風人日記 第六章

田うつろう

  2003年6月2日〜9月20日

吉野辰海 SCREW――飛べ!臓器
2001年






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



9月20日  秋雨降る、北京を想う

 冷夏に比べ暑い残暑だと思っていたら、今朝未明から雨が降り続け、すっかり涼しくなった。
これでいよいよ本格的な秋到来だろう。

 向うの田は刈入れが進み、もはや残っている方が少ないし、建設中の病院は2階分までの鉄骨がほぼ建った。4階のはずだから、そこまでいったら棟上げ式でもやるのだろうか。オレンジ色の鉄骨がやはり周囲の景色とそぐわない。

 私の方は北京行きの準備を始めている。チケット、宿泊等は双方の大学がやってくれるが、なんといっても最重要事は向うでの授業内容だ。
 3回分、通訳付きで、放送大学の学生に何を話すか。

 ビデオやインターネットを使った映像的なものを半分まじえるのが一番理解しやすくてよろしかろう、かつ、日本の現状、日本から見た中国の現状が、テーマになっているのがよかろう、と考えている。テレビと文学など活字領域とのクロスオーバーもテーマだ。

 案はどうにか固まったので、目下テレビからビデオをとること、データ収集に忙しい。



9月15日  稲穂、黄金色に稔る 収穫のとき

 田圃がいよいよ黄金(こがね)色になってきた。黄金色という言い方は、何か大げさかつ常套的な感じがしてためらうのだが、でもやはりこう言いたくなってしまう。食べ物、それも長年日本人の主食だった米が、これでまた腹一杯分出来た、という実感のなせるわざかもしれない。昔は米1石、金1両だったのだ。

 これを書いている今(午前9時10分)、向うの農道に赤い稲刈り車が到着、あっ、今、田圃に降り、早くも稲刈りを開始した。うしろから黄色い粉末を噴き出していく。稲藁とも思えないから、たぶん籾殻であろう。

 今は刈り取りと同時に脱穀もすませ、玄米が袋詰めになって出てくるのではなかったかしら。藁も束ねられて排出されるのだったか? これは違うかしら?
 ウーム、そばへ見に行きたくなってきた。

 いずれにせよ、刈入れ、稲干し、脱穀……といった昔からの手順や用語があまり意味を持たなくなってきた。昔、刈入れは一家総出の重労働だったのに、今は休日に一人か二人で見る間に軽々進んでいく。



9月12日  風人連句会オフ会のお知らせ

 (一般掲示板にも書きましたが、ここにも書きます。)
 10月は私が北京へ出かけるため、次の連句は9月中にオフ会形式で一度やっておくことにしました。10月はお休みです。

  9月28日(日)12:30〜6:00

 詳細は幹事の長谷川冬狸さんから連絡が行くと思います。連衆の皆さん、集まって下さい。



9月11日  鉄骨建つ

 川向うの田圃を埋め立て、基礎工事中だった産婦人科病院が、いよいよ鉄骨をたてた。
 まだ一棟の一部だけだが、濃いオレンジ色の鉄材が目立つ。今のところ2階分だが、4階のはずだから、いずれ視界は鉄骨だらけとなるだろう。

 いよいよか、と憮然たる気分である。基礎工事のうちは、上がどうなるのだろうという想像の楽しみと、工事関係者の気持を推し量ったりして、不愉快感は意外になかったが、上ものが出来始めると、具体的に視界が阻害されるし、色のけばけばしさが不快だ。

 長いクレーンが斜めに突っ立ち、しょっちゅう動くのも落着かない。どうも斜めというのは気分を不安定にするようだ。それが動くのはなおさらだ。
 
 曲線は神のもの、直線は人間のもの、と言ったのは、スペインのサクラダ・ファミリアの設計者ガウジだが、確かに自然にはポプラの木一つだって完全に直線のものはない。
 直線、それも巨大な斜めの鉄の線、となると、神や自然からはほど遠い。人為の極致、非自然そのものなのだろう。だから、落着かない。



9月8日  本日、胃カメラを呑む

 前回書いたように、胃がこのところ痛い。おまけに、実は7月末の明治生命の検診結果が、「胃角部にポリープあり。胃カメラ検査をされたし」というものであった。
 気にはなったが、私はほっておいたのである。

 理由は、8年前、やはり検診の結果「胃に潰瘍の瘢痕のごときものあり。胃カメラ検査をされたし」の診断を下されたため、苦しい思いをして(当時の胃カメラは太くて、大の男が涙を流すほど苦しいものだった)呑んだところ、結果は「何もなし。瘢痕はかつての十二指腸潰瘍の治ったあと」というもので、実に無駄に苦しんだだけだったからだ。

 つまり、その種の診断や医師の言にあまり信頼感を持っていないからだが(去年の夏のロンドンのバカ医者のこともある)、しかし、この一ヶ月半ほど胃が痛いことは痛い。
 ずっと原稿を書いていたから、そのストレスのためとは思っていたが、執筆が一段落してみると、やはり気にはなる。

 そこでだいぶ迷った挙句、前と同じ池袋の胃腸病院へ今日出向いたのだ。古くても前のカルテがあれば、経過は分るだろうと考えたからである。健診センターの紹介状、胃のレントゲン写真も持参した。

 と、胃カメラは以前に比べずっと細くなっており、麻酔も巧みになっていて、検査は殆ど何も感じないうちに終っていた。喉のひりつきが未だに少し残っている程度である。
 あまり待たされることもない診断結果も、「ポリープはなし。ただし、以前とほぼ同じあたりに十二指腸潰瘍あり」だった。

 なんだ、やっぱりポリープは誤診だったじゃないか、という思いと、しかしおかげで胃潰瘍が発見できたという思いが同時に生じた。来月、食の国・中国に行くし、胃は整えておかなくっちゃという気は、底流にずっとありもしたのだ。
 
 胃の痛さの具合から、あるいはという気はちょっとあったし、少なくともある程度の胃炎だろうとは思っていたのだが、かつて長編小説を書いたときと同じく、又しても十二指腸潰瘍になったわけだ。因縁というか、自分がいかに長編作家向きでないかの証拠だろう。

 売れっ子作家だったら、とっくに胃なぞ切り取っているか、胃ガンでくたばっていたのではないか。まことに人生、何が幸いするか分らない。
 ゆえに私は4種類、これから3食ごとに8週間飲む薬を、鞄がふくらむほどに買わされてきて、食卓に積み上げた。

