レビュ〜
ここは以前僕がサークル会誌に載せたレビューや、読んだ本の感想などを保管しておく場所です。まずは僕のSF読みとしてのスタンスから。
2001年度 2006年度
2002年度 2007年度
2003年度 2008年度
2004年度 2009年度
2005年度
2010年度
『僕のSF観』
『タイムマシンのつくり方』 広瀬正 著 (集英社文庫) 『なぞの転校生』 眉村卓 著 (角川スニーカー文庫)
『祈りの海』 グレッグ・イーガン 著 山岸真 編・訳 (ハヤカワSF)
『私のSF観』。僕はこのテーマの文章を書いていいものか…。はじめは正直にそう思った。正直悩んだ。漠然と。SF研見習い程度の自分の立場では、重すぎるテーマだと思っていた。だけど、今の立場をひっくり返せば、僕はこれから多くの事を取り込んでいける。とりあえず、ありのままで取り組んでみよう。今の時点で、自分の好きなSFから…。
僕が今まで触れてきたわずかばかりのSF作品の中で(そのわずかな中にも色々なジャンルがあるわけだが)、僕はどんなSFが好きなのだろうか。もちろん、SFというからには宇宙を扱った作品は好きだ(この辺がやっぱり初心者考えだなと思う)。色々なヒロイックな作品や、『スター・ウォーズ』のような、壮大なスケールを持った作品。それに未知なる生命体との触れ合い。好きです。また、ロボットの出てくるものは、アイザック・アシモフの作品に見るオーソドックスなものから、日本のアニメに登場する某ガ●ダムなどの巨大ロボットまで全般的に好きなジャンルに入っている。
そんな中で、僕の最も好きなSFと言ったら、タイム・トラベルの出てくるものだろう。もっとも、タイム・トラベルといっても、自ら過去や未来に飛ぶのではなく、飛ばされるのでもOK。と言うか、タイム・トラベルに限らず、"時間"というものの存在を考える事ができるものが大好きだ。広瀬正の小説集である『タイムマシンのつくり方』は様々なタイプの"時間"を扱った短編小説が二十四編入っている短編集。この本の色々な所で、科学者達がタイムマシンについて説明しているのだけど、僕はそのシーンがたまらなく好きなのだ。タイムマシンで未来から過去へ手を加えた人がいた場合、未来(その人がいる場所)が変わった瞬間、その人はどうなるのかとかいった時間のロジックを考えるのがたまらない。答えが幾通りも考え付いて終わる事がないから、考えても考ええても飽きる事がないのだ。
もうひとつ、とても好きなSFがある。今取り上げた"時間"テーマにも関わってくるのだけど、パラレル・ワールドなど、異次元の世界が舞台となる、あるいはその存在が重要になってくる小説だ。眉村卓『なぞの転校生』には"次元ジプシー"というものが出てくる。核戦争で滅びた自分達の次元を捨て、平和な世界を求めて旅をする人達だが、核戦争の危機という目の前の問題から逃げている事はひとまず置いておいて、こんな風に自由に異次元、異世界を旅できたらいいと思う。きっと色々な人たちの文化や生活、風習に触れ合う事ができるだろう。心躍る冒険や気ままな旅もできるだろう。まさに僕の憧れだ。
こうして書いてみると、タイム・トラベルで過去や未来を変え、異世界に憧れ、なんか僕のSF観は現実逃避ではないか、などと思えてくるのだが、決してそんな事はない。僕が大学に入ってから初めて出遭ったタイプの、インナースペースを描いたSFも、僕は高く評価している。例えば、グレッグ・イーガンの『祈りの海』に見られるジェンダーというものをテーマに据えた作品は、僕に鮮烈な印象を与え、ああ、こんなSFもあるんだ、と思わせてくれた。この作品のテーマ自体、僕にとって初めてだったので、戸惑いつつも認めている。僕は来るものはなるべく拒まない。他者を否定したくない。なぜなら自分の中にまたひとつ新しい世界を作り上げてゆけることが非常に楽しく、嬉しい事だからだ。
