「音素に関しては分からぬことが多い。それも仮説として成り立っているというだけのこと、かもしれん・・・。」
「今更、慰めの類はいらねぇよ。それで?」
「そもそもこの世には固有音素振動数が同じものなど、ふたつとない。完全同位体とはすなわち、"同一のもの"。同一のものはいずれひとつになる運命・・・。星がそう定めたかは知らんが、音素同士が引き合う性質を持っているのと同じ原理ではないかというのが定説だな。」
「御託は良い!つまり・・・。」
「・・・ふたつに分かれていた音素はやがて、強いほうの音素に吸収される・・・。大爆発と呼ばれる現象だ。」

 

 

 

 

 

ゲルダの抱擁

2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ました時、一瞬どこにいるか分からなかった。

 それはさきほどまで見ていた夢のせいでもあったかもしれないし、(まだ夢の中に出てきた地にいるのかと混乱したのだ)どこからともなく忍び寄ってきた悪夢のせいで、背中にびっしょりとかいていた、汗のせいかもしれない。(雪の降る街にいるのに、汗をかくことなどめったにない)
 
 アッシュは、は、と息とついた。
 膝の上で広げた右の手のひらの中に、顔を半分落とし、息を整える。
 額の汗が手のひらを濡らしたが、あいにくとタオルの類を荷物につめたままだったことを思い出す。汗で濡れた手は、清潔なシーツにこすり付けるしかなさそうだった。
 
 まだ、夜は深い時間だった。
 暗闇のなか目が慣れてくると、窓から入るうすぼんやりとした灯りも手伝って、徐々に室内の輪郭が浮かびあがってくる。
 今日はギンジとアッシュがベッドを使う日だった。
 残ったひとりは、壁際に置かれたソファーをベッドに変えて、そこで眠っている筈だった。
 しかし。


 ・・・なんでこんなところにいやがるんだ。こいつは。

 
 アッシュが悪夢をみたのは(・・・悪夢?あれが?)きっとこのせいだ。
 
 ルークは、まるでたまごを抱いているかのように体を丸めて眠っていた。
 体を丸めて眠るクセのある人間は、甘え癖があるというが、さらにルークの左手はアッシュの寝巻きの裾を掴んでいた。
 これでは人に体の一部をくっつけたがる子犬と一緒だ。
 銘々が眠る時、それぞれ割り当てられたベッドとソファーに横になったから、ルークはアッシュが眠りに落ちた後、ベッドへと入り込んできたというなのだろう。
 もしもその時、意識があったなら、隣に眠ることなど、アッシュは許さない。
 そして、ルーク自身もそれを望んでいない。・・・少なくとも表面上は。

 ルークがアッシュのベッドへともぐり込んできたのは、これが初めてではなかった。
 しかも朝、目を覚ました時には自覚がなく、どうして俺はここで寝てるんだ?と口パクで問われたことがある。

 ルークは無意識に、アッシュの傍へと寄ってくる性質がある。
 それはまるで・・・


『音素同士が引き合う性質を持っているからではないかと・・・。』

 

 

 アッシュは、自分の寝巻きの端を持ち上げ、握り締めているルークの指を1本ずつ引き剥がした。
 3本の指を剥がし、ようやくルークの手から服を開放させると、よほど強く握っていたらしく、カーテン越しの月の光が入る薄暗い室内でもわかるほどはっきりとした皺がよっていた。
 傍らを見下ろせば、ルークの寝息は静かで、長い睫毛が頬の上に影を落としている。目を覚ましても構わないつもりで、乱暴に指を擦ったが、ルークの眠りを妨げるほどではなかったらしい。
 くったりと寝台に身を預け、浮かべている表情はどこかあどけない。
 無防備に眠るその姿を目にして、アッシュは、こいつには危機感というものが欠如しているんじゃねぇのか?と苛立ちを覚えた。
 いくら宿の中とはいえ、どこに危険が潜んでいるのかわからないというのに。
 それがアッシュの・・自分の近くだからかもしれないという少しの疑問は、きちんとした思考になる前に嚥下して、腹立たしく思いながら、ルークを見る。
 こいつがここにいる以上、選択はふたつだ。
 叩き起こしてソファーに戻れと言うか、アッシュがベッドを明け渡すか。

 一瞬、そうは思ったものの、よく考えてアッシュは後者はないな、と思った。
 今日は順番で、ベッドを取っているのだから、なにもアッシュが譲ってやる必要性などどこにもない。
 とはいえ、叩き起こすという行為はひどく億劫だった。
 ギンジを起こしてしまうかもしれないし、今更、彼も知らないことでもないが・・・やはり現場を見られるのは、多少きまずい。
 別に疚しいことがある訳ではないが、面倒なことに変わりないので、アッシュは忌々しくルークを睨んだ。
 見下ろすルークの唇は、ギンジから貰った薬のおかげで、とっくに傷がなくなっている。
 今はそれを軽く開き、規則正しく生暖かい息を吐き出していた。
 
