風人日記 第2章
W杯からイギリス旅行まで(2002年6月1日〜9月5日)


吉野辰海 作






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。




9月5日  うさ亀荘のこと

 このごろ時折うさ亀荘こと「兎と亀荘 hare & tortoise 」のことが思い浮ぶ。
 ロンドンで一番数多く通ったレストランで、私が計17日間泊ったタビストックホテルから歩いて3,4分、地下鉄ラッセル・スクエア駅からもほど近い、ごく大衆的な中華食堂というかアジア食堂だ。

 アジア食堂とあえて言うのは中華関係以外に「japanese udon」とか「ramen」、「yakitori」、「sake」「kirin beer」など日本物もあれば、マレーシアふう麺などもあり、加えて経営者は中国人だが、表にいるウエイター、ウエイトレスなどの従業員は、中国系マレーシア人、日本人、韓国人、カザフスタン人、モンゴル人、それにポーランド人(これはもちろんアジアではない)などと、実にアジア・オンパレードだからである。

 おまけに初めて入ったときがまた面白かった。
 隣に居合わせたアジア系老夫妻(男は普通の中国人ふう、女は色浅黒く目鼻立ちくっきりで、インドあたりの血も少し混じったマレーシア人かと思えた)の男性の方が、私たちが久々の日本酒を頼んで、お猪口で一杯嬉しげに飲みだした途端、「日本人ですか。私は少し日本語が出来ます。初めまして、今日は」とアクセントは少しおかしかったが、正確な日本語で話しかけてきたのである。

 で、私はてっきり日本語が出来る人と思って日本語で答えると、彼は分らない。
 そして傍らで怪訝に思ったうちの奥さんが英語で通訳すると、いかにも外国人らしい英語で答えるのだった。それなら私も英語で話せばいいのだが、こちらはなぜ彼がさっきあんなに正確な日本語を話したのに以降分らないのかが分らなくて、そのまま日本語で話し続けると、彼はまたうちの奥さんに通訳を求め、英語で答えるのだった。向うの奥さんは一貫してにこにこしているだけで、何も言わない。

 こうして結局分ったのは、彼は中国の福建系マレーシア人のクアラルンプール育ちで、小学校時代日本語を教えられた。どうやら日本の軍政下であったらしい。また、大人になってから日本の会社にクアラルンプールで勤め、その後オーストラリア系の会社に移り、11年前娘がイギリス人と結婚したのを期にロンドンに移住。
 奥さんは広東系マレーシア人で、2人とも77歳。日常の言葉は奥さんが福建語を出来ないので広東語、娘や孫たちとは英語、というのだった。

 全部理解できるけど、やはり驚かざるを得ない。こんなところでこういう人と出会い、そして日本語と英語の通訳で話しているということ自体が、何とも不思議なことに思えた。

 彼とはそのあと「日本をどう思っているか」という話をし、私は「日本はだいぶ悪いことをしたのでは」と水を向けてみたが、彼はひどく紳士的に「分っている」と頷いたのち、「しかし、私は日本人が好きだ。日本人はノーブルで、アジアのリーダーだ」と確信ありげに言い、遂に一言も戦争のことなぞを言わないままだった。

 この夫婦が去ったあと、私は興味が出て、それから給仕に来たウエイトレスに「あなたは何人か」といったことを聞いていったのだが、彼女がカザフスタン人と答えたのにも驚いた。
私は30年ほども前、インドへ行くさい西遊記と同じコースをとりたくて、アルマアタ、つまりカザフスタン経由タシケント行きの飛行機でアルマアタに2,3時間だけトランジット滞在した経験があるだけで、多分カザフ人と口をきくのはこれが初めてだったからだ。

 しかもこの彼女が何とも可愛らしい。22,3歳くらいだろうか、長い髪を質朴に後ろで束ね、色白だが日本人そっくりの顔立ちで、まるで二昔くらい前の日本の田舎の娘のように初々しく、素直な感じなのである。
 アルマアタへ行ったことがあると私がいうと、目を輝かせ、「君はナザルバニエフの娘か? 似ている」というと、「クックッ」と歯を見せて笑うのだった。

 また、彼女に教わったモンゴル人の娘さんも魅力的だった。こちらも22,3かあるいはもう少しか。モンゴル人は目が細いのではという先入観と違って、目はぱっちり、背筋はピンと伸び、なかなかいいスタイルの体をジーパンとTシャツで包み、しかし歩き方だけはちょっと朝青龍と似た外股の男みたいな堂々としたものだった。

 「日本の相撲を知っているか」と聞くと、知らないと言い、3回目ごろ行くと、右頬に虫にでも刺されたか引っ掻かれたみたいな赤い傷を作っていて、私がそれに目を留めていると、かすかに笑い、フンと済まして外股に歩き去った。

 そしてこの2人、実によく働く。そして愛想が悪からず、べたつかず、さっぱりして実に気持がいい。他の中華レストランや日本レストランなぞの中国人・日本人従業員なぞのしばしば無愛想すぎたり、粗雑、だらしなかったり、少しも仕事を愛していない振舞いとはだいぶ違った。

 おかげで、私はロンドンにいた都合17日間の間に、ここへちょくちょく通うことになったのである。そして彼女たちの顔を見ているのが楽しみだった。
 ああ、アジアは広い、アジアは一つだ、これからロンドンもニューヨークもこうなっていくのだろう、彼女らは祖国へ帰るのだろうか、10年後はどうなっているだろう?

 そんなことどもを考えていると、どこか楽しい気分になるのであった。
 私にとって、ひょっとしたらロンドンで一番いい場所だったのかもしれない。



9月3日  イギリスワースト2

 田舎旅もだいぶ長くなってきた。このあと私はイングランドに再び入り、世に知られるイギリスで最も美しい地帯とされる「コッツウオールズ」地方を何日か動いたのだが、それらはすでにベストスポットに出会った思いの身にはさほどの感激はなかった、むしろ一番最初のサフォーク地方の方が美しい印象だったとだけ言っておこう。

 そしてその旅の終りから再び戻ったロンドンで、私はイギリス旅行中最も不愉快な事象二つに出会った。
 不愉快なことは詳述するとよけい腹が立ってくるし、早く忘れ去りたい気も強いのだが、しかし、何も言わないのもあまりに癪でもあり、かつ今後同じ目に遭う人が出来るだけ減るよう、情報としてだけでも伝えておこうと思うので、簡略に書きます。

 まず、その1。
 
 コッツウオールズ南部のチッペンハムという小都市から北西へ車で30分ほどの、ネットルトンという村(キャッスル・クームというわりあい有名な古い村から近い)の「グルターズ・ミル(Goulter’s Mill)」というB&B。
 
 45ポンドが相場のB&Bの中で60ポンドも吹っかける上、通された場所は廃物や草でろくに徑もない庭はずれの羊小屋みたいなところだった。椅子なし、テーブルなし、カーペットなし、ベッドランプ以外電灯なし、お茶セットなし、カーテン代りに簾のみ、クローゼットには誰かの古着が一杯、埃だらけ、タオル・枕、布団 臭し。
 
 おまけに家主夫婦がどうにも愛想が悪い上、どこか人種差別的気配あり。

 なぜ、そんなところに泊ったとなるが、チッペンハムのツーリスト・インフォメーションで申し込みすでに手付け金10パーセントを支払っていた上、時間的にまたそこまで戻ってあれこれ言い合ったのち、新たに別を見つけるには疲れすぎていたためだけである。

 まことにもって不愉快、かつ寒くて夜ろくに眠れなかった。ヒーター類はむろんなし。
 さすがに頭に来て、翌朝苦情を言い、支払いは40ポンドしかしないと呑ませたが、それでも高かったと思っている。皆さん、絶対ここへは行かないこと。

 宿帳にときどき日本人の名があったから、あるいはどこかのガイドブックに出ているのかも。「庭に渓流あり、イングランドの離れ」とか惹句を付けて。
 インフォメーションも必ずしも当てにならない証明でもある。それに、高い場所はいいところ、と思い込みがちな我々の意識のせいもあろう。

 その2。

 その寒さと寝不足が原因になったのか、その日の夕にちょっとと、2日後ロンドンに帰ってから、膀胱が痛くなった。結果的に疲労からくる膀胱炎だったらしいのだが、ロンドンでの2日目激痛に眠れず、翌朝タクシーで訪れた日本の病院「ロンドン医療センター」なるものがまた腹立たしかった。

 こちらはとにかく病名を知り、痛み止めを含めた対症処置を何より求めているのに、出てきた30そこそことおぼしき女性医師・一戸(いちのへ)某(恵と名札に書いてあった気がするが、確信はない)は、家族の病歴から聞き始め、ガンとか悪い病気の可能性もありますから検査をして貰います、などと言い、今は旅先でもう1週間後には帰るのだから、そんなことはいい、とこちらが言うのに、お金をかけずに済ましたいならそれでもいいけど、などと見下すような目つきで言いながら、これだけは必要ですみたいな言い方で結局便と尿だけはとらされた。

 そして、要するに処方としては風邪と同じ抗生物質だけ、あとは痛み止めがほしければ市販のものを買って下さいと商品名を教えただけ。
 これで、勘定が何と179.10ポンド(日本円で32756円)だった。
 
 おまけに2日後に検便結果を知らせるからと、封筒にホテル、部屋番号、名前、宛先まで書かされたのに、1週間後の帰国まで遂に音沙汰なしだった。明細には検査代53ポンド(約1万円)とあったから、尿の分は引いても約半分に関しては明らかに詐取であろう。

 これはいくら何でもひどすぎはしまいか。
 物事は腹を立てるとよけい不愉快みたいな面があるから、この件も出来るだけ早く忘れたい気もし、またこれを今書いていても不愉快を思い出し、全部消そうかとも思ったのだが、そうなると一種の泣き寝入り、何も変るまいと思われるので、ちょっと大げさに言えば社会正義のためとも思ってあえて書く。

 腹が立つ理由は要するに医師が、@旅先という患者の立場をちっとも考えていないこと、A診断能力もろくにないこと(一戸医師は何か言うたび若い女性がよくするように「うん」「うん」と自分で言って頷いていたし、こちらの質問には半分も答えられなかったので、私はまるで学生や教え子と対しているような気分になった。病名も膀胱炎としたのは帰国後、自分で百科事典で調べたところ、実に典型的症状そのものだったので、そう自己判定しただけで、相手は首をひねっているだけだった)、Bあまりに金取り主義なこと、である。

 一旦支払った金は海外傷害保険によって保険会社から払い戻される予定なので(まだ貰ってはいない)、私自身の金の被害はないとも言えるが、明らかな約束不履行を含め、あの態度は医師法とか医療、保険法関係の何らかの違反とならないのだろうか。
 また保険会社および医療行政機関等はこういう病院は詳しく調査した上、厳しい警告をすべきであろう
 
 ついでに言っておけば、『地球の歩き方』イギリス篇、読売新聞衛星ヨーロッパ版にも毎日、ロンドン医療センターの広告が大きく掲載されており、私はそれ故にここに駆けつけたのだが、広告媒体にも責任があろう。
 両媒体、直ちに広告をやめろ、と言いたい。

 そして、皆さん、ロンドンに行っても決して以上の2カ所には行かないことです。



9月1日  ウエールズの最奥 秘密の園

 ランドゥツノを出たあと、私はもう一晩だけどこかウエールズで泊り、それからまたイングランドへ入ろうと考えた。ウエールズは率直に言ってあまり美しくない。どこか日本に似ていて、気分が小さくなる。海は確かにきれいだったが、しかし海なら我々にはあまり珍しくもない。というわけだ。

 もう1泊だけのウエールズ、どこにする。私と奥さんは地図を見ては鳩首地名をついばみ、あまり広くもない北ウエールズから中部ウエールズ一帯をまず地図上で、ついで車を転がして目と皮膚で確かめ、あちこち渉猟したが、なかなかこれというところに出会わない。

 吊り橋に大きな象の足みたいな塔を四辺に備えた古城とか、ガーデン付きのマナーハウス、SL列車の走る谷間に、何とか川、そういうものはちょこちょこあるのだが、どうも食指が動かない。城やガーデンはイングランド以来もういくつか見ているし、谷間とか渓流とかは海どうよう日本人には別に珍しくもないのだ。

