あたりは暗く、目を凝らしても一向に視界は慣れない。
 膝の下の土の感覚は柔らかく、湿っていた。
 それは足首にも膝にもかかり、まるで自分自身を埋めてしまうかのようだ。
 わずかに、高く聳えるような木々の陰から、なんとも言えない色をした月の姿が見えた。
 冷え冷えと冴え渡るその姿に一瞬、ぞっとしたものを感じたが、今だけはそのほのかな恐怖までもが救いだった。
 まだ、恐怖を感じる、というまともな感覚が自分にあるという事が。

 土を掻き出す腕に、ずぶずぶとした終わりのない感覚が纏わりつく。
 同じ作業を何度も何度も繰り返すうちに、爪は割れ、血が流れ出す。
 そして、その湿った土の感覚が肘まで到達した時。
 
 舌を強く噛むと、鉄の味がした。 
 舌の痛みも、割れた爪の痛みも、それには到底敵わない。
 この、胸を引き裂くような、痛みには。
 
 口の中に流れ出る血を今しがた掘った穴へと吐き出す。
 忘れたい名前と共に。


『・・・アッシュ。・・・アッシュ。』

 

 

 

 

 

 

 

鏡は囁く
2

 

 

 

 

 

 

「・・・・っ!」

 あまりのリアルさ声にならない悲鳴をあげて、ルークは飛び起きた。
 はぁ、はぁと肩で息を整え、体を前に倒す。
 備え付けのシーツは白いが、その洗濯の数を証明するかのように、固い。そのなかで体を丸め、なにかから身を守るようにして、うずくまった。
 部屋のなかは、ぼんやりと白く、光が壁を照らし出していた。
 もうすぐ夜明けなのだろう。
 たいぶ息の乱れが納まり、ルークは他のふたりの様子を伺った。
 隣のベッドで眠るギンジは寝姿も彼らしく、どこか無防備で、半分ほどふとんを蹴飛ばしたかっこうで、すぅすぅと規則正しい寝息をたてていた。
 その向こうのベッドでは、アッシュがこちらに背を向け、シーツに包まるようにして眠っている。
 ギンジとは対照的に寝息すらたてず、身動きもしない。

 ルークは声が出なくなって以来、五感が鋭くなっている。
 そのルークの耳にもアッシュの寝息は聞き取れなかった。
 部屋のなかには、宿に備え付けられた時計の、コチコチと時を刻む音と、ギンジの寝息と、ルークの息遣い、それ以外は存在せず、ただ静寂と、いつまで続くかわからない緩やかな空気がぬるま湯のような現実感を、ますます薄くさせていた。
 ふ、と気になってルークはベッドを降りた。
 冷たいタイルの床をスリッパも履かずに歩き、アッシュに近づく。

 アッシュは、静かに寝入っている。
 時折、上下する肩の位置を見て、ルークはほっと息をついた。
 まさかそんな訳はないと思ってはいたが、アッシュの寝息は静か過ぎた。だから、きちんと息をしているのかを確認しないではいられなくなったのだ。

 安心して、ルークはアッシュの顔を覗きこんだ。
 一緒に行動をしていても、アッシュはルークの存在を許した訳ではない。
 だから、この距離で顔を見ていられるということは、大変貴重なことだ。
 ルークはベッドの上で身を屈め、自分の影が眠るアッシュにかからないように気をつけながら、そっと睫毛の先に触れてみた。
 それは触れているという実感に乏しいほどの、微々たる感触だったが、それでもアッシュのものに違いなかった。

 ふう、と息をつき、満足したようにルークはアッシュから離れた。
 足音を立てないように踵を返し、裸足の足を一歩後ろへと引いた時だった。

「・・・・・っ!」
 声が出たら、驚いて悲鳴をあげていただろう。
 去ろうとするルークの手首をいきなり、シーツのなかから出てきたアッシュの腕が掴んだ。
 驚いたことで息を飲み、身を硬くしたルークは思わず手首を引こうとしたが、アッシュの腕はルークの手を離さず、必然としてその場から離れられなくなった。

「・・・なんだ・・・。」
 起きているのか寝ているのかもわからないくぐもった声が、シーツのなかから聞こえてくる。
 それから、おまえか、とはっきりとしない発音の言葉が続く。
 言葉遣いが明瞭としていないところをみると、やはり寝ぼけているのかもしれない。
 人の気配を感じ、反応してしまったのだろう。それが、危険に身を晒してきた者の反射的な行動だ。
 
