風人日記 第3章 
秋です9月9日〜11月30日


さくら南斎   城所昌夫

(この絵は1977年9月娘誕生の日の小生の写真を元に描かれた。
城所画伯は拙作『美しき月曜日の人々』所収「秋茄子」のモデル)






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。
              

11月28日  酒と温泉の日々、そしてインドを思う

 この24,25日箱根湯本温泉へいってきた。
 同行は小説家、文芸評論家、編集者、新聞記者(文化部)など文学関係者13人にプラス新宿の文壇バーのママの計14人。毎年この時期行っている恒例の温泉飲み会である。

 去年は私が幹事だったので、準備にも当日にも気を使ってあまり楽しめない感もあったが、今年は新聞記者のUさんが幹事だったので、最初からリラックスムードで行けた。

 会は例によって午後の列車に乗った直後から早くも缶ビールやつまみがまわり、以降現地のホテルに着くとまたすぐビール、温泉に入ってまたビール、夜は宴会模様となり(ただし、他のグループと違ってカラオケなど誰も興味がないので、皆でお喋りしては呑むだけ)、終了後また風呂に入り、さらに一室に集まってまたえんえんと酒とお喋り。

 話題は文学関係や編集関係の誰彼のことやら、文芸誌や文学界の動向あれこれ。何しろ情報や付き合いには長けた人が多いから、まあ喋るは喋るは。よくまあ飽きない、そして飲み続けられると思うほど喋り呑みつづける。

 私は3日前別の会でちょっと飲み過ぎ、胃腸の調子がやっと回復したところだったのと、かねがね検査のたび尿酸値だのコレステロール、血糖値などいろんな数値が高く、医者から酒量制限(ビールなら350cc、日本酒なら1合、ウイスキーなら水割り1−2杯だそうだ)を受けている身だ。むろん、あまり厳密に守ってなぞいないが、それやこれやでさすがにそんなには呑む気になれないというか、じっさい一定量以上は呑んでもあまりうまく感じないのである。

 で、話は面白いものの煙草の煙で目がチラチラしてきたせいもあり、12時45分には小説家のSさんとふたりでひきあげて露天風呂に入り、寝についたが、翌朝また風呂に入ったあとの朝食の際の話では、他のメンバーは2時過ぎまで呑んだとか、いや女性軍はそのあと4時まで呑んだとかいうのであった。

 その話の間も隣では評論家のKさんがビールを3本も呑みつづけ、10時にチェックアウトし麓の湯本の街に降りたあとも、お茶で小休止のあとまたしても川っぷちのそば屋に入って呑み始め、2時頃やっとでて列車に乗るやまた缶ビールを呑みつづけるのであった。

 私は朝食の際はビールをコップに一杯だけにしたが、午はそば屋が好きなせいもあってお銚子2本ほど、列車内では缶ビール1本に缶チューハイ1本である。むろん制限量なぞとっくに越え、胃腸の具合もいい加減麻痺している。

 その列車内で面白い、というか私にとってはひどく気になる話を聞いた。
 話してくれたのは最近作家交流でインドへ行って来た女性小説家のNさんで、カルカッタの日本領事館で聞いた話では、このごろ毎月3件ほどは日本人旅行者などを引き取ったりする、引き取る中には死者もいる、という内容だ。
 
 しかも、それらの日本人はたいてい40代か50代の、青年期以来、長年にわたって日本とインドを行ったり来たりしているバックパッカーで、宿に支払いをきちんと済ませたあと、きちんと整えたザックを預けて出ていったきり帰ってこない、そしてやがてガンジスの支流であるフグリー河とか鉄道などで死体として発見されたりする。
 荷物をあけてみるとパスポートとか日記、遺書などがきちんとそろっている、というのである。

 私はウーンと唸ってしまった。
 よく分るのである。
 かつて、私の周りにも日本とインドを行ったり来たりでもう10年、などという人がかなりいたのだ。

 当時は彼らをヒッピーと呼び、日本山妙法寺の僧たちは「遊行青年」なぞと呼んでくれたりもしていたが、要するに定職なし、市民生活からは離脱し、たいてい独身かそれに近い状態で、日本で少し働いて金が出来ると物価が10分の1程度のインドへ行って金がなくなるまで茫々と過ごし、また日本へ戻って稼いでまた出かけるという生き方である。

 ドロップ・アウトの魅力、インドの魔力のなせるわざともいえ、私なぞ半ばは分るだけに、そしてひょっとしたらかつての仲間かその影響を受けた後輩たちではないかと思うだけに、実に複雑な気分だった。

 私はその話のあとはずっとそのことを考えつづけ、長年何となく忌避してきたインド行をぼつぼつしてみる時期かなとふと思いかけた。
 私はこれまで3回インドへ行き、うち1回は死にかけ、1回は1ヶ月ぐらい下痢をし続けた経験のせいと、インドは好きだがインド人は好きでない、という理由のせいで、37歳以降インドへ行っていないのである。

 だが、それからももう20年以上になる。
 青年時代最も影響を受けた放浪行から数えるとはや丸30年である。
 これまでパートナーが「行ってみようよ、行ってみようよ」と言うたび、生返事をし続けてきたが、今のインドとそこに旅する日本人たちを見てみたくなってきた。



11月23日  驚くべきこと

 きのう、大学でゼミの授業中に唖然とすることが起った。
 90分の授業の半分ほどたったところで、突然一人の女子学生が立って鞄を持って出ていこうとしたのである。

 板書中だった私が驚いて見つめていると、すでにコートも着ている彼女はさすがにばつ悪げかつ申し訳なさそうに、もじもじしながらドアを半開きにし、「あのう、ナントカをどうしてもしなければならないので、えー、そのう…」などと半ば聞き取れない声でぼそぼそ照れ笑いしつつ言い、こそこそっと出ていってしまった。

 その子はいつも礼儀正しい子だし、課題なぞも律儀にやる子だったから、まあ何か事情があるのだろうとこちらも少し笑いつつ、しかし「分った」とは言わず黙認する形で見送った。

 そして10分後くらいだったか、今度は別の女子学生がまたコートと鞄を持ってすたすたとドアに向って歩き出した。前の子と違って恥じらう風情も全くなく、ニコニコというか平然と明るく笑顔を浮べ、呆気にとられている私に向って「あ、ちょっと次のレポートを書きますので」みたいなことを言って、「すみません」とも言わずさっさと出ていってしまった。

 さすがに何か言おうとちょっと思いをいたしかけたところへ、今度はほとんど間髪を入れず、また別の女子学生がさっと席を立ってドアに向い始め、私に向って明るい笑顔で「あのトイレえ」と言ったのである。
 「小学生みたいだな。センセ、おしっこ、か」と言うと、「エヘヘ」という答でそのまま私の返事も待たず出ていった。

 私はなんだか毒気を抜かれたような気分になって、しばらく首をひねり、かえって笑ってしまった。
 しかし笑いながら何か胸におりが残り、学校からの帰途も、夜、床の中でもふとそのことが浮んで来、あれはいったい何だったのかと気になった。

 場所は12,3人のゼミで、大教室の後ろの方でこっそり起った事態でもなければ、ドアが遠いわけでもなく、私の横を通っての前にあるのだ。
 ゼミは1年の時からよく知っているメンバーも多く、確かに日頃からかなり和やか、あるいはざっくばらんと言っていい雰囲気でやってきているが、別にルーズにしていることはなく、私が特に甘い教師でもないと思う。