 そこであの町この町、丘の上のちょっとした村などに寄っては茶を飲んだりサンドイッチの昼飯を食べたりしつつ、うっかりして一旦イングランド側に出てしまいかけたりした末、また戻って、ともあれちょっとは由緒と景色のよさげなCという町に出、そこのツーリスト・インフォメーション(小さな洋品屋が兼ねていた)で貰ったリストにしたがって次々に電話し、やっと5軒目あたりでOKが出たB&Bに向ったのであった。

 そうして走り出してみると、これがすごい田舎だった。
 相手は「なに、そこから谷間にはいってjust30分」なぞと言ったのだが、この谷間、行くにつれほんとに狭い谷そのもので、やがて道はすれ違いもままならぬぐらいにどんどん狭まり、行き交う車は殆どなくなり、両側鬱蒼、樹木垂れ下がり、道にはしょっちゅう雉とも鶏ともしれぬ鳥がツツツと駈け、あるいは兎がピョンピョン走り、ゆえに2,3分行くごとにそれらの無惨な死骸に出会うという仕儀になってきた。

 左側には渓流がさらさらと流れ、ところどころ少し平地になると、小さな集落や郵便局があるくらいの村になる。
 景色はいい。森と、そして丘陵の山肌には白い羊の群。「養鱒場」の看板も2つほど出てくる。

 そして遂に行き着いた谷間のどんづまり、最奥の村が目的地Lであった。
 渓流の橋を真ん中にほんの少し開けた平地に2軒の小さなホテルを含め戸数約4,50の小集落。四辺はことごとくかなり急峻な丘で、しかもその80パーセントが牛、羊が放し飼いされた牧場、20パーセントが森。丘は頂上まで緑の牧地だから、真っ白い羊がそれこそ天に届くみたいに目の向う遙かに点々といる。
 
 宿はその村の広場からほんの数軒先の小さな学校の隣、出てきた夫妻はイングランド人だったが、何でも11年前ここが好きで移住したそうで、60代半ばとおぼしき夫は界隈のトレッキング案内者を兼ね、夫婦で4部屋ほどのB&Bをやって生計を立てている風情であった。

 言葉つき丁寧、いかにもナチュラリストらしく屋内には植物や鳥、動物、山、地図などの本が多く、翌日の朝食の際はテーブル上にジャムやらバター、マーガリンなどが一々これは何製の何々と白ラベルに手書き文字で表示されるという具合で、どこかほおえましい。

 部屋もよく、二つの窓からは丘やら羊やら牛、何軒かの村の家、樹々や花が美しく見え、布団もシーツもカーペットも、バスルームもすべて清潔である。そして静寂。聞えるのは羊と牛の鳴き声だけだ。
 
 じっとしているのが惜しくてすぐ外へ出てみると、庭には花、道端にも花、坂を上っていくと両脇に甘いブッラクベリーがとり放題に実っている。
 牛と間近で目をじっと見合ってからぶらりぶらりと坂を下り、教会の敷地にはいると、今度は巨大な一位の樹があの赤くてぬるりと甘い実を一杯つけていて、それを口に含んではぺっと種を吐き出しながら、つい自分もウメーと鳴いてみる。

 食事がまたうまかった。
 こんな多分人口200人くらいの村なのにホテルが2軒もあるのは、イギリス人の間ではおそらく知る人ぞ知る地なのであろう、どうやら1週間とか2週間単位の滞在者が多いらしいホテルの1軒は、料理も自慢らしく、何とかコンテストで1位になったとかどうしたとか顕彰が飾られ、「L産ラムのワイン甘煮」とか「L谷ふうチーズサラダ」なぞといったものを食べると、嘘ではなく舌がとろけるほどうまい。
 おまけに安い。こっちはたいていいつも2人で1人前をシェアーにしているせいもあるが、1回しめて酒代含み20ポンドくらいだった。

 うっくっくとよだれとゲップ、充足の吐息が出るくらいだった。
 宿賃も1日45ポンド、私たちは夕食を終えるや直ちにもう1泊延泊を申し込んだ。同じ場所で延泊したのは最初のサフォークの村とここだけである。夜は降るばかりの満天の星、朝は羊の声で目覚める。

 まことに別天地、うるわしの里、貧しきウエールズの奥深くに隠された秘密の園、であろう。そういえば、ここはウエールズでは「19世紀最大の抒情詩人」とされるジョン・ヒューズの出身地でもあると分った。まことにむべなるかなである。
 で、私は言った、
「アリスの国はここだったんじゃない?」
 すると奥方は、「ウーン…」と賛成するようなしないような風情。

 そういえばそうだ、考えてみればアリスの世界は童話的ではあれ、というかそうだからこそか、どこか怖いようなところ、人間心理の奥底を剥がれるようなところもあったから、ここの全くのやさしみ、牧歌性、平和さは少し違うのかもしれない。

 が、なにはあれ、ここが私たち今回の2週間イギリス・カントリー・ツアーの奥の院、そして前後合わせて2週間のロンドンをも含めてイギリス1ヶ月の旅の最高のスポットであったことは疑いをいれない。
 ああ、懐かしのL、ラブリーL。
 
 とこう、この地に関してだけは実名を明かさないのは、わんさわんさと大勢に押しかけられ、せっかくの楽地を乱されたくないからである。『地球の歩き方』あたりに書かれたら、半年後には人で一杯であろう。
 
 それでも教えろと言う方には、男なら極上の美酒を最低1本、女ならこぼれる笑みとキス、を引換えにそっと内緒でといきましょう。
 というわけです。
 

8月31日  アリスの館と黒いスリランカ人

 かくして行った先は、ブリテン島西部のウエールズでも最北部の小さな半島の付け根にある町Llandudno(今後ランドゥツノと呼ぶ)で、海岸保養地であるこの町の西側、人のあまりいない海辺に建っているホテルが、かつてアリスが夏を過した別荘とも、作者ルイス・キャロルが作品の想を練った場所とも言うのであった。

 といっても、何しろアリスを読んだのは遠いいにしえの話、すっかりうろ覚えになっていた私には、アリスは物語上の作中人物ではと思えていたので、えっ、アリスってほんとにいたの、という感じだったが、傍らの奥さんによると「モデルがいたんじゃないの」ということだった。
 
 帰国後調べてみるとその通りで、アリスはキャロルが教えていたオックスフォードのカレッジの(何と彼は数学の先生だった)寮長の3人娘のひとりで、キャロルは7歳の彼女に向ってあれこれ面白おかしい話を聞かせてやっていた(さてはロリコンだったか)、それが元になったのが『不思議の国のアリス』だというのである。

 で、まあ、ある時、そのアリスを伴ったキャロルか、あるいはキャロル抜きのアリス一家だけかは知らぬが、ともかくアリスが誰かの別荘であったここで一夏過したというのだが、確かにそこは絶景の地であった。

 まず眼前は完全に180度が海で、白砂と渚が左右に伸び、入江の向うにはわずかに霞む程度に向う岸の山々が見える。そして手前側もかなり峻険な岩山が崖状に続くなか、やや緩やかになった丘を背に、チェンバーハウス(白壁に黒や茶色の木製柱というか梁を縦や斜めにいれた造りの建物。イギリスやフランスの古い建物には多い)ふうに建てられた、なかなか瀟洒な建築がそれだったのだ。周りに民家や建物は一切ない。

 うわあー、さすがにアリスの館ー、と私と奥さんは叫びたくなった。
 が、何かがちょっとためらわせる。
 建物がどこかちゃちな感があるのだ。確かにチェンバーは入っているが、それはほんの一部、あとはどうやら相当後になって建て増ししたのではと思え、しかもどこか安っぽい。イギリスの古い館なら当然あるガーデンも周辺に全くと言っていい程なく、海岸から道路とわずかな駐車場類を隔てて殆どじか建ちなのである。

 首をひねりながら入っていくと、レセプションには真っ黒な顔のインド人ふうがいて、FUMAと名前を言った途端、「ああ、ジャパニーズね、たくさん来ます、ヨコガワさんに、シロシタさん、エーそれから…」などとインド系特有の甲高い、かつて若いころインドをさすらった私が烏のようなと名付けた声調で、愛想よくというか調子よくというか言い立てる。

 国籍を聞くとスリランカ人と答え、部屋は丁度一つだけ空いている、値段は110ポンドという。ホテルだからB&Bなどよりだいぶ高めは当然として、ロンドンで私たちが泊ったホテル(81ポンド)よりもだいぶ高い。
 二人で顔を見合わせていると、「アリスの家です、アリス」と日本語の写真集のような本を取りだして見せる。
 そこの1ページにはこのホテルの写真とアリスの写真(絵?)が出ているが、はっきり言ってあまり大した本ではない。
 
  安物のカーペットと安普請ふうの建て増し建築をぬって、見せられた部屋は狭くて、おまけに西日があたって暑い。
 私たちはまた顔を見合わせたが、しかし窓からの景色は絶品だった。視界はすべて海と海辺とウエールズの山々で、人の喧噪や夾雑物は全くない。

 結局泊ることにした私たちは、それから海辺を散歩し、泳ごうとしたが水の冷たさに諦め、車で東海岸のかなりにぎやかな保養地へ赴き洗濯(コインランドリー。こちらではランドレットという)と食事をし、それからホテルへ戻ってバーでビールを飲んだ。

 そうして、そこで一組だけいた面白い夫婦に出会った。歳は50代半ばくらい、亭主は随分のビール好きで、薄茶色のエールをすでに何杯か飲んでいるらしく御機嫌で、たまたま私が注文したのが同じ銘柄であったことから、「うん、それがいい、それが一番うまい、あんたは分っている。どこから来たの」といった調子で話しかけて来た。

「日本からですよ」
「ああ、そうか。自分は行ったことないが、very industrial な国らしいな。
 ホリデイなのか? なに、1ヶ月も。そりゃあ、いい。very good だ。
 一緒にビールをもっと飲もう。私はもう7杯も飲んでいる。一杯奢ろう、同じやつ、同じやつをな」
 
 一杯というのはこちらでは1パイント、日本の生ビール中ジョッキ分くらいある。私はそんなに飲んで大丈夫かと言いたかったが、つたない英語でどうもうまく言えない。代りにこう言った。
「いやあ、ありがと、ありがと。ウエールズのビールはうまいですねえ」
「いや、これはウエールズのじゃない。イングランドのだ。私もイングランド人だ」
「え、あ、そうなの。イングランドから来たの」
 アレと思ったが、実際問題イングランド人とウエールズ人の区別は外観ではつかない。
  
「12年前から近くに住んでるんだよ。子どもも二人いるが、もう二人とも大きくて出ていった。ひとりは大学を出、もう一人は今学生だ。あんたは子供を作ったか?」
「イエス。一人ね。25歳で、もう結婚してる」
「おう、グッド。それはグッド。ビールうまいか? ここはいいとこだろう。わたしは気に入ってしょっちゅう来てる。来てはビールを7杯は飲む。静かだし、気分がいい、景色がいい。女房も一緒だし、安心だ」
 
 脇でその奥さんはハーフ・パイントの空に近くなったビールを前に置いて、もっぱら犬と遊んでいる。犬は骨を前に置いたまま、囓りもせずしかし時折前足でさも自分の物だぞというようにチョコチョコと撫でては、しばらくすると半睡状態になる。
 そして奥さんは言う。
「ええ、だからあたしは飲めないんですよ。運転があるから」
 
 言い方も態度もひどく慎ましやかで、まるで一昔前の日本の女性みたいである。亭主に飲ませ、黙って脇で待ち、何の不平も述べない妻。去年のアメリカ以来、なんだかそぐわないような、フシギな光景のような気がする。体も太っていない、ほっそりしている。
 うちの奥さんなら、1,2杯は待っても7杯は待たないだろう。

「いやあ、いいですね。確かにここはいい場所です」
 私はそう答え、彼ら夫婦のお陰で、本当にそう思えてきた。ただ景色がいいだけとは違って、こういう飲み方をする夫婦がのんびり時間を過しに来ているということがいいと思えたのだ。ホテルの値段のこと、部屋の狭さ、あのスリランカ人のこすっからい感じ、などは忘れることにした。

 9時頃部屋に戻ると、折から日没にさしかかりつつある海は更に美しく、紫色の空と赤い夕焼けが180度広がっていた。この国では9時頃が日没で、いわば半ば白夜の感もあるのだ。
 
