風人日記 第四章

師走、そして新春
12月2日〜2月28日

縄文織部(2002年) 井上健郎作

(作者は美濃美山町の山中に独居する舟伏釜主人。私とは20年以上の友人)






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。




2月24日  ちょっとした旅

 昨日、少し思うところあって荒川区三河島界隈を歩いた。
 このあたりの一部はちょっとしたコリアン街になっていて、韓国料理店や食材店、衣料店などが並び、しばらく歩くと韓国の教会や仏教寺院、学校などもある。

 路地を歩いていると、表札に韓国・朝鮮名はいっぱいあるし、自転車で話しながら来る若い女の子の言葉が韓国語だったりする。

 私とパートナーは昼食をとろうと、住宅街近くにある小さな大衆食堂(名前は日本風)に入ったが、表から「眞露」の瓶がたくさん並んでいるのが見えた通り、そこも韓国食堂で、マッコルリが2種類のほか、いろんな韓国料理があった。

 私は「ありらん」という初めて目にする洒落た小瓶入りのマッコルリを見つけて飲みたくなり、となればご飯類よりは焼肉だとなって、ホッペ焼きという物を見つけ、「これは何?」と聞くと、牛のほっぺたの肉だとのこと。

 「それ、それ」と注文してみたら、これがうまかった。2,3カ所スジがあるが、ほかは霜降になっていて、とろりと且つ少しこりこりして、軽く焼いて食べると実にうまい。
 ほかにここのロ−スは、親父さんがわざわざ出てきて、これは生で食べてもいいと言う通り、ほんとに柔らかくて新鮮だった。

 で、嬉しくなって、帰路、食材店があるたび入って食べ物を物色した。最初が、来日2年というニューカマーの茶髪韓国青年が店番をしていた店で、韓国餅を買いながら話すと、彼は「WK大へ行ってます。遠い。神奈川県にある」などと、まだまだの日本語で気弱そうに言う。

 私とパートナーは二人とも大学で教えており、特に彼女の方は留学生の教え子も多いから、微妙な気分で顔を見合わせ、あとで、あの日本語じゃ授業は分らないだろうね、とちょっと困った気分だった。
 それぞれ似たような留学生を教えた経験があるからだ。

 このあと入った店は、界隈で一番大きいいわばスーパーで、食材のほか鍋や食器などまであった。私はここで1リットル入りのマッコルリ(アリランとは別)と、濃く煮付けた豚足を買った。
 これはその晩すぐ食べたが、ゼリー状の部分やこりこりした部分がマッコルリの甘酸っぱさとぴったり合った。

 駅へ戻りながら大通りを歩いていると、何か似た場所を歩いた気分がしだし、やがてそれがニューヨーク・ブルックリンのユダヤ・アジア人街近くの駅周辺だったみたいな気がし、口にすると、パートナーも「丁度あたしもそう思っていたところ」というのだった。

 むろん建物、人種、文字、言語、すべてが大幅に違うと言えば違うのだけど、何か気配が似ているのである。
 大都市の中の移民や少数派民族の街、それゆえの幾分の貧しさと日本的画一性からの自由さ・闊達さ、バイタリティー。そんなものが匂い立ってくるのだ。

 私とパートナーは、東京もこんな場所がもっとどんどん増えれば、ニューヨークやロンドンみたいにインターナショナルになるのにねえ、と言い交しながら帰途についた。
 
 そして、電車の中でわがパートナーは更に付け加えた。
 「あたし、台湾に移住しようかしら」
 彼女は2,3日前から花粉症が始まり、鬱々としているのである。台湾には花粉症はないそうだ。



2月20日  懐かしい空間

 昨日は思わぬ時間があいたので、池袋西口の芳林堂書店へ本を探しに行った。
 芳林堂は学生時代に時々利用していたのだが、近頃は駅近くのビルの中に旭屋や東口のリブロ、三省堂、更にはジュンク堂など大型店が出来たため、とんとご無沙汰になっていた。

 で、はっきりはしないが、たぶん10年ぶりくらいだったのではないか。
 入ると、昔は大きい印象だったのに、狭い感じで、人も少なく、斜陽の店という気配である。
 が、8階の喫茶店「栞」へ行くと、ここは静かで、懐かしい感じだった。

 客が皆ひとりづつで、ほぼ全員がお茶を飲みながら本を読んでおり、話し声一つしない。昔、私は同じ芳林堂東口店地下喫茶店の常連だったが、そこのことを思い出した。約30年ぶりの記憶である。

 あのころ、私は本を買った後そこでコーヒーを飲みながら、出だし何ページかを読むのが楽しみだった。学生時代後練馬に住んだ33歳くらいまでは、そこが編集者などと原稿の受け渡しをする場所でもあった。ただし、小説家としてではなく、フリーのライターとして映画批評や高校生雑誌の読み物記事などをである。

 小説家の端くれになったのは、練馬から千葉県の市川市へ引っ越してからだから、以降、これらの喫茶店へ出入りしたことは20数年ない。

 そんなことを思いながら、私はコーヒーではなく、抹茶ミルクなる奇妙なものを飲んだ。コーヒーはだいぶ前からアレルギーがでることが分ったため飲まなくなっているからで、しかし紅茶はいつも家で飲んでいるので、何か外出先らしいものをと見つけたのだ。

 生れて初めての飲み物だったが、ミルクと抹茶のグリーンがきれいにマッチしていて、味もなかなか良かった。
 味わって飲み、勘定を払いにレジにたつと、その声が店内中に響く感じで、恐縮するほどであった。



2月17日  昨日、反戦デモ世界をおおう

 ニューヨークのマンハッタンでも30万人、ロスアンジェルスでも10万人、ロンドンでは警察発表で50万人、そのほかオーストラリアでも、欧州各地でも、アジアでも、驚くほどの人が集まった。新聞によっては世界中で2000万人以上か、と書いている。

 私などの世代にはベトナム戦争時が想い浮ぶが、数ではベトナム戦争時以上だという。
 妥当な反応だろう。誰もが、いま、なにゆえ戦争を起すのか、イラクをなぜ圧倒的強者がファナティックにやっつけなければいけないのか、に疑問を感じているということだろう。

 大量破壊兵器を持っているからというなら、核に関しては、世界最大の核保有国であり、湾岸戦争やユーゴ紛争で劣化ウラン弾を使ったアメリカ自身が問題にされるべきだし、次には核兵器をすでに持っている可能性があり、今後も開発すると宣言した北朝鮮の方が先であろう。

 生物・化学兵器が問題なら、それらの保有が明らかとされるイスラエル(核も持っている)こそ、その好戦性のゆえに真っ先にチェックされるべきではないか。

 それなのになぜイラクか。世界中で一番多かったと思えるプラカード「No War for Oil」がたぶん正しいだろう。テキサスの石油業者ブッシュ、石油業界の代弁者ラムズフェルド。補佐官のライスまでが石油業界とのつながりが深いそうだ。

 分らぬのはイギリスのブレアだ。あいつは労働党なのに、そしてイギリスにとってさしてメリットがあるとも思えぬのに、なぜ、あんなに嬉々としてブッシュの飼い犬のようにくっついてまわるのか?