 ああ、良きか、悪しきか……。ただし、食事は平常通り、酒も構わない、そうなので、危機感は全くない。北京では、薬片手に、むろんうまいものをほどよく食べるつもりである。



9月5日  小説終盤、胃、くたびれる

 構想しだしたのが2月半ば、具体的に書き出したのが4月28日連休始め、そして夏中、土曜半ドンと日曜以外は、7月の連句会の旅を除いてほぼ休まず書いてきた作が、どうやら終局が見えてきた。
 
 約350枚。あとは仕上げと、見直し。その先はまた不明だが、ともかくそれなりの達成感はあり。久々に国内、それも書斎に籠っての、充実した夏休みだった。
 先のことは、なんとなく楽天的である。

 だいぶ、胃がくたびれている。以前、長編を書いたときは十二指腸潰瘍になったことを思えば、今度はそれほどではないとも言えるけれど。



9月1日  田、黄ばむ

 今年は冷夏のせいで、8月下旬になっても稲田がほぼ青いままで、心配したが、今日、9月の声とともに眺めると、いつしかかなり黄ばんでいる。ホッと一安心という気もするが、問題は中身だろう。

 つまり、全体が黄ばんでも、穂の中身がちゃんと結実しているか、順調に熟しているかは別問題だからである。
 気のせいか、黄ばんだわりには、穂があまり頭を垂れていないような気がする。

 刈入れも普通ならぼつぼつだが、まだその気配はない。この日記の第6章、もう4ヶ月目に入ったのだが、「田うつろう」のタイトルからいっても、収穫時まではこのまま続けたい。



8月30日  久々に上京、飲む

 一昨28日は久しぶりに上京した。8月に入ってからずっと、殆ど籠りきりで書いていたから、埼玉県から外へは出ていなかったのだ。それに、日頃から私はかなりの出不精で、大学へ行く以外はめったに東京都内へも出かけないから、都内へ行くことを「上京」と呼んでいる。

 学校にもちょっと用があったので、江古田校舎へ少し顔を出した。休み中の学校というものはどこでも閑散としたもので、なんだか別の場所みたいな感がある。事務所で二つほど用をすませ、研究室に戻って一人で座っていると、シンとして読むべき書類がはかどった。

 終えて、夜7時、新宿南口の酒場へ行った。新宿の南口なぞ、何年ぶりかだ。まして飲み屋もそうだ。
 落着いた中級の居酒屋に集まったのは、某社のAさん、「遊歩人」の石井さんの、編集者二人に、小説家の佐藤洋二郎と私の計4人である。

 Aさん石井さんはかねての旧友、佐藤と私もそうで、かつ「遊歩人」には7月号に私が書き、9月号に佐藤が書き、Aさんとは先だって、担当の文庫の解説を私が書き、佐藤は以前、Aさんに文庫を出してもらったことあり、という不思議な関係である。それに、石井さんと私は、30年近い昔会ったことがある仲でもある。

 世代もみな近い。業界も近い。
 Aさんと私は会うのは初めてだが、こういう場合は楽しいもので、不思議な関係をああだこうだと言い合い、沢山いる共通の知人のことをまたあれこれ喋ったりしているうちに、酒がどんどん進む。

 それぞれの現在の仕事のことも話しているうち、気がついたら11時20分で、びっくりした。なにしろこのごろの私は、仕事で疲れるせいで平均10時頃には就寝する日々だったのである。
 すぐお開きにして帰宅したら、12時半くらい。

 風呂に入って就寝が午前1時を過ぎたのは、近来稀なことであった。ああ、飲んだ飲んだ。いい約束もでき、充実の一夜であった。



8月25日  第3回オンライン歌仙首尾なる

 5月8日に開始した歌仙が本日総括を終え、正式に満尾した。
 途中、山形県上ノ山温泉、芭蕉ゆかりの立石寺へのオフ会吟行をはさんでの、約3ヶ月半である。

 通常、座での歌仙なら日曜日に集まって半日づつ2−3回くらいで巻き終るから、長いような気もするし、でもオンラインで、2−3日に1句1句進行していく形を考えると、ごく自然な長さかなとも思う。

 捌く宗匠役としても、ほぼ毎日来る投句を見ていくのは大変でもあるし、毎朝どんな投句が来るかを見る楽しみがあるとも言える。
 要は内容次第である。いい句が多ければ楽しいし、連衆のレベルが上がっていけばやりがいもある。

 そして、去年の4月、このHP開始と同時に始めたわが風人連句会オンライン歌仙は、今のところ確実にメンバー数、内容レベルとも上昇している。

 連衆も今回参加の9人は(捌きの私を含め)、文芸歌手、精神科医、編集者、大学院修士浪人(見立て研究)、建築家、札幌在の主婦(尼僧)、フリーライター、歌人、そして小説家兼大学教授、と多士済々であり、男女比4:5、年齢25−62歳と、これまたバラエティーに富んでいる。

 前にも同じことを書いたけど、現在ある連句会としては全国でも誇っていい会ではなかろうか。
今後ますますレベルアップ、連衆の充実を図り、出来ればメンバーの多くが自分で捌きを出来るようになり、ハイレベルの連句会をあちこちで開催できるようになるのが私の夢である。

 首尾整った歌仙は、オンライン連句欄で公開しています。ぜひ一度御覧あれ。そして感想をお寄せいただければ、本当に嬉しい。
 いっそ自分も次から参加すると決心していただけば、なおさら嬉しい。



8月24日  かんぽの湯と農協直売店

 学校が夏休みに入ってから、ここぞ書き入れ時ならぬ書き時と、月曜から土曜までほぼ終日書き続けたが、8月初旬には早くもばて気味、疲れてぐったり、朝起きるとまた仕事かぁという気分になる上、胃の具合も悪くなり、これではならじと、土曜日は昔ふうに半ドン、日曜は絶対休む、とした。

 すると、このところ体調も回復、土、日なぞ、さあ休みだと、小中学校時代に帰ったような気分で、心地いい。やっぱり安息日は必要、そして半ドンとは先人はいい知恵を持っていたと感じる次第である。