 もったいなくてカーテンを明け放したままいつしか眠り、今度は午前3時半ごろだったか、暁の朝焼けを見た。だんだん明けていくのも、日本の御来光の気分とはだいぶ違う白い平明さだったが、美しかった。

 だが、すっかり朝になって界隈をまた散歩し、朝食を割合きれいな食堂の割合きれいなテーブルで食べてからも、肝心のこと、つまり自分の中の「アリス」の世界とは何か違う気がし続けていた。聞くと、わが奥さんも、「どうも違うわね、イメージが」と言う。

 そうなのだ。私の中のアリスの国というと、それはどうも海ではないのだ。もっと森の中とか、丘の連なる村の教会の裏側の秘密の花園とか、突然出た丘の向うの別世界とか、そういうものなのだ。
 だが、時間がもう遠いせいか、そのイメージ自体がはっきり浮ばない。

 私たちは部屋を出、勘定を払った。
 勘定書明細には、部屋代100ポンド、風景代10ポンド、と書いてあった。チラとあの40がらみのスリランカ人を見ると、何か問題かというように、冷たくこちらを見返し、それからまた、これを見ろ、と昨日見せたと同じアリスの写真(絵?)の載った日本語の本を見せたのだった。



8月30日  国を失った山国ウエールズへ

 昨日書いた結末部を読み返すと、自分でも苦笑してしまう。どういう意味だ、何か舌足らずな、訳の分らぬ言い方だ、そして何よりこういう書き方自体どこか懐古的じゃないのか。そんな気がするからだが、では、書き直すか、あるいはこういう書き方をやめるかというと、そうも思わない。

 むしろ、まだ書き足らないな、ビートルズのことを書くなら、曲の内容やそれによって受けた影響、当時のサイケデリック文化、ヒッピー思想のありよう、ベトナム反戦運動との関係、更には去年アメリカにいてジョン・レノンの家を見に行ったとき思った、なぜジョンもジョージ・ハリスンも(彼は同い年である上、最もインド派であった点など、私と共通項も多い)、イギリスを捨てアメリカに移り住んだのか、といった問題も触れるべきではと思うぐらいだ。

 けれど、それを書いていたら、それこそ字数はどんどん増え、多分1冊分の本ほどにもなりかねない。それはそれで意味が無くはないと思うし、60年代から70年代前半が何だったかということはいずれまとまった形で書きたいような気もしているが、今はまあ、イギリス紀行に戻ることにする。
 
 で、リバプールの次に行ったのは、北部の湖水地方にするか迷った末、結局地図でいえばリバプールを含むイングランドの西にあるウエールズにした。当初行くつもりだった英国一の景勝地という湖水地方は、イングランド内とはいえ案外遠く、そこまで足を延ばすには車を相当飛ばし続けねばならない感じだったので、外国での初運転にさすが疲れ気味だった身としては慎重になったのである。

 いや、もうひとつあったか。同じ理由でどうせ更に北のスコットランドへ行くのはとても無理、となったので、それならイングランドと比較する上でも別の国であるウエールズへ行ってみたくなったのである。

 ウエールズはなぜ別の国なのか。
 それはリバプールから車でわずか1時間ほど走りウエールズ内に入った途端、すぐ分った。
 
 まず言葉が違うのである。道路標識がそれまで英語のみだったのが、上に英語、下にウエールズ語の2本立てとなり、更に1時間ほどすると、上にウエールズ語、下に英語と逆転したのである。

 そうして、そのウエールズ語というのがすごい。どんなかというと、例えば地名でいうとこんなふう、

 Glan−y−don、 Llandudno、 Betws−y−Coed

 文章でいうと、英語の
 So much to see, so much to enjoy  が、
 Cymaint i'w weld, cymaint i'w fwynhau となるのである。

 i'w fwynhau なんていったいどう発音したらいいのか。そもそも子音ばかりこんなに連ねて発声なんて出来るのか。そして、教わったところでちゃんと言えるのか。いかなる言語形態なのか。
 疑問は吹きあがるし、分るのはまるで違う言語であることと、うっかり名前を言おうともたついていると、事故を起すか行き過ぎるしかない、ということだけである。

 そして、その発音。
 標識の読みにくたびれ、トイレがてらお茶を飲みに入った道端のカフェで、私は初めてウエールズ人と口をきいたのだが、午前中からビールでほろ酔い機嫌の私と同年輩のいかにも田舎風に人なつっこいおっちゃんは、地名 Llandudno のことをものすごい巻舌で“ルルルランヅツノウ”みたいなふうに言ったのである。
 
 そして、ふだんはウエールズ語なのかと聞くと、いや、自分はウエルシュは話せない、少し知っているだけだ、というのである。だいたいみんなそうだとも英語で言う。しかし、奥から出てきた太ったおばちゃんの言葉は私には殆ど聞き取れなかったので、あれはウエルシュかと聞くと、いや英語だという。訛りはすごいのだ。
 
 彼らはアイルランド、スコットランド、フランスのブルゴーニュなどと近いケルト民族、言葉ももちろん本来はケルト語系、もともと独立国だったのだが、我々が言うイギリス(本来English、つまりイングランド人のこと)に併合させられたのは13世紀末で、要するにイングランドに屈服させられたからである。
 
 ついでに言っておけばイギリスなどという国は本来どこにもなく、この国は正式には、

  United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland

 であり、この Great Britain のうちにイングランドに併合されたウエールズ、スコットランドも含まれる。北アイルランドとはもちろんあの長い間紛争の続いた北アイルランドのことだ。
 国旗もあのユニオン・ジャックなるものは、縦横の太い十文字が元来のイングランド国旗(今でもそうで、サッカーなどの際はちゃんと使われている)、斜めのやや細めの十字がスコットランド国旗なのである。

 では、ウエールズ国旗はどこに反映しているか。
 してないのである。理由は、併合されたのが早かったのと、スコットランドほど強くなかったからだ。つまり早々と負けたから。

 ゆえに、その反動というか、ウエールズに入ると至るところーパブや市ホール、公共建築物、道端なぞに、上半分が白、下半分が緑、中央に赤いドラゴンの絵、というウエールズ公国旗が掲げられるという仕儀になる。つまり、我々は英国旗になぞ入っていない別の国なのだ、と言わんばかりに。

 それだけウエールズ民族主義が強いにもかかわらず、そして独特の言語があるにもかかわらず、しかしウエールズ人は先のカフェのおっさんを始め殆どが、現実にはWelshすなわちウエールズ語を話せない(北部および西部を中心に1割ぐらいは出来るともいう)。
 なぜか。
 
 それは多分、イングランドに併合されてから長くなりすぎたからというか、あるいは日本におけるアイヌみたいなものといえようか。
 私たちはこのあと行く先々で「あなたはウエールズ語を話せるか?」ときいてみたが、いかにも強いウエールズ訛りとおぼしき英語を話す人でも、残念ながらイエスという人はいなかったのである。

 理由は多分経済力のせいもあるだろう。
 実際、ウエールズは車で走って行くにつれ、貧しい山国だなと感じる。それまでのイングランドが丘陵は多くあったが基本的に広々した豊かな農地、平地だったのに比し、ウエールズは山が多く、平地は狭く、谷間ふうになり、したがって道も狭い。

 そのせいか、道に接していきなり小さな家が建っていたり、ごみや廃物が転がっていたり、農場も家屋敷も規模が小さくなる。
 
 これはどこかで見たような景色だなと感じる間もなく、すぐ気づいたのは日本みたいだ、ということだった。
 日本みたい、つまり言い換えれば日本はいまここに書いたような景色の国だということだ。しつこいがもうちょっと言い加えれば、貧しい、ということである。

 何を言ってる、じゃ経済力はどうなんだ、日本はGDP世界2位ではないか、イギリスは斜陽の国ではないか、その中の貧しい地帯ウエールズなどと同等になるのか。
 反発はすぐ出そうだが、しかし、そうなのだ。イングランドに比べると、客観的かつ明らかに、風景が貧しく、家が貧しく、インフラが貧しく、農耕可能な土地が圧倒的に少なく、富の蓄積が少なく、人間の表情が貧しい、のである。

 イングランドを1週間ほど見てきただけで、それは否応なく感じる。イギリスは国の面積は日本よりやや狭いが、国土の8割が山地である日本に比べると、平地は遙かに広く、ゆえに交通もずいぶん容易で、しかも人口は約半分だから、一人あたりの土地、生産性、といったことになったら、おそらく日本の4、5倍くらいにはなるのではなかろうか。
 
 そこへもってきて植民地時代以降膨大な海外からの、早く言えば略奪的富の集積がものすごく、おまけに日本や他のヨーロッパ諸国みたいに国土が直接戦場になったり、富が一旦ゼロ同然にされたりしたことがない。

 家は300年前からのものが使え、土地は不要不急の馬を何頭か放し飼いにしておけるほど余裕があり、外国からの儲けが蓄えられ、財産が奪われたことは一度としてなく、むろん(古代ローマ時代を除けば)侵略とか外国の支配下におかれたこともなく、ごみの処理場に困った経験も殆どなく、平地性のゆえもあって電気やガス・電話などの配管は殆ど地下に埋設でき、気候のせいで(何しろ樺太ほどの緯度にあるし湿度も低い)さほど伸びすぎもしない草や木を、日本人の2倍ほどはありそうな体力で芝刈り管理もしやすく、となれば、「きれいで、豊か」という言葉が自ずと付いてこよう。

 イングランドはそういう国であり、その上「世界に冠たる」という形容詞をいつも自分たちの上につけることに慣れ、おまけに言語は自分たちの言葉をどこにいても当然使ってよし、他人はそれを学ぶもの、としてきた連中。それがイングランド人であろう。

 確かに豊かで、結構な身分の人たちなのである。

 その広義のイギリスの中で、いささか日本に似た国と人たち。それがウエールズらしいと私たち夫婦は気づきだし、そのウエールズでも貧しいとされる北部にかの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の作者が物語の想を得たという場があるときいて、そこへ向ったのである。

 が、まあ、またしても長びいてきたこと。いったい、どうしてこういうことになるのかしら?
 あとはまた明日といたしましょう。国を失った地のアリスの館。そして、秘密の花園。
 おあとをお待ち下さい。



8月29日  ああ、ビートルズ!

 バクストンのあと、風光明媚な、しかし日本人にはあまり珍しくない山岳・渓流地帯を抜けてやがて着いたリバプールは、知ってのとうりの工業地帯だ。
 かつてビートルズが登場したころもイギリス中部の工業都市が生んだ、労働者階級出身の反抗型青少年バンド、みたいな言い方がされた。
 
 じっさい、ビートルズ4名は学歴も日本でいう高卒程度(学制が複雑なので単一に言えないが)、酔っぱらいの親父を持ったり、ちょっと不良がかった側面もあったりのメンバーだったのである。

 だが、ジョージは1943年生れで私と同い年、ポールが一つ上、ジョンが三つくらい上(あとから加わったリンゴはだいぶ上だった)、とまさに同世代そのものだった。
 私が早稲田の学生だったときには日本にもやってき、武道館を満員にして大変な騒ぎだった。羽田では出迎えた女の子ファンたちの中から失神者も出たとか、イギリスなどでは女性たちが自分のパンティーを投げつけるとかいわれたりした。
 
  けれど、私はその頃は彼らにもローリングストーンズなど当時隆盛だったロックバンドにも、全く関心が無く、もっぱらデモとか大学でのストライキとかに明け暮れていた。
 ビートルズごときにうつつを抜かすやからは軟弱な一般学生、底の浅い享楽派、とさえ見なしていたぐらいだ。

 けれど、恥ずかしながらそれから7,8年もたってから、私はビートルズにはまったのだ。
 齢はすでに28歳、場所はネパールのカトマンドゥ、当のビートルズはすでに解散したか解散しかかっていたころのことである。

 当時、私は一人でリュックを担ぎ、2度目のインドへ、西遊記を気どってソ連領中央アジアから(そこまでは横浜から船でシベリアへ入り、飛行機でイルクーツクからカザフスタンのアルマアタ経由ウズベックのタシケントへ入った)、サマルカンド、アフガン、パキスタンを経て入り、そこでA型肝炎を発症して西海岸のゴアで死線をさまよい、1ヶ月ばかりたってやっと回復、ゆるゆると文字どうり人の半分ほどの速度で歩いてインド亜大陸をほぼ一巡し、ネパールへ辿り着いたところであった。