 イギリス人の大人の感情、古きジェントルマンの国の誇りはどこへいったのか。フランス・ドイツの気概はないのか。

 とこう言ってきて、もう一つまことに情けなく腹立たしくなってくるのは、わが日本政府である。
 鵺(ぬえ)のようにはっきりしたことは何も言わず、しかし陰では国連でアメリカ案に賛成するよう外国に説得活動をするというやり方は、二枚舌、無責任、そして自主性の全くない強者への追随主義そのものである(事案は違うが、日本にはこういう輩が多い。大学にも多い)。

 それが、改革、主体的、正しいことをはっきりやる、などと高言してきた小泉首相の実像なのだから、彼の登場直後、一旦拍手、期待した身としてはやりきれない。
 このごろはあの痩せ面を見ていると、なんだ、脳髄まで痩せていたのか、しまった、見誤ったなあ、と忸怩たる思いだ。

 ただし、政府批判ばかりもしておれない。デモの数は日本が一番少なかったのである。渋谷でせいぜい2,3千人だったらしい。
 日本人全体がぼけているのかもしれない。それとも……。



2月13日  久々の長編構想のこと

 年初以来、いやもっと正確に言えば昨年来、久々に長編を書こうと、あれこれ企てているが、なかなかうまくいかない。
 案が浮びかけては沈み、沈んではチラチラ水面に漂うのである。

 他人のものを読んでいると、学生の作はいうに及ばずプロの話題作でも、良し悪しはすぐ分り、ここはこうすればいいのになぞと思うのに、すべて自分でオリジナルに考えていくとなると、そうはいかない。
 
 全くのオリジナル、而うして深度も間口も充分な満足のいく作を作るというのは、実に難しいものである。
 だが、それを肩を凝らしつつ、あるいは明け方ひとり起き出し日の出を見ながら考え続けるのも、また楽しからずやだ。

 何年か前まではそれがつらくて、下痢をしたり胃をこわしたり、気分をいらだたせたりしたものだが、このごろは間近に迫った直接の締切りがないせいか、それらはないのが助かる。
 まあ、楽しみながらやろうという姿勢が、どうにか出来るようになったとも言えよう。

 ということは反面、やっぱり締切りは必要なのかなという気もしないではないが、でも、出来ればもうああいうものはほしくないとも思う。あれはとにかく体に悪かった。
 おかげで、世の厳しさというものも知ったけれど。

 そして、実はこういう余裕、昨今の世の作が、殊に日本の若手の作ほど、何とも大したことがないと心底感じるゆえかもしれない。
 
 じっさい、私はこの2年ほどで読んだ作のうち、これはと心に残ったのは何人かの外国作家のものと、日本では最近の宮内勝典『金色の虎』くらいのものだ。
 そうして、そのどれもがほぼ同世代の作であることに、ある種の納得と自信を得ている。

 他人の作に自信なぞとヘンなものだが、自分が長年考えてきた文学観、社会認識、人間観が、決して間違ってはいなかったと感じるゆえだろう。

 よーし、やってやろう。まだまだ引っ込んではいないぞ。むしろこれからが頑張り時だ。
 このごろ、そう本気で思う次第である。
 而うして、昨年来の不愉快な雑事の中で思い浮ぶのは、小説家の心得としての次の二つの言葉だ。

  1,小説家にとって無意味なことは何一つない。(小説作法)――武田泰淳
  2,トラブルを避けるな。(小説家10訓の一つ)――開高 健

 ネタはそこにこそある、ということか。よーし、ウフフ、である。



2月9日   春暖かくして四海晴朗ならず

 昨日今日と本当に暖かい。今日なぞ3月下旬から4月上旬並だそうだ。
 そのせいもあってか、このところ進行中のオンライン歌仙への投句が相次いでいる。2日まえ治定(じじょう)した分なぞ、7句も競合して、選ぶのが大変であった。

 その前に私が付けた句のユーモラスさも、多少貢献したらしい。こんな句だ。

   絶景かな満々月かな五右衛門だ   南斎

 連句は前句への付けで成り立っているので、前の句を見ていただく必要もあるのだけど、京の大きな山門上で石川五右衛門が、満月をめでて大見得を切っているという仕立てである。
 この前、京都に行って、あちこちの山門の大きさに改めて感動し、一度登ってみたいものだ、昔の人だったらなおさらそう思ったろう、と考えたことが伏線にある。
 
 早春の香りの中、こういうことをしていると世の憂さも忘れるが、しかし昨今のイラク情勢、北朝鮮情勢を考えると、心は急に泡立ってくる。

 イラクに関しては戦争は起らない方がいいに決まっているが、五右衛門の釜ゆでのごとくだんだんサダムも煮詰まってくるのを見ていると、仮に戦争になったとしたら世界情勢はどう変化するか、にも想像力が赴く。

 むろん、イラクがこてんぱんにやられるだろうが、その結果、世界世論はどうなるか。
 アラブ諸国、イスラム諸国は、ひょっとしたらこぞって反アメリカ・イギリス感情を高めるのではないか。サダムがイスラエルを攻撃し、シャロンイスラエルが大反撃したら、その度合は更に高まり、あの界隈一帯が沸騰するのではないか。

 また、アラブ諸国ならずとも反米感情は世界に深く根を張り、第二の9.11事件の到来を、多くの人が潜在的に待望するようになるかもしれない。

 また更には、ブッシュアメリカが勢いと驕りにのり、次は北朝鮮だと攻撃の様子などを見せたら、あの頭クルクル髪立て男は、髪の毛の代りに血を頭にのぼらせ、“東京に核ミサイルを撃ち込む、嫌なら金と米と石油と発電所よこせ”などと言い出すのではないか。

 ブッシュは、“なにを、クレージーヘヤーめ、そんならテポドンがまだアメリカ本土には届かないうちに先制攻撃だア”と、空爆開始、てなことにはならんだろうねえ、ホント…(ブルブル)

 地上の虫としてのわが人類われら平民、さて、どうなるのか。
 ちなみに先の連句の五右衛門の句への付け句は、こうであった。

   飛び交ふ声のもと螻蛄(けら)の鳴き       野住



2月5日   台湾からのメール

 うちの奥さんことノンフィクション作家の田村志津枝から、このところローマ字のメールが来ている。
 台湾の地方都市のインターネットカフェや、ホテルのパソコンから送っているためだ。

 今回台湾へ行ったのは先月29日。知人である先住民族パイワン族の男性とアミ族の女性が結婚するというので、その結婚式を見るのと、ついでに春節(旧正月)を体験すること、そしてもう一つは自分の聖地台南を訪れるためである。

 聖地としたのは、本当は「生地」のつもりだったのだが、変換がそう出てしまい、見ているうち彼女にはその方がふさわしい気もして、そのままにした。
 彼女は父親が戦時中、台南の日本陸軍病院に軍医として勤務中に生れたため、台南を生れ故郷と考えており、じっさい10数年前から殆ど毎年訪れている。ほんの数年前まではその生家がまだ残っていたのである。今も生家跡の敷地は荒れ果ててはいるが、まだ塀と庭などは残っている。

 結婚式は、最初パイワン族の地、台南よりさらに南の三地門の山中の村であり、ついで、列車でだいぶ離れた台湾東部の玉里という町でアミ族式の式をやったそうだ。つまり、2回、それぞれの流儀で、というわけだ。

 男性は民族音楽の演奏家なので、エスニック音楽に包まれた楽しい披露宴だったらしい。
 が、場所を変えて2回も式となると、新郎新婦も、それについて移動する親族や出席者たちも、大変だったろう。面白い風習というか、それが民族文化の違いというものかもしれない。

 春節は、台湾に限らず大陸中国やベトナムでも広く行われるお正月で、私もかつて戦争中のベトナムのサイゴンで体験した。爆竹を焚きまくったりの実ににぎやかなものだ。それこそ「すわ、戦争か」と思えたりする。

 台南は、私は去年の3月に行ったが、薄手の長袖シャツ1枚くらいで丁度いいくらいの気候だった。その2年ほど前訪れた南部の三地門のあたりは、快晴だったせいもあり頭がクラクラするほどの暑さだった。
 台南の市場で食べたハミ瓜の一種が、高貴な香りと茫然とするほどの絶妙の甘い味わいとで、いまだに舌がうずき出すほどであった。

