このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。 |
5月30日 ペンクラブ電子文藝館のこと 今日、何気なくペンクラブの電子文藝館を開いてみたら、ぼくの「籠抜け」が掲載されていた。しかも新掲載文はぼくの前が梶井基次郎、あとが有島武郎、太宰治だった。いやあ、驚き、感激だったなあ。 この電子文藝館はペンクラブで1年くらい前から始めているもので、明治以降の文学史上的作家たちから、歴代ペンクラブ会長作、そして現会員たちの作品を一人一作に限って公開するもので(一年に一回だけ入れ替え可)、むろん無料である。 つまりインターネットを通じていわば日本文学全集および、現役の作家、詩人、歌人、エッセイストらの作品が、タダで読めるわけだ。 現在のところ、横書きという制約はあるが、PDF版もあるし、決して読みにくくはない。 やって下さっているのは「清経入水」等で知られる作家の秦恒平さんで、殆ど一人でチェックから入力作業までをして下さっている。実に有難いことだし、頭の下がる思いだ。 みなさん、ぜひ御覧になってみて下さい。 このHPのリンク「ペンクラブ」から開けます。 5月29日 イスラエル 今朝、うちの奥さんというかパートナーがイスラエルに向けて旅立った。 テルアビブ国際映画祭ヤング部門の審査員として招かれたからだ。公的行事だし、会場もホテルも警備は十分されるとは思うが、やはり現下の情勢では心配である。 折しも昨日あった自爆テロはテルアビブ郊外だったし、その前もそうだった。 しかも昨日の被害者は赤ちゃんとおばあさんであり、実行者は10代の少年だったと伝えられる。 私はテロ一般を何がなんでも非難する気はないし、テロのなかには国家によるテロも含まれ、一番悪いのはそれだと思っている。そして近来のパレスチナ情勢はシャロン政府による国家テロであり、昨年来のアフガン攻撃はブッシュ政府の国家テロだと思っている。 が、昨日のような自爆テロを見ると、やはり哀しい。人間とはいったい何たる生き物だと思わざるを得ない。 なぜ、未来ある10代の少年少女が爆弾を抱いて自死しなければならないのか。なぜ、生れたばかりの赤ちゃんや戦闘能力のない老人が殺されねばならないのか。 理由と経過はそれなりに分りすぎるほど分っているだけに、何とも言い難い哀しみだけが浮び、やり場のないいらだちが生じる。 私はパレスチナ問題に関してはなんといってもイスラエルが悪いと思っているが、しかしイスラエルというかユダヤ人たちがそうしてしまう心情と歴史的経過もまたよく分る。 歴史的には、ユダヤ人を虐殺してきたロシアや東欧諸国、ナチス・ドイツ、そしてパワーポリチックのなかで2枚舌をついてきたイギリス、国連決議に反しながら一方的にイスラエルを支援してきたアメリカ、さらにはそれらを結局容認してきたヨーロッパや世界の多くの国々、といった事実が背景にある。 また、現実というものは「力」によって決定されていく事実もある。 いくら正義を叫ぼうとも武力、政治的権力、財力、そうしたものの前には、たいがいが負ける。 力関係が、現実の情勢を決定していく。 多くの人間には結局何もできないし、哀しいだけである。人間というものはひょっとしたら、あるいはやっぱり、相当愚かな存在なのではないか、とも感じる。 わがパートナーがかの地で無事10日あまりを過し、元気で帰宅してくれるのを祈るばかりである。 5月25日 恋しきビン・ラディン様 その三 お久しゅうございます、オサマさま。 しばらくご無沙汰いたしましたこと、どうぞお許し下さいませ。 このかん、私めはこの遠い海東の島国にて連日デジタルの、ワープロのと、詮なきことどもに身をとられていたのでござります。 が、お笑いめされますな。これも元はと言えば恋しきオサマさまを想うがゆえなのです。 そうなのでございます、私めが身の不器用、機械オンチも省みずこのようなことを始めたのは、アフガンの山中、あるいは世界の果てにあっても魔力のごとく世界のすべてと交感され、最新の情報を入手され思念をこらしておられるらしいオサマさまに、この電網蜘蛛の巣と申すなにやら訳は分らぬもう一つの魔術みたいなものを通じて、私めの想いをお伝えせんがためなのでした。 ほんとにオサマさま、わがキリスト玉三郎さま、このつたなき恋文、きっと御覧になっていて下さいますわね。いえ、御返事はいいのです。そんなことをなさっては御身が危険になります。