風人日記 第五章

いくさの匂い
  2003年3月1日〜5月31日


奄美群島・徳之島の闘牛練習試合(2002年12月・夫馬撮影)







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



5月31日  ペンクラブWiP委員会開かれる

 旧称「獄中作家委員会」、昨秋の京都集会以降「WiP(Writers in Prison)委員会」と呼ぶことになった――が、29日、ペン事務所会議場で開かれた。

 2年任期であり、今年は、委員も、会全体の会長以下執行部も、新体制になっての初会合である。
 日本ペンの会長は梅原猛さんに替って、作家の井上ひさしさん、専務理事は阿刀田高さんになり、新理事、委員長もだいぶ入れ替わった。

 WiP委員会は、冒険青春作家の森詠さんに替って若手の推理作家・今野勉さんに委員長が交代した。今野さんは空手および棒術の高段者であり、実際にその道場も日本およびロシアに持っている不思議な人である(なんだかオウムみたいだなあ)。

 WiP委員会は、森委員長の前は先だって亡くなった生島治郎さんが委員長だったし、以来エンターテインメント系作家が多い。今も今野さんの他に新津きよみ、菊池道人など若手の同系作家がどちらかといえば主流である。

 いわゆる純文学系では、昨年まで文芸評論家の川村湊がいたが、今年から抜けたので、今や私一人になってしまった感がある。
 エンタメ系だけど純文学性も多分にあった小嵐九八郎もなぜか、というか人権委員会へ移ったためとかで、抜けたため、いささか淋しくなった。

 わが連句の連衆・歌人太田代志朗も抜けた。色々事情があるのだが、これも淋しい。
 全体で22人から13人になったから、かなりのスリム化である。活動内容も、あまり欲張らず機能化というのが新方針ということだった。

 私は、新設の電子文藝館副委員長との兼務なので、この方針は有難い。どちらも、というかペンクラブの活動は完全ボランティアなので、二つも忙しい委員会があってはそれこそ身が持たないからだ。

 それに私は、今年の10月には、北京広播学院へ交換教授で行く予定なのである。最近のSARS問題でどうも雲行きがおかしくなってきたが、SARSが早めに終息すれば行くことにはなる。
 例年行われるWiPの日は同じ10月だから、重なると困ることになる。
 
 何とか諸事うまくまわってくれないかと祈る次第だ。



5月27日  田植え終りぬ

 最後まで残っていた2枚が、どうやら今日終ったようだ。これでわが書斎からの視界に関する限り、すべての田が水田となった。
 小雨にけぶり、みどりの山水画といった趣である。

 あとは、やがて稲育ち、青田となり、そこを爽やかな青田風がサワサワと通りすぎていくであろう。そのとき、6月である。



5月24日  田植え進む

 すでに田圃には水充ち、代掻きもあらかた終り、いつのまにか田植えが始まり、早くも半分ほどすんでいる。素早いものである。

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな     芭蕉

 実際、朝7時頃窓から見てみて、「あ、植えかけた」と思い、朝食を済ませ戻ってみると、もう終っていたりする。この調子だと、全部終るのもすぐであろう。そして、一面かすかに薄緑の揺れるライス・フィールドとなる。



5月23日  青野聰と対談

 昨日は「江古田文学」夏季号の対談として、旧友の青野を日芸に招いた。
 まず、学内および文芸学科内を一通り案内したあと、ゼミ室にて編集長佐藤洋二郎の司会で話した。

 なにしろ青野聰とは学生時代以来の友人であり、大学を中退して横浜からバイカル号に乗りソ連経由フランスへ一緒に行った仲だから、話し出せばいろんなことを想い出すし、話はいくらでもある。

 放浪開始のことから文壇デビュー、7年前、全く同じ年に2人とも大学の専任教師(彼は多摩美大教授)になったこと、学生と小説のこと、など、佐藤洋二郎に言わせると、果して終るかと思ったというほど話が弾み、アッという間に2時間弱が過ぎた。

 終って、夕方から江古田の私の行きつけの小料理屋に場を移し、3人でゆっくり飲んだ。
 場所は駅裏のほんとに小さな路地を入った突き当たりにある店で、青野も「江古田には小粋なところがあるなあ」と気に入ってくれ、久々に会った女将と板前さんが紫ウニや魚料理に腕を振ってくれて、3人とも満足した。

 最後は互いの健康法まで披露しあった。青野は水泳を週5回、1回2000メートル泳ぎ、シニアの200メートル平泳ぎでは全国35位の記録を持っているという。大変なものだ。
 私は3月以来腕立て伏せを開始し、1本10回で間に腹式呼吸を数分づつ、だんだん本数を増やしていき、今は6本60回、というと、結構感心された。
 
 一番若い53歳の佐藤洋二郎が、散歩以外は何もしていないことが分った。そのぐらいの歳だとまだまだ不摂生を続けてしまうのかも知れないし、性格・生き方の問題かも知れない。
 10時半お開きにし、池袋駅でいい気分で3者それぞれの路線に別れた。
 旧友とはいいものだ。



5月20日  電子文藝館委員会開かれる 「白い秋の庭の」掲載

 昨日、新発足の日本ペンクラブ「電子文藝館」委員会第1回会議が東京・兜町のペンクラブ本部で開かれた。私は副委員長として参加。
 メンバーは編集者や出版人、大学の国文学系研究者の方々が主力で、小説家は館長の秦さんを含め3人のみであった。
 
 一番印象深かったのは、大勢の作品をデジタル化するのに、スキャナー起しから校正チェック、差別問題を含む用語の適不適問題、使用マシンやソフトの違いによる不具合調整など、いかに労力がかかるかで、しかもそれらの大半が委員らの無償ボランティア活動によって支えられていることだった。

 いわば文学館か図書館を一つ作るに匹敵する事業だけに、将来的にもすべてボランティア、無償というのはたぶんに無理がある気がした。俄には難しいかもしれぬが、今後は何らかの収益を図って、具体的作業には多少のギャラを払うなり、あるいは業者に委託するなりの方策も考えるべきではと思えた。他の委員方の意見も聞いてみたいところである。

 なお、昨日付けをもって、私の初期短篇「白い秋の庭の」(1984年「海燕」初出、単行本『楽平・シンジそして二つの短篇』(福武書店刊)所収が、「籠抜け」に次ぐ2作目として電子文藝館本館・小説欄に掲載された。
 
 今や20年近く前の旧作だが、初期作では完成度の高いものとして、私自身愛着のあるものだ。皆さん、ぜひ御覧になってみて下さい。このHPのリンク欄からアクセスできます。



5月19日  3枚に水が入った

 田3枚がほぼ水でうまり、うち1枚は早くも代掻きも済んだ。



5月17日  田圃に水が入りだした

 5日前に田圃のことを書いたばかりだが、今朝、書斎の窓から見たら、田2枚ほどにじわじわと端から水が広がりつつある。水路の栓が開かれたのだろう。
 いよいよだ。楽しみ、楽しみ。



5月15日  勉強好きの教え子25歳女性2人

 昨日は、2年前卒業の元わがゼミ生2人が学校まで訪ねて来てくれ、江古田界隈の居酒屋でビールを酌み交わした。

 1人はS女子大の大学院へ進学し、目下博士後期課程に在学中、近現代日本文学専攻のたかこ君。もう1人は日芸の修士課程を今年卒業し、今年度からW大の大学院聴講生になっている、日本文化史「見立て」研究のかずき君。

