ゲルダの抱擁

3

 


 マルクトにピオニー陛下を訪ねた後、パッセージリングの稼動方法に関して、少し調べたいことがある、とジェイドが言い出したことで、一同はロニール雪山をめざすことになった。
 セフィロトは、陸続きの他の場所にもあったが、ノエルに飛んで貰うならそちらの方が早い。
 それに、寒さはいただけないと思っているものの、静謐とした雰囲気と、貧富の差がなく、多く貴族が別荘を設けていることもあってか治安の良いケテルブルグは、彼らのお気入りの街だということもある。(ジェイドだけは未だに生まれ故郷が好きではないらしい)
 ならば、ついでにスパにでも寄りたいところだったが、生憎と彼らは今、その会員証を紛失中だった。
 正確にいえば、紛失したのは、紙切れ1枚の証明書ではないのだが。
 しかし、それに関しては誰一人として文句の類を口にはしなかった。
 代わりに、会員証を持ったまま、消息を絶ってしまった彼のことを思い巡らし、誰となく溜息をついていた。
 その名を口にしないのは、それを改めて確認することで、彼の不在という大きな不安が、箱を開けて出てくる絶望のように、彼らのまわりを取り囲んでしまうことが怖かったからだ。
 死んだとは思ってはいなかったが、それでも、すぐに追いついてくるだろうと、当初誰もが抱いていた漠然とした予測は、この1ヶ月の間に最早、楽観視の賜物になり果てていた。

 

 


 美しい文様の浮かぶ床を螺旋通りに進んで行き、最奥へと辿り着く。
 周囲を警戒したが、魔物らしきものはいなかった為、調査を開始したジェイドを残し、他のメンバーはその場で休憩を取る事にした。
 冷たい床に腰を下ろし、車座に座ると、ティアは遥か頭上をみあげた。
 目の前のパッセージリングはまるでなにかのシンボルのように高く聳えている。
 それは今まで注目したことがなかったが、つるりとした素材でできていて、一際冷たく輝いている。まるで畏怖をもたらす偉人の墓のようだと思い、ティアは頭をゆるりと振ると、道具袋の中からチョコレートを取り出した。
 こういった小休憩の時、彼らは必ず甘いものを補給した。
 一時期、太ることを気にしてナタリアが控えていたこともあるが、高カロリーのチョコは栄養補給に持ってこいのお菓子だ。
 手軽に補え、そして疲れた体を癒すことができる。 
 ジェイドに以前、体が疲れていないと思っていても、実は脳が疲れていることがあるのです、と言われたことがある。それには甘いものが効果的です、と。
 あの時ティアは、ヴァンを止めないといけないという焦りと、後れをとり続けているというふがいなさで、夜も眠れないほどに気を張っていた。
 そして、あろうことか、うるさいほどに心配してくれたルークに当たってしまって、そのうえどう謝ったら良いか分からず、落ち込んでいたのだ。
 なにもかもがんじがらめだった。なにひとつ余裕がなかった。
 だが、そんなものは単なる言い訳に過ぎない。
 あの時、気をつかい、自分を心配してくれていたルークに対して、どうして思いやりを持てなかったのだろう。
 自分の幼稚さを、あれほど情けなく思ったことはなかった。
 


 ジェイドはなにやら難しい顔で、セフィロトの機器を睨んでいる。
 ポケットに左手を突っ込んだまま、右手でパネルをいじリ出すと、それを見て、よいしょとガイが立ち上がった。
 音機関好きの彼は、なにか自分で役に立つことでもないかとジェイドの傍へと寄って行こうとした。


 上向き気味にパッセージリングをみあげていたティアの視界に、なにかの黒い影が入り込んだ。
 ボール程度の大きさのなにかが、上から降ってくる。
 
 ぎょっとしつつも、ティアがガイに対して注意を促そうとするよりも早く、ガイもそれに気がついて、一歩後ろに下がる。
 ぶつかる範囲にいなかったのは咄嗟に分かっただろうから、反射的にだろう。
 黒い影は、ガイよりもだいぶ距離のある場所に、ぼてん、と落ちた。
 そして、