 そのカトマンドゥには、市内や郊外のスワヤンブーに各国からのヒッピー連が集う喫茶レストランがいくつもあったが、そこでぼんやりポリッジ(オートミールの一種。当時の私は肝炎の病み上がりのため動物性のものはあまり食べられず、菜食的生活だった)などをすすっていると、店内にかかっている音楽のうち耳に実に優しく、病後の体とそして70年安保闘争敗北後の思想的半虚脱状態を癒すがごとく、聞えてくる曲があるのに気づいた。

 ヘイ・ジュードとかペニー・レーン、オール・イズ・ラブ、そんな歌どもだ。
 その何たる心地よさ、優しさ、安心感、そして決して浮薄ならざる穏やかな深み。
 そこで、私は近くのどこぞヨーロッパ人のヒッピーに尋ねた。
「これ、どういう音楽?」
 相手はしばらくきょとんとしていてから答えた。
「ビートルズだよ。知らないの?!」
「えっ、これが!」 
 私は驚き、そして長年知らなかったというか誤解していたことを心底恥じたのだった。
 
 それがビートルズとの出会いであった。以後は殆ど毎日、目玉の仏教寺院で知られるスワヤンブー寺のある丘に登って、遠くに白いヒマラヤを眺めながら各国のヒッピー連とビートルズを聞き続けた。
 まさに「ザ・フール・オン・ザ・ヒル(丘の上の愚者)」そのものになったわけである。
 
 その遅れてきたビートルズファンが58歳にして入っていったリバプールは、思ったより小さな都市だった。
 人口40万人というから埼玉県の浦和か大宮あたりと同じくらい。建物は集合性が高いから、街としてはドックのある海辺から中心部のマチュー・ストリート、更にはチャイナタウンあたりまで一通り歩きまわっても大したことはない。

 それまで巡ってきた田園地帯とはまるで違って、海辺や周辺部には確かに工場や倉庫が多く、空気はやや汚れ、街も幾分黒ずんだ感じである。
 田舎には絶えていなかった黒人やインド系人たちもかなり目に付く。

 そのリバプールを私は歩き回った。
 まず最初がアルバート・ドックにある「ビートルズ・ストーリー」。
 これはドックの建物1階に作られたいわばビートルズ博物館で、ビートルズの誕生から解散、その後までを物語的に追ってしつらえたものだ。さいたまニュー都心にあるジョン・レノン博物館はこれを真似て、オノ・ヨーコによるジョンのメッセージ性を強調したものだとは、入ってみてすぐ分った。

 展示物や雰囲気はさすがに現地らしく、殊に面白かったのはビートルズが最初に活動を開始したマチュー・ストリートのライブハウス「カバーン・クラブ」の実物大再現があることで、何とそこは質素な木製椅子が5,60に、小さなバンド用ステージ(確か舞台ふうにはなっていず、同じ平面だったと思う)があるのみ、隅にポテトチップスとコーラやファンタ類を売る小さな売店があるだけ、という薄暗い店にすぎなかったことだ。

 だが、それがいかにもリバプールの不良少年たちの出発地だったのであろうとは、親近感を持って納得できる場所で、私は1960年代の、ベトナム戦争と高度経済成長優先の、形式民主主義はあれども若者や弱者、女性、下層階級などには本物の平等も民主もなかった時代性を強く思い出した。

 1960年代からベトナム戦争が終了した1970年代前半、あのころはいったいどういう時代だったのか? わが青春時代とは世界の中でいったい何だったのか?
 その中で私が生きた生き方は正しかったのか、錯誤に満ちていたのか? ビートルズは何だったのか。ジョンはなぜ殺されたのか。私とビートルズの同一性と違いは?
 
 自ずとそんなことどもを考えながら、私は60年代を歩き、更にマチュー・ストリートまで歩いて昔とあまり変らぬブラウン色の細い小路をさすらい、写真を撮ってはたたずんだ。

 私はそれから10日以上たってからロンドンで、アビー・ロードも訪れてみたが、そちらは折から好天に恵まれたせいもあってか、うんと明るく、アルバム『アビーロード』を録音したスタジオ前の日本語を含めた来訪者たちの落書きは、楽しげであったのに比し、リバプールは決して楽しくばかりはなかったのである。
 
 もっと重い、郷愁と悲しみ、そして時代と時間というものの不思議さ、みたいなものがあった。
 
 実際、あのころー自分の青春時代が、もうこうして回顧の対象になっており、世界の多くから少なからず詰めかける若い人たちには歴史的にしか見えなくなっている面もあると、目の前で実感すると、一種のむなしさと、そしていったいこの世とは何だ、人生とは何だ、と改めて考え込み黙り込まざるを得ないのである。

 あーあ、また長くなってしまった。だんだん書くにつれこうなってしまう。過去がそれだけあるのだ。時間がそれだけ不可解なのだ。自分の人生を確定できないのだ。
 ゆえに、現在にも充足しきれない。しかし、比較的落着いてもいる。

 では、また明日。



8月28日   愛の田舎町バクストンからわがビートルズのリヴァプールへ

 次いで訪れたのが山岳地方国立公園の西端に位置するバクストンという人口25000人の町である。
 着くまでどういう町だかまるで予備知識とてなく行ったのだが、車を町の駐車場にとめ、少し歩いてみただけでなかなか面白そうな町だと気づいた。

 まず町の真ん中にタイル張りの何やら巨大な浴場のごときものがあり、むかしローマやトルコの遺跡で見た古代浴場に似ているなと思いながら近づいてみると、何とこれがほんとにローマ人が築いた浴場の建物だった。表の
上部に大きく「BATH」と文字タイルがはめ込まれているのである。

 えっ、風呂! 先述した汗嫌い体質のせいもあって本能的に風呂好きの私は思わず声に出し、「まさか。市役所よ」などと言っている奥さんもほうって後先省みず中へ駆け込んでみた。

 と、そこはやはりタイル張りの、いかにも風呂場ふうに装われてはいるが、細かい店舗に仕切られたいわば集合商店街であった。
 私はやっぱりかとがっかりはしたが、しかし早まってはいけない。ここが元ローマ時代の浴場であったことは確かであり、ゆえに隣が市ホール、その向うがオペラハウス、そのやや手前並びには市経営の大型プールと体育施設、そして元浴場前広場には近在からの野菜食料などテント市場が賑わい、そのトイ面にはスロープと呼ぶきれいな緑の斜面と公園が広がり、丘の上あたりを始めそこここにはいかにも古くゆかしき風情の老舗ホテルがいくつもあるのであった。

 加えて、そのスロープの麓には獅子の口であったかとにかく石造りの小さな水場があって、これが何とローマ時代以来の名水バクストン水(これはだいぶたってロンドンへ帰り、ホテルの近くのコンビニで水を買ったらバクストンと表示されていて、ややっ、そうであったかと嬉しくなった)の飲み場で、2,3人が列を作って大型容器に水を汲んでいるのに刺激され、さっそく口をつけて飲んでみたのである。

 味はまさにローマにしてイングランドの絶品、と言いたかったが、あまり冷たくないゆえさほどには感じられず、しかしわが奥さんは一度くらいでは諦めず、翌日町を出がけにペットボトルにわざわざ汲み、午後あたり喉が渇いたところで飲んだらほんとにうまかった。

 で、という接続詞は文脈上ちょっとおかしいが、とにかくこの町を気に入った私たちはさっそく泊ることにし、目の前のホテルを所望したがいずれも満員、何でも夏祭りの初日とかで、やむなく少し離れた下町ふうの場の「クイーンズ・ヘッド」(直訳すると、女王の首、となるが、いったいにこの国には「王の首」とか「サラセン人の首」など、首のつく店の名などが多い。いったいこの趣味というか風習は何であろう? ひょっとしたらブリティッシュの前歴は首狩民族だったのだろうか)なるパブ兼インに部屋をとった。
 
 そうして近所の中華レストラン「桂林」(中華は全くどこへ行ってもある。この3日ほど前には人口1000人くらいの町でも見つけて食べてみた)で夕食後、オペラハウスへ入ってみた。何でも夏祭りにタイアップしてのギルバート&サリバン歌劇団とかいうもののオペラがこの日初日というので、またもや一見しかばやと思ったのである。入場料7.5ポンド(1ポンド約190円)だったか。
 
 すると、これが面白かった。6時半開演のところ6時5分に入ったのだが、場内はすでに8割方埋まり、しかも指揮者の差配のもと観客全員が次々と歌を歌うのである。

 どんな歌かは語学力乏しき身共には分らない。曲も何やら懐かしいような、しかし具体的には何とも分らない。歌曲好きの奥さんにも分らない。しかし、客たち、いかにも田舎紳士淑女ふうの家族連れ多きたちが、何とも楽しげに声張り上げて合唱している。
 英語にも自信のある奥さん、自分も歌いたくてやきもきするが、果たせない。だが、何とも牧歌的、ファミリアーな、いい情景である。

 そうして、いざ始まった本番は、1幕3場の物語。すなわち、1場、美しき妖精娘たちの一人が村の若者と恋に落ちる、2場、地域の貴族、有力者ジェントルマンたちが、それはいかん、と言う、3場、妖精たちの女親分みたいなおばはんが登場、魔法の力で一同を幻惑承服させ、ぶじ若者たちの恋は成就する。

 アホらしいといえばアホらしい、しかしいかにも王朝風に着飾った、素人とは言えないもののどこか田舎学芸会ふうの、タノシイとも言える、オペラであった。
 あとで、あれはいったい何であったのかと、ロンドンで折から滞在中の友人・早稲田大学教授・英文学者の大島一彦さんに聞いたところ、「それは19世紀イギリスではやった喜歌劇のことで、ギルバート&サリバンオペラといえば、ロンドンでもサボイ劇場などでやっていたものです」というのであった。

     ああ、19世紀のロンドン、今、山岳地方の小さな町で生きる。
     いい国である。実にいい。

 私たちは牧歌的感動に包まれ宿へ帰って幸せな眠りについた。
 
 と思いきや、私たちは眠れなかったのである。
 何とならば、まもなく隣の部屋から酔ったような男ふたりの大きな声が聞え、かつ、しばらくすると「フーフー、ハーハー」そしてドシンバタン、更には壁を引っ掻くような音に、あられもなき呻き声、が聞えだしたからである。
 これは50代も終り間近の初老夫婦にはまいる。ともかくアホらしい。眠れない。

 そして翌朝、睡眠不足気味の我らは古く小汚い下のパブで朝食後、勘定(twinで50ポンド)を払って出ようとすると、マスターがこれを見よ、と壁の写真群を指さす。
 見れば、当のマスターが好々爺じみた、けれどどこか普通の好々爺とも思えぬ老人と嬉しげに握手をしている。

「これは誰?」
「フランキー・フレイザーだ。知らないのか?」
「知らない。誰?」
「犯罪者だ」
「犯罪者!?」
「そう、殺人者」
「えっ」
 ここでマスター、得意げに笑う。
「そう、何人も殺して42年間刑務所にいた。有名だ」
「42年! 今いくつなの?」
「82歳」
「ふーむ」
 ここでわたくし、感心、かつちょっと恐ろしげな表情をしたらしい。
「大丈夫。彼は市民は殺さない。銀行に押し入っただけだ」
 私、一瞬銀行員は市民ではないのか、という気もしたが、何となく納得もした。

 かくして私はこのいわばイングランドの田舎町の粋とも言うべきバクストンをあとにしたのだが、いやあ、またしても長くなってきた。
 この調子ではビートルズのリバプールへは今日中には着けそうにもない。
 ゆえに、また明日。乞う、御期待。



8月27日   原発、そしてロレンスの町

 その原発はレイストンから車なら15分程度の海辺に灰色の四角形建物群と青色のドームとしてあり、驚いたことにそのすぐ脇の海ではイギリス人たちが嬉々として海水浴をしているのであった。
 
