので構成された辻褄のあわない映像のなかから、自分の姿を見つけたとき、アッシュは驚いて目を開いた。
「・・・なっ・・!」
ルークの閉じた目から涙がこぼれた。
額を離し、ルークの顔を見て、アッシュは信じられないような思いで、その涙を見る。
たったいま理由は見てきた。
『こいつが・・・?』
頭の中がしびれているような気もするし、壊れてしまっているような気もする。
思考はぐるぐると同じことを考えていて、否定と肯定とを何度も繰り返したが、そのどれもこれもが実感が湧かない。
しかし、なぜかそれがまぎれもなく本物だと確信が持てた。
『・・・・・俺を?』
それは間違いなく動揺だった。
「起きろ、屑。」
呼ばれて、ルークは目を開けた。
がばり、と身を起こせば、不機嫌そうなアッシュの顔がそこにある。
途端に、昨夜殴られたことを思い出し、気まずくなったが、すぐに自分は今、口が聞けないのだと思い出した。
話せる言葉もないのに、今更、気まずいもなにもあったものではない。
その時ばかりは、今の自分が言葉を操れないことに、少しだけ安堵する思いだった。
代わりに、見張りをほっといて寝ていたことを詫びる言葉も伝えられなかったが。
「朝飯はねぇ。」
いきなりアッシュが言うので、ルークはぱちぱちと瞬きをした。
「すぐに出る。支度しろ。」
アッシュは言い、ルークに背を向ける。
気がつけば、いつのまにか炎は消えていて、ミュウが、アッシュさんが火を消して水も近くから汲んできてくれたですの、と説明した。
それでは、ルークはなにもせず、アッシュひとりに押し付けたようなものだ。
ルークはアッシュを振り返った。
アッシュはルークの用意ができたかどうかも確認せず、法衣を纏い剣を腰に差すと、道具袋を手に取っている。
それを見て、置いていかれるとルークも慌てて立ち上がった。
途端、少しだけ足元がふらつく。
起き掛けに立ち上がったことと、朝食を取っていないのだから、当たり前だろうと自分を納得させ、昨日の悪い夢のせいで、心が弱っているのだという仮説は、心の中にしまいこんだ。
顔を上げたとき、アッシュはすでに歩き始めていたから、ルークは慌ててその背を追った。
ルークがふらついた時、アッシュの視線が自分の上にあったことには、気がつかなかった。
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