縦書き版はこちら
                 秋茄子
                                                 夫馬 基彦

                             1

 私の家のリビングに一枚の絵がある。
 濃い茶色のサイドボード上に白壁を背に載せてある三十号の油絵で、画面全体はほぼ青一色、といっても真ん中から右手にかけては濃紺の、さながら淵のような部分が二ヵ所あるうえ、下三分の一ほどには薄白の靄がかかった水辺ととれなくもない藍色がいくぶんの濁りをまじえてひろがり、中央部から斜め上方にかけては薄緑色で重ね塗りしてぼかされた青が濃淡微妙に流れ展び、というふうで、つまりは殆どが形定かならぬいわば青を基調とした無象とでも言いたい画面なのだが、そこに唯一、真ん中よりやや左斜め上に一本の茄子の木が淡く微かにあって、その一枝に一個だけまだ小ぶりの茄子がなっているという図柄だった。
 茄子は茎から蔕にかけては黒っぽい濃紫色で、そして蔕から実が伸びだす境界線あたりは薄緑色に白っぽく、そこから先は青紫からいわゆる茄子紺色へとしだいに濃く丸く描かれている。
 ゆえに、画面全体はやはり青が主調であるばかりか、その一つの小さな茄子とその紺色に一切が収斂している感がある絵なのだが、ではその茄子はいかにもあざやかに描かれているのかといえば、けっしてそうではない。どころか、むしろ茄子自体も周囲の茫漠たる曖昧さに己れ自身を溶かしこみたがってでもいるかのように、みずから艶を消してなにやらひっそり大人しやかに静止している印象である。
 だからといおうか、私はこの絵には格別の額装なぞはせず、木枠だけの簡易装のまま置いているのだが、そのシンプルさが絵の内実と照応してなかなか似合っている。実際、引越して八ヵ月少々のまだ新しげなリビングでも、この絵は確実に焦点の一つとなっている。私はこの絵に合わせてソファセットも紺色のものを整えたし、置き場所も四ヵ月前、黒のオーディオセット脇から今の所へ移し、絵の前にはやはり紺色の大皿とブルーのイタリア花瓶を置いた。
 おかげでこの絵は、ずいぶんさまざまな角度、さまざまな光の具合、さまざまな気分で見たことになるが、印象はおおむね変らなかった。いつも静謐で、シンとし、どこか深い淵の前に自分を置くような心地がするのだった。あるいは人間は誰もが自分の内部に存在の井戸を持っているという言い方があるが、その井戸が汚れすぎていなかったり涸れていなかったりすれば、時折はふと、少なくともその周りでたたずんでみたくなる、その時の、見えな
い水にとりまかれているような心持、そしてそれが実は自分の日常といつも表裏一体にあると感じている者の持つ孤独、そんなものが伝わってくる気がする。
 いや、ひょっとしたらそんな言い方をする必要はないのかもしれない。もっと直接的に、この絵の向うにはいつもひとりでじっと身近な茄子の美しさを見ている人がいる、と言うだけでいいのかもしれない。
 事実、この絵には白封筒入りの一枚のパンフレットがついており、そこにはこの絵のカラー写真とともにこんな句が一つ載っている。

    秋茄子と
    遂に身の香を
    一にせり
              敏雄

 これは絵の作者ではなく、その友人である専門俳人の作だが、画家自身の名は絵の裏をそっと返すと、こんな文字とともに出てくる。

  茄子
一九七四年
   田所泰夫

 茄子という字は大きく、年号はだいぶ小さく、名前はその中間くらいの大きさである。いずれも中々うまい端正な書体だが、「夫」の字だけは姓名四文字中の三字までが左右対称であるのを嫌ってか、最後の四画目を「丈」の字のように左に少々はみださせてある。それは絵描きらしい美意識の現れでもあるし、同時にいくらか自己主張も感じさせる。
 いずれにせよ、この書き入れによって絵の正式タイトルは「茄子」であり、制作年はもう十九年も前と知れるわけだが、しかし私はこの絵を勝手に秋茄子の絵と呼んでおり、手許へ置くようになったのもつい昨年からのことにすぎないのである。


                             2

 その昨秋、十月初旬のある日曜日の午後、私は紙袋入りのウイスキーを一本ぶらさげ、東京世田谷の私鉄の小さな駅に降りたった。田所さん宅を訪ねるためである。
 駅のまわりは山の手下町とでも呼びたくなるこぢんまりとした商店街で、私はその角の「本日定休日」と墨のよく見えない木札のぶらさがった酒屋の前でしばらく人を待ったのち、やって来た自転車の主婦に道を聞いてぶらぶら歩きだしたのだが、道の片側には秋祭でもあるのか祭禮という字の浮き出た小提灯が時折ポツポツとさがっているせいもあって、私はなんだか少年時代の田舎町へでも来たような気分だった。地名から連想する住宅街的気配がまるでないのと、つい直前までいた娘の中学校運動会場の若い躍動や喚声とあまりに違いすぎたからかもしれない。こちらは車もめったに通らず、まるで静かなのだった。