 見事なプロポーションのグラマー女性にほっそりしたまだ育ち切らぬアングロサクソンの白い少女たち(このくらいの少女たちは実に可愛らしい。二十歳をすぎるとこの国では半分以上が肥満の道を走りかけるのである)、いや、むろん胸毛もさもさを含めたおのこ共もいるのだが、ともあれローマ人以降ゲルマン方面から続々やってきては混淆しつつ住み着いたブリティッシュたちの子孫が、何おそれる事なき風情で波と太陽に戯れているのである。
 近くでは釣り糸なぞ垂れている輩も散見される。

 ああ、鈍感、無知無神経、所変れば品変る、何たる浅はかさ。

 私と奥さん(あまり奥まっていず、たいてい前へ出たがるが)は口あんぐりと開いたまま呆然と見続けたのち、顔を見合わせてほぼ同時に結論を出した。すなわち、

   「原爆を体験してない連中は所詮この程度なのだ!」

 と。それまでこの国のナショナル・トラスト運動や動物愛護精神に感心していた身としては、界隈の美しさとの対比があまりにあり過ぎもし、そう思ったのだが、しかし腕組し、振り返り振り返りしつつ帰りだしながら、いや、彼らにとってはそれほど太陽と水遊びが恋しいのかも、とも思わざるを得なかった。

 じっさい、この国へ来てまだ間もなかったが気候条件は相当に寒いのである。日が照ったり、雲が出たり引っ込んだりというときには、まるで日本で言えば信州か北海道みたいな快適さなのだが、全体に雲と雨が多く、ひとたび降り出しでもしようものならこの真夏といえどもコートか最低カーディガン程度は必要なのだ。
 ロンドンのホテルにも冷房装置というものは一切ない代りに、夏でも暖房は点けられる体勢になっている地なのである。

 このあともイギリスにいる間中ずっと見続けた光景として、ちょっと天気が良ければ至る所で男は上半身裸の半ズボン、女は胸や腹をずいぶん出したノースリーブ姿というのは日常そのものだったし、この翌日には内陸部のCountry House(貴族などの館)近くで全身素っ裸に小さなバックパックだけを背負ったおちんちん丸出しのヌーディスト男二人組に出会ったりもしたほどだ(うちの奥さんは“ワーおもちろい」とかいって間近に寄ってまじまじと見ていた)。

 これも陽射しといえばわずかでも避けたい、陽に当たるとすぐげんなりし、ちょっと汗をかいただけであちこちがかゆくなる、ゆえに男のくせにしばしば日傘を差して歩くという私としては信じられないことだが、とにかくイギリス人共は陽にあたりたがるのだ。

  「太陽さえあれば原発なぞ怖くない!」

 というのが彼らの真実の叫びなのかもしれない。

 というわけで、私は結局何も言えず、ウームと懐疑の精神的腕組をしながらケンブリッジを経て、そこここのB&B(ベッド&ブレックファーストのこと。朝食付きの民宿のようなもの。イギリス人の普通の生活がよく分るので、私たちは旅の間中ほぼそれに泊った)に泊りながら北上していったのだが、全部書いていくとまた何十枚になりそうなので面白いことは数あれど端折るとして、いよいよノッチンガム近くのイーストウッドに着いた。

 といっても御存知無いむきもあるかと思うが、ここはかの『チャタレー夫人の恋人』等で知られる作家D・H・ロレンスの故郷なのである。

 『チャタレー夫人ー』といえば何しろわが青春時代というかもう少し前の少年時代、猥褻図書として出版社と訳者伊藤整氏が裁判にかけられた代物で、だからこそいったいどんなエッチな内容なのだ、早く読ませろ、とカットなしの完全版を待ちこがれ、完全版だったか待ちかねてカット版だったかを早熟にも読んで、ウム、文学というのはなかなか面白い、なぞと目覚めさせた作なのである。

 加えてわが勤め先日芸の文芸科にはその伊藤整氏の子息伊藤礼さんが教師としていらっしゃり、文学よりはむしろもっぱら碁における文壇名人3期連続の称号をもって生き甲斐としておられるのだが、その礼さんがいつだったか私にもしイギリスへ行くならイーストウッドへいらっしゃい、あそこはほんとにいいところよー、と一時はホモではと誤解したほどの猫なで声で確かおっしゃったような気がする地なのである。

 が、このことは地図を眺めていて、距離的に次の宿泊地としてこの辺が丁度よろしかろう、丁度『地球の歩き方』にロレンスの地として出てもいるし、とたった前日行くことを決めただけなのに、いざ着いて、ロレンスの生家を見学後、そこでどこか宿はないかと尋ねたところ、紹介された「Sun Inn」(ここらあたりからすでに英語にかなりの訛りがあり、ぼくにはサネーと聞えた)なる古き宿に入った途端、“イーストウッドに行ったらいい宿がありますよー。サン・インと言います”と礼さんに聞いていたような気がしてきたのが不思議であった。

 デジャ・ビュという言葉があるが、これなぞさしづめデジャ・アンタンデュ(既聴感)というべき事象ではなかったろうか。
 その古き庶民的な宿は、むかし炭坑町だったこの地に最初に鉄道敷設を決定した場所とかで、丘の尾根に出来た街の端、周辺のすべての丘々、かつての炭坑地帯を一望できる絶景の場にあり、ロレンスの生家から徒歩3分、少年ロレンスが炭坑勤務だった父の給料をもらいに通ったという炭坑事務所の建物(現博物館)まで坂を下って7,8分という絶好の場所だった。

 ああ、ロレンスは炭坑町出身だったのだ、ここのパブでビールを飲んではあのエロチックな物語を考えたのだと、この前半は一度は知っていたはずなのにとっくに忘れていたことどもを初めてのことのように、そして後半はいかにもこのパブのこともどこかで読んだかのごとく想い出したのであった。
 
 これはデジャ・ビュあるいはデジャ・アンタンデュの逆ではなかろうか。人間とは旅をすると様々の異なる体験をするものである。
 私はこの晩、宿1階のこのパブでだいぶ痛飲した。それまでのB&Bでは食事は外へ車で出かけることになったから、飲みたくても飲めなかったのである。

 ウーム、まただいぶ長くなってきた。今日はここまでにしときます。またつづく。
 

8月25日   帰ってきました、湿度の国へ!

 一昨8月23日午ごろ、無事に帰国した。

 いや、無事と言っていいかどうか、掲示板にも書いたけど途中膀胱炎にかかって二日ほどダウンしたから、正確には「事無く」ではないかもしれない。
 が、一ヶ月の、それも中2週間は毎日移動する文字通り旅暮しだったことを思えば、この程度ならまあ無事と言っていいのじゃないかしら。

 その膀胱炎のことに関しては、これから海外傷害保険による還付手続きなどもあって、まだ未決着だから今はさておくとして、全体としてかなり楽しい、充実した旅だった。
 特に2週間目からレンタカーを借りて出た田舎巡りが何とも爽快だった。

 ロンドンを出てまず地図で言うと北東部のサフォーク地方。
 最初は19世紀の風景画家コンスタブルの絵となった彼の故郷ー通称コンスタブル・カントリーの界隈を見るつもりだったのだが、そこいらは観光地化して人がいっぱいであり、それよりもう少し北の無名の地レイストンから西ケンブリッジ方面へかけての方が何ともきれいだった。

 レイストンにはわが妻(未届け)の娘が7歳から17歳まで育ったサマーヒルというフリースクールがあるため、小生としてもかねて話に聞く地を一見しかばやと訪れたのだが、学校の自由気ままさより近くの村々の景色の美しさに溜息が出た。

 緩やかな丘陵地帯に、人少なく、森多く、収穫間近の麦畑にジャガイモ畑、野菜畑、コーン畑等がうねるように広がり、修道院の廃墟では近在の少年少女らがバイオリンやチェロ、フルートなどの合奏練習をし、家は隣家まで数百メートル以上といった所にぽつぽつと独立孤高のおもむきで点在し、行き交うものは時に馬や馬車であった。

 むろん車の方が数は多いのだが、それも1台が行ったあとにはしばらく何もなくなり、やがて脇道へ折れると向うから馬がカッカッと心地よい蹄の音をひびかせてゆっくり駈けて来、道を譲ると馬上の人は「ハロー」と挨拶していくのである。

 それらの農場地帯のただ中にサマーヒルの現校長ゾーイ(創立者A・S・ニールの娘)の家もあり、訪ねてみると馬の放し飼い地とかなりの広さの池、それに巨大と言っていい穀物倉のある萱葺きの家であった。

 こちらの萱葺きは曲線が多く、むかし子供時代に絵本で見た魔法使いのおばあさんや小人が出てきそうな茸のお化けみたいな感じの家なのだが、よく見れば萱の具合や葺き方は日本の昔の萱葺きとそっくりである。
 
 違うのは日本ではもうだいぶ前に萱も葺き職人も殆どなくなったのに、こちらではまだまだあちこちに、新しい葺き替えまでが見られることだった。
 ただし、家自体は古い。たいていが150年から300年くらい前のもので、2,3日後に行ったケンブリッジ近くの村などは半分以上が中世からの萱葺き家であったほどだ。

 古い物を大切にするし、加えて界隈には電柱や看板のたぐいも全くといっていいくらい無い。ゆえに風景も昔と殆ど変らないのである。時代劇映画なぞ撮影しようと思ったら、至る所ですぐ出来てしまいそうな風情なのだ。ごみや廃棄物なぞもどこにもない。

 私は羨ましくて羨ましくて、涙が出そうと言ったら大げさだが、少なくとも溜息ばかり出たのであった。
 いったい日本はなぜあんなにごちゃごちゃするのだ、なぜどうでもいい美意識ゼロの看板ばかり並べ立てるのだ、古い物をすぐ壊し、新建材の家ばかり建てるのだ、所沢のトトロの森近くでさえ不法投棄の廃棄物ばかりではないか、馬なぞオレは北海道でむかし道産子に乗った以外一度もないぞ、まして馬車においておや、ファーマーという言葉の誇りのこもった響きと百姓という言葉の語感の何たる差異ぞ、等々と怒りと哀しみとやっかみと愚痴が入り混じるのだ。ウーム、くそっ。

 というわけで、レイストンの隣村テパトンのベッド&ブレックファースト(通称B&B。朝食付き民宿のようなもの。これがあちこちにちょこちょこあり、私たちは2週間の大半を各地のそれに泊った)では、いきなり1日延泊し、夕食後の8時頃までパジャマ姿であたりを散歩し続けた。こちらでは日没が9時過ぎで、それまで明るいのだ。これがまたいい。
 加えて気温は日本の軽井沢くらい。全くやっかみたくなるような地なのである。ええい、くそっ。

 が、難点もやがて見つかった。何とすぐ近く、歩いても1時間ほどのところに原発があったのだ。
 なぜ、いったい誰が、こんなところに! ううむ、くそ、アホめ。

 私は呆然とした次第だが、この調子で語っていくと、イギリス報告だけで数十枚分は要りそうなことに今気づいたので、今日はこの辺でやめておきます。
 またつづきは次回のお楽しみに。私もまだ時差ボケも直っていず、どこかボウーとしているのです。では、とりあえず帰国御挨拶まで、ということで。



7月21日   いよいよ夏休み、イギリスへ出発します

 昨日は大学のオープン・キャンパスの日だった。
 高校生や受験生、父母、学外者らに一日大学を公開し、模擬授業やら各学科の案内、施設案内、受験相談、更には学生サークルによる催しなど、を通じて学校を知ってもらおうというものである。

 まあ、平たく言えば一番の目的は全国的に減少化傾向の受験生対策でもあるのだが、昨日は最高35度ほどという猛暑にもかかわらず、去年の2500人を上回る3000もの人たちが詰めかけてくれ、江古田キャンパスは一日にぎわった。

 私は11時から1時間「エッセイを書く」という授業を担当したほか、1時から2時までは受験相談も受けもった。
 
 授業の方は日芸出身者である劇作家・演出家三谷幸喜さんの新聞連載コラム、漫画家水木しげるさんの戦争体験と50年の時間に関するエッセイ、そして今年の私のゼミ1年生と2年生の短いエッセイを素材にした。

 文芸科の教室はそんなに大きくないのだが、補助椅子まで出した満席状態のなかで、各地から来てくれた高校生・受験志望者諸君(あとで研究室へ来た諸君らに聞くと新幹線で来たなどかなり遠距離の人もいた)や同行の父母の方は熱心に話を聞いてくれ、エッセイの感想などを聞くと、何人もの諸君がはきはきと答えてくれた。手応えは悪くない。