そろそろ結論に入ろう。僕にとってSFとは何なのか。筋道を立てて考えてみると、それは『未知なるものへの挑戦を実現させてくれる場所』ではないか。前に書いたとおり、僕は現実から逃げたいから"時間"や"異世界"が好きなのではない。その中にある僕の知らない部分に触れたいだけ。現在の日常ではありえない状況、そこでどうなるのか、SFは僕にそれを教えてくれる。僕の中の好奇心と挑戦心を満たしてくれる。そして僕の中に新しい見聞録を作り上げる。それが、僕にとってのSFというもので、だからこそ、こういうジャンルの小説はやめられない。
『人生のターニングポイントになった出来事』
『自分の人生で読書傾向を変えた本または出来事』はなにかと聞かれても、はっきりいって、決定的に思い当たる節がない。徐々に方向を変えられてきた。恐らくそれに当てはまる時期としては、幼少の頃と中学二、三年くらいだろうか。どちらも今の、SFやファンタジーを読んでいる自分に多大な影響を与えているだろうことくらいは想像がつく。
幼少の頃と言えば、自分はよく母親とウルトラマンの話をしていた。僕の生きてきた時期はリアルタイムでテレビでの放送のなかったときだから、話は全部母から聞いた。そこで感じた憧れは恐らく誰もが感じるものだろう。だが僕の場合はそれが強すぎたように思える。僕の心には強い宇宙を含めたここではないどこかへの憧れと、非日常的な出来事への願望が根付いた。
中学時代は推理小説やちょっとした歴史の本を読んでいたりして、そんな気持ちもある程度薄れていたときだった。しかしそこには決定的な道標が置いてあった。簡単に列挙すると、昔好きだったアニメの新作放映。それについて話し合える友人(悪友)との出会い、ウルトラマンティガ放映開始。どれも、それまでどこかで望みつづけていたものが、津波のようにやってきた。今書くとちょっと痛い気がするが…。それまで歩こうとしていた道は、元の道に合流する大きなカーブを描いた。
そんな状態である本を読んだ。眉村卓の『なぞの転校生』。隣の教室の学級文庫として置いてあったものを、偶然目にした。この小説は幼い頃に根付き、ようやく成長した僕の願望にとって格好の肥料となった。日常の中に紛れ込んだ非日常的なことから始まるストーリー。異次元からの逃亡者。何よりその小説の文章が放つ雰囲気が、僕を捕まえて離さなかった。短編だったせいもあって、昼休みになると隣の教室に行って、読破した。
その後家の近くの本屋でこの本を見つけたとき、柄にもなく即買いしてしまったのを覚えている。
これらの出来事から、僕はファンタジーやSFを読み始めた。本は買うより借りる方が多かったから、見る方がメインだったかもしれないが、新しい作品を知るそのたびに、自分の中に新しい世界を切り開くような快感を覚えていた。常識的な人からは「お前おかしくない?」と言われるかもしれないが、これらの出会いには感謝せねばなるまい。自分というハードをバージョンアップさせてくれたのだから。
2001年度レビュー
『AL76号失踪す』
アイザック・アシモフ 著 小山芙佐 訳 (河出書房・20世紀SF40年代より。初出・42年)
『AL76号失踪す』。このタイトルを見たとき、一瞬ミステリーっぽい作品なのかと思った。実際、書き出しでのいきなりの緊迫した場面は、読者を一気に引き込む展開である。しかし、読み進めるとミステリーっぽさは全く無くなる。この話は事故により脱走した作業用ロボットと、それを巡る人間たちの物語なのだ。
