突然、目が覚めた。
夢さえ見た記憶がないが、深い眠りに就けた訳でもないだろう。
その証拠に体はだるく、十分な休息を取ったとは思えない、なんともいえない重苦しさで、吐く息は、たった今覚醒したばかりだというのも、もう荒くなっている。
窓の方角に視線を投じれば、まだ、外は暗いようだった。
だが、どこからか鳥の声が聞こえてくるから、きっともうすぐ白じんでくるに違いない。
強いから、と渋る医者から取り上げるようにして貰った薬は、夜明け前に早くも効き目を切らした。
もう明日からは効かないだろう。いや、もう今日か。
眠りをきっぱりと諦め、体を起こすと、半円を描くドームのような窓枠に、飾られた白い花を見つける。
きっとメイドが置いたのだろう。
花を愛でる趣味が、主人にあろうとなかろうと、それをするのが、彼女たちの仕事だ。
青臭い香りを放つ、華やかなその姿を眺め、妙にあいつらしい花だな、と思った。
今日、顔を合わせる時に、持って行ってやろう。
その前に、なんという花か、名前を知っておくべきだろう。
・・・いや。
ふわりと記憶が立ち上るようにして、思い出す。
「カサブランカ、だったか。」
ひとりごとを言い、それから、椅子に無造作に掛けられていた上着を手に取る。
ふわりと羽織ると、見慣れた自分の部屋を出た。
キムラスカにその人あり、と謳われるファブレ公爵の屋敷には、敷地内にふたつの並んだ墓がある。
花壇の中、目立たぬようにひっそりと咲く小さな花を摘み、それを手に彼はそのひとつへと向かう。
別に眠れぬからという訳でも、相手を特別偲んでいるから、という訳でもない。
それは、彼の日課だった。
生前は決して仲が良かったとは言えない間柄だった。
だが、全てが終わり何年もたった今では、1日たりとも忘れたことのない相手だ。
それを当たり前と思っている自分を、彼は少しだけ、奇妙に思う。
外はようやく明ける気配を見せ初めていた。
この時期に、決まって明け方になると街を覆う霧が、少しずつ太陽の光で薄く浮かび上がってくる。
そのひんやりとした空気の中、ぶらぶらと指先で、花をいじりながら歩く彼の足が、止まった。
ふたつ並んだ右側。
彼が向かっていたその墓の前に、誰かがいる。
「・・・・・母上。」
「まあ、ルーク。」
呼ばれて母は、彼の姿に目を丸くし、かがんでいた墓の前から身を起こした。
「どうなされたのです、こんな朝早くに。」
「あまり眠れなかったものだから。この子と話をしようと思って出てまいりましたの。あなたこそ、どうしたのです?今日は、マルクトからの大使の方々をお迎えする仕事があったのでは?」
「・・・目が冴えてしまいまして・・・。。」
「少しでもお休みなさい。眠りが足りないと、思わぬ失敗をしないとも限りません。お客様に、失礼があってはなりませんよ。」
「はい・・・。」
母にそう言われては、従わない訳にもいかない。
大人しく部屋に引き返そうと思ったが、その前に、摘んできた花を、墓前に捧げる。
「まあ、ありがとう。ルーク・・・。」
それを見て、儚く、母は笑んだ。
「あの子の好きな花でした。覚えていてくれたのですね?」
「はい・・・。」
ちっぽけな、小さな花だ。
この花をこよなく好きだという者が稀なほど、慣れ親しみ、特別視されないほどの。
美しく、めずらしい花は、他に沢山ある。
それこそ、あの魔界に咲く花のような。
けれど、彼は、このちっぽけでありふれた花を、どの花よりも好いていた。
「母上、朝の空気は冷たい。あまり長居をされるとお体に触ります。」
「ええ・・・。もう少ししたら、私も部屋へと戻ります。気づかってくれて、ありがとうルーク。」