 ルークは黙ったまま(話せないので)、そこに立っていたが(手を離してくれないので)、ほんの少しの間があって、もう一度アッシュは、なんだ、と言った。
「・・・?」
「なんなんだ、これは。」
 これ、とアッシュが指すものがなにかわからない。
 戸惑うルークに、ちゃんと手を洗え、とアッシュはルークの手を押し戻す。
 これ?と思いながらルークは開放された自分の手を見て・・・。
 ぎくり、と体が強張る。
 昨日は、一番初めに風呂に入って、それから一歩も部屋の外へは出ていない。
 ギンジも、アッシュも証言者になってくれるだろう。
 だけど。

 ルークの爪の間には、土が詰まっていた。

 


 


 

 

 

 セフィロトへの飛行ルートを、アッシュとギンジが話し合っている横で、ルークはそれを眺めていた。
 声が出ないことは元より、生まれてからずっと狭いところに押し込められて生きてきたルークが、ほんの少しの間に得た自由の中で知れるほど世界は狭くない。ルークがふたりに進言できることなど少なく、口を挟んだとしても一笑に付せられるのが落ちだ。

 ルークは自分の指を見る。
 綺麗に切りそろえられているそれには、今朝、何度も洗い落とした為、もう土はついていない。
 だが、確かにあった筈の痕跡も、洗い流してしまった今ではまるで、幻を見ていたかのような錯覚に陥る。
 あるいは、白昼夢を見ていたのかもしれない。
 けれど。

『確かにあの時、アッシュもそれを見ていた・・・。』

 自分ひとりなら、錯覚だ寝ぼけたんだと言い訳できるが、他者の証言があるならそれも敵わない。
 ルークは、はぅ、と息とついて、複雑な胸のうちを溜息に変えた。

 

「みゅ?」
 邪魔だからと(アッシュに)いわれ、操縦席の近くにひとりで置かれていたミュウが、いきなり耳をぴん、と立てたかと思うと、ノエルさんですの〜と声をあげた。
「ノエル?」
 聞きとめて、ギンジが操縦席へと急ぐ。

 アルビオールは2号機と3号機とで通信ができるように機能されているが、通信の手段は難しく、あまりにも離れたり電波の届かないような障害物があったりするとそれもままならない。
 故に、この機能も、その威力を発揮しようとするなら、2号機と3号機が平行して飛ばなければならないのだが、それでも、時々こうして通信が繋がることがあり、その時は、たしかに便利でもあるのだ。

『お兄さん?』
「ああ・・・そっちはどう?皆無事かい?」
『ええ・・・皆さん、ご無事です。だけど・・・ルークさんが・・・。』

 時々途切れながらも、流れてくるノエルの声に、ルークは複雑な気分におちいった。
 ノエルの言うルークは、無事にギンジの隣にいて、しかしそれを伝える術だけはなくしている。
 ルークとギンジが同時にアッシュを見たが、アッシュは首を振って、それに答えた。
「そっか・・・。でも、きっと無事だよ、ルークさんは・・・。」
 飄々と嘘をつく(それしかないのだが)ギンジを見ながら、ルークは俺がここにいることが知れたら、後でギンジが怒られたりしないだろうかと急に心配になった。
 嘘の元凶はアッシュだが、アッシュは大人しく怒られてはくれまい。
 必然的に、ギンジとルークがふたりして頭を下げることになるのではないのだろうか。

 その時、ノエルの声にかぶさるようにして、別の声が割りこんできた。

『ギンジ、アッシュは?』

「・・っ!」
「・・ナタリアか・・・。」
 ちっと軽く舌打をし、アッシュは眉を顰める。

『アッシュは、一緒ではないのですか?』
「え?ええっと・・・;」
 うろたえて、ギンジはアッシュを見た。
 ルークのことは口止めされているが、アッシュのことはどうするのか聞いていない。
 ルークがアッシュを横目で見ると、アッシュは眉間に皺を寄せたまま、黙って首を横に振った。

『ギンジ?』
「あ、ええっと・・・アッシュさんもまだです。ずっと待っているんですけど。」
『まあ、今までずっとアッシュを待っていたのですか?』
 なんだか感激したような声を出し、ナタリアが感心しているのを感じて、ギンジは罪悪感でいっぱいです、と涙目でアッシュに訴えたが、アッシュはどこ吹く風と言った体だ。
「えっと・・・オイラはアッシュさんがいないと、目的もありませんし・・・。」
『まあ・・・。』
 そんなことないですわ、あなたの行いは立派ですもの、と素直にギンジの行動を褒めるナタリアに、ルークも大きく賛同していた。