 ゼミ誌の編集がどうにか終り、ちょっとホッとした気分の時ではあったが、この日の授業も熱心な学生もかなりおり、全員の俳句作品の講評をしている際だったのだ。
 しかも出ていった学生は一番目は律儀派、2番目はゼミ誌の編集委員もかなり熱心にやった子、3番目のおしっこ子はクラスで最も熱心、文章も俳句も好きな子なのである。

 ほんとにいったい何だったのだろう。
 私はそれほどなめられているのだろうか。
 念のため言っておけば、さすがに今までこれほどの―3人もが、しかも事前に、あるいはその場ででもちゃんと許可を求めることなくこういうことをした経験は、大学で教えるようになって以来11年間ないのである。

 私はこれを書いている今も未だ答を見いだせないし、いっそ単位を落してやるかと腹立つ気分もある一方、彼らを懲罰に付すべきかどうかも考えあぐねている。
 どう考えるべきか、皆さんから意見を聞きたいぐらいである。



11月18日  紅葉がきれい

 このところイラク問題や拉致問題の推移に気が向きがちだったが、この間に紅葉が一気に美しくなった。
 私の住むニュータウンも、銀杏、欅、花水木、桜、などを始め、錦秋とまではいかぬにしろ一面の色模様である。

 図書館前の「マロニエ通り」など栃が大きな葉をレンガ色に彩り、日頃は栃なのにマロニエなどと気恥ずかしいと感じていた通りの名称も、確かにちょっとパリみたいだよなと許す気になる。
 そして昔パリで天ぷら学生(衣ばかりで中身がない意)をしていた23,4歳のころ、バイトで日本人観光客相手にガイド中、街路樹を指し「どれがマロニエか」と聞かれて、即答できず困ったことを思い出した。

 鈴懸とプラタナス(フランス名プラタン)、マロニエなどの同一、区別がちゃんとついていなかったのだ。
 私は少年時代から比較的植物は好きな方だったのに、それでも若いころは名なぞろくに知らなかったのである。

 が、歳を経るにつれだんだん木や草の名も覚えて来、このごろは散歩をしていてもだいたい見当がつくし、朝日新聞夕刊に連載されている「花おりおり」を見ていても半分くらいは知っている。
 連句をやっていて歳時記に親しんできたせいもあるだろう。

 その連句、このホームページで4月に始めたオンライン歌仙が、いよいよ大詰めに近づいてきた。
 質の高い常連連衆もできたし、毎日投句を見るのが楽しみだ。
 時々は覗いて、自分もやってみたいな、などと思いつつ後込みしていた方々、早めに決断しないと乗り遅れますよ。



11月14日  生きていたか“恋しきビン・ラディン”
 
 昨日今日の報道によれば、どうやらオサマ・ビンラディンが生きていたらしい。
 アル・ジャジーラに届いたという録音テープの一部を私もテレビで聞いたが、明らかに彼の声と思えた。やや弱々しかったが、あの低めの、いくぶん粘着力のある、いささかゲイ的気配の声調は、懐かしいものだった。

 まことに慶賀の至りである。
 というのは、かねてこの風人日記で連載されていた大和女(やまとめ)ぱそこ氏による「恋しきビン・ラディン様」にもしばしば書かれていたように、彼の存在はアフガン爆撃と無辜の民殺害の理由には何らならないばかりか、百歩譲って彼ゆえにアフガン攻撃がなされたとして、しからば彼を逮捕も殺害もできなかったアメリカのあの作戦とはいったい何だったのかを、はっきり浮き上がらせるからだ。

 じっさい、目的も達成せず、人ばかり殺し、そのことにはほおかぶりしつづけ、他人の国の政権までを勝手に捏造し、そして何の責任もとろうとしない態度はまことにもって救いがたい。
 まさに無能、無責任そのものというべきであろう。

 加えてイラク爆撃とは、アフガンでの失敗・強引さを隠し、世界の目をアフガンからそらせるためでもあろう。ビン・ラディンとサダム・フセインが関係があるのかどうかは未だ明らかな証拠は何もないし、第一今度こそビン・ラディンがイラクになぞいないことはまったく明白ではないか。

 にもかかわらず、しかも世界の多くと国内に多数の反対者を抱えながら、なにゆえアメリカ、というよりブッシュ政権は更なる戦争を起そうというのだろう?

 背景は石油問題だという説、アメリカ国内、特に国防省内に強力なネオ・コンサバ派が形成され、軍内部にいくつかの秘密部隊が存在するばかりか、最近では「先制攻撃グループ(略称P2OG)」なるものまで作られつつある、というロスアンジェルスタイムスなどの報道が気になる次第だ。

 まだ真偽のほどは定かでないが、一部には最近のいくつかのテロはこれらアメリカの関与、あるいは少なくともアメリカが知っていてやらせた、その上でテロを口実に戦争を仕掛けるため、という考えも情報もあるという。
 
 事実とすれば怖ろしいことだし、信じたくないが、しかしかつてアメリカにはCIAなどが中南米やアフリカでいくつかの謀略活動をし、政権を転覆させたりした前歴がある。
 あまり善意優先やお人好しにばかりはしていられないのである。世の中には戦争や、殺戮、ゲーム、を大好きな連中もいることは認識しておかねばならない。
 
 ああ、それにしてもビン・ラディンへのラブレターのつづきは書かれるべきか否か。
 さあ、ぱそこさん、どうする?
 


11月11日  “籠抜けおっちゃん”と鵜の権利

 今年は立冬前から寒かったが、最近はまたひとしお寒い。埼玉の熊谷界隈では一昨日わずかだが霙が降ったという。

 その中で下の川原のおっちゃん(ホームレス)がしばらく姿を消していた。もう71歳だからいよいよ今年の寒さには耐えられず、どこかへ転がり込んだか、してみると俗世から籠抜けした身が家なき世界からも再び籠抜けか、いやいやそれよりひょっとしてどこぞで、あの世へでも籠抜けしたか、なぞと気になっていた。

 が、2,3日前からまた茣蓙やちょっとした小物なぞが前の場所に現れたから、さては戻ってきたのか、とよかったというべきか、しかし結局行き場もなかったのか、と微妙な気分でいたら、今朝誰かが留守中の彼のテリトリーをうろうろしている。

 というより、紺のジャンパーに白手袋姿で、茣蓙をひっくり返してみたりあれこれ点検調査の様子で、どうやら県の河川事務所か、あるいはどこかの役所関係らしい。
 追い立ての準備かそれとも別種の対策か、と14階から目をこらしたが、むろん事情はすぐは分らない。
 
 男はまもなく引き揚げた。おっちゃんはどうなるのだろう。

 ひとりで唇をへの字に結び川を見ていると、鵜が飛んできて、水に潜った。
 長い首をまっすぐ伸ばし、スススと実にうまく素早く水中を進み、2度3度の反復ののちやがて体長10センチほどの若魚をくわえて水上に顔と首を掲げた。

 上から見ていると、それらが面白いほど一部始終よく見えるのである。
 そしていつも思う。むむむ、また可愛い若魚たちを食べおったか、いったい彼らは1羽で毎日何匹くらい食べるのか、鵜は私の知る限り4羽はいるから、月にしたら膨大な量の魚を食べるのではないか、けしからん、しかれども彼らにとっては生存の当然の行為として食べているだけで、非難する根拠なぞ何もない、むむむ…、なぞと堂々巡りしつつ。

 そうして行き着くのは人間こそいったい何をどれだけ食べているのか、毎日そのために何頭の牛が殺され、何羽の鶏が生涯歩くことも許されぬまま卵をさらわれたりブロイラーにされたりしているのか、挙句、不要品・食べ残しとしてどれほどの量が捨てられているのか、といったことどもだ。

