気をつけることです、と男は言った。
 たとえ贄として捧げられたとしても、それが心底、弱き者とは限らないのです。

 

 

 

 


 街中で、彼がいきなり立ち止まるのは珍しくもないことだった。
 だが、そこは大通りで、多くの人が行きかう道の真ん中であったから、通行人の邪魔になるであろうことを危惧して、ジェイドも立ち止まる。ぶつかる者があるなら、彼を横へとどける為だ。
 他の仲間達は、一番後ろを歩いていた彼らに気がつかなかったようで、なにやら少しだけ騒がしく話しながら、本日予定している宿屋へとまっすぐに歩みを進めていた。
 
 青いマルクトの制服が目立たないとは言わないが、それでも彼の燃える様な赤い髪ほどではない、と思う。
 キムラスカの貴族に多く見られる特徴だからか、彼を通りすがら、一瞥していく通行人もいた。
 しかし、その場に立ち止まったままの彼は、廻りの喧騒も、そこがどこであるのかさえも、きっと、すでに忘れきってしまっている。
 髪とは対象色となる緑の瞳を今は閉ざし、ふせ気味の白い面にはなんの表情も浮かんでいない。
 日頃、子犬のように騒がしい彼の表面は成りを潜め、自らの奥へ奥へと全ての感覚を向かわせているのが見て取れる。
 声を発する事はなかったが、唇が時々、小さく動いていた。
 それは、彼の人と会話をしている事を物語っており、誰もいないにも関わらず、それは比喩ではなく、誠に彼と、彼の人を繋ぐ最大の、そして忌まわしき絆の証明でもあった。

 アッシュとの通信中、ルークはこうして世界を遮断してしまう。
 まるで、他はなにもいらないと言わんばかりに。

 そしてジェイドは。
 いつの間にか、その会話を彼が口に出さなくなったのは、他の誰にも聞かせたくないからなのではないか、とふと、そんな事を思った。
 閉じたまぶたの裏で、果たして彼らがどんな世界を作っているのか、誰も伺い知る事はできない。
 そうして、彼らだけの世界に閉じこもっている時のルークの顔は、いつも、まるで無機質な人形を思い起こさせる。

 否定をする術もない。
 彼らは確かに歪んでいる。

 

    羊は

 死ぬ時に

     目を閉じない

 

 

 

 

 少なくなった備品を補おうと乾いた街に入った瞬間、アッシュは短く舌打ちをした。
 薄く、気配を感じる。
 実のところ、範囲の広さはその時の体調にもよって様々ではあったのだが、同じ街中というほどの近くであれば、わざわざ通信は繋げなくとも、その存在は確実に感じ取れる。
 自分が被験者故か、向こうは感じ取れないようだった。
 こういう場合の選択肢は、みっつ用意されていた。
 その街から去る。顔をあわせないですむ様になるべく宿なりなんなりに篭る。こちらから接触する。
 もっとも、プライドの高い彼が自分から相手を避けるようなことをしたことはなく、だからと言って、用事でもない限りは接触もせず、相手がどこにいようが気にしたことはない。なので、同じ街にいようがいまいが別段、変わりがない事なのだ。
 ただ、鬱陶しいとは思う。
 空気の中に混じるその気配に。傍に、あの存在がいるとチラとでも思わされることに。

 もう一度、短く舌打ちをし、アッシュは歩みを進めた。
 機嫌は下降気味だったが(もともと機嫌の良い時などないが)足取りに迷いはない。一定のリズムを刻むような歩調と、それにあわせて揺れる真紅の髪は、土埃が舞い、薄く汚れた空気の中においても、確かな存在感でもって周囲の喧騒を無言で押し返していた。
 アッシュの姿を、建物の陰から、店先のガラス越しに、遠巻きに見つめる人々の視線は、ひとつふたつという数ではない。
 別段、目立つ格好や仕草をしている訳でもないのに、まるで吸いつけられるかのように、人々は視線でアッシュを追う。まるで甘い残り香についていく蛍のようだ。
 
 薬草と、旅の下でも持ちの良い乾物でも手に入れようとテントの店先に視線を走らせると、籠いっぱいに詰め込まれた、干した杏の山が、色鮮やかにアッシュを誘った。黄色よりもむしろ赤に近いオレンジ色。その色に、目を奪われ、ふと足を止める。
 思わずそのひとつを手を取ると、足を止めた客の気配に、店主が顔をあげた。
 籠の向こう側から見上げた相手の容姿を目にして、店主は宝石のように美しい髪だと思ったが、もちろんそんな事はおくびにも出さず、どうですかお客さんうちの店のは美味いですよ、とセールスの常套句を口にした。
 アッシュはそれを聞いてもいなかった。なんの関係性もない人間との会話ほど面倒臭いものはない。

 水分をなくし、大きな皺をつくった杏の表面には、浮き出た糖分が白く粉をつくっていた。味見を勧められるままに口にすれば、すっぱくほのかに甘く、しっかりと弾力のある歯ごたえも悪くない。
 なによりも、色が良いと思う。オレンジというよりも、朱色にすら近い。
 