 田所さんの家はその道の先の右側にあった。向う隣が樹の繁ったどうやら小高い台地状の神社のため、田所さんの家も手前一、二軒ともどもかなりの高さにあり、苔のはえたコンクリートか石組の上をしばらく見上げて見当をつけたのち、だいぶすりへった石段をのぼっていくのである。見当づけが必要なのは、下では表札もなく誰の家なのかよく分らないからだ。 古い合板張りのドアの前でベルを押すと、待っていたように声がして田所さん自身が「やあやあ」と招きいれてくれた家は、こぢんまりした平屋で、居間をつっきるとすぐアトリエだった。
 その十五、六畳分くらいの長方形のアトリエには、被いをかけた百号二百号の古キャンバスが奥と左のだいぶ汚れた壁際からぎっしり重ね立てられ、入口側のちょっと傾いた箱型三段木棚には絵の具や絵筆類と並んでやかんとソーダ硝子製の何かの壜がいくつかあった。そして中央部に古びたストーブや、一つだけ真っ白な十号ほどのキャンバスを載せた画架と、もう一つ別の画架などが置かれ、そのかたわらに、三十号ほどの古キャンバスが二つ向うむきに立てられていた。
 窓際の小さなテーブルの前にかけると、大柄な田所さんが取っ手の蝶つがいのゆるんだ大型ポットから土瓶に湯をそそぎ、ちょっとぬるめの茶をいれてくれた。
「まあ、こんな所ですよ。これでも戦後しばらくして建てたときにはそれなりに小ざっぱりしていたんだけど、なにしろ四十年たったからねえ、ごらんの通りです。殺風景って言やあそのとおりだけど、まあしようがないよねえ」
 そう言った田所さんの目は少ししばたたいていたが、これは今までにもちょくちょくあったことだから、さほど気にする必要はない。しかも発言内容はそのとおりである。
「悪くないですよ、落着いて静かだし。それに庭がいいじゃありませんか」
 私は田所さんの目を誘うように、視線も体も庭に向けた。
 庭は四坪ほどのきっちりした長方形で、向う端はそのまま下から見たときの石組かなんぞになっているのだろう、真っすぐ横一直線にすっと切れていて、ちょっと危ないような気もするが見晴らしはしごくいい。ただし、道路の向うに見えるのは平凡な木造民家の屋根程度だけど。 庭の中央部には寂びたというか古びてところどころ緑色がかった玉砂利が敷かれ、手前を除く三辺の縁寄りにだけちょっとした植物が生やしてある。右手、神社敷地と境界をなす長辺にはどくだみと一、二の雑草、それに枯れた葉が一枚だけ付いている丈の低い茄子の木が一本、向う側短辺にはベゴニアが一列、そして左辺にはたしか花魁草と言ったか一メートルほどの細く伸びた茎先に半枯れの紫紅色の花が円錐状についたものや、種の出来ていそうなひまわりなど園芸種二、三といった具合だ。
「ほう、やっぱりここが田所さんの取材源ですね。茄子もあるし、どくだみもある」
 私が何枚かの絵を想い浮べ微笑みながら右辺に目をやると、田所さんも同様にしながら言った。
「はは、まあね。こうしておくと、いながらにして全部済むわけだ」
「なるほど。ということは辛夷☆や椿もなけりゃならんのだけど…」
 そう言って私は視線をきょろつかせた。といってもこの庭では、探す先は隣の神社側しかない。
 すると、やはりあった。花はもちろんないけれども、樹木群のなかからちょうど枝ぶりよく一枝こちらへ突き出ているのがどうやら辛夷で、その少し右が椿だ。「あったー」
 私が声を上げると、田所さんも、
「はっは、分りましたか。貧乏症のバレもとだ」
 と楽しげに笑った。
「しかし、茄子はもう実もないんですから抜いたっていいんじゃないですか」
「いや、だけど、まだ葉っぱが付いてるでしょう。老残の、枯れ縮んだ、哀れな葉っぱが。あれを抜くには忍びんでしょう」
「ええ、まあ」
 私は田所さんの大柄だがしかし昔に比べればすっかり萎え縮んだと言っていい顔や手の甲を見ながら、ちょっと返事に困った。
「それにね、またそこがいいんだよ。その、いつ枯れ落ちるかという微妙なあわいがね、フフフ」
 私は田所さんの含み笑いを聞きながら、少しほっとした。
「じゃ、その茄子の話が出たところで、絵の方のこと片付けましょうか。で、あとでこれをちょっとだけやるとかね」  田所さんはそう言って、私が持参した机上のウイスキーを嬉しそうに指さした。ウイスキーは確かに私としてもいささかはりこんだ上物だった。
 頷いた私の顔も多分ほころんでいたのだろう、田所さんはニヤッと笑うと、立ってアトリエの中央へ行った。
 そうして、向うむきにしてあった三十号のキャンバスの一つを取ると、くるっとこちらに向け、
「これだろ?」
 とまじめに戻った顔で言った。
 それは例の茄子の絵である。
「ええ、そうです」
 私は隣にもう一枚同じ号の作品が用意してあるらしいのを少し気にしながら、答えた。
 すると田所さんはその私の気配を感じたのか、茄子の絵を持ったままそっちの方へちょっと目をやって、
「こっちのも中々いいことはいいんだが。だけどやっぱりこれの方がいいか。これは自分でも気にいっていたし、初めて個展に出したとき洲之内徹もほめてくれたんだよ。評論家の瀬田慎三もほしがったな。だから前の個展にも出したし、今度も出した」
 と言い、結局もう一つの絵は見せないままにしたので、私はまたほっとした。 前の個展というのは二年前十年ぶりのものである。ということは一九九十年だから、田所さんは実に十六年たって同じ絵を出したわけである。
「ええ、おぼえてます。前のときも、たぶん最初のときも」