 日芸にいたかずき君とはちょくちょく顔を合わせていたが、たかこ君は確か2年ぶりかそれに近い感じだ。18歳の学部1年生の時から4年間夫馬ゼミだった彼女は、相変わらずの童顔だが、しかし、久々の顔はやはり年齢相応に大人っぽくなってもいた。少し化粧が濃くなったような気もする。

 ミッション系の女子大の雰囲気がいかに日芸と違うか、「先生があたしたちをあなたなぞと呼ぶんですよ。お祈りの時間があるし」などという。こっちはずっと呼び捨て、時にニックネームで呼んだりしたし、しょっちゅうゼミ飲みと称して酒を飲む雰囲気だったから、ウームと何となく己の側の品位のなさを思わざるを得ない。

 むろん、さりとてこっちが悪いなぞとはまったく思っていないのだが。
 かずき君の方は博士後期課程へ進みたかったのだが、どこへ行くべきかさっぱり判断がつかなかったからいま試行中と、低声で話す。全くまじめそのものである。

 それにしても、通常けっして勉強好きとは言えないわが日芸生の中にあって、ずいぶん勉強好きが出来たものと思う。
 そして、それはどうやら伝播するらしく、彼女たち以降、毎年、わがゼミから大学院進学者が続くことになり、昨年男1名、今年は文芸専攻のほか美術部門にも女子2名が進んで、3年間で計5名になる。

 そういえば、もっとずっと以前、わが教師1年目の時の教え子が、たかこ君と同じS女子大の院に進み、その後台湾で大学の先生になっているから、院進学者は全部で6人か。
 一つには就職状況が悪くなってきたせいもある気がするが、いづれにせよ、このさき、彼女彼らはどうなっていくのか。

 学生時代、小説なぞ書き、院に進んで研究生活をおくり、そして――というわけだ。
 羨ましいようなことではある。わが学生時代は、そんなことは夢にも考えなかったし、考えられなかった。何やらもっと焦燥感に駆られ、きりきりと闘い、そして学部までを中退してしまった。

 25歳のいかにも若い、しかし、学部生と比べればやはりだいぶ歳をとり、大人っぽさも身につけだしている女性2人を見ながら、5年後、10年後の姿を見てみたいと考えた。



5月12日夜  5月の風

 昨日今日と涼しく、かつ実に爽やかで、散歩が楽しい。川原も土手も緑一面、そこここにまだ残る菜の花や山ウドの白い花が咲き、対岸の田圃では、早くも代掻きの準備が半ば以上進んでいる。1週間もすれば水が入り始めるだろう。

 私の好きな季節である。
 寒からず、暑からず。そして、水充ち、視界が水の国のようになり、東南アジアの水田地帯とも似通う。

 そうして、やがて田植えとなる。その一部始終を見届けるのが、何とも豊かな気分になって好きなのだ。われ、瑞穂の国の住人なり。毎年、そう思うのである。
 早く入れ、田の水よ。



5月10日  せわしき1週間、そして懐旧

 連休明けの今週は、6日が久々の授業予習。なにしろ10日間、まったく違う頭の使い方をしていたから、切り替えるというか切り戻す時間がどうしても要る。
 
 ついで水・木と江古田校舎。木曜は会議デーでもあり、午前11時の委員会から始まって、授業をはさみ、教授会、更に委員会2つとつづき、終ったのは午後6時半だった。
 くたびれ、同僚教授と3人でちょっと一杯となったが、つい飲み過ぎ、帰宅は0時半になった。

 昨金曜は所沢校舎。2年1年とも、課題提出は皆早く、合評が軌道に乗った。2年の「戦争と私」は力作が多い。おばあちゃんの第2次大戦の思い出話のことから、イラク戦争のことまで、バラエティーにも富んでいる。今後の合評が楽しみだ。

 所沢校舎はもう一つ楽しみがある。
 同じ時間に絶叫歌人の福島泰樹さん、川端康成研究の原善さんの授業もあるため、職員室で休憩時間に顔が合うことだ。

 福島さんとは早稲田で同じころ青春を過ごし、その後「第8次早稲田文学」で、最初は編集委員、ついで新人賞選考委員として、都合10数年ほど一緒に仕事をした仲である。
 編集委員時代のメンバーには、青野聰、立松和平、三田誠広、高橋三千綱、荒川洋治、鈴木貞美、福島泰樹、夫馬基彦、それにまあ名前だけだったが村上春樹までいた。

 新人賞選考委員時代には、三田誠広、福島泰樹、荒川洋治、夫馬基彦、富岡幸一郎、そしてわが恩師でもある平岡篤頼さんがいた。
 今思うと、すっかり昔の懐かしきことという感さえある。

 などと懐旧の情にひたったのは、この日、福島さんが顔を合わせるなり、「俺たちの歳になってくると、だんだん死ぬやつが出てくるなあ」としみじみ言ったからだ。
 
 実際その通りである。福島さんは、つい先だって新宿ゴールデン街の名物酒場「ナベサン」のマスター渡辺さんの葬儀の導師を勤めたばかりだし(彼は東京下谷・法昌寺の住職でもある)、私もこの日記にも書いた仏文科時代の友人・多田保を亡くしたばかりだった。
 
 それ以外にも、1年に1人2人は、エッ、あいつが、というような死者が生ずる。
 昔、若かったころ、師だった文芸評論家・佐々木基一さんがよく、「また1人死んだよ」とか「先週は葬式だったよ」と呟かれた。そういうとき、こっちは「ふーん、そういうものか」と思うと同時に、「佐々木さんは年寄りなんだなあ」と改めて感じたことを思い出す。

 気を付けねばならない。

 さいわい、もうひとりの原さんはまだ40代で若いので、そういう話は出ない。
 若い友人・知己がだんだん有難くなってきた。



5月7日  第3回オンライン歌仙開始

 まだ点検中で、開始月日は明日8日からにしてありますが、ページを作るには作ったので、ここにも書きます。

 今回からは発句も連衆の皆さんに作ってもらいます。だんだん全部憶えてもらって、ゆくゆくは捌きも連衆常連の交代制なぞになったら、私も時間をとられることなく気楽に一参加者として楽しめるというものです。

 それを期待しつつ、とにかく開始。この機会に、初参加の方も思い切ってどうぞ。オフ会もまたあるでしょう。



5月5日  ああ、連休も終りぬ

 今日で実質10日続いた休みも終りである。
 残念なり。もう少しあれば、書き出した長編の方向もほぼ定まるのに。
 
 が、まあ、30枚ほどは行ったし、よしとすべきか。久々に充実したGWであった。
 また、この間にペンクラブ電子文藝館委員会副委員長なるものを引き受けることになった。ペンクラブは従来の梅原猛会長が退任、井上ひさし新会長就任を機に、電子メディア委員会から電子文藝館委員会を分離独立させることになったもの。

 今年度は大学でも委員を5つ任じられたし、住まいの方でもマンション管理組合の理事(回り持ち)となったから、だいぶ忙しくなりそう。世間からはまだ働き盛りと見なされているということかしら。
 
 書きたくなったときに限ってこうなる。妙なものだ。
 


5月2日  5月のカゼ

 一昨日からちょっと風邪を引いてしまった。SARSではなさそうだ。
 連休後好天続きで、すっかり夏気分になり、パジャマを夏物に替えた上、休みの気安さから午前中ずっとパジャマ一枚のままパソコンに向って小説を書いていたところ、午後から寒気がしだしたのだ。

 結局、昨日まで37度未満の微熱、ちょっと喉と鼻がぐずついた程度で済みそう。書くのは休まなかったし、今も朝鮮人参茶を飲みながら、書く体勢にいる。年寄りの冷や水という言葉を改めて思い出した。