 この言葉の足りないアッシュを黙って信じて、ついてきてくれた人。
 ギンジの存在はきっと、アッシュにとっても大きい・・・。

 ナタリアに対して、なにも思うことがないとは言わない。
 だが、それは自分の一方的な事情であって、彼女のせいでは微塵もない。 
 弱き者を助け、困っている人には手を差し伸べ、素直に他人を賞賛できる。
 ナタリアのその気質を、ルークは愛していた。

 そしてだからこそ、彼女と自分を見比べられずにいられないものも事実・・・。

 なぜならナタリアは。

 

 

 


 

 ・・・・・アッシュに愛されるだけの素質があるのだから。

 

 

 

 

 

 


 どういう理由かは今でもわからないのだが、アッシュは人よりも先に風呂に入りたがらない。
 思うに、ルークがいなかった間も、アッシュはギンジを先に入れ、自分は後から入っていたのではないのだろうか。
 3人になっても、アッシュが一番最後という順番は変わらなかった。
 代わりにギンジが、お先にどうぞとルークに譲ってくれるものだから、遠慮しようにも言葉がでないルークは、断ることもできない。それにルークも最近では、開き直って病人扱いされることにしていた。
 廻りに気を使われて、それに返そうと遠慮していても、相手を説得する術がないのだから不毛なだけだ。
 
 暖かい地方だから、長く入っているとのぼせてしまう。
 全身を洗い、シャワーだけを浴びて出てくると、次を待っている筈のギンジの姿がない。
 ルークがバスルームに向かった時に、床で荷物の整理をしていたから、てっきり着替えの準備でもしているものと思っていたが、どこかに行ったのだろうか。
 そなえつけのバスタオルで濡れた髪をごしごし拭きながら部屋の中を見回すと、ルークに宛がわれたベッドのうえで、ミュウが丸くなって眠っていた。ミュウは爆睡状態になると猫のように体を丸めるクセがあるから、ああなったら、ちょっとやそっとでは起きはしない。(そもそもミュウは飼い主に似て寝汚い)

「・・・相変わらず、長い風呂だな。」
 え、とルークは、テーブルで本を読んでいたらしいアッシュを見た。
 今日はシャワーだけだから、短いと思ったのに、そんなに待たせただろうか。
 
 ルークは実は風呂好きで、毎回きちんと湯船に湯を張り、体を沈める習慣がある。
 やっぱ坊っちゃん育ちは違うね〜などとアニスにはからかわれたものだが、たちあがる湯気にほんわかと体が温まる感触は、最高に気持ちの良いものだ。

「ギンジなら・・。」
 アッシュが言った。
「所用で、でかけているぞ。」
「!」
 後になって知ることだが、漆黒の翼が面倒に巻き込まれ、ヨークが怪我をしたという知らせが昼間のうちに鳩で届いていたのだという。ギンジは彼らを迎えに行っていた。
 だが、そんなことはどうでも良かった。
 部屋のなかを見回したルークに気がついていたのか、それとも他に会話がないからか、本から目を離さない状態だったが、それでも、アッシュが、ルークに話しかけた。
 うるさくつきまとった訳でも、解を求めた訳でもないのに、自らギンジの話題をルークに振った。
 それは、行動を共にする者たちの間では、ごく自然な流れの会話だったが、問題はそれを、アッシュがルークに行なったということなのだ。

 

 アッシュが。

 

 ルークに。

 


「・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・なんだ?」
 感極まって立ち尽くしているルークは、理由に思い当たらないアッシュから見れば奇妙なだけだ。
 ルークが、なんでもない、と首を振ると、アッシュはふん、と鼻を鳴らし、
「・・・風呂に入ってくる。」
 投げ出すようにして、読んでいた本をテーブルの上に伏せると、立ち上がった。
 まるでルークと一緒にいるのを避けるかのように思えなくもなかったが、それでも良かった。
 さきほどのことがあった後では、そんなことも気にならない。