それはよ〜う分っておりますので、どうぞお気遣いあそばしますな。お気遣いなく、ただ心の端をほんの少しばかり東方の私めに向けていただければ、それで私は本望にござります。 この数日の瓦版や電気報道箱によれば、オサマさまも、さらにはオマルさまもやはりアフガンの山中かパキスタン側あたりにて御健在らしいと一度ならず伝えております。私めはそれを聞いていかばかり嬉しゅうございましたことか。 そうしてオサマさまに関する報道の折には、オサマさまの近影と称されるビデ〜オなるものを食い入るように見つめたのでございますが、でもあれは世に言うおガセネタとやらでございましたわね。 だって、私の知るオサマさまはあんな黒ずんだ弱々しげな方ではなく、たとえお体は不調の折でも御身からは後光のごとき光かがやき、お顔は水を浴びられたばかりのようにしっとりなめらかで、目は優しく私を見つめていて下さるはずですもの。 なのに、あのビデ〜オなるものときたら、まるで逆光で複写したかのごとき黒いものでしたもの、あれはさすがに去年(こぞ)12月あたりのものを改竄いたしたのでございますわね。 でも、そのあと伝えられたオマルさまのお言葉、「私はビン・ラディンとともに元気でいる。我らはブッシュごときに屈しない」という伝単は、このところ相次ぐ諸般の報道と合わせ真実のものと 感じられました。 その諸般の報道というのは、一つはアメリカにおける副大統領自らによる「第2の攻撃の可能性」表明と、にもかかわらず何を為したらいいのか対処の方法もしれぬ不安からチラチラとかいま見える彼らのおびえの様子そのものでした。 そうして今ひとつはパキスタンとインドとの緊張によるパキスタン軍のインド側国境への集結報道です。 この後者はもちろんいわゆるカシミール問題をめぐっての対立ではありますが、印パ間緊張の原因となっているこの時期になっての一連の回教徒側の攻勢は、もともとオサマさまらと親しい方々の行動であることは明らかでございます。 となれば、あれはカシミール闘争であるとともに、パキスタン軍を西部国境やオサマさまらがおられるやの辺境州からそらすためであることも、古来からのあらゆる兵法に基づく当然の戦法でござりましょう。 さすればこの二つ、そしてオマルさまオサマさまに関する相次ぐ報道から導き出される結論はただ一つ、 「オサマさまの御健在! そしてかのカウボーイハット・藪男への反撃!」 これ以外の何でありましょうぞ。 ああ、オサマさま、わがキリスト玉三郎さま。 オマルさまとの衆道のことはともかく、私めは嬉しゅうございます。オサマさまの御健在、お元気が、ほんに涙の出るほど、胸を熱くさせるのでござります。 そうして、私は去年9月11日のニューヨークでのあの光景をまた、まざまざと想い浮べるのです。さよう、私めはあのときあのニューヨークにこそいたのでござります。それもあの現場から歩いても行ける距離に。 ああ、なんたる偶然、なんたる運命の巡り合わせ……!!! (まだまだつづく) 5月23日 ワープロあった! 昨日、大学で副手のH君がワープロ「書院」を所有していることが分り、問題は一挙に解決した。書院は丁度ぼくが使っていた機種でもあり、変換もスムーズだった。 ただし、中身は一括変換とはいかず、項目ごとになるため、ワープロ時代のめぼしいもの全部を変換するのには(このさい後々のためにもそうしておこうと思った)かなりの時間がかかったが、H君が全部やってくれ大助かりだった。H君、どうも有難う。 そのワープロ、今見ると歴戦の勇士という感じに見えた。ついた手垢や、色合い、デザインまでがすでに一昔前の懐かしい記念品という感じがした。 ひょっとしたらいづれ博物館ものかも。 メンテナンスを時々して、大事に保存してねと頼んだ。 この間のことは、面倒はかかったが面白い体験でもあった。 作品掲載は、週末ぐらいにでもやるつもり。 それから、「恋しきビン・ラディン様」のつづきは、忘れたわけではない。直接的反応が「たいら」君以外なかったので、ちょっと怠けていただけである。最近、彼の新しい(?)ビデオも出たことだし、まもなく、「3」を書きます。 5月21日夜 またしても予定外 今朝、下にこう書いたのだが、午後某所を訪れ古いワープロを出してもらってMS−DOS化を試みようとしたら、なんとワープロが動かなかった。長く使わずほおっておいたため、フロッピードライブがこわれてしまっていたのだ。 