「エスキーテニス」の成立と普及
崎田嘉寛
(広島大学大学院)
T.はじめに
本研究の目的は、エスキーテニスの成立過程から初期普及過程を解明することである。
エスキーテニスとは、被爆後の広島市において誕生し、その後全国的に普及活動があった
レクリエーションスポーツである。
エスキーテニスに関する先行研究としては、菊池邦雄の『エスキーテニス――広島で生
まれ育ったスポーツ技術と科学的分析』(杏林書院,1978)だけである。
そこでは、「エスキーテニスの由来とその歩み」として、「エスキーテニスの誕生」1)
についてと、1947年から1975年までの「歴史的歩み」2)が簡単に紹介されている。
しかし、「エスキーテニスの誕生」とテニスの生みの親とされている宇野本信の手記の一部
が掲載されているが3)、資料の所在が明らかにされていない。
本研究では、まずエスキーテニスの成立過程を明らかにする。その際、エスキーテニス
成立経緯、ゲーム概要、道具、組織、規約について言及する。次いで、エスキーテニスの
初期普及過程を学校体育と社会体育に分けて普及過程を明らかにする。
学校体育におけるエスキーテニス普及については、制度的基盤の確立として、エスキー
テニスの学習指導要領への導入過程を考察することにする。ただ、資料的制約のため、
ここではエスキーテニスの学習指導要領への導入過程を解明することに限定しておく。
社会体育におけるエスキーテニス普及については、まず、普及背景を概観する。
次にエスキーテニスの普及として1951年広島市を中心に開催された第6回国民体育大会
秋季大会への協賛の概要を示す。
そして、広島市における施設の拡充状況、エスキーテニス連盟の組織の拡充過程を示す。
本研究で使用する資料は、日本エスキーテニス連盟所蔵資料4)と、エスキーテニス創設
期の関係者からインタビュー5)である。
U.エスキーテニスの成立過程
1. 被爆直後の広島県下におけるスポーツの復興状況
1945年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下された。原子爆弾爆発直後
の広島市の状況は悲惨なものであった。広島市の土地利用面積の92パーセントが罹災し、
また約40パーセントが焦士となった6)。死傷者数は、およそ20数万人に達したと推定
されている7)。
1945年8月15日に終戦を迎えた。しばらくは、日本のほとんどの人が虚脱状態にあり、
衣食住が極端に不足し、生きることが精一杯であった。このような状況にありながら、
スポーツ界は複興の兆しがあった。全国的に見ると、1945年9月23日、京都大学グラ
ンドにおいて関西クラブと三高のラグビーの試合が行われた。続いて、東京六大学OB
紅白野球試合(10月28)や、全早慶野球大会(11月23日)が開催され、大相撲秋場所
が実況放送され(11月16日)、プロ野球再建の第一歩として東西対抗戦が神宮球場で
催されている(11月23日)8)。
全国の動向と比べてみると、広島県下のスポーツの復興は若干の遅れはあるものの、
極端に遅れているというわけではない。終戦から約3ヵ月後の1945年12月16日に、
広島県ラグビー協会は、広島市の総合体錬場で、「広島 OB」を復活結成した。引き続き、
終戦以来初のラグビー試合である広島 OB対三菱工作の試合が行われた。
1946年に入ると広島――呉住復駅伝(2月11日)、第一回広島県スポーツ祭(4月
29日)、広島平和復興祭協賛体育大会(8月11日)、国体予選をかねて広島県体育大会
(9月27−29日)が開催されている。また、1945年の終わりから1946年の春にかけ
て、各競技団体とも組織の再建がなされている9)。
終戦直後のスポーツの復興について草深直巨は次のように述べている。「スポーツの
復興は『戦争の終結』の実感と表裏一体をなくしていた」10)。特に原子爆弾投下で焦土
となった広島市においては、スポーツの復興が「戦争の終結」の実感に加えて平和への
実感を体現させるものであったと考えられる。
2.「エスキーテニス」の成立
(1)「国際平和大学」構想
原子爆弾は、広島市を一瞬にして破壊し、多くの死傷者を出した。この広島市を原爆
被害から復興するあたり、広島市を平和の発信地として復興することが望まれていた11)。