「みゅう〜〜〜〜〜〜!!」

「「「!!!」」」


 聞きなれた独特の高い声に、一同は一斉に腰を浮かせた。
 一番近くにいたガイが走り寄り、それを手に取ると、それは彼らの使っているものと同じ麻袋だった。
 なにかに弾かれるように、ガイが袋の口を縛っている綱を急いで解くと中から、ぴょこん、と薄く鮮やかな青い毛で覆われた丸い耳が飛び出してくる。

「ミ・・・ミュウ、か?」
「みゅ?」
 まあるいくりっとした目が、ガイを見つめ、およよ、とますます丸くなる。

「ミュウなの!?」
「えー!?」

 誰がどう見てもチーグルのこどもで、おなかに嵌めたソーサラーリングも一緒だった。
 ミュウ以外ありえないが、信じられない気持ちで確かめるように銘々がミュウの名前を呼ぶと、ミュウは、みなさんですの、おひさしぶりですの、と当たり前だが、しゃべった。

 
「なんで〜!?」
 一瞬だけ惚けた後、状況が把握できない全員の心情を代表するように、我に返ったアニスが叫んだ。
 今までの行方不明になっていたペットが、いきなり空から降ってきたのだから、それは驚きもする。
 しかし、だとしたら。


 一緒にいなくなった飼い主のほうはどうした?


「ミュウ、ルークはどうしました?」
 ガイの手の中の小動物に、最初に問いただしたのはジェイドだった。
 このチーグルが、うるさいほどに飼い主に纏わりつくのを知らない者はいない。そして、なんだかんだ口では言いながらも飼い主のほうも決してミュウを手放さない。
 彼らが一緒に森の中で行方不明になったのなら、途中までは一緒にいた筈だ。問題は、どこまで一緒にいたか、だ。
 ジェイドの冷静な分析に、ミュウは、みゅ?といういつもの平和な鳴き声をあげてから、ご主人様とは離れてしまったですの、と言った。
 説明しているようにみえて、どうとでもとれる表現だった。


 一瞬の間が空き、今度はガイがミュウにもっと詳しい説明を求めようとした時だった。
 とん、と軽い足音がその耳が捕らえた。
 反射的に振りむき、まるで身を躍らせるようにして、忽然とそこに現れた、白い影に息を飲む。


「ルーク!?」

 襟足で跳ねた朱い髪。丸く見開かれたビー玉のように澄んだ碧い瞳。
 数ヶ月間、見る事がかなわなかった姿の無事に、ガイの胸に安堵と驚きとがないまぜになった感情が込みあげる。

 ガイ、とルークの唇が言葉をカタチどり、それなのに、その足が一歩後ろに下がった。
 ジェイドはそれを見て違和感を覚える。
 ルークの表情にはもっと喜びが表れていても良かった。離れていた仲間に会ったのだ、少なくとも彼のまっすぐな性質を考えたら、そのまま満面の笑みで走り寄ってきた筈だ。
 だが今、ルークは彼らと再会を果たしたその位置に、まるで影を縫いつけられたかのように立ち尽くし、それ以上の接近を無言で拒んでいるかのように見えた。
 
 だが、他の人間は誰もそんなことには気も留めない。
 突然の再会に満面の笑みの花が咲き、そのなかでガイが、当然のように前に進んで感極まった声で、彼の名を呼んだ。
「ルーク!良かった、無事で・・・!」
 そして、いつものようにルークの頭を抱き寄せようと右手を伸ばした。


 ふ、とルークの影が動き、その手は空を切った。
 ルークの体はガイの手を避けるように、後ろへと下がっていた。
 消える魚影を追うかのように、ガイが目をあげると、そこには。


「・・・アッシュ?」

 再び心底驚いて、ガイが何度か視線を落ち着きなく動かすと、アッシュとルークの位置関係が目に入った。
 ルークの両肩を後ろから掴むようにして、アッシュが立っている。
 それは、引き寄せたというのが一番しっくりとくる体制で、まるでルークに触らせまいとするように、アッシュの左の肩が、ガイとの間に割り込んでいた。