 というわけで昨日の土曜日の午後は、車で寄居のかんぽ(簡保)の湯に行ってきた。我が家から関越を花園インターまで走ってほぼ1時間、小高い山上にあり、下には荒川の緑色の深い瀞を見下ろせ、正面一円には北秩父の柔らかい山々を180度に一望できるので、お気に入りの温泉だ。

 2,3年前まではただの沸かし湯だったが、その後天然温泉を掘り当て、露天風呂もできたので、風情も人気も高まった。
 ここへゆっくり入り、山を見ながらロビーで健康マッサージ機に体を揉みほぐしてもらうと、本当にトロッとする。

 帰途、花園町の農協ショップで、生産者直売の野菜や草花類を買いこむのも楽しみだ。
 今回は苦瓜、カボチャ、桃、梨、そして菊や鶏頭などの花束二つを買った。花束は1個わずか100円である。

 帰宅して花を大きな花瓶二つに飾ると、部屋に花があふれるようで、何とも豪華な気分になった。
 それを見つめ、ほろ苦い苦瓜の炒めを摘みにビールを飲むと、実にうまい。



8月20日  今年のWipの日

 18日(月曜日)、久々のペンWip(獄中作家)委員会に出席した。議題は10月7日の今年のWipの日の運営である。

 内容は中国人亡命作家・鄭義(チョン イー。天安門事件後、アメリカ在)を呼んで、大江健三郎さんと公開対談をしてもらうこと。
 すでに両者のOKは取り付け、会場も確保(記者クラブ会館)、鄭義さんはアメリカの再入国許可証待ち、といったところ。

 その細かい運営および要するに雑事の類だが、今年は人権委員会(関川夏央委員長)と合同開催でもあるので、人員は豊富、中国語可能者も藤井省三、茅野裕城子といるので、まずは安心。一番問題の来場者予測も、大江さんならまず400人は固いということで、ほとんど心配なし。

 今年から新委員長になった冒険作家・今野敏さんも、まずは順調そうなのに一安心の表情で、2次会の酒がはずんだ。
 新委員に朝日新聞の藤森研さん(もと新聞労連委員長)が加わり、ジャーナリスト関係が強化されたのも嬉しい。

 今野さんが自分は年間10冊本を出しているがまだ借家住まいだといったので、私は少し酔った勢いで、“作家は家など作れない、借家(しゃっか)と言うべきだ”と叫んで、拍手喝采を受けた。私も作家業だけだったら、今頃ホームレスだろう。



8月17日  モスクでチャイ

 昨日は東京・大塚にある「マスジド大塚」というモスクへ行った。
 都職労が主催する「多文化たんけん隊」という催しの一環で「モスクでチャイを」というプログラムがあり、それに参加したのである。

 参加者は約30名、午後3時前に大塚駅前に集合し、ぞろぞろ引率されて5分、ビルと木造アパートに挟まれたモスクは、間口は2間ほどのペンシルビルふう。屋上に小さなドームとミナレットがおもちゃのように付いた4階建てで、1階が女性用の部屋、2階が男性用祈祷室、3階が集会所、4階が事務所だった。

 私は以前、アフガンへ衣類や毛布などを送ったとき、送料の送り先がここだったことを思い出しながら、一通りの説明を聞いたあと、4時15分からのお祈りに加わった。アフリカ人のアザム(呼びかけ?)のあと、パキスタン人イマーム(導師)を先頭に、メッカのカーヴァ神殿の方角を向いて、例の立ったり、座ったり、額を床につけたりの祈りをするのである。

 私は若い頃以来、トルコやイラン、アフガン、サマルカンド、パキスタン、インドなど各地で、数多くのモスクを訪れたが、うしろから真似をしてみたことは2,3度あったものの、きちんと並んで一部始終イマームのするとおりやったことは初めてだった。

 最初にどんなことを言うのか、立っているとき右手の平は左手の平の上にかぶせるとか、最後には隣の人たちと「サラマリコン(こんにちは)」と挨拶し合うとか、初めて知った。
 
 心安らかに神と対話する境地にはなれなかったが、ずらりと並んだ人々は、ブラックのアフリカ人、パキスタンやインドネシア人、ほとんど白人と思えるチュニジア人などまさにインターナショナルで、なかなかいいものだとは感じた。ただし、1日5回はとても無理だとも思ったが。

 あとで、アフガンとしょっちゅう往復しているというイスラム文化センターの事務局長(パキスタン人)や、インドネシア人、ナイジェリア人などと座談をした。事務局長は、タリバーンについて、「アメリカに反対したことを除けば何一つ悪いところはなかった」と語ったのが印象的だった。

 帰途、私は駅近くの「トラジ」という激安韓国レストランを見つけ夕食をとったが、気がつくと豚足を頬張っており、「アレ、豚は食べていけないんだった」と気付いたが、時すでに遅かった。モスクを出て10分後には戒律を破っていたわけだ。ああ、不信心。



8月14日  涼しきお盆

 昨日あたりから世間はお盆休みらしく、報道も帰省ラッシュなどの様子を映している。外へ出ても、どこか休日的雰囲気がある。

 こちらは大学はどのみち夏休み、個人的には今こそ自分の時間で毎日執筆中、ゆえにお盆休みといったものも全く意識していなかったのだが、ああ、そうか、世の中はお盆か、と改めて思う。

 そして、今年は涼しくてラクだなとも思う。5時頃土手を散歩しても、ほとんど汗をかかなかった。珍しいことだ。
 珍しいと言えば、夏休みに長い旅行に出ないのも、久々だ。

 書きもの三昧、というか、時に胃の痛くなる日々である。



8月10日  二重の大虹立つ

 昨夕、6時15分頃、晩酌中にふと気付くと、南の空正面、新座市東北町あたりに鮮やかな大きな虹が立ちかけており、慌ててベランダに出ると、更に外側に二つ目がぼんやり出来かけていた。台風10号もほぼ収まって、薄い雲に夕日がさしかけて出来たものらしい。

 しばらくすると、すぐ消えかかったため、ああ、はかないものだと食卓に戻ったが、5分ほどして見ると、またもや同じ虹が今度は更に鮮やかに伸び、ベランダに出ると、見ている前でどんどん半円形をなしていって、ついに左端は荒川を越した対岸の浦和市にくっきりと脚を下ろした。