 無防備で、無邪気を気取りながらそのくせ、傲慢な息遣い。
 こいつが呼吸をする度に、アッシュの命は徐々に削がれていく。
 今、こうしている瞬間にも。


 大爆発を止める方法はないのか、と聞くと、スピノザは首を振りつつ、なにしろその現象自体が空論のうえにあるのだからな、と言った。
 同時にふたつの音素がこの世に存在していることが、異常事態なのだ、と。


 ならば。


 ひとつが消滅したのなら、どうだろう?

 

 
 ふたつあるからひとつになろうとするのならば、ふたつのうち、ひとつが消えれば、この現象も止まるのか。
 そもそもひとつがなくなったなら、その現象そのものに意味がない。
 吸収するものもなければ、進行中の音素の減少も、元の持ち主の鞘に納まるだけではないのか?


 アッシュは右手を伸ばした。
 
 シーツの間から手を差し入れ、ルークの喉元を鷲づかみにすると、鉤爪にした手の中に、規則正しい鼓動が伝わってきた。
 このまま一気に力を入れれば、なんの抵抗もなく、締め上げることができる。
 指の間接が強張って、アッシュは妙に静かな気持ちになった。

 このまま力を込めて、苦痛に歪む表情を見れば溜飲は下がるだろうか。
 それとも、気がつきもしないまま、その呼吸を止めるだろうか。


 しかし今、そんなことには意味がない。
 やる気もないものを試そうとすることの方がよほど馬鹿げている。
 アッシュは思い、ルークの首から手を放した。

 そのままベッドから出て、窓へと移動する。
 しばらく冷えた新月を眺めていたが、やがて寝巻きから服へと着替えて、部屋を出ていった。
 なんとなく、部屋を離れたい気分になっていた。

 

 

 

 

 パタンと扉が閉まった音が聞こえた時、ずっと閉じたままにしておいたまぶたを、ルークは開いた。

 そっと首を起こし・・・アッシュが去っていった扉を見つめて様子を伺っていたが、帰ってくる気配はない。
 ぱたっとルークは、力なくベッドへと頭を落とした。
 そろそろと自分の首へと手を伸ばし、さきほどアッシュが掴んでいただろう部分に指を這わせたが、そこに特別ななにかが残っていることはなく、つるりと柔らかい感触が、ほどよい弾力をもって指先を押し戻してくる。
 ほとんどの生き物において、急所にあたるそこに、アッシュが唇を押し付けてきた時の感触を思い出して、背筋が震えた。
 
 ルークはアッシュが首元を掴んだ時に、目を覚ましていた。
 しかし、じっとしていた。
 アッシュがなにをするのかを知りたかったし、知らなければならないとも思った。
 もしも本気であの時、締め上げられたとしても・・・抵抗する気はなかった。

 だって。

 
 同じ殺されるなら、剣で刺されるよりもくびり殺されたい。


 冷たい刃物の感触ではなく、アッシュの指でアッシュの息がかかる位置で、アッシュの目を見ながらじっくりと。
 それは、ある意味、究極の愛撫だ。
 イカれていると自分でも自覚はしているが、誰になんと言われても構わない。
 それでアッシュが手に入るなら!


 一度は体を繋いだ関係だ。
 劣情にまかせて、手にかけたとしたら、アッシュは一生ルークのことを忘れなくなるだろう。
 後悔するかどうかは別にしても、ルークの首の感触を忘れることができず、時折悪夢に魘されるだろう。
 それは甘美なる誘惑だ。

 ルークは、どこか恍惚と、生暖かい息を吐き、もう一度自分の指をおとがいにあてた。
 どくんどくんとリズムを刻む己の鼓動に耳を澄ませ、無音に近い部屋の中から、外へと出て行ったアッシュを思う。


 アッシュは本当にルークを殺そうと思った訳ではなかったのかもしれない。
 だが、なにかのはずみに、アッシュの中で悪意が勝り、まるで指が滑ったかが如くにルークの首を絞めたとしても・・・不思議ではなかった。
 そうも思う。

 
 だが・・今はまだ早い。
 最終手段は最後の審判が終わってからだ。
 まだ、死ななければアッシュが手に入らないと決まった訳ではない。


 