 川原のおっちゃんはそれらのことに関し最も罪の度合の少ない人であり、鵜は必要以上に魚を殺したりしない。
 うむ、オレはいったい何なのだ、とゆうべ久々にやってきた娘と食べた、うまかった魚鍋の味なぞを思い出しながら考えたが、むろん何も結論なぞ出ない。矛盾の固まりだ。
 


11月4日  芸祭

 昨日曜日は学校へ行った。すでに2日からわが日芸の学園祭「芸術祭」―通称芸祭が始まっているからだ。
 「大学あれこれ」欄にも書いたが、芸術8学科(写真・映画・放送・演劇・文芸・美術・デザイン・音楽)のそろった総合芸術大学だから、それぞれの学生が自作の作品を多く展示・上演・上映したりで、他大学にはないユニークさがある。

 バクの会のダンス、歌舞伎研の学生歌舞伎、OBOG出演の多いバンドやトークのゲスト公演、それに留学生が多いので彼らによる韓国や台湾などの食べ物屋台が、毎年楽しみだ。
 私は韓国のちぢみや台湾のチャータンをつまみにビールを飲みつつ、バクの会の若さが躍動するダンスを見るのが例年の定番である。

 また、1時から4時までは図書館で高校生や予備校生諸君・その父母らを対象に進学相談会も担当した。
 これもセーラー服姿の女子高生ら(どういう訳か男は少ない)に、目を見張って一語漏らさずという感じで2次試験の要諦をメモされたり、と思うと、こちらが何か言うたび「うん」とうなづいて頂いたり、逆に自分で何か言うたび「うん」とうなづいたり、あるいは「あたし、このごろ書けなくってー、ちょっと行き詰まってるんですよお」などと妙に馴れ馴れしく言う子がいたりで、結構面白い。

 ついクスクス笑っていたら、相手が最後に立ちざま「何がおかしいんですか」と言うので、一瞬困って「いや、可愛いなあと思って」と答えたら、にっこり笑って丁寧に最敬礼して立ち去ってくれた。

 その進学相談会を終えて戻ってくると、外は意外に寒く、待ちかまえていた院生らとしばらく研究室で呑むことになった。おかげでお目当てのバクの会は見はぐれたが、そのあと6時前からは外に場を移して、通りがかりやケータイでの呼び集めにだんだん集まってきた院生から他学科生まで何人かで呑みつづけた。

 が、毎年そうだが、日没後はどんどん冷える。おまけに酒は燗酒なぞなく、冷たいビールばかりだからすぐトイレに行きたくなる。
 などで、老骨は体の芯が冷えて来、喉がちょっと引っかかり気味になってきたので、まもなく先に失礼した。

 若い諸君はまだ動く気配もなく呑んでいたから、きっと門が閉まるころまでいて、さらに2次会へ流れたに違いない。古く、こぢんまりした文教地区(大学が3つある)であり、かつ昔風の市場まである江古田界隈には、学生向きの安く手頃な居酒屋も多いのである。
 
 家賃など物価も安く、卒業後も界隈に住み続けるOBOGも少なくないし、また遠くからわざわざ駆けつけてくる諸君らもいて、この日も校内で何人もの卒業生に出会った。
 これも楽しみの一つである。



10月28日(2)  報道とは?

 昨日今日と、報道とはいったい何か、と考えざるを得ない事態が相次いだ。

 一つはモスクワでの劇場立てこもり事件の結果である。
 この事件は報道によれば「チェチェン人側が人質を殺し始めたため、特殊部隊が突入」したとされ、当初は「人質の死者は67人、ほかに心臓病による死者もある模様」などと伝えられたが、だんだん明らかになってきた結果は(日本時間28日朝現在)、「人質の死者118人、殆どが外傷はなし。チェチェン人側は50人ほどの大半が頭を打ち抜かれて死亡」である。

 これはいったい何を意味するのか。
 要するに死者の殆どは毒ガスによるものであり、チェチェン人側は人質殺害も抵抗もまったく出来ないままほぼ意識不明状態で、一人づつ間近から頭を打ち抜かれて殺されたということであろう。
 
 ガスマスクをかぶっていたという突入部隊側からは一人の死傷者も伝えられていない。
 最初起ったという2度の爆発音も、特殊部隊がガスを流し込むため床を爆破した音だったという。

 そして一番問題なのは、当初から今(!)に至るまで厳しい報道管制がしかれ、ほとんど政府側発表に従っていたらしいことである。
 まったく大本営発表と同じだ。
 
 ロシアは自由化民主化されたというのは錯覚なのかもしれない。考えてみれば現ロシア指導層の大半は旧ソ連体制下の幹部そのものであり、プーチンにいたってはKGBのリーダーなのだ。

 問題なのはロシアの報道だけではなく、それを伝える日本の報道も新聞・テレビとも「犯人側が人質を殺し始めたため」などと、そのまま断定調で言っていることである。
 ここは少なくとも「政府発表によれば」とか、一言付けるべきではないのか。
 無批判にロシア政府発表を鵜呑みするとは、驚くべき不見識、偏りぶりである。

 また、もう一つはアメリカのことで、知人の作家宮内勝典さんがニューヨークから得た情報によれば、首都ワシントンでは26日(土)10万人以上の「イラクへの戦争抗議」デモが行われ、ホワイトハウスをデモ隊がぐるりと取り囲んだにもかかわらず、アメリカの報道機関はアメリカ時間26日夜になってもほとんどこれを報道していないという。わずかに報道した機関はデモ隊数千人と伝えたそうだ。
 
 私もこのデモの写真をインターネット上で見てみたが、1,2の写真だけではむろんデモ人員の正確な数は分らない。
 が、かなりの人数が行動に立上がったのは事実であり、この時期にそういう事実があることは広く世界に伝えるべきことではなかろうか。

 アメリカにおいても、特に去年の9.11以後、ある種の報道統制が有形無形になされているのは、確実であろう。
 残念なのは報道機関自体に自主規制の様子が見られることだ。

 さらにもう一つ、日本でも、25日フジテレビや朝日新聞、毎日新聞が合同で北朝鮮において行った、横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんにしたインタビュー問題がある。

 これはフジテレビでの長時間にわたるインタビュー内容を私も見ていたが、彼女は可愛い子ではあるが、過剰に涙を流しすぎたり、たぶんに演技的要素があると感じた。
 
 家族その他からの反応にあるとおり、15歳の彼女が一人で外国メディアのインタビューに自由意志で応じたとは思えず、どう答えるべきかの教唆指導は当然あったと考えるのが妥当だし、それは簡単に予測できることだから、マスコミはうかつ・無配慮にインタビューをしたり、報道すべきではないと言えよう。

 このインタビュー問題はロシア・アメリカの場合と違って、うかつに報道を垂れ流すな、という側面もあるから、問題は一層複雑なのだが、はっきり言えることは、報道を受ける側―つまり我々は報道内容をうかつに信じてはならない、あれは多分に嘘も、誰か、特に権力者の情報操作も含まれているものと、こころすべきという一点である。

 世の中には嘘つきも多いし、不正も多い。日本は平和そうに、公平そうに見えても、平和ぼけした中に欺瞞はいっぱいある。
 


10月28日(1)  感謝

 10月10日付でここにペンクラブ発行『21人のプリズン』のことを書いたところ、早速常連読者の山本掌さん(オンライン連句の参加者でもある)から群馬・渋川市の本屋さん「正林堂」に話していただき、店内には「店長おすすめコーナー」まで作って置いていただいているそうです。