「どういうことですか?」
 冷静に説明を求めるジェイドの声に、ガイは我に返る。
 警戒の類を気配に交えつつガイはルークを見たが、ルークはガイに目をあわそうとしない。
 ここにきてやっと、ガイもルークの違和感に気がついた。

 どういうこと、の続きをジェイドは口にする。
「今までどこにいたのか、と聞きたいところですが・・・。察するに、おふたりは一緒に行動していた、とみて宜しいですか?」
 いくらなんでもいきなりこのタイミングに、別々に分かれていた3者が行き交う偶然などありはしない。
 行方不明になっていたルークと、通りかかったアッシュに会ったのではなく、元から一緒にいたルークとアッシュのふたりに会った、と思うほうが自然だ。
 ルークは無言だった。
 その様子に、どうしたんだ?とガイが尋ねようとするよりも早く、アッシュの短い、ああ、という肯定の言葉が耳に入ってきた。
 いままで、ずっと?と幾分非難めいた色あいを強くしてつぶやくティアの声と、えぇー!?という不満溢れるアニスの声を割って、まぁ知らせてくださればよろしかったのに、とどこか暢気な口調でナタリアが言ったが、ルークはそれにも答えなかった。
 口を尖らし、不満そうにしながらも黙っている。

「ルーク?」
「?なんで黙ってるの?」
 謝り癖のあるルークなら、ここで詫びのひとつでもいれそうなものだ。
 アニスが、まるでルークを真似するように口を尖らすと、代わりのようにアッシュが口を開いた。
「こいつは今、口が利けねぇんだよ。」
「え!」
 なんだって!?と身を乗り出し、ルークの顔を覗きこんだガイの表情がみるみるうちに険しくなり、目尻がキリッと引き締まる。
 その視線が向けられた先は、アッシュだった。
「まさか、アッシュ。お前…。」
 びくりとルークの肩が揺れて、信じられないようにガイを見る。
 だが、それには気がつかずに、詰問するような口調でガイはアッシュに言った。
「ルークに、なにかしたんじゃないだろうな!?」

 アッシュは、決してルークの言葉を奪うようなことを画策してはなかったが、ルーク自身になにもしなかった訳ではない、というのも事実だった。
 面倒だというのもあり、アッシュは返答を拒否した。
 すぐに激高するクセのある人間が黙っているというのは、返す言葉がないのだと捕らえられるのは自然な成り行きでもあったし、だから、無言でいるアッシュに、ガイがなんらしかの誤解をしたとしても責められない。事実、誤解でない部分もある。

 ガイは殊更に眉を吊り上げると、アッシュの目の前のルークの両肩を掴むと、力いっぱいに奪い取った。
 言葉がないまま、目の前でアッシュが誤解されるのを、はらはら見ていたルークは、油断していたこともあって、あっさりとガイの方に引き寄せられる。
 あっという顔をした後、ルークの表情がなにかを後悔した時のそれに歪んだが、あいにくと気がついた者はいなかった。

「ルーク。」
 アッシュを睨みながら、腕を引いたガイだったが、がくん、とロックでもされたかのような抵抗を感じて、ルークを見た。
 そして、そこに浮かぶ表情に、一瞬だけ言葉を失った。
 どう表現したら良いのか。
 よく知った人物なのに、まるで中身を妖精に取り替えられたかのように、見知らぬ人物。それが初めて異邦人をみるかのようにガイを見ている。
 ガイは、いつものルークが失われていることを恐れて、さっきよりも強くルークの腕を引いた。
「ルーク、来るんだ!」
「……!」
 ガイに腕を引かれ、抵抗こそしなかったが、ルークは明らかに、素直に従ってはいなかった。
 しかし、ガイはなにかを言いたげなルークの言葉を聞きたくなかった。
 ルークが話ができないという状況に慣れていないガイは、なにかをルークが訴えてくるのが嫌で、手を掴んだまま、その場から連れ出そうとした。