 それにしても外はいい季候だ。今日は散歩を復活しよう。
 


4月29日  学生たちによるイラク戦争論争のその後

 先日来、大学掲示板で戦争論争が続いていたが、しばらく前あっさり終息してしまった。しかも、かなりの誤りを含んで。
 で、私は今日、掲示板に以下のような書き込みをした。それを転載します。


 戦争論争について 投稿者:夫馬基彦  投稿日: 4月29日(火)08時56分40秒

なんだか期待に反してあっさり終息してしまった感があるけど、一つだけ明確な誤りがあります。
それは、日本がイラク戦争に関して「ニュートラルな立場をとった」というところです。これははっきり間違い。
日本というか小泉は、当初、国連決議に基づきとか言っていたのに、アメリカが強行先制攻撃を決するや、なんの論拠も説明もなくただ「支持します」とし、孤立しかけていた米英を強く支えたのです。他の支持国はスペインおよび東欧の2カ国程度でした。国力のある大きな国としては、日本は米英につぐ3番目の戦争加担国だったのです。

あのとき日本が「やはり国連決議は必要。最低それがなければ日本は支持できない。米英はもう少し努力を」と本気で呼びかけていたら、事態はかなり変ったかもしれません。

また、戦争が早く終ったため具体的支援にはいたらなかったけど、長びいていたらイージス艦派遣、あるいは医療部隊、戦後復興体制確立という名目などで、実質的に軍隊派遣の行動をした可能性は極めて大です。
今後も膨大な戦費の負担をする可能性大です。「金は出すけど手は出さなかった」は言い訳になりません。殺人事件は下手人と金主はどちらも殺人罪でしょう。

それらを感じとるからこそ、かつて親日的だったイラクでもアフガンでも、今や反日機運が充ちているようです。先だってのアフガン・カブールでのデモでは、米英国旗と並んで日章旗も焼かれたそうです。



4月27日  若葉風

 暦の上ではまだ晩春だが、昨日今日と間違いなく初夏の風情である。
 昨日は川原と近所の住宅街、ついで車でほど近くの難波田城あとへ行き、菜の花や大根花、れんげや藤などを見た。

 そして、そのあと、私が勝手に白鷺城と名付けている白鷺青鷺数十羽の宿となっている竹藪池も覗いて歩いた。ここでは、鷺どもが、ゲボゲボ、ボソボソ、グエッ、グググ、などと明らかに話をしあっており、それを聞くのが面白い。

 今日も川原から花水木の咲く土手づたいに歩き回るか、あるいは東上線に乗って東松山の箭弓(やきゅう)稲荷へ、牡丹と藤を見に行こうかと考えている。この牡丹園と藤は質量ともに関東有数、なかなかの見ものなのである。



4月25日  イラク戦争と学生たち

 このところ新学期とともに、このHPの大学掲示板を舞台に、学生諸君たちの間で、イラク戦争に関する議論がだんだん盛上がってきた。
 ゼミでも、1年が早くも課題で「イラク戦争」のエッセイの合評を始めたし、2年も連休明けにはエッセイ「戦争と私」の合評を始める予定だ。

 それで、私は今日、それらの参考になればと思い、下記の書き込みを掲示板にした。それをここにも転載する。


 論争が盛上がってきて何より。参考までに、2年前アメリカによるアフガン爆撃が始まったころに、学校で学生諸君などに配った簡単なプリント1枚を、ここに掲載することにする。ただし、最後の1行だけは今回新たに付け加えた。


   アメリカが第二次世界大戦後、空爆を行なった国々

        中国 1945〜46
        朝鮮 1950〜53
        中国 1950〜53
        グアテマラ 1954
        インドネシア 1958
        キューバ 1959〜60
        グアテマラ 1960
        コンゴ 1964
        ペルー 1965
        ラオス 1964〜73
        ベトナム 1961〜73
        カンボジア 1969〜70
        グアテマラ 1967〜69
        グラナダ 1983
        リビア 1986
        エルサルバドル 1980年代
        ニカラグア 1980年代
        パナマ 1989
        イラク 1991〜99
        スーダン 1998
        アフガニスタン 1998
        ユーゴスラビア 1999
        アフガニスタン 2001
        イラク 2003



4月23日  俳人・石寒太さんと一献

 一昨日、同じ志木ニュータウンに住む石さんと久々に飲んだ。
 石さんは加藤楸邨門下で出発し、師死去後は結社『炎環』を作って独立、今や門人600人の中堅宗匠である。
 別に長く編集者として角川書店ついで毎日新聞出版局に勤め、現在も毎日新聞刊の俳句雑誌『俳句アルファ』(隔月刊)の編集長でもある。

 私とはやはり御近所衆だった某氏の仲立ちで確か6、7年前顔を合わせ、連句の半歌仙(18句)を巻いたりした。『俳句アルファ』に寄稿させてもらったこともある。

 同い年の気安さもあって、その頃は何回か杯をまじえたし、よく道で会ったりすると、ちょっと立ち話をしたりという関係だった。が、2,3年前からだったか、氏が直腸を患われ、手術をされたりしたころから、あまり会わなくなった。たまに道で見かけても、体調が悪そうにうつむき加減で歩いて行かれるので、声をかけずにいたのであった。

 それが突然の電話で一献やりたいというので、隣の志木駅近くの氏馴染みの店で会ったところ、顔色もピンク、眼差しも以前と同じく茫洋穏和で、すっかり回復の様子である。
 
 で、生ビールを飲みつつ、この間の互いのこと、ニューヨ−クに同じころ行っていた話から始まって、私はつい、ヒッピー時代にネパールの丘で各国の若者らとギターを爪弾きながら、即興の掛け合い唄をみなで歌ったりしたのが、わが連句の原点、といった昔話までをした。
 いつのまにか、生ビールのグラスはひとり6杯はいっていた。

 話題は、氏がまもなく定年を迎えること、その後の心づもりにおよび、近著の『心に遺したい季節の言葉』(KKベストセラー刊)や『石寒太句集』(ふらんす堂刊)などを頂いた。

 その句集は第1句集から第4句集まで今までの全句集からの集成本で、いわば俳人としての氏の簡易まとめブックの趣がある。
 「まるで人生のまとめみたいですね」と言うと、「いや、それじゃまるでもう死ぬみたいじゃないですか」と穏やかな否定が返った。

 一緒に電車で帰って、以後今日までチラチラとその句集を読んでいるが、今朝、こんな句が目に付いた。

     楸邨先生
  遺されし巨き鼻筋春座敷
  春愁や背後に月の橋のばす

 1句目は、伝え聞く楸邨の顔だち・雰囲気、そして師への石さんの思いが伝わるし、2句目は、ちょうど春愁のさなかにいる我が身と、同い年の隣人のことを思った。



4月22日  第2回オンライン歌仙満尾

 1月11日東京・新江戸川公園内旧細川邸にて発句を開始したオンライン歌仙が、その後ネット上、ついで鬼子母神・大欅庵にての第2回オフ会、再びネット上、と場を変えつつ進行した結果、本日、最終総括も終え、首尾整った。

 総括結果は歌仙欄に詳しく書いたので、そちらを参照していただくことにするが、連衆の腕も明らかに上がり、なかなかの出来である。これ、決して自画自賛ではありません。ぜひ、連句欄で一見して下さい。