そして、広島市を平和の発信地とするための一つの構想として「国際平和大学」建設
構想があった。国際平和大学の建設構想は、当時呉市長の水野甚次郎や高良とみ12)等
によって発起された13)。
この国際平和大学構想が発起された正確な期日は分からないが、呉市長である水野甚
次郎の就任期間から推測して1946年1月14日から同年11月15日までの間であると
考えられる。
そして、国際平和大学の初代総長として尾崎行輝(政治家)を迎えようとしていた14)。
事業家の宇野本信は、この国際平和大学構想に参加することになった。というのは、
1946年(昭21)新憲法のもとにおいて選挙が行われた際は尾崎行輝に選挙費も送り、
宇野本自身三重県まで出かけて行って尾崎の選挙戦に協力した経緯があったからであ
ろう15)。
その結果1947年9月10日、宇野本宅に森戸文部大臣を迎え、浜井広島市長を会長
として「国際平和大学誘致期成同盟」が結ばれている16)。
その後、国立総合大学(現広島大学)が設立されることとなり、国際平和大学は
構想に終わってしまった17)。
(2)教育科学文化研究所構想
国際平和大学は構想に終わってしまったが長崎英造(広島大学設立東京促進会会長)
は、広島には大学院に匹敵すべき研究所を創設すべきだと提唱した18)。
これを宇野本が、佐伯好郎(宗教史学者)に図った結果、中江大部(広島工業専門
学校長)のほか多数によって、「教育科学文化研究所」(Education ,Science and
Culture Institution、略称「ESCI」)が構想された19)。
この教育科学文化研究所が構想された正確な期日は不明であるが、国際平和大学誘致
期成同盟が結ばれた 1947年9月10日からエスキーテニスの草案が完成する1948
年までの間であると推測される。
そして「ESCI創設期成同盟会」が設立されている20)。
しかし、当時のインフレに喘ぐ経済状況において、研究所設立は至難であるという
ことから、教育科学文化研究所も構想にとどまった21)。
(3)エスキーテニスの誕生
教育科学文化研究所も構想に終わってしまったが、教育科学文化研究所の必要性を
啓豪翼賛するため、ユネスコ精神を採入れた平和ゲームを案出することになった。
この平和ゲームの案出は誰が発起したかは不明であるが、「平和問題はスポーツに
持つところが多い」22)という理由から案出されるに至っている。
そして、平和ゲームの案出は宇野本に依属された23)。宇野本は、戦前、実用新案特
許をおよそ120以上取得しており、発明家宇野本の名が広島に知れわたっていた24)。
このことが平和ゲームの案出を依頼された要因であろう。また、宇野本は原爆で娘を
なくしており、「平和運動に全身全霊をささげたい気持ちで一杯であった」25)という
ように、宇野本自身がこの平和ゲームの考案に積極的に協力したものと考えられる。
宇野本は、スポーツに無経験であったが、狭い場所でも十分に楽しめて、お金がか
からず、有り合わせのもので簡単にできるスポーツはないかと思案したという26)。
また、その際に県体育課長の吉岡隆徳の指導をうけ研究した27)と言われているが、
具体的にどのような指導を受けたのかは不明である。
そうして案出された平和ゲームは、教育科学文化研究所(Education, Science and
Culture Institution)の頭文字を付けて「エスキースゲーム(ESCI Game)」と称
されることになった。
このエスキーゲームの中心となる種目がエスキーテニスである。
エスキーテニスの特徴は、狭い場所でもできること、ボールに羽根が着いている
こと、失点を数えることである(詳細については別表参照)。
また、1951年からは段級制度が採用された。
「エスキーテニス」の派生ゲームとして、エスキーテニスよりネットを高くし日本古
来の羽根突きに似た「はねつきエスキーゲーム」、3人1組を三組集めて行う「はね
つきトリオゲーム」、はねつきエスキーゲームを簡易化した「エスキーロビー」、
エスキーロビーを利用しラケットを卓球のように持って行う「エスキーピンポン」が
ある。
エスキーテニスに必要な道具は、1948年までにはすべて考案作成されていた28)。