あわててSHARPの相談センターへ電話したが、部品取り替えが必要、経費は2万円、時間も面倒もかかるとのことだった。 他の方法としてはワープロのフロッピーをパソコンで読みとるソフトもあるが、これは4万数千円とのことだった。 ウームである。 考えた末、結局スキャナーで活字媒体から1ページづつ読みとっていく最初の方法に戻ることにした。これだと面倒だが、ともかく自宅自前で出来る。 でも、おかげで計画はとうぶん延びそうだ。うまくいかないものだ。 あーあ、それにしても近くで誰かワープロを持っている人いないかしら? 5月21日 ああ、時代は進めり 前回、末尾の方で2,3日のうちに新たに小説を2作ほど掲載すると約束したのだが、昨日その作業を開始してみて落し穴に気づいた。 6年前まで私はワープロを使っていたのだが、その頃のフロッピーがパソコンで呼び出せなかったのだ。つまりMS−DOS用にしていない2DDフロッピーのままだったためだが、結論的にいえば昔のワープロがないとどうにもならないのである。 そのため雑誌発表分からページを繰ってはスキャナーでコピーし、それを調整してはテキスト文書化し、更にそれをhtm化し、という作業を試みたのだが、これが何とも面倒で難しい。 ミスつづきでくたびれ、途中で挫折してしまった。 結局、今日、昔のワープロを借りてきてやり直すことにした。ゆえに、約束履行はしばらくお待ちいただきたい。 それにしても、この問題はワープロ以降は基本的にフロッピーで永久保存されている、いつでも呼び出せると思いこんでいたところに原因がある。確かに途中、自分もパソコンに切り替えるころ、MS−DOS化のことは聞き、そのころ書いた物はそうしたのだが、それよりもだいぶ古い物については一々そうしていなかったのだ。 まだワープロ機は持っていたし、必要なときはそれを使えばいいと思ったからだが、その後、パソコンも2代目くらいになったとき、もうワープロ機は要らないし、いじってみたら長く使わなかったせいか機械自体が動かなくなっていて、あっさり捨ててしまったのである。 そのワープロはそもそも名古屋の高校時代の友人である弁護士朝日裕晶君からタダで譲り受けたが、もらった直後はデジタル自体に慣れずいらだって放棄、2年もたってから引っ越しを機に市役所で講習を受け、使いだしたものだ。使ってみたら実に便利である上、文体が変るのではという最大の不安も杞憂で、以来愛用し続けた。 が、パソコンに切り替えた理由もちゃんとあり、それは当時「中央公論文芸特集」に連作連載していた作品を、〆切前夜に操作を誤って全部パーにしてしまったためだ。 理由の一番は当時のそのワープロは保存容量が少なく、50枚の原稿を保存、フロッピーに移すためにも、原稿を二つに分け同じ手順を繰り返さなくてはならいことに起因していた。 パソコンならその保存容量が殆ど無制限だと聞いて、当時貧乏でかなり迷ったにもかかわらずパソコンに切り替えたのだった。 その結果がこうである。こうなると、頑固にワープロに固執している数少ない人々が貴重に思えてくる。もともと書く機械としてはワープロの方が性能も使い勝手もいいことは確かだったから、よけいである。 いずれにせよ、こうやってどんどん機械や使用物が否応なく変っていき、それにつれ文化や意識のありよう、日常も変っていくということなのだ、と改めて思い知った。 またパソコンもどんどん新しい型に変っていき、ウインドウズ98とか95用のソフトが使えなくなったりする。 少し古くなった型はもう買うことさえ出来ない。 商売とか資本主義はそういうものだと思う一方、なんだか腹立たしいことだ。 5月16日 ホームページ1ヶ月目 今日でこのホームページを開設してから丁度1ヶ月たった。 確実に時間はたつものである。 当初は慣れぬ作業つづきで、時間ばかりかかり、1日8時間くらいパソコンに向い続け、右眼に軽い出血を起したりさえしたが、このごろではもうすっかり慣れて、更新作業なぞもかなり楽にこなせるようになった。 毎日何かをしなければなぞと思わず、まあ2,3日に1カ所くらいづつ直していけば、程度に思っていれば、さほど荷物を背負う感もなくまずまず進行していくものだという実感もある。 むろん、嬉しい意味で予想に反することもあれば、ちょっと残念な意味で予想に反することもあった。前者はアクセス数で、ひょっとしたら日に10件程度かとも思っていたのに、少なくとも今までのところ1日平均4−50件、多いときは60件あった。 