 また連衆9名の内訳は、うち4名がオンライン上でまったく初めて知り合った方々であり、その職業も文芸歌手(梁塵秘抄や和歌、芭蕉の俳句などに曲をつけ、歌として歌う試みを果敢に続けている方。もとオペラ歌手)、建築家、精神科医、主婦兼尼僧、と実にユニーク。

 ほかも、編集者、歌人、大学院浪人(日本文化史専攻)、出版社員、そして私、であり、年齢も24歳から61歳まで、男女比も5:4と頃合、とバランスも絶妙であり、味のある連句会に育ってきた気がする。と自画自賛。

 第3回は連休明けぐらいから開始する予定なので、我とおもわん方、この機会に参加して下さい。
 楽しいオフ会もまた開かれることと思います。
 


4月21日  春愁

 すっかり暖かくなり、一昨日まではまるで夏並であった。
 木の芽どきには鬱になったり逆に躁になったり、精神に影響を及ばされる人も多いというが、私の場合はいささか愁いがちとなる。

 木曜日なぞ大勢で飲み会をしたが、大勢ゆえか妙に疲れ、屈託が以後続く。
 こういうときは「太宰さんは器械体操でもすればよい」と言った三島由紀夫のごとく、自分も体を鍛えんと、腕立て伏せなぞを毎日40回ぐらいしているが、効果もあり、さりとて基本線は変らず。

 そこへ同世代・同窓、学生時代は文研というサークル仲間だった作家・小嵐九八郎から『蜂起にいたらずー新左翼死人列伝』なる書が届き、これが読み進めるにつけ、引き入れられ、かつウームと鬱々悶々たる気分になる。

 なにしろ、わが学生時代以降政治的闘争で累々と非業の死を遂げていった死者たちの列伝で、多くは同世代そのもの、何人かは口を利いたり顔を知っていた人、名前だけなら7割近くを知っていた。
 それらが陰惨に殺されたり、自殺したりばかりの話。それが延々27人、350ページにわたって続く。

 溜息をついて、書を閉じたり、しかしまた開いたりで、今現在まだ少し残っている。たぶん、今日中に読み終わるだろうが、愁いは当分続きそうだ。
 我らが世代、戦争・闘争は外国ばかりではなかった。



4月18日  住民投票、選挙の結果報告

 4月13日に書いた投票の結果は、合併に関しては、和光市が反対が圧倒的多数、新座市が僅差で賛成、志木、朝霞両市は賛成多数だった。
 1市でも反対多数なら、合併はご破算の前提だったので、合併協議会はまもなく解散となる。

 ひとまずホッとしたが、ただし、反対理由は和光市は東京の方に近く、住民の顔もそっちを向いているため。新座市の反対者も西武池袋線沿線住民が、東上線沿線が中心になりそうな新市構想にメリットを感じないため、とのことらしいから、いずれにせよ、私の考えた少国寡民の考えとは随分ちがう。むしろ、大東京志向か。

 県議は長沼氏が大勝。これも合併問題との連動はなかったということだろう。
 両者総合して、なんだか現実主義そのものというか、あまり面白くもなく、しかし妥当というかそんなものかなという感じである。



4月16日  マイケル・ムーア監督「ボウリング・フォー・コロンバイン」のこと

 月曜日に有楽町駅近くの「シネ・ラセット」(もと有楽シネマ)で、この映画を見た。友人の谷章さんやパートナーの田村志津枝(ノンフィクション作家だが、元来は映画畑出身で、映画に関する著書も複数ある)が、しきりに話題にするので、私としては珍しく、都心の映画館まで足を運んだのである。

 内容はアメリカの銃による殺人と銃規制をテーマにしたドキュメンタリーで、タイトルのコロンバインは2年ほど前、アメリカの地方高校で起った高校生による銃乱射大量殺人事件の学校名であり、同じ町のボウリング場で起った3名の銃殺人事件(別の事件?)からとったものだ。いずれも定かな理由とてはっきりしない、訳の分らない銃乱射事件だ。

 それらを出発点に、日本でも10数年前テレビなぞであったいわゆる突撃レポート(事前申込みなしにいきなり押しかけてインタビューしまくる形のもの)ふうに、マイケル・ムーア自身がいろんな場所や人を訪れマイクを突きつけて進行する。

 相手はコロンバイン高校の被害者を始め、加害者の同類と思える若者、町の人、銃砲を売っているスーパーの店員、全米ライフル協会の会長チャールトン・ヘストン、コロンバイン高校のある町の城主ともいうべきミサイル製造工場ロッキード社の社員、等等々。

 更にその間にブッシュの演説や9.11事件後の様子、アメリカの暴力の歴史、戦争や他国爆撃の実相などが、フィルムやアニメまで使って挿入されていく。
 全体にすべてがハイスピード、早口、畳みかけるような調子で、息をつがせない。
 
 ゆえに、迫力はあるが、見ていてかなり疲れもする。
 トーンは反暴力、銃規制推進、全米ライフル協会や好戦的なブッシュ批判、銃社会アメリカ、病んだアメリカへの疑問、である。

 ゆえに、いい映画というべきなのだろうが、しかし谷さんが言うとおり、手放しで喝采は出来ない。どうも落着かない、もう少しゆっくり考えさせる時間も持って進んでくれ、そんなにぽんぽん言い募るだけでは、物事は深まらない、という気がしてくるのである。

 そうして、見終わって一番印象に残ったのは、銃の少ない日本やヨーロッパとの違いはともかく、人口3000万人に対し700万丁もの銃が一般市民に保持されているカナダで銃殺人事件が殆どないというか極めて少ないのに、国境を越した途端、アメリカでは年間1万数千人も銃で死んでいる事実である。

 これは一体どういうことなのか。ここにこそ、たぶん問題の本質、鍵があろう。
 マイケル・ムーアもそれには気付いているが、しかしその訴求がどうも十分でない。というより、どう考えていいか分らず、ただひたすら迷い、右往左往している感がある。

 むろん、私とて一向分らない。一昨年、アメリカにサンフランシスコ1ヶ月、ニューヨーク2ヶ月と滞在し、あの9・11事件にも間近で遭遇したが、それぐらいではこの問題は見当も付かない。
 分るのは、アメリカがすごいストレス社会であり、すごい経済力、国力、暴力装置を持った国であり、たぶん世界一の肥満者国であり、そしてやけに銃が好きな国民が多い、ということだけである。

 これらをいったいどう考えればいいのだろうか?



4月15日  今度はイラクの写真

 宮内勝典さんの「海亀日記」に、今度はイラク戦争の写真のサイトが新たに紹介された。私もまた、転載させていただく。

 http://www.robert-fisk.com/iraqwarvictims_mar2003.htm



4月13日 その2  ホームページ開設1周年

 いま(午後4時)気付いたのですが、昨12日が昨年のこの日記開始日でした。ただし、風人通信全体を完成させ、実際に皆さんに通知したのは16日だから、そちらが開設記念日かもしれない。
 いづれにせよ、現段階で今までのアクセス総数11129,つまりざっと1ヶ月に1000,1日平均30ちょっというところでしょうか。

 この数日はだいぶ増え、最高60,平均50くらいになっていますが、これは新学年度のせいかもしれません。
 が、まあ増えつつあるのは事実で、思わぬ方面から新アクセス者があったりします。

 自分の世界が少し広がり、日々の楽しみも増え、開設してよかったというのが実感です。皆さん、今後とも、このHPを御贔屓下さい。そして、皆さんも思いきってHPを開設したらとお勧めします。