「待て。」
 その時、刺すような鋭さで、アッシュがその動きを制した。
 
 ルークの反応ばかりに気を配っていたガイはもちろん、周囲も少なからず驚き、そしてなによりも一番ルークが驚いてアッシュを見た。
 アッシュは不機嫌そうにガイを睨んでいる。
 それを受けて、なんだ?と敵意を丸出しにしたガイが睨み返した。
「そいつをどうするつもりだ。」
「どうする、だって?」
 ガイは当たり前のこと聞くなよ、と鼻で笑い、
「ルークは俺たちと一緒に行く。当たり前だろう?」
「そいつがどうするのかは、そいつが決めることだ。そいつの意思を先に聞くのが筋なんじゃねぇのか?」
「は?」
 ガイは一瞬、苦虫が噛み潰したような顔をして、その後捻じ曲がったように口の端をあげて笑った。
「ルークの意思、ね。お前がそんなことを言うのか?いつもルークが自分の意にそぐわないと、ぎゃんぎゃん怒鳴り散らしている男が。」
「そいつに、自分の意思を持たれるのを怖がってるのはてめぇだろう。」
「・・なんだと!?」
「そうやって、こいつのためだという理由を振りかざし、いつだって自分の思い通りにしたがる。なにか逆らえば、お前はこどもだと黙らせることに必死になる。今みたいにな。」
 ガイの顔色が変わる。
 それは無意識にガイの図星であって、少なからず心当たりがあることを、アッシュに指摘されるとは思わなかったのだ。
「知ったような口きくなっ!」
「まんま返すぜ、復讐者。こいつに対して後ろめたい気持ちが一切ないなら、俺になにを言われても平気なんじゃねぇのか?」
 アッシュに鼻で笑われ、ガイの頭に血が昇る。
 それはガイにとって痛いところ以外のなにものでもなく、自分がルークに対しての過保護になった理由は、後悔という産物が生み出したものだとガイ自身自覚していたからだった。
 そこを突かれて、思わずガイはアッシュの胸倉を掴んでいた。
 アッシュに殴りかかろうとした腕は、すがりついてきたものを邪魔としか感じず、思い切り振りかざしたところで、ガツン、と大きな衝動を受ける。

「・・・っ!」
「ルーク!」

 ガイは反動で殴ってしまったものがルークだと知って、我に返った。
 ルークは、左の目のあたりを手のひらで抑えてその場に屈みこみ、慌ててティアが駆け寄る。


「そこまでです、ガイ。」
 静かなジェイドの声に制されて、ガイは、ああ、と挙げていた手を下ろした。
 ルークを殴ってしまったこともそうだが、ジェイドの声にはいくぶんか怒りが込められていて、それはアッシュではなくガイに向けられていた。
 ガイのルークに対する態度はアッシュの言う通りだと、誰もが思っていることなのだということを、ガイはそれで知った。

 しかし、それでも誰もが、黙っていた。
 それぞれがそれぞれ、ルークに対して後ろめたいことがない人間など、ここにはひとりも居はしなかった。
 もしもルークがそのまま、彼らから離れ、アッシュを選んだとしても、それをどうこういう権利はなかったし、寂しくも悲しくもあったが、責めるのはお門違いであることも自覚していた。
 それまでのルークに対しての自分の行いを顧みて、後悔しなかったことなど一度もなかった。
 それくらい今の彼らは、それぞれがルークを愛していた。

「ルーク。」
 ジェイドに呼ばれ、ルークは左目を抑えたまま、上をむく。
 その手の下が赤く腫れていることに気がついて、ガイの胸がずきりと痛んだ。
 ルークはなにも言わない。
 口を聞けないという事実が、いきなり現実感をもって押し寄せてきて、ガイの胸を重く押した。