 いまは一ヶ月半ほど早いので、多分あの果物はなかろうが、代りに何か新種を発見するかもしれない。まことに果実の宝庫なのだ。
 土産に持ってこれるといいのだが、それは検疫上出来ないだろう。またカラスミにでもなるか。
 あれもいいが、ちょっと飽きた。それにコレステロール値なぞが上がりそうなのが困る。

 それにしても日本は寒い。昨日、入学試験や会議などで学校へ行ったら、インフルエンザも猛威をふるっているらしい。
 それから今日はイラクに関する重要発表もあるはずだ。
 まさに世は様々である。



1月31日  本日、卒制面接無事終了

 午前11時開始で計12名、午後2時50分、どうにか終った。
 副査は森本謙子先生。「永遠の女学生」というニックネームのある方に特に頼んだのは、提出作品中の4作までが「女子校における同性愛」とか、「少女趣味」といったテーマの作品だったからだ。

 ところが、始めてみたら、森本先生曰く、「あの、私、女子校には一度も行ったことございませんの」だそうで、小生が、ぼくが男だからかもしれないがと遠慮気味に作品評を述べるたび、「あ、あたくしもそう思います、夫馬先生と同じですわ」なぞとおっしゃる。アレレ、という感じである。

 けっきょく、同じ女性でも、いわゆる「女学生趣味」はそう普遍的なものではないことが当然ながら実証されたわけで、ホッとしたが、それにしても大学で4年間、共学、それも他大学に比べてもいろんな意味でかなり自由な校風で知られるわが校にいて、なぜ、いつまでも少女趣味なのか、はいまだによく理解できない。

 一方、小説で面白かった作品上位2作は、いづれも女性の作で、都会で生きるほぼ等身大と思える若い女性の孤独と愛への渇望みたいなものを、男との一見優しげでいてどこか荒涼感のある「非一体」へのいらだちと、代りに逃げ場としての妄想・幻視などを織り込んで描いているのが、興味深かった。

 格別の不平不満はなさそうで、反逆の対象もなく、ボーイフレンドもそれなりにいる状況にありながら、なお充足はない、愛は得られない、というのが彼女らのいる現在そのものなのだろうか。
 
 ほかに、西遊記を論じて、最近はマンガなどで西遊記のバリエーションが一杯でてきたが、その殆どは三蔵法師が女性化したり、天竺への取経の旅という目的・理念を忘れ、途中での妖怪変化の争いばかりが延々と続く形になっている、これは、無目的な最近のサブカルチャーばかりの世の中とそっくりだ、という「猿カルチャー」という卒論も面白かった。

 若者たちは、明快に現状を解析・提示は出来ないが、しかし、敏感な諸君らは確実に何ごとかを感じつつあるのだ、と感じた。
 実際、いまの世は大人にとっても、誰にとっても、何ともはっきり言いようのない、あるいははっきりしたことがそもそもない、妙な時代なのかもしれない。



1月27日  安ケンさんの死

 「天才」とか「スーパーエディター」を自称した名物男・安原顯さんが亡くなった。63歳、ガンで余命1ヶ月と宣告されてから、自宅で頑張り続け3ヶ月だった。
 
 わが連句仲間太田代志朗さんが、そのホームページ「花月流伝」の日録で書いているように、私もまた葬式には行かなかったが、しかし自宅で死亡記事を見ながら、「ヤッさんらしいなあ」とかなりの間いろんなことを思い出していた。

 一番最初に出会ったのは、私がまだ25,6歳のころ、当時やっていた「杉並シネクラブ」という映画上映サークルで、ある月の例会に竹内書店刊「パイディア」という雑誌の映画特集号を、当の編集者が会場廊下に机を出して売りに来たのだ。それがヤッさんであった。

 確かパゾリーニとかヴィスコンティとかが並ぶ内容で、私は杉シネ発行の映画雑誌「眼」の編集委員をしながら、同誌に「パゾリーニ論」を書いたりしていたので、話しかけたところ、「あ、君が夫馬かあ。読んだよお」と知っていてくれたので嬉しかった。

 2度目の出会いはそれから7,8年後、私が33歳で中央公論の新人賞を受賞したときで(「宝塔湧出」中央公論刊『夢現』所収)、谷崎賞などと一緒の広い大パーティー会場で、彼が「やあ、覚えてる?」と近寄って来たのである。
 
 そのとき彼は中公発行の文芸誌「海」の編集者で、すでに一部で「天才」と、ちょっと揶揄気味に言われていた。文芸編集者としては若くまださほどの履歴でもないのに、大家に向っておまえ呼ばわりしたり、「あのなあ、また原稿書いてよう」などといった調子で対するとして有名であった。

 話しているうち同じ早稲田の仏文の先輩で、共通の知人もだいぶいることが分ったりして、さらに親近感が増した。
 で、このときだったか、次に中公社内で会ったときだったかに、受賞第1作を「海」に書け、オレが担当するから、と依頼されたのだが、しかし、私はそれをすでに中公本誌の編集者であった早川氏に頼まれており、ちょっと戸惑った。

 が、同じ社内のことだから要するにどっちでもいいだろうくらいに若い私は考え、ハイと言ったと思う。
 そして約1年後、やっと第1作を書けた私は(緊張しすぎが原因の長いトンネルであった)、その原稿を時々電話をくれたりメシを食わせたりしてくれていた早川氏の所へ持っていった。

 と、早川氏が原稿をパラパラ見ている段階で、近くの机から見ていた「海」のもう一人の編集者村松友視さん(のちの直木賞作家)が、「悪いけど、それちょっと見せてくれない」と声を出した。「海」が校了間際なんだけど、いい原稿が足りない、というのである。

 早川さんは自分が1年かけてやっと出来た原稿という意識があったから、さすがに渋ったが、しかし、どうせ「海」に紹介するつもりでもあったため、「ええい」とか言いながら原稿を村松さんに渡した。

 それが1978年10月23か24日のことである。そして、その作品、私の文芸誌初登場作(新人賞作は総合雑誌である「中央公論」に掲載された)「詩人の休暇」は、翌月7日発売の「海」に掲載されることになったのである。
 
 これに対して、ヤッさんが怒った。あいつの原稿はオレが担当するはずだった、何で横取りした、おまけになぜ村松に渡した、と早川氏に突っかかったのだ。裏事情としては、丁度このころヤッさんと村松さんはちょっとした喧嘩中であったらしい。

 おかげで両名つかみ合わんばかりの罵りあいとなり、村松さんも仲裁しきれず、私に電話してきたのである。そのとき私は丁度夕食中で、文芸誌初登場に浮かれて酒なぞ飲んでいる最中だった。

 むろん、新人・若造の私にはいかんともしがたい。どうやら、私がヤッさんに早川氏から先に頼まれているとはっきり言うべきだったらしいとは分ったが、時すでに遅かった。
 そうして、以降、ヤッさんは私から降り、私の「海」における担当は村松さんということになったのである。ヤッさんと仕事をすることは、その後も全くなかった。

 そして、約20年後である。
 私はNHK・BS2の「週刊ブックレビュー」という書評番組で、ゲストの一人として、当時ヤッさんが中公を辞め独立してやっていた小出版社発行・ヤッさん編の、確か『私の好きな映画 100人』といった本を取り上げ、紹介し、誉めた。