4月13日  地方選挙、住民投票、少国寡民、戦争

 今朝さきほど、投票にいってきた。
 眼目は私の住む埼玉県志木市と新座市、朝霞市、和光市の県南4市合併をめぐる住民投票だ。
 
 私は合併断固反対。今回がどうというより、ずっと昔から私は行政権力を持つ組織は小さい方がいい、少国寡民がよし、という意見だ。それに、今回の具体的要件を考えても殆どメリットはない。
 
 ただし、この少国寡民、もともと荘子の中にある言葉で、がんらい中国のこの種の書は論語を始め統治者の観点に立っての治世の書である。だから、市民の側とは立場がちがうとも言えるが、しかし、今は大統領・首相はもとより、県知事も市町村長も、自分の権力版図は大きいほどいいと思っているのが殆どのうえ、治められる側ー民百姓は今や近代市民として制度的には自立しうる建前だから、少国寡民を市民のものとして逆転させ得るというのが私の考えだ。

 で、住民投票はむろん「反対」に迷うことなく丸印をしたが、ちょっと困ったのは同時にあった県会議員選挙である。
 候補者は2人のみ。ひとりは共産党、もうひとりはかつて25歳の埼玉大学院生で志木市会議員になって以来、市議、県議と議員であり続けた(途中1回だけ落選)、市民派元祖の長沼明氏。

 私は志木市に越してきて以来、長沼氏に投票し続けてきた。カンパしたことさえある。
 が、今回、彼は合併問題に関して何ら意見表明をしていないのである。どうもどちらに転んでもいいように、この件に関しては口をつぐんでいるかに見える。
 一種の保身である。彼もすでに48歳、県議2期、子供も複数おり、生活もあろう。政治家生活にすっかり慣れた面もあろう。

 一方の共産党は一貫して合併反対。論拠はもっぱら現実的メリット・デメリット論だが、しかし説得力も十分ある。
 さて、どうするか。県議選は合併問題とは直接の関係はないが、やはり、ちょっと迷う。

 結論としては、私は長沼氏に投票した。地方重視とはいっても、しょせん極めて中央集権的一枚岩性の共産党より、長年の市民派個人の方をよしとしておこうと考えたからである。
 むろん、監視はし続ける。

 しかしまあ、政治は身近な小さなこと一つとっても、難しい。
 国際政治や戦争となると、ずっと難しい。
 
 今日、友人の講談社員・谷章さんから、イラク戦や北朝鮮問題、アカデミー賞の授賞式で「ブッシュに恥を、ブッシュに恥を!」と叫んだマイケル・ムーア監督の映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』、などへのそれぞれ微妙な思いをつづった長いメールをもらったが、実際それらのどれも本当のところ、具体的にどう判断し、どう選択すべきかは実に難しい。

 端的に言って、今度の戦争に対し、「反戦平和」とだけ単純に言っていられるのか、どこかで戦争を面白がったり、何かを期待した面はないのか。北朝鮮のあのクレージー・ヘアーに関しては、いっそ武力でやっつけてやりたいと感じたことはないのか。『ボウリング・フォー・コロンバイン』の視点は単純すぎるという意見もありそうだ。など、自分自身の中で迷うことが多いのである。



4月10日  新入生、そしてバクダッド

 昨9日は、勤め先の日芸こと日大芸術学部文芸学科で新入生ガイダンスがあった。
 今年の文芸学科1年生は156人。そのうち11人が私のゼミ生になる。
 顔ぶれは男6人、女5人。

 例年女子が6割だったのに、今年は全体でも男女が半々となった。いかなる傾向か?
 18歳人口減少のなかで、女性は相変わらず女子大へ行く数も一定数あるため(有名女子大も入りやすくなっている)、相対的に女子の比率が減るのかもしれない。

 11人は北海道、青森、長野、淡路島、など各地から来ており、人生で初めてひとり暮らしをする者も多い。5月病にならぬよう、早く友達を作れと、部活入部なども勧める。
 このHPのアドレスも教えた。メールや掲示板がその一助になればいい。

 夜は池袋のホテルで開かれた先生方の顔合せ会に出、帰宅後テレビを見たら、バクダッドが事実上の陥落を迎えていた。予想よりだいぶ早い。
 一部では、住民による略奪までが始まっていた。軍隊はもとより、警察の姿もない。

 サダム以下政権幹部はいずれも行方不明。
 サダムと息子二人は死亡か、という報道もあり、サダムの居場所とおぼしき場所へのクラスター爆弾投下あとが画面に出たが、建物の跡には巨大な穴があき、瓦礫だけが散らばっていた。

 見ていて胸の深いところで暗然とした気分になった。
 サダムがほんとに爆撃死したとすれば、彼の恐怖はどんなものだったか。こういうやり方で強国が一国の大統領を殺害することとは一体何なのか。毎日テレビで時にほほえみを見せて語っていたあのサハフ情報相は、どんな思いであれらのブリーヒングを行い、今、どこで、何を考えているか。等々が次々と思い浮ぶ。

 私はサダムも、少なくともかつてクルド人に対し毒ガス虐殺を行った罪だけででも、打倒され裁かれるべきだと考えているが、しかし、それはこんな形で行われるべきものなのか。
 サダムが殺されるのなら、ブッシュも裁かれるべきではないのか、と思わざるを得ない。

 それにしても、本当にサダムはこの数日、どんな思いでいたのだろう。かつて、ベルリンの地下壕で愛人とともに自殺したヒトラーと比較したりしながら、独裁者の人生というものを、つい文学的に考えた。文学は現実の勝敗、正邪、ではない。人間とは何かを考えるものだ。
 


4月8日  写真の件・その5

 けさ開いてみたら、その4で書いたサイトがきちんと出ました。

   http://www.alkhilafah.info/massacres

 問題の写真はその「Parestine」→Page27「Horrific Pictures from Jeninn」です。



4月7日  シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の3日間

 4月4日、郷里から86歳の母上京、翌5日土曜日、昨年春結婚した娘夫婦もやって来、柳瀬川畔で花見の予定が、折からの冷雨のため屋内にて宴。

 日頃二人だけで、客はめったにないマンションの一室が人で充ちる。
 虎ノ門のアメリカ大使館近くが勤め先である娘が、このごろ連日デモ隊がやってくると話したことを機に、イラク戦争について喋りまくる。

 ただし、喋ったのはほぼ私とパートナーの二人だけで、肝心の若者二人は何も言わず。娘は宝石会社勤務、娘婿は公務員のせいなのか否か、どうも保守的。よく言えばおっとり穏和、悪く言えばわれ関せず。

 おばあちゃんまでが、デモくらいもっとやらなあかんな、などと言い、大人二人は過激なくらいアメリカやブッシュ藪男をこき下ろし、小泉純ハチコーを罵倒するのに、若い二人は終始穏やかにほほえみ続け、3時間たっても遂に二人とも戦争については一言も発しなかった。

 いやあ、参った、オドロイた。
 私もパートナーもその年齢のころにはポケットにいっぱい石をつめたりして、デモ暮しだったのに、何たることか。
 世代というもの、時代の変化というものを、いやというほど感じざるを得なかった。

 娘夫婦がいない時間はもっぱら母の愚痴聞き。4年前58歳で癌で早世した兄亡きあとの兄嫁との葛藤、孤独な日々、嫁・孫と生活時間が合わずほぼ3食とも1人で食べる食事のわびしさ、だんだん衰える体の機能、遠くなる耳、次々亡くなったり様変わりしていく親戚などの様子……。