 バスルームから、水が床を叩く音が聞こえ出した頃、ルークはアッシュがテーブルに伏せた本を手に取った。
 硬い文章と、専門的な言語の羅列で、ルークには理解しがたかったが、それをアッシュが読めるという事実に、少なからずルークは高揚する。
 尊敬と、誇りと、憧憬と。
 自分に向けられる嫌悪の反動のように、ルークはアッシュを求める。
 まるで自分のなかから落っこちた部分を全てアッシュが持っているかのように。
 
 反対にアッシュの不要な部分が自分かもしれない、という思いが一瞬、脳裏を掠めたが、ルークはそれを胸の奥にしまいこむ。
 今日は良いことがあったのだから、わざわざ落ち込まなくても良い。

「・・・・っ。」
 ごしごしとタオルで髪を拭いていると、左目にちくん、と小さな痛みが走った。
 この痛みはいつもの、まつげが目に入ったそれだ。

 髪を拭いて濡れたタオルをベッドに投げ(ミュウには当たらなかった)ルークは鏡を探したが、あいにくとこの部屋には備え付けられていなかった。
 唯一鏡があったバスルームはアッシュが使用している。
 なにか鏡の代わりになるものはないか、と道具箱をひっくりかえし出して、前にバザールの呪い師から貰った手鏡のことを思い出した。
 たしかここに、と道具袋の内ポケットを探る。
 小さくてどこにいったかわからなくなりそうだったから、ここにつっこんだと思うのだが。

 果たして手鏡が見つかって、覗き込みながらルークがあっかんべーをすると、小さな赤い睫毛が、目の縁に張り付いていた。
 先端が目の中にはいり、ちくちくと刺していたものらしい。
 そっととり、指の上にのったそれを、やっぱりアッシュもまつげとかすぐ目に入るんだろうか、と考える。

 くしゅん、とくしゃみをひとつ。
 その後、妙に眠たくなってきて、体がだるく感じられた。
 ヤバイ、風邪か?と少しだけ焦りながら、ルークは薬草がなかっただろうか、と部屋の隅に置かれたはずの共通の道具袋を振り返った。
 治癒師のいない彼らの旅には、薬草がかかせなかった。
 アッシュもギンジも薬草に詳しく、ルークはまるでわからないのだが、確か以前も体がだるかった時、ギンジが煎じて飲ませてくれたものがあった。たしか赤子の手のようなカタチの特徴的な草だったから、アッシュに聞かなくてもルークでもわかるだろう。
 薬草袋を取り出してみると、乾燥させた草が分類別に小分けにされている。
 小さな手、小さな手、と頭のなかで復唱しながら、ルークはそれをみつけ、コップに熱い湯を注ぐと、中に入れて十分にふやかしてからそれを飲んだ。
 熱い湯が喉元から胃のあたりを通っていく感覚がして、ルークはほぅ、と息をついた。
 湯上りには冷たい水よりも暖かい湯を飲むほうが体を冷やさなくて良いのよ、と以前ティアに言われたことを思い出し、たしかにそうかも、とひとり納得した。

 薬も飲んだし、さて、とルークは自分の荷物の傍に戻った。
 明日の支度をしておかなければならない。 
 支度といっても、今日と同じ荷物だが、アイテムのチェックや剣の手入れを怠る訳にはいかない。
 これ以上、迷惑をかけて、アッシュに舌打されるのは嫌だった。

 

 アッシュ。

 


 ギンジに言われるまでもなく、ルークはアッシュに対する自分は病んでいると思う。
 傍にいない時は、夜になると無事を祈り、どこにいるのか思い馳せては、胸を掻き毟るほどの衝動にかられた。
 では、一緒にいる今は・・・?


 ルークは、アッシュと別れる日がくるのが怖い。
 自分のするべきことはこれではなく、必ず仲間の元に戻らなくては、と思っているからこそ、その日がいずれくるという事実から目を背けようとする。 
 それは明日かもしれない、またひと月先のことかもしれない。
 だが、アッシュと別れ、旅の続きをしようという時、ルークは今までと同じ感情で、仲間とともにはいられないと思う。
 ルークのなかにあった旅という現象は、確実に姿を変えてしまった。
 
 ギンジが心配するのも無理はない。
 ルークは、なにかに・・確実にアッシュに・・・縋らないでは生きていけなくなっているのだ。


 

 
 ふ、と床に目を落とせば、さきほど荷物から取り出した手鏡が落ちていた。
 
 それを持って帰ってきた時、アッシュには、てめぇは女か、と鼻で笑われ、ギンジには苦笑された。
 だが、似合いますよ、というありがたくないギンジの褒め言葉に比べたら、アッシュの嘲笑のほうがマシだった。
 
 ルークはそれを覗き込む。
 呪い師はなんといっただろう。
 そこに自分の望む姿が映るとかなんとか言っていなかったか。
 もしも本当に願いがかなうなら、自分はなにを望むだろう。

 声が元に戻ることか?