 完全なるアーチ、レインボー・ブリッジである。おまけに2重のアーチも、うっすらだがほぼ出来ており、規模の大きさ、美しさ、形の完全さに息を呑む思いだった。
 私はとっさに少年時代以来の虹の記憶を辿ってみたが、子供時代よく見た濃尾平野の虹、ネパールなど外国での虹を含め、これが今までの人生で最高の虹であることは間違いなかった。

 私とパートナーは感嘆の声を発しつつ、約20分後ほぼ消えゆくまでベランダで眺め続けた。
 今年、きっと何かいいことがあるのではないか。



8月7日  向いの工事

 川向うの病院の工事がだんだん進んできた。もうすっかり白い基礎が出来上がり、今はシャベル・タンクでそれを埋め戻しの最中である。

 14階の上から見ていると、工事の一部始終がすべて見え、なかなか面白い。なるほど基礎はこういう手順で行くのか、プレハブ事務所は毎朝何時頃に開くのか、その鍵はどこに隠してあるらしいか、職人たちは何時頃来て、何時に帰るか、雨や雷の時はどうなるか、全部一目瞭然だ。

 目の前に大きな箱が出来ていくのはやはりいい気分ではないが、もう元には戻らないから、それなら物が出来ていく経過をしっかり見届けてやろうと、楽しむことにした。
 実際、何ごとであれ、物が出来ていくことは面白くもある。職人衆たちにもそれなりに「作る喜び」があるだろうし、傍観者にも見る楽しみがある。



8月2日  梅雨あける 田青し

 今日、やっと梅雨明け宣言が出た。8月に入っての梅雨明けはめったにないことだ。おかげで涼しくて良い面もあったが、鬱陶しい面もあった。
 何より、農家は大変だったろう。
 
 先だって行った、山形市から山寺への道の両側はずっと桃、葡萄、梨、林檎、さくらんぼなどの果樹園だったが、この涼しさじゃ大変だと、素人目にも思えた。これで果樹園農家もホッとしたことだろう。

 暑くなると、散歩をするにも汗だくになり、つい運動不足になるのに気を付けねばならない。
 窓からの視界は、空青く、積乱雲湧き立ち、そして田の緑がいよよ青まる。いや、と思う間に、早くも黄色がかってきたような気もせぬではないが、穂はまだ熟していないだろう。

 それでも、刈入れのことをふと思った。
 書いている作品も、夏休み明けには刈入れたいのだが、そうはいかないかしら?



7月29日  人間ドック

 年に一度の半日人間ドックに行った。今年が初めての新宿の明治生命健診センターである。
 昨年までは池袋の虎ノ門クリニック、その前は日大病院健診センターへ行っていたが、日大病院に関しては極めて不愉快なことがあり、虎ノ門に関しては気に入らぬことがあり、今年は変えてみたのである。

 詳細は省くが、いい医者、いい病院、いい健診所はなかなかない。一番の根本は医者が人の弱み・健康を担保にとる形で、妙に尊大だということだ。そして更にそれに金儲け主義、自分は週1回だけの非常勤だからといった無責任体質などが加わる。

 ゆえに、こちらは診療を受けること自体が憂鬱になってしまうが、行かぬわけにもいかぬから、知人の評判を聞いたりして色々新しいところを試みることになる。

 今日行った健診センターは、1週間後である診断の仕方とそれへのケア次第ではあるが、今日に関する限り印象は過去で一番良かった。人員が豊富、応対が丁寧な上、顔を合わせるとき必ず検査技師の誰々ですとか、看護師の誰々ですと名乗る。検査もこちらに発言の機会をたいてい与える。場所も広いし、流れ作業的にせき立てられる感じがない。

 去年までたいてい何か釈然としない思いや腹がたつ思いが残ったのに、今年は至極さわやかな気分でセンターをあとに出来た。これだけでも上等だろう。
 あとはさて、どんな結果かだ。これはただ待つしかない。



7月27日  夏祭 花火

 昨夜は我がニュータウン中央の森3番街の町内祭だった。
 4時頃から和太鼓が鳴り、5時頃から模擬店の販売が始まり、会場がすぐ斜め前あたりの広場なので、万事がマイクや地の声で聞えてくる。

 行ってみようか迷いつつ、しかし日課の腕立て伏せをしたら汗をかいたので風呂に入り、出るとビールを飲みたくなってパジャマ姿で飲み始め、今日はこのままにするかと思い始めたところへ、フラダンスの音声がしてきた。ベランダから覗くと、派手やかなムームーを着た女性たちが、くねくねと踊っている。

 慌てて着替え、見に行くと、平均年齢50歳くらいのおばんたちが、ノースリーブの太い腕を出して、くねくね。
 それが1曲ごとに次々と入れ替わって現れ、計8−9組続いた。全部でざっと30数人はいた計算になる。さいわい、夕闇で顔がよく見えなかったので良かったが、あの時間設定はわざとだろうか。

 焼きそばだけ食べて部屋へ戻り、しばらくすると、今度はどーん、どーんと大きな音が響き、これはだいぶ離れた荒川畔で行われている志木市の花火大会なのであった。
 建物の向きの関係でベランダから少し身を乗り出さないと見えないのだが、花火は大きくきれいだった。2尺玉が上がったときなぞは、雷が近くに落ちたみたいに腹に響いた。

 北側のベランダに移ると、こちらでもたぶんお隣の富士見市の花火と、更に遠くのどこともしれぬ遠花火が打上げられていた。富士見市のはちゃんと音も聞えるが、その向うのは音が聞えない。

 それが遠近で交互に花開く。花の大きさもむろん違う。遠いのはほんの直径2−3センチである。それが、無音で開いては消える。夢幻的であった。

 梅雨は上がった。夏が来た。そう実感した。



7月24日  上ノ山、山寺、連句の旅

 22、23日と風人連句会のオフ会で、芭蕉『奥の細道』ゆかりの山形県へ行った。
 幹事の長谷川冬狸(とうり)さんが山形出身で、小学校時代の同級生がかみのやま温泉名代の宿「葉山館」の女将さんをしている縁での企画である。

 上ノ山には斉藤茂吉記念館と、翌日通りがかりに知った茂吉の生家と墓があった。記念館は敷地建物ともまことに立派、整い過ぎなほどだが、自筆の軸類やビデオ、そして茂吉当人の歌の朗詠テープが面白かった。まるで東北訛りの田舎の茂吉っつあん、という印象なのだ。