 一山を紙袋に入れて貰い、料金を払って、そろそろ今夜の宿を探そうと、アッシュは路地へと足を向けた。
 こういう小さめの街は大概、バザールなどが出る大通りより一本奥へ入った道沿いに安宿が連なっていることが多い。
 紙袋を片手に路地裏へと向かうアッシュを、追いかけっこでもしているのか、走る子供たちが追い越していった。子供の足が巻き上げた砂が埃となって舞い上がり、目を細めてそれをやり過ごすと、アッシュは子供たちと同じ方向に、角を曲がった。


「あ。」

 すでに子供たちの姿は見えなくなっていた。
 その代わりにアッシュは、出会いたくない、と思っていたまさにその張本人にぶちあたっていた。
 その後ろから、さきほどの子供たちの長く高い歓声が聞こえてくる。どうやら、誰かが鬼に捕まったらしかった。


「アッシュ!」
 出会い頭から目を輝かせ、指先でアッシュを指してルークは嬉しそうに声をあげた。それこそ、鬼ごっこの鬼を見つけた子供のようだ。
 どうしてこいつはいつも、こんな風に無防備に自分に対して笑うのか。
 ルークの笑顔を見て、アッシュの不機嫌は、一瞬で最高潮まで達したが、相手にそれを気にしている様子はない。
 大きな瞳を嬉しそうに何度も瞬かせる(こいつが大きな瞳でも、俺のは断じて違う!)ルークに、わざと聞こえるほどの大きな舌打ちをして、アッシュは身を翻した。
 そのまま、足早に歩き出す。
 宿を探すつもりだったが、急に面倒になって、どこかで野宿でもするか、と思った。
 こいつの近くに宿を取るくらいなら、その方が何倍マシだ、と。
 
 しかし、その分かりやすい拒絶の反応も、ルークには通じなかった。
 あれだけアッシュに冷たい反応をされ続ければ誰でも慣れるよ、とルークは以前に笑いながら言ったことがあるが、普通、拒絶の意志に対して悟るのは、近づかないほうが身のためだという教訓だろう。
 しかし、ルークは、纏わりつく子犬のようにアッシュの後を追ってくる。

「待てよ、アッシュ!」
 大きく離れもせず、しかし触れるほど近くもない距離を保ちながら、アッシュの後ろを歩きながら話しかけてくる声は、止めどない。
「アッシュも、この街に滞在してたんだ?」
「してたら悪りぃのか!?」
「近くにいるんなら、連絡してくれれば良いのにって言おうとしたんだって!」
 誰が用もないのにするか、と言い捨てて、アッシュはルークを引き離そうとするが、同じ歩幅の相手が同じスピードで追ってくるなら、それも敵わない。
 ルークとくれば、そんな態度におかまいもなく、そっちには宿ないぞーと余計な事を言う。
「うるせぇ!」
 俺に構うんじゃねぇよ、屑!と怒鳴り、アッシュは左に曲がろうとしたが、ルークを引き離そうとしていて、急に方向を変えたのが災いした。
「あ。」
「・・・ちっ。」
 アッシュの肘は建物の角に当たり、その拍子に紙袋が手の中からすべり落ちる。
 ガサっと、軽い音をたてて地面に落ちた紙袋は、口を折っていたことが幸いして、中身がこぼれることはなかったが、アッシュが拾うよりもすばやく、ルークが反応をしていた。
「はい。」
 にこにこと笑いながらルークが差し出す紙袋を、アッシュは奪うようにして受け取る。拾って貰った感謝もなく、むしろ余計なことをすんじゃねぇよ、と怒鳴りつけ、そのまま踵を返そうとして・・・がくん、と手を引かれ、アッシュは先に進めなかった。

「あれ、アッシュ?」
「なにしてやがる、てめぇは!」
 アッシュの右手を握って離さないルークを睨みつけても、ルークはアッシュの顔など見ていなかった。
 代わりに、アッシュの右手をまじまじと見つめている。
「どうして今日は、手袋してないんだ?」
 暑いからか?と無邪気な子供のような顔が、首を傾げる様を見せられても、相手が男では可愛くない。
 しかも、ルークは言葉で返って来ることを期待もしていなかったらしく、返事を待たずに視線をアッシュの手に戻した。
「・・・あ!」
 それを見つけて、ルークが声をあげる。
「どうしたんだよ、この傷!」
 アッシュは大きく舌打ちした。
 それは、数日前に、モンスターとの戦闘の際に、つけた傷だ。
 手首から肘へと一直線に走るその傷は、たいして深くはなかったが、しかし、モンスター如きの戦闘でつけたことを、アッシュは恥だと思っている。
 アッシュは自分の手をルークから取り返そうとした。
 振り払う為に力を入れて横に振り、それで手はルークから離れる筈だった。
 しかし、それを察したルークが、しっかりと握り直す方が先だった。
「離せ!」
「ちゃんと手当てとかしないと駄目じゃん!」
「・・・してる!」
「嘘だぁ。だって包帯もなにもしてないじゃん?」
 消毒はしてが(手袋を外していたのはその為だ)それだけで放置していた事を言い当てられ、アッシュは余計に不機嫌になった。言い当てられたら言い当てたで腹がたつが、怒鳴られて大人しく引き下がられば、それはそれで腹がたつのだ。なんという面倒臭い相手なのか。
「てめぇには関係ない事だろうが!」
「関係なくもないだろう〜。それにアッシュには治癒師がついてないんだしさ!」
「だからなんだ!」
「俺に手当てさせてよ!」
「死んでも、ご免こうむる!」
 しかし、ルークは聞いてなかった。
 もう一度振り払おうとこめた力を相殺するように、ぎゅっとアッシュの手を握り・・ルークは。