「では、お休みなさい。母上。」
「お休み。」
母にはああ言ったものの、眠れるわけもない。
見つからぬ様に、そっと屋敷を抜け出し、螺旋状の街を下へ下へと下っていく。
上流階級の住処である上域は、今だの眠りについているが、本来、街というものは、朝が早い。
それは、王都のような大きなものなら直のこと。
案の定、市場に近い港は、すでに活気に溢れていた。
たった今、水揚げされたばかりの新鮮な魚を卸そうと、漁師たちが忙しく働いている。
ときおり、怒号すらいきかうこの時間を、嫌いではなかった。
昔なら考えられないことだった。
このような時間の、このような場所に、足を踏み入れるなど。
漁師達の仕事の邪魔にならぬよう、少し離れた場所で、海の方角を向いているベンチに斜めに腰掛ける。
その近く、船着場へと続く桟橋のすぐ脇に、絶妙なバランスで積まれている殻の木箱には、ケセドニア、とチョークで殴り書きがしてあった。たぶん、ここからケセドニアへと向かう荷が積まれるのだろう。
その名前を目にした途端、記憶が胸の奥から湧き出てくる。
キムラスカとマルクトを繋ぐ砂漠の街。
深く息を吸うと、肺にまでも熱い空気が入り込み、風にはじゃりじゃりとした砂が含まれ、目を開けていることができなかった。
胡散臭い笑いを浮かべる、良心的なアスター。
陽気で気が良く、たくましい住人たちに紛れ、一風変わった者たちも集っていた・・・。
あれは何度目に訪れた時だったか。
外殻大地はすでに魔界に降りていた。
「そこのあんた。」
「へ?俺?」
確か、移動で疲れた体を休めようと、一同で宿を目指していた時だった。
振り向くと、長く汚れた布を、アスターと同じように頭に巻いた爺が、手招きをしている。
手足は枝のように細く、長い。
上着の合わせ目から覗く胸元は薄く、皮だけの体には、内部の骨の形までもがくっきりと浮かび上がっていた。
「そう、あんたじゃ。」
「なんだ?爺さん。」
物乞いか?と一瞬思ったものの、その眼光の鋭さを見て、違うな、と即座に自分の思考を否定した。
身なりは貧しそうだが・・・侮れるような相手ではない、と判断した。
近くに寄っていくと、爺は持っていた杖をすっと前に出す。
来るなという意味かと思い、足を止めると、じっとこちらの顔を覗き込み、ふむ、と何かに納得したように、小さく唸った。
「蛇が、後ろについて来ているぞ。」
「へ?」
あまりにも予想外の言葉に、咄嗟に返答につまる。
「・・・蛇ぃ?」
「そうだ。」
思わず後ろを振り返るが、もちろん、そんなものはいない。
その方向には、仲間達がいて目が合うと、それぞれが目配せをしたり、眉を顰めたり、または可笑しそうに肩をすくめたりして見せる。
新手の商売か、自称のインチキ占い師かなにかに、ひっかかったのだと思ったらしい。
「蛇って?」
「蛇は蛇じゃ。それがあんたの後ろをついてきている。」
「なんか、おっかねぇなぁ・・・。」
頭を掻きながら、ぞっとしねぇ・・とつぶやくと、おいおいルーク・・と呆れたようなガイの小声が後ろで聞こえた。
相手にするな、と言いたかったのだろう。
「それって・・・祓って貰った方が良いのか?」
「いやいや。」
爺さんは言った。
「怖がることはないさ。ただの蛇ではない。創世記時代から生きている、賢く聖なる蛇だ。それが・・・あんたを守っている。」
「創世記時代?」
「そうじゃ。」
「・・・・・・。」
後ろを見れば、全員が顔を見合わせている。
「そんな大層な蛇が、なんで俺に?」
「理由など知らん。」
まるで無責任に、爺は言った。