スポンジボールは、宇野本が西川ゴムから余った材料で作ってもらっている29)。
羽根は、スポンジボールだけだと狭いところでは飛びすぎてやりにくいため、ニワ
トリの羽根をむしってつけたのが始まりである30)。ラケットその他の道具は宇野本
工業で製作されている31)。
1948年8月6日の平和祭の時には、広島児童文化会館前広場においてエスキーテ
ニス誕生大会が開催された32)。この大会には広島軍政部教育課長のロバート・エム・
ヘーガーも参加している33)。
この誕生大会を機に、中江大部を会長とする「エスキー軽スポーツ連盟」が発足し
た。
エスキー軽スポーツ連盟組織は、総裁に森戸辰男(広島大学長)、顧問に佐伯芳郎
(英文学博士)、名誉会長に尾崎行輝(参議院議員)、会長に中江大部(広島大学工
学部長)、副会長に山崎正晴(県会議員)と宇野本信(宇野本産業社長)である34)。
エスキーテニスの組織は、教育界や県関係者の支援をうける形になっている。
また、エスキー軽スポーツ連盟は、1951年以降「日本エスキーテニス連盟」と称
されるようになっている35)。しかし、エスキー軽スポーツ連盟と日本エスキーテニス
連盟は全く同じ組織である。
エスキー軽スポーツ連盟規約は、全5章で構成され第26条まである。その第二章
「目的及び事業」第三条には「本連盟はエスキー軽スポーツ団体の中枢機関となり
エスキー軽スポーツの健全な普及発達国民体位向上並びにレクリエーションの衆知
徹底を図ると共に世界平和運動に協力し国際平和に寄与することを以って目的とする」
と記されている36)。
このように、エスキースポーツは「スポーツを通じて平和に寄与する」ことを主目的
としている。
V.学校体育におけるエスキーテニスの普及
1. 広島県版学習指導要領におけるエスキーテニス導入
(1)広島県版学習指導要領の構想
1947年に文部省から『学校体育指導要網』(1947.8)が制定された。この学校体
育指導要網は、戦後の学校体育の理念とあり方を方向づけ、学校体育の民主化構想を
具体化した第一歩であると位置づけられている。
そして、戦前の教授要目のように強い拘束性をもったものではなく、示された教材
は参考であり、「地方、その学校の実情に応じた適切な指導計画の作製と運営」37)を
求めている。
学校体育指導要網の「非拘束性」・「参考」といった性格は、都道府県版「学習指
導要領」の作成を促すものであった。
広島県においても学校体育指導要網の「精神に則り、且地方的特色を考察して、
附則的諸点を加味せる『広島県学校体育学習指導要領』の骨子」が発表された38)。
この「広島県学校体育学習指導要領」は未見であるが、1949年4月には広島県の名前
で出された『小学校体育の実際指導』が刊行されている。
この『小学校体育の実際指導』は、「序文」などから判断すると「広島県学校体育
学習指導要領」の解説書であると考えられる39)。
(2)エスキー軽スポーツ連盟関係者による『小学校体育の実際指導』の編纂への影響
『小学校体育の実際指導』は、14名によって編纂されている40)。この編纂委員にエ
スキーテニスの成立に関与し、エスキー軽スポーツ連盟の参与である吉岡隆徳(広島県
教育委員会)が加わっている。
また、エスキー軽スポーツ連盟の常務理事である瀧口五郎(広島県教育委員会)や
理事である富田功(広島高等師範)なども編纂委員に加わっている。
エスキー軽スポーツ連盟関係者が『小学校体育の実際指導』の編纂委員会に加わって
いたことにより、エスキーテニスが『小学校体育の実際指導』に導入に影響があったと
いえるだろう。
(3)広島県版学習指導要領におけるエスキーテニス導入
『小学校体育の実際指導』において、「第五、六学年の教材例」として「エスキー
テニス」が採択されている41)。例えば、「年間計画」には第六学年の五月の教材として
「エスキーテニス」が採択されている42)。
この「年間計画」の作成基準として「広島県の実情に即する」ように次の点に努力
したことが示されている。すなわち、「行事」、「広島県で特に行われているスポーツ
や遊戯」、「季節天候」、「運動普及の状態」である43)。
エスキーテニスは、「広島県で特に行われているスポーツや遊戯」として判断された
と考えられる。
