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                                                    夫馬基彦

 
 川田は壁の時計が六時をまわっているのを見ると、轆轤をとめた。
 盤上の壷は下からせりあがるようにゆるやかに、だが通常のバランスよりは相当長めにつけたカーブの頂点部がひょっとしたら崩れそうな不安も呼びおこすが、しかし多分これでぎりぎりの状態はたもってくれそうな気がする。問題は乾燥だが、このごろの次第にしめりをおびてきた温気の具合はこのことに関しては好都合だろう。いわばゆるやかに熟成していくことによって歪みや崩れ、ひび割れが起きる直前の緊張を満を持した弓の張りのごとく持続できそうに思える。
 川田は壷をそっと板上に移し乾燥室におくと軍手をぬぎ手や腕、顔、足を洗い、鏡でちょっと顔やTシャツの汚れを見てからゴム草履の音をペタペタさせながら工房をでた。工房の戸は近頃レールの具合でも悪くなったらしく手と耳の両方に少し抵抗感をいだかせる。
 母屋のほうの戸はなめらかに音立てて開き、川田は草履をぬぐとそのまま階段を小走りにのぼって奥の間で手早くポロシャツと白ズボンに着替え、ズボンのポケットに入れたハンカチの具合などを確かめながら今度は少しゆっくり降りた。
 その際、階段がきしみとともにいささか揺れた。いや、いささかというのは川田の主観であって、他人だとしばし立ちどまるほどかもしれない。まだ築八年にしては問題だろうが、造ったのがもともと素人の自分なのだからしようがない。おまけに元来が建設会社の飯場だった建物だ。川田は知人のつてでそれを譲りうけ、ここへ骨格の組み立てだけしてもらったあと、自分ひとりで壁天井や玄関から内装までこつこつ仕上げたのだ。理由は金のためばかりではない。とにかく自分で家というものを造ってみたかったからだ。
 もっとも、結果は満足とともに左人差し指の先端一部欠損とかなりの疲労をもたらし、ゆえに工房の方は造りとしては住居よりよほど簡単なのに全部プロにまかせることになった。その工房のほうの戸はきしむのにこちらの戸はきしまないのはなぜだろう。人差し指の先を電動のこでそぎおとしたときの「アレッ」という感覚は今でも忘れられない。痛かったというよりほんとにアレッだった。気づくと指の形がいつもとちがっており、目の前へもってきてひっくりかえしてみたりまた元へもどしてみたり、まじまじと見つめてやがて噴き出してくる血とともにやっとそれと認識した。
 台所で今日釣ったばかりという貰いものの旬の若鮎と犬の餌用の残飯を持つと、庭の端の犬小屋の前で太郎丸に餌をやった。狼を少なくとも多少は想起させる耳と目と牙の鋭い大柄な太郎丸はそれをがつがつと食べ始めた。
 いつもならそれをしばらく眺めるのだが今日はすぐバイクに乗るため母屋からはカギ形の敷地内にある工房前にもどると、下の谷川の音が急に耳についた。母屋からだと道路下の大岩とその周りの樹木のせいでさほど聞えないのだが、面白いものである角度をすぎたとたん急に聞えだす。さわさわさわという音にもう少し重い音がまじるのは、大岩の下あたりで水が淵に入るためだ。今日の水量は格別多くはない。
 バイクは五〇〇CCの黒の中型である。川田はそれにまたがるとヘルメットをつけ、エンジンを始動させてゆっくりと下の道へ出、やがてスピードを上げた。
 うねった坂道を下っていき、集落の一番底部中ほど、村では銀座と呼んでいる界隈の火の見櫓前で通常の県道側出口とは逆方向へ左折し、どんどん奥へ向った。
 点在していた家も屋号バラアラ、カヤツミバを過ぎればもう一軒もなく、旧石切場横の小峠をこすと、眼の下は緑一色だった。いくつもの小さくて柔らかい姿かたちの山々が三重四重、ところによっては五、六重にもかさなってつづき、それらがすべて六月初旬のまだ濃すぎはせずさりとて新緑とは言えないあざやかなグリーンにおおわれ、適度のしめりと適度の涼やかさをもって向うの空にまで広がっている。時間は六時半前後だろうか、まだ日没前で空はやや不透明に明るいがしかし同時にそこここにはうす紫ともそれ自体が緑色ともつかぬ空気のベールか靄がかすかにたゆたって視界全体あたり全体をぼんやり包み幻惑的だった。
 川田はバイクをとめた。静寂があたりにまあるく満ちていた。「しんと」といった秋や冬のそれではなく、やわらかで緑色のもやった静寂である。ときどき短く鳥の鳴き声がした。これもつんざくような声はない。やさしく囀るような声ばかりがする。
 川田はそのなかに融けいりたいような気がした。多きく息をするとまわりの空気が体内に入ってくるとともに体が四囲に同化して無形になってしまいそうな気がした。これだからこの界隈は好きだ、高からざる穏やかにしてまろき浄土庭園のような山景色が好きだ、そう思ってためいきをついた。こういうとき川田は本当はこのままここに肌ざわりのいい毛布でもしいてこの光景がしだいにうす闇のなかに消えいっていくまで寝そべっていたい気がした。
 だが、川田はふたたびエンジンをかけると一気に発進し、下りになった道を駆けおりやがて隣の集落に至るとそこからまた坂を上って、夕焼けにかがやく丘陵の上部台地のゆるやかな傾斜畑の中にぽつんと一軒だけある八寿江の家に着いた。
 垣根も何もない今にも朽ちそうな萱葺き屋であるその家の前には柿の老樹が一本門番兼守り神のように枝を広げており、その下に乗りつけると南側一面に一八〇度何ひとつさえぎるもののない斜面がつづき、向う遠くには穏やかな緑の山々が茜色と紫色に染まりながらパノラマのように広がっていた。これに較べると自分の家はまるで狭い谷間の奥のどんづまりそのものだなと思いながら川田はそこに馬をつなぐような気分でバイクのストップをたてた。