 あれ以来、アッシュは一度もルークに触れてこなかった。
 それどころか、そのままなにも口しないことで、あの夜がなかったことにしようとでも言うように、ルークをそれとなく避け、距離を置こうとしている。
 しかし、それは逆に意識しているという裏返しの行為だ。
 自分だけが窮地に陥ってでもいうように、被害者面したアッシュの態度に腹立たしいものを感じないでもなかったが・・・それは、少しだけルークに、運が向いてきた兆しでもあった。
 あの夜を境に、アッシュはルークに対して、落ち着きをなくした。
 それは間違いなかった。

 ルークは自分の唇に指を当てる。
 行為そのものは行なったものの、まだ、アッシュとは一度も唇をあわせたことがない。
 諦めるのはまだ早い。
 ルークはそう、呪文のように繰り返していた。

 

 

 

 

 翌日は、預言通り、天気が回復した。

 3人はケテルブルグから少し離れたロニール雪山へと足を踏みいれ、パッセージリングを目指していた。
 ざくざくと踏みしめる度に、大地が音をたて、それはなにも話さないで進む一行の放つ唯一の音だった。

 先頭をアッシュが、その後ろをギンジが歩き、しんがりをルークを務めていた。
 かつてイオンと旅をしていた時もそうだったが、いつ魔物と遭遇するとも分からない移動の時は、剣士や戦士は前後を固め、真ん中を戦闘員でない者が位置するのが暗黙のルールというやつだった。
 仲間たちと一緒の時、前衛のルークは大概先頭を歩いていたが、この面子では完全なる前衛がアッシュになる為、必然的にルークが最後となる。
 同じ背のアッシュとルークに比べたら、ひょろりと高いギンジの肩には、ちょこんとミュウが乗っていた。
 最近では道具袋のなかで寝ているうちに、部屋まで連れて行かれ、ギンジと一晩過ごす時間が増えてきたせいか、ミュウはギンジが好きなようだった。
 今も、ギンジさんと一緒にお役にたつですの〜と自ら見晴らしの良い場所に移り(この点に関してあとでミュウとは話し合いが必要だ)魔物が近づいていないかを見張り、邪魔な雪のカタマリに火を噴いて、一行のさまたげになるものを排除する役を買って出ていた。
 その甲斐があってか、一行は順調に進んでいた。
 このままなら、昼前には行って、帰ってこられるだろう。

 
 凍った白い大地を踏みしめながら、ルークはこのセフィロトにも、宝珠はないだろう、と思った。
 そんな事を言えばアッシュには怒鳴られるだろうが、なんとなくルークは、宝珠があったなら、自分に分かるだろうという気がしていた。
 受け取りそこなったくせになにを言っていると、アッシュに言われるまでもなく、自分で思わないでもないが・・・しかし、それは確信に近かった。
 このセフィロトにローレライの気配はない。
 きっと、宝珠はここにはない。


 


 セフィロトをめざして中に入ると、パッセージリングの手前で魔物に遭遇した。

 寒い地方によくいるタイプの、けむくじゃらで長い手を持った小山のようなヤツだが、一撃は威力が強いものの、移動があまり速くないのが特徴だ。
 しかし、その必殺の一撃を振りまわしてくることがやっかいで、長い間合いを必要とされる為、倒すのに時間がかかる。なにも闇雲につっこんでいくだけが戦闘ではない。
 ・・・ということを、ルークはアッシュと一緒に戦うようになって知った。
 知ったというのとは少し違う。
 もともとティアにそれを何度も注意されていたし、無茶をしてガイに怒鳴られたこともある。ルークの戦い方はひどく一方的で、先手必勝ではないが、前衛が先にたって攻撃するのは、一種の使命だと思っていた。
 しかし・・・アッシュの戦い方を見ているうちに、それはフォローをしてくれる、いざとなったら治癒をしてくれる仲間がいる場合の戦い方なのだと気がついた。ここでも無意識に皆に甘えていたことに気がつかなかった。
 アッシュの戦い方は、ひとりで全てをこなす者のそれだった。
 彼の旅は、ひとりきりとは限らないが、ギンジも、時折同行する漆黒の翼も戦闘要員ではない。ルークの旅の面子とは違うのだ。
 アッシュはひとりで、同行者と己の身を守らないとならない。
 だから、あんなにも強いのにけっして深追いをせず、決着を急がない。
 相手の力量にあわせ、時折は相手が逃げられる程度に留め、時には回り道をして魔物を避けることもあった。