 いや、誉めもしたが、私は相手が毒舌のヤッさんだから率直に言うべきだと思って、あとがきのヤッさんの文章に対しかなり批判もした。
 一緒にゲスト出演していた作家の夢枕獏さんなぞは、あとで私に、「あんなこと言うと、ヤスケンさんにやられるよ」と言ったくらいだ。

 1,2ヶ月後、私は某出版社のパーティーでヤッさんと顔を合わせた。何年ぶりかだったと思う。
 ヤッさんは私の顔を見ると「やあ」と例のクシャクシャッとした人なつっこい笑いを浮べて寄って来、「いやあ、この前は有難う。おかげであの後じゃんじゃん注文の電話がかかってきたよお」と礼を言ってくれたのである。

 「怒らないの。だいぶ言ったけど」と私が言うと、「なあに、あれくらいかまわんかまわん。ああいう反発が出るのは計算済みよ。どっちにしろ、あれが利いて、本が売れたのよ、うっふっふふ」

 ヤッさんとは、それ以来直接には会っていない。会ってないが、図書新聞などの彼の毒舌書評連載コラムなどはずっと愛読していた。
 それももう読めなくなった。
 


1月26日  卒論・卒制を読み進む

 1月31日の卒制面接に向けて、いま急ピッチで読み進んでいる。
 今年の分は主査として11編、副査として1編の計12編、枚数にして約1000枚強だ。
 4年のゼミメンバーが15名、5年生が1名いることを考えれば、だいぶ少ない。つまり、留年決定組や出せなかった者がかなりいることになる。

 だが、内容は予想以上によく、すでに3編ほどなかなかやるじゃないかと思えるものがあったし(まだ読んでないものも当然ある)、客観的にはともかく、彼(彼女)としてはだいぶ頑張ったと思えるものもいくつかある。

 逆に、何だ、これは、と情けなくなるもの、舐めているのかと腹が立ってくるものもある。
 毎年のことだから今更いちいち感情を大きく動かしたりはしないが、しかし最後のまとめたる卒制の出来で、その人物の信頼度がだいぶ動くのも事実だ。
 別にうまい下手だけが問題ではない、一生懸命取り組んだか否かが一番心にひびく。

 しかし、その印象もまた卒業後10年近くたってみるとまるで変ったりする場合もあるから、人間はまた難しい。授業はさぼり放題、酒や恋愛ごっこ、遊びにほうけ、卒制なぞごみみたいだった人間が案外実績を上げていたり、面白い生き方をしている場合もある。
 
 いま売れっ子の物書き・群よう子さんなぞ、卒業時担当だったゼミの某先生は「信じられない」と言っている。別に彼女が上記の例だというわけではないが、出席は悪かったし、卒制に関してもとてもいい出来とは言えなかったらしい。

 だいたい他人の例どころか、翻って我が身を思っても同じだ。
 私は学生時代ろくに授業になぞ出なかったし、3年次には学校をほっぽりだしシベリア経由フランスへ勝手に行ってしまい、パリ滞在中に抹籍になってしまったのである。

 そういう男がいま大学教師として、学生の成績をブツブツ文句をいいつつ点けている。
 妙な因果というか、諸行無常というか。
 で、私はどうも最終的には点が甘くなるらしい。



1月22日  川越市立美術館にガッカリ

 昨日、川越の美術館を見に行った。かねて数年来、話が伝わっていたものが12月に出来たというので、ともあれ一見しかばやと出かけたのである。

 が、中身は川越出身という某日本画家の作品が3分2を占め、しかもそのレベルが率直に言って低い。長年地元の商店主で、公募展にぽつぽつ入選していたという経歴・事績自体もそうだが、私の評価眼から見ても贔屓目にいってB級の風景画家である。

 おまけに描かれているのが殆ど北海道の風景ばかりで、川越とか地元界隈が特に出てくるわけでもない。
 それが、目を見張るような城郭ふうの大きな建物(川越城跡にある)と立派な施設に仰々しく収まり、かつ入場料計800円なのである。

 いわゆる箱もの行政、企画力なし、見識低し、というのがあまりに見え見えで、淋しくなるくらいだった。
 地元云々に特にこだわる必要はない、地元ルームは1室ぐらいにして、あとは斬新な現代美術や伝統美術室に振り分けるなど、やりようはいくらでもあった気がする。

 寒い中せっかく出かけたのに、早々に書斎に戻って勉強したくなった3時間であった。



1月20日  雪の京都

 日付が前後するが、先週の月曜13日から三日間、京都へ行って来た。
 急に思い立って比叡山と麓の日吉大社を見たくなったからだ。

 私は昔から仏教好きであり、かつ神社好きなので、名のある神社仏閣はたいがい見てきたのに、どういう訳かこの比叡山関係だけは一度も行っていなかったのである。それを去年秋だったか、大学同僚の仏文学者・山内淳教授が比叡山へ行く話をしていたのを脇で聞いていて、むずむずしたのだ。

 で、前夜言い出し、翌日朝にはパートナーを誘って新幹線に飛び乗り、昼過ぎ京都駅でレンタカーを借り比叡山へ向った次第である。
 山上はまだ雪がかなり残っていて寒かったが、代りに凛としているとも言え、鐘楼で鐘を突くと鐘声円寂、いい気分であった。

 が、それより遙かによかったのは、麓の坂本にある日吉大社で、これはこんなに京都に近い地なのにと思うほど神寂びて深みがあり、萱葺きの摂社群も神韻と風情を感じさせた。
 皆さん、ぜひお勧めの地だ。昔、といってもまだ数年前までだが、しょっちゅう一緒に神社巡りに行った作家の佐藤洋二郎よ、まだ行ってないならすぐ行った方がいいよ。

 そして、その晩泊った京都白川道近くの宿が、庭も背後の東山の景色も、風呂も食事も上々で実によかった。部屋やサービスを含め不快なことが何一つない。
 旅慣れている身にもこういうことは珍しい。

 で、翌朝、いかにも京都らしい気の利いた佃煮や煮物、湯豆腐付きの朝食後、「もう1泊しようか」となり、しかし同じ所も何だからと、もう1軒ある私学共済の別の宿を予約した。
 そうして、車で奈良まで行って、奈良公園と平城京あとを見物した。

 これはむかし田圃などだった広大な敷地に、朱雀門がすでに再建されているほか、太極殿なども建造中であり、かねて廃墟とかいにしえの都なぞが大好きな私には、なかなか得難い場所であった。

 けれど、それより何よりやはりよかったのが、その晩の京の宿の夕食で、ウーム、なるほど京料理ぞよなあ、という感じそのもの。薄味で、何ごとも少量づつで、香り、味付け、かたち、器、その他、文句ないのである。
 
 滴しぼりの原酒である酒もよかったが、それよりだんだん歳とってきた身に京都料理が合うのだろうという結論になった。
 要するに、もうもりもり食べる必要はない、配慮のあるおいしいものをちょっとだけ、そして落着いて穏やかに、という年齢なのかもしれない。京都文化というものがそういうものだという感も強くした。

 そして、満足して目覚めると、窓の外は真っ白だった。
 御所・蛤御門から広い境内、その向うに遠望できる東山、あたり一面、次第に牡丹状になっていく雪で純白なのである。

 きれいだなあ、きれいだなあ、我ら初老のカップル二人は掛け値なく嘆声を上げ続け、そしてまた、京都の朝食を食べに下に降りていったのである。ああ、よかったなあ。



1月18日  ホームページと仕事

 今度、このホームページを通じてというか、ホームページが縁で、初めて物書きとしてのちょっとした仕事をした。
 リンクをたどってこのHPを見た編集者の人から原稿の発注を受けたのである。