 おまけに終って廊下へ出ると、「先生」と声がかかって、数年ぶりの卒業生がにこにこと近づいてきた。もう一人、見知らぬ中年女性も現れ「山本掌です」と挨拶された。このHPのオンライン連句にこのところ投句して下さっている山本さんであった。むろん初対面だが、前橋からわざわざ来て下さったという。

 OBの塚田眞周博君はもう7年前ほどの夫馬ゼミ生で、熱心な純文学作家志望者だった。後藤明生が好きで一時は大阪の近畿大学大学院(文芸学部長が後藤さんだった)へ進学したいと言っていたのだが、けっきょく東京で半公共機関の雑誌編集者に就職し、最近新たな出版社へ転職したという。

 私のHPも毎日見ていてくれると言うから、じゃ、このHPを元にぼくの本でも出してよ、と軽く言ったら、ええ、初版OOあたりで、なぞとまじめな顔で応じてくれたが、本気にしていいかしら? 塚田、ぼつぼつ大人だ、ちゃんとやれよ。

 さて、このオープンキャンパスを最後に私は夏休みに入る。
 明日はイギリスに出発である。向うは涼しいそうだし、暑さに弱い私はそれだけでもうワクワクだ。

 パソコンに関してはどうすべきかさんざん迷ったが、けっきょく持っていかないことにした
 理由は昨日の朝日新聞土曜版BEに、「海外でメールを読もう」というパソコン記事が出、それによるとHotmailを取得してそこへ転送設定をしておけば、インターネットが出来る場所ならどこでもいつものメールを受信できるというからだ。

 さっそく試してみたら、どうやらうまくいきそうなのである。
 あとはHPだが、これもロンドンなど大都市なら日本語OSが使えるところもありそうだし、少なくとも見ることは時々出来そうな気がする。

 これまでパソコンは持っていきたいものの、今度の旅は4,5日おきに移動していく可能性が高いので、付属品をいれると3、4キロあるわがソーテックを一々持ち歩くのはつらい、どこかにぶつけでもしたら大変だ、ということが一番憂鬱だった。

 が、これで、HPの更新を除けば問題はほぼなくなるわけで、それなら更新だけ1ヶ月お休みにさせてもらおう、と決断がついたわけだ。
 そして、一旦そう思ったら、実に気分が晴れ晴れした。パソコンがあるとどこか日常を引きずり、かつ原稿を書く機械でもあるので、仕事が付いてきている感覚があるのだが、それがなくなるからだ。

 つまり解放感である。これはいい、実にいい。今までは海外でもたいていパソコン持参だったから、ひょっとしたら数年ぶりの解放、少なくとも4月にHPを作って以来は、初めての解放である。

 というわけで、皆さん、この日記やオンライン連句など1ヶ月だけ更新なしとしますので、ご容赦下さい。メール、書き込みはOKです。時々楽しんでチェックしますから、せいぜいどうぞ。
 では、行ってきます。



7月19日   谷さんと『沖縄ナンクル読本』

 一昨日の夕、池袋の沖縄酒場「おもろ」で谷章さんと飲んだ。
 彼は先だってまで講談社文庫部の編集者だった人で、私とは7,8年前からの付き合いだ。元来は彼が青年時代から私の古いインド本などの読者で、「今まで夫馬さんの本の8割は読んでいる」と言ってくれる得難い人である。

 2年前には彼が作った『アジア大バザール』という文庫本の解説を書くなど、一緒に仕事をしたこともある。イスタンブールからインド、東南アジア、日本に至るアジアのバザールについて、青年時代の体験からの思いを含めて書いたものだ。
 
 だいたい彼のこれまでの仕事は半分ほどがいわゆる「旅本」作りで、講談社文庫の旅本はおおむね彼の手によるものと言っていい。つまり、彼自身も熱烈な旅好き、アジア好きで、かつ本好き、本いのち人間なのである。

 その彼と久々に飲むことにしたのは、彼が最近10年勤めた編集部を辞め、宣伝部に移ったからだ。事情はむろんある。
 
 彼はもともと40歳まで宣伝部にいてから、本作り希望やみがたく編集部へ移り、以降10年間毎月3冊制作のノルマというハードスケジュールをこなし続けた結果、1年ほど前ついに体をこわして手術、以降体力が落ち、仕事で徹夜なぞをするのがどうにも耐えきれなくなったというのだ。

 ゆえに自ら申し出て古巣の宣伝部へ戻ったのだが、「これでもう、会いたい人とも会えなくなります。今までは名刺で仕事をしてきましたから、好きな人と会えたし、夫馬さんにも会えたけど」などと、淋しいことを言うので、じゃあ、今度はぼくがいっぱい奢る、ぼくはあなたがぼくのファンでいてくれるのが嬉しくて付き合ってきたんだから、今後も別に変らないよ、と答えてこちらから誘ったのだ。

 沖縄酒場を選んだのはそこが私の知る数少ない店であるほかに、谷さんが最後に作り、つい2,3日前に出たばかりの本が『沖縄ナンクル読本』だったからだ。
 
 ナンクルというのは「何とかなるさあ」という意味の沖縄言葉で、あの沖縄のおおらかな解放性と人情、非近代的風土・気配、熱い陽とそよかぜ、などを象徴するものだという。
 谷さんはその本を乾杯のあとさっそく贈呈してくれた。

 中身は今現在、私は実はまだ読んでいないというか、ノンフィクション作家でもあるうちの奥さんが脇から先に手を伸ばして取ってしまったのだが、その彼女によれば「面白いー、はまりそう!」だそうで、読みながらげらげら笑い続けている。「オバア」のことなぞが何とも面白いのだそうである。

 オリオンビールから初めて泡盛へと飲みながら、谷さんは「10年間ほんとに走り続けてきました。あっという間でした。でも、死んじゃ何にもなりませんからねえ」としみじみ言うのだった。
 
 講談社は高給でも知られるが、いつもは書き手側として編集者に微妙な思いを抱いてきた身も、編集者もラクじゃないなとつくづく感じたものだ。
 谷さんは明日からこの最後の本をもって、沖縄の関係者に会いに行くそうである。多分生涯でも最良の、そして少し哀しい旅になるであろう。



7月17日   イギリス行き近づく

 7月22日からイギリスへ行く予定である。
 
 去年アメリカに3ヶ月いていろんなことに改めて関心を抱いたため、今度はそのルーツの国へ行ってみたくなったとも言えるが、一番の理由は暑さから逃げたいというのが本音かもしれない。去年のニューヨークは暑くて、だいぶくたびれた。イギリスはカラフト並の緯度で、ずいぶん涼しいそうだ。

 むろん、行きたいところも色々ある。
 第一は美術館。風景画家コンスタブルの絵を実物で見て回り、そして、そのモデルとなった実景を見て回りたい。サフォーク地方など。

 他に漱石博物館とかビートルズゆかりの地も目標だ。
 漱石は言わずもがなだが、ビートルズも文字通りの同世代人としては(ジョージ・ハリスンが同い年、ジョン・レノンやポール・マッカトニーは一つ二つ違い)時代性を共有する外国人として単なる懐かしさを通り越して関心がある。私がビートルズに目覚めたのはヒッピー時代のネパールでだった。

 出身階級とか、その後の経過とか、色々肌で感じたいことがある。ニューヨークではジョンの家も見に行ったし、滞在直後にジョージがロスアンジェルスで死んだことも気になっている。
 だから、リヴァプールにも行って見るつもりである。

 そのほかロンドンのユダヤ人街とかアジア人、黒人たちのありようも見てみたい。ニューヨークやシスコとどんな風に違うのか。
 そして、むろん普通のイギリス人たちの生活自身やあちこちの田園風景が楽しみだ。

 みんながきれいな国だと言う。左側通行、道路標識も日本と似ているというので(日本があちらを真似たのだが)、レンタカーを借りてゆっくりまわるつもりだ。

 その準備と、その前に片づけたい雑事、そしてこのところ起った思わぬ出来事などで、少々くたびれ気味だが、何とかこなして、無事旅立ちたいものと思っている。
 向うのパソコン事情など、調べなければならぬこともまだたくさんある。知っている方あったら、教えて下さい。



7月11日   東京鯱光(ここう)会と台風一過

 今朝はこれを書きながら14階マンションの書斎窓外に見える景色が、実にきれいなのに驚く。空が真っ青で、白い雲がところどころ刷毛ではいたように浮き、しかも遠景には夏にはめったに見えぬ関東の山々がまさにパノラマ状に一望できる。

 左から多摩連峰に、雲取山などを経て秩父連峰、北秩父の宝登山の右手遙かにはかすかだが浅間山、次いで(たぶん)白根山、そして秩父から少し途切れて榛名連山、ほぼ真北に赤城山、皇海(すかい)山系に日光連山、さらにその右には驚いたことに秋冬でもめったに見えないあの低い筑波山までが、うさぎの両耳のような形で確かに見える。

 そうして、それらのやや上には刷毛雲とは別種の入道雲が、むくむくと時間とともに拡大し始めた。
 完全に真夏、いや、秋みたいとも言える鮮やかさである。
 台風6号はもうどこにも影もない。

 その台風下、昨夜は赤坂のホテル・ニューオータニで、3年に1度の高校の同窓会が行われた。といっても高校は名古屋の旭丘高校だから、東京など関東地区に住む者だけの会である。
 鯱光会という名は、学校の校章が名古屋城の金の鯱をかたどったものだったため付いた名だ。

 旭丘以前の旧制愛知一中OBを含む全部で数百人の盛会だったが、中でも我が同期生14期は25名、1期あたりとしては最大の集まり具合で、ブース二つ分が当てられたほどだ。台風等で来られなかったが、事前申込者は36人だったというから、この種の合同同窓会としては異例なことである。

 理由の一つは今回から幹事を2クラスから1名宛の集団制にしたこと、新幹事が張り切ってくれたことによるが、ひょっとしたらもう一つは昭和18、9年生れ、よわい58,9歳という年齢のせいかもしれない。

 なぜならこの年齢、だいたい60歳定年を間近に、すでに53歳くらいから始まっていた子会社等への出向、再就職などがほぼ完全に終了した年になるからだ。
 名刺の肩書は以前は有名大手会社が殆どだったのに、今は誰も知らないような名前ばかり、したがって自分から名刺を出したがる人間は殆どいず、あとは63歳の2度目の定年を待つばかり、といった雰囲気なのである。

 役員とか部長の肩書はあっても、明らかに以前ほど忙しくはなく、熱情もない。中にはおそらく窓際族といった人もいる様子。子どももたいてい一人立ちしており、今は家でも初老の夫婦ふたりだけだったりする。
 おまけに体調はあちこち悪い。少なくともコレステロールとか血糖値などいろんな数値が高く、酒も御馳走もぱくぱくというわけにはいかない。

 一番印象的だったのがたぶん40年ぶりに会ったA君で、東京の某有名大卒、有名商社マンだった彼は、高校時代はスポーツでならしたがっちりした体の優等生、頑張り屋で文句のない経歴、とみられていたが、久々の目に映った彼は随分痩せており、目のまわりに隈があって、どこか気弱げにさえ見えた。

 近況および卒業後のことを聞くと、ともかく出してくれた名刺の会社名が御多分に洩れず見知らぬものだったのは人並だが、商社時代の勤務先が中南米19年、そのあと湾岸戦争あとの中東が5年、というのだった。

 ウーム、長いなあ、子どもなどはどうしたの? と聞くと、上の子は小中を日本人学校、そのあとアメリカンスクール、そして帰国子女入試で日本の大学、あとはまあ、うむ、と口が重かった。

 南米の言葉はかなり出来る様子だったが、それとアラブは関係なかろうと言うと、その通り、だけどアラブ語出来るやつなんていないだろ、だからどういう訳かまわされた、と唇を噛むようにして言うのだった。

 それ以上はあんまり聞いちゃいけないような気がして話題を変えたが、ひょっとしたら苦労の方が多かった壮年期だったのだろうかとも思えた。少なくとも経歴等から外目が感じるほどいい人生ではなかったのかもしれない。

 そんな中で私だけはホームページの宣伝をしたいせいもあって、自分からアドレス入り名刺を配っては「見てよ。見てよ。今どきパソコンくらい出来なきゃダメよ」なぞと言って歩いたのだが、ひょっとしたらぼくが一番元気で若い部類だったのかもしれないと、あとで感じた。