 茂吉が初老になってからの若き女弟子への恋、その女性とおぼしき実に美しき人の写真に感嘆した。茂吉は戦後、この上ノ山から奥羽本線で1時間ほど離れた大石田に、数年独りで住み続けた。私はそれを戦争協力に対する自己処罰、一種の蟄居と思ってきたが、ひょっとしたらそれにも女性の影があったのだろうか。
 面白いことである。

 翌日行った生家は、田舎の小地主程度の家で(ただし蔵造りの棟が二つあった)、門は当時のままのようだった。隣に菩提寺があり、墓があった。茂吉が生前自ら植えたというアララギ(イチイの別称とここで初めて知った)が古木となっていたが、墓石自体は比較的新しいものに作り替えられている気がした。

 上ノ山は城のほか、元湯、新湯、葉山湯、と3つの温泉街があり、町なかに5カ所「足湯」場があって、誰でも好きなときにのんびり腰掛け、足湯が出来るのであった。こういう街は初めてである。

 宿は部屋よし、風呂よし、料理よしの上、有名な美人である女将の五十嵐美根子さんが、大吟醸を振る舞って歓談に付き合って下さったのが楽しかった。大浴場隣の瀟洒なサロンには小舞台まであって、折々、バイオリンやフルートなどのミニ・コンサートも開かれるそうである。

 連句は食前食後と歌仙を巻き続け、夜11時までに及んだ。
 翌日は冬狸さんの義理の叔父・庄司さんに車で案内していただき、約1時間ほどの山寺へ赴いた。

 「閑さや岩にしみ入蝉の声」の場所である。
 ところが、石段を歩き出し、やがてせみ塚に達したとき、一番若い25歳の連衆・湊野住君が、芭蕉がここへ来たときは陽暦にすると7月13日のはずだが、今(23日)も蝉は全く鳴いてない、ヘンだ、と言いだした。

 確かにそうなのだ。13日ならまだ梅雨時だし、23日ですら蝉がいないのに、おかしい。

 決着は後で行った山寺対岸の芭蕉記念館で見たビデオでついた。山形放送制作のそれによると、芭蕉の時、蝉は鳴いていなかったという説が近年強まった、あれは虚構かもしれない、というのだった。
 
 実際、「五月雨を集めてはやし最上川」の最上川も、流れはゆったりした川だし、最上川へまわった頃はもう梅雨(五月雨)なぞとっくに終っていた時期なのである。
 『奥の細道』は旅の時から5年かかって作った虚構混じりの作なのである。

 寒いくらいになった帰路は、新幹線の車中で再び歌仙のつづきとなった。
 日頃オンラインでは全く登場しなかった歌人・太田代志朗が、どういう風の吹き回しか、軽々と次から次へ作句してくるのには驚いた。ただし、採用は車中1句、前夜来を合わせて3句である。結果はオンライン歌仙に載せるので、御覧下さい。

 そうそう、葉山館で、おみやげに紅花模様の女もの浴衣を頂いた。帰宅して渡すと、うちの奥さんが喜んだ次第である。
 


7月19日  教え子の旅

 現在大学院生になっている教え子・杉浦基君が、3ヶ月の予定でユーラシア横断の旅に出た。 その旅日記が長いメールになって、このごろちょくちょく届く。

 それによると、バンコックにまず入り、ついでアンコールワット、プノンペン、そして今ベトナムのホーチミン(このあたり陸路)だそうだ。逆回りみたいだが、このあとはラオス、中国(雲南)、チベット、ネパール、インド、と進む予定というから、面白いまわり方だと思う。

 私の若い時代はそういうコースは無理だった。中国やチベットがそういう形では入れなかったからだ。だから、私はチベットはネパール側から国境だけ見て諦めたし、カンボジア、ベトナムも空路でしか入れなかった。

 その意味では東南アジアは平和になったし、中国を含め正に開かれてきたのだろう。いいことである。
 そして、若い人がそういう自分の足で歩く旅をするのも本当にいいことだ。

 私は大学で、毎年、今年もつい先だって、夏休みの宿題として「創意ある旅をせよ。出来れば外国へ1週間以上行け」と言っているが、実行してくれる学生は少ない。
 やっと院生が本格的に踏み出してくれたか、という感じである。

 「だんだん旅の感覚が分ってきた。英語で話すのが面白い」などと、生き生きと書いてくると、よし、その調子その調子、やれよ、とこっちまで若い頃を思いだして高揚してくる。

 彼のメールは、「杉浦旅日記」としてこのHP「大学掲示板」に転載連載している。御覧になってみて下さい。現在のアジア情勢および若者感覚がよく分って、なかなか面白いですよ。
 


7月14日  奥秩父へ

 昨日、久々に奥秩父へ行った。
 秩父は車だと関越道・花園インターからすぐなので、一番良く出かける地なのだが、奥の吉田町や両神村へはこのところだいぶ御無沙汰していた。

 その両神へ行った。丘陵地帯を越え、向うに両神山1700メートルを望みながら、昔なら僻地と思える山村へ入っていくと、突然、これは何ぞやと思える立派な中国建築が出現する。
 埼玉県が姉妹県とする中国・山西省との協力で作った神怡館と、その付設の村営レストラン鳳鳴館である。

 神怡館は山西省を紹介する文化資料館で、本物揃いのゆったりした規模。鳳鳴館も山村の村営とはとても思えぬ中国産瑠璃瓦の天井の高い本格建築で、ここの昼御飯がうまい。
 飲茶Cコースは1800円で(他に1200円からあり)、フカヒレスープからデザートの餅饅頭までほどのいい量とバラエティーで、本格中華料理を食べさせてくれる。

 断言するが、周りはすべて山と緑、人影まばら、涼風心地よい地で、あんな大きな、ゆったりと豪華な館で、本物の飲茶を食べられる場所は日本中ほかにないと思う。
 給仕をしてくれるのが礼儀正しい質朴な村の娘さんたちというのも楽しい。

 私は青島ビールで昼食を楽しんだのち、近くの薄(すすき)川畔を散歩、そして国民宿舎両神荘の温泉に入った。
 これがぬるめのつるつるした湯で、薄川と緑を見下ろしながらののんびりした時間は、本当に久しぶりに心身をリラックスさせてくれる。