 こちらには返事のしづらいことが多く、憂鬱にして、しかれどもほっておく訳にもいかず、何とか知恵を絞ろうとする努力は疲れが増す。
 ともあれお小遣いをと用意した封筒を渡したり、基本的には人間は1人で生きなければ、と親に向って訓戒したり。

 6日、もうこれで最後だわな、元気でやってな、なぞと言いつつ帰る母をJR池袋の電車に見送って、その足で、都下町田市で開かれた1年年長の学生時代の友人のお別れ会に駆けつける。

 多田保さん、享年60歳。定年退職後半年目の2月末、蝶々採りか、あるいは山の水汲みに車で訪れた丹沢の麓で、糖尿病の合併症らしい心筋梗塞を突然発症、車をガードレールに接触させ停め、そのまま意識不明、ヘリコプターで東海大病院に運ばれたときはすでに死亡していたという報告を、これまた学生時代から知っていた喪服の奥さんから受ける。

 集まった旧友たちはいずれも白髪・禿頭、あるいは皺の目立つおじいちゃんおばあちゃんばかり。名乗られて初めて、あ、誰々さん、などと言い合い、ということは詰まるところ、おれも人からはそう見えているかと気分萎え気味、しかし、気を取り直して、2次会3次会と酒も進むうち、故人はどうだった、早大闘争のときはこうだった、あいつは民青だった、フロントだった、ブントだった、社青同だった、革マルのあいつは殺された、などとまたしても喋りまくった。

 途中で目の前に座っていた、それまでオレは年収3000万、ここの払いはオレが持つと見得を切っていた1人が突如立上がり、「オレはもう帰る、不愉快だ」と叫んで、1万円札1枚だけを机にたたきつけ帰っていった。で、けっきょく割勘で勘定をして、帰宅したのが、午前0時半。
 
 さすがにくたびれ果て、いつもは寝言でうるさくてかなわないはずの身が、どうやら一言も発せず、グーグーと快眠したようだ。
 おかげで、今日は何やら脱力・脱色後の爽やかさみたいなものまであり、土手の花を愛でて歩いた。ああ、我はいつまで生くるや。



4月5日  写真の件・その4

 教え子のいけがみあきこ君(パソコン関係に勤務)が、以下のように調べ、知らせてくれました(分るものなんですねえ。感心しました)。

 あのサイトは他へ移転した可能性あり。2日間の休止後、日本時間の5日21:13分頃までに復活するとの予告あり。
 その際の新サイトは、

  http://www.alkhilafah.info/massacres

 皆さん、試してみて下さい(成否は今のところ分りません)。もう何回も内容予告をしたので、今回はハイパーリンクをかけました。残虐写真を見たくない方は、開かないこと。



4月4日  写真の件・その3

 4月3日付海亀日記で、宮内勝典さんが新しい情報を書いてくれている。
 
 彼の知人が例の写真を保存しており、HP上で見られるとのこと。そのURLが載っているので、見たい人は「海亀通信」にて見て下さい。



4月3日  パレスチナの写真の件・追伸

 今日、ネットを開いたら、昨日付けで宮内勝典さんが「海亀通信」の日記に、この件について書いているのを発見した。
 皆さんも見て下さい。私もまったく同意見です。
 
 海亀通信はここのリンク欄から行けます。



4月2日  パレスチナの写真の件

 3月25日付で書いたパレスチナ・ジェニンでの虐殺の写真の件について、昨日学校で副手の橋詰君および学生から、開こうとしたが「ページがありません」となってしまうという指摘を受けました。

 今、自宅のパソコンで試してみたら確かにその通りです。少なくとも3月25日段階では見ることが出来たのですから、その後何らかの事情であのサイト自体が閉鎖されたか、ストップされたとしか考えられません。あのページだけでなく、サイト全体がなくなっているようです。

 事情は私にはまったく分りません。
 内容は虐殺された人たち6−7人(男女、子供もいたかも)の、頭が半分なくなったり、腹から内臓がぶくぶく露出したり、足や手がちぎれていたりの近接カラー写真でした。残虐すぎるといった理由で公開中止になったか、あるいは何らかの圧力がかかったのかもしれません。

 理由を調べられそうな人あったら、教えて下さい。



3月31日  オンライン歌仙第2回オフ会開かれる

 連句欄に報告を書いたので、その一部をここにも紹介します。

 昨30日、第2回のオフ会が、東京・鬼子母神大欅庵にて行われました。参加は庵主・山本掌(文芸歌手)、太田代志朗(歌人)、長谷川冬狸(編集者)、湊野住(大学院浪人)、越智未生草(精神科医)、高井朝子(札幌・もっか主婦)、それに宗匠役の夫馬南斎の7名でした。

 折から鬼子母神こと法明寺の桜は殆ど満開に近く、天候も爽やかで絶好の句会日和でした。
 しばし桜の下を散策し、「蕣(あさがお)や倶利伽羅龍のやさしかる   富久」なる句碑を発見解読(ただし、浅学にして全員、富久の何たるか誰たるかを知らず。御存知の方、お教え下さい)。
 上機嫌で戻って、持ち寄りの大吟醸で一献やりつつ歌仙開始となりました。

 結果は、上に表記したとおりです。
     (中略)
 あとはゆっくり鑑賞していただけば、なかなか味わいに富んだ句つづきのはずで、上々だと思います。苦吟が常だった代志朗さんが、粋な和服姿のせいか乗りまくったのが印象的でした。今後とも和服で。ついでに野住君も和服でいらっしゃい。

 朝子さんは北海道から駆けつけ大忙しのせいで、4時到着となったため、採用句が出ませんでしたが、目下主婦ながら真言宗で得度していて、つまり尼僧であることが判明。そういえばそういう顔に見えてきました。

 越智さんも精神科医であることがはっきりしたし、僧も揃って、句の内容もいつ狂(ふ)れてもいつ死んでもいい気配となりました。
 まことに多彩、句の腕も向上し、全国有数の連句会に育ちそうな予感がします。呵々。



3月29日  桜咲く

 などと書くと、誰かが入試に合格でもしたみたいだが、我が家は初老二人がいるだけである。要するに、下の柳瀬川畔の桜が咲いたというだけだ。

 来週の土曜には田舎の母・結婚した娘夫婦を招いて、川原で花見を行う予定なので、よけい開花具合が気になる。
 今日で2分咲き、ちょうど頃合か。

 土手を歩くたび、いくさのことはしばし忘れられる。やはり、平和がいい。
 しかし、一方では、アメリカ軍のもたつきと世界中での反米感情の高まりに、つい今後への期待と関心も強まる。

 そうそう、今日PM11:30より、NHK・BS2「週刊ブックレビュー特番」で、私もちょいと顔を見せるはずだ。よかったらご覧下さい。



3月26日  昨25日卒業式

 今年も和服姿の何人もの卒業生たちと並んで写真を撮った。卒業式はこれが一番楽しみである。歳古るごとにそうなる。
 それにしても、女の子たちは着物を着ると、急に女っぽくなるなあ。

 例によってまた、この日になって就職やら進路決定の報告が何件かあった。
 卒業生ではないが、中退後長年マンガ修行をしていた通称ヒロロ君(26歳)が現れ、しばらく前にマンガの賞をとり100万入った、作品も「ビッグコミック・スピリッツ」に載ったと報告してくれた。家賃2万円、生活費月5万円で頑張ってきた甲斐があったと、本当に嬉しくなった。

 院生のSとその仲間演劇科のAは、連休明けからザックを担いで、ベトナムからトルコまでアジア大陸横断の旅にでるそうだ。途中アフガンとイラクには寄ってみたいというから、ぜひそうしろと激励した。