 山本掌さん、そして正林堂の星野上さん、本当に有難う。
 正林堂はHPもあるというので早速拝見したところ、ただ本の販売・商売というだけではなく、いろんな企画を立てておられ、群馬県にかかわる多くの知的情報もあって、感心しました。
 HPアドレスは以下です。よろしかったら御覧になってみて下さい。
 http://www2.freejpn.com/~az1156/
 こういう形で、ペンクラブの獄中作家救援活動という、あまり知られていない運動が東京・京都のみならず地方にも知られていくのは、それだけで嬉しいことです。
 また、ネットの有効性も改めて感じました(山本掌さん自体、そもそもこのHP上で知り合った方です)。

 お礼かたがたお知らせまで。



10月26日  テロ相次ぐ

 このところ、バリ島のディスコ爆破、アメリカ・ワシントンでの無差別狙撃、モスクワの劇場占拠監禁、そしてこれはテロと言えるかどうかはっきりしないが民主党の石井代議士刺殺、とまったく血なまぐさい事件が相次いでいる。

 日本の事件を除いてはどれもアルカイダがらみのようにも報じられているが(スナイパー事件もアルカイダに共鳴してという背景説がある)、どれもそれぞれ直接の事情はずいぶんちがう。
 
 バリ島事件はまだイスラム関係かどうかさえはっきりしないし、仮にイスラム原理主義が背景にあるとしても、それは同時にインドネシア国家を拡大しようとする大インドネシア主義と結びついてのものと思える。
 インドネシアをジャワ・スマトラからボルネオ全体、ニューギニア、マレーシア、フィリピンの一部までに広げようとする発想は、今回のイスラム主義以前にもかつての東ティモールへのインドネシア軍の侵攻・統治に現れていた。

 モスクワの劇場事件はむろん長年のチェチェン人の戦いの延長であり、チェチェンの元大統領(実質的にロシアに追放された)らの承認のもと、チェンチェン軍の司令官に率いられたいわば対ロシアへの民族総力戦とも言える。

 参加者の半分が夫をロシア軍に殺されたチェチェン人の妻たちとなれば、彼女らが腹に爆薬をまいて自爆覚悟で踏み切った行動は、パレスチナ人たちによる「自爆攻撃」(日本では「自爆テロ」と呼んでいるが、外国での報道は大半が「suicide bombing」であってテロとはしていない)と同じで単純にテロとは呼べまい。
 
 ましてやチェンチェンの場合、かつてスターリンソ連時代には、多数のチェチェン人が国を追われて強制的に歩かされ、カザフスタンに連行・移住させられたという過去まである(私はむかし岩波ホールでそれに関する映画を見たことがある)。いわばソ連による大量拉致である。

 となれば、それらの怨念を背景にチェチェン人がソ連解体後独立を図ろうとしたのも当然だし、彼らはもともとトルコ系人種であり、宗教も言語も歴史もロシアとはまるで違うのである。
 それをロシアはずっと弾圧しつづけ、ロシアの意に染まぬ政権は武力で追放してきた。

 非武装の、直接の関係があるか否かはっきりしない人々を標的にするのは、いいとはとても言えないが、しかし一方で、私は(バリの場合はひとまずおいて)モスクワの場合は、ロシア人一般に責任がないとは言えないとも感じている。
 
 チェチェンへの最強硬派、もとKGB出身のプーチンを70パーセント以上の熱烈支持率で大統領に選んできたのはロシア人たち自身だからだ。
 
 よく女子供はかわいそうとか責任がないとかいうが、これも私はすべてそうとは思わない。
 15歳以下ぐらいの子供は確かにそうだが、それ以上の年齢なら男であれ女であれ、一定の責任はあろうという気がする。女にも強硬な自民族主義者や武力侵攻肯定派はかなりいるのではないか。プーチンに「きゃあー、素敵」とか言った女たちは多かったはずだ。

 アメリカのスナイパー事件と日本の刺客事件に関しては、また別種の思いが生じる。
 それは人間というものは怨念とか、おのれの不遇とかをどう扱うべきか、なかなかいい解決方法を見いだせないものだということである。

 両事件の詳細は未だ不明だから、これ以上は何も言えないが、人間および人間社会というものは難しいものだと改めて感じる。

 モスクワの事件に関しては、私はチェチェンの独立を強く望む。



10月22日  やや寒や窓から見ゆる山の腰

 これは私のではなく、松根東洋城の句である。
 今朝起きて書斎に入ると、北側のせいもあるが少し寒かった。で、今期初の暖房を入れ、さて、とゆっくり窓外を見たら、秩父の山々がずいぶん下の方まで見えたので、思い出したのである。

 やや寒は、朝寒、夜寒、うそ寒、そぞろ寒、肌寒、などと並ぶ晩秋の季語で、私の好きな季語の一つである。この季語を使って私も作句したことがある。

  やや寒の時宗(じしゅう)の寺で人を待ち    南斎

 師匠筋にあたる文芸評論家佐々木基一さんがまだ生きておられたころ、連句をしながら時宗の寺の話をされたことがある。佐々木さんは長年かなり厳格な左翼でありながら、晩年は一遍上人が好きで、上人の図を趣味の絵に描かれたりするほどだった。
 
 時宗はその一遍が立てた宗派で、がんらい遊行をこととした彼は定着型の寺の建立には熱心でなかったせいもあり、数少ない時宗の寺はどれも小ぶりで、質素で、ひっそりと、どこか寂しい。

 浄土教を好きな私は時宗も好きで、旅とかちょっと出かけた折なぞに見つけると寄ってみることにしていたので、雰囲気はよく知っていた。福島県いわき市の田舎で「じゃんがら踊り」(踊り念仏)を見たときも、鉦や太鼓があるにもかかわらずどこか寂しみを感じた。

 それで、そんな雰囲気を想い浮べながら、その場で連句の中の一句として作ったのが上の句だ。
 自分でも気に入って、その後いまに至るまで秋今頃になるとたいてい思い、時には授業で学生に紹介したりさえしている。

 若き日の旅の時代のことも思い出したり、仏教に惹かれていろんな宗派のことを調べたりしたことも思い出す。
 けっきょく私が一番惹かれたのは禅と浄土真宗だったが。

 寒くなってきた。
 眼下の川原の「おっちゃん」(元大工のホームレス)のことが気になる。先だっての大雨による増水で、彼の敷地にあった小さな自生の桑の木が流されて以降、いっとき姿が見えなかったのが、ようやっと戻ってきたらしいところなのだ。
 
 きのうも一日雨であった。



10月18日  色々一段落、それにしても北朝鮮は…

 学校の後期授業開始に伴うもろもろ、それに非公開の面倒な作業、そしてペンクラブの催し、NHKブックレビュー等と、この間は夏休みの反動もあってずいぶん忙しかったのだが、今日あたりで一段落するはずである。

 尤もきのう学校で、交換教授で北京へ行っていた企画広報委員長・野田教授が帰国しざま、「さあ、これから企画委員会は忙しくなりますよう」と嬉しそうに言っていたから、副委員長たる身はまたこき使われるのかもしれない。
 宮仕えはつらいものだ。

 それにしても昨日の発表では、北朝鮮は核開発をつづけていたとか。内緒で1,2発分の濃縮ウランだかプルトニウムはありそうというから、怖ろしいことだ。
 率直に言ってあの○○○○国家、○○○金正日、何かの都合でテポドンに載せた核でも発射してくれたら、たまったものではない。

 ブッシュらの言うことがまんざら間違いでもない、いっそ徹底的に懲らしめた方がいいかもしれない、といった気がふとしてきてしまうところがまた怖い。

 そしてまた、帰国拉致5人がだんだん変っていって、いつ、どんなことを言うか、今後どうするかが、一人一人の事情と個性に応じて違いそうで、その推移が小説を読むよりはるかに面白い。
 本当に誰が最初に思いきったことを言い出すかを顔を見ながら考えると、地村さんか、曽我さんか、あるいはひょっとしたら蓮池さんが一番がらりと変身しそうに思えたりで、興味が尽きない。
 
 不謹慎なようだが、人間観察のいい機会かもしれない。
 まったく、人間とはいったいどういうものなのだろう?