 家からは白っぽく風化しかかった明け放しの板戸口に羅羅が現れじっとこちらに無言のまま目を据えていた。
「やあ、こんばん」
 わざと語尾抜きでそう言ってビニール袋いりの鮎をかざして見せると羅羅はそれに目をみはってくいいるように見た。 中に入ると板の間の掘ごたつ式座卓の上にオニオンサラダのボウルを置いていた八寿江がにこっと笑った。卓上にはすでにグラスと箸置きに揃えられたいつもの黒塗りの箸があった。
「あ、これ。坂下のおやじさんが青川で今日釣ったと言ってくれた。まだ小さめだけど初物だから」
 上りながら川田が鮎をさしだすと八寿江が「わあー」と言いながら受けとった。視線は鮎にそそがれたままだから、「わあー」のあとには「きれい」とか「おいしそう」のどちらかが省略されているのだろう。それとも今年もまたこの季節になったのねというせりふだろうか。去年も確かほとんど同じ状況で坂下経由の鮎を食べた。
「すぐ焼くわね」
 八寿江はもんぺの後ろ姿を見せて台所へいき、
「先にビール飲んでる?」
 と卓前に座りかけたこちらを一旦見たが、
「いや、一緒に」
 と川田が答えるとうなづいて微笑みながら向うをむき鮎に塩をふってグリルに入れた。その間じゅう見えていたもんぺは明るい紺地に大きな緑の草の葉模様の洒落たもので、ヒップのかたちもきれいに見えた。戻ってきたとき八寿江はビールの大缶を持っており、
「とりあえず始めてましょ」
 とちょっと語尾を上げて言った。
 二人のグラスと羅羅のにはほんの少しだけビールをつぎ三人はいつものように乾杯した。羅羅はあいかわらず口をきかないがこのときだけはカチンとグラスを合わせて笑った。
 川田はその顔と八寿江の顔を見ながらオニオンサラダをつまんだ。オニオンスライスはよく水にさらされて冷え、ドレッシングの具合もよかった。八寿江はこういうところがいいと川田は改めて思った。
「今日は進んだ?」
 川田の位置からだとちょうど背中方向、玄関土間左の間の織機を振り返って見ながら言うと、八寿江もそちらを見た。織りかけの草色縞模様の布が少し見えている。ところどころに濃いブルーがスッスッと入っていて悪くない。どの糸もすべて自分でした草木染だがブルーに関しては先月木の実をつぶしてずいぶん苦労していた。
「うん、まあまあね。考え考えだからあいかわらず遅々たるものだけど」
「進んでいればいいさ。集中できてるときが一番いいときなんだから」
 川田が自分の実感をこめて言うと八寿江も、
「それはそうね」
 とうなづいてから、
「でも、今日またつまづいちゃった。右足の親指が痛くって、ほら」
 と掘ごたつ用の空洞を斜めからすかし見るようにしつつ中で右足を浮かせて見せた。川田が覗きこむと脇から羅羅も一緒に覗きこんだ。確かに親指の付け根あたりが少し腫れている気がする。
「うーん、何しろ段差があるからなあ」
 川田はもう一度織機の間を見ながら言った。
 そこはもともとは和室だったが畳があまりに古びて傷んでいたので、畳をはらって厚手のビニールシートをしきその上に織機を置いたのだ。だから敷居との間に数センチの段差があり、その高さが中途半端なだけにどうしても時折つまづいてしまう。八寿江はもちろん川田自身もそれを何度か経験している。ただし、羅羅だけはどういうわけか一度もそれがないのだが。
「貼り薬でも貼る?」
「ううん、いいの。匂うし、それにそれほどじゃないから」
 川田はうなづきながら屋内をちょっと眺めまわした。床板はひび割れている所が何カ所かあるし建具は二カ所ほど傾き天井は梁から竹組まで真っ黒な煤だらけだ。煤は多分百年近くにわたる積年のものだろう。二年半前までこの掘ごたつは囲炉裡だったのだ。三年半前ここへやってきた八寿江は当初は面白がってそれを使ったが、部屋から衣類顔手足それになにより織物までが煤で汚れるうえ隙間が多いせいもあって暖房効果がさほどでなく、かつ夏の間は何の役にも立たないばかりか羅羅が時々足を踏み込んでしまったり砂場のように遊び場にして灰を部屋中にまきちらしたりしたため、結局一年後に川田が掘ごたつに改造してやった。他にも雨漏りの修理、トイレの新設など川田がしてやったことはいくつかある。それまで八寿江母子は雨が降ると家の中に洗面器やポリバケツを置き、トイレは夜でも冬でもいちいち外へ行っていた。
 鮎が焼けたので二尾づつ前にして食べ出すとしばらく誰からも声がなかった。三人とも好きなのだ。小振りで身は少ないが、皮ごと肉をつまんで二杯酢につけて食べると頬がゆるんだ。
 ビールで一息入れていると、羅羅が黒いわたまでを食べていた。去年はおっかなびっくりだったが今年はうまそうに肉とうまくまぜて食べている。言葉はあいかわらず発しない。
「川田さんの方はうまくいってる?」
 八寿江が言った。
「う−ん、何とも言えない。もう少しだな」
「そう」
 予定では窯入れの日がだんだん近づいている。川田は自分自身の気持をちょっとはずすように八寿江にビールをついだ。
 食事はそのあと椎茸の炊きこみごはんと豆腐汁だった。話題は夏野菜の育ち具合である。八寿江がとうもろこしと枝豆に挑戦しており、川田はトマトと茄子だ。 食後、後片付けを手伝ったあと、川田は羅羅にファミコンをつきあってやった。羅羅は人形作りとファミコンが好きだ。
 ファミコンは近頃流行のなんとかソフトで二人が交互にボタンを操作していくのだが、川田の番になると羅羅はククッ、ククッと笑った。十二才の羅羅は四十五才の川田のもたつきようが面白いのかあるいは案外川田が自分と同じミスをするのが楽しいのかどちらかだろう。川田はククッ、ククッという笑いに囃したてられるようにして次第にゲームに熱中していった。
 そしてゲームの一段落がついたところで目が合うと、羅羅はまたククッと笑いながら、
「もうじきセイコちゃんがくるの。きょうでんわしてきたの」