 内容は福祉年金関係の雑誌への短いエッセイだが、相手の人と私はむろんまったく面識も何もなし、紹介者もなければ、声も知らず。すべてはオンライン上、つまりメールで〆切、稿料その他きちんと明示した原稿依頼を受け、見本誌を見た上(これだけは郵送してもらった)メールでOKの返事を出し、メールで原稿を送り、という具合である。

 ただし、ゲラ校だけはさすがにメールではうまくいかない面があり、昨日FAXでやりとりしたが、しかしこの件は私にとって些細だけどかなり記念すべきことだった。
 というのは、このHPを立ち上げるとき、自分の作品発表や意見表明をただ一方的にするだけでなく、新しい仕事の場になり得ていかないかという期待ないし実験的な気持も確固としてあったからである。

 が、今回の件までは具体的な現象は生じなかったから、かなりエネルギーのいるHP継続の作業をしながら、これは結局そういうものにはならない媒体かなと考えたりしていた折だった。
 
 小説の掲載にしろ、熱心に読んでくれる人はあるにはあるが、かなり少数であるうえ、それらの人の中には読むのはやはり紙の方がいいとして、プリントアウトしてからにするとか、更には長いものは古本屋や図書館で捜して読んだ、という方も何人かあり、紙媒体とオンライン媒体の差異を考えさせられてもいた。

 そこへ今年に入ってから、連句のオフ会が開かれ新しい具体的付き合いが出来たのを始め、小なりといえ物書きとしての仕事も出来たということで、ヘーエ、やっぱり面白いじゃない、といったちょっといい気分なのである。

 もちろん、アクセス数などからいっても、そう楽観できるものではなかろうけれど、まあ、新しい媒体による初仕事、初出会い、という次第だ。
 嬉しいことには違いない。



1月12日  初のオフ会

 昨日、オンライン歌仙「風人連句会」の初のオフ会が開かれた。
 場所は東京文京区の神田川沿い、芭蕉翁ゆかりの関口芭蕉庵並びにある新江戸川公園内旧細川別邸の「つばき」の間である。

 地下鉄江戸川橋駅から神田川沿いにぶらぶら歩いてゆくと、芭蕉の記念碑やら、芭蕉の句にでてくる植物の一覧図、芭蕉の句などが掲示してあったりするばかりか、ぽかぽかと暖かい陽射しに誘われてか手に小さな句帖を持った吟行者らが何人もそぞろ歩いていたりして、いかにも句会日和だった。

 つどったのは幹事の「文芸歌手」山本掌さん、同じく幹事補佐の編集者・長谷川冬狸さん、日芸大学院生の湊野住君、歌人の太田代志朗さん、建築家の森山深海魚さん、そして私の6人である。

 25歳から61歳まで、男女半々づつ、いろどりバランスも丁度いい。
 すでにオンラインでは何ヶ月かお馴染みの面々だが、私自身、実際に顔を合わせるのは深海魚さんは全く初めて、掌さんとは以前大学のオープンキャンパス・デイの際、廊下でちょっと顔を合わせただけ、という関係だ。連衆同士は代志朗さんと掌さんを除いては皆初対面である。

 が、12時半過ぎ、持ち寄りのワインで乾杯し、自己紹介が始まればすぐ質問や合の手も挟まるなど、初対面でありつつ旧知のような、不思議な雰囲気だ。
 なるほどこういうものかと、話には聞き、一度やってみたかった「オフ会」のムードが早くも分りかける。

 一座しての連句は初めてという人が代志朗さん、掌さん、学校以外では初めてが野住君、というわけで、歌仙はお酒で喉をうるおしてはゆるゆる進めた。
 発句は芭蕉ゆかりの地のこととて、俳聖に敬意を表して、私がこう詠んだ。

  若水や神田上水に翁あり   南斎

 芭蕉は34歳から4年間このあたりに住んで、江戸の上水道である神田上水の建設現場監督みたいなことをしたらしい。
 専門技術者としてなのか、単なるバイト的なものなのか、はっきりしないが、いづれにしろ面白い経歴である。

 その頃の正月の姿を幻視したという作りだ。30代半ばを果たして翁と言うかという問題はあるが、ま、のちの翁ということで、代名詞代りである。
  尤も当時は厄年、つまり数えで42歳を過ぎればもう初老と呼ばれ、翁だったわけだから、大幅に違うというほどでもない。

 以降、歌仙は闊達に進行し、4時半までつづいた。内容は「オンライン歌仙」欄の第2回に掲載するから、そちらをご覧下さい。
 それからはタクシーで鬼子母神の居酒屋に移動して、8時頃まで飲み、さらに3次会と称して近くにアジト(懐かしい用語だ)を持つ掌さんの庵(いおり)を皆で訪れた。

 石畳参道の天然記念物級大欅真ん前の木造2階建て長屋の一角で、入って行くだけでタイムスリップしたような感じである上、中がまたエスニックふう、インドの神々の図や、インドネシアの大きなお面、中国の屏風、タイかインドの象の彫刻、などがあれこれあり、窓外の大欅を視野におきつつ、そこにいると何やらどこにいるのか分らぬ玄妙な気分になってくる。

 抹茶を一服いただいて、代志朗さんともども今や東京で唯一の都電に鬼子母神駅から乗って、ゴトゴト帰路についたが、学生時代以降長く京都で過ごし京都大好き人間の代志朗さん曰く、「ウーム、なんだかすっかり別世界に入ったみたいだなあ。京都にももうこういう市電は全くないなあ」。

 いやあ、楽しい一日であった。
 次回は3月ごろ、場所は山本アジトこと「鬼子母神大欅庵」と決定もした。それまではオンラインで進行させる。我と思わん方、どうぞ、ご参集されたし。



1月7日  松の内最終日

 昔風にいえば、昨日6日夕までが松の内、つまりお正月のうちというわけだが、このごろはもうそういう実感はない。
 特に今年など曜日の都合で正月休みが長かったときは、休み明けの6日になった時点で完全に正月は終った感じがある。

 というわけで、昨日は正月納めに白鳥を見に行ってきた。
 埼玉県北部の川本町にある荒川畔が、関東では殆ど唯一の白鳥渡来地で、毎年150から200羽近い白鳥がシベリアから渡ってきて、越冬する。

 今年の数は折から数当てクイズ中とかで発表されていなかったが、黙視したところ130羽くらいというところだったか。
 鴨なども一杯いる中に真っ白な大きな白鳥(種類としてはコハクチョウだそうだ)が、悠然と浮ぶ様はいつ見ても優雅だ。

 それで毎年正月前後には必ず見に行く風習になったが、今年は寒かった。陽射しは明るく、空は真っ青なのに、3日に降った雪がこのあたりは多かったのか、界隈は雪がたくさん残って、冷気がピンと厳しい。風も強い。

 で、早々に引き揚げ、関越・花園インターをはさんで反対側の寄居町にある「かんぽの湯」こと郵便簡易保険制度が運営しているホテルの「天然金山温泉」に入りにいった。
 これは元はふつうの沸かし湯だったのが、3,4年前に1500メートルだかボーリングして温泉を掘り当て、以降本物の温泉になったものだ。

 露天風呂はさすがに寒すぎたのですぐ屋内にしたが、温泉はやはりぽかぽかと温まっていい。30分ほど入っただけで、出たのち車で小1時間かけ帰宅するまでずっと体がほかほかしていた。

 帰ると、また年賀状が数通来ていたので、急いで返事を書いたが、さすがにこれでもう終りだろう。
 明日は大学で教職員の新年顔合せ会があるし、9日からはまた授業である。
 いよいよ新年の活動開始だ。久々の小説の構想も詰める必要がある。さあ、やるか。