 アッシュのその傷に、唇を寄せた。

「・・・・っ!」

 正確にいえば、子供の知恵ゆえに、舐めれば治るという世迷言を信じていたからかもしれない。
 それだけでたいした意味もなく、ただ、その方法しか思いつかなかったから、なのだろう。
 しかし、目を閉じ、赤く引かれた一筋の傷に口付けるルークは、清き祈りを捧げているかのようで、湧き出でる泉の水のごとき絶えまない敬虔さを持ってして、確かにアッシュの手首に触れていた。まるで彼を信仰しているかのように。
 
 閉じられている赤い睫毛は長く、白い頬の上に影をつくっていた。自分も目を閉じれば同じような影を頬の上につくるのだろうか、とどうでも良いことを思い、
『・・・・っ!何を考えてやがる!』
 アッシュは自分自身に嫌悪を覚えた。
 その一瞬、まるで自分が見惚れていたかのようだ、と思ったからだ。

 その時、アッシュの心の声が聞こえたかのように、ルークがはっとして顔をあげた。
 握手するようなカタチで絡まっていたルークの手のひらは熱く、アッシュの親指をきつく握り返してくる。まるで離すまいと縋りつくように。
「・・・なんだ?」
 いきなり切羽詰ったように自分を見つめるルークの表情に、アッシュは怪訝な声をあげる。
 付け根を握られた親指は地味に痛かったが、それでも、嫌々ながら覗き込んだルークの瞳の中に見つけた色の意外さに、そんなことも一瞬忘れてしまっていた。
 ルークの緑色の瞳が揺れている。
 世界の崩壊をなにもせずに見ているしかない巫女のように、透明な絶望がそこには浮かび、嘆きと悲しみがない交ぜになったような瞳でアッシュを見返してくる。
 そんなルークに、アッシュは眉を顰めた。鬱陶しいと思うよりも怪訝さの方が先に立った。それくらいに、ルークの態度はいきなり変貌していた。
 その視線は、アッシュの瞳を髪を首筋を胸のあたりを、なにか欠けていないか探すかのように何度も行き来を繰り返し、最後にはアッシュの瞳に戻り、呆然とそのまま見上げてくる。
 完全同位体で同じ姿のふたりなのに、ルークがアッシュを見上げるなどありえない。
「・・・っおい!」
 ルークはいきなり膝を折った。
 かくん、と糸が切れたマリオネットのように全身を支える力をなくし、地面にひれふしてしまう。
 とっさに手を伸ばしてしまい、しまったと思ったものの、その手を引くほどの余裕がその場面にはなかった。
 ルークは地面を見つめている。
 ただ一心に、そこになにかが落ちているかのように。
 しかし、アッシュがその視線の先を追っても、そこには当然のようになにもなく、しばらく地面とルークの顔を何度か見比べて、アッシュはルークに声をかける。
 どうした、と言った声は、自分でも驚いた事に嫌悪感が滲むことはなかった。
 アッシュはただ呆然と地面を見つめるルークが、まるで本物の人形になったかのように錯覚した。
 

 

 


 


 ガッ、と固い骨に刃が当たる確かな音があって、血の匂いが辺りに立ち込めた。
 ドゥという音と地響きがして、一頭のモンスターがもんどり打って倒れていくのが目の映ったが、同時に見えた光景に、思わず何も考えないままに、手を伸ばした。どうしようもない焦燥感が原因だったとしても、それを為した事を思えば、ガイは自分に感謝したいくらいだ。
 モンスターが倒れる時、その下にいたルークは、それを避けようとしなかった。
 まるで断罪を待つ咎人のように、悠然と、自分に倒れこんでくる巨大な影を見つめていた。
 
 ああ、またか。
 また、こいつは・・・。

 ガイは自分の手を握り締める。
 ルークの袖を掴み、横へと転がした感触が未だに残っている。
 後一歩、遅ければ確実にルークは倒れるモンスターの下敷きになっていた。
 何キロもあるあの巨体をモロに喰らえば、けっして、怪我をしないではいられない。
 そんなことは、真の子供でもわかることだ。

 

 


「おう、旦那。」
 
 まるで気のぬけた発泡酒のようだ、と彼を見て連想したのは、頼んだ酒を飲みもせずに物思いに耽っていたからだろう。
 頼んでからすぐに目の前に置かれた筈のグラスなのに、薄い琥珀の液体の中には申し訳程度の泡しか立ち上っていなかった。
 今更飲むには遅すぎる。
 ジェイドが一瞥したグラスに目をやって、ガイは苦笑した。
 その表情は暗く、いつでも心配事が絶えない彼でも、流石に疲れていることが見て取れる。