「だが、あんたの後ろが気に入っているようだ。・・・ありがたいことよの。」
爺は、両手を合わせ、ローレライ教団の司祭たちがするような、お辞儀をした。
そして、頭をあげると、すたすたとその場を去ろうとする。
「あ、待てよ・・・。」
「ワシは占い師の類ではないぞ。」
いきなり言われ、引きとめようとした手を止めた。
そもそも、何故引きとめようとしたのか、分からない。
「大事にすることじゃ。」
「大事にってどうすれば・・・。」
「蛇のことではない。あんたの身の上の事を言っているのじゃ。」
「・・・え?」
爺は振り向いた。
「それほどの高貴な蛇がつくのだ、あんたは只者ではないという事じゃ。その身を粗末にするなどあってはならんことじゃ。」
「あんたはきっと・・・・・。」
いつの間にか、転寝をしていたらしい。
そこで、目が覚めた。
見ればすでに、日は昇りきり、港には漁師の姿が消え、代わりに出航準備の船の船員たちへと、その場は引き継がれようとしている。
早くもその船に乗り込もうという人が、数人、ちらほらと港へと集まりだしているその中に、見覚えのある軍服が行きかっている。
マルクトからの船はすでに到着し、夜明けを待って沖に待機していたようだ。
今日は、半年に一度、ミムラスカとマルクトとの両国の間で、大使がたつ日だ。
ここ3年の間、両国は終戦宣言を守り、友好的な関係を築いてきた。
長年、敵国同士だった相手国との交流は、口で言うほどたやすくはなく、快く思わない為政者達の間では、水面下での画策などもあったにはあったが、全て大事には至らなかった。
もっともそれには、彼自身が大きく貢献してもいる。
画策や謀略の類は性にあわないが、対抗策を講じられない訳でもない。
キムラスカへと戻って以来、子爵の位を賜っている彼は、父親の公爵の片腕として、共に国王を支えてきたのは、周知の事実だ。
海には、光が差し、水面は光を反射している。
登城する前に、1度屋敷に戻り、準備をしなければならない。
だが・・・動けない。
ずしんとした痛みを伴う頭を、両の手のひらの上に埋める。
体が重い。
動こうと思うものの、鎖でがんじがらめにされたかのように、体が言う事を利かない。
眠りが足りないからではない。
眠れないなど、いつものことだ。
もう何年も、十分に眠った覚えなど・・・・。
もう何年も・・・・・・・・・・・・・。
ふと、自分の上に影が差したような気がして、彼は目を開けた。
「おや、貴方でしたか。」
顔を上げた彼と目があった途端、初めから気がついていただろうに、しゃあしゃあとそんな事を言う。
青いマルクトの軍服、伊達の眼鏡の奥で、なんの感情も見て取れない赤い瞳が、彼を見据えていた。
「・・・ジェイド・・・。」
「ええ。」
彼は、冷たく笑った。
「ジェイド、ですよ。」
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
朝の港のベンチに、男がふたり。
会話は進まない。
元より、この男は苦手だった。
いつも人をバカにしたような笑みを絶やさず、沈着冷静で、状況を見極める。
時にはそれは、悪魔のようだった。
レムの塔での、あの言葉。
望んでもいない事を、よくも、あんな風にさらり、と口に出せたものだ。
理屈と、感情と、道徳とは、本来別々に存在している。
それを一環として割り切れる、その合理的な思考能力。
それは軍人として訓練された屈強の精神か。
それとも、科学者としての、それか。
「今度も、お前は来ないと思ってたがな。」
両国間の大使として、ジェイドが来たことなど、今まで1度もない。