 


 世界の平和か?

 


 そんなことは、考えなくてもひとつに決まっている。

 

 

 


 


 ルークは床に置いたままの鏡を覗き込んだ。
 乾いた風にさらされてぱさぱさになった赤い髪の、みすぼらしい男が映っている。
 柔らかい金髪も、ほっそりとした白い指もない。
 世界でひとり、選ばれるのは・・・・・。

 


 ナタリア・・・。

 


 ルークは胸の痛みに耐え切れず、屈みこむようにして床に頭をつけた。
 どうしてこんなにも、世の中というものは思い通りにならないのだろう。

 

 どうして・・・。

 


 ナタリア、俺に。

 

 

 

 

 アッシュを譲ってよ・・・。

 

 

 

 


「ナタリアが、どうした?」
 険を含んだ声に、ルークは反射的に身を起こした。

 そこには風呂からあがり、黒いシャツを羽織ったアッシュが、ルークを睨みつけている。
 肩にかけただけではその長さを補うことができず、濡れた赤い髪がバスタオルから背へとはみだしていた。
 ぽたり、とアッシュの髪から床に雫が滴った。

 アッシュは無言で一歩、前に出た。
 ルークは思わず、床に座ったまま後じさりをし、それに気がついたアッシュは、殊更眉間に皺を寄せると、ちっと舌打をした。
 そして、床に目を留めると、
「・・・こんなもんに縋るなんざ、やっぱり屑だな。てめぇは。」
 手鏡を蹴飛ばした。

 あ、と床をすべるそれに、ルークが思わず手を伸ばすのと、アッシュに襟首をつかまれるのは一緒だった。

「てめぇを見てると、ムカムカする!」
 がくんと後ろに首を逸らしたルークの顔を近い位置で上から見下ろし、アッシュが吐き捨てた。
「言葉がしゃべれねぇ、なにもほしがらねぇ、挙句の果てはまじないか?それで贖罪のつもりか?自分ひとりだけ不幸を背負ったような顔しやがって。」
「・・・・・。」
「で、結局、いつものだんまりかよ。」
 床に突き飛ばすようにして、アッシュはルークを解放した。
 だんまりもなにも、今のルークには言葉を話す術がない。
 そんなこと、アッシュだって・・・。


 結局、いつもそれだ。


 わかっていてもなにもかも、アッシュはルークを許さない。
 どんな酷い目にあったって、それは自業自得だと言い放つ。
 ナタリアには、優しく手を差し伸べるのに。

 

 


 いつだって。

 

 

 


 いつだって。

 

 

 

 

 いつだって!

 

 

 

 

 床から顔をあげ、きっとアッシュを睨みつけるルークに、口元に笑みを浮かべ、アッシュが言った。
「てめぇ、本当はしゃべれるだろう?」
「・・・・・っ!」
 もしくは、とアッシュは言い、床に膝をつくルークに覆いかぶさるようにして、自らの片膝をついた。

「・・・本当に、しゃべれないと自分で思い込んでいる、か。」

 俺は、とルークは口を動かした。
 
 嘘をついている訳でも、騙そうとしている訳でもない。
 本当にしゃべれないんだ。
 だって嘘をつく理由なんてないじゃないか!

 信じてもらえなくて悲しいとかそういうレベルではなく。
 アッシュの確信的なモノ言いは、ルークを惨めにさせる。

「どうかな?」
 アッシュは口元に笑みを浮かべる。
 それは、嘲りにも苦笑にも見える笑みで、ルークは悔しさで顔に血が上るのがわかった。
 だが、アッシュが次に言ったことで、思考は一瞬、止まる。
「てめぇの胸に手をおいて、よく考えるんだな。理由なら、あるだろ。」
 理由?
 話さない理由なんて。
「てめぇは話せないんじゃねぇ。」
 もう一度、念を押すようにアッシュは言った。


「話したくないんだろ。」


 その時ルークの心に浮かんだのは、なにを、ではなく、なんで、だった。
 だが、アッシュが言ったのは、なぜ、ではなく、なにを、だった。
 それがわかったのは、アッシュに、乱暴に手首を取られた時だった。

「俺に知られるのが、そんなに怖いか?」

 ルークの呼吸が一瞬、止まる。


 なにが?
 