 最初の前に「たぶん」と付けてしまったのは、さすがに古すぎて確信がないからだ。だが、私は田所さんの個展は一九六九年以来ほぼ欠かさず見てきているから、その個展も間違いなく見ているはずであり、前の個展のとき、やはり以前に見た、と感じたり言ったりした気がするのである。
「そうか、そうですか。君はあのころから知っているから…」
 田所さんは感慨深げにしばし間をおき、言葉を継いだ。
「結局、この絵は落着くべき所へ落着くのかもしれんな。うん、そういうことなんだろう、きっと。うん、うん、君なら大事にしてくれるだろう」
 田所さんは頷きながら、やや俯きかげんに梱包にかかり始めた。といっても、まず大型の風呂敷で画面のほうをおおい、ついでビニール紐で縦よこに縛っていくだけなのだが。
 私はそれを手伝いながら、まだちょっと微妙な気分だった。本当に貰っていいのかどうか、わずかな迷いがあるのだ。「よーし、先生、矢島先生、こうなったらあんたに絵をやろう。今日のなかでどれでも好きなの一枚持っていけ」
 田所さんが上機嫌の大声で叫んだのは、二週間前の月曜日だった。もちろん田所さんは酒を飲んでいた。場所は銀座のナントカ街のそば屋の二階だった。この日は、近所の画廊で田所さん二年ぶりの個展がオープニングしたのである。
「えっ、ほんとですか」
 私は田所さんの目を見て問い返した。だいたい先生呼ばわり自体が気持わるかった。私は田所さんより二十三も年下であり、二十四歳の青二才時代からずっと遥かな先輩としてつきあってきた間柄なのだ。
 だが、田所さんは本気のようだった。「ああ、ほんとだ。どれでもやる。百号のでもかまわん」
 私は目を瞠り、ついで少しニヤついたかもしれない顔でありがたく申し受けた。
「それはありがとうございます。じゃあ、どれにするかはあとで決めます。好きなのはいくつかあるんですよ」
「ああ、どうぞ」
 私は、田所さんはこの日よほど嬉しかったのだと思った。十年間の沈黙ののちの久々の前回個展もそうだったろうが、そのとき予告した通りぴったり二年後にこうして開けた個展もまた格別なのかもしれなかった。田所さんは十数年以前のまだ五十代の働き盛りだったころにも、個展は三年に一度程度だったのだから。
 そうして私はその個展のパンフレットに田所さんとその絵に関する文章を書いていた。いや、正確に言えば十五年前ある美術雑誌に書いた文章を、田所さんが再掲載したのである。それは抽象から出発した田所さんの絵が五十代に入ってからなぜ具象に転じたかとか、田所さんは自分の絵を私小説に擬して「私絵画」と呼んでおられるといったことを書いたもので、田所さんはその件に関しすでに一年近く前に手紙で丁重に依頼してこられ、私は少し筆を入れ返送した。パンフレットはその文章を冒頭に載せ、ついで折り返しのページにあの茄子のカラー絵(実物は会場玄関のガラスケースに特別陳列してあった)と秋茄子の句を載せたのである。
 だからこの日は私も田所さんに大いに祝意を表そうと、やはりウイスキーを持って夕方かけつけた。前回のときには文芸評論家の正木夫妻や秋茄子の句の俳人、それに有名画家の川田さんらが集まって話もはずんだし、田所さんも楽しそうだったから、今度もそう期待してのことだ。ところが、今年は去年の顔ぶれは見えず、座が妙にさびしかった。しかも、ほかの二人はなにかの事情ゆえかもしれなかったものの、私にとっても親しい間柄である正木夫妻については、田所さんは前回のあとしばらくして仲たがいしたと聞いていたので、よけい気になった。
 で、私はここはせめて自分がと思い、ウイスキーを飲んではせいぜい賑わし、閉館後も他の客数名を誘って二次会へ繰り込んだのだ。
繊細な田所さんはそれに感じてくれたのか、あるいはそもそも個展初日で緊張していたところへ酒が入って、すっかり高揚してしまったのかもしれない。もともと田所さんはいささか酒で感情が増幅されがちな人ではあった。
 だから、私は会期が終了した二、三日後、電話をしてみた。
「田所さん、あの件おぼえてらっしゃいますか」
 すると田所さんは案の定言った。
「えっ、何でしたっけ?」
 私はここが肝心だと思いつつ、つとめて冷静に言った。
「どれでも好きな絵一枚やるとおっしゃったでしょう。百号でもいいとまでおっしゃいましたよ」
 田所さんは、ほんのわずかだけ間☆をおいて答えた。
「ああ、あの件ですか。いや、確かに言いました。武士に二言はありません」
「では、言います。いろいろ考えた結果、朝顔の百号もいいんですが、あれはぼくの家なぞには大きすぎますから、例の茄子の絵を下さい。ぼくは来月引っ越しますから、その新居のリビングに掛けたいんです」
 田所さんは一瞬沈黙した。いや、そう言うといいすぎかもしれないが、少なくとも前の間よりは確実にもう少々時間をおいてから、覚悟したように答えた。
「いいですよ。分りました」
 その結果が今日なのである。
「じゃ、あとはここを持ってくれればいいから。キャンバスや中枠は持たないように。そこを持つとキャンバスが伸びて絵の具が剥がれたりすることがあるんだ。それだけ気をつけてね」
「はい。どうもありがとうございました」
「では、これで終りだ」
 田所さんはそう言うと、フッと肩で息を吐き、掌をぱんぱんとはたいた。
「じゃ、飲みましょうか」
 私がウイスキーの封を切りだすと、田所さんは「そうだ、氷がいるな」と呟き、ドアをあけて居間の方へ出て行った。 そうしてまもなく手ぶらで戻って来、少し間をおいて洗い髪姿の六十代後半くらいの奥さんが氷桶と水差しをかかえて入って来た。肩まで広がった髪は真っ黒だったから、あるいは髪を染めている最中だったのかもしれない。