 帰りがけ、このあたりにホタルは出ないかしら、と尋ねると、ついこの前7月始めまではこの庭の小池に50匹は飛んでいました、との答に、しまった、そうと知っていたら、泊まりがけで来たのにと、切歯扼腕しつつ帰路についた。



7月11日  久々の太極拳

 今朝6時15分、近所の公園で太極拳グループに参加した。毎週金曜に有志が行っているのを知り、パートナーと共に参加したのである。
 3年前の北京以来だから、だいぶ忘れていたが、何とかついていった。今も体のあちこちの筋肉がボーっと柔らかく火照って、気持がいい。

 リーダーの女性が帯に「楊名時太極拳」と縫い取りをしていたので、懐かしかった。
 私ももう30年近く前、新宿の朝日カルチャーセンターで楊名時さんから直接、1年半ばかり太極拳を習っていたのだ。

 引っ越しを機に途絶えてしまったのだが、3年前の北京師範大学での4週間(週2回)に次ぎ、また再々復活というわけになる。
 楊さん確かもう亡くなっているが、名前はこうして残っているし、こういうことは脈々と受け継がれていくものだと改めて感じる。(03年12月4日追記:こう書いたところ、本日、楊名時太極拳東京支部の方から、先生はまだ御元気で、日本健康太極拳協会最高顧問として御活躍中との知らせを頂いた。早速HPを拝見したところ、高齢ながらまだまだ矍鑠としておられる様子だった。どうも失礼しました。お詫びして訂正いたします。これもHPが取り持つ縁ですね。楊先生、日中文化の橋となられる夢が叶っているようで何よりです)

 これから毎週金曜日、早起きして、太極拳で体をほぐすのが楽しみだ。



7月7日  雨が降る、テレビがこわれる

 今日は終日雨が降った。午前のうちはしとしと、午後は少しやみそうになったり、夕方は小降りからだんだん雨足が強くなり、そして、夜8時半である今は相当の降りだ。
 重い梅雨である。

 夕、突如テレビが点かなくなった、とうちの奥さんが言う。原因は不明。点けていて、誰かが玄関に来たので出て戻ってみると、音声だけで画面が消えていたというのだ。
 以降、どういじろうとも画面は出ない。

 不思議なことである。だが、そういうこともあるだろう。
 昔こんな句を詠んだことがある。

  さみだるるひとり家(や)に待つもの狂ひ   夫馬南斎

 さみだれとは今の梅雨のことである。
 昨日は我が志木市界隈は一日、教員の集会に反対する右翼の街宣車が、けたたましく騒音を挙げて走り回っていた。その反作用みたいな気もする。



7月4日  新しい出版形態オンデマンド・ブックを見る

 一昨日、「遊歩人」という雑誌の編集発行人である石井紀男さんと日本橋で会った。
 「遊歩人」は80ページ、中綴じの小雑誌だが、筒井康隆や池内紀、井家上隆幸らの連載を始め、毎回気の利いたエッセイが並ぶ大人向けの洒落た月刊誌だ。

 それにエッセイを依頼されたのを機に電話で話していたら、ヒッピー時代の親しかった旧友を共有していることが分り、かつ「遊歩人」が日本では目下たぶん唯一のオンデマンド雑誌であることにも関心が生じ、一度会おうとなったのである。

 電話で私がオンデマンドの作成過程を見たいと言ったら、石井さんが即座に、それではコニカにご案内しましょう、と手配してくれており、室町にあるコニカ・ビジネスマシン社へ連れていって下さった。

 ビジネス街のビルの中に入ると、オンデマンド・イメージング事業部の次長松田さん、提携している徳間書店の制作担当次長の中尾さんらが出迎えてくれ、見本をいろいろ見せ、次いで実際に機械を動かして明快に説明して下さった。

 それらによれば、オンデマンドブックとは、要するに大型高性能コピー機にプラス簡単な製本機能、そしてインターネット機能を付加したもので、必要に応じ1部でも50部でも200部でも、更に1500部でも、その場で印刷製本できるというものだ。

 ただし、表紙もペーパーバックであること、カラー表紙は当面別刷りになる(10月からはカラーも一緒に出来る)、などの制約はあるが、現に池袋のジュンク堂など全国10カ所、それにロスアンゼルス、ロンドンなどの旭屋書店などにはすでにその機械が常設されており、例えば「遊歩人」をと店員さんに言えば、付設のパソコン画面から簡単に指示するだけで、シャッシャッと刷るというかコピーされていき、準備してあるカラー表紙付きで、1部なら1分後には目の前にさっと仕上がって出てくる。

 雑誌は前から見ていたし、実は昨年ペンWiP委員会で出した「21人のプリズン」というショートショート集もこの方式(ページが94ページと厚くなってしまったので、製本だけは別仕立てにした)で作ってもらっていたのだが、眼前で見るのは初めてだった私は大いに感心した。

 この方式なら、編集済のデータ(つまり内容)さえPDF版にして、パソコンのハードディスクに置くがごとくマシーンに入れておけば、世界中どこででも、好きなだけその場で本に出来る。
 最初に何千部も刷っておく必要も、在庫も、運搬も、従って取次を通したりする必要もない。

 どれだけ売れるか捌けるかのリスクをおかす必要もない。店頭に並ぶのは新刊3ヶ月程度、最近では1ヶ月などという悔しくなるような制約にも無縁で、データの保存など大した容量も要らないから、絶版ということもまずない。
 仮に年に50冊しか売れない本でも、10年後1冊だけ買おうとしてすぐ手にはいる、という仕儀だ。

 石井さんも松田さんも中尾さんも、「ひょっとしたらこれは出版および文化の革命になりますよ」と口をそろえていたが、本当にそうかもしれないと思えた。

 むろん問題がないわけではない。今のところ、ハードカバーのちゃんとした本らしくしようと思えば、製本だけは製本会社に頼まざるを得ず、1週間くらいは時間がかかること、本の背が丸綴じにならず、平綴じになること、そして一番はこの機械をおく書店など(図書館や大学でも構わない)の数がまだ少ないことだ。
 もう一つ、どういう本がその方式で買えるかという情報の周知宣伝、も今後の課題だろう。