「今までアッシュと行動を共にしていた、ということは分かりました。その他のことは今、この場では問いただすことはしません。しかし、一切の連絡を寄越さなかったことには、我々も少しばかり思うところはある。それは分かりますね?」
 我々には貴方を心配する権利があるのですよ、とジェイドは言って、こくんと素直に頷くルークを見ると、
「貴方も。」
 今度はアッシュを見た。
「・・・ああ。」
 そして、アッシュは意外なことに、悪かった、と謝った。
 おや、と目を丸くするジェイドに、
「少し・・・状況を甘くみていたのは、認める。こいつのこの状態がすぐに治ると思っていた。結果的には一月も音沙汰なく、ここまできちまったことは、謝る。」
 と嫌そうにしながらもアッシュは言う。
「おや、そうですか?」
 貴方に謝られると気持ちが悪いですねぇ、とジェイドが言う後ろで、頭を掻きながら、ガイが居心地の悪そうにもぞもぞと体を動かした。
 彼にしてみても、なにも初めからアッシュに喧嘩をふっかけるつもりはなかったのだ。
 探していたルークを、こちらの気も知らずに、勝手に連れまわしていた。その事実につい感情的になってしまっただけで。


「あの・・・。」
 
「・・・!」
「あ。」
 いきなり割り込んできた声に、全員が一斉にそちらを向き、ギンジさんですの、とミュウが言った。
 ギンジは別にいきなり振って湧いた訳でもなんでもなく、ちゃんとアッシュより少し遅れてこの場に到着していた。
 なのに、ガイとアッシュが険悪なムードになって、今まで口を出すタイミングを失っていただけだった。
 ギンジは少しだけ困ったように眉をさげ、ルークさん戻っちゃうんですか?と残念そうな口調を隠しもせずに言った。

「あの・・ルークさんの荷物・・・。オイラたちの泊まっている宿にあるんですけど・・・。」
 どうしたら良いんでしょう、というギンジに、そうですね、とジェイドは相槌を打った。
「・・・確かにアッシュの言うことも一理あります。」
 ローレライの解放という役目のことを考えたら、アッシュとルークは少なくともヴァンを倒す時には一緒にいなければならない。しかも、宝珠が未だに見つかっていないことを考えると、行動を同じくして狙われるリスクを鑑みても、彼らを引き離すことが得策とは言いがたかった。しかし、だからと言ってルークと別行動を取るのは問題外だ。
 彼らには彼らのしなければならないことがあり、それにはいざという時に超振動を使える人間が必要になるかもしれず、どう考えても人手は多いほうが良い。ヴァンに対して、磐石という言葉はないのだ。
「我々も宿をとり直さなければならなくなってしまいますし・・・今夜はアッシュたちと一緒に行ってください。」
 えー?と不満げな声をあげたのは、ガイではなくアニスだった。
 それに対し、確かに決めるのはルークですよ、と窘めた後、
「しかし、今の状況がわからないほど、貴方もこどもではないと信じますよ。」
 とジェイドは言った。
 帰らざるおえない言葉でルークを縛るやりかたに、アッシュは苦々しくジェイドを睨んだが(結局はガイと同じじぇねぇか)、ルークがジェイドをじっと見て、こくん、と頷いたのに気がついて、口を挟みはしなかった。
 経緯はどうあれアッシュには、ルークが選んだのであれば、それに口出しする気は毛頭なかった。

 ルークは、答えを出したのだ。

 

 

 

 

 仲間とところに戻ることは一番の選択だと思えたし、戻ることに抵抗は一切なかったが、ルークの心には、まるで自分がひどい目にあっているかのように嵐が渦巻いていた。
 それは隠しても隠し切れないほどの落胆で、帰りしな「そんな顔するなよ」とガイに慰められるほどだった。
 

 宿に着くと、じゃあオイラは買出しにでてきます、とギンジが言った。
 まだ夕食には時間があったし、今日はルークさんの送別会ですから美味しいものでも食べましょう、とにこりと笑うギンジの目尻は赤くなっていて、ルークはそれを見て、ちくりと胸が痛んだ。
 別れを惜しんでもらえることを嬉しく思う。
 そして同時に、もしかしたら皆も、離れていた一月の間、行方不明の自分を心配し、同じように心を痛めてくれることもあったのかもしれないと思い、さらに胸の痛みが増した。