今、単に”ロボット”と言っても、思い浮かぶものはピンからキリまである。この作品に出てくるのはどちらかというとキリに当たるであろう作業用ロボット君だ。事故学習能力はなく、ただ自分の任務を全うするだけの。そんな奴が偶然脱走してしまったのだ。そういう突然の出来事に対する周囲の反応は色々だろう。この作品ではそれが非常にリアルに描かれている。元々ロボットを生産した企業の対応だとか、突然ロボットに出会った人たちの行動、欲望。着々とかつてのSF作家達が思い描いた未来像に近づいている今の人類にとって、この作品の出来事はこれから先あり得ない事ではないだろう。そう思える。
SFに関して素人のため、SFといえば宇宙、そう思い込んでいた。しかし、この作品の日常舞台、科学的、現実的、そして少々のユーモラスさに、それまでの認識を覆されてしまった。こじんまりしている感はあるが、どうして、読み応えは十分の作品だ。
『月の蛾』
ジャック・ヴァンス 著 朝倉久志 訳 (河出書房・20世紀SF60年代より。初出・61年)
この作品の雰囲気は自分としてはとても心地よく感じて、作品世界にのめりこむように読むことが出来ました。
シレーヌという、ある惑星。そこに新米の領事代理として赴任してきたエドワー・シッセル。赴任から三ヶ月経ち、ようやくその特異な文化に慣れてきたとき、上司からある指令が届いた。その内容とは、惑星シレーヌに凶悪な暗殺者ハゾー・アングマークが向かった。彼を宇宙港で捕まえ、もしくは状況に応じて処刑せよというものだった。しかし、配達人の不手際から、手紙がシッセルの元に届けられたのはアングマークがシレーヌに降り立つわずか十数分前。上陸を果たし、多くの人たちの中へ姿をくらますアングマーク。さらに、協力者の一人と思われる外星人の遺体が発見された。その星の慣習を盾に潜伏するアングマークを、果たしてシッセルは逮捕する事ができるのだろうか…。
特にページの進みが速かったのは物語の前半。いきなりシッセルの元へ舞い込んできた重要指令の緊張感が自然とページをめくる手を早めてくれていて、さらにそれに拍車をかけてくれたのが舞台となる惑星シレーヌの特有の文化。移動型ハウスボートに奴隷とともに生活し、他人との会話には相手の立場や話す内容によってヒマーキン、ガンガ、ザチンコ、キヴ、ストラパン、ゴマパードなどなどの小楽器を弾き語り、そして何より、自分の素顔を隠し、代わりに自分の身分や性格によって、それに見合う装飾の施された仮面をかぶる。もし本当にこんな文化があったらハウスボート以外はご免こうむるような文化なのですが(自分、歌はすきなのですが楽器が弾けないので。仮面は生理的にちょっと…)、この慣習が実に細かく設定されている。これはもう、この作者だからこそなせる技ですな。この作者のことはよく知らないけど、ここまで細かく設定している人は見たことないので。
後半はいささかサスペンスっぽくなってきて、それに伴ってページの進み具合が遅くなるけれど、一息つけることで前半に出てきた文章を振り返る事ができる。つまり、構成が絶妙。ひとつ残念な事があるとしたら、一番最後でそれまで考えられていた民衆の性格と彼らの行動に若干の疑問が残った事か。
ともあれ、自分の知らない異国(異星)の文化はやっぱり面白いもんだなと、社会科好きの人間にはとても好奇心をそそられる作品であるのでした。
『系統発生』
ポール・ディ・フィリボ 著 中原尚哉 訳 (河出書房・20世紀SF80年代より。初出89年)
優性遺伝、劣性遺伝、赤血球、ヘモグロビン、ミトコンドリア、デオキシリボ核酸…。この話を読んだときに、高校時代に習った生物の内容を思い出して、まだ覚えていた事に安心した。それはきっとこの短編のおかげだけではなく、そう言う単語をニュースや新聞などで見かけることが多くなったからだとも思う。そのように今の時代の主役ともいうべき、バイオテクノロジーをうまく取り入れている作品だと感じた。