1月4日  雪の三ヶ日

 元旦から始まって三ガ日連日雪が降った。こういうことは近来記憶にない。
 むしろ、この20年ほどは毎年、暖冬という言葉が殆どだったのではないか。いや、20年どころか学生時代ごろから年々そういう印象だったような気がする。

 理由は大気中のCOの増加、都市熱の増加など要するに地球温暖化とされてきたが、今年はどういう風向きだろう。
 気になって気候関係の情報に多少気をつけているが、今のところちゃんとした説明は見いだしていない。どなたか御存知だったら教えて下さい。

 が、私はこの状態を半ば歓迎している。正月は子供時代おおむねこんなもので、ぴりっとした寒さと共に淑気といったものを感じたものだし、2日、そして今日と、柳瀬川の土手から見える富士の白雪や書斎から今も見えている日光連山、皇海(すかい)山系、赤城山、秩父の山々などが、いづれも雪を冠して何とも美しいからだ。

 小説などにも書いてきたが、私はこの光景を見ると、やはり少年時代の濃尾平野を思い出す。
 あちらでは遠く加賀の白山を始め、木曽の御嶽、手前の美濃・養老の山々がこの埼玉での光景とほぼそっくりに見えていたのである。

 真っ白な白山は別名阿弥陀岳、これが見える地方は向う側の加賀、こちら側の美濃、尾張を問わず浄土真宗の盛んな地という宗教的というか、民俗学的事実もあった。
 我が家ももちろん浄土真宗、本願寺門徒で、小学校時代くらいまでは、「無常講」といって村の本願寺門徒たちが、毎月回り持ちで誰かの家に集まっては正信偈や蓮如の御文を誦む講があったものだ。
 
 「♭ナームアミダブ、ナムーアミダブ、……」という念仏が今でも耳についている。「帰命無量寿如来 南無不可思議光……」で始まる正信偈も小学校時代には半ば暗記していた。
 長じてヒッピー時代、仏教に関心を持ってのち改めて勉強した親鸞の教説にはかなり惹かれた。

 だが、今ではすっかり俗世のただ中である。あれこれ欲望や我執、私利、正義感、闘争心などを交錯させながら、そしてたいてい心の片隅に諦念と、ただ見者であろうとする意識を同居させている。
 年齢相応に狡くなったのかもしれないし、いわゆる成熟の要素が生じているのかもしれない。

 尤も、まだまだ血の気が多いとは、自他共に認める面もあるけれど。



2003年1月1日  年男より新年の御挨拶

 私儀、ついに5回目の羊の年となり、つまりは今年還暦となります。ああ。
 
 思えば前回までの羊年にはこういうことは思ってもいなかったのですから、小説家とはいえ想像力は貧困なものです。歳をとるのは誰しも分っているのに、なかなか我が身のこととしては思いいたらないものだとつくづく感じます。

 今年は、暮に1週間、奄美の島々へ旅をしていたせいもあり、年賀状もまったく書かず(頂いた分にだけ御返事することにしています)、大掃除も大いに簡略化し、客の予定も入れずで、実にのんびりムードです。

 でも、年賀メールだけは早くもいくつも頂いたので、早速全部に返事を出しました。初めてのOGのものもありました。
 メールは楽でいいですねえ。早いし、簡便だし。

 さっきまで粉雪がちらつき、文字通り初雪模様でした。暖冬と言われて久しいけど、今期は紅葉もきれいだったし(温度差が激しいときそうなる)、雪もすでに複数回となり、なんだか妙な具合です。
 また、何かの予兆でしょうか。それとも復古の兆しかしら。

 一人で正月を迎えた田舎の母86歳にさっき電話をしたら、一人でおせちを材料から作り、一人でお屠蘇も2杯呑み、年賀状が来るまでの時間は新年歌会用の歌を作るとのこと。
 案外元気そうなのでホッとしました。歳をとっても何でも自分でやる方が、いろんな意味でいいのかもしれません。

 パートナーの田村志津枝は奄美の旅以来やや風邪気味で、鼻をぐずぐずいわせていますが、でも、今年はまたイスラエルへ行けるかしら、などとまるで恐怖感などなさげに元気のいいことを言っています。

 去年6月、テルアビブの国際学生映画祭へ審査員として行って以来、すっかりイスラエルにとりつかれてしまったのです。
 自爆攻撃もあるし、イラク情勢次第ではイスラエルが本格戦争に巻き込まれる可能性も大なのですから、私はしばらくやめておいた方がいいのではと考えているのですが。

 でも、そういう私自身、かつてはベトナム戦争の真っ最中にわざわざベトナムへ行ったり、キプロス戦争に遭遇したり、カルカッタ暴動に出くわしたり、そして1昨年にはニューヨークであの9.11事件に遭遇したりという前歴の持ち主で、一人娘に言わせれば「どうもパパはわざと危険に近づきたがる傾向があるから、心配だ」となりますから、人のことは言えません。

 それに、今年あたりはひょっとして日本にいるだけで、朝鮮との間に危険事が勃発しないとも限りませんから、どこにいれば安全などとは言えないのかもしれません。

 いや、どうも正月早々、不穏な話になってしまい恐縮です。
 何はあれ、充実した、面白い年にしたいものです。
 最後になりましたが、私としては、実に久々に書き下ろし長編小説をぜひ書きたいものと構想中です。皆さんに何とかお目にかけられれば幸甚です。

 では、皆さん、いい年にして下さい。



12月31日  帰ってきました、寒い関東平野へ

 昨30日夜、徳之島から鹿児島経由便で一気に帰ってきた。
 最初1,2日はやや風邪気味だったものの、私に関してはいつしか風邪は飛び(パートナーは1日目の夕、うららかな春日和に誘われ海辺を歩いて、風邪を少し悪化させた)、ほぼ日程通りの島巡りとなった。

 帰路、パートナーと総括したところでは、今回の旅のベスト5は、

 1,島が一つ一つ違っていたというか、個性があって差異が面白かったこと。まさに、島はそれぞれ「シマ」であった。
 
 2,たまたま入った大島・名瀬の島唄酒場「かずみ」のママ(西和美さん。島唄の有名歌手でもある。CDあり)が、わが郷里愛知県一宮界隈で15歳から7年間過ごしたことが分ったこと。当時の言葉でいう「金の卵」としての機織り工場の女工さんだったわけだが、昭和17年生れというから私と1歳しか違わない。
 つまり、わが中3から高校卒上京までの4年間は、同じ界隈にいたわけになる。七夕祭りが楽しかったそうだから、本町あたりで私とすれ違った可能性大だ。ああ、思春期よ。

 3,加計呂麻島の島尾敏雄記念碑は、まさに海軍特攻艇「震洋」の基地そのものにあり、震洋も1隻、洞窟内に保存してあった。静かな、波とて殆どない、入り組んだ入江の奥で、アダンやビンロー樹がしげる孤絶した空間だった。
 ここで真夏、特攻隊長島尾敏雄と183人の若き兵士たちは死を待ち、そして秘かないのちの誓約をした島娘ミホさんとの恋が進行した。部下の隊員たちはどう思っていたのだろうとも、ちょっと考えた。
 おまけに、ここはいま内地資本の某真珠会社の真珠養殖場であった。しかも、わが娘はその会社の社員である。うーむ、これまたフシギの因縁。

 4,水中翼船で見た瀬戸内(加計呂麻島と大島の間の海)の海中公園と呼ばれる珊瑚礁の海中の美しさ。ダイビングをしたことのない身には初めて実見する世界で、まさに息を呑む美しさ、不思議さ、別世界であった。乗船料2500円だったが、毎日でも見たいと思った。