半年ごとに交互に立てられる大使の任には、キムラスカ側は王女のナタリアが就く事が多い。
それは、かつて世界を救う為に行動した彼女の功績と、それによりマルクト皇帝ピオニー九世の覚えがめでたいという理由が、背景にある。
だが、マルクト側からは、かつてナタリアと行動したジェイドが、大使として遣わされることは1度もなかった。
「今までも、別に私が、拒んでいた訳ではありませんよ?」
それに対し、しれっとジェイドは答えた。
「命じられなかっただけです。」
「・・・・・・・。」
反射的に口から出そうになった言葉を、一瞬飲み込んだ。
それは、自分の言葉ではない、と彼は思った。
「なんにしても・・・。」
ゆっくりと、意識して声のトーンを上げ、彼は言った。
「会えて、嬉しい・・・。」
「またまた、心にもない事を。」
楽しくもなさそうな笑い声を潜ませ、答えが返ってきた。
「私たちを意識的に避けていた、貴方が。・・・そうでしょう?」
「・・・・・。」
近くで歩き回っていたかもめが鳴き、羽ばたきの音を残して、飛び去った。
答えるにしても、あるのは肯定の言葉だけだ。
彼は黙り、そのまま、足元へと視線を投じる。
こういう時、胸に押し寄せる相反するふたつの感情を、どう処理すれば良いのか、3年たった今でもわからない。
なんだ?と、ジェイドがいきなり声を張り上げ、立ち上がった。
そちらを見ると、マルクト軍の兵士がひとり、敬礼しながら、入国準備が全て完了した事を告げる。
「やれやれ、行かなければならないようです。」
心底面倒だ、との言い草に、彼は眉を顰めた。
わざわざキムラスカまで、世間話をしにきた訳でもないのだろう。
「お前、軍人だろう。」
任務に積極的でない態度はいつものことだが、1度、言ってやろうと思っていたのだ。
「ええ、そうですよ?」
嫌味にもしれっと、彼は答える。
「ですが、仕事は迅速かつ丁寧にやり遂げれば良い、という主義なもので。さぼれるならさぼりたいところです。」
「・・・良い度胸だな。」
「ええ。自覚はありますよ。」
ジェイドはにこり、と笑い、自分を呼んでいる兵士の元へと、ポケットに手をつっこんだまま身を翻す。
だが、思い出したのか、足を止め、振り返った。
「それにしても。」
彼の心中を知ってか知らずか、ジェイドが言った。
「元気そうで、良かった。」
「・・・・・。」
「では、後ほど。」
そうして、ジェイドは彼に背中を向けた。
よく見慣れた、安定した歩幅と、一定の速度でもって、歩き去ろうとする。
「・・・・嘘をつくなっ!」
いつもはどこかに仕舞われている、感情が噴出してくる。
見慣れた背中、見慣れた人を食ったような表情、聞き慣れた口調。
だが、それを見慣れているのは、彼ではない。
「良かった、だと?思ってもない事を!」
迷惑そうにジェイドは振り返る。
声に出さないが、まったくあなたたちときたら・・と口が動いた。
「お前たちが望んでいたのは、俺ではないだろう!」
3年前、望まれたのは、自分ではない。
ある者とは約束し、ある者には絶対に帰ってきてと懇願された。
それは、自分では。
思い出すたび、胸を締め付けてやまない、この記憶の、この感情の持ち主は、違う人間。
同じ容姿、同じ声をしてはいても、同じ人間では、決してない。
「帰って来たのが俺で、お前たちはさぞかし悔しかっただろうな?」
自分としては、どうでも良かった。
それは本当だ。
元々、この連中は、自分の物ではない。
だから、すっきりと割り切れると思っていた。
なのに。
夜な夜な、思い出す。