 パタン、と扉の閉まる音がして、ルークは部屋に一歩入ったその場で、立ち尽くしてしまった。

 アッシュはなにも言わない。
 別段なにもなかったかのように、普通に部屋の奥へと進み、出かける前に読みかけていた本を手に取って、それをベッドサイドまで移動した。明日発つ時に忘れていかないように、常に見えるところまで持ってきたのだろう。
 ルークは話せないから、アッシュが黙ってしまえば、部屋には人の言葉が存在しなくなる。

 

 ・・アッシュ・・・。

 焦がれるその名を心の中で呼ぶ。
 すぐ傍にいるのに、自分たちの距離は遠く、今でも通じ合ったものがあるとは思えないが、それでもなにかはできたと思う。
 絆のように屈強でもなく、すれ違う程度ほどに脆くも無い。
 雲のように霧散し、蜘蛛の糸のようにあっさりと切れる、その程度のものだが、高みにありしなやかでもある、そういうものが。
 

 今、アッシュと離れるということは、かすかに息づき始めたそれらの息の根を止めてしまうようなものだ。
 次に会った時、アッシュはもう今のアッシュではない。
 確実にルークのいないところで変わり、ルークの知らないアッシュになってしまう。
 嫌だった。どうしてもそれだけが。

 アッシュの人生は孤独と歩んできた軌跡の積み重ねかもしれなかったが、しかしアッシュは決して寂しい人ではないと思う。
 遠く離れていてもナタリアは彼を愛したし、漆黒の翼も金で雇われているという割りにはアッシュの頼みごとを他よりも優先させる。
 そしてなによりも、今のアッシュの傍にはギンジもいる。
 離れてしまえば、アッシュはルークが傍にいたことなど過去のこととしてしまい、確かにいつもと違っていた筈の空気さえ、すぐに忘れてしまうだろう。
 アッシュから離れれば、ルークの存在などなかったことにできる程度の問題なのだ。

 たまらなく悔しい。
 ギンジも、実は気の良いヤツラの漆黒の翼も好きなのに、これからも好きな時にアッシュに会えるというだけで、彼らへの嫉妬で狂いそうだ。

 今この時間を、壁に縫い付けた影のように止めていられるならどんなに良いか。
 その為ならなんだってする。

 


 なんだって!

 

 
 アッシュは平静そのものだ。
 ルークに背を向け、明日の為の荷造りを初めていた。
 その荷をまとめる手は、慣れたものでよどみがない。
 明日になればルークはいなくなるというのに。

 どうせルークがいなくなっても、静かになって助かった程度にしか思わないに違いない。
 あれもこれもアッシュにとってはきまぐれで、なんの意味もないことだったのだ・・・きっと。


 芽生えた一瞬の殺意は、本物だった。
 このまま時を止めるには、ギンジにもナタリアにも渡さない為には、自分が独占するためには、今日のアッシュを明日もあさってもつなげる為には、彼が変わるのを許さないためには、殺してしまうしかないと思った。

 

 

 

 


 そうでなければ、アッシュを手にいれることなんてできないじゃないか!!

 

 

 

 どん!と激しい衝撃が後ろから襲い掛かってきて、アッシュは突然のことによろめいて目の前の壁に手をついた。
 密着する体はこどもの体温のように熱く、ぎゅうっとしがみついてきた腕を軽く叩いて、放すように促したが、ルークはぴくりとも動かなかった。
 同じ背のふたりは抱きついても肩口に顔を埋めることはできない。
 その為に隙間が作られることが嫌で、ルークはアッシュの耳の裏あたりに顔を押し付けた。
 湿った感覚を感じて、アッシュはルークが声もなく泣いているのだと気がついた。

「面倒臭ぇヤツだな。」
 舌打とともに、アッシュは履き捨てる。
 
 もともと湿っぽい場面というのが好きではない。
 その場に立ち会う時、大概は、自分が加害者であったことも理由のひとつだが、人がなぜ泣くのか理解しがたい。

「泣くぐらいなら、選択するなよ。」
 結局のところ、アッシュとルークのふたりが別行動したほうが都合は良い。だが、裏をかえせば、その程度のことなのだ。
 ふたりが別に行動しなければ、世界が滅びる訳でもあるまいし、嫌なら嫌だと拒否をすれば良いだけの話だ。
 しかし、ルークはそうはしない。
 それは、このこどもが誰になんと罵られても揺ぎないほどの意思を持っていなければ通せないことで、一緒にいたいというのは感情であって、意思というものとは違うからだ。
 世界を守りたいというのは、意思で、信念だ。
 一緒にいたいというのは個人の希望だ。
 どちらが優越というのではなく、ルークという人間は、自分の幸せを大声で望むタイプでもなかった。
 
