ミャンマーのデモその後
                             
夫馬 基彦

 
今年の九月、私は十日間ミャンマーに行った。
 世界三大仏蹟地のバガンやら、北部マンダレー付近の大僧院の風情、熱帯なのに夏でも涼しいインレー湖界隈の少数民族シャン族の地などをのんびり歩き見る目論見だった。

 そしてそれはそれでごく穏やかに進んだのだが、一方で町の人から色んな話も聞えてきた。八月に突然石油代が三倍以上に値上がりし、あおりでバス代も三倍から五倍になり、諸物価高騰、ただでさえ月に(日本円にすれば)三千円から五千円くらいで生活している庶民の暮しはたまらない、といった類だ。で、庶民を代弁して珍しくお坊さんが地方都市でちょっとデモをしたら、警察が投げ縄で僧を掴まえひどいことをしたので、翌日、僧院を訪れた警察関係者を怒った僧たちが閉じこめ、警察車両数台を焼いた、さすがの軍事政権もお坊さんは恐いだろう、等々である。

 ここまでは、話してくれる市民たちもたいてい笑い顔半分だった。
 ところが、私の帰国直後から起ったその後の事態は御存知の通りだ。僧を先頭に最大十万人にもなったデモに対し、タン・シュエらの独裁軍事政権の治安部隊が襲いかかり、おそらく死者二百人、逮捕者数千人以上になった。「おそらく」というのは、政府側はいっかな客観的数字を発表しないし、マスコミもこの国ではないも同然、すべて軍の統制下にあり、市民はスパイ・密告社会に怯えて組織活動など殆ど出来ないからだ。

 それでも、時代性は軍も覆いきれず、インターネットやデジタルカメラという魔法の手段によって、実態の何分の一かはあっという間に世界に伝わった。九月下旬には殺され川へ投げ込まれた僧の死体の写真が世界中で見られたし、国境を越えタイなどへ亡命してきた人たちによって、治安部隊による僧院への夜間襲撃、デモ参加者への夜間逮捕、拷問の実態がだんだん知らされた。

 つい先だって、軍は夜間外出禁止令を解除し、市民生活は平穏に戻ったとしたが、それは表向きのことだ。物価の値上がりは解消されてないし、アウンサン・スーチーらNLD(国民民主連盟。かつて一九九〇年の選挙で総投票の八割を獲得したのに、軍は認めず幹部を投獄したりした)との対話も実質はないも同然だし、市民の怒りは静かに深く潜行していると見るべきだろう。そういう軍事政権の後ろ盾になっている中国政府への怒りもまた、世界的に拡がっているはずである。(了) 月刊「フォーブス」2008年1月号所載