 街外れの一軒の酒場だった。
 わざわざこの店を選んだのは、宿よりも遠いからだ。
 今はただ、あの場所から、彼らの心配の元となっている子供から距離をおきたかった。
 面倒を起こす子供は可愛いというが、今回は度が過ぎている。
 とにかく、頭を冷やす為には遠く離れる必要があった。傍にいるというだけで、あの子供はとてつもない影響力を持ちすぎる。それが俗に言う、甘い、ということなのかもしれない、とジェイドは自嘲した。
 そんな感情を持つような事態が、他ならぬ自分の身の上に降りかかる日がこようとは。
「まったくなんて顔ですか。」
 自分の事などそしらぬ顔で、ジェイドは言い、カウンターの前に立っていた身体を左にずらした。
 そこへ入り込むようにしてガイは並び、お互い様だろ、と言う。
「そう言うあんたも時化たツラをしているよ。」
「まさか。私はいつもこういう顔です。」
「まったく、ああ言えばこう言う・・・。」
「それも元からです。」
 茶化すようにしてなんの実もない2、3の言葉を交わし、そのままふたりは黙った。
 同じものを、とそっけなく言うガイの声は、どこか投げやりさを含んでいて、心底お酒を楽しむ為に、ここへ足を向けたのではない事を物語っている。
「ルークのやつは・・・。」
「ええ。明日以降もあんな事があれば、仕方ありません。即、前線から下げましょう。」
「・・・だよな。」
 ガイの発した溜息は重く、重力に引かれるまま、床に落ちていってしまいそうだった。

「・・それで、ルークは今?」
「ん、ああ。ティアとナタリアのおかげで、傷はふさがったようだ・・・。けど、あれは・・・。」
 ガイが言葉を濁したのと反対に、ジェイドはなんの感情もない声でその続きを口にする。
「まるっきりの自殺行為にも、等しい。」
「・・・ああ・・。」

 ルークの戦い方は、もともとは無鉄砲だった。
 盾がなく攻撃のみに特化したアルバート流は前衛に相応しい流派だが、軍人のジェイドたちと違い、戦いの経験が少なかったルークは、実戦をこなしていくうちに、間合いの詰め方や、攻撃のタイミングを掴んでいくしかなかった。しかし、才能、というものがあったのだろう。一度覚えてしまえば、ルークの戦い方は迷いがない。最近では、彼の戦闘能力をアテにした強硬手段を取ることも少なくなくなっている。
 ともすれば、自分を見失いがちのルークの戦い方に、ティアは駄目出しをかかさないが、それは彼の身の上を思ってのことだ。戦場では、腕があっても、運に見放されたら最後、死ぬだけだ。それを嫌というほど分かっているティアは、だから、ルークに油断の類を決して許さない。
 なのに、最近の彼と言えば・・・。

「まるで、自分を守る気がない。」
「鉤爪を振るモンスターの腕の中に、自ら飛び込むなど、正気の沙汰とは思えない・・・。」
 たしかにそれでトドメは刺せた。しかしもう少し時間と距離をおいても、十分に倒せた筈だ。現に、ルークは鉤爪にひっかけられ、腕を負傷している。そんな即効性のある戦いなど、誰も求めてはいないのに。
 無鉄砲というよりも・・・。
 そこまで考えて、ガイはぞっとした。