また、「広島県学校生活協同組合は(エスキーテニス用具を)1校10台宛の配給の
許に1万台発注」44)(括弧内引用者)とされている。エスキーテニスは「運動普及の
状態」についても十分であった。
2.『中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)』(文部省、1951)におけ
るエスキーテニスの導入
(1)中学校高等学校学習指導要領保健体育科編へのエスキーテニス導入における
吉岡隆徳と佐々木吉蔵の影響
中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)の編集委員の一人であった45)
佐々木吉蔵が1950年に2月に広島を訪れた際、エスキーテニスを中学校高等学校学習
指導要領保健体育科編(試案)の中心種目に採択し、名称を「ハネツキ」に変更したこ
とを宇野本に伝えている46)。
この佐々木がわざわざ広島に訪れたことから、エスキーテニスの成立に関与し、エス
キー軽スポーツ連盟の参与である吉岡隆徳が、佐々木吉蔵(文部省事務官)にエスキー
テニス導入を図った可能性が考えられる。
なぜなら、吉岡隆徳が通っていた東京高等師範学校は、最初の一年生は全員、寮生活
をする全寮制になっていた。佐々木吉蔵はこのときの寮の同期生であった47)。
また、吉岡隆徳と佐々木吉蔵は、1932年ロサンゼルス・オリンピック、1936年
ベルリン・オリンピックの100m走日本代表選手であった48)。
つまり、戦前から吉岡隆徳と佐々木吉蔵の親交が深かったと考えられるからである。
(2)中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)におけるエスキーテニス導入
1951年の文部省による「中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)」にお
いて、エスキーテニスは中学校及び高等学校女子の中心種目に採択されている49)。
しかし、「エスキーテニス」という名称ではなくて、「追羽根(ハネツキ)」と称
されている。この名称変更については、次のような経緯があった。「前文部省体育課長
栗本義彦先生がエスキーと言えば語源の説明を要するが、ハネツキと言えば古来のはね
つきが進化した物として分かり安いと言うので斯くなっています」50)。
ただ、「エスキーテニス」にはいくつかの派生ゲームがあり、その中には「エスキー
はねつき」がある。この「エスキーはねつき」は「バトミントンからヒントを得て案出
された」とされている。
そして、「中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)」における教材評価に
おいても「バトミントン・追羽根」51)。と記されており、「エスキーはねつき」が採用
されたと考えることができる。
エスキーテニスとエスキーはねつきはルールに若干の違いがあるものの用具等につ
いては全く同じである。
W.社会体育におけるエスキーテニスの普及
(1)社会体育におけるエスキーテニス普及の背景
1949年11月、広島県レクリエーション協会が成立している。この広島県レクリエ
ーション協会に設立当時からエスキー軽スポーツ連盟は加盟団体として参加している。
また協会役員にエスキー軽スポーツ連盟の宇野本が理事として名を連ねている52)。
次に、1951年の文部省による『社会体育指導要項』にエスキーテニスが言及されて
いる。
この社会体育指導要項における「第五章 種目の解説」「4, 徒手体操とスポーツ」
「(2)スポーツ」「フリーテニス」の解説の最後の行に、次のように紹介されている。
「これとよく似た方法で、ボールの代りに羽根をつけたボールを球に用いて行うエスキ
ー・テニスというものがある」53)ただ、ルール等の詳細な説明はなされていない。
(2)エスキーテニスの普及
第6回国民体育大会秋季大会は、1951年10月27日から5日間、広島県下を中心に
行われ、13834人が参加している54)。
エスキーテニスは国民体育大会の正式種目ではない。しかし、日本エスキーテニス連
盟は、エスキーテニスの普及のため国体に協賛している。
例えば、この国体に先駆けて、第6回国民体育大会協賛「体育文化博覧会」が1951年