あらすじから説明させていただくと、地球は突如としてやってきた宇宙生命体によって侵略されてしまう。そして、わずかばかりの生き残った人類は、地球の再生が不可能な事を悟る。―と、ここまでは従来のSFによくあるパターン。だけど、この作品の発想のすごいところはここから。人類は自分達の種を保存するため、様々な生物の遺伝子部品を組み合わせ、新たな人類を誕生させる。しかもその結果生まれた新しい人類が、"ウイルス"体の生物。この作品はそういったウイルス化した新人類の生き様を、ある新人類の氏族にスポットを当てて書いている。
人間の本能的な感情として、新しい命が生まれる瞬間というのは、なにかしらの感動を抱くものなのだろう。例えばどこかの国で世継ぎが生まれれば国中上げての大騒ぎになったり、ドキュメント番組で難民のキャンプで一人赤ちゃんが生まれるとなぜかほろっとしたり…。人間以外の動物の赤ちゃんでもそうだ。だがこの作品ではそういう思いが生まれなかった。やはり姿が"ウイルス"だと、もう動物として存在を認めていないんだろうか。全体的に赤黒い印象を受けるこの作品世界では新人類が人類なのに、それを人であると認識していないのかもしれない。それはこの新人類が、新たな能力を身に付けた進化した姿でありながら、これ以上の進化の可能性を棄ててしまったように思えるからか。
だけど、この彼らの行動は生命の根本による行動で、彼らの考える事は今現在の人間も含めた動物と何ら変わりはない。彼らには人間と同じように恋人を思う気持ちがあり、子孫を思う気持ちがあり、人の死を悲しむ気持ちがある。ふと、インフルエンザやエイズのウイルスもこんな気持ちを持つんだろうかと思って、嫌な気持ちになってしまったが、「人間は地球を蝕むウイルスだ」なんてセリフを思い出すと、やっぱりこの新人類って僕らと同じなんだなと、生命の持つ意味の深さや、不思議さを考えさせられてしまう。
こうやって、感想文になってしまった自分の文章を読むと、こんな重い作品をよくも立ち止まらずに読めたと思う。だけどそれはこの作品が新人類の"人生"を映している作品だからだろう。今と同じように生活があって、戦争があって。読んでいる最中は嫌悪感はなかったっけ。
80年代にこの話がある。SFって時代の問題を先取りする事ができるんだと感じた事を、最後に付け加えておきます。
『征たれざる国』
ジェフ・ライマン 著 中村融 訳 (河出書房・20世紀SF80年代より。初出84年)
〈征たれざる国〉のある国民の三番目の子供、三女(人名)は、反政府軍側の山間の村で家族と一緒に生活していた。〈征たれざる国〉の土地は、〈隣国人〉からは拠点となり得る土地であった。そしてついに、〈隣国人〉の侵略が始まった。〈サメ〉と呼ばれる飛行兵器が攻めてくる。村にやってきた〈隣国人〉によって、人々が虐殺される。
戦争が終わって、三女はとある町で暮らしていた。そこで彼女は、生き抜くために自らの身体の一部を売った。血液を売り、工業用に子宮を貸し出し、生体機械や兵器体を育てる。そのようなすさんでしまった生活の中で、三女は少しずつ、安定や安らぎなどを得てゆくことになる。だが、戦争の影、新たなる戦火は常に彼女の背後から忍び寄り、彼女を巻き込んでしまう。
三女は戦争が起こるたびに大切な人々を失ってゆく。母、二人の姉、恋人……。それらの繰り返される悲しみを乗り越え、三女は荒れ果てた時代を生き抜いてゆく。
