畏敬すべき短編小説の指標
  ―アイザック・B・シンガー(邦高忠二訳)『短かい金曜日』(晶文社)             夫馬 基彦  

 私はがんらい翻訳本というものはあまり好きではない。特に小説の場合はそうで、どこか小説の文体の持つ味わいに欠けていたり、文章や雰囲気等が果して本当に原作者の意図通りなのかに疑念を抱いてしまうことがしばしばあるからだ。が、だからといって原著で読みこなせるほどの語学力はからきしないから、結局翻訳に頼らざるを得ず、ゆえにどこか欲求不満が溜る、というのが悪循環なのだろう。

 なのに、今回の「この一冊」に対し真っ先に浮んだ数冊の中にこれが入っていた。他は井伏鱒二など日本の本か、さもなくば二、三千年も前のまさに古代的古典本である。

 アイザック・シンガーのこの本を初めて読んだのはいつのことだったか。はっきり特定は出来ないが、たぶん私が三七、八歳頃だったろうと思う。当時の私は三三歳で新人賞をもらったものの一向書けず、呻吟辛苦のはてにやっと百枚程度の中篇を年に一作くらい発表できるといった、長ーいトンネル期だったのだが、代りに遅蒔きの学習期とも言え、小説だけは実にいっぱい読んだ。日本のものなら太宰治や井伏さんをはじめ、短中篇を中心に文庫本ならたいがい読んだ気がする。

 シンガーのこの本は文庫にはなかったが、どこかでヘンリー・ミラーが「自分の最も好きな作家」として挙げていたことから名前を知り、ニューヨークに住んでいながらイディッシュ語というポーランドや東欧ユダヤ人らの混成少数言語でのみ小説を書き続けていることにも関心を持って、買ってみたのだ。ノーベル賞受賞者であることは買うとき帯を見て初めて知った。知名度は一般的にはほとんどゼロだったと思う。

 読んでみてまことに驚いた。実に面白く、実に新鮮なのである。いや、新鮮というのは作りや雰囲気に関しては正確ではない。十二作からなる短篇は結構としてはきわめてオーソドックスな上、文体も語られる中身もむしろ古びた、それこそ「ポーランドの田舎話」といった雰囲気なのである。

 が、話は冒頭の「ばかものギンペル」から始まって「クラコフからやってきた紳士」「血」などと読み進めていくにつれ、まさに仰天、目を瞠る思いになる。「ばかものギンペル」はまあ筋だてとしてはいわば「愚か者」話の範疇とも言えるが、「クラコフー」になると、最初どはずれた金持による一種の花咲爺さん話かと大らかに思えていたのが、やがて一転、花咲爺さんは悪魔そのものであったとなっていき愕然とさせられるし、「血」にいたってはまことに背徳、悪逆そのもの、牛や馬やあらゆる動物の屠殺に無上の興奮を感じ、そのあふれる血のただなかでぶよぶよに太った中年男女同士が性交を繰り返すうち、ついに人間狼に変じ、最後は背に斧を突き立てられて絶叫しつつ死んでいく女の話なのだ。</FONT><BR>

 いったいこんな話をよく思いつくなというほどのことを、それこそ血とすじ肉と脂肪の塊とニンニクと人参とタマネギとで何昼夜も煮詰めたような仕立て具合なのである。コンクにして脂ぎり、しかし終始ユダヤ教の戒律と神秘感覚と、そしてここが肝心なのだが実に堅固にして地道な生活者感覚が全体を覆って、ゆえにいかに奇想天外驚天動地の内容が語られているにもかかわらず、作品にはいつも落着いた気配が漂い続けるのである。

 それは世界をさまよい、ポーランドからニューヨークに渡り、世界最先端の街に住みつつ、なおイディッシュ語を守りイディッシュ語の新聞にのみ発表し続ける作家のありようと一致したものでもある感がし、ユダヤ人というものに改めて興味をかき立てられると同時に、文学、特に短編小説の本質の一つがここにあるような気がした。

 じっさい、物語性、奇想を含めた豊かな想像力、堅固で伝統を重んじた結構、落着いた生活感覚、日常性、そして人間の不可解さと人生の不思議。これらはどこの国や民族であれ、文学の共通の基本であろう。</FONT><BR>

 この本にはほかに「イェシバ学生のイェントル」とか「短い金曜日」といった作もあるし、「馬鹿者ギンペル」なぞはユダヤ人作家ソール・ベローの英訳で、アメリカ人たちに紹介されているのだった。身のまわりに何も確たるものをもたない実感のあった私は、小説の中のみならず実社会でもこうした緊密感を保っているユダヤ人社会というものが、改めて羨ましい気もしてならなかったのである。

 以来、この本をもう何回読んできたろうか。四十代半ばの頃までは、自分もなんとかこのシンガーのような作品を書きたい、あわよくば真似できないものかなどとも考えたものだが、このごろではほぼ諦めている。自分にはそんな力はないし、ひょっとしたら日本社会にもそんな要素はないのかもしれないと思うからである。(了)
             (『三田文学』2001年夏季号 特集『この一冊』2カ所のみ加筆)