 まるで、死にたがっているかのようだ。
 


「一体なにが原因なのかねぇ・・・。」
「・・・・・。」
 それは、いきなり始まった。
 それまでルークはティアの忠告を守り、ジェイドの嫌味に応じ、ガイの心配に応え、きちんと自分と後衛のメンバーに怪我がないように、配慮をして戦っていた。
 それが、ある日を境に・・・崩れた。まるで防壁の決壊を目の前で見るかのように。
「そんなこと、私には分かりませんよ。」
 聞き様によっては、冷たいだけのジェイドの言葉に、悪かったのは自分だと言わんばかりにしてガイは笑った。
 なにか推測できることがあっても、それがはっきりとしない限りはけっして口にしない彼の性格をよく分かっていたのに、ついうっかりと口にしてしまった自分の失態に対する笑いだった。
「すまん。ひとりごとの類だと思ってくれ。」
 そうあっさりと言われれば、ジェイドとしても立つ瀬がない。
 だから、というのではないが、少しばかり考えを披露しても良いか、という気になった。本当に、珍しいことだが、作戦などに関わる問題でもないし、それよりも、ルークの(人間の)気持ちを理解する事が普通にできないジェイドにとっては、ガイに意見を求めることも必要だと思ったのだ。
「・・・前回立ち寄った街に入るまで、彼は普通だった筈です。」
「ああ。」
 それはガイも思い返していたのだろう。間をおかずに返答が返ってくる。
「しかし、その街を出て、ここに辿りつくまでの間に、彼のアレは始まっている。」
「そうだな。」
「となれば、前回に逗留した街でなにかあったと考えるべきでしょう。しかし、前回の街で変わったことなど、別段なかった筈です。」
 これまでも何度も思い返してみていたのだが、ジェイドにはまるっきり覚えがなかった。
 しかし、ガイははっきりと、いや、と言った。
「実は、あった。」
「・・あった、のですか?」
 聞き返すジェイドに、いやあったっていうかさ、とガイは言葉を濁す。
「前の街に・・・実はアッシュもいたらしい。」
「らしい?」
「俺は会っちゃいないんだがね。」
 そう言う言葉がはっきりしないのは、ガイの複雑な心境を物語っているからだろう。
 ガイはルークを通して見るアッシュをあまりよく思っていない。ルークを思いやって考えれば、アッシュという存在は実にやっかいなものに違いなく、しかし、ルークを通さなければ、ガイ自身はそう思う理由を持っていない。ルークと自分をかけ離して考えれば、ガイにとってはまさにアッシュも、幼馴染のひとりなのだ。あえて言うならば、それは仇の息子だということだが・・・それも今更だろう。
「それで、アッシュは?」
 ガイの内面などに興味がないのか、それとも、わざと気がつかないふりをしたのかはしらないが、ジェイドが話の先を促した。
「あ、ああ・・。」
 アニスがな、とガイは続ける。
「俺は会っちゃいないが・・・宿の入り口にルークが落っこちてたって言ってたんだよ。本当にもう、荷物かなにかのように、ぽつんとそこに座ってたって。それで、アニスが声をかけたら、少しだけルークが変だったって言うんだ。」
「それはいつの話です?」
「?だから、前の街の。」
「・・・そうですね。」
 ジェイドが訊ねたのは、どこで起こった話かということではなく、いつガイがその事をアニスに聞いたのか、という意味だったのだが、どうでも良いと言えばそれまでのことなので、あえて、訂正するのは辞めた。
 そんな話題が出ていたということは、やはりアニスも、彼女なりにルークの様子が可笑しくなった原因を考えていたのだろう。
「可笑しかったというのはどのように?」
「なんか、いつも思いつめた時にするような顔してたっていうんだ。声をかけた時の反応はそれなりに明るいものだったらしいが・・・アニスはあれで聡いからな。ルークの表情が冴えなかったって。」
「・・・それで?」
 暗にアッシュはどこに登場するのか、とジェイドが促すと、ガイは苦笑した。
「まあ、そんなに急かさないでくれよ。それで、なにか悪いこと・・・ルークが気落ちするような事でもあったのかと咄嗟に思って、扉から顔を出してみたらしい。そうしたら・・・遠くの角を曲がる赤い色が一瞬、見えたって。」
「赤・・・。」
 ジェイドは自分たちのパーティがその色に対して、通常とは違う反応をする事を自覚している。
 前衛の赤、迷子の赤、いつの間にか心を支配している赤だ。
 赤い色を見る彼らは、さざめく不安に駆られたり、面倒だと溜息を漏らしたり、ほんわりと暖かくなったり、なんの根拠もないのに良い事が起きるような、そんな気分になる。
 だから、たとえ一瞬で視界から消えうせたにせよ、アニスが反応したのなら、それは本当に赤い色がそこにあったのだろう、と推察できる。
「だから、アッシュになにか言われたとか・・・。」
「そうですね。」
 ガイの心配を聞きながら、ジェイドは両手をポケットに入れたまま、カウンターに寄りかかって窓側を見ていた。
 薄暗い街灯が道を照らしていたが、明るい室内にいればそれほどよく見える訳でもない。
「けどなぁ・・・。」
 そう言った後、首をひとつ振ってガイは先ほどの自分の言葉を訂正する。
「・・・やっぱり、それも今更だな。アッシュがルークにつっかかるのは今に始まったことじゃない。最近ではルーク自身、そうでなければアッシュじゃない、なんて言ってたくらいだしな。」
「・・・では、本人に聞いてみましょう。」
「え?」
「今。」
 ジェイドは窓を指差す。
「窓の向こうをアッシュが通りました。薄闇の中でしたが、間違いありません。」
 特に、あの赤は目立ちますからね、とジェイドは言った。

 

 


 
 

 町を見下ろせる高台に広場があり、そこへと半身を呼び出した。
 どこでも良かった筈だが、密接な距離になる場所を意識的に避けたことを、あいつと同じ空気を吸うのは気分が悪いと言い訳のように口にしながら、アッシュは広場の手すりにもたれかかる。
 眼下には夕暮れを迎えようという民家が並んでいて、まるでマッチ箱を並べた箱庭のようだった。
 