ただ、アクセス数というのはイコール人数とも言えないらしいこともやってみて分った。同じ人が1日に2回見ることもあれば、1度見たあと、掲示板に書き込みなぞするためいったんオフラインにし、またオンラインにすればカウントは2回になる。 私自身が内容を更新するため、あれこれいじっていると、不手際もあり、1日に5カウントぐらいしてしまうこともあった。 また、最初はとにかく中身(コンテンツというそうだ)を書くことだと思っていたのだが、だんだん見ているうちに、そして見てくれた人からいろいろアドバイスや意見が舞い込んで、そこここを直したくなり、試みていると、ネットはネットなりの文体や表現形態があり得ることも分ってきた。 端的に言って、今書いているこの日記自体、数行おきに1行あけたり、改行をぼくとしては随分多めにしたり、背景に色を付けたりしているが、これは今まで長年書いてきた方法とはまるで違うことなのだ。 しかも、従来ならそんな日本語の伝統に反することなぞ安易に出来るか、いや、すべきじゃない、と思ってきたことでもある。 が、こうした方がはるかに読みやすいし、画面が美しいし、したがってより多くの人に読んでもらえやすい。 これは何事かを語っている気がする。 つまり、メディアは確実に進化というか、少なくとも進展変化しているし、それにつれ美意識や価値観も変っていくし、新しい表現方法や文体も登場しうるということどもだ。 だからといって旧来の価値がそんなに変ったり衰えたりもしないのだが、それをもまた確認できそうな気がするところが、新しいメディアを試しての実感だった。 つまり、新しいことをして楽しめつつ、今までやってきたことは基本的には間違っていなかったという自信も、また確実に生じた。 若いデジタル世代の気持も傾向も理解できるが、しかし問題はやはり中身(彼らのいうコンテンツ)そのものであり、それはアナログであれデジタルであれ従来からの蓄積、個人のキャパシティー、能力それ自体なのである。 ともあれ、ページはほぼ全部かなり大幅にデザイン・色分けなど改めたし、中身の更新も3,4日に1度はしてきた。 久しく音信がなかった人たちともここを通じて付き合いが復活したし、初めての人とも何人か知り合えた。 同時に、見てくれる人は結構いるが、その人たちが誰であるかはなかなか分らないことヘのもどかしさも生じた。考えてみれば活字の雑誌や書籍などでもそれは同じだったのだが、ネットの場合の方がより相手を知りたいと思うのは、メールとか掲示板というものがあって、その気になりさえすれば、そして人によってはすぐ相互コミュニケーションがとれるという条件のせいでもあろう。 やはり、新しい媒体なのである。 もっといろいろ試してみたい気がしている。 とりあえず2,3日のうちに小説欄に新たに2作ほど載せようと思っている。長年人目に触れずにきた自信作、記念作などである。 出来れば今後毎月2作ぐらいオンライン化していって、ゆくゆくは「夫馬基彦自選短編集」みたいな形にしようかと考え出した次第だ。 御愛読をお願いします。 今日までこのHPをお気に入りとかブックマートなどに入れ、よくアクセスいただいた方々、本当に有難う。 また明日からもよろしく。 5月14日 獄中作家とは 昨日は新装なったペンクラブ会館での初の獄中作家委員会が開かれた。 ペンクラブの事務所は従来赤坂にあったのが、この5月始めに茅場町に自前の建物を持つかたちで引っ越したのだ。建物は黒の半円形で、小さいがなかなか瀟洒であり、内部は3階が大会議室(といっても30人ほどで一杯になるが)になっていて天井も高く、今までの鞄置き場もないような狭い場所とはだいぶ違った。 世界のペンクラブのなかでも自前の建物を持っているところは、はたしてどれだけあるだろうか。アジアの貧しい国々にはペンクラブ自体がないところの方が多いのである。 議題は秋に京都で開催する「日本ペンクラブ・京都文化フォーラム『文学の力、表現の冒険。』第22回WiP(ライターズ・イン・プリズン)の日」のことだが、この中でこのWiP(ライターズ・イン・プリズン)の表記が問題になった。 これは日本のペンクラブでは長年「獄中作家の日」と言い慣わしてきたし、委員会名も獄中作家委員会であるためだが、共催していろいろ援助してくれる京都市が「獄中」なぞという言い方は困る、何とかならないか、みたいなことだったため上記のようにしたものだ。 