蜂蜜のような色の長い髪や、冷たくも柔らかい口調の嫌味、小さな生意気な口ぶり、しっかりとお前を支えると言った幼い頃から知っている声、気が強くマイペースでいつも的外れな事を言う独特の話し方。それらは自分に対して、同時に違う名前を紡ぐのだ。
ルーク、ルーク、ルーク。
それから・・・アッシュ、と。
思い出す度に、胸に飛来する感情は、すでにどちらのものか、見分けがつかない。
「いいえ、アッシュ。」
少しも感情の動きを見せず、ジェイドは冷たく、言った。
「残すなら、レプリカより、オリジナルですよ。あの時も言ったでしょう?」
「・・・貴様・・!」
「私に、どうしろと?」
やれやれ、と肩を竦めて、ジェイドが言う。
その人を食ったような対応は、いつも見ていて胸糞が悪い。
違う。
イラついていたのは自分だが、それをいつも見ていたのは、自分ではない。
「あの人を返せ、と貴方を泣いて責めろとでも?微笑んで迎えられたのが、そんなに不服ですか?」
1年前。
ホドの見えるその場所で、再会を果たした時、帰って来たのがルークではなくアッシュだと知っても。
一同は、嘆かなかった。
むしろ、生きていて良かったと口々に言い、その手でアッシュの体に触れてきた。
まるで、本当にそこにいるかを、確かめようとするかの様に。
その時、彼らは、自分の胸のうちを、決してあからさまにしようとしなかった。
だが、戻ってきたものに対する喜びと失望と、どちらも本当だったのだろう。
生きていて良かった。
全員が口にしたその言葉は、心に沁みた。
沁みて、悲しかった。
帰って来たことに安堵を覚え、帰って来れなかったことに罪悪感を覚えた。
約束したからな。ごめん、約束を守れなくて。
彼はひとりだが、ふたつの感情を合わせ持つ。
それはいくら時を重ねても、分離したまま融合する事はない。
「私たちは、3年前、彼の事は諦めました。」
淡々とした口調のまま、ジェイドが言った。
ジェイド。
かつて、自分は1度でも、名前で呼んだことはない。
その名を、親しみを込めて呼んでいたのは、もうひとりの方。
「正直、確かに生きていてくれる事を望んだりもしましたがね。・・・あの状況では、生存は絶望的である事など、分かりきっていた。なのに、ふたりのうち、ひとりは帰って来た。・・・その貴方の生還を喜んではいけないのですか?」
「そういう意味じゃねぇ・・・。」
「生き残る方に、なりたくなかったですか?」
「・・・俺は。」
「惜しんでいるのは、むしろ、貴方の方なのでは?」
「・・・・・。」
3年の間、それは何度も考えたことだ。
自分は先に死んだ。
しかも、きちんと覚悟をしていた。
なぜ、死んだままにならなかった。
なぜ、残ったのが、覚悟のないあいつの方ではなかったのだ、と。
「貴方にそんなに思われているとあの人が知ったら、泣いて喜ぶでしょうねぇ・・・。」
もっとも、今は貴方が彼自身でもありますけど、とジェイドが言った。
「誰がだ。」
「おや、違いましたか。」
人の悪い笑みを浮かべ、ジェイドが面白そうにアッシュを見る。
「私には、そう見えるのですがね。今の貴方は、まるで会いたい人に会えずに嘆いている様に見えます。」
「あいつに会いたいのは、お前たちだろう?」
「まだ、そんな事を言いますか。」
ジェイドは、うんざりしたように真顔を戻り、小さく溜息をついた。
「・・・でも・・・。ええ、まあ。あの人を惜しんでいない、と言えば嘘になります。ですが、過ぎた事です。そう割り切るしかない。」
「それで納得できるのか?」
「納得できるもできないも、変わりようもない事実を、いつまでも引きずっていても意味はない。」
だから、とジェイドは続けた。