 この30日にはチェコに向け出発する5年留年生もいる。もちろん(というべきか)、ほかにも留年組は多く、実は今年のゼミが過去最高。不況のせいか、就職率も過去最低。若者もラクばかりではない。

 卒業生のお母さんにもお二人と会い、記念写真を撮った。どちらも日本海側の美人の産地から来た方だけあって、若々しく美形であった。こういうときは自分が小学校の先生だったらいいのにと、秘かに願望する。



3月25日  すさまじい写真

 友人の作家・宮内勝典さんが、昨日付けの個人HP「海亀通信」中の海亀日記欄で、以下のような文を書いている。
 ちょっと迷ったが、下にそっくりコピーさせてもらうことにする。こういうことは初めてするのだが、理由はその内容自体を見ていただけば分ると思う。


         (海亀日記)                  March 24,2003
 昨年の春、イスラエル軍はパレスチナ人の難民キャンプで虐殺を行った。戦車や、ブルドーザーで、無防備な人たちをひき殺した。

 その凄まじい光景を、米国人女性ジェニファー・ローウェンステイン(Jennifer Loewenstein)が、何枚も写真に撮っています。一年間の沈黙を破って、あえて今、その写真を公開しています(「非戦」の友人が知らせてくれました)。

 2002年4月19日、東イスラエル・ジェニンの難民キャンプで起こった事件です。写真には、一部ジェニン事件以前のものが含まれているのではないかという指摘もありますが、イスラエルによるパレスチナ人虐殺であることは、間違いないとされています。

 恐ろしい、あまりにも残酷な写真ですから、
 繊細な人たちは、見ないほうがいいかも知れません。

 直視する勇気をもった人だけが見てください。
 これは、いまイラクで起こっているかも知れない戦争の現実です。

http://www.ummah.com/inewsletter/massacres/palestine/jenin.htm

 不用意にクリックしないように、あえて、ハイパーリンクはかけません。直視する勇気をもった人だけが、このURLをコピーしてから視てください。

 きみは、見なければならないよ。         (以上)


 私も、上記中のHPアドレスにはあえてハイパーリンクをかけないことにする。
 私は見た、その上でそう判断しました。



3月24日  戦争報道を信用するな

 昔から大本営発表は信用できないものの代名詞だが、今度の戦争でもそうである。米軍イラク軍・米英政府イラク政府筋の発表、それに基づくマスメディアの報道は、まずもって眉につばをつけて聞いた方がいい。

 かつての第1湾岸戦争の際には、イラク各地への爆撃はピンポイント爆撃ばかりかのようにテレビ映像などが流されたが、実際はその間に多数の民間施設への爆撃もあって、多くの民間人の死者が出ていたことが後になって分った。
 
 また、海辺で真っ黒な重油にまみれたかもめの映像が映され、「イラク軍が破壊した油井から流れた油による汚染」と報道され、世界の非難を浴びたが、戦争が終ってからあれは何者か(たぶんアメリカサイドの)によって作られた画像だと分った。

 今回も早くも、戦争第1日目に殺されたはずのイラク副大統領が生きていることが分ったし、バスラで投降あるいは逃亡したはずの8000人のイラク軍は、いまだ健在であり、陥落かそれに近かったはずのバスラはまったく陥落などしていないことも明らかになった。

 戦争は情報戦でもあり、嘘やだましは兵法のうちともいわれるが、いずれにせよ嘘・ニセ情報が横行すること、マスコミも多くはしょせん米英側の厳しい報道統制下におかれていることを、受け手たる我々は肝に銘じておくべきである。

 最先端の情報時代といわれるときこそ、情報操作もしやすいのである。どんなテレビ局、どんな新聞であれ、この世に完全に信用できる報道メディアなどありはしないのだ。



3月22日  29日、週刊ブックレビュー特集

 来週の土曜日、NHK・BS2「週刊ブックレビュー」が、いつもの日曜朝10時の定番とは別に、PM11:30から何周年記念かの特番を組むそうです。
 そこに私も再録番組の一部として登場するという連絡がありました。

 具体的にどんなふうか詳細は聞いていませんが、よかったらご覧下さい。ちょい出かもしれませんが。



3月20日  とうとう始まった

 お昼のニュースによると、遂に戦争が始まった。
 
 藪男によれば、解放のための戦いだそうだ。オドロキである。
 あのモンキー・フェイス、どこか得意そうな目とワクワクした表情を抑えきれずにいた。不愉快なので、私はテレビのスイッチを切って、これを書いている。

 これから当分、あの嫌な顔つきを見なければならないのだろうか。



3月19日  遂にいくさか

 新聞もテレビも、もはやいくさ一色なり。
 明日午前10時過ぎが開戦の時ともいう。ああ、藪男、遂に蛇をつつきだしてしまったか。黒い大きな魔物のような蛇を。

 その藪男にただ唯唯として従うわが無能首相は、向後、小泉純ハチコーと改名すべし。



3月17日  関東平野のど真ん中の里

 昨日は車で埼玉県川島町へ行った。
 
 何年か前、遠山記念館(音楽評論家遠山一行の父・もと日興証券社長が、生家近くに母親のために造った別宅に美術館を付設したもの)を見に行った折、この界隈が山影ひとつ見えない全くの関東平野のど真ん中にあって、昔の農村風景を牧歌的に残しており、そこここいたるところにある小川には目高や鮒など小魚がワサワサいることに感激して以来、毎年、折々訪れる地である。

 昨日も記念館はもう訪れもせず、車を止めて1時間ほどただ村中の野道などを歩いた。
 目高はすでにいっぱいおり、わが足音を聞くやピッピッピと水面わずか下を逃げ回る。鮒は目撃できなかったが、橋のたもとにバイクを止めしきりに練り餌を作っている人物に聞くと、「いや、この橋の下にいそうでしょう。いますよ」とのこと。

 興に乗って畠道を歩いていたら、近所の農家のおかみさんから「そのさき、路はないですよ」と叱りつけられたり、と思うと村はずれに「ペット霊園」なるものがあり、どうやら小型の焼き場兼アパートふうペット墓場になっているのに驚かされた。「お参りの方受付」なぞという表示まである。

 もう一つ初めて知ったもの――高さ4,50メートルありそうな灰色のレーダー施設ふうの鉄骨塔。
 こは一体なんぞと見上げ、近くの農作業中の人に聞いたら「ケータイの塔」とのことであった。
 なあるほど、関東平野のど真ん中となると、こういうものがあるんだなあと、ひとしきり感心した。



3月15日  また寒し

 昨日は一日、春うらら。好きな辛夷・白木蓮のつぼみも白く花弁の一部を見せ始め、さあもう春だと思ったのだが、今日はまた肌寒い。
 それでも、土手を歩くと、桜のつぼみも丸みを帯びている。団地内の雪柳はもうほころび始めている。

 早く来い来い、春の日々。
 ま、こんなことを言っていられるのも、春休みの春のうち、いくさの匂いがひょっとして遠のきつつあるかもという安らぎのうち、かもしれない。



3月14日  祝・HPアクセス数10000突破!