 奥さんを見るのは初めてだった。いや、厳密には二十年ほどまえ一度だけチラと見かけたことがあったような気がするが、顔などの記憶は全くない。田所夫人はかなり個性の強い人で、人前というか少なくとも夫関係のつきあいの場にはめったに関わらないとは、昔から知られていた。確か来客も好きではないはずだ。
 私は立上がって挨拶した。
「お邪魔しております。今度大事な絵を頂くことになった矢島です。どうもありがとうございます」
 すると奥さんはあまり愛想のない顔にほんのしばらくだけ意外なほどの笑みを浮べて、
「そうだそうですね。どうぞかわいがってやって下さい」
 とゆっくり言い、すぐ視線を氷桶に戻すと卓上を少し整えた。私はその姿を見ながら、にこやかに言ってみた。一度この種のことを聞いてみたかったのだ。
「田所さんのような人と長年暮らして来られるとどんな気分ですか」
 すると奥さんはチラとこちらを見、向うで田所さんも「おや、何を聞く」という顔付きでまず私を、ついで奥さんを見た。
 奥さんの表情は一瞬微妙に動いた気がしたがすぐ消え、ちょっと間をおいてから無表情に答えた。
「それは一言では言えませんわね」
 そしてそのまま、私のほうも田所さんのほうも見ず黙って出ていった。
 田所さんは「ははは」と軽く笑い、私はその答えはそのとおりだと思いながら、グラスにウイスキーをついだ。
 ウイスキーは中々うまかった。水割りにしても香りとコクがふわっと伝わって来、こころよい酔いが軽やかに身をつつんだ。私はもう一度アトリエを眺めわたし、ついで庭を眺めた。いろんな思いが浮んでくる。
 田所さんは毎日この家でどんなふうに過ごしているのだろう。この部屋が七、八時間で、あとはほかだろうか。昔は街の酒場へよくでかけられたが、このごろはそれもあまりないようだし、旅行遠出の類いは二十年来ほとんど聞いたことがない。個展でも控えているときはいいけれど、十年間沈黙されていた折はどんなだったのか。奥さんは今でもアルバイトをしておられるのかしら。犬も猫もおよそペットの類いは何も見当たらないな。田所さんに趣味はなかったのだろうか、等々…。
 そのとき、田所さんが、
「あ、そうそう。これを渡しておこう」
 と、いくつかのちょっとした紙片を卓上に置いた。
「何ですか」
 尋ねると、田所さんは、
「なに、小さなものにすぎないんだが、これとこれはぼくに関する文章でね、それでまあ、ちょっと…」
 と何やら羞ずかしげにもぞもぞ言って、まず二枚のコピーを示した。
 見ると、その第一は「画業周辺」と題された田所さん自身の文章で、ほんの一ページのなかに出生からはじまって戦争体験、所属美術団体の変遷・脱退、六十年安保闘争時の体験、その後の交友関係など、つまりは田所さんの生涯がさらりと記された、前回個展のパンフレット掲載文だった。私はそれを改めて読み、中に私と田所さん正木さんらが初めて出会った映画観賞団体や、その後その流れの有志が作った親睦団体のことまで書かれているのを読むにつけ、微妙な気分だった。嬉しいような気もする反面、生涯の集約にそんなことまで入ってくるのかという気もしたからだ。
 また、次の一枚は一九七十年八月の朝日ジャーナル誌の一ページで、八・一五集会実行委員田所泰夫氏のあいさつ抄録だった。写真・見出し等を除けば半ページ分の短いものだが、文末近くには「軍国主義復活の傾向に打撃を与えねばならない」といった田所さんとしては珍しい強い表現もある内容だった。
 そして、私が初めて読むその文章を「へーえ」と眺め直していると、田所さんは、「いや、まあ、それでこんなものもあるんだよ。これは他人(ひと)のものなんだけどね、去年、岩波の『図書』でたまたま見つけたもんだから、その…」
 とまたもぞもぞ言いながら、別の一枚を示した。それは「背嚢の中の本」と題された「和歌山県・無職・七四歳」の人の投稿文で、昭和十九年中国戦線での兵士としての苦しい体験が綴られていた。炎天下の行軍中人事不省で倒れ、やがて血便を出し始め、野戦病院に入ると栄養失調で周りの者がつぎつぎに死んでいった…、というリアルな描写だ。そうして、その文末に田所さんの字で、これは自分とほぼ全く同じ場所同じ状況である旨、昨年の日付と署名入りで記されていた。数えると田所さんはこの人より三歳年下である。
 読み終って私が「うーん」と言っていると、田所さんが付け加えるように言った。
「ぼくは同時に侵略軍の一員でしたから、人殺し以外はたいがいのことをやりました。つらいことです」
 私はまた「うーん」と言ったきり言葉が出てこなかった。
 その私に田所さんは最後の一片を渡した。
 それはコピーではなく古い絵葉書で、半ばセピア色化した写真版の絵が一枚横長にあり、下に「一九六九年 田所泰夫個展 真昼の渚」と刷り込まれていた。一九六九年の個展といえば、私が見た最初の田所個展である。私はその絵をじっと見た。絵は海辺の風景を描いた具象のようにも見えたし、それをモチーフにした抽象のようにも見えたが、色が見えないので結局全体像はよく分らなかった。それよりむしろ私は、なぜ田所さんがわざわざこの絵葉書を見せたのかを考えた。これは田所さんの代表作なのか、あるいは記念すべきエポックをなす作なのか、それとも田所さんはこの時代のたぶんまだ抽象だった絵に執着があるのか…。