 とほとんどこの日初めての言葉を発した。セイコちゃんとは菁子のことにちがいあるまい。
「うん、菁子さんが?」
 思わず問い直すと、
「うん」
 と羅羅が笑ったようなこちらの目の奥を覗くような眼差しでうなづいた。羅羅は自閉症で小学三年以来ほとんど学校へは行っていないが知恵遅れではない。勘はむしろ鋭い。
 川田は「ほう」と思いながら折から台所にいた八寿江の方を見た。八寿江は聞えていたのかいないのか素知らぬふうに何かをしていた。

 五衛門風呂から出てまたビールを飲んでいると、まもなく風呂から上ってきた母子が揃いのちりめんのパジャマ姿でなんとなく髪つくろいなどをしつつ山ぶどうのジュースを飲んだ。そういう恰好をしていると羅羅も胸は少しふくらみ肌や髪はつややかでそれなりに女っぽい。それなのに羅羅は、ふだんはそうでもないらしいのに川田が来ているときまって母親と一緒に風呂に入る。
 羅羅はしばらくして八寿江にうながされ歯を磨いて自室のふとんにはいった。その折少し見えた部屋はあいかわらず手製他製の人形でいっぱいだった。
 二人になると八寿江は自分もビールを飲みながら、
「このまえ、また覗かれたの」
 と言った。
「いつごろ?」
「夜、お風呂から出た直後。バスタオルだけ付けてここで羅羅と髪をかわかしてたら、台所の窓からじっと見てたの」
「で?」
「羅羅がじーっと睨み返してそのまま向うまで寄っていったら逃げていったみたい」
「知ってる人?」
「分らない。やっぱり生垣じゃない垣根作った方がいいかしら。そこへ鈴でも付けるとかして」
「うーん……」
 覗きは引っ越し当初から時々あって中には知った人もいた。風呂も覗かれたが居間や寝室代りの座敷もである。最初は生垣でおおうことも考えたが、それだと相手が身を隠せてかえって危なそうなので軒灯を表と風呂場脇につけたけれど、それでもまだ来るとなるとどうすればいいのか。
「台所前にもうひとつ軒灯をつけるか。それともやっぱり垣根かな」
「そうねえ……」
 二人は曖昧に黙った。横には納屋もあるし完全防御はどのみち無理な気もするうえ、経費も八寿江には負担だろう。
 羅羅が自室でもう寝入っているようだったので、二人はしばらくして寝室へ入った。洗いざらしのシーツのうえに枕を並べて横たわると遠くで蛙の鳴き声がわずかに聞えた。川田の家だと田植え前後以降はまるで潮が押し寄せてくるように前からもうしろの山側からも大きく聞えてくるが、ここは周りが畑ばかりのせいか不思議に今頃は静かだ。秋になれば虫のすだきがすごいのだけれど。
 その静けさの中で川田は八寿江の肌に触れた。軽くまつげを伏せている八寿江の少しやつれたような横顔を見ながら白めで柔らかい首から上腕、胸へとゆっくり掌をはわせていくにつれ自分の中からも八寿江の体からもなにものかが疼き立ってくるのが分る。まだ三十四才の八寿江の皮膚は張りも粘着力も若々しい。川田は八寿江をそっとひきよせ背側を上から腰までいくどか撫でおろし撫であげたのちやがて八寿江の中に入っていったが、二人とも声はほとんど立てなかった。ひょっとしたら羅羅があの鋭敏な感覚で耳を獣のようにピッと立てているのではという気がするからだ。
 終ってうす闇の天井を見ていると八寿江がぽそりと言った。
「菁子がまた来るって」
「そう、いつ」
「週末あたり」
「……」
 川田は八寿江の高校の同級生である菁子の顔を想い浮べた。三年前ここで初めて出会ったときは青白い痩身にいかにも都心のオフィス秘書といったなりと雰囲気を漂わせていたのに、一年半後には退職し化粧っけ全くなしのジーパン姿で庭師にでもなろうかしらなぞと言い、そして次に会ったときには真っ黒な顔をして本当に庭師の見習いになっていた。女庭師は目下日本で十人程度しかいないのと急にはつらつとしていたその顔……。
 黙っていると八寿江がちらとこっちを見てから、
「もう寝るね」
 と長めの黒い髪を見せて向うをむいた。

 数日後の夕方、八寿江から電話があって菁子が来たと告げた。おみやげに上等のかんぱちの刺身が半身もあって川田さんもぜひどうぞと菁子が言っているというのだ。川田はその菁子の言い方とそれに関する八寿江の言い方を少し考えてから行くと返事をした。
 例によって六時半すぎにバイクで八寿江宅に着くと、菁子と八寿江母子の女三人がおおはしゃぎで食卓を整えていた。卓上真ん中にはすでにガラスの大鉢にトマトとレタスの上に生ハムをたっぷり盛ったサラダ、クッキー上に香菜やオリーブの実、チーズなどをいかにもパーティーふうに載せたものの大皿、それに色付きの切子グラスなどが並び、大型ろうそくまでが立っている。
 クリスマスでもあるまいし女はどうしてこんなことをしたがるのかと一瞬唖然とするが、羅羅の表情が本当に明るく鼻歌まで歌っているのを見るとなるほどとセイコの人気のゆえんが分り、かつ菁子の心配りとその裏に多分ありそうな当人自身の孤独も感じた。人間は自分も似た状態にないと他人のそれをなかなか理解できないし、同情だけでは自分もここまで楽しもうという気にはならない。
 「いらっしゃーい」という声に菁子を見ると菁子は地味で質素な濃緑のスラックスと袖口の大きな上っぱり姿で、もうすっかり定着した黒い顔に白い歯を見せ半分輝いた目をしばし川田と合わせたのち、
「おひさしぶり」
 と微笑みつつ視線を卓上の品々にかこつけるようにそらした。会うのは正月以来ほぼ半年ぶりだ。正月にも菁子は御馳走の材料をふんだんに持って現れ、大晦日から六日間はしゃいですごしていった。そのときより髪はまただいぶ短くなり、元気そうだがあいかわらず痩せてはいるし神経質そうだった。ふと視線を感じて台所の方に目を向けると、入口で刺身の大皿をもった八寿江がじっとこちらを見ていた。羅羅は浮かれて卓のまわりを跳びはねている。