3月25日から開催されている。
エスキーテニス連盟は、入場者への賞品として「エスキーセット」100セットを出品し
ている55)。また、1951年10月27日には、日本エスキーテニス連盟から『エスキーテ
ニス』56)を発行し、国体参加団体に配布している57)。
さらに、1951年10月27,28日には広島市基町広島商工会議所横広島市公民館広場
において国体協賛エスキーテニス大会が開催されている。
大会趣旨は、国体協賛エスキーテニス大会要項によると次の通りである。
「平和の都広島が生んだ『エスキーテニス』は誰でも出来るレクリエーションゲームで
面白く全国から集められた選手諸兄に是非このスリルを味わって頂いてこのゲームの連
りを全国に持って平和親善に寄与致し度く本大会を開催する次第です。奮って大多数御
参加被下る様御願い致します」58)。
国体参加選手は、当日受付の参加費無料となっている。参加人数は正確にはわからな
いが、宇野本によって大会の様子が次のように記されている。
「連盟の総裁に森戸広島大学長がなられた挨拶をせられて、選手諸公の意気高揚となり
熱の大会となりました」59)。
国体閉会式に広島に訪れた高松宮殿下は1951年11月1日にエスキーテニスを見て、
「このテニスは羽があるのでテンポが弛やかになる。それで面白い、ここに生命がある
のだから、ここをもっと改良せよ」と指導した60)。この指導により羽根に改良を加えた。
また、1951年11月12日、およそ30名の同好者が集まり「エスキーゼミナール
(国体協賛大会の反省会)」が婦人会館で行われている。そこでは、森戸辰男(広島大
学長)が「ユネスコとレクリエーション及エスキーテニスの意義」を講演している。
また懇談会では、「エスキーテニスの普及方法」「エスキーテニス部設置」「エスキー
テニス専門コート」等が話し合われている61)。
そして「全国一斉普及」、「常時コートの必要」等が議決されている。
(3)広島県内におけるエスキーテニス施設拡充とエスキーテニス連盟の組織拡充
1951年11月27日、日本エスキーテニス連盟理事長高村啻雄から広島市長浜井信三
宛に「市有地使用許可申請書」、「エスキーテニスコート常時使用嘆願書」が提出され
ている62)。
この「嘆願書」は前途の「エスキーゼミナール(国体協賛大会の反省会)」において
「常時コートの必要」が議決されたことから提出されたものと考えられる。
そして、エスキーテニスの普及状況として、「同好者数が数万人」、「普及台数が
四千台を越える」ことが示されている63)。
1952年6月12日の中国新聞に広島市緑地課の計画が次のように掲載されている。
「鶴見橋―平和大橋間三・三キロを市民のレクリエーションの中心地にしようと目下
頭をひねっている、その計画によると幅約三十メートルもある道路内の縁地帯にテニ
スコート二面、エスキー・テニスコート十六面をつくり、周囲を金網で囲って交通妨
害にならぬようにするもので全国最初の試み」64)。この計画の実行を推進するために、
佐伯好朗、楠瀬常猪、鈴川貫一、山崎正晴、中津井眞、結城康浩、中江大部、秋田国之、
加藤新市、高村啻雄、西川儀貫、松本晴美、和田勘一、宇野本信等によって「エスキー
テニス育成会」が発起された65)。
1952年10月28日に広島県教育委員会会議室においてエスキーテニス育成会設立総
会が開かれている。そこでは、「規約制定の件」「従員選定の件」「立太子奉祝エスキ
ーテニス大会開催に関する件」が議題となっている66)。
このエスキーテニス育成会は、「日本エスキーテニス連盟の事業の援助育成」、
「エスキーテニスコートの維持運営」、「競技大会並其の他の競技会」、「講習会な
どの開催」、「各地方との連絡並びに援助指導」、「エスキーテニスの普及、指導、
発達を図る」、「此の種のレクリエーションを通じ平和目的に関する調査、研究、資料
の収集、印刷物の発行」を行うことを目的としている67)。
X.まとめ
エスキーテニスの成立に関しては宇野本信の功績によるところが大きい。
宇野本の「狭い場所でも十分に楽しめて、お金がかからず、有り合わせの物で簡単に
出来るスポーツ」という理念がなければエスキーテニスは成立しなかったであろう。
また、エスキーテニスの特徴の一つは、ボールに羽根が着いていることである。