 けれども、結局それはよく分らなかった。それより、ひょっとしたら自分の絵の絵葉書はこれしかないのかもしれないという考えも浮んだ。
「とにかく、これ、持っていってくれたまえ。まあ、絵の付属品だ」
 田所さんはそう言って、四枚の紙を重ねて私に手渡した。受け取りながら私は、なんだかこの四枚プラス私の小文が、田所さんに関する全主要文書のような気さえした。
「個展の結果はどうでしたか」
 私はそれらをしまってから、話題を変えるつもりで聞いた。
 すると田所さんは、ちょっと目をまたたいたのち答えた。
「ああ、まあまあだった。いろんな人がそれぞれの気持で来てくれたしね。反応も悪くなかった」
「じゃ、売れました?」
 つい私は聞いてしまった。
「いや、それは…。まあ、そういうもんですよ」
 田所さんはちょっと悲しげに、しかし出来るだけさりげなく答えた。私はしまったと思いながら、二度うなずいた。
「そうそう、三日目に正木さんが来てくれたよ。夫妻でね」
 田所さんが今度は自分の気分を変えるように、意外なことを言った。
「そりゃあよかったですねえ。こっちもほっとしますよ」
 私は本当にほっとしながら言った。なにしろ両者は私にとって青年時代同時に出会い、以来ずっと身近に接してきた大先輩だったから、二人の間の突然の確執には実際困ったような呆れたような気分でいたのだ。
「いや、まあ、皆さんにも心配かけてたのかもしれんが、ともかく向うからやってきて絵もほめていってくれたし、まずはよかったよ。といって何もかも氷解したという訳でもないが…。なにしろ正木個人もそう単純ではないし、それにあの女房が権高くてねえ。だってあの人、一体どう言ったと思う?
 ぼくに向って、出入り差し止め、って言ったんだからねえ。出入りだよ、出入り。実際まったくそういう言葉ってのは…。
 ま、要するにぼくが正木家へ長く行きすぎたんです。それに尽きます」
 私はまた頷いた。ただし今度は微かに困惑を秘めながら。
 田所さんは確かに長年、正木さん宅へ絵を教えに行っていた。たぶん十数年は越えていたろう。正木さんに頼まれ、月に二回、夫妻をはじめ奥様族などアマチュア七、八人の先生となっていたのだ。家もすぐ一駅隣だし、年に一度、銀座の貸画廊で展覧会を開く会は、いつもなごやかでいい雰囲気だった。田所さん自身も楽しそうだったし、それにわずかではあれ田所さんにはちょうどいい小遣いになっていたのではとも思う。
 ところが、前回の田所個展のしばらくのち、正木さん宅でたまたま開かれたお鮨パーティーなるものの際に、突然トラブルが発生したのである。なんでも田所さんが珍しく意気揚々と胸はって現れ、先の個展に出した大作が一枚、二百万だか三百万で売れたと披露したあと、酔うにつれ自分こそが真の画家だと言いつのり、正木さん当人だか誰だかがしばらく前正木さんの絵も大阪の展覧会で二枚売れたとか言ったあたりから、ぷりぷり怒りだしたらしい。正木さんはもちろん素人だが評論家としては有名人のため、ファンの画廊主が一種の文人画展として開催したところ、たまたま小品が売れただけなのに、これが田所さんには気にいらなかったらしい。そうして田所さんは帰り際、玄関へ送りに出た正木さんの奥さんに向って鼻先へステッキをつきつけ、
「ぼくに対し敬意が足らん」
 と叱り捨て、ステッキをふりふり道の真ん中を大外股で帰っていったというのである。
 で、これに対するリアクションが先の奥さんの「出入り差し止め」宣言であり、これを奥さんは手紙で送りつけたらしい。
 このいきさつについて私は双方および事情をよく知る第三者からも聞かされたのだが、田所さんは今回の個展の文章に関する電話の際にも、
「あんな下手な素人の絵が二枚も売れるなんて、とにかく間違っている、許せない。正木もきれいごとそうな顔をしているが、あれで一筋縄ではいかないよう。気をつけた方がいいよう」
 などと呪咀を言いつのっておられた。それは第三者にはつい笑い出したくなるようなことでもあったが、気持はどこか分る気もした。私も自分の本がちっとも売れないのに、どうでもいいような素人や有名人というだけの本が売れていたりすると、似た感情を抱くことはあったからだ。
 けれども、田所さんと正木さんは二十数年来のつきあいであり、二人とも七十いくつの年齢なのだ。
「とにかくよかったですね。正直、ぼくら周囲の者もほっとしましたよ。まあ、なるべく仲良くお願いします」
 私が笑いながら言うと、田所さんも少し笑って答えた。
「いや、まあ、そうするつもりではあります」
 それから私達はまた少し飲んだが、やがてもう薄暗くなっていた窓外が鉦や太鼓の音とともに急に賑やかになってきた。しかもそれはどんどん近づいてくる。
「お祭りだ!」
 私は叫んだ。元来その種のものは好きでもあったが、なにやらこの場にちょうどふさわしい気もしたからだ。
 だが、田所さんは何が面白いのかというように言った。
「隣の神社のだよ。毎年うるさくってね。ぼくはもう何年も見たこともないよ」
 私はかまわずサッシ戸をあけ、サンダルばきで庭へ出て下の道を覗いた。