 かんぱちの刺身を機に全員が卓を囲みきりっと冷えた刺身と白ワインを口に運びだしても羅羅は鼻歌を歌っていた。もちろん口が一杯のときはそうはいかないが、少しぐらいなら本当に食べながら歌うのだ。八寿江はそれをときどき横目で見ながらちょっと複雑な表情で黙っている。八寿江宅の食膳はふだんはかなり粗食なのだ。
「海の近くを通ってくるんだもの、やっぱり海のものを食べたくなるわね」
 菁子はそう言ってかんぱちを口に運びうまそうに喉を通した。その喉の動きが痩せているせいかよく見える。
 生ハムと香菜、オリーブの実、パーティー用クッキーは菁子の以前の名残だろう。いや、中身は今でも案外そうなのか。その辺のところはよく分らない。はっきりしているのは秘書時代は階段を一階分上るだけでも疲れていたのに、今では坂道も笑顔で駆け上りそうなことだ。
「引き締まってますますシャープになってきたね」
 言うと菁子が答えた。
「なにしろ肉体労働なもんだから。毎日もっこ担いだり穴掘ったり、昨日なんかも炎天下一日中垣根の土台作りよ、ほんとにやんなっちゃう」
 最後のところで思わず川田は八寿江と顔を見合わせたが、菁子はかったつに続けた。
「力がないから迷惑もかけるしねえ。親方なんか陰じゃいないよりましって言ってるらしいけど」
 大人三人はふふふと笑った。
「早く自分で作庭できるといいね。女性が作る庭って見てみたい気がする。男とはひとあじ違うだろうな」
 川田が少し世辞を言った。本気でもある。
「ひとつやったの。建設会社の知り合いに頼んで、小さなマンションの玄関と中庭の作庭ひきうけたの」
「ほう、もう」
「うん、これなんだけど」
 菁子は鞄から写真を持ってくるとちょっと恥ずかしげに見せた。
 川田と八寿江それに羅羅もが一斉に覗きこむと、それは竹を主体にしたいくぶん洒落てはいるがかなり平凡な庭だった。「ふうーむ」
 川田が、そして他の二人もあまり感心しないそぶりをすると菁子は、
「やっぱりまだだめかなあ」
 と少し首を斜めにしてうなだれた。
「だんだん上達するわよ。いっぺんにはむりよ」
 八寿江は言って先輩の目で保護するような表情をした。八寿江は以前から菁子に対して時折そんな表情をしたが、それは高校時代以来の習性らしい。菁子は高校入学前までは小学校中学校ともずっとアメリカ育ちだったので日本と日本語に不如意だったのだ。以降も大学は帰国子女用の学校、就職も外国担当の秘書だったので、その要素はその後もずっとひきずった。
 今でも想い出すが初めて菁子が川田の工房に来たときもそうで、中を一通り案内していると彼女は壁に貼ってあった日程表の「窯」の字を読めず「せともの」の正確な意味と瀬戸の有り場所も知らなかった。
 これは外見も話し言葉も周囲のあつかいも本人のふるまいも日本人そのものと思える三十すぎの知的な印象の人物としてはかなり奇異なことだ。で、川田が驚いてむしろこの人に関して自分が何かまちがった判断をしているのではと思い体勢を立て直そうとしばらく目をしばたたいていたところ、菁子は今と同じように少し首を傾げぐあいに悲しげにうなだれて、
「あたし、やっぱりおかしいかしら」
 とつぶやいたのだった。
 そしてそのあと菁子はこんなふうに言った。
「あたし在日日本人なんですよ。日本にいるとそうだし、アメリカにいたときは在米日本人。けっきょくいつも半日本人なの」
 だからなんだかずっと世の中となじめなくて、というのがその後二回目あたりに菁子が言ったせりふだったが、しかし川田はこのごろでは菁子の生き方や感覚はただそのためだけというよりもともとどこかにこの世と異和感を感じてしまう体質があるからではと思いかけている。ひょっとしたら菁子と羅羅は似ているのかもしれない。
 その羅羅はまもなく「ろうそく、ろうそく」とせがんで、お刺身のあいだはだめとされていたろうそくに火を点けさせた。ろうそくは中までグリーンの色がついたものだったので暗闇に薄緑色の炎がもえ床も柱も梁も真っ黒な萱葺きの古家の中が幻想的な雰囲気になった。なんだか遠い昔の山中の山姥の家の中かあるいは雪国の冬のかまくら、更にはヨーロッパのアルプス山中の小屋か一世紀前のドイツの森の中……。
 皆の顔も緑色になったのを見ながら川田はワインを飲んだ。互いの表情がよく見えないのがほっとするようでもあり気味悪くもあった。人間の顔はたかだか光ひとつでこんなに変る。
 その晩はだいぶ飲んで十一時に帰ることにした。かなり酔っていたので足をふらつかせバイクは無理だからと自転車を借りた。似た状況下の以前、バイクで用水路につっこんだことがあるのだ。それならあたしが車で送ろうかと八寿江が言ったが、確かにあるにはあるオンボロの軽自動車を使うと今度はバイクを取りに来る手だてがなくなるという理由で断った。
 羅羅もこの日ばかりはまだ起きていて、女三人が見送ってくれた。


 翌日午まえ、轆轤をひいていると向うの道からバイクの音がした。ここは行き止まりの一軒家だから山か畑仕事関係者以外はたいていここが目的地だ。音にもなじみがある。
 窓の外を見るとやはり菁子が川田のバイクにまたがって走ってくるところだった。川田は立上ってそれを眺めた。菁子は庭師用の紺の胸当て付パッチに網目模様入りの薄紺の長袖アンダーシャツ、足には雪駄ふうの草履をはき、川田のヘルメットをかぶった上体をほとんど九十度近くに折ってかなりのスピードで颯爽たる運転ぶりだった。遠目には男にしか見えぬかもしれないがこうして近間で見れば顔の印象とか全体にどことなく小作りで角が丸いところがやはり女を匂わせる。見つめていると最後のカーブをこちらに曲ったところで目が合い、菁子もにっこりした。今日は唇に白っぽい紅をつけているようだ。
 表へ迎え出ると菁子はエンジンを停めてバイクをちゃんと立てた。やはり唇にはうっすら紅をつけており、ヘルメットをとると耳に銀色のピアスまでつけていた。