「私は言いません。貴方はひとりで、あの人の人生を耐え切ってください。」
「・・・・・っ!!」
・・・さぞかし痛いでしょうけどね。
ジェイドは、皮肉気な笑みを湛えたままだったが、今にもそう言うだろう、と思った。
こいつは、分かっている。
あいつの傍にいて、全て見て知っている。
痛い。
あいつの人生を表現するのに、他にどんな言葉がある。
髪を切った後、自分自身に対し、どんな甘えさえ許さなかった。
周囲に諭され、時に手をさし伸ばされ、それでも、掲げる為に用意された白旗は、最後まで使われることなく、引きずり続られて、ボロボロになった。
それが、罪悪感という身を食む化け物を飼いながら、這う様にして生きた、あいつという人間の証明だ。
「まさか。」
少しだけ目を細め、ジェイドが言った。
相変わらず、感情の読めない声で。
「それは買い被りというものです。」
「私たちには、彼が何を見、何を感じてきたか、推し量ることはできても、知る事はできない。所詮は他人ですから。」
それは貴方の役目でしょう。
ジェイドは微笑んでいるが、瞳の奥では笑っていない。
だから逃げるのは許さない、それはそう言われたも同然で、はっきりとアッシュは嫌悪感を抱いた。
そんな事をお前に指図される謂れはねえ。
昔なら、そう言い放っていただろう。
だが、今それを言えないのは、ジェイドに指摘されるまでもなく、彼の後ろに逃げ道がないからだ。
逃げようにも投げ出そうにも、どうやってできる。
自分自身という檻からは逃れられる術など、この世にはない。
たとえ、死んでも。
死んでも、人は生きた時のままの人であり続けるしかない。
黙ってしまったアッシュの反応が予想外だったのか、少しだけ不思議そうに様子を見ていたが、このまま何もなさそうだと思ったのか、ジェイドは、では本当にこれで、とアッシュに背を向ける。
自分の言いたい事はこれで全部終わった、という態度だ。
「おい・・・。」
思わず引き止める為にあげた声に、まだなにか?とちらりとこちらに視線を向けられ、アッシュはそのまま、またもや黙った。
まだ言いたい事は、彼にはあったのだが・・・ここにきて、意味がなくなったのだと気がついたからだ。
黙ったままのアッシュに、もう行って良いですか?と確認してくる背中に、すでにかける言葉がない。
そして、本当にジェイドは、去った。
まるっきり迷いのない歩き方だった。
「どいつもこいつも・・・。」
あいつの仲間はどいつもこいつも。
あいつさえも。
どうして、こう自分勝手な事ばかり言うのだろう。
「ルーク様、どちらにいらっしゃったのですか?この大事な日に、お時間もあまりないというのに。」
屋敷に戻った途端、すばやく見咎め、まるで責めているようなラムダスの口調に、アッシュは気分を悪くする。
「少し出てきただけだ。騒ぐな。」
「旦那様がお呼びです。」
「分かった。すぐに行く。」
舌打ちし、アッシュは中庭から自分の部屋へと向かう。
自分の部屋。
ルークの部屋だ。
ルークの。
それはつまりは、本当に自分の部屋なのか、ということ。
だが、その部屋の隅々まで、彼は目をつぶっていても移動することができる。
7年間、監禁同然で過ごした部屋だ。
違う、監禁されたのは彼ではない。いや自分で、自分ではない。
ずきん、といきなりこめかみ辺りに痛みが走る。
また、頭痛だ・・・。
昔・・・・アッシュからの通信の時も、こうやって痛くなって・・・・・・・・・・。
「うるさい・・・黙れ・・・。」
誰にだ?
自分自身か?やつにか?やつとは誰だ?どこまでがやつで、どこまでが俺だ?
俺とは?
アッシュ?それとも、ルーク?