 さて、どうなっていくか。2,3年後、出版のイメージや業態がずいぶん変っている可能性もあろう。
 関心のある方は、一度ジュンク堂などでお試しあれ。
 
 「遊歩人」はあと1年間はタダで作ってくれます(定期購読も可)。コニカがスポンサーになった実験誌なのです。今度の7月号(昨日あたりから発行)には、夫馬基彦のエッセイ「夏は真っ黒けだった」も載っています。読んでみて下さい。
 


7月2日  連句に新人登場

 このHPのオンライン連句欄に、久々の新人が登場した。
 3,4年前の日芸の卒業生で、私の連句の授業をとっていた放送科の可愛い子ちゃん・落合玲君(俳号)だ。

 彼女は学生時代から連句好きで、バイトをしていた毎日新聞の学生欄で「面白い授業」としてわが連句講座を取り上げてくれたこともある。
 卒業の時、今後も連句をする機会を作ってほしい、と頼まれたのだが、すぐは出来ず、それが今になってこのHP上で実現したのかもしれない。

 どこで知ったか突然、礼儀正しい挨拶とともに投句してきてくれたのだが、こういうのが一番嬉しい。
 私は授業自体いつも、俳句人口に比して著しく少ない連句人口を増やしたい、連句の良さを世に知らしめたいと念願して続けてきたのである。

 そして、その授業ももう12年目だ。国文科などの授業で芭蕉や俳句論の授業の一部として連句を多少やる講座はある程度あるが、年間を通して連句の実作を目的とする授業はあまりないはずである。私のもの以外で知る限りは、愛知県の女子大での矢崎藍さんの授業くらいではなかろうか。

 窓外の田のすっかり青田となった風情と合わせ、爽やかないい気分である。今も青田風が吹き抜けていく。



6月28日  映画『スパイ・ゾルゲ』(篠田正浩監督)

 もう1週間前になるが、志木の「ららぽーと」にある集合映画館で、上記の映画を見た。
 篠田監督の映画は、昔デビュー作だったか(?)『乾いた花』という耽美的なやくざ映画がえらく気に入っていて、これまでもたいてい見てきた。

 今回は70歳になりかけた彼が「映画は70を越えたら作るべきではない」という考えに従って、生涯最後の作にすると宣言して作ったものだ。
 
 この70歳説は私も賛成で、これまで黒沢明、今村昌平、そして70ではないけど60を過ぎてからの大島渚など、かつて魅力的だった監督の多くが歳とともに、殆ど無惨と言っていい衰えぶりを示したことを考えると、エネルギーのいる監督の仕事は老人や病人には無理なのかも知れないと思える。

 で、そういう潔い篠田監督の最後の作はどうだったかというと、あまり良くはなかった。駄作というわけでもないが、「まあまあ」しかし「冴えはないなあ。蛇足が目立ったなあ」というところである。

 全体に尾崎とゾルゲだけの史実を追うこと、衣装に凝るなど昭和レトロ趣味なぞが前面に出過ぎ、テーマ自体の訴求度や深みがさほどでない。
 また、上海のシーンなぞ、書き割り的でお粗末感さえあったし、史実に関してもあの事件は西園寺公一、犬養健ら総計35名が逮捕されているのに、まるでゾルゲと尾崎、ゾルゲの仲間の外国人2人、そしてアメリカ共産党員宮城与徳だけの事件みたいに描かれている。

 ラストの蛇足というのは、突然ゾルゲの愛人がおばあちゃん姿で登場し、一言だけ妙な感慨を述べたり、ベルリンの壁崩壊事件が実写されたり、あげく最後はどういう訳かジョン・レノンの「イマジン」の曲と歌詞が流れて終るのだ。

 ゾルゲと尾崎は一種の反戦運動家だったという解釈のつもりだろうが、それまではずっとスパイそのものという扱いに見えただけに、唐突感は免れない。
 仮にあの時代流の反戦活動ととらえるにせよ、ジョン・レノンのイメージとは違いすぎるだろう。

 篠田正浩、すでに老いたり、というのが実感であった。



6月24日  VAIOの新型入手

 SONYのノートパソコンの中でもひときわ小さい10,6インチ型PCG−TR1/Bというのを入手した。
 秋に交換教員で北京へ行く予定なので(SARSの情勢次第ではあるが)、そこでの授業などに使うためだ。向うが放送大学なので、日本のHPとかメルマガの紹介、パソコンと作家の関係なども授業に取り上げたいと思っているのである。

 新型だけあって、軽いし、カメラ機能は付いているし、DVDも使えるし、私などには使い切れないくらいのハイ機能である。
 
 ただ、いざ動かし出してみると、フロッピードライブはもうないし(別売り、外付け)、ウインドウズはXPになっているため、今まで使っていたHPソフトは動かず、などということがあって、いろいろ新たな物も必要になった。外国用のモデムも必要らしいし、そのケーブルも国や場所によって違うらしい。

 しかも、それらのどれがいいのか、本当に必要な物は何と何か、などが確信を持って分らないので、いちいち人に尋ねることになる。さいわい学校の助手の青木君や、近所に住むわがHPの師、法政大4年の吉田君が相談相手になってくれる。

 青木君はかつてマッキントッシュの電話相談員をやっていたし、吉田君は高校時代からHPを作り、大学時代はパソコン指導をアルバイトにし、そして今回内定した就職先は企業や大きな組織向けIT回線運営の、業界ではNTTに並ぶ会社である。

 つまり、殆どプロで頼りがいがある。が、それでも北京のその種の事情となると知らないのが当然だし、HPソフトにしろ私の使っているホタル2001(これは元ゼミ生いま院生の杉浦から教わった物だ)に関しては、よく知らない。

 そして、結局パソコンは人によって使い方は様々で、オールマイティーな使用法なぞないということだ。私なぞは要するに、書くことおよびHP発信とメール、情報収集としてのインターネット使用が中心で、その他のことは大して関心がない。VAIOのカメラ機能なども、ちょっと遊んで楽しんでみるだけである。

 それとも、私などにも役立つ何かうまい使い方でもあるかしら。



6月22日  執筆進まず、青田のみ成長す

 学校でも、それ以外でもあれこれ諸用多く、なかなか原稿の方は進捗しない。そも3日ないし4日ほど他の仕事をし、1日程度は休日とし、残りの2日ほどで書くという体勢は、やっと前週の気分を取り戻し、少し進み出したなというところでたいてい時間切れ、また翌週となってしまう。