冒頭から不思議な感覚を読者に与える作品だと思った。生体機械や生きている家、登場人物の名前の付け方も、全く異世界を感じさせる。特にそれを感じたのは生体飛行兵器〈サメ〉。こいつが出てくる直前に旧式大砲という現実的な名前が出てきたため、戦闘機を連想させながら登場するのだが、この〈サメ〉の攻撃方法というのが、息を吹きかける。そうすると、それのかかったところでは一瞬の内に全てのものがミイラのように萎びて息絶えてしまう。恐ろしい兵器だと感じた。しかもこいつには人間じみた顔があり、ニヤニヤ笑っているのだ。ここら辺りに異世界風の印象を強く受けるのだが、物語を読み進めるうちに若干「おや?」と思う。コカコーラや中国、華僑といった実際の単語が見えてくるのだ。これはどういうことだろうか。はるかな未来の物語なのだろうか。感じ方は恐らく人それぞれだろう。
僕としては、この物語に出てくる三女のような難民の姿を、かつて様々な時代、様々な場所で虐げられてきたユダヤ人たちに重ね合わせられるようなシーンがいくつかあった。その事が頭に浮かぶたびに、つくづく、戦争というものの悲しさを読む者に認識させる。実際に、作品中でも悲しい出来事の連続なのだけれど、それを目の当たりにしても強く生きようと願う三女の姿は、読む側にも希望を感じさせる事だろう。
この作品は読む人読む人によって他の作品以上に様々な感じ方がある作品だろうと思う。だけど、ひとつだけ気にかけてほしいものは、作品の解説に書いてある、本編について作者が言った言葉、これを頭のどこかにおいてこの作品を味わってほしい。
『日の下を歩いて』
ジェフリー・A・ランディス 著 公手成幸 訳 (河出書房・20世紀SF90年代より。初出91年)
正直な話、題名を見てものすごく幻想的な話に思えた。『日の下を歩いて』って、普段僕ら題名のまま、太陽の下で生活してるからそう思ったんだろうけど。
月の地図を作成するため、月の低軌道を飛行していたシャトルがマシントラブルを起こし、月面に着陸した。シャトルはぐしゃぐしゃに大破し、女性乗組員パトリシア・ジェイ・マリガン(トリシュ)は、生き残る事は出来たものの、ほかの乗組員に生存者はいなかった。救助隊が来るまでには一ヶ月もの時間がかかる。一人残されたトリシュは、生命維持装置を稼動させつづけるために、太陽電池パネルを背負い、月の大地を歩きはじめる。すぐそこまで迫っている"夜"から逃れるために。生き延びるために。彼女はただ一人、日の下を歩きつづける。
読み終えたとき、僕は"月の夜"というのをどこまで知っているだろう。そう自分に尋ねた。光のまったくない空間であり、マイナス百度を下回る極寒の地であり、人間はそこでは生きていけない。…結局のところよく知らないな。月の持つイメージにしても、僕は月に対しては優しいイメージを抱くのだが、実際はタロットカードの"不安"という意味のように、悪いイメージを持つ人は少なくないはずだ。この作品にもそれは言えることで、トリシュにとっての"月"は自分の命を脅かす存在で、僕も思いたくはなかったが、恐怖感を感じた。だけど作品中でそれを打ち消したのは、トリシュがはるか前方に見る地球の風景だった。ここに描かれている地球は地球から月を見るように満ち欠けをしている。月の灰色一色の地平線の向こうに、青い地球は浮かんでいる。その光景は、最初に題名だけ見たときのように幻想的で、まるで自分がそこにいるような錯覚も覚える。これといい、終わりの方の光と闇の対比といい、そういう描写は特に鮮烈でしたね。
話の本編としては、基本的には月面上をひたすら走って、歩いて。だけどそれを盛り上げているのは主人公トリシュの内面の描写。救援を信じ、命を落とした仲間を思い、そして、数年前に亡くなった姉、カレンと会話をする。いつも比較される事に苦痛を感じていた姉との会話が、いつしか孤独と戦う彼女の心の支えになってゆく。非常にツボをおさえている感じで、最後の最後まで完璧に引き込まれていた。
近い将来宇宙開発が進む中で、このお話のような出来事は起こるかもしれない。そう予感させるリアリティが、この作品にはあった。