 ぶん、と振り回され両腕を後ろに飛んで避け、ルークは着地したその足をバネにして前へと飛んだ。
 長い手は振り回した後、遠心力がかかるためか魔物の動きが遅くなる。一撃を避けたその隙こそが、絶好の好機で、ルークはその瞬間を狙って魔物の懐に飛び込んだ。
 魔物の濃厚な匂いと独特の気配が、目の前に壁となって迫り、ルークはその毛で覆われた一面に剣を突き刺した。
 途端、肉へとめり込む嫌な感触とともに、生臭い血の匂いと咆哮とがルークの五感を襲い、生命あるものから、それを奪う時独特のえもいわれぬ嫌悪感に小さく身震いする。
 魔物は雄たけびとともに、闇雲に手を振り回した。
 暴れる足に潰されるのを避けてルークは身を引き、後をアッシュにまかせる。
 アッシュは、自分に向かってくる魔物を眉ひとつ動かさないまま見据え、剣先が届く間合いに入った途端、これを討った。真紅の髪を一瞬だけ揺らめかせた程度の軽い動きだった。

 剣先の動きをルークは見切れなかった。
 まだまだ彼と自分の実力差はこんなにもある。
 
 見惚れるとも唖然としていたとも言えるが、ルークがその時一瞬、我を失ってアッシュの動きを見つめていたのは事実だ。
 床に倒れた魔物が息絶えたものと勝手に判断していての油断でもあった。
 魔物は断末魔の代わりのように、いきなり両腕を大きく開いた。
 長く重いその手が、孤を描いて倒れるその先に、戦闘で避けていたギンジがいて、ルークははっと息を飲み、声をあげかけた。
 しかし、瞬時にその術がないことを思い出す。

「ギンジ、避けろ!」

 アッシュの声に、ギンジはえ、と目を丸くした。
 後ろ向きのギンジに迫り来る腕が把握できる筈もなく、もう間にあわない!!と思った瞬間、ルークは夢中で地面を蹴って、ギンジの体を突き飛ばした。
 バタン!とふたりの体は床を転がり、ギンジの脇をかすめて、魔物の腕が落ちてくる。
「ぎゃっ!」
「みゅ!」
 驚いたギンジの手から道具袋が投げ出され、その中には。
「っああ!!ミュウさん!」
「みゅ〜〜〜!」
 丸みを帯びた道具袋は床を滑り、パッセージリングの隙間から、下へと滑り落ちていく。

 ルークは焦って、パッセージリングの床に這いつくばるようにして下を覗きこんだ。
 袋は視界に捕らわれることはなかったが、階下でぽすっと軽い音がして、みゅ〜〜〜〜!!とパニックに陥ったような声が聞こえる。
 無事かはわからなかったが、とりあえずは生きていることが分かり、ルークは、ぱっとその場を走りだしていた。ギンジとアッシュの制止の声は聞こえなかったが、きっとルークの名前を呼んだだろう。
 しかし、今はいつ魔物と遭遇するともわからないという警戒心よりも、手元から離れた小動物に対する心配が勝っていた。
 名前を呼んで安心させてやれないことが歯痒い。
 ミュウはいざとなれば飛べるから、ぺしゃんこにはならないと思うがなんせ落ちた時は袋の中で、しかも道具と一緒だったのだ。
 中でなにかにぶつかって、あの柔らかい体が骨折でもしていないかと思うと気が気ではなかった。

 長いスロープをルークは走った。
 一度、つんのめって転びそうになって、少しスピードを落としたが、それでも走りを歩みに変えたりはしなかった。
 ラッキーなことに一度も魔物に遭遇することもなく、螺旋の、ちょうど真下にあたる位置まで来て、周囲に視線を走らせる。
 右、左、柱の影。
 しかし薄く光った紫の光源が模様をつくる透明の床の上に、目的の道具袋を見つけることができない。
 もしやもう一段下だろうか。そんなに高く落ちてしまったのだろうか。
 腹の底から湧きあがって来た身を焦がすような焦燥感の中で、ルークが隈なく周囲を探っていると、少し距離のある場所から、耳慣れたみゅう〜という鳴き声が聞こえた。
 ルークはその声のほうに走った。
 長い橋を渡りきり、柱に手を伸ばし、それを支点に体を反転させた時。

「・・・・・!!」


「みゅう〜〜〜〜!ご主人様ぁ!」

 ルークの足が思わず止まる。
 それまで翻っていた白い燕尾の裾が、空気の抵抗にあってふわりと反対方向へと舞った。
 唖然とも、ぎょっとともとれる一同の顔を、懐かしく思うよりも先に、ルークの足は、無意識に一歩後ろに下がった。
 まるで逃げようとでもするかのように。
 
 我に返ったのは、あちらのが早かった。

「・・・ルーク!?」


 ミュウを抱いたまま、いきなりの再会にその青い瞳が驚きに見開かれている。


 ガイ・・・とルークは口先でつぶやいた。

 

 

 

 


 >>3