「なかなかやるじゃないの。なんだかちょっとお祭りみたいだけど」
 笑いかけると菁子もフフと笑って答えた。
「今日は見せてあげようと思って。だって昨日はわざとバイク置いてったんでしょ」
 菁子の目はまっすぐこちらの目を見ている。
「ばれたか」
「分るわよ、そんなこと。八寿だって気づいたかもしれないわよ」
「そうかな」
 菁子は黙ったまま工房に入るとぐるっと一通り見まわし、
「もうじき窯?」
 と聞いた。
「ああ、ちょっと遅れそうだけど」
「そう、今度はだいぶ凝った形ね」
 そこここに絵付け前の壷や瓶の大小がならんでいる。
 うなづくと菁子はしばらくそれらをじっと見ていてから、自分も少しやりたいと言って粘土室から土を運び川田の隣に座っった。土の量はまずまずで菁子はまずそれを両掌で整えてある程度の形を作りそれから轆轤をまわしだした。ここへ来るたびに少しづつ教えたから多少のことは出来る。
 といっても来たのはこれで何回だろうか。一回の滞在中に何度も来ることもあるからどう数えていいか分らぬが、滞在回数で言えば今回で四回目だ。一回目はおずおずと土にだけ触れていき、二回目はこれを目当てに一週間も通って最後の日には川田にも触れていき、そして前回の正月には元旦から三日間土と川田に等分に触れていった。
 二人は並んで轆轤をまわした。川田は中型の壷の形と曲線の官能を極限まで追及しようとし、菁子は形だけ大きい素人っぽい鉢をときおり掌でささえながら作っていた。用途を聞くと素焼のままただ庭に置くだけと答えた。轆轤をまわしているときの横顔を見ていると日焼けがすっかり定着してまるで褐色に近い感じさえあった。うなじのあたりだけは最近髪を切ったためかいくらか白く生えぎわがくっきり見える。頬はあいかわらず削げている。それは菁子の「生きにくさ」を思わせ川田は心の風船の一部をぎゅっと指でつままれたような気がするが、しかしその先は鋭角的におとがいと鼻につながり上には大きくも小さくもないけれど生き生きした黒い目がまっすぐ轆轤を見つめている。
 その目がいい。青白い肌の時代は神経質そうで時に弱々しくさえ見えたその目が次第に今のような輝きを増していったその経過がまたいい。川田が菁子を好きになったのはその変化のゆえだ。いや、今日はまた口紅とピアスもいいか。通常なら色っぽいとはまず言えない痩せて日焼けした顔の中に、薄めの唇に薄紫ピンクの紅をそっと引き銀の小さなリングをさげた見せごころが愛らしい。川田は菁子のそんな顔を眺めては轆轤をまわした。
 まもなく午になったので二人は母屋へ移りごはんと鯵の干物につけものだけの食事をした。午はおおむねこんなものだ。つけものは茄子の糠づけが得意であり好物だが今年はまだ横の畑での出来が遅いので買ったきうりのものにしている。
 それでもひさびさに人と一緒に食べる昼食はうまい。夕食はともかく昼食はもう何カ月も人と食べたことはない。
 食後、広く窓を明け放ったリビングの椅子にかけて風に吹かれながら菁子と向き合ってコーヒーを飲んだ。窓の外には青桐が人の顔ほどもある大きな緑の葉をそよがせていた。それは八年前ここに住みだしたとき自分で苗を植えたものなのに、もう幹は両掌でおおえないくらいに大きくなっている。風はそのうえを緑色になって通ってくる。菁子はその風につつまれながら川田を見ていた。
 川田はその菁子を見ていて勃起してくるのを感じた。
 立上って菁子に近寄り顔を胸に抱きよせ頭頂部に鼻をつけて匂いをかいだ。髪と地肌の匂いがまざりあって半ば乾き半ば甘酸っぱい匂いがした。川田はその匂いをクンクンと鼻を鳴らして何度も何度もかいだ。両手を下げていって肩を抱くとごつごつした肩甲骨ととがった肩があった。右手を前にまわすと小さな乳房のふくらみが淋しげに庭師のシャツの下に隠れていた。
 だが、それでも勃起は少しも減じない。頬ずりして耳許で、
「ねえ、上へ行こう」
 と言うと菁子が答えた。
「今日はそういうことしたくないの」
「なぜ?」
「だってゆうべあんなに楽しかったんだもの」
「でも、こうだよ。さっきからずっとなんだ」
 川田が菁子の左手をとって股間に触れさせると菁子はしばらくじっとそれに掌を当てていてから言った。
「あたしを見るだけでこうなってくれるなんてあなたぐらいね、ありがとう。でも今日はやっぱりやめとく。八寿の顔見られないもの」
 菁子は手をもどしてコーヒーカップのあたりに目を向けていた。
 川田はそれを見つめてから両腕をはずして言った。
「分った、そうしよう」
 だが、そうして席へもどろうとしかけた瞬間、菁子が立上って両腕を川田の首へまきつけ深いキスをしてきた。それは唇と舌が川田のそれらをすべて吸い尽くすような熱いもので川田はそれに自分も強く菁子を抱きしめながら応えた。
 二人はそのあと工房にもどってまた轆轤をひいた。川田は細心の注意を払って新しい形の器を二つ作り、菁子は午前と同形の鉢を作っては壊しいじりつづけた。 五時頃、菁子が帰るというので川田は少し迷ったがバイクで送ることにした。迷ったのはそうするとゆうべ川田が借りてきた自転車がそのままになってしまうことと相乗りで八寿江宅へ乗りつけるのはどうかなと一瞬考えたからだ。二人はヘルメットをかぶり菁子は川田の背に頬をつけ腹を両腕で抱きしめた。
 川田は発進した。八寿江の古自転車は工房の軒先に残っている。
 バイクはいつもと同じ道を快調に走りあの小峠に来た。川田はそこでバイクをとめ後ろの菁子を振り返って「ほら」と言いだいぶ長い間あの山々を一緒に眺めた。
 八寿江宅の見えかかる直前で川田は菁子を降ろそうかと一瞬また迷ったがしかしけっきょく送られてきたことは分るのだからと思い直し、そのまま坂をのぼって柿の木の少し手前まで行った。そこで菁子をおろし自分はバイクにまたがったまま菁子を迎えに走り出てきた羅羅と縁側に立った八寿江に、