 私は20代から40代まで若くて一番いい時期を、貧乏でつらく過した思いが強かったのだけれど、人生とは死ぬまで分らないものだと改めて感じた日であった。



7月7日   日芸の全面新聞広告出る

本日の朝日新聞と読売新聞に、(朝日だと6面に)それぞれ1ページ全面で日本大学藝術学部の広告が出た。見ていない人は今からぜひ見て下さい。

 これは去年から3年計画で進めているプロジェクトの2回目で、まあ平たく言えば少子化のあおりで御多分に洩れず年々受験生が減少している我が勤め先も、何か斬新な広報活動を、という一環である。

 昨年はOB・OG100名ほどの手形ならぬ足形を集めて紙面一杯に載っけ、だいぶ評判になった。80周年にちなんで我が校の「過去の足跡」といった意味合いもあってのことだが、広告関係ではあちこちに取り上げられたのを始め、テレビにも取り上げられるなど、まずはかなりの成功だったと言っていい。

 今年はそれを受けての第2弾だから、さて、どうするかと、学校で企画広報副委員長なるものをしている私も委員長の放送学科野田教授の指揮下、だいぶ働かされた。

 何しろこの野田教授、齢(よわい)53歳の働き盛り、はち切れんばかりのプチプチの体に薩摩隼人ふうの色黒大声の、本来CM専門家で、張り切ること張り切ること。

 パッと見た目の鮮やかさとか、何10万どころか何100万もの人の耳目を一挙に引きつけること、なぞにはおよそ縁遠かった売れない私小説的純文学作家である私には、どうも慣れない仕事だったのだが、文字通り尻を叩かれてこき使われたわけである。

 ただし、直接のアイデアは電通のプロたちーそれも大半が日芸OB・OGによる特別編成チームが作ってくれ、こっちは脇から勝手なことをあれこれ注文付けし、さあ来週までにやり直して、などと言うだけなのだが。

 すると、OB諸君ら、「なんだかまた宿題を命じられたみたいだな」とか言いながらうつむき気味に帰っていき、何回か通ってともあれ仕上げてくれたものだ。

 結果は今度は足形ならぬはんこ百数十個の大結集である。

 各学科から、たとえば映画学科からは「ハリウッド先生」「アニメ先生」「監督先生」、文芸学科からは「私小説先生」「落語先生」(三遊亭圓窓さんが教えている)「絶叫先生」(絶叫歌人福島泰樹さんがいる)「恋愛先生」(恋愛論を講じている本年度群像新人賞評論家・伊藤氏貴君がいる)、体育担当からは「オリンピック先生」(バルセロナ・オリンピック体操銀メダルの西川大輔さんがいる)、演劇科からは「日舞先生」といった調子で、大小かたち様々のはんこを作り、並べたのだ。

 そして、右の方に「さ、次は (ここに長方形) の授業です」とキャッチフレーズを置いたのである。

 今日出たばかりだから反応はまだ誰からも聞いていないが、私としてはまんざら悪くなかったと思っている。

 そして、文芸誌に小説を発表するのとは随分違うこういう作業も、別種の面白みがあるとも感じている。

 最大の違いは、大勢の共同作業という点だろう。小説は編集者という協力者はいるにせよ、あくまで徹底した個の作業だが、世の中ではそういう仕事はむしろ少ないのだと改めて思う。むろん功罪もまたそれぞれあるのだけれど。

 ついでにもう一つ言っておけば、動くお金もだいぶ違う(ごく少数のベストセラー作家は別だが)。純文学の世界とは、その意味でも随分小さな世界かもしれない。



7月2日   秩父から「連犬」来る

 先に秋山祐徳太子さんの彫刻「バロン・フマ」がわがリビングに据えられたことを書いたが、今度は秩父から吉野辰海さんの作品が来た。過日、雨の中を車ですっとばして受領してきたのである。

 吉野さんは、この今回新たに章立てしたページの看板にも載せたように、「Screw Dog」シリーズで知られる造形作家(彫刻家)だ。
 今までも「連句」のページの看板に使わせてもらってきたから、ご記憶の方も多いと思う。

 その連句ページ看板の作品「Twin Dog」は、句を連ねていく連句にふさわしいと思って載せさせてもらったのだが、ほぼ毎日写真を見ているうちだんだん本物をほしくなってきた。で、御当人に頼んだところ、あれは売れてしまってもうない、とか、型はあるから作れるが、ツウィンにするのは手間がかかって安くは出来ない、とかごちゃごちゃのたまわったのだが、「友達だろ」と言い返してやっと作ってもらったのである。

 吉野さんのアトリエは秩父山中、荒川河畔にある。というと風光明媚なすばらしいところかと思うが、実態はトタン屋根1枚の元倉庫で、夏は35度、冬は時に零下にもなるというすさまじい建物だ。この作品を始め彼のものはたいてい硬化ポリエステル製なので、溶媒にいろんなものが必要だし、つまり臭気が強くする。ゆえに窓はほぼ常時明けっ放しなのだ。

 私は秩父にドライブに行ったりする折、時々このアトリエに寄るのを楽しみにしてきたが、作品受領に行った日は折からの梅雨寒で、前日より一気に10度も低温だったため、アトリエにしばらくいるだけで咳が出、鼻がぐずぐずし始めたほどだ。吉野さん当人も洟みずをかんでいた。

 かくのごとき苦労の結果手に入れた「Twin Dog」は、ユートクさんの「バロン・フマ」と少し間を置いて並べると、実に存在感を感じさせる。ユートクさんのもの(「小説」欄目次下に掲載)は孤独とペーソスを感じさせるのに比し、吉野さんのものは陽性のユーモアと遊びの精神、そして色の具合で遠目には金属かとも思わせる質量感がなかなか重厚でさえあるのだ。

 私は丁度1週間毎日いろんな時間と光具合のもとで眺めた末、こう名付けた。

         「連犬 2002」

 吉野さんの付けた名は「Twin Dog 1993−2002」だったのだが、私は連句のことも考え、こうした。「2002」のところは「20−02」とここも連ねを強調しようかと思ったが、ちょっとやりすぎかとも思い、こうしたのである。

 みなさん、いかがかしら。「連句」欄の「連犬」、可愛がってやって下さい。



6月29日  浅草木馬亭に「泡沫桀人」大結集す

 6月26日夕、浅草の木馬亭へ行った。
 仲見世を通って正面奥の観音様本堂で軽く合掌したのち、左へ折れ五重の塔通りへ入ってすぐの右側二軒目。

 知る人ぞ知る昔懐かしい浪曲や講談の定席だが、この日はがらりと変って墨書された看板には、秋山祐徳太子『泡沫桀人列伝』(二玄社)出版記念会といった文字が大きく出ている。つまりこの欄でもお馴染みのわが友人・彫刻家のユートクさんの会なのである。

 ユートクさんはかつて革新知事として名を馳せた美濃部亮吉や若きころの石原慎太郎らに伍して都知事選に二度立候補し、そのつど赤尾敏らと並んで泡沫候補といわれた人だ。要するに当選の可能性などまるでない泡みたいな存在という意味である。

 ユートクさんの本はその泡沫を逆手にとって、美術界を主舞台にした泡沫的にして傑物(傑の字はわざと桀を使っているが)50人のことを面白おかしく書いたものだ。

 登場人物は平賀敬、篠原有司男、康芳夫といったかなり知られた人物も混じっているものの、大半は殆ど無名の、しかし実に個性豊かな―たとえば招き猫の絵ばかり描き続けている美濃瓢吾とか、畳6畳分くらいの敷地面積の手製の家をクロハタ本庁と名付け、かつて新宿駅頭でベトナム反戦を叫んで焼身自殺を試みたりした画家松江カクとか、プロレスラーと間違えられ
るような顔つき体格で、ゴム製の人の皮とか頭など何とも気持の悪い物ばかり作っている造形家魚田元生など、いずれ劣らぬ怪人たちのオンパレードなのである。

 この日集まったのもこれら登場人物たちに加え、一癖も二癖もある連中ばかり。挨拶順に言えば種村季弘、赤瀬川原平、松田政男、坪内祐三、西部邁、さらには顧問弁護士なる元赤軍派担当の三島浩司、主治医の戸松医師、などまことに色々とりどりだ。
 
 中で面白かったのは赤瀬川さん(彼はぼくの高校の先輩であり、小説家・尾辻克彦としては中央公論新人賞の後輩である)で、「泡沫とは一生懸命自転車をこいでいるけど、チェーンが外れているような(人・状態の)こと」という泡沫論が、なるほどうまいことを言う、と思わせた。

 そして本人はといえばまず浪曲師姿で現れ、自分の紹介を浪花節でうなってみせ、一転パンツにグリコマークを背負ってのかつてのハプニング姿で自ら司会をし、壇上に登る者の中には素っ裸になる者あり、完全に酔って出来上り、
「♪あーさはどーこからくるーかしらー、あーのやまこーえてーくーもこえてー」
 と果てしなく歌い続ける者ありといった有様だった。

 笑い転げているうちアッという間に3時間がたち、多くは更に2次会へと繰り込んでいったのだが、さて本の方はどれくらい売れるだろうか。
 もう67歳、まもなく自伝も出版されるそうだが、老人力ならぬ活動力としてはこの辺が最後の山とも思えるユートクさんにとって、今度の本は泡沫にならないことを祈る次第だ。



6月22日  恋しきビン・ラディン様 その四

 お久しゅうございます、オサマさま。
 わたくしどもの国ではいにしえより、日々流水のごとし、人のこころ浮き雲のごとし、と申すのでございますが、ほんにわたくしめも歳とともに時がたつのが早く感じられるようになりました。
 
 先に文を差し上げたのは振り返りみますれば5月25日のことでしたから、もうひと月近くにもなるのでございますねえ。恋する者の身が長く御無礼し、申し訳のうございました。どうかお許し下さりませ。

 ですがこの間、この大和の国にも、そしてわたくしめにもあれこれ心さすらうことどもがあったのでございます。
 一つはワールドカップ・サッカーなぞともうして、世界から32カ国もの人々が集うてボールを蹴り合う催しのことでございます。

 わが大和ではこれを蹴球、お隣の唐の国では足球などと呼ぶのでございますが、ナニ、ここだけの話、使うのは足ばかりではなく、手で相手のシャツを引っ張ったり押し倒したり、足の方もまたボールのみならず相手の足まで引っかけたり、さらには人目に触れぬよう素早く肘鉄をかませたりする、なかなか恋の道にも通じる意味深い競い合いをいたすものでございます。

 そうそう、そういえばお国のサウド家のアラビアも参加しておりましたから、オサマさまも先刻御存知でござりましょう。が、試合は御覧になりましたかどうか、洞窟ではまさかテレビはとも思えますけれど、ひょっとして辺境州あたりでちゃんと御覧あそばされましたか。

 わたくしめはあれを見ながら、昔アフガンで見たボズカシと申すものを思いだしておりました。
 あのボズカシは御承知のようにアフガン各地から年に一度集まった10数人のチームが、土漠に設定された広い野っ原を馬で駆けめぐり、確か首を落とした仔羊の体を取り合うゲームで、時に片足が引きちぎられたり、それこそ仔羊が八つ裂きにされる感もあって、勇壮なれども、いささか野蛮な印象もございました。

 が、しかし、一番懐かしいのは、なんといってもあのためマザリシャリフチームとか、クンドゥーズチーム、カンダハルチームなどと、アフガン全土からいくつもの民族も参加しての、国王ザーヒル・シャーを前にしての統一祭典の趣があったことにございます。

 あれは思えば牧歌的で、中世的、遊牧的、そして王と諸民族諸部族の関係を感じさせる得難い場所だったような気がします。

 そうして、思えばこの1週間ほど、実に久々にそれに類した催し、ロヤ・ジルガ(国民大会議)なるものがカーブルで開かれていたのでしたが、実体はだいぶ違った感がいたしました。
 
 もちろんロヤ・ジルガは仔羊を奪い合うものなどではなく、権力を奪い合うもの。場所は衆人環視の屋外ではなく、あちこちにしつらえられたテントの中でのこそこそ、ひそひそ密議。あのときの国王ザーヒルは確かに参加したものの、今や90何歳と年老い、肩書きはあくまで「元国王」。
 おまけに会議の背後には何よりもアメリカと国連がいて、担がれているのは半ば傀儡とも言えるカルザイなる軽いのか重いのかいっこう分らぬ42歳の若造でございます。