 自分で「祝」などと言うのもどうかと思うし、11ヶ月かかって1万というのも誇るべき数字とも思えないし、いずれにしろだいぶ前から分っていたことで大した意味はないのだけど、でもまあ、やっぱり多少の感慨あり。

 去年の4月開始時は、海のものとも山のものともつかぬ気分だったのが、今では毎朝食後にHPとメールを開くのが完全に身についた日課となった。これをしないと落着かないし、朝起きるのが楽しみな感じさえ少しある。

 今年からはちょっと忙しくなりそうでもあるが、HPに関してはなるべくペースを落さず更新していくつもりです。皆さん、今後ともよろしく。



3月11日  大阪・猪飼野

 一昨日、大阪の猪飼野を訪れた。日本で一番大きいコリアタウンがある地域だ。
 大正末期以来すでに70年の歴史のある街で、在日韓国朝鮮系および最近では新世代のニューカマーを含めて6,7万人もの人が住んでいる。

 小説家の梁足日、玄月、金石範、詩人の金時鐘らを輩出した地でもある。
 これまでいろんな人から話を聞いたり読んだりしており、どんなところかと勝手に想像力ばかりふくらんでいたが、今度春休みを利用して思い切って行ってみたのだ。

 自転車を引っ張って案内に立って下さった詩人の宗秋月さん(『猪飼野タリョン』『サランヘ』などの著者。最近は『なにわに残る戦争の跡』というビデオ作品を製作指揮)の横に並んで歩くと、猪飼野は意外に小さく、まわるだけなら1時間そこそこもあれば済んでしまう面積だった。

 が、中心部の「コリアタウン」(もとは朝鮮市場といっていた)は、先だって行った東京・三河島のそれに比べれば10倍はありそうなうえ、百済門という名のコリア伝統式の門が3つもあり、折から若者たちによる街頭ジャズコンサートなぞも開かれていて、賑やかそのものだった。

 ときおり霙が降るなか歩き回った街全体は、下町ふうの小さな建物がびっしり詰まっており、プレスとかビニール何とかとか書かれた家内工場的気配の家を含め、表札の半分以上はコリア名ないしコリア系のいわゆる日本式通名と思える苗字である。

 今は路も舗装され、家も多くは新建材などの新しいものになっているから、こざっぱりした印象さえあるが、元来は標高2メートルほどの低地だったため、雨など降るとぬかるみだらけだったという。

 面白いのは宗さんの話で、「古い家はたいてい日本人のなの。在日は皆パッと新建材なんかの家にしてしまう」とか、「ここの女たちは50.60の婆さんでもすごくカラフルなパンティなどをはいている。布団もそう。新婚でもないのにど派手なの。皆、移住してきて縛りやしきたりがなくなったから、そうしてるのよ」なぞというのである。

 じっさい、あとで訪れた鶴橋駅近くの、戦後闇市を思わせる巨大な「国際マーケット」に軒を連ねるコリア民族衣装店を覗くと、晴着などの5色を中心にした色彩の明るさ、美しさに目を見張る。
 それは、いったい済州島などからここへ移住してきた人たちが、どれほどの生活や精神的落差を体験してきたか、そしてその後の人生がどんなに大変だったかをうかがわせる。

 私はこの猪飼野で昼食・夕食と2食を食べ、霙のなか都合6時間ぐらいは過ごしたが、考えること多く、俄には何も分ったふうなことは言えない半日であった。
 もっとゆっくり考えてから、いずれ何かの形で書くつもりである。



3月6日  人間の盾、そしてフィリピンのテロ

 このごろイラクでの人間の盾のニュースがよく出るようになった。
 2ヶ月ほど前、わが知人・国際ジャーナリストの芝生瑞和さんが、ひょっとしたら人間の盾に行くかもしれない、夫馬さんもどう、なぞと言ったことがあったので、他人事ではない。

 その後を確認していないので分らないが、もしかしたら芝生さんが出てきやしないかと、ニュースの細部を覗き込んでみる毎日だ。ただし、彼は自分にはイラクがヴィザを出さない可能性が大だといっていたが。
 
 私に関しては誘われたとき、一瞬ドキッとし、考えたが、そのときは2月中旬にという話だったので、それでは大学で入試があるから無理だ、と断ったのである。が、3月だと言われていたらどう答えていたろうと、自問自答せざるを得ない。

 もう一つ、一昨日あたりのフィリピンでの空港テロニュースを見るにつけ、パートナーの娘がフィリピンでの国際女性演劇祭へ行った直後でもあり、これまた二人でニュースの詳細を覗き込む仕儀となる。

 戦争も困るし、テロもやっぱり困る。



3月3日  アメリカ・イラク20年

 昨夜、NHKスペシャルで「アメリカ・イラクの20年」という特集番組を見た。
 忘れかけていたこと、知らなかったことが、よくまとめられていた。

 なかで、10年強前の湾岸戦争の際、イラク国内で南部シーア派と北部クルド人がそれぞれ反フセインで蜂起したのに、アメリカが支援せず、結局見殺しにしたことが強く蘇った。

 私はこのとき、アメリカの、表向きは民主主義と正義のためとか言いながら、要するに自国の利害のためでしかない行為にはらわたが煮えくり返った。

 そして、どうせ戦争をあそこまでやるのなら、なぜフセイン政権を倒さないのか、クルド人は独立させるべきだ、と強く思い、自分の周辺にはそう言い続けた。が、この意見は反戦世論の前ではあまり聞いてもらえなかった。

 今回の事態が起ったときも、私が最初に思ったのは、そら見たことか、だからあのときフセインを打倒しておけばよかったのだ、おかげで今つけが回り、また無意味な戦争をすることになる、ということであった。

 もう一つは、石油のことだ。
 今まで今度の事態を動かしているのは実は「石油」だという情報や言説には、有り得ることだとは思いつつ、ひょっとしたらいわゆる「陰謀史観」の陥りがちな裏目読みが過ぎるかもしれないと、警戒感も少しあった。

 しかし、昨日の内容から、現在イラクが輸出している石油はロシア、フランス、中国(このメンバーであることも微妙だ)が一旦買っているにもかかわらず、その6割は、結局アメリカ(メジャー石油資本)に再購入の形で渡っていると知るにつけ、複雑な背景と資本主義の冷徹な動きに驚かざるを得ない。

 これは一体どういうことなのだ。今度の戦争の真実ははたして何なんだと、改めて考え込んだ。
 訳の分らない世の中である。



3月1日  弥生三月、雨が降る

 本日より、三月に入る。
 昨日、勤め先の日芸文芸学科の入試二次試験も終る。受験者数はまたしても前年比一割減となるも、ともあれ年度末の最重要日程はクリアーできたわけだ。

 五時頃、面接・採点集計終了後、同僚の二先生と江古田駅近くでいっぱいやった。
 ちょっとのつもりだったが、これで当分気骨の折れる重要行事はないという安堵感から、酒が進み、気がついたら麦焼酎・吉四六の陶器ふうボトルが二本近く空いていた。

 二日前にも都心の別の場で、やはり同じボトルを四人で二本空けたばかりだから、このところいささか飲み過ぎなり。コレステロールなど諸数値の高い身としては気を付けねばならない。

 そして、今日は確定申告を2日がかりで、やっと書き終えた。
 例年のことだが、年に一回だけの慣れぬ作業なので、パソコンに入れた会計ソフトの前でもたもた時間と神経ばかり使う仕儀になる。

 夕方、夕刊を取りにマンション廊下にでて、初めてかなりの雨が降っていることに気がつく。遠景はもちろん眼下の柳瀬川も、対岸の枯れ田も、雨靄にかすんで、春だなあと思わせる。
 まだまだ寒く、風流な春雨とは言えぬが、春の靄と気配は確実にすぐそこまで来ている。

 そして、その向うに、戦争の匂いと気配も忍び寄りつつある。
 春、いくさの候となるや否や。