「やあ、ゆうべは楽しかったね、ありがとう」
 とわざと明るくひとことふたこと言った。羅羅はチラと鋭くこちらを見てから早くも菁子にちょっと過剰なほどまつわりついており、八寿江はその光景と川田を織機を背景に逆光のなか黙って見ていた。
 川田はその八寿江と羅羅たち両方がふくまれた光景をモノ黒写真のようにしばらく見つめた。羅羅は耳障りなくらいの甲高い嬌声をあげて菁子にぶらさがっており菁子は体を斜めにしながら無理にも笑って羅羅を抱き上げようとしていた。いや、無理になのかどうかは分らない。 そしてしばらくして川田はふっと我にかえり今日はまだ仕事だからとエンジンをかけ、バイクの向きを変えてそのまま帰った。自転車のことには誰も触れなかった。

 
 翌日、川田は遅く起きた。前夜ひとりで少し飲んだのち早寝をしたのだが、かえってそれがわざわいしてか深夜目がさめまた起きて闇の中の桐の葉を眺めながらくらがりで飲んでいたからだ。気温はだいぶ暑くぼつぼつ梅雨の到来が近いのを感じさせた。
 頭をたたきながら遅い朝食をとり、畑で茄子の手入れを茫としていると向うの草籔の下で大きな蛇がスルッと動くのが見えた。息をとめると向うも動かない。いや、向うは口から赤くて細い二またか三またの舌をひゅうひゅうと二、三度出して見せつつ顔を横に向け、明らかに川田と目が合った。そして動かない。
 視線を手前の茄子の葉にもどして葉裏にびっしりついた油虫を指先でぶちぶちつぶしていると、視界の隅にまた動くものが現れた。大ぶりの茶色の蛙だ。いぼはないから蟇ではないと思える。それが蛇からさほど離れていないところに鎮座しどうやらこちらを見ている。また目が合った気がししばらく見つめあっていると視界の右手で蛇がじっと蛙を凝視しているのが分った。蛙は気づかないらしい。しばらくして単純そうな表情の蛙がぴょんと蛇のほうへ跳び、蛇はそれにぱっと噛みついた。
 蛙は必死に手足を動かしたが蛇の口は離れない。まもなく蛇は口を大きくあけ蛙をまるごと呑みはじめやがてすべてを呑みこんだ。蛇の腹は蛙がじょじょに通っていく部分だけぷっくりふくらみやがてほぼ停止するとともに蛇はちょっととぐろを巻こうとするそぶりを見せたが出来ず、そのままだらしなく体を長々と伸ばしたままけだるげに顔も地につけた。
 川田は蛙が来た時点で何らかの方法で危険を知らせ逃がしてやることは可能だったのに何もせず一部始終すべてを黙って見ていた。

 午になっても空腹を感じないのでそのまま草花の手入れなどをし二時すぎにやっと昼食をとってからこの日はじめて工房にはいっていると、四時ごろ車の来る音がした。
 見れば八寿江の軽自動車でおやと思っていると乗っているのは菁子だった。
 降りてきた菁子は今日はTシャツにスラックス姿で化粧っけはまったくなく、「これから今晩の買物に上町へ行くところなんだけど、ちょっと早めに出てきたの」
 そう言うと工房にはいるなりいきなり昨日のように首に腕をまきつけ深いキスをしてきた。そして口を離すとうるんだ目で強く川田を見つめ「あっち」と言い、、そのまま母屋へ行くと文字どおり二階の寝室まで駆け上って立ったままいきなりシャツとスラックス、パンティーをぬぎ目で川田をうながした。
 その裸はやはりそれ自体としては貧しかったがしかし別の何かがあった。恥ずかしげもなくという言葉があるがひとよりはるかに恥ずかしいのにいさぎよく己れをさらして自分の欲望を率直に表現していることの鮮やかさとでもいったものだ。川田はその菁子の縦に立ちならんだヘアーを見ているうちはっきり固くなりベッドの上で強く菁子を抱くといきなり中に入り激しく腰を動かした。どこかが少しくらい怪我をしてもいいというぐらいに動かした。
 三十分ほどして菁子は起き上るとさあ忙がなくっちゃあと言いつつ衣類をつけた。その菁子に、
「今日は化粧なしだね。わざとそうしたんだろ」
 と言うと菁子は少し首を傾げて、
「半分無意識のうちにね。八寿のうちを出るときはまだ迷ってたの」
 と答えた。
 菁子は玄関を出ながら上町までの時間を聞いたので川田はどうせ上町へ行くのなら自分も買いたいものがあるとこの半月ほどほしかった健康サンダルと夏用ポロシャツのことをふと思ったが、もちろんすぐ打消した。
 菁子は車に乗りこむとしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて前を向き発進させていった。庭に立ったまま眺め降ろしていると車は水に薄緑の苗が一面に植わっている段々田んぼ脇のくねった道を降りていきやがて火の見櫓前のT字路で右の県道方向へ折れていった。
 

 次の日、川田は朝からいつもどおりの時間で仕事をした。天気は朝から晴れたり曇ったりで時に薄暗かったが、ほとんど風がないせいか気温は前日ほどではないにせよわりあい蒸し暑かった。予報では二、三日のうちにいよいよ梅雨入りらしい。
 川田は湿度の具合と釜入れの日程を考えもっぱら乾燥のための作業をした。物によっては出来るだけ風通しのいい場所に移動させたり逆にしたり中には扇風機を使ったりといった具合だ。轤轤はもう終りである。
 そこへお午少しまえ聞きおぼえのある車の音がした。見ると八寿江の車で乗っているのも八寿江だった。
 八寿江はいつものもんぺを裾だけ開いたようなズボンと質素なTシャツ姿で降りてくるとゆっくり歩いてきた。その姿は胸は格別大きくはないがまろかにふくらみ腰から大腿部にかけてはふっくらと形よく、つまり全体にずいぶんやわらかく女らしい印象で菁子とはまるでちがって見えたが、やがて工房の入口に立った川田のすぐ前へ来ると、
「帰ったわよ」
 と簡単に言ってまっすぐ目を見た。川田は一瞬「そうか」と思ってから返事に迷ったが、
「あ、そう」
 となんでもなさげに低くつぶやくと、八寿江がつづけた。