 たくさんの提灯に囲まれ神輿がやってくるところだった。古びた金色の神輿が道いっぱいに揺れていた。それに合わせ「わっしょい、わっしょい」の掛声があたりに満ち、空間自体も揺れていた。木造二階建程度の家に挟まれた狭い道ははっぴ姿の人と神輿でうずまり、にわかに繁華な町みたいに見えた。
 私はそれを上から見下ろしながら、言い知れぬ郷愁のようなものを感じた。
 私は通り過ぎてゆく神輿の掛声を聞きながら、田所さんに言った。
「行きましょうよ、田所さん、見に行きましょう。たまにはいいじゃありませんか、祭りはたまには見るものですよ、こんなに近くにあるんですから」
 そう言いながら私がもうすぐにも部屋から走り出しそうにしてみせると、田所さんもやむなく言った。
「じゃ、行ってみるか。せっかくのお客さんのお誘いだから」
 私と田所さんは卓上をちょっと片付けたのち、部屋を出ようとした。と、そのとき、庭に面してもう一つこちらと鍵形をなしていた部屋の、閉めきりだったカーテンがキリキリと音立てて一瞬開き、誰かがこちらを見たような気がしたが、私がそちらへ目をやったとたん、カーテンはまたすぐ閉まってかすかな揺れだけが残った。私は奥さんかなとも思ったが、なんとなく違う気がした。
 
 神社の境内は人で埋まっていた。幔幕をはった拝殿には参拝者が絶えず、神楽殿には地元や氏子の長老連がならんで神輿の最後の揉みを観閲し、ついで木鑓か甚句ようの唄の競い合いとなった。上手も下手もあったが、甲高い声が夕闇に響いていくさまは、秋の空気の澄明さと合って中々よかった。
 私と田所さんは拝殿の柱の脇に立ってそれらを眺めた。背の低い私はときどき爪先立っての見物だったが、長身の田所さんは境内を悠然と見下ろすごとくにしながら、しかしあまり楽しげではなく、「あの連中、すぐ警官みたいな恰好をしたがる。日本人は制服が好きだね」
 とガードマン風の自警団についてぶつぶつ言ったりしていた。木鎗についてだけは時折、
「あれは伸びの調子のとりかたがむつかしいんだ]
 などと少しは笑顔を見せて言ったりしたのは、あるいは田所さんが東京府下青梅在の商家の出身だったせいかもしれない。
 私はそれにしてもなぜ田所さんはこんなに華やぎを嫌うのだと思いつつ、横顔や後ろ姿を眺めたりしていたが、まもなく田所さんが、
「もう行こうや」
 と言い出したので、神社を出た。
 そうして私たちは田所さんの案内で川伝いの道をぶらぶら歩いて、駅近くのそば屋へ入った。もうとっくに夕食時だったが、家へ戻ってもとても食事は出そうになかったせいもあってそうしたのである。
 田所さん案内のそば屋は、玄関先に植え込みなぞのある新しくて中々いい店だった。私たちはそこで板わさに酒を注文し、一献始めた。
 酒は二合用の腰の丸いとっくり入りで、格別いいわけでもなかったが、それまで外にいたせいか燗酒がやはり身にここちよかった。
「いやあ、ぼつぼつやっぱりこれだねえ。もう十月だもんなあ」
 田所さんもそんなふうに言い、だいぶ上機嫌になっていた。そしてこんなことを言い出した。
「近頃はこの先の暮し方のことを考えたりしてねえ。もう年だし、うちは年寄りばかり三人だから。ほれ、さっき出がけにちょっと気づいたかもしれないが、姉がいるんだよ。十いくつもちがうんだけど、僕は一人だけ年の離れた末っ子だったもんだから、あれを半分母親代りみたいに育ったところがあってね。それに向うはずっと独りのままだったんで、今のうちを作るとき金も出し合って一緒に住みだしたのよ。もう八十五だ。どうしたもんかねえ」
 私はそうか、あれがそうだったのかと思いつつ、ちょっと考えた。ということは戦後しばらくからだから、四十年程も同居の計算になる。ひょっとしたら新婚直後からだったかもしれないから、奥さんもよく辛抱したものだし、それにしても田所さんは子無しの上に妙な家族構成だと思えもする。
「なるほど、末っ子ですかあ」
 私が何となくいろんなことが分った気がしてニヤついていると、田所さんもその意味を分っているとでもいうように少々気恥ずかしげに笑いながら口を継いだ。「それでまあ、あれこれ考えてはみるんだが、中々むつかしくてねえ。最近、二好と四橋も相次いで家のことで抜本策を図ったんだが、これが四橋の方なんか大変なことになっちゃったんだ。青梅の前からの家屋敷を売って新しい家に替えようとしたんだが、やくざみたいな男に騙されて家屋敷ともとられちゃったんだよ。なんでも俳句好きだと言ってちょくちょく出入りするんで、夫婦ともすっかり信用して委任状渡しちゃったらしいんだね。だから今、彼は奥さんの実家暮しですよ」 私は驚いて四橋さんの顔を想い浮べた。四橋さんは例の秋茄子の句の俳人で、前回の田所さんの個展の際には顔を合せてしばらく一緒に飲んだ。田所さんとは二好さんともども小学校時代以来の幼馴染みである。
「うーん」
 唸っていると、田所さんは更に口を継いだ。
「そのせいか、もう一人の二好の方は、去年やっぱり青梅から東京へ家を買い替えるとき、売った一億くらいの金の入った預金通帳を、新しい家と引き換えになるまで毎日どこへいくにもショルダーバッグに入れて、ぐーっと握り締めて離さなかったというから、面白いよねえ」
 私は今度は吹き出した。二好良一郎といえばかなり名を知られた詩人なのである。詩壇ではぼつぼつ長老のうちでもあろう。その人がどんな顔をしてそのバッグを握り締めていたかと思うと、自然、笑いがこみあげてくる。かねがね貧乏詩人として有名でもあった人なのだ。