これに対し、名前を簡単に変えるな、獄中作家という(あえてインパクトの強い)呼び方を変えることにより何事か大事なことが変質するおそれはないか、と疑義が出されたのである。 そのためしばらく甲論乙駁になり、私はウームと考えた。 両方分るのである。 というのは、私も1年前新委員として参加したばかりの時は、獄中という名前にどうもなじめず、これでは永山則夫や安部譲二、小嵐九八郎(彼は現に委員でもある)ら獄中体験者の会と誤解されたり、そこまで言わずともどこかおどろおどろしくて抵抗感があり、表記したり人に言うとき少々ためらいを感じる場合があったため、獄中作家救援と「救援」の二文字を入れることを提案したことがあったこと。 にもかかわらずその後1年使ってみるとだんだん慣れてきた上、「獄中」と言ったとき人に怪訝な顔をされるため、いちいち説明する必要が生じることによって、世界、特にアジアやラテンアメリカに多い、作家やジャーナリストであるがゆえに弾圧され、あるいは書いたがゆえに獄につながれている人たちを支援・救うための会、だという趣旨説明がしやすく、自然に会の広報活動にもなっていた利点もある、と感じてもいたからだ。 で、やりとりを聞きながら結局私が考えたのは、これは要するに翻訳の問題でもあるということだ。 つまり、元々この語は英語の「Writer's in Prison」Committie の日本語訳だったからである。つまり、ライターが作家、イン・プリズンが獄中といわば直訳されたのだが、これが英語と日本語では語感がちょっとづつ違う。 たとえばプリズンは、第2次大戦中アメリカの日本人移民たちが入れられた収容所のことなどもプリズンだし、日本語では監獄の他にそれに類する言葉は刑務所、拘置所、留置所、ブタ箱、牢獄、座敷牢、収容所、といろいろある上、最近では自宅軟禁、監禁、拘束、といった用語もある。 現にビルマのアウンサン・スー・チー女史は救援対象としての日本ペンクラブ特別会員でもあるが、彼女が置かれていた状況は自宅軟禁であって、日本的概念では獄中ではない。 ライターもまたしかり。だいたい日本ではこのごろ物を書けば何でも作家になる上、ゲーム作家、お菓子作家、針金作家といった使われ方まであり、英語でもまた、新聞記者やコラムニストは入るのかどうか(前者は普通入れないが、コラムニストは入れる場合もありそう)、字義としてはあらゆる著述家から作曲家まではいることになってしまう。 ゆえにまあ、ぼくの当面の結論としては、少なくとも何十年か前の直訳にこだわらず、英語の発達した現在、中学生以上ならまず知っている言葉ばかりの、「ライターズ イン プリズン」のままがいいのではないかという考えになった次第である。 いやあ、結構くたびれた。 会は更にそのほか延々と7時半までつづき(4時すぎ開始)、空腹のための2次会が終了したのは10時であった。 5月10日 恋しきビン・ラディン様 (つづき) そうでした、わがふるさとのあのおっさまもまたやや長めの瓜実顔に、しっとりと訴えるがごとく艶めかしく投げかけられるいくぶん下がり気味の横長の目、そして日本人としては背の高い体にいつも僧衣をまとって穏やかにお話しかけになるのでした。 その衣の具合がアフガンやアラブの衣装にどこか似通い、オサマさまの細面のあの女心を溶かすような眼差しにそっくりなのでございます。ああ、こう書き、想うだけで身がゾクゾクとしてまいります。オサマさま、あなたの目はまことにキリスト様にも似、姿風情は日本の人気俳優玉三郎と申す者にも似ております。あなた様はひょっとしてこの二人の生れ変わり、インカーネーションではございますまいか。 そういえば、あなた様とオマル師さまの御関係はどういうものなのでございましょうか。お二人はアッラーの神のもと、心命を誓い合われた盟友とのことですが、お二人ともあのころからフッと消息をお絶ちになったまま、生死はおろか、オマルさまにいたっては、カルザイなにがしはもとよりあの残虐非道なアメリカのブッシュ政権もアメリカ軍も、ろくに口にもしないのはいったい何ゆえでござりましょう? この遠い海東のやまと雀のなかには、カンダハル明け渡しの折までそこに堂々といたオマルさまが、居場所が分らぬなぞあり得ない、どこぞに隠れたにせよ、その気になって探せば分らぬはずもなければ、痕跡のいくつかぐらい出てこよう、にもかかわらず気配もないとは、要するに探していないのではないか、何事か、裏があるのでは、ともっぱらかしましく囀っております。 