 効率の悪さおびただしく、けっきょく夏休みとか連続した時間でなければだめかななどと弱気にもなる。が、そう言っていては進まないし、夏休みに書き上げられる保証もないから、せめてその夏休みまで意識を持続させるためにも、少しづつ書いていくしかない。ゆえに日曜の今日も書く。

 目の前の田圃はすっかり青田模様だ。2日もたてば、ずいぶん稲が伸びている。
 還暦の歳の人間は、とてもあんな風には伸びられない。が、少しは伸びてみたい。円熟して伸びる、これがわが目標である。



6月18日  アウン・サン・スー・チー氏を釈放せよ

 ビルマ(ミャンマーという言い方は軍事政権がいいだした言い方で、民主派は一貫してビルマと呼んでいる)の民主派リーダー、スー・チーさんが、まだ軍によって拘束状態のままである。
 
 国連からも、ASEAN諸国からも、アメリカからも、そして民主意識からほど遠い日本政府からさえも抗議を受けているのに、軍事政権は釈放しようとしない。
 一部で、国民民主連盟(NLD)の一部活動家は釈放されだしたという報もあったが、今日現在、かえってはっきりしていない。

 NLDはそもそも何年も前の選挙で全国的に圧勝した政党であり、その結果を踏みにじって軍事独裁を続けているのは全く軍部の横暴そのものだ。
 スー・チーさんは本来ならとっくに首相になっているべき存在であるのに、それを長年にわたって自宅軟禁してきたばかりか、今度は遊説先で拘束し、そのまま地方の軍施設に幽閉し続けている。

 彼女は日本ペンクラブの名誉会員でもある。何年か前にはわがWiP(獄中作家)委員会のメンバー芝生瑞和氏が面会に行ったこともある。
 自宅軟禁や軍施設への拘束もまた、一種の「in Prison」なのである。彼女はもちろん本も書いている。言論で闘う人なのだ。

 軍事政権よ、プリズンから釈放し、自由にせよ。
 いつまで国全体を鎖国にし、プリズン国家にしておくつもりなのだろうか。
 


6月15日  父の日 ブックレビュー放映 緑田 

 朝メールを開くと、何やらアニメ・カードがどうとか出てくる。開いてみると、娘からの父の日カードだった。そうか、父の日か、と改めて自分がそういうもの(父)であったことに気付く。
 
 自分には1歳半の時から父がいなかったし、娘は小2の時から一緒に暮さなかったから、父とか父の日という実感が己の中にあまり刷り込まれていないのであろう。
 アニメの内容は、女の子が死んだ父の墓参りに行って泣く、すると生きている父親が現れ「俺はまだ死んでない」と言って怒る、というものだった。

 そのあとテレビを見た。先だって録画撮りした週刊ブックレビューである。
 毎回、どんなふうに仕上がっているか、言いたかったことはちゃんと伝わっているか、などのほか、服装とか、顔色、写り具合、しゃべり方など、あれこれ気を付けてみるのだが、今回は、内容まずまず、取り上げた本を顔の前に上げすぎた失敗あり、といったところかしら。

 録画分はだいぶ長かったから、編集の新村さんたちはかなり苦労したはずだ。多分あの晩は徹夜だったのでは。どうも御苦労様。
 今度はもっと簡略に話すようにします。

 さて、目の前の田圃がすっかり一面のグリーンになった。もう水面は殆ど見えない。
 もう少し稲が伸びると青田という印象になるのだが、今のところは緑田(こういう用語はないのだけれど)というところか。

 埋め立て田圃には工事事務所まで出来、黄色いクレーン車やユンボ、ブルドーザーが小雨に濡れている。赤土は、今日は黒く湿った。
 見たくないが、見えてしまうなあ。



6月12日夜  ブックレビュー録画撮り

 今日、午後2:30,久しぶりにNHKのスタジオへ行った。尤も、数えてみたら8ヶ月ぶりぐらいだったけれど、前回はNHK前の別のスタジオだったせいもあり、NHK内のスタジオが懐かしく感じたのかも知れない。

 まずスタッフの山野美菜さん、次いでプロデューサーの新村勝弘さんに会い、やはり懐かしかった。話していたら山野さんは、私のマンション前に産婦人科病院が建つことや、ロンドン医療センターにまつわる最近の一般掲示板でのやりとりまで御存知なので驚くと、「毎日HP見てますから」とのこと。

 いやあ、感激。
 次いで顔を合わせたゲストの川本三郎さんとは、26年ぶりの出会いだった。私が中央公論新人賞をもらった直後、担当だった中公編集者の早川氏のセッティングで、もうひとり東大助教授だった樺山紘一氏を交え、4人で銀座裏の料亭で飲んだことがあったのだった。

 そのことは川本さんも半分憶えており、私が細部を補足すると「よく憶えているなあ」となり、ひいては互いの変化、つまり歳をとったことに改めて思い至った。川本さん1944年生れ、私1943年生れである。

 ついでながら、この日私がメインに取り上げた本『蜂起に至らず』の著者・小嵐九八郎さんも1944年生れ。本の内容は1960年からベトナム戦争後の1970年代半ばくらいまでの学生運動や、その周辺の人々の闘う青春と死の軌跡そのものである。

 川本さんは「ぼくは辛くてこの本読めなかった」と言っていた。よく分る。
 川本さん自身、あのころ起った確か「朝霞自衛隊事件」と呼ばれるものに、朝日ジャーナル記者として巻き込まれ、ジャーナリストとしての取材源守秘義務を守ったため、朝日新聞社を辞職に追い込まれたのだった。

 東大法学部卒、朝日新聞記者だったエリート中のエリート川本さんは、以降たぶんずっとフリーの物書き、早稲田中退、放浪のヒッピーから食うや食わずの長年のフリー生活だった私は、このごろ宮仕えの身、と立場逆転とも言える。

 人生とは、長く生きていると面白いものだ。もっと長く生きると、もっと面白くなるのかしら。
 そこらもだんだん見たくなってきた。



6月8日  週刊ブックレビューに出ます

  6月15日(日)NHK・BS2 am8:00〜 再放送 深夜0:00〜

 取り上げる本は、小嵐九八郎著『蜂起には至らず」(講談社)をメインに、あと2冊を少し紹介です。
 覗いてみて下さい。



6月7日  ホッと休日

 土曜になるとホッとする。金曜日までで大学への出校日