「ゆうべまた大御馳走作ってろうそくパーティーやってくれたわ。おかげで羅羅は大よろこびの大騒ぎ。あたしは少し疲れたけど」
「そう」
 そのパーティーの様子は目に浮ぶようだった。菁子は羅羅のためともう一つなにものかのために思い切りサービスしていったにちがいない。代りにこれでまた菁子はもう半年は来ないだろうと川田は思った。
 ちょっとぼんやりしていると八寿江が手にした紙袋をさしだしながら言った。
「上町まで送ったついでにこれ買ってきてあげた、ハイ」
 開けると中には健康サンダルとポロシャツが一枚入っていた。川田がびっくりしていると八寿江が言った。
「ほしかったんでしょ。いつかそんなこと言ってたから、どうせまだだろうと思って」
「そうか、ありがとう」
 川田は言ってあわてて工房内にもどり椅子に引っかけておいたうわっぱりのポケットから財布を出すと代金を払った。
 それにつれ屋内に入った八寿江はちょっとひさしぶりといった表情でぐるっとまわりを眺めまわし乾燥中の作品予備群を見つけると近寄って眺めた。そしてその端に菁子の作った大鉢を認めるやしばらくじっと見ていてから何も言わず視線を川田の作品群にもどし、
「絵は前みたい?」
 と聞いた。眼前のものはどれも絵付け前だが部屋のあちこちにはいくつか前回の作品もありそれらは一様に思い切ってアップにした植物の葉や虫、魚、爬虫類などを描いている。一番大きい壷は桐の葉であり次のはとかげと蝿だ。
「ああ、基本的にはそのつもり」
 川田が答えると八寿江は、
「そう、面白そうね」
 とだけ言いひととおり見終ると、
「じゃ、あたしはこれで」
 とさっさと外に出た。
 車に向う八寿江に向って川田は借りた自転車のことを何か言おうとしたがそのとき八寿江がふと立ちどまって下の谷川のあたりと次いで向う側につづく水田をしばし眺め、
「蒸し暑いわね。こんな日は蛍が出るんじゃなかったかしら?」
 とちょっと小首を傾げたのでタイミングを失った。
 そして今度は川田がそうかもうそんな時期かと蛍のことに一瞬気をとられたうちに八寿江は車に乗りこみすぐドアをしめたので何も言わぬままになった。
 八寿江は手でちょっとだけあいさつすると早々と発進していった。自転車はバイクの陰で隅の軒下に残ったままだ。
 

 それからは川田はずっとひとりだった。毎日ひとりで起きひとりで食事をしひとりで後片付けをしひとりで仕事をしひとりで酒を飲みひとりで寝た。八寿江からも誰からも電話もかからなかったし自分からもかけなかった。訪れるのは村の新聞配達のおやじとたまの郵便配達人だけだ。
 仕事は三日後梅雨入りの日に締焼をした。菁子は素焼と言っていたが川田のはすべて締焼だし菁子は正確には知らず言っているところがあるから一緒に焼いた。釜入れの前にいくつかを捨て焼き上り後にまたいくつかを捨てた。
 以降は下絵付けだ。これは轆轤とはまたちがった神経のいる仕事だった。器の形ごとに題材をえらび一つづつ描いてゆく。今回は茄子の葉と蛇、蛙から始めた。蛇の口は大きく真っ赤に目は冷徹で粘液質なルビー色にするつもりで描く。ひょっとしたら目は緑色のほうがいいかもしれないと考え次はそうしてみる。体のほうもそれに合わせ青や茶や緑とバリエーションを作ってみる。
 そんな営為を梅雨空のもと毎日毎日つづける。天気は降ったり止んだりだったが、時には豪雨と言っていい雨が二日間も降りつづいた。そのときは山はもちろん下の集落もすっかり雨と霧にかすんで見えず音も雨以外は何も聞えなかった。するとそれゆえの静寂がきりきりと脳髄と身をおおい川田は体が震えた。静寂に人並はずれて敏感なのだ。気温も実際さがったうえ母屋と工房の往き来にも体のどこかが必ず濡れた。途中いくらか坂と溝がありそこを水流が音立てて流れるからで、足をかばおうとすれば肩か腕がさらされ上に気をとられればときに尻餅をついたりすべる。おかげで川田は擦り傷・打ち身を作ってびっこをひきひき歩き、洗濯物も増えた。
 が、川田はこんな日々を嫌いではなかった。寂廖感途絶感も涌いたがしかし同時に充足感安心感もあった。安心感はこんな天気ならどのみち孤絶している以外仕方あるまいといういささか屈折したそれだ。
 そうして川田はさらに座りつづけた。晴れると安心感も少し揺らぐがそんな梅雨晴れや曇り日には太郎丸を連れて外を歩いた。一番多いのは火の見櫓横のよろず屋サンゲンダナへ干物や豆腐などを買いにいくときだがそれ以外にも谷川の上流方向や裏の山道を歩いた。ここから少し右手の徑は墓横を通って隣の谷に出るとまったく無人になって休耕田以外は人為の跡もまるでない。猪道があって冬ならときどき猪に出会うのだけれど今は雉など大型の鳥が鋭い叫びとともに跳梁する。太郎丸はそれに向って吠えかかる。川田はその両者を眺め草を踏み分け黙って歩く。
 たまにはバイクで走ることもある。県道へ出て一度やみくもに突っ走ったこともあるが、あとは例の小峠まで行って景色を見るとそのまま引き返すかあるいは横道を旧石切場までひとまわりして帰るかのいずれかだ。石切場は白い垂直な切り肌が随所にあって無機的な感じが好きだった。小峠からはふとその先まで行ってみたくなることがあったが八寿江からも菁子からもその後音沙汰は何もなかった。川田はあの自転車をどうすべきかときどき考えたが体は動かなかった。無理に返すと絆が変化しそうな気がした。
 あるときふと川田は仕事場で誰かの話し声を聞いたような気がしてまわりを見回したが誰もいない。ヘンだなと思いつつ忘れしばらくするとまた声が聞えた気がする。そこでまたまわりを見回し誰もいないことを確認したところでハッとした。
 喋っていたのは自分だった。内容は仕事上のちょっとした疑問や自己確認などだったが驚いたことに短いながらひとりで会話をしていた。
 コレハコレデイイカナ?