「緊張したんでしょうねえ」
「だろうねえ」
 私たちはもう一度笑った。
 そうしてその笑いの後半へ田所さんが言った。
「だけどねえ、そうまでして手に入れた中野の家というのが、ちっぽけなもんなんだよねえ。ま、新しいには新しいけど、新建材ばっかりの建売りでね、このごろはあんなもんなんだねえ。
 だから、どうもぼくは面倒なことまでしても、という気がしちゃうし…」
 私は田所さんの言わんとすることがおおよそ分った。田所さんの家も、売れば場所がら今や土地代だけでかなりの額にはなるだろう。それは正直、田所さんには目の飛び出るほどの金額にちがいない。が、ではそこを売ってどうするとなると、今更億劫というか気が重いばかりだ、第一、そも別に行きたい所もない、といったところだろう。
 で、私はちょっと考えてからこんなことを言ってみた。
「田所さん、今の所を動かずに家だけ新しくする方法も多分ありますよ。不動産信託といって、敷地を担保に金を借り、家を改築したり老後の生活全般のケアを受けるというやりかたです。ぼくも詳しくは知りませんが、一部の信託銀行などでそんな方式を扱っていると聞いたことがあります。食事なんかもこのごろじゃ、毎日中々気のきいたものをきちんと定時に配達したりするらしいですよ」
 田所さんはじっと聞いていてから言った。
「うん、そういうことは少し聞いたことがある。でも、その借りた金はあとどうするの?」
 私はつとめて明朗に答えた。
「それは死後清算でしょう。余った場合どうなるのかはよく知りませんが。いずれにしろ財産はあの世へ持っていける訳じゃないでしょう。一度、信託銀行へ聞いてみられたらどうです」
 田所さんはまたじっと考えていてから、呟くように言った。
「うん、聞いてみる。信託銀行か」
 それから私はお代わりした銚子を田所さんの盃に向けた。田所さんはそれをゆっくり飲み、
「ところで」
 と自ら調子を変えた。
「なんです?」
「ああ、女のほうのことだがね、このごろはからきしだめだったが、最近ちょっといい女医さんが現れてね。これがふんわりして中々色っぽいんだよ。ま、セックスのほうは前立腺があるからダメなんだが、それはそれとしてちょいと眺めたりつきあっているだけで悪くないんだよ。いやあ、いつまでたってもこういうことは尽きないもんだねえ」
 私は笑いながら田所さんらしいと思った。昔から田所さんはこの種のことが好きだったからだ。ただし今回の話ははたして実態はどのていどなのか。どうも何割かは増幅がありそうだが、ひょっとしたら本当なのかしら。それにしても田所さんの言うとおり、人間というものはいつまでたってもこういうものらしい。
「人間って面白いもんだよなあ」
 田所さんも何を考えていたのか、タイミングよくそう言った。
 私たちはそのあとざるそばを食べて、店を出ることにした。勘定を私が払うと、田所さんはきちんと礼を言われた。私は絵をただでもらったことを改めて思い、ひそかに恐縮した。
 ふつうならここで辞すべきところだが、私は絵があるのでまた一緒に元の道を戻った。神社の祭りももうほぼ静まっており、隣の田所家はさらに静かだった。二人はあの石段をゆっくり登り、私は絵をうけとるために田所さんのあとにつき一緒に玄関へ向った。
 そして田所さんがドアを開け意外に若い調子で「ただいまー」と言うと、出がけにカーテンが動いたあの部屋の方から突然、
「泰夫、おかえりー」
 と甲高い、華やぎに満ちた声がし、満面笑みの一人の老女がいかにもいとおしくてならない、待ちかねたというように田所さんに向って走ってきた。
 そうして私を認めると、「あっ」と声を上げ、身を翻して一瞬のうちに元の部屋へ消え去った。
 私は目を瞠ったまましばし立ち尽くし、田所さんは困惑した表情で黙っていた。 私は我に帰ると、あとは出来るだけさりげなく振舞い、絵をもらって辞去した。

                            3

 それから九ヵ月後の先だって七月、私は久しぶりに田所さんに会った。場所は正木さん宅で、折から正木さんの早めの新盆を兼ねて開いた正木さん追悼連句会の席だった。
 つまり正木さんは亡くなっていた。この四月に癌で逝かれたのである。で、この日は生前連句好きだった故人を偲んで、いつも集まっていた故人の離れで歌仙を巻こうと企画し、田所さんも誘ったのだ。 田所さんは連句には縁はなかったが、ちょうど正木さんの肖像画を描いているからと、それを持参して下さった。
 集まった十人ほどはまず、折から正木夫人が入院中で誰もいなくなった母屋の新しい小さな仏壇前に立ち、丁寧な包装を解いてその絵を仏壇の右脇に掛けた。
 絵は二十号ほどで、左斜め上部に一花の白木蓮が枝に咲き、中央やや下に背広姿の正木さんがやはり左側へ視線を向けている図だった。顔と花以外はまだ未完成で、色も薄いうえに例によって大半が茫漠と霞んだごとき感じだったが、それがかえって丁寧に描かれた顔と花を浮き立たせ、中々風情があった。
「題は白蓮居士というんだがね。まだ途中だから本当は見せたくない気もしたんだけど、ま、新盆だというし…」
 田所さんが例のごとくもぞもぞと気恥ずかしそうに言ったので、世話役でもあった私は答えた。