10月14日  小説欄、久々に3作(新作を含む)をアップ

 長らく新作欄が空白のままだったので、そこへ下に書いた「イン・プリズン」をアップすることにした。
 旧作も前回につづいて「螢」(『恋の呼び出し 恋離れ』所収)と「秋茄子」(『美しき月曜日の人々』所収)を増やした。

 「螢」はかなりエロチックな、「秋茄子」は我が所有の絵にまつわる静かな話、である。どちらも自分で好きな作で、これで旧作6編、だんだん自撰短編集の形が出来つつある気がする。
 オンラインでは読みづらいという方は、プリントアウトして読んで下さればと思います。

 なお、今回から目次から直接「縦書き版」へいくリンクもつけました。活用して下さい。


10月10日  『21人のプリズン』(日本ペンクラブWiP委員会刊)のこと

 このところ書いているペンクラブ京都フォーラムに際し、私たちはちょっとした本を作った。
 当初会場で配る一種のサービス品として企画したもので、「IN PRISON」を主題にしたショートショート集だが、編集委員も参加者も予想外に熱を込めていったので、だんだん内容も体裁も拡充し、ついにWiP委員のほぼ全員に加え、ペン副会長の加賀乙彦さんや当日出演者の阿刀田高さんらを含む21人が参加した。
 
 内容も小説に加え、詩あり、エッセイあり、インタビューあり、と多彩になり、94ページのちゃんとした装幀のものになった。単行本というにはちょっと薄手、そしてやや雑誌ふうでもあるが、大半がれっきとしたプロの物書きである上、純文学作家からエンターテインメント作家、評論家、詩人、ジャーナリストらといろんなジャンルの人がクロスオーバーしているユニークなものになった。

 小説では阿刀田高、小嵐九八郎、今野敏、山田英幾らがなかなかの作を書いているほか、文芸評論家の川村湊が初の小説に挑戦し、無惨に失敗していたり、題材も王朝時代から幕末の志士たちのこと、更にはSF仕立てまでと実に幅広く、牢、監獄、プリズンが手を変え品を変え並んでいる。
 その他の登場者は鷺沢萠、藤井省三、宮崎緑、西木正明、芝生瑞和、森詠、太田代志朗菊池道人ら。

 むろん私も書いている。「イン・プリズン」15枚、今年亡くなった小説家の古山高麗雄さんと私自身のことを書いた私小説である。短いから少々端折った部分もあるが、かなり力を入れて書いたもので、まんざら悪くない出来ではと思っている。

 会場でも好評であり、協賛してくれた京都市内の書店でもけっこう売れたようだ。
 で、この本を折角だから東京など他の場所でも売ろうかということになった。置いてもらえる書店を探している最中だが(可能な書店を御存知の方はお知らせ下さい)、ペンクラブでも直販します。
 
 1冊頒価500円、送料200円。10部以上なら送料はペン負担です。皆さん、よかったら買ってやって下さい。
宛先は、社団法人 日本ペンクラブ  ・103-0026 東京都中央区日本橋兜町20-3
問い合わせは:TEL 03-5614-5391  FAX 03-5695-7686  
e-mail:secretariat02@japanpen.or.jp

 以上です。どうかよろしく。
 

10月8日  ペンクラブ京都フォーラムから帰る

 下のお知らせでも書いたペンクラブの催しのため土曜から2泊3日で行っていた京都から、昨日夜帰った。土曜日が午後2時から東山「洛翠」(京都3仙堂の一つといわれる画仙堂がある庭園)でのペンクラブ例会、そして翌6日日曜が京都美術館横にある京都会館での「WiP(ライターズ・イン・プリズン)の日」集会である。

 この日のため我が獄中作家委員会は半年以上にわたって準備をしてきたのだが、当日は午前10時からリハーサルをし、インドネシアの詩人の詩の朗読を担当した私は、やれ解説が長すぎる、大学の授業じゃないんだから、マイクにもっと近づいて、体は客席に向ってまっすぐ、顔は少し横向きに、などと何人もからあれこれ叱られ、楽屋で原稿を大幅削除したり、だんだん緊張させられた。

 が、午後開場すると共に、一番心配していたお客さんの入りは上々で、開演前にはかなり広い900席の会場がほぼ9割埋まり、出演者の著書をおいたロビーなぞも人で賑わった。
 
 そういう会場でやがて3時過ぎ、鼎談のあと暗転した中、私は舞台上手に立った。自分だけにスポットを当てられるとさすがに緊張するが、同時になんだか急にそれまでの時間とは切り離されるような感もあり、こちらからは殆ど客席が見えないせいもあって、一種別世界へひとり行ったみたいでもある。

 そして、案外落着いているなと思いながら、私は解説はマイクからやや離れ気味に、詩になりここぞと思うところではマイクに口を寄せグッと声を高めたりと、あれ、オレ結構やるじゃない、と自分でも思うほど割合うまくやった(らしい)。

 読んだ詩はインドネシアの詩人グナワン・モハマッドの次のような詩である。


             ザグレブ ──シャナナ・グスマオに捧ぐ──

                                        グナワン・モハマッド(1941〜)
                                                  森山幹弘 訳

 その婦人はやってきた、一つの包みを下げて、遠くザグレブからやって来た。
 その婦人はやってきた、一つの包みを下げて、その中には頭が入っていた、そして
 取り調べをする出入国管理の係官に向かって言った。
 「これは私の子供です」と。

 その声は
 国境の役所のベランダで痛々しかった。
 人びとは振り向いた。
 陽が不安に光る。

 机の上の時計はまるで
 夕焼けが、夕焼けさえもが、
 もはや彼らを置き去りに出来ないことを暗示しているかのようだった。

 そしてその婦人は身をのりだした、彼女は
 その包みの中身を見せ、そして話し始めた。

 「七人の兵隊が病院のベッドからこの子を引きずり下ろしました、
  七人の兵隊がこの子を森のはずれに連れていって殺したんです、
  七人の敵が一人の首を刎ねたんです、その頭は転がって転がって
  その血だらけの口が草むらの間で一握りの砂を噛んだあと、
  やっと止まって、その場で動かなくなりました。

 「その痛みが今ここに包まれているのです、遺体を包む布の切れはしで。
 歳は二一歳になったばかりでした。顔を見てやってください。整った顔だちの子でした」

 刈りそろえられたプラタナスの木が、
 まるで幾年も幾年も、平原に、立ちつくす古代の像のように、
 群生している。闇が黙り始める、
 一様になり始める
 そして遠くに町が、見えるようだ。光の飾り文字、
 地平線上の光のいたずら描き、
 まるでアルファベットのように見える、
 不吉な言葉に読める

 我々に自由を与えてくれるものなどない、ような気がする。
 その係官さえも座り込んだまま、子供たちの夢を見ている、
 肩に落ちた初めてのサクランボのことを語る輩。
 彼らはもういない、とつぶやく、もういない、と。

 ただ神の名を叫ぶものがいる気配だ、左の壁の風穴を通って、
 土砂降りの雨の音の中へ、死を叫び、悪魔を呪う、そして
 かすかに聞こえてくる祈りのような
 雨にうたれる葉っぱの音、
 痛み、痕跡のなかの一つの祈り。

 これから我々はどうしようというのだ?