 5,徳之島の闘牛。暮のこととて試合は見られなかったが、島内に散在する闘牛場の一つでたまたま練習というか訓練試合を見、1トンほどの黒い雄牛が血だらけになって闘うさま、およびそれにかける島男たちの熱意が、何とも言えず面白かった。
 結局、島内5カ所の闘牛場をまわってしまった。

 6,私のなかで長らく俊寛の「鬼界島」のイメージが強かった喜界島が、実に穏和で、のんびり、そして山も何もない平たい島であるゆえの、かなり豊かで平和の島であったこと。
 ただし、ここにも昔は海軍の基地があったそうだが。
 
 5つのつもりが一つ増えてしまったが、以上がとりあえず思いつく南島めぐりのベスト6です。
 お天気にはあまり恵まれなかったが、あったかい日々であった。



12月23日  南島へ

 こうタイトルを書いてみると、何気なく書いたのに懐かしい感がする。昔20代から30代にかけてしきりに目にした言葉だからだ。
 「南島」すなわち奄美から沖縄の琉球弧、この言葉を広めたのは柳田国男や谷川健一氏ら民俗学者連だったか。

 そうして、それはさらにフィリピン群島やポリネシア、ミクロネシア、などにつながるものとしての「ヤポネシア」という呼称に発展していき、私なども夢の伴う、しかし充分説得力のある一つの世界観、日本観として、意識の中に定着させてきた。
 最近の川勝平太氏による「海洋史観」なぞも、その延長線上のもの、ないし多分に交差する考え方であろう。
 
 また、私なぞ元ヒッピー世代としては、かつての旧友たちが諏訪之瀬島や奄美大島、与論島などへ移住し、小さなコミューンの設立をもくろんだことなども思い出す。
 その一人ポンこと山田塊也は奄美大島の西端近く宇検村久志という集落に住み着き、廃屋を借り数人の仲間と共に「無我利道場」なる共同生活体を作って、10数年に渡って暮した。

 折から石油備蓄基地反対闘争が起きているさなかでもあり、ポンらはその最精鋭支援部隊として、右翼の度重なる攻撃にも耐えて闘い抜いたのである。
 仲間の一人タカシは、右翼のトラックに突っ込まれ、下敷きになって骨盤を折る重傷まで負った。

 そのポンは今、秩父の山中、猿が訪れるような茅屋で、鼻から酸素パイプを2本ぶら下げつつ娘と静かな二人暮しだが、無我利道場あとはどうなっているのか。

 いやあ、前説が長くなってしまったが、私は明日からその南島、奄美大島、加計呂麻島、喜界島、徳之島へ1週間出かける。
 
 大島では去年出来たばかりの田中一村美術館、加計呂麻島では「南島」を書き続け、長く名瀬に住んだ島尾敏雄・ミホ夫妻のゆかりの地を歩くのが目的。喜界島ではむかし高校時代習っていた謡曲で刻み込まれた「鬼界ガ島」の俊寛のゆかりの場所なぞを訪ねたい。

 去年の今頃は対馬・壱岐へ赴き、対馬では韓(から)の国展望所で外つ国を遠望したものの、壱岐へは嵐で行けず、俳人曽良の墓を見そびれた。
 いったい、なぜあの「奥の細道」の曽良の墓が壱岐になぞあるのか、未だに不思議で心残りだ。

 徳之島は、闘牛に、徳球(獄中18年の元共産党書記長・徳田球一)に、徳洲会の徳田虎雄に、選挙とばく(選挙のたびに島中が勝敗を賭けあうとか)、というフシギ熱血の地の風土を見てみたい。

 実はこの2,3日、ちょっと風邪気味で肩なぞずいぶん凝っているのだが、今更キャンセルする気にはなれない。毎日8時頃には早寝をし、今日も早く寝、明朝は蛮勇を奮って行ってしまうつもりである。

 南の暖かい風と風土に触れれば、風邪など吹き飛ばされるであろう。



12月20日  学校やっと終る。韓国大統領選。

 卒業試験の試験監督を最後に、大学が実質的に冬休みに入った。
 今月ついしばらく前に学内で極めて不快事があっただけに、まことにセイセイする。来週からは南の島にしばしの旅にでる予定なので、気持は半分そっちに飛び始めている。

 が、その前に昨日の韓国大統領選である。
 北朝鮮への太陽政策の廬武鉉氏が僅差で強硬派の李会昌氏を破ったのだが、微妙な気分だ。

 というのは、私は日頃のリベラル派自認にもかかわらず、今回だけは投票日が近づくにつれ気持が揺れ動いたからだ。
 理由は要するに、これまでの太陽政策は北になめられてきたふしがありはしまいか、北への援助は金正日王朝延命の役に立ってきただけなのではないか、という疑念が拭えないからである。

 投票の2日前だったかに10チャンネルの「ニュースステーション」で見た、北における強制収容所の実態も、目を覆うばかりの地獄絵図だった。零下20度の厳寒下で食料は1日300グラムのとうもろこしと塩だけ、凍傷で爪ははげ、時に足まで切断のやむなきにいたる。
 栄養失調で死ぬ者数知れず、若い女性は看守らの性の奴隷にされ、ちょっとしたことで処刑され、死体は柱に縛り収容者たちに石を投げさせる、炭坑などでの強制労働は劣悪条件で事故だらけ、などという。

 しかも、こういう収容所が全国に10カ所はあり(脱北者が出るまでは25カ所あったという)、収容者総計20万人という。
 これは北の国民100人に1人の割合であり、かつて「帰還」していった在日コリアンやその日本人妻も多いらしい。

 これらの実態を考えると、それこそ核とミサイルさえなければ、いっそあの体制は武力でやっつけ、ひどい目や飢餓状態にあっている人たちを解放した方がよくはないか、とさえ思いたくなる。
 少なくとも、一度関係諸国と国際世論が一体になって強硬策をとった方がよいのでは、というのが率直な気持の揺れであった。

 そのためには今回ばかりは李会昌候補の方が、と思う面もあったのだが、韓国民の選択は違った。
 かつて長い内戦を経、北にも親族などがいっぱいいる韓国民にとっては、また思いはさらに微妙で複雑だったに違いない。
 
 どちらがいいのかは、結局誰にも俄には分らない。じっと行方を見つめ、時にそれぞれの形で意思表明をしていくしかないのだろう。
 それにしてもあのおつむクルクル髪立て男、何とかならぬものか。まったく殴り倒してやりたい(ブッシュ、シャロンだと、やっても負けそうだが、あいつならひょっとしたら勝つかもしれない)。
 


12月16日  オンライン歌仙、ついに満尾す

 このホームページの「連句」欄で4月から続けていた第1回オンライン歌仙が、きょう満尾した。
満尾とは起首を受け、尾を満たす、つまり終るという意味で、これで首尾一貫となる。

 起首したのは4月15日、満尾が12月16日だから、丁度丸8ヶ月ぶりとなる。
 間に8月のイギリス旅行1ヶ月の休止が挟まるので、直接進行したのは丸7ヶ月となるが、けっこう長かった。

 何しろこの間は、ほぼ毎日何らかの投句、質問などが来たし、こちらはそれに答え、かつ数日に一度は治定(じじょう。句を捌き、採用句を決定すること)し、ついで次の句を作句するためのアドバイスを書くのである。全国でどんな専門家や俳人、学者など誰が見ているか分らぬことでもあるし、かなりの緊張があった。

 にもかかわらず、無償のこの行為を続けてこられたのは、要するに楽しかったからである。
 オンラインが連句というものに合う媒体ではないかという実験的な気分もあったし、長年連句をたしなんできた私自身にとっても、新しい仲間との出会いがありそうな予感もあった。