 あ、いえ、歳は若くともいっこう構いません。御歳はオサマさまも若くあらせられ、そこが何ともみずみずしくてようございますのです。ほんにふるいつきたくなるようないい男(^.^)!
 アレ、はしたなさは御勘弁下さいませ。
 
 ですが、カルザイというのは今までのところほんによう分らぬのでござります。
 真に愛国者なのか、アフガンの貧しさと失われた牧歌性を思い、民草を救おうとしているのか、それともただ英語が能弁なだけの機会主義・出世主義者なのか。

 いづれにせよ、国王復権の策略まであった挙句(わたくしは古き王政復古にも反対でございます。われは伝統は尊べども古き王党派ならず、です)、結局はカルザイを大統領、閣僚はパシトゥーン勢力をかなり復活させた上でのやはり北部同盟中心の野合内閣となったのでございます。
 
 軍閥も温存されたままの、そして女性閣僚などは1名に減じた内閣構成は、要するにアフガンの実体が旧来と何も変っていぬようにも思えれば、そう見せつつ次第にアメリカ主導の近代化に進みつつあるようにも思え、正直いっこう実質は見えてきませぬ。
 
 いったいこの先、わたくしとオサマさまのアフガンはどうなりますのやら…。オサマさまがどこぞから一言御意志をお示し下されば、わたくしめはもちろん世界が注目するのですが…。
 
 また、この新政権成立と同じころ一方で伝わってきた大和や仏蘭西国「る・もんど」なるものなどの瓦版記事によれば、あのマザリシャリフやクンドゥーズでアメリカ軍および北部同盟軍に捕まったタリバン兵およびアルカイダ兵は約8000名、その多くが機関銃を突きつけられ小さなコンテナにギューギュー詰めにされて輸送され、到着したときには半数近くが窒息死していたというものです。

 事実とすればなんとむごいことにござりましょう。
 また、生き残ったものたちの多くは遠く山を越え海までも越え、キューバなる何の縁もなき熱帯の地に送られ、炎天下トタン屋根、吹きさらしの、衆人環視の小屋とも言えぬ場に手足を鎖につながれている写真が公開されておるのでございます。

 むろん、拷問もアフガンでもキューバでも繰り返されたらしく、舌まで切ったとの報道に涙を禁じ得ません。さほどの拷問・監禁等をなすアメリカなどの狙いはただ一つ、むろんオサマさま、オマルさまの居所、そして再びあの日9月11日のごとき攻撃が自分らに向けられぬかということに尽きましょう。

 ああ、何たる怯えぶり、そして何たる自己反省のなさ。わたくしはほんに今思いつく言葉もありませぬ有様です。
 
 今日は先信にてお話ししかけた9月11日直後のニューヨークのことをこそ、この目で見たとおりお伝えしたかったのですが、またしても余のことがすっかり長くなってしまいました。まこと語ること、お伝えすべきことが尽きないのでございます。

 ゆえに、ニューヨークのことは今度こそということにして、本日はこれにて失礼することにいたします。どうか御身御元気で。                              
                                 かしこ
              
                         TOKYOにて  やまとめ ぱそこ



6月15日  サッカーW杯

 昨日は一日、サッカーの日本対チュニジア戦のため、どこもがざわついた。
 まず午後、大学へ行ったら、いつもよりだいぶ学生が少ない上、教師たちも「今日、4限の授業やるぅ〜?」「いやあ、もう今日は早じまいよ」、などとそこここで会話を交わし、じっさい4限の半ばごろになったら廊下やら校庭などががやがやとした。

 いわずとしれたキックオフが3時半だったためだが、私も学校へ行くまではそんなことは何も考えていなかったにもかかわらず、あおられてどこか心そぞろになり、本来は4時10分終了の授業を3時45分に早じまいしてしまった。

 そうして階下の教職員室へ下りていくと、テレビの前に教授連がみな突っ立ってワイワイと見ていた。得点は0−0のままだ。

 私は5分ほどして車で学校を出、いったん帰宅してすぐ所用で恵比寿へ向ったのだが、そのあいだ東上線、JR埼京線、とどこかしらからケータイの話し声や人の会話などでサッカーの気配が断続的に伝わり続け、やがて恵比寿の駅前へ出たら、ブルーのTシャツを着た若者軍団が大歓声を上げていた。

 勝ったなとむろん瞬間的に分った。そして街路灯の半アーチにぶら下がったり胴上げしたりして騒ぐ若者らをひとしきり眺めたのち、3人の作家坂上弘、尾高修也、佐藤洋二郎氏との約束の店へ行くと、他の客の話などから2−0だったことが自然に分った。

 帰宅し入浴後、深夜1時すぎにテレビをつけると、大阪の映像が映り、次々に道頓堀川に飛び込む若い男女のシーンが続いた。
 男のみならずスカートをはいた女性までいるのに驚き、更にその数計640人とかになお驚いた。

 かわって韓国のシーンになると、どこもかしこも大きな街路や広場が真っ赤で、この国はいつ共産主義国になったかと思ったほどだ。歓声も革命前夜かと思わせた。

 まさに革命だったのかもしれない。もともとさしてサッカーと縁があるとも思えなかった東洋の国が、こんなに国中熱狂し、ナショナリズムを謳歌し、かつがんらい微妙な関係だった日韓にかなりの親近感が生じている感さえあった。

 スポーツとは不思議なものだ。いい面も悪い面もあるが、今のところいい面が出ているような気がする。日韓共催は成功だったと思える。
 これを機会に両国をはじめ、アジアや世界の多くの民族や国家の間にどんどん交流が進み、異民族が違和感なく肩を組めるようになればすばらしいことである。

 とこんなことを言ってはみたものの、しかしひょっとしたらこれから決勝トーナメントの進行次第では、ナショナリズムが悪しき方向に動いて、日本ロシア戦後のモスクワみたいにあちこちで思わぬ不快な事態が起る可能性もないではないと気づき、気持はまた揺れ動いた。
 
 全く、いったいどうなっていくことやら、である。



6月9日  田植え終りぬ

 きのうは江古田で「夫馬飲み」なるものがあった。
 今年の卒業生が提唱して現役学生・OB・OGを問わず参加自由の飲み会という趣旨だったが、結果的には本年度卒業生(院生、5年生を含む)のみの会となった。

 やはり違う年度の人間はあまり交流がないだけに集まりにくいらしい。これまで現役学生間でも「たて飲み」と称して学年を問わずという飲み会を2回ほどやったことがあったが、必ずしも盛り上がらなかった経験がある。どうしても幹事をやる学年中心になってしまうものらしい。

 が、集まった諸君は就職した者は職場での新経験をおもしろおかしく語って皆の注目を集め、院生は68単位も登録し血便がでるほど勉強していると言って呆れられ、5年組はフーン、フーン、と感心したような悟ったような合の手を入れ何ごとかを語っていた。

 ぼくはいつもこの種の会は9時半ごろには引き上げるのを通例としているのだが、気が付くと11時半になっていた。つまり面白かったのである。
 それは多分、メンバーがそれぞれ立場は違え、モラトリアム時代の終焉あるいは境界線上にいることを強く自覚しているための緊張感からくるものだろう。

 思えば彼らは幼稚園あるいは保育園時代から始まって、小学校、中学校、高校、浪人時代、大学、と実に20年ほども親や大人の社会に保護・枠づけされ生きてきたのだが、それがなくなる事態に直面しているのだ。早い話、独り立ちしなければならない。

 これは大きいだろう。飽食・過保護・豊かさ・優しさ・大事件大状況の激動なし…、といった時代性の中で育ってきた若者たちにとっては、それは受験を除いて初めての荒波でもある。
 
 いま緊張して立ち、必死に周囲・社会そしておのれを見ているときなのであろう。
 その緊張感が伝わってきて、爽やかだったのである。

 書斎の窓からは、柳瀬川とその向うの田圃が見えている。
 午前中の川は光の加減で底まで透けて見え、鯉の魚影や若魚を追う川鵜のもぐりが見えたりし、田圃では2,3週間前から断続的に続いていた田植えが一通り終り、きれいな若緑色をたなびかせた水田が爽やかだ。

 私はここからの景色としては今頃が一番好きだ。秋冬の秩父の山が見えるころもいいが、青田風、青田波見ゆる、活力と涼しさが両立する今がやはり勝る気がする。
 食の基本である米がこれからまた実っていくという感覚もその背景にある。

 こちらはだんだん下り坂を感じる哀しみもあるが、だからこそ青田がいっそういい。



6月3日  秋山祐徳太子殿下御来臨

 昨日、彫刻家の秋山祐徳太子さんが我が家へおでましになった。
 ユートクさんはこのホームページでもお馴染みの人で、著書紹介欄に『美しき月曜日の人々』所収「ブリキの男爵」のモデルとして紹介してあるほか、「小説」欄の下部に「望郷の男爵」という作品の写真を使わせてもらっている。

 私はかねて彼の作品の本物をほしくて、「望郷の男爵」に似た作で顔の比率がもう少し大きいのがいい、などと勝手なことを言っておいたら、希望通りのものを作ったと言って、持ってきて下さったのだ。

 こっちは大嬉しで、紙袋からとりだされるや、リビングのボードの上に飾った。高さ44センチ、新品だけあってぴかぴか輝くブリキ製(正確には素材はトタン質)のそれは名も「バロン・フマ」と言うそうである。

 いやあ、自分の名の付いた作品を自室におけるとは実に気分がいいうえ、やや斜め気味においた男爵(バロン)は夕方の光を反射して、何とも孤高にして気品ある風情を発揮している。

 このあと、それを眺めながら男ふたり早めの一献となったが、飲みつつ殿下は「オレ、そのうち結婚しようかと思っている」とか、「このごろ若い女性がうちに押しかけてきてね」などと、ギョッとするような羨ましいことをおっしゃる。

 だって殿下は御年67歳なのだ。ほんとだとすれば、めったにあることではなかろう。ゆえに、ムムッ??という気とともに、しかし川上弘美の『センセイの鞄』みたいな話もないとはいえんしな、と腕組してみたりとなる。

 殿下はこのごろアルコール控えめの彼としては珍しく、ビール日本酒とかなりきこしめしたのち、8時頃悠然と帰られたが、ゆえに私は以降、そして今朝からずっと、光が微妙に変化して行くにつれ表情も微妙に変化する「バロン・フマ」に、やはり「ブリキの男爵」独り住まいのユートクさんを重ねて、あの言はほんとかなと考えながら眺め続けているのである。



6月1日  小説2作品を掲載

 懸案だった小説を今日、近所に住むわが覆面コーチの指導でやっとPDF(縦書き)版ともども「小説欄」に追加掲載できた。

 「神の山」(45枚、1985年「潭」発表。単行本未収録)
 「ひかり」(45枚、初出「中央公論文芸特集」1995年春号、単行本『恋の呼び出し 恋離れ』所収)

 いづれも私にとっては最も愛着の深い作の一つで、自分の神秘主義時代の記念品だと思っている。
 じっさい、思えば自分にもそういう時代があったわけだ。直接的にはインド体験、そしてその後の宗教や求道性への関心が20代末から10年くらい続いたのである。

 青春前期の左翼時代(16,7歳から約10年)も今思えば不思議なものだったが、このころの神秘主義時代もウームと腕組みしたくなる。
 このころに比べると今は私にとって「世俗時代」ということになろうか。

 が、むろんすべてが消えたわけではなく、このごろになってまた私は、ヒンドゥー教でいう四住期(アーシュラマ)の考え方に再び惹かれかけている。
 それは人生を、

  1,学生期、 2,家住期、 3,林住期、 4,遊行期 

 の4つに分けるもので、インド人たちの理想の生き方とされるものだ。
 私もぼつぼつ家住期(世俗時代)を脱して、森の中で緑とともに静かに瞑想的生活を送りたいとどこかで考え出しているというわけだが、まあ、当分は無理でしょうね。

 上の2作、出来も悪くないと、今読み返しても確信がある。それなのに、ろくに人の目に触れないのが、長年残念至極であった。