 その婦人、彼女は、ザグレブから、持ってきた頭を再び包む、
 そして通りへ足を踏み出す。
 送っていこうというものは誰もいない。
 そこでは、遠くの地平線では、方角は失われ、金星は消える。
 星はたぶん壊れただけなのだろう、東で、どこか東の方で、
 滅びたのだ。

 でもたぶん彼女は次の町の名前を知っている。

                                       (『サラエボにあるがごとく』1998)
            
 タイトルのザグレブおよび書名のサラエボは紛争と虐殺のあった旧ユーゴスラビアの地名である。
 シャナナ・グスマオは、今年独立した東ティモールの初代大統領に選出された独立運動指導者で、元来は新聞記者兼詩人である。1992年インドネシア政府に逮捕され、禁固20年の刑を受け、1999年まで7年間獄中にいた。
 作者のグナワン・モハマッドはインドネシア人の詩人兼ジャーナリストで、『テンポ』という雑誌を創刊、編集長として27年間スハルト体制に抵抗する論陣を張り続けた人である。詩人としては4冊の詩集があり、その一つが『あたかもサラエボにあるがごとく』で、「ザグレブ」はその中の1篇だ。

 つまり、ザグレブは東ティモールの名さえ出せない状況下で、仮託されて使われたものであり、むろん東ティモールのことだ。
 詩の最後の方の「東で、どこか東の方で」というのも、東ティモールのことであろう。

 朗読後拍手が起り、涙がちょっとにじんだという人もいた。


9月30日  お知らせ2つ

 1,今度の日曜日、NHK週刊ブックレビューに出ます

 掲示板を御覧になっている方はすでに御存知だと思いますが、また週刊ブックレビューに出ます。
 この番組は現在のテレビでは知的視聴者層を対象にした唯一の活字媒体(本)を紹介・批評するもので、すでに10年以上続いている長寿番組です。

 私もずいぶん前から出演してき、もう20回以上になると思います。今回は今年3月に次いで2度目です。 番組構成はトピックスの紹介のあと、3人のゲストがそれぞれ推薦本を紹介・解説、ついで現在話題の本1冊を3人が合評、あとは特集などです。司会は週代りで、今週は作家の藤沢周さん。

 私はそのゲストの1人で、紹介する本はねじめ正一『言葉の力を贈りたい』(NHK出版)です。
 ねじめさんはもう20年以上前だったか、ぼくが第8次早稲田文学の編集委員をしていたころ、詩の特集に登場してくれて初めて知った詩人で、タイトルは忘れましたが、御当人とおぼしき人物の日常をユーモラスに書いてゆき、ところどころだったかラストだったかを「…、糞ひりだすのです」という言葉で締めるものでした。

 それまで私は現代詩に対して、少々観念的すぎたり、言葉フェティシズム的だったり、独りよがりすぎないか、と感じていただけに、こういう詩もあるのかと急に現代詩への思いを新たにしたものでした。
 今回はそのねじめさんが20人あまりの詩について語った本で、通常の現代詩人のみならず、井伏鱒二や中島みゆき、町田康といった人まで取り上げている間口の広い本です。

 日時は下記の通りです。ぜひ御覧下さい。

 10月6日(日)NHK・BS2 am8:05〜
 再放送 10月12日(土) pm(夜)10:15〜

 
 2,ペンクラブ第22回WiP(ライターズ・イン・プリズン)の日(京都) に出ます

 これも夏休み前からこの欄にも書いてきたペンクラブ「獄中作家(WiP)委員会」の行事で、正式には下記のような名称・日程です。

 10月6日(日)日本ペンクラブ京都フォーラム「文学の力、表現の冒険」
         第22回WiP(ライターズ・イン・プリズン)の日
  
  場所:京都会館(左京区、地下鉄東山駅から徒歩5分)にて 午後1時〜4時半  
   プログラム
   対論 梅原猛(会長)、阿川佐和子
   鼎談 阿刀田高、我孫子武丸、鷺沢萠
   朗読 アジアなど獄中作家5人の詩や作品の朗読紹介 宇野淑子 夫馬基彦 ほか
   鼎談 芝生瑞和(国際ジャーナリスト)、西木正明、宮崎緑(元キャスター)

  ほかに委員たち書き下ろしのショートショート作品集「21人のプリズン」もあり
   以上全部込みで入場整理費1000円

  趣旨は現在もアジアや中東、中南米などで続いている権力による作家・ジャーナリストなどへの弾圧に抗議し、彼らを救済する、そして世界の人権意識を高める、ということです。
 まあ、かなり大上段な目的ではありますが、しかし誰かがやらなくてはいけない、わずかでも正義に近づこう、という試みです。
 
 私は柄にもなく人前で朗読なぞということをします。むろん初めてのことで、恥をかくのは覚悟で出ます。
 関西方面に在住の方など、可能でしたらぜひ御参加下さい。



9月27日  後期授業始まる、夏の旅は終りにけり

 今週からいよいよ大学が再開し、各クラスの学生とも教職員ともほぼ2ヶ月ぶりに顔を合わせた。
 研究室で同室の山本さんなぞは、いつのまにか長いあごひげを伸ばし、しかもそれがずいぶん白くなっていて一瞬別人かと思ったし、学生も意外な子が「就職決まりました」と報告に現れたり、と思うと急に大学院志望者が増えたり、となかなかの変化ぶりである。

 1年から4年までの各クラスで夏休み中に読んだ本、見た映画、見た芝居・美術展・聞いたコンサートなど、そしてどんな旅をしたかを、全員にひとりひとり聞いていくのが、私の夏休み明け第一授業日の恒例なのだが、これがなかなか面白い。

 外国へ行っていた者もいれば、田舎の実家でもっぱら家業を手伝っていたという殊勝な子もいるし、東京に残ってバイトに明け暮れた子もいる。青春18切符で東京から東北地方を一周し、宿屋に泊ったのは2泊だけ、あとは野宿や車中泊、という頑張り屋というか昔ながらの貧乏旅行家もいるし、沖縄の離島を巡っていったのが解放的で実に楽しかったという子もいる。

 中で面白かったのは友達との旅を初めてしたという子が下級生にちょくちょくいたことと、彼らを含め旅の人数についての言及が多かったことだ。
 つまり、ある者は2人旅は2度とすまいと思ったと言い、ある者はグループ旅行の難しさと楽しさを語り、ある者は大勢でのお仕着せツアーの欠点と不快さを語ったのである。

 しかもどれも聞いていて分る気がしたのがまた面白い。
 確かに2人旅はうまくいかなくなると苦痛そのものになるし、小集団だとうまく気が合う相手が見つかるか否かでずいぶん違ってくるし、大集団だと全体のシステムが一種の体制のような感じになってきて、被抑圧的気分になってくる。

 それらを避けるためには1人旅が一番いいが、しかし1人では行けないところ、行かせてもらえないところもあるし、何より淋しく、孤独でもある。女性の場合、時に危険も伴う。
 
 昔からその通りで、かなり旅慣れた私でも結局有効なアドバイスなどなく、それぞれやってみるしかない、いい場合もあるし、悪い場合もある、としか言いようがないところが、また面白い。芸がないとも言えるが、世の中、そして人生、そういうものなのだ。