蛇は・・・。
「蛇があんたの後ろについている。」
「まあ、アッシュ?」
気がつけば、彼は墓の前だった。
そこには、今朝、彼が摘んだのと同じ小さな花が、また新しく手向けられている。
その前には、青いドレスを着たキムラスカの王女が、目を丸くして彼を見ている。
「どうなさいましたの?マルクトの大使が港に就いたという知らせがありましたわ。まもなく城にも到着なさるでしょう。」
「知っている。・・・・・港でジェイドに会った。」
「まあ。」
口元に手を添えた姿は、久しぶりに会う友人の名前に反応し、あからさまに嬉しそうだった。
だがすぐその後、ナタリアは一瞬、戸惑った様な表情を浮かべる。たぶん、めずらしくジェイドが来た、という事と、彼がジェイドを名前で呼んだという事、両方に違和感を覚えたからだろう。
だが、ジェイドを「ジェイド」以外ではもう呼べない。
以前の自分なら「眼鏡」と吐き捨てていたはずなのに・・・。
俺は・・・・・。
「その蛇は」
創世記の蛇が、俺の後ろを守るという。
「あんたはきっと、あの蛇の生まれ変わりなんだろうよ。」
だが、それは、俺ではない。
高貴な蛇が守っていたのは、俺ではなく、あいつの方だ。
蛇は俺を守らない。
俺を選ばなかった。
蛇が生まれ変わったのは俺ではない。
だから。
俺とあいつは同じではなかった。
もしもあるとするならば、別々の違う魂だった。
どうして俺が生き残った、どうしてあいつではなかった。
覚悟をしていた俺と、約束を交わしたあいつと、どこが違った。
なにが。
「アッシュ!?」
驚いたナタリアの声が聞こえる。
それは近く、そして遠い。
頭が痛い。割れそうだ。
目の前が、うっすらと靄のかかったように、幕ができていた。
それ越しに見る世界は歪んでいる。
「アッシュ・・・。」
「・・・・っ見るな!!」
こんな自分を、自分で知らない。
これは俺ではない。
「俺じゃねぇ!俺が泣いているわけじゃ・・・。」
俺は泣かない。
俺には、涙がない。
涙に暮れるほどのセンチメンタルも、柔らかい心情も持ち合わせてなかった。
それを持っていたのは・・・。
「・・俺じゃ・・・。」
あいつ、だ。
いつだって誰にでも同情して、心を痛めて。
お前は暇なのか?やることなら山ほどあるだろうが。
動き続けていた機械や、ドラゴン?
ああ、そんな風に見るんじゃねぇ。
いちいちそんなんじゃ身がもたねぇ。バカかお前は。
どうして、あいつが残らなかった。
涙のない俺と、あいつと、どうして。
ああ、本当は分かってる。
世界の理はいつだって。
優しく無垢な者から、先に連れ去っていく。
まるで、地上に置いているのを惜しむ様に。
「アッシュ・・・。」
「見るな、と言ってるだろうが。」
近寄ってくる気配がして、そっと手が伸ばされた。
暖かな手のひらを、彼はそっと振りほどく。
この手に慰められるのは、惨めだ。
それにもめげず、もう1度握り締められた小さな手の感触に、今度は、振り払うなと心が命じた。
ほっそりと細い指は、とても弓を弾くものとは思えない。
かつて血に染まったことさえあるこの指は、今は、小さな花を手向ける為にある。
彼女の幼馴染が好きだった、なんの変哲もないデイジーの花を運ぶ為に。
「こんなのは・・・俺じゃねぇ・・・。」
まるで強がっている子供のようだな、俺は。
と密やかに彼は自嘲する。
力を込めて、その手が握られる。
「ええ、分かっていますわ。」
ナタリアの声は、まるで聖母の囁さやきのようだ。
慈悲深く、彼を包み込もうとする。
「顔をあげてください。どうか。」
優しく囁きながらも、俯くアッシュの顔を強引に手で挟みこむ、上に向けさせる。
「私には分かります。」
そうして、アッシュの碧色の瞳を、覗き込んだ。
その確かに揺れる中、彼女は、彼の姿を見つける。
「ですから、どうか。」
ナタリアは言う。
失くしてしまう事を諦めているような、それでいて懇願しているような声を出し、そして、アッシュの瞳を深く、深く覗き込む。
そこに沈んでいる、別のものを探し出そうとするように。
「私にも、ルークに会わせてください。」
その瞳を見た瞬間。
彼は彼の中に、確かに息づく、彼の気配を感じた。
とても会いたかった、と彼女は言った。
知っている、と彼は言い、そして、
今までだって会っていただろう、と思った。
お前に、言われなくても生きてやる。
あいつの事を感じられるのは、たったひとり、俺だけだ。
無垢なあいつが生きるには、この地上は過酷すぎたのだ。
俺ほどのしたたかさを持ち合わせてなかった、やつには。
ああ、きっと。
今なら俺の後ろにもいるのだろう。
俺の中にある、守るべき者の、わずかな気配を見逃さずに、きっといる。
それは、創世記の聖なる、蛇。
fin
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