 なにがって・・・それは。

 まさか、だって、そんな・・・。

 隠してきたつもりだった。
 ずっと隠すつもりだった。
 まさか、そんな。

 

「てめぇは卑怯だ。」
 ルークを見下ろすアッシュの瞳は冷たい。
 それを避けようと下を向こうとするのを封じるように、アッシュの指が伸びてきて、ルークの顎を捕らえた。
「欲しいなら、欲しいとなぜ言わん。」
 俺は。
「黙ってれば他人が救ってくれるとでも思っているのか?」
 だって、俺は。
「それとも、手痛く拒否されるくらいなら、初めから諦めますってか?」
 だって、それは。

 アッシュが。

 きっと迷惑だろうと・・・。


「てめぇの都合で、親切を押し売りするんじゃねぇ!」
 ばんっ!と近くの床を殴られ、ルークは身を縮ませた。
「言えよ。」
「・・・・・っ。」

 レプリカ、とアッシュは言った。

 

 


「俺を好きだと、言ってみろ。」

 

 

「・・・・・っ!」
 ルークは目を見開き、ぐらりと揺れる感覚に、床に手をつく。
 体の震えが止まらない。
 いつかのように、はっはっと、息を浅く繰り返しているが、過呼吸までには至らなかった。
 そんなルークを、見下ろしたまま、アッシュは繰り返した。
「なんで、好きなものは好きだと言えない?」
「・・・・・。」
 ただそれだけのことを、とアッシュは言った。
「俺に知られるのが、なぜ怖いんだ。」

 ルークはアッシュを見た。
 冷たいと思っていた視線は、それほどではなく、むしろ本当にルーク自身の胸のうちを探ろうと揺れていた。
「・・・・・。」
 レプリカ、とアッシュが呼んだ。
「俺を好きなんだろ?」
「・・・・・。」
 答えたくても、ルークには答えられない。
 ただ縋るようにして、アッシュを見上げるだけだ。
「お前は、俺を好きなんだろうが。」
 確信的なアッシュの言葉は、ルークに逃げを許さない。
「・・・・・。」
 やや間があって。

 こくん、と小さくルークは頷いた。
 
 なら、とアッシュは言った。
 すっと体を起こしたアッシュの影を、ルークの視線が追った。

 

「はっきりと自分の口で言え。」
 
 ルークは目を見開く。
 アッシュが笑みを浮かべたからだ。
 それは、いつも向けられていた嘲笑ではなく、満足気でもあり勝ち誇っているようでもあり、心の底からルークに対して向けているような笑みだった。
 見惚れるルークに、アッシュは言った。

 

 


「言ったなら、お前を好きになってやっても良い。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たっだいまー!アッシュさん、ルークさん!」


 バン!となんの前触れもなく扉が開いた。
 
「!」
「・・・・!」
 
「あ・・・あれ?」
 お・・オイラ、まずい時に帰ってきちまいましたかね?とギンジは、乾いた笑いをこぼす。

 扉を開けた時、ふたりは床に座って見詰め合っていたところだった。
 ギンジの登場で、ルークはあたふたとアッシュから離れ、ギンジはアッシュに・・・・・睨まれた。
 それはもう、普段は戦闘はしないギンジでもわかるほどの殺気が篭っていて、思わすアッシュに対峙される前の魔物に思いを馳せ、同情をよせてしまうくらい怖かった。

「・・・・・お帰り。」

 うおーーあっしゅさんにおかえりいわれたーーー!
 とギンジは涙目になった。
 普段なにも言わない人間が、この手の返事を返すとき、その後には凄惨な場面に直面すると相場は決まっている。
 それくらいの、踏まなくても良い場数を、ギンジは踏んでいた。

 あわあわ、とうろたえるギンジの横で、ルークは自分の胸に手を押し付けた。
 とくんとくんと一定のリズムを刻む胸の音に、自分でも知らない自分が、寸でのところで暴走しそうだったことを、静かな驚きとともに見つめていた。
 それは歓喜と絶望とが一緒に膨れ上がったような感覚だった。
 
 ・・・俺は・・・。

 


 ルークはその手を自分の喉へと持っていく。
 声は、やはり出なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

>>1

 

 


('09 6.14)