「いや、ちょうど幽霊みたいでいいですよ。正木さんが本当に出て来たようです。横目にしているところも単純ならざる感じがして面白いですね」
 最後の「単純」云々は、いつか田所さんが正木さんに関して言ったことを受けたつもりだったのだが、田所さんはそれに気づいてかどうか得たりと頷いた。
「そうなんだよ、そこんところが出したくてね。ま、全体としてはきれいな人だった。だから白蓮ととりあわせてね…」
 そして田所さんはこれもいつものごとくではあるがちょっと目をぱちぱちさせた。顔は案外明るく、別に屈折はなさそうだった。その顔を見ながら、私は正木さんが亡くなった直後の、伝え聞く田所さんの言動を想い起していた。
 伝え聞くというのは、実は私はそのころ田所さんとは一度も顔を合わせなかったからだ。すなわち、田所さんはまず、正木さんの亡くなった晩の仮通夜にやや遅めに現れ、離れの遺体の前に詣でるとそのままほとんど誰とも口をきかずまっすぐ帰ってしまったのである。母家のほうで他の客とともにいた私は、田所さん来訪の報に席をあけて待っていたのに、中々現れないから様子を見に庭へ出ると、田所さんはもうとっくにいなかった。
 そして二日後と三日後にお寺でもたれた正式通夜と葬儀にはついに姿を見せず、代りにというかその前後、田所正木両氏共通の古い友人宅へ酔って電話をしては、さめざめと泣いたそうなのである。
「ほんとに困っちゃうわよ。あの人、もともと泣き上戸ではあったけど」
 とは、その友人ばかりか自分までずいぶん聞かされたという友人夫人の言だった。
 私はそれを聞いていかにも田所さんらしい反応だとも思っていたが、それから二ヵ月少々たっての田所さんが今、目の前の様子なのだった。
「ぼくはこの間、肖像画を二枚描いていたんですよ。もう一枚は二好のです」
 田所さんは誰にともなく言った。私はそれを聞いて、あっ、そうか、と思った。確かに二好さんも正木さんのほんのしばらく前に亡くなっていたのだ。
「そうですかあ…」
 誰かからそう呟きが出、しばらくみんな沈黙した。
 それから私たちは絵を持って離れへ移り、絵の前で連句を巻いた。
 田所さんは窓際真ん中にどっかり座り、時折り絵や正木さんとの交友に関する質問を受けたりしながら、ちびちび酒を飲み、だんだん上機嫌になっていった。途中、誰かの、
   褌しめていざ出陣す
 という多分に諧謔的な短句に付け、
   玉ノ井はいづこと向島を見る
 と詠み、あまりにも直截的かつ感覚が古すぎると批判され、だいぶ苦吟ののち二、三句あとになって、田所さんをよく知る連衆の一人から冗談半分、
「田所さん、これでどうです。肥って還る敗残兵」
 と言われると、手を打って、
「あ、それがいい、それでいい」
 とまるで自尊心も何もなく、そのままただ「敗残」と「兵」の間に字数合わせに「の」の字だけを入れ、自分の句として通してしまった。そうして、
「いや、あのときは実際そうだったんだよ」
 と、少なくとも私たちが知るかぎり昔も今も肥っている体を揺らめかせた。
 私は以前もらった文書にかんがみ、いくらなんでも当時はもっと痩せていただろうと想像しつつ、田所さんはひさびさに大勢とこんな場にいるのが楽しいのだと思って、黙っていた。
 それからさらにだいぶ経ったころ、田所さんはかなり酔った様子で、
「この絵、今日持って帰るのしんどくなったな。どうしょう」
 となんとなく私のほうを見て言った。
「ここに置いておかれても構いませんよ。お盆の間ぢゅうくらいちょうどいいかもしれません。奥さんもまだ見てないし。それであとで取りに来られれば」
 私がそう答えると、田所さんは安心したように言った。
「よし、そうしよう。さあ、これで飲める」
 そうして田所さんはさらに愉快そうに飲み続けた。
 こうして連句は六時間近くも続いたのち巻き終えたが、打ち上げにまた少し飲んでいるうち、正木さんの人物論になった。正木さんがいかなる人であったか、本当に胸襟を開いて語ったか、己れをまっとうしたか、孤独であったか、実りある人生だったか、そんなことどもだ。
 それはそれぞれに意見はあったが、中々他人には断定できないことだった。正木さんは世間的には有名人でありまずまず成功者だったが、当人は必ずしもそうは思っていなかったふしがあるし、実際、はたから見ていてもずいぶん孤独の相をしばしば見せられた。ライフワークだった最大の作品は未完のままだったし、子供もなかったし、亡きあとは老妻も入院してしまい、こうして書斎や居室を守る人もいない。
 結局、一通りの議論ののち、ふと間合があいたが、そのとき突然、田所さんが言い出した。
「ああ、絵はこんな所に置いておけない。俺は持って帰る」
 そうしていきなり絵をつかんで部屋の端へ行くと、誰かが何か言ったのに対し、
「いや、物理的問題じゃない。精神的問題だ」
 と言い捨て、持って来たときの紙やビニール類でただちに包装しはじめた。
 その田所さんの顔はかなり歪んでいたので、私は田所さんが何を考えたのかと推し量ろうとしたが、そのとき田所さんがぼそりとこう言った。
「おれは絵をかき続けたいんだよ」
 それからまもなく、田所さんはみんなと一緒に外へ出ると、左手に絵を提げ右手で杖をひきひき、少しうつむきかげんに帰っていかれた。
                                                           (了)