 普段ならたいした用もないのに、顔を見せたりはしないし、見たいとも思わない。

 つい昨日、町へと到着した時、すでにいることは気がついていたが、今度もアッシュは避けなかった。
 普段通りに宿を探し、いつも通りに街角を横断している最中に、接触してきたのは向こうからだった。
 話を聞けば、ところどころで詰め寄られ、謂れのないことで責められているようで気分が悪かったが、それでも困りきっているガイの顔を見ていれば、事の重大さに気がつく。
 レプリカは生傷が絶えない、という。
 劣化してるヤツはまともな戦い方も知らないんだろうよ、と嘲笑交じりに言い捨ててやれば、それでも、とガイは食い下がった。
 あれは、ない。あれは今までとは別だ。どこか投げやりにも見える。自棄にも見える。だけど・・・と言い、一旦、ガイは言葉を切った。なんと言ったら良いか分からないというように。
 だけど・・・どこか恍惚としている時が、ある。
 ・・・恍惚?
 そう、まるでやるべき事を成して、満足しているかのようにな。あいつは卑屈なところがあるが、命に対して、投げやりになるほどの馬鹿でもない。なのに、まるで死の宣告を待っているかのような顔して、立っている時がある。あれは駄目だ。
 ・・どう、駄目だって言うんだ。
 アッシュが聞くと、ガイは困ったような顔で笑って、危険な気がするってことさ、と言った後、ふっつりと言葉を切った。

 同じ町にいればそうと分かるように、近づいてくる気配を感じ、アッシュは高台に続く、緩やかな階段へと目を向ける。
 そこからやがて、短い赤い髪がゆらゆらと揺れながら上がってくるのが見えた。
 呼び出されて歩いてくる己の複製品の姿を、道の向こうに発見した時、アッシュはほんの少しの違和感とともに、ガイの心配があながち、外れていないと感じた。
 それは、いつものようでいて、いつものようでない(アッシュから見ればルークはいつもいじけているか浮かれているかの印象しかないが)どこか、静かな雰囲気を、ルークが纏っていたからだ。
 
「・・ひさしぶり。」
 アッシュの顔を見るなり、にこ、と笑ってルークは言う。
 その声の中に切なさと虚しさの両方の響きが混じっているのを感じ、こいつはいつもこんなしゃべり方をしただろうか、とアッシュは普段のルークの話し方を思い出そうとする。
 しかし、もとから話すのに、注意すらはらっていない相手だ。ぼんやりとしたイメージしか持っていないことに気がついて、アッシュは結局、どうでも良い事だと投げ出した。
「どこがひさしぶりなんだ。」
 前の街で会ってから、2週間とたってないだろうが、といえば、普通それだけ会わなきゃ久しぶりで良くね?と言い返される。
 ふん、と鼻で笑いながらアッシュは、ルークの様子を自分でも気がつかないうちに、伺っていた。見たところ、そんなに変でもないようだ、と。
「ガイに聞いた。」
 脈絡もなく、前触れもなく用件を口にすれば、ルークは口元に浮かべていた笑みをひっこめ、ああ、と短く返事をする。
 言っちゃったんだ、ガイ。よりによってアッシュに話すなんて・・・意外におしゃべりだな、と言うその口調が、やはり可笑しい。どこか、だるそうで、思いつめたような響きがある。

「理由を聞かせて貰おうか。」
 そういうアッシュに対し、
「理由?」
 きょとん、としてルークは聞き返す。
「てめぇが、身の程知らずにも無茶な戦い方をしてる、その理由に決まってんだろ!ガイのやつに俺のせいじゃないかと言いがかりをつけられたんだ!聞かなきゃ気が収まらねぇんだよ!」
「理由・・か。」
 ルークは言い、ちらりとアッシュを見た。
 それはまるで。
 知っているだろう、と言うかのように、
「理由なんて、ないよ?」
 と笑った。
「てめぇ!」
 しらばくれるのも大概にしろ、と怒鳴り返すと、アッシュはルークの胸倉を掴み寄せた。
「ふざけてんのか!?理由もなく、自殺行為そのものの戦い方をするってのかよ!言え!なにを自棄になってやがるんだ!」
「・・・だから、自棄じゃないって。」
 ルークはアッシュに首元を絞められている状態にも関わらず、それでも笑みを浮かべている。
「だってアッシュ。俺は俺の利用価値を見つけた。それを遂行しているだけじゃないか。」
「な・・・に?」
 なんの価値、だと?
「アッシュに対する俺の、価値。」
「俺の・・・?」
「アッシュさぁ。」
 ルークは言った。それはまるで、大切な恋の告白をするかのような声で。
「もうすぐ駄目になるなんて、そんなことないよ?」