 そうして、それは事実だった。
 歌仙36句の半ばを過ぎたあたりからセンスのいい参加者が加わり始め、やがて常連化し、質が飛躍的に向上した。

 こうなると私なぞも毎朝メールを開くのが楽しみで、今日はどんな名句が来るか、あの人はこの前句に対してどんな洒落た句を付けてくるかと、いささか大げさにいえばワクワクしたのである。

 結果としての歌仙〈ネットで野遊〉の巻の出来は、見ていただけば分るとおり、なかなかのものである。
 私が過去30年ほど参加してきたいろんな連句(そのメンバーはプロの詩人や文芸評論家、俳人などかなりのメンバーを含んでいた)と比して何ら遜色がない、というよりむしろ半ばより上位につけうるであろう。

 加えて常連連衆(れんじゅ)との間には、だんだん人間的交流もメール上で生じ始め、最近では来年正月に「オフ会」としての新年連句会を開こうということにもなってきた。
 オフ会という言葉はネット用語で、つまりはネット上で知り合った者たちが現実の場で会おうというもので、数年前インターネットを少し囓ったりするようになって以来、私にとってなんだか新しい、一度やってみたいことだったのである。

 さて、そのオフ会、どうなるか。
 私はまたしてもちょっとワクワクしながら、それを待っている。

 次のオンライン歌仙は、その結果を待ってから、どんなふうに進めていくか考えたいと思っている。関心がお有りの方(そういうメールも頂いている)、しばらくお待ち下さい。



12月14日  年内の授業一段落

 昨日をもって私の担当する年内の授業は一通り終った。
あとは来週から始まる4年生の卒業試験、そして一,二の会議だけである。
 というわけで、ちょっとした解放感も生じつつあるのだが、気になることはむろんある。
 
 一つは四年生の卒論・卒制のことで、わが日芸・文芸科では多くの諸君が小説を卒業制作に選ぶのだけど、これが一人宛平均7,80枚に、プラス副論文というものが30枚義務づけられる。
つまり計100枚である。

 小説やエッセイはいままでにかなり書き慣れてきている学生が多いが、それでもたいていは短編であり、7,80枚の作となると初めての挑戦という諸君の方が多い。
 で、悪戦苦闘となり、もたもたしているうち、〆切(1月10日)はどんどん迫り、悲鳴を上げ始める者も出るということになる。

 昨日も一人そういう学生が前期課程(1,2年生)用の校舎である所沢校舎までわざわざ指導を受けに来た。
 つい一週間足らず前に素材・文体をがらりと変えたので、ぜひ見てほしい、というのだ。

 押し詰っての大幅変更だけに本人も必死なわけだが、こっちもこういう場合は緊張する。
 うかつなことを言って作品完成が間に合わなくなっては大変だからだが、さいわいこの学生の場合は変更作が前よりずっとよくなっていた上、道筋も付いていたのでよかった。
 
 そういって励まし、あとはとにかく頑張れと1日8時間、1時間1枚のペースで書いていき、10日後に読み直し、無駄を削り、推敲し、などと、なんだかスポーツ・コーチみたいにスケジュールまでアドバイスしてしまった。

 じっさい、そう考えていっても時間的にぎりぎりだからである。
 はたして、彼女、ちゃんと仕上げてくれるかどうか、正月も2日から書けよ、などと考えつつ、しかしそれが終ると彼女の場合さらに3月までひょっとしたら通称「就活」かな、と考えたりしてしまう。

 まだ、就職が決まっていないからだ。今年はこっちの状況も本当に悪い。
 彼女の場合、田舎に帰る選択肢もあるが、でも寂しそうである。
 Uターン帰郷がいいと思えるのは、都会人の側の観点かもしれない。若い人たちにはどこか涙を呑む思いがありそうなのだ。



12月10日  昨日、関東平野に初雪一日

    降り来り降る降る空の雪の奥    南斎

 と、その午後、昔のカルチャーセンター(小説教室)の教え子から、お歳暮としてエビスの缶ビールが届いた。まだ外は小雪、14階の窓からの世界は一面灰色だったから、エビスの黄金色の笑い顔が不思議な気分であった。

   雪降る日 灰色(グレイ)の奥から恵比寿来る   南



12月7日  特別講座ブジ終り、誕生祝いさる

 このHPの「大学あれこれ」欄や「大学掲示板」でもたびたび知らせてきた、12月4日の小説家歌人・小嵐九八郎さんを招いての特別授業は、無事開催できた。

 心配していた学生諸君の入りも、前半約30名、後半40名で、用意したいつもの部屋はぎっしりとなった。
 小嵐さんも半ばあたりからだんだん熱が乗り、短歌の実作指導から小説の要諦などにさしかかると、学生たちも聞き漏らすまいと身をのりだしている感があった。

 終了後は近くの中華料理屋で飲み会となった。
 当初、私は小嵐さんと二人だけで馴染みの店へでも案内してと思っていたのだが、提出された学生たちの歌の中に「小嵐さんと酒を飲んだらどんなだろう」みたいな一首があり、小嵐さんもその作者と呑んでみたいといった発言があったので、授業の終りにぜひ付いてきたいという者は来てもよし、と言ったら、いつのまにかかなり集まってしまったのである。

 いつのまにかというのは、はじめは数人くらいと思えていたのに、店に着いたころからどんどん増え始めたのだ。
 手口はどうやら彼ら得意のケータイ呼びかけで、「今、先生たちとどこそこで呑みかけている。面白そうだから来い」みたいなメールや電話が行き交ったらしい。

 おかげで、集まった者の中には肝心の授業には出ていなかった者まで何人か混じっている始末だったが、しかし来た者をいかんとも言えず受け入れているうち十数人にもなってしまった。

 店も大学院生が知っているという私には始めての店だったため、注文その他をその院生に任せたところ中々ビール一つ揃わずいらいらしたが、小嵐さんはじっと我慢してくれた。
 そして、小説を書いて新人賞候補になったりしている学生らに、熱心にアドバイスしてくれるなどサービスに努めてくれた。

 さすがに途中でくたびれたらしく中座となったが、そこまで付き合ってくれたのは、エンターテインメント作家としてのサービス精神と、もう一つは娘さんが日芸文芸科の卒業生であるため、学生たちが自分の娘か息子のように見えたのかもしれない。

 何にせよ有難いことで、あとで考えると学生に慣れているこちらはついいつものペースでやってしまったが、外部からのお客さんにはだいぶ不作法なこともいくつもあった気がして恐縮した。
 小嵐さん、ごめんなさい。でも、学生たちには人気上々でした。駅まで送っていった女子学生も三人もいたはずです。

 さて、話変って、12月5日(木)は、ゼミ4年のクラスが私のために誕生日ケーキを買ってきてくれていた。
 嬉しくなって授業の終り近くに私もナイフやお茶をそろえたところ、ライトが消され、ろうそく6本がたてられ、やがて「♪ ハッピーバースデー ツー ユー」と歌声が流れた。

 私はフーッとろうそくを吹き消したわけだが、考えてみたらそういうことは実に17,8年ぶりのような気がした。私の娘がまだ小学校低学年だったとき以来のはずなのだ。

 いやあ、思わぬ成り行きだったが、楽しい気分だった。
 そしてこういうとき、大学教師をやっていてよかったなと思う。

 その4年生たちはあと1ヶ月で卒論・卒制の〆切である。
 文字通りの追い込み、そうしてそれが終ればもう卒業を待つばかりである。就職状況が今まででも一,二に悪いが、みんな、どんな船出になるか。だいぶ心配である。



12月2日  本日生誕59周年なり

 来年は還暦だとか。ああ。