じっさい、カルザイ政権にせよ、米軍にせよ、もし本気で探していてなお片鱗もつかめぬのだとしたら、その捜索能力、統治能力、実行力自体が何ほどのものもないということになりましょうぞ。米軍も空からドカドカと無差別爆撃、無差別殺傷をするのは得意でも、地上に降りての緻密な行為となると、粗雑で抜かりだらけということなのでございましょう。 アメリカ南部の石油人ブッシュは、カウボーイハットや単純で大仰な発言は似合っても、実は非近代のアフガン遊牧的混沌社会では何一つ把握しきれないのではありませんか。 それにしてもオサマさま、私が秘かに焦燥感に駆られますのは、それよりもひょっとして、いえ、ほんにひょっとしてでございますよ、あなた様が今頃アフガンのどこぞの洞窟で、オマルさまと二人だけの蜜月生活を送っていらっしゃるのではないかと想い浮べるからでございます。 いえ、その下賤な邪推とお笑い下さいまするな。だって、そういえばオサマさま、先にも述べましたようにどことなく玉三郎ふうではありませんか。あっ、申し遅れましたが、玉三郎というのは日本では「女形」と申し、その、なんと申しましょう、同性愛的と申すか、男でありながら女の役をする者と申しますか、その、その種のものなのでございます……(汗)。 それにオマルさまと申せばいわば御僧侶、さあればかの「衆道」と申しますものも洋の東西中ほどシルクロードと違えども、やはり人の世のこととて同じようにあるのではございますまいか……。 (また、つづく) |
5月6日 「今またパレスチナで」展のこと 昨日は埼玉県東松山市にある丸木美術館へ行って来た。 そこで4月2日から行われているパレスチナに関する展覧会を見るためだ。丸木美術館は関越道東松山インターから10分ほどで、私の自宅からは車で都合1時間以内と地の利がいい上、都幾川沿いの森の中という絶好の場所にある。 だいぶ手前の駐車場からぶらぶら歩いていく道がまた、森の木陰つづきで何とも気持がいい。この日は埼玉の内陸部は30度の真夏日にもなったらしいが、ここは別世界だった。 展覧会は友人の画家上條陽子さん(ぼくの本『美しき月曜日の人々』所収「天地の間で」のモデルでもある。安井賞画家)ら9人が催したもので、彼らはこの2,3年来パレスチナやレバノンを訪れ、現地で交歓展などを開いてきた人たちだ。 今回はそれにプラス「パレスチナの子どもたち」展というものも加わっている。これは、昨年夏レバノンのパレスチナ難民キャンプで、上條さんら3人の女性画家がパレスチナの子どもたちのために開いた「アート教室」(絵の具・画材などはすべて日本側が負担し、美術教育なぞ受けられない難民の子たちに初めて絵を描いてもらう試み)の作品展で、これが想像以上に面白かった。 10歳ぐらいから20歳くらいまでの少年少女若者たちが、おっかなびっくり、しかし嬉々として生れて初めての油絵やらアクリル画に取り組んでいる息吹が伝わってくる。そうして、描かれているのはどうやら「静物」ということで始めたらしいのだが、いつの間にか空にはヘリコプターが舞い、地上には戦車が銃口から火を放ち、家は焼け、死体が転がり、墓が増え、夜眠っていると悪魔が押し寄せる、といった図柄になっていっているのである。 全体の約7割がその種の絵だ。 付いている彼らのコメントを読むと、多くがガザ地区の出身らしく、幼年時以来そうした光景を見続けてきたこと、ある日突然、家の中に銃をもったイスラエル兵が侵入してきたこと、たいていの子が兄弟や家族の誰かを殺されていること、学校でも何人かの級友などを失っていること、夜が怖いこと、などが書かれている。 だが、それなのに、絵は暗い色調とかではなく、日本人から見たら驚くほど明るい、原色の、乾いたトーンで描かれており、コメントには同時に、絵を描くのがこんなに楽しいとは知らなかった、教えてくれた日本人に感謝します、といった言葉が並んでいるから、余計、ジーンとしてしまう。 なかの一人、オマール・サーリフ君(15歳男)がこんなことを書いていた。 “アメリカはパレスチナを占領しているイスラエルにとって親みたいなものです。とても悲しいです” イスラエル軍の使っている武器の殆どはアメリカ製であり、イスラエルの行動が国連決議違反であるにもかかわらず、軍事援助はもとよりイスラエル国家への経済援助・外交援助等をし続けているのがアメリカであることを、子どもたちはいやというほど知っているからであろう。 展覧会は6月29日(土)まで。6月9日(日)には上條陽子さんのトークもある。 |