奄芙の島はプリズンか
                                                    夫馬 基彦

 私は数年前から毎年冬休みに、南の島を三ヶ島くらいづつ訪れては、南下していくのを楽しみにしている。
 一昨年はそれが奄美大島、加計呂麻島、徳之島、喜界島で、昨年末が沖永良部島、与論島だった。

 印象に残った一つが、これらの島々が昔から流刑地だったり、何か志を持った人たちの逃避地兼精神的飛翔地だったりしたことだ。例えば喜界島は俊寛僧都の流刑地だったし(今でも俊寛像が島の公園にある)、沖永良部には海辺近くに、西郷隆盛の吹きさらしの牢屋が建っている。この牢屋など、どのみち逃げも隠れも出来なかったろうに、なぜあんな狭いところにトイレまで見えそうな条件で閉じこめる必要があったのかと思えるほどのものだが、それが「獄」というものの本質なのだろう。時の権力にとって影響の及ばぬ地に隔離すると共に、孤独と屈辱を強いて制裁するのが目的というわけであろう。

 それに比し、もう一つの精神的飛翔地というのは、例えば大島西端近くの久志集落にかつて共同体「無我利道場」を営んで、石油備蓄基地反対闘争をねばり強く続けた山田塊也らグループたちの場合や、与論島にしばし住んだ六十年安保時の全学連委員長唐牛健太郎や、その唐牛や山田塊也とも親しかったヒッピー集団「部族」のリーダーで詩人の山尾三省らのことである。唐牛や山尾は比較的短期間で与論島を引き上げはしたが、しかし日雇い仕事をしつつ過ごした奄美での生活はいわば雌伏の時間でもあったようで、その後六十年世代や七十年世代に影響を与える行動をずっととった。山尾は更に屋久島に移住定住し、自然との共生詩人として、三年前亡くなるまで南の島暮しを続け、詩を世界に発信した。

 それらの生き方は、島を獄の代りに開かれた解放の地として、土地は小さくとも世界に向けてつながった自由の地として飛翔させたと言えよう。

 一つだけ、どう位置づけていいか分らぬのは、加計呂麻島で特攻隊員として死を待ち続けた島尾敏雄で、彼らがいたという入江や洞窟を訪れると、そこもまた獄だったような気分と、いや、むしろ死を前に純化した若者たちの透明な別世界だったのかもという、二重の思いが生じてくる。
 海軍魚雷艇震洋は今でもそこに一隻残っているし、作家となった島尾の残した作品は多数、檻などない広い世間に残っている。

    2004年10月24日第24回WiPの日記念集会『言葉の牢獄ー方言からの出発ー』(奄美パークにて)パンフレット所収)