 要するにどういう人と出会い、そしてその人あるいはその人たちが、そのときの自分にとっていい相手か否かが、旅の良し悪しの最大の要素なのだが、相手ばかりかこの「そのときの自分にとって」がまた微妙で難しいのである。

 つまり、自分の状態もまた変るし、青春時代はその変化が早いのだ。1年後か1年前に会っていればいい相手でも、タイミングがちょっとずれただけで「にっくきあん畜生」になることはちょくちょくある。
 ということはまた、逆も真なりで、今いい関係、いい出会いも、1年後どころか半年後にはどう思えるか分らないことでもある。

 しかもそれは、ひょっとしたら日常や日々の世界自体がそうなのかもしれない、と思わせるところが旅の面白さであろう。
 だから私は、学生諸君に夏休みには出来れば最低2週間ほど、なるべく手作りで、自分の旅をしてこい、と毎年、時には「宿題」と称して勧めているのだが、なかなかその通りにしてくれる学生は少ないところが残念であり、代りに少数でもそれに近い旅をしてくれる者が現れると、ひどく嬉しくなるのである。



9月22日  卒業生との飲み会

 昨日はメキシコから帰った娘夫婦が、友人たちを集めて結婚披露パーティーをやる、パーティー自体には出なくていいが、ドレスを着るから見たけりゃちょっとだけ来い、みたいな話だった。
 で、こっちもそれこそちょっと迷ったが、時間が丁度夕方だったせいもあって行くのをやめ、5時半からのOB・OG会の方へ直行した。

 会は2年半前のゼミ卒業生たちで、出席は5名。うち4名までが神奈川県在住者だったから、池袋まではかなり遠かったろう。
 なかの一人久保田英樹が自分が座長を務める小劇団「東京イルミネート」の2年ぶりの公演中だったため、女性軍3名は銀座の劇場で午後の部を観劇してからやってきた。

 出来は、「前の方がよかった」そうだ。「いや、面白かった」という意見もあった。
 遅れてきた久保田はこの2ヶ月間で激痩せしたそうで、頬がくぼみ、ろくに食事もとってないらしく、サンマの塩焼きをがつがつ食べた。芝居の資金は土方をやって作ったという。

 こういうところは昔も今も変らない。演劇青年、文学青年、映画青年、漫画青年、バンド青年など、みな食うや食わずで頑張るものだ。他の年次の教え子の中には3畳間に住んで月5万円で暮しているなぞという漫画家の卵なぞもいる。

 久保田の他にも激痩せしている女性がいて、この夏のあいだに最大7キロ、今2キロ戻して5キロ痩せたという。
 どうしたんだと聞くと、「この夏暑かったこと、忙しかったこと、それから色々ありまして…」だそうで、どうやら親友の一身上に重大事があったらしい。

 青春はまさに色々あるものだが、食事は朝昼抜きの1日1食だった、丁度ダイエットしようかなとも思っていたし、などと聞くと、おいおい、無茶をするな、と心配になる。去年会ったときはふっくらとしてなかなか色っぽく、いい女になりつつあるな、と思ったのに、これでは台無しだ。

 若さの魅力は何といっても生気はつらつ、ピンと張った皮膚と活力であることを、当人たち、特に女性はなかなか理解しないようだ。Jパンの前ホックが閉まらなくなったら、新しいのに買い換えればいいのである。

 が、まあ、それだけではないあれこれがあるのだろう。精神性が強い時期でもあるのだ。悩み、煩悶、外界との違和、そういうものがダイレクトに反映してしまうのにちがいない。

 皆の話を聞いていると、職場での違和感、シビアな勤務実態、時間のなさ、などが次々に出てくる。フリーターや小さな勤め先にいる者たちは経済的にも大変なようだ。
 世の中は私などの青年時代に比べるとずいぶん豊かにもなっているのだが、相変わらず貧しい面もある。

 来なかった諸君たちの動静も一通り話題になった。この9月にドイツへ留学した者あり、テレビ局でADを務め時々深夜番組なぞで顔を見る者あり、「新潮」新人賞候補になり、小説やエッセイを新潮や群像に発表したりしている者ありで、結構バラエティーには富んでいる。

 誰か本を出さないかしら、一番最初はやっぱりKかしら、などと話題が向いていくのもやはり文芸学科出身者のゆえであろう。
 こちらとしても教え子たちがどんどん本を出してくれたりすれば楽しみなかぎりだ。
 
 いつ、実現するか、それまでにはまたみんな、それぞれ痩せたり、くたびれきったり、腹を空かせたり、そして面白い経験もしていくだろうなと思いつつ、終電1本前の電車で帰ってきた。



9月18日  娘、無事帰り、小泉、大事と共に帰る

 9日からアメリカ経由メキシコに行っていた娘が、昨日無事帰国した。
 知人の元TBSアナウンサー宇野淑子さんの出版記念会(『私の介護家族戦争』講談社)へ行っていたため、簡単な伝言しか聞いていないが、きっと帰りの空港チェックなぞは厳しかったのではと想像している。何しろメキシコはアメリカ国内便とほぼ同じ扱いだから。

 が、まあ、ともあれこれで娘の件はホッとした。
 代って、首相小泉の件だが、これは宇野さんのパーティー中に挨拶に立った新聞記者から少しだけ話が出、「死者多し」とのことに愕然とした。
 
 宇野さんはかつて初めての本『離別の四十五年』(潮ノンフィクション賞)という本で、戦前樺太(サハリン)に強制連行された数万人の朝鮮(韓国)人たちのことを書き、私とも十年ほど前、韓国の済州島で開かれた「日韓文学シンポジウム」で知り合った人だけに、会場には韓国朝鮮に関心を持つ人も多く、どうしてこんな日に重なってしまったのかしらと言いながら、さっきまで首相公邸(官邸?)でのブリーフィングに出ていたという記者からの話を聞いたのである。

 そのときは死者の人数も知らなかったが、12時近く帰宅してから数を知り、更に今朝になってテレビ新聞でゆうべ以降の経過の詳細を知るにつけ、考え込まざるを得なかった。
 ひどいことになったと拉致事件のことに怒りを覚えると同時に、しかし、交渉は再開していかないことには生存者の帰国もできまいし、死者に関する追及もできまいと思うからだ。

 そして、何より一番感じたことは、北朝鮮や金正日にとっては、拉致とか言うなら自分たちは戦時中数十万人が強制連行すなわち拉致同然にされ、中には路上で拉致されそのまま南方などで慰安婦(性的奴隷)にされた女学生までいたことはどうなのだ、数から言えば数十万人対十数人ではないか。それに我々は太平洋戦争後も、今に至るまでずっと日本とは戦争状態を終結していなかったのだ、ゆえに敵対国にその程度のことをしたとして不思議はなかろう、という感覚があるように思えた点だ。

 これは確かにその通りでもある点が難物で、だが同時に戦後数十年もたち、向うも世界情勢のおおむねは知っているはずの時点で、こういう行為をしてきたことにはブッシュでなくとも「ならず者」的と言いたくなるのも事実である。
 いずれにしろ、彼我の感覚の差は大きい。

 そうしてもう一つ、私などがどうしても暗い気分で腕組してしまうのは、かの赤軍派「よど号グループ」のことである。
 若きころ学生運動をしたこともある私なぞにとっては、彼らはほぼ同世代の、いわば広義での運動仲間であり、ちょっと間違えば自分あるいは友人の誰かが参加しかねなかったと言えなくもない集団なのである。