「・・・・・っ!」
「俺がさせないから、大丈夫。」

 アッシュは掴んでいたルークの胸倉を放す。
 力が抜けて、ルークの重さを持ち上げていられなかったのだ。不本意ながらも。

「・・・誰から、聞いた・・・。」
 まさかスピノザか?
「いや?誰からも。」
 ルークは言い、アッシュから解放された襟元を正しながら、
「この間、街で偶然、会った時があっただろう?」
「ああ・・・。」
「あの時に、さ。」
 そんな事を言う。
「あの時?」
 なんだ、それは?とアッシュは記憶を遡る。
 確かにルークには街中で会った。手首に怪我をしていて、杏を落として、そして・・・。
「・・っ!」
 余計な方向に記憶が流れそうになり、アッシュはそれを自分で制御した。
 頭をひとつふり、殊更きつく、目の前のルークを睨みつける。
「あの時が・・・どうした。」
「あの時、アッシュ、動揺したろ?」
 くすくすとルークは笑う。
「俺に手首に口付けられて、驚いた?」
「・・・・てめぇ!」
「一瞬、アッシュの気持ちが揺らいだから。だから、伝わってきたんだ。」
 俺にもさ、とルークは言った。
 被験者とレプリカの位置関係は、決して対等ではない。
 被験者であるアッシュができることをルークはできないし、アッシュがコントロールできる通信もルークには制御する術がない。
 しかし、たまに、ごくたまに。なにかの箍が外れでもするのか、それが暴走する時がある。
「その時、アッシュが自分にはもう先がない、って思っているのが伝わってきた。」
「・・・・・。」
「そんなこと、駄目だよ。」
「・・・だからってどうして、てめぇが自棄になるんだ。」
 だから自棄じゃないんだって、とルークは笑い、
「俺、考えたんだ。」
 と言った。
「アッシュがなにをなくしてそうなっちまうのか分からないけど・・・それって代替の利くものじゃないのか?」
「代替、だと?」
「うん、そう。たとえば・・・アッシュの身体が、どこかいかれてるっていうんなら、それをまるごと交換するような事。」
 ルークは笑った。
「俺を使えば良い。」


「・・・・なんだって?」
「俺の身体。使って良いよ?」

 なにを言っている・・・とアッシュは言った。
 ルークの、笑みを浮かべるその表情に薄ら寒いものを感じ、否定の言葉を口にした。
 しかしそれが声になったかどうかは分からなかった。
 これは変だ。歪んでいる。そんなのは俺は望んじゃいねぇ。
 そう思うのに、声が出ない。
 催眠術にかけられているように、ルークの声からは逃れることができず、その瞳の水底が張っているかのような碧の下に、よく知り、そして知りたくもない色が浮かんでいるのが見えた。


 恐怖と、恍惚。


 諦めた時にだけ現れ、一瞬にして消えうせる、蜘蛛の糸のような脆く儚い精神の網目。

 それは。


 戦場で力尽き、今まさに死に逝く、兵士だけが持つもの。

 

「お前・・・。」
 なにを言い出したのか分かった時、頭を殴られたように感じて、アッシュは、ショックを受けた。ショックの原因は、ルークが言った事に対して、自分がそう感じたことにだ。
 口の中が乾いて、言葉がとっさに告げなかった。
 しかし、口にしようとしているのが、気味が悪いと罵倒する言葉なのか、考え直せと命じる言葉なのか、アッシュ自身にも分からなかった。だが、ある事実だけは確固たる現実を持って、そこにある。

 どうでも良いヤツの筈なのに、俺はこんなにも動揺している。


「わかってんのか?」
 唸るようにアッシュは言った。
「死ぬって言ってるも同然なんだぞ?」
 追い詰められていることを、自覚する時の恐怖など、一生、こいつから味わされることなどないと思っていた。
 しかし今、確実にルークはアッシュを追い詰めている。

 ルークが笑う。
 それは無邪気で、なんの屈託もなく、なにか素晴らしいことを口にしたかのように、輝いてた。
 ただそれだけが。
 とてつもなく、怖かった。

「全部、アッシュのものだ。」
 ルークは言った。

 


「初めからアッシュのものだし、初めから俺のものじゃない。」

 

「だから、犠牲でもなんでもなく。」

 

「それが当然なんだ。」

 

「俺が、アッシュの役にたつなんて。」

 

「まあ、俺こんなんだから、アッシュは嫌かもしれなけどさ。」

 

「背に腹は代えられないって言うじゃん?」

 

「それくらいしか俺の利用価値ってないし。」

 

「むしろ、アッシュの為に使えるなんて幸せってやつ?」

 

「なあ、アッシュ。」

 


「アッシュ。」

 

「アッシュ。」

 


「アッシュ。」

 


「・・・黙れっ!」
 
 ルークの手がいつの間にか自分に伸ばされているのに気がつき、アッシュは我に返った。飲まれていたことにぞっとして、勢いでその手を払い、っ!と少しだけ驚いたようなルークの声に、見れば・・・。
「乱暴だなぁ、もう。」
 ルークの手首に、傷がついていた。
 いつかのアッシュと同じような位置につけられた一直線の傷に、アッシュは自分でつけた覚えがない。
 しかし、さきほどまでなかったのだから、原因はアッシュなのだろう。
 自分の手を見てみれば、外していた手袋の代わりに、切り忘れていた爪がわずかに指の腹から顔を出していた。
 アッシュが見れば、ルークの手首からは血が滲んでいた。赤いそれに気がついたルークは、ちらりと笑みを浮かべると、
「駄目じゃんか、もったいない。」
 と言った。
「傷なんて、つけたら駄目じゃん?この身体、いずれアッシュのものになるんだしさ・・・。」
 まるでそれが、ごく自然の当たり前の事であるかのように口にするルークに、もしや可笑しいのは、自分の方ではないのかという錯覚すら、アッシュは覚える。
 それを最後の理性で、否定するようにアッシュは手を握り締め、さきほどルークの手を傷つけた爪を、自分の手のひらへと押し付ける。
「・・・てめぇは、狂ってる。」
「上等だよ。」
 ルークは、それまでと違った薄暗い笑みを浮かべ、自分の手首に口をつけた。
 アッシュと同じ形の唇から赤い舌が覗き、先日、他の街角でアッシュの手首にしたように、自分の血を舐めた。
 その様はひどく蠱惑的で、そして、間違いなく狂ってもいた。
 