 だから。
 
 

 ガツンと頭を打って、うー、ルークは眉間に皺を寄せた。
 いきなり壁に叩きつけられて、文句を言おうと(言えないのが実情だが)アッシュを見た途端、ルークの視界に大きな影が映りこんだ。
 焦点があうのが遅かったため、折角だというのに、近くに迫ったアッシュの顔をまともに見ることができなかった。
 ルークは目を見開く。
 初めての感触だが、それがなんだか知らない訳もない。


 キスだ。
 自分は壁に押さえつけられ、アッシュにキスをされているのだ。


 唇を合わせたことがない事を嘆いたのは、今朝のことだ。
 それからわずかな間に、ルークは自分が恋焦がれていたものを手にいれ、そのことにのぼせそうになった。
 
 軽くあわせただけだった唇のわずかな隙をついて、温かい舌が入り込んできて、ルークは自ら口を開いて、アッシュを向かい入れた。
 暴れるというほど凶暴でもなく、優しいというほど冷静でもなく口内を探るものの感覚に酔い、ルークはそれに夢中になって応えた。
 両の手をアッシュの首と後頭部へと回し、左手にさらりとしたアッシュの髪を絡ませる。
 
 その行為そのものは初めてだったが、いつかのように体を重ねるよりも、よっぽど性的な匂いがして、そう思った途端、緊張した時と同じような感じがした。
 それに逆らえる気がせず、ルークがそのまま流されようとすると、ふ、と堪えられずに喉の奥から熱い息が漏れ、その途端、その行為に終止符が打たれた。
 ルークの手はいきなりなくなった重みに空を切る。
 少し非難を込めてアッシュを見ると、アッシュは自分の口を拭い、ここまでだな、とまるで壊れたオモチャを放るように、それまで掴んでいたルークの胸ぐらを離した。
「ギンジが帰ってくるだろう?」
 ここは三人部屋だし、ギンジの買い物にそれほど時間がかかるとは思えない。
 そこまでは冷静さを失えないアッシュをどこかで恨みながら、ルークはこくんと頷いて、自分の唇に手を伸ばす。
 昨日まではこの感触を知らなかった。明日になったらまた、なかったことになるのだろうかと思うと、また新たな苦しみが湧いてくる。
 それでもルークは、自分を贄に捧げる行為に繋がるとしても、糧であることには違いないと思った。

 

 


 


 

 アルビオールで一晩過ごし、操縦席で惰眠を貪っていたギンジは、目の前のシールドになにかがぶつかる音で目が覚めた。
 目を擦りつつ下を覗き込めば見慣れた赤と黒のコントラストが、腕を組んでこちらを見上げている。
 慌ててハッチを開けるとアッシュは無言のまま、乗り込んできて隣に座る。座る時、後部座席に投げられたのは、自分とアッシュの荷物だった。
 あのアッシュさん、とギンジは言った。
「ルークさんは?」
 アッシュはじろりとギンジを睨むと、
「もう行った。」
 と言う。
「えぇ!?オイラお別れも言ってないんですよ?」
「言うもなにも今生の別れでもねぇだろう。うるせぇな。」
「だって!」
 だって、だって〜と騒ぐギンジを睨み付け、アッシュは、おい、と呼ぶ。
「・・・帰って来ないつもりだったなら、最初にそう言え!」
「・・・え?」
 驚いて聞き返すが、アッシュは答えない。
 結局ギンジには、気を利かせたつもりなのに、なぜアッシュがここまで不機嫌なのか、その理由に思い当たらないのだった。

 

 

 

 

 

 

 


な・・・難産だった・・・。

 

(’09 10.8)