 じっさい、彼らが「俺たちは明日のジョーである」(リーダーの田宮高麿)と、当時我々若者のあいだで人気の高かった漫画の主人公を引き合いに出して日本で初めてのハイジャックをし、高々と国家と国境を飛び越えていったときは、学生運動体験者はもちろん、多くの人たちがある種の快哉と共感を覚えたのだ。

 それが、最近明らかになった事実によると、彼らがヨーロッパでの拉致などに直接の下手人としてかかわっていたことになる。しかもその間から現在に至るまで、彼らは北朝鮮で民衆の飢餓なぞとは全く無縁に、のうのうとほとんど特権的立場で、日本人妻を募集し、子をもうけ、何やら訳の分らぬ暮しをしていたとなると、いったいあいつらは何だったのだ、という気になる。

 世界革命を叫んで出国したのなら、あのような鎖国的独裁国家世襲制金王朝など早々に出国し、アラブでもその他の国でも、あるいは日本に戻ってでも、革命運動をするべきではなかったのか。
 そのために命を捨てたり、長い地下生活や苦難、獄中生活などをおくらざるを得なかったとして、それこそが明日のジョーのすべきことではなかったのか。

 それなのにだらしなく中年太りし、老後は日本で暮したいみたいなことを言い、拉致なぞの所業に関しては白ばっくれ続ける姿は、はっきり言って卑怯であり、無様であり、恥知らずである。
 若いころからかなりの期間、こころのどこかで抱いてきた「革命的ロマンとしての赤軍派」のイメージが全く雲散霧消したばかりか、軽蔑の念さえ感じる次第だ。
 
 まことに哀しいことである。
 

9月13日  9.11一年

 去年のこの日、ぼくはニューヨークにいた。しかもWTCビルから歩いても30分ほどの下町で、2番目のタワー崩壊の際は、カナル・ストリートという白い灰をかぶった避難民で一杯の路上を、逆コースで歩いている最中だった。

 WTCビルもニューヨークに着いてすぐ訪れ、1階の本屋「Borders Books and Music」で『American SHORT STORY Masterpieces』(レイモンド・カーヴァー&トム・ジェンクス編)という本を買ったことがある。今、手元にその本と栞代りにはさんだそのときのレシートがある。日付は2001年8月3日だ。

 9月11日は朝からやけにパトカーか救急車の音が鳴り渡るとは思っていた。前日どうしていたのか少し疲れ気味だった私はかなり遅くまでベッドにいたのだが、起きてテレビでもつけてみようかどうしようと思いつつ、だがこのあたりは中華街などに近くてパトカーの音など日常茶飯事だったから、また火事かくらいに思っていたのだった。

 けれど、だいぶたって下のロビーに降りていって見たら、あの騒ぎだったわけで、たまたまホテルはエジプト人経営、従業員も男は全員エジプト人という宿だったので、彼らが客を差し置いて大変な緊張ぶりだった。

 で、慌てて外へ飛び出し、WTC方向へ向った。表通りへ出たときにはいつも見える方角にまだタワーの一つはあったと思う。が、それから10分後くらいに見晴らしのきく橋近くの交差点に出たとき、折しも「キャアー」という悲鳴みたいな声がわき起こったところだった。

 それが崩壊だったわけだが、そのときはまだ手前に40階くらいの第3のビルはあった。
 が、確か夕方もう一度同じ場所に行ったときはもうなかった。

 そして、その2日後だったか、私はグラウンド・ゼロと呼ばれることになった場所へ歩いて行き、かなり間近で見たのだが、粉塵とともに明らかに人間の焦げる匂いがあたりに漂っていた。
 いっぱいの煙と多少の火もまだあった。

 1年後のこの11日前後、テレビで何回となく映されるその同じ場所は、きれいに整理され、車がスイスイと普通に通っている道路際に出来た、大きな長方形の廃墟かあるいは建設予定地、という印象であった。
 廃墟兼建設予定地。ー今思わずそう書いてしまったのだが、まさにそれが正確な言い方かもしれない。

 アメリカの何ごとかの廃墟であり、そして、今後アメリカがどうしていくのかの建設予定地であろう。
 アメリカは、なぜ自分たちがこういう目に遭遇することになったかをどう捉え、これからいかにしていくべきかをどう考えるのか。

 相手は悪魔であると捉え、アフガニスタンばかりかこれからイラクまでやっつけ、更に大勢の人を殺すのか。
 問題はそこにあり、このグランド・ゼロにどんな建物類を作るか、ではない。

 建物なぞどうでもいいのだ。慰霊ばかり強調されたものが出来るのもぞっとしないし、といってアメリカの国威発揚ばかり狙うような巨大な建物が出来るのも更にぞっとしない。もちろん、元通りの復元というのも何か抵抗を感じる。

 作るべきはアメリカ人のこころの中への何かであろう。
 その「何か」とは何か。それがまさに問われる。



9月9日  娘、飛び立つ

 今朝、娘からメールが来ていて、今日、メキシコへ飛び立つという。新婚旅行である。

 といっても結婚自体は春にしたのだが、新郎新婦とも勤め人なので休みがうまく調整できず、旅行は秋に延びたというわけだが、気になったのは飛行機がアメリカン航空でダラス経由ということ。
 9月11日に近いし、ダラス方面といえばブッシュの地盤だ。狙われる可能性はありだろう。

 ビン・ラディンを気にかけているうち、気がついたら娘が気になったわけだ。
 娘当人も去年は「ニューヨークにいたパパに心配させられた」と言っていたのに、こういう日取りにしたのはなぜか。
 
 確認していないが、多分休みを取る日程のせいであろう。新郎新婦ともまだ25歳、勤め先ではやっと仕事を覚えだしたというところだし、新郎は内部で昇任資格試験まであったそうだから、自由がきかないのだろう。そっちがいつも先にあって、テロの日にちなぞ忘れていたに違いない。
 
 実際、私にしろ、8月にその日程は一応知らされていたのに、9.11をはさむ一番危なそうな時期だということにはそのとき頭が向かなかった。イギリス帰りの時差ボケでぼーっとしていたのと、所詮テロのことは遠くのこと、という意識が潜在的にあったのだろう。

 だが、着実にあの日は近づいてきていたわけだし、そして考えるまでもなく事態は根本的には何も変っていない。
 どころか、アフガンではカルザイ暗殺未遂事件まで起っているし、アメリカはイラクを単独ででも攻撃するみたいなことを言っている。そしてビン・ラディンもオマルも相変わらず捕まっていない。

 アメリカは先だっての南アフリカ連邦での環境サミットで、先進国エゴ丸出しに何もかもノーと言い続け、世界中からブーイングを受けたぐらいだから、やはり相当憎まれていると思っていいだろう。
 ブッシュに象徴されるアメリカの単純タカ派に関しては、それこそ鉄槌を食らわしてやりたいような気さえする。

 けれど、ブッシュとアメリカに鉄槌を食らわせることは不可能だし、鉄槌を勝手に使えるのは彼らの方なのである。そして多分「鉄槌を食らわす」などという考え方自体がいけないのだろう。
 そう考えているうちは、あちこちで鉄槌の振り上げっこ、つまり暴力・武力行使の悪循環になってしまう。

 武力を持つ者、権力を持つ者ほど、そのことはいつも心すべきなのだ。
 自分の肉親の身を案じ出すと、がぜん「非暴力」路線に傾く。
 この世は非暴力だけではかえって理不尽な目にあうことも多いとは知っているのだけれど。