 ちろちろと傷を舐めている様を、凝視しているアッシュに気がついて、ルークが口元に笑みを浮かべる。
 舌の赤と、血で汚れた唇の赤がひどくグロテスクで、思わずアッシュは顔を背ける。
 ルークの笑みは尚も暗さを増し、ふと気付けば、アッシュのすぐ目の前にまで、近づいていた。
 息がかかるほどの近さに、思わず息を飲む。
 覗き込んでくるルークの、自分と同じ筈のその瞳には、アッシュ自身の影が映りこんでいる。
 そこに映る、動揺している自分自身の姿がひどく滑稽に思えて直視できず、アッシュは思わず目を瞑ると、すぐ近くで、くすり、と笑う気配がした。
「こんな時に、目を閉じるアッシュの方がよっぽどイカれてるよ。」
 ルークは言い、まあ同じだから仕方ないか、と笑った。
 そして間をおかずに生暖かく柔らかい感触が、アッシュの口唇に降って来る。
 どれほど動揺しているのかは知らないが、気配は感じただろうに、アッシュは避けも、驚きもしなかった。
 身体を拒絶で硬くすることもなく、その行為を黙って受け入れているアッシュに、ルークが内心、ほくそ笑んだ瞬間。
「あ・・・っつ!」
 ルークが短い悲鳴をあげて、唇を離した。
「アッシュ、こんな時に、回線繋ぐなんて、なしだ。」
「まったく、信じられねぇな。」
 まだお互いの息がかかるほどの距離で、アッシュは笑う。
「どこが『他人の為なら自分を顧みない』なんだ。見事に騙されてんじゃねぇか、あの使用人。」
 さきほど、心痛な面持ちで訴えてきたガイの顔が浮かぶ。
 ルークを救うためなら、なんでもしそうなあの青年は、いかにルークが思いやりにあふれた人間になってきたか、アッシュを説得しようとする。
 それがますます、アッシュがルークを疎ましく思う理由になっているとも知らずに。
「お前が、そんな自己犠牲に富んだやつかよ。」
 アッシュは回線の狭間で一瞬見た、ルークの本心を思い出し、は、と笑った。
「結局お前は、表向きの自己犠牲と引き換えに、てめぇの望むものが欲しいだけじゃねぇか。」
 ルークが、本当に欲しがっているものは、アッシュがすでに予想済みのものだ。
「嘘じゃねぇって。全部、捧げるよ。」
 ルークは言い、わかったんだろ?と笑う。
「だから?」
「だから・・・。」
 ルークは手を伸ばし、アッシュの髪を触る。まっすぐな糸のようなそれに指を滑らせようとすると、アッシュは大きく頭を振ってそれを遮った。
 ルークの指からは、ひと房の髪が、その動きを追うようにして逃げていく。
「だから・・・代わりにアッシュが欲しい。」


 予想はできたが、ルークのそれが、当然の結果なのか、愚かな感情なのか、アッシュには結局のところ、判断まではできない。
 帰巣本能のようなものなのか、それともただ単に、親を慕う子供のようなものなのか。

 閉じているはずの回線からにじみ出てくる、自分に向けるルークの憧憬の念は日に日に強くなっている。
 もしもそれが実体化できるものだったのなら、今頃はとっくにアッシュ自身を縛りつけ、窒息させているだろう。
 

「口では捧げるとか言いながら、最後にはおまえひとりが全部持っていくつもりなんだろう?」
 命と存在を賭けているのは、お互い様だ。結局は奇麗事で終わる訳もない。
 自己犠牲と自己満足の違いは、さほどないように、アッシュには思える。
 こうして、ルークという人間を通してみる世界が、歪んでいるせいだろうか。
 それとも、世界の全てがとっくにそんなものに成り下がっているのだろうか。
 

 お前ひとりに断罪されてたまるか、とアッシュは笑みを浮かべ、
「上等じゃねぇか。」
 その手でルークの胸元を掴み、乱暴に引き寄せる。
 ふいに引きづられたことでバランスを崩し、ルークは驚いて、まんまるく目を見開いた。
 その無邪気そうな面で、尊いことを口にしつつもその裏に、薄く黒い欲望を潜ませていることを知っていながら、しかし、それに乗ろうとしている自分も、どうかしていると思った。

 ルークの顎を掴み、首元に手を滑らせながら、胸倉を掴んだ時とを同じくらい乱暴に口唇を押し付けた瞬間、アッシュはふと、杏を口にした時の事を思い出していた。貪るルークの口唇は、同じような感触なのに、甘さもすっぱさもそこにはない。


 それは、自分の血の味がした。

 

 

 

 

 

 

fin

 


 

 

 


 ルク→アシュで、誘い受けというやつです。
 そして、最後アッスは自棄を起こす。 羊は贄の象徴で。

(’08 7.13)