このエスキーテニスのボールは宇野本がスポンジボールとしたからこそ羽根をつける
に至ったのである。
このことから宇野本は、エスキーテニスの具体的な用具の創出にも重要な影響を与
えていたのである。
そして、エスキーテニスの組織については、教育界や県関係者の支援を受ける形に
なっている。また、その規約について特徴的なことは「スポーツを通じて平和に寄付
する」ことを主目的としている点である。
学校体育に置けるエスキーテニス普及について、まず、広島県版学習指導要領では
エスキー軽スポーツ連盟関係者が『小学校体育の実際指導』の編纂委員として参加して
いたことによってエスキーテニスの導入が図られた。
また、エスキーテニスは「広島県で特に行われているスポーツや遊戯」であったこと、
「運動普及の状態」がよかったことにより導入された。
次に1951年に文部省による「中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)」
では、エスキーテニスの成立に関与し、エスキー軽スポーツ連盟の参与である吉岡隆徳
が、中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)の編集委員の一人であった
佐々木吉蔵(文部省事務官)にエスキーテニス導入を図ったと考えられる。
すなわち、学校体育におけるエスキーテニス普及の制度的基盤の確立には、特に
吉岡隆徳の果たした影響が大きかったと考えられる。
つまり、戦後、エスキーテニスを普及していく過程で文部省や広島県教育委員会等の
公的機関の影響力が強かった。
社会体育に置けるエスキーテニス普及については、まずエスキーテニスの普及背景
として、エスキー軽スポーツ連盟の広島県レクリエーション協会へ加入した。
またエスキーテニスは1951年の文部省による『社会体育指導要項』に紹介された。
次に1951年広島市を中心に開催された第6回国民体育大会秋季大会へ積極的に協賛
した。全国規模の競技大会に協賛することでエスキーテニスの名を広めようとしたこと
が伺える。そして、広島市における施設の拡充状況として広島市のメイン道路の一つ
である平和大通りへのコートを新設した。
そして、日本エスキーテニス連盟は「エスキーテニス育成会」を設立し組織の拡充に
努めた。
最後に、エスキーテニスは、平和をより実感するために企図されたスポーツである。
それは、エスキーテニスが自然発生的に生まれたのではなく、戦後の広島市において
意図的につくられた証拠でもある。
つまり、エスキーテニスは、広島市に原子爆弾が投下されなければ成立することは
なかった。
エスキーテニスの原点には悲惨な原爆被害があり、その悲惨な状況からの復興と
平和への希求があることを忘れてはいけない。
注及び引用・参考文献
1 )菊池邦雄『エスキーテニス――広島で生まれ育ったスポーツ技術と科学的分析』
杏林書院、1978、p.9
2 )同上書、pp.10-15
3 )同上書、pp.15-22
4 )拙稿『日本エスキーテニス連盟所蔵資料目録』(私書版、2002)。日本エスキー
テニス連盟に所蔵されていた未整理の資料約600点について文献目録を作成した。
1951年から1995年までの、連盟発行の印刷物、大会要項、地方との連絡書類など
が収録されている。
5 )平野亨三へのインタビューを行った。平野は創設期から連盟理事(1948-1986)
としてエスキーテニスの普及振興に尽力した人物である。
6 )広島市役所編集『広島原爆戦災史 第一巻 総説』1971、p.151
7 )同上書、p.152
8 )木下秀明『スポーツの近代日本史』杏林書院、1970、pp.229-230
9 )金桝晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979、p.176
10)草深直巨「戦後日本体育政策史序説――その2 戦後体育の民主化構想」『立命館
大学人文科学研究所紀要』第29号、1976、p.41
11)1945年8月6日に「広島平和復興祭」が行われた。占領行政によって市民の集合が
規制されているなか、「世界平和は広島から」などのスローガンを書いた横幕や弔旗