 イインジャナイカ、マズマズダロウ。
 カワダッテバカダナ、ホントニバカダ、アア、ダケドモンクアルカ。
 オイ、ゲンキカ、アア、ゲンキダゲンキダ、ダイジョウブ。
 ひとりごとは初めてではなかった。勤めていたころはなかったが以前ここへ来て三年目くらいから始まり四年すぎ八寿江に出会ったころ一番ひどかった。そのころも内容は自分のことばかりだった記憶がある。自分の仕事のこと自分の気持のこと自分の生活のこと自分の欲望のこと過去の記憶他人の批判誰彼への罵倒夢想幻想自己肯定不安……。
 他人のことは出てきてもけっきょく自分中心の関係においてのみだ。今回も要するに自分のことばかりである。川田は苦笑しながら人間は最終的には自分のこと以外関心を持てないのかと思った。
 蛍を今年初めて見たのはそのころだった。
 ある夜、夕食後母屋からもう一度工房へ行こうと外へ出ると下の道路脇の草むら上をぼんやりした淡く小さな光がひとつフワーッと飛んでいた。それはひとつしかないし実に淡いうえしばらくすると闇に融けいるように消えるのでしばしは何かの錯覚かと闇に目を凝らしたのだがしかししばらくするとまた光り始めフワーッとゆるい曲線を描いて高く上ってきてまるで何者かの魂のごとくかすかな薄緑色に光暈を見せていづこかへ消え去っていったのだった。
 川田はそれが蛍だったのではとだいぶたってから気づくまでは呆然とし本当に誰かかあるいは何者かがあの光のおぼろな玉となって現れたのではと思いつづけた。そしてそれからは毎夜七時半ごろにもなって闇があたりをおおいだすとまたあのたましいが来ぬものかと闇を見つづけた。梅雨どきの緑色の季節の緑色をふくんだ闇はそれ自体のなかからあの薄緑の光を生みだすような気がした。
 たましいは現れる日もあり現れぬ日もあった。雨が降る夜霧が出る夜寒い夜は現れず昼間晴れて夕方以降蒸し暑い夜現れた。二度目が二匹で次が二、三匹だった。数がはっきりしないのはこちらで光ったたましいとしばらくして向うで光ったたましいがはたして同一のものであるかどうかがはっきりしないからだ。けれどいずれにせよたましいはちらほらと現れつづけ川田はそのたび何者かに誘われているように幻惑的気分になった。
 その間に下絵付けは終り釉掛けを経ていよいよ釉焼の釜入れをした。まだ後に上絵付けと上絵焼が残っているがここまで来ればもう七割がたたどりついたと言ってもいい。
 その釜入れをした日、天気は前日とは打って変った晴天でまるで真夏のような日差しが照りつけた。そして夕方になると雲が少し出たが暑気はいっこう衰えず蒸し暑さがむんむんと漂った。風はまったくない。川田は予感を持って逢魔ヶ時の緑むらさき色の世界を眺め二時間に一度の釜の火の検分をしてから灯りを低めビールを飲みつつ夕食をとった。外はしだいに暗くなっていきそれまで緑むらさき色に加え灰色の微細な粒子がまじって見えた空気は闇のよそおいを持ちはじめた。月は山の向う側にあるのかまるで影もない。
 やがて肉のかけらを切り裂いていてふと顔を上げたとたん、見えた。窓の外に淡い光のたましいがスーッとよぎったのだ。
 川田はナイフをほうりだして外へとびだした。
 いる。いつのまにか何十匹ものたましいたちが下の草むらから大岩、川にかけてどこから現れたかというように一面に飛びまわっていた。一匹二匹とちがっていたるところに飛び円を描き尾を引き草や木の葉の上でも光るそれらはあたり一体をほんのり明るめそしてじっと目を凝らすとやはりそれらのひとつひとつがその光のまろさにかすかな薄緑色を感じさせ全体もまた同時にそう感じさせるのだった。
 川田は陶然とし母屋前から道に直接降りる階段に座りこんだ。たましいはそのあたりにもつぎつぎと飛びきたり川田の顔のまわり目の前でも旋回してみせた。
 と、そのとき、向うの道から車の音が聞えやがて八寿江の四角い小型の車が夢幻の国の乗物のごとく目の前にとまりやわらかい輪郭の八寿江がふわりと降り立った。衣装はいつかの白いTシャツともんぺふうのズボンだった。
「蛍を見に来たの。今日は絶対最高潮だと思ったの、やっぱりそうだったわねえ」 八寿江の声もすでに飛翔していた。うるんでやわらかく夢見るような表情だった。
「ああ」
 ふたりは階段に並んで眺めやがて下の草むらのなかの徑をつれだって降りていきあの大岩の上に座った。そこはこの夢幻世界の中心だった。
 そうしてふたりはごく自然に抱擁しあい舌を思いきり深く吸い合うと八寿江と川田はほとんど同時にそれぞれのズボンに手を掛けておろし八寿江は自分から川田の膝に向き合ってまたがり互いの体をまさぐり合いながらまぐわった。
 身をもだえさせつつ川田がふと見ると目の前の岩の上でもすぐ脇の草の葉の上でも木の葉の上でも二匹づつの蛍がお尻を光らせたまま交尾していた。
                                  (読切連作「恋の呼び出し恋離れ」その四)