を掲げて約数千人が広島平和復興祭会場である広島護国神社境内に集合している。
(広島市役所編集『広島原爆戦災史 第一巻 総説』1971、p.624)
12)高良とみに関する正確な役職名については不明確な点が多いとされており、実質的
には呉市助役の役割を果たしていたと言われている。(呉市史編纂委員会『呉市史』
呉市役所、p.69
13)宇野本信「エスキーテニスの由来記」、p5。なおこれが記された時期は分からないが、
内容から判断して、1955年から1959年の間であると推測される。
14)同上書、p.5
15)同上書、p.4
16)同上書、p.5。国際平和大学誘致期成同盟の趣意及び発起人等の詳細は不明である。
17)同上書、p.5
18)同上書、p.5
19)同上書、p.5
20)同上書、p.5。ESCI創設期成同盟会の趣意及び発起人等の詳細は不明である。
21)同上書、p.5
22)同上書、p.5
23)同上書、p.5
24)野村如水「宇野本信氏」『広島人物伝』中国評論社発行、1948、p.5。代表的な発明と
して「総ゴム草履」、「千人履」がある。
25)宇野本信「考案の動機」『エスキーテニス説明書』、1960、p.6
26)エスキーテニス選手会編集部「E・S・C・Iだより」第2号、1972
27)宇野本信「エスキーテニスの由来記」、p.5
28)エスキーテニス選手会編集部「E・S・C・Iだより」第2号、1972
29)同上書
30)同上書
31)同上書
32)宇野本信「エスキーテニスの由来記」、p.5
33)宇野本信「考案の動機」『エスキーテニス説明書』、1960、p.6
34)宇野本信「E・S・C・INEWS」エスキー軽スポーツ連盟、1950。
35)日本エスキーテニス連盟と言う名称の初出は、瀧口五郎監修『エスキーテニス』
(日本エスキーテニス連盟、1951)である。
36)宇野本信「E・S・C・INEWS」エスキー軽スポーツ連盟、1950。
37)文部省『学校体育指導要網』、東京書籍、1947、p.1
38)広島県教育会『芸備教育』第4号、1947、p.25
39)拙稿「占領下広島県学校体育における『小学校体育の実際指導』(広島県、1949.4)
の役割に関する一考察」(中国四国教育学会『教育学研研究紀要』第47巻 第1部、
2002、pp.259-264)
40)「小学校学校体育の実際指導編纂委員」広島県『小学校学校体育の実際指導』郷友社、
1949
41)広島県『小学校学校体育の実際指導』郷友社、1949、p.48
42)同上書、p.50
43)同上書、p.49
44)宇野本信「エスキーテニス生立記」、p.1
45)「まえがき」(文部省『中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)』
講談社、1951)
46)宇野本信「エスキーテニス生立記」、p.2
47)辺見じゅん『夢末だ盡きず』文藝春秋、1998、p.163
48)同上書、p153
49)文部省『中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)』講談社、1951、p.12-13
50)宇野本信「エスキーテニス生立記」、p.2
51)文部省『中学校高等学校学習指導要領保健体育科編(試案)』講談社、1951、p232、p.238
52)稲垣昇編『レクリエーションの在り方』広島県レクリエーション協会、1950、p.26
53)文部省『社会体育指導要項』1951、p.78
54)日本体育協会監修『国民体育大会の歩み』都道府県体育協会連絡協議会、1978、p.127
55)宇野本信「エスキーテニス生立記」、p.3
56)瀧口五郎監修『エスキーテニス』日本エスキーテニス連盟、1951
57)宇野本信「エスキーテニス由来記」、p.6
58)「国体協賛エスキーテニス大会要項」 1951
59)宇野本信「エスキーテニス生立記」、p.3
60)同上書、p.3
61)「エスキーゼミナール要項」 1951
62)高村啻雄「私有地使用許可申請書」・「エスキーテニスコート常時使用嘆願書」 1951
63)同上書
64)1952年6月12日付き「中国新聞」
65)「エスキーテニス設立総開催について」 1952
66)同上書
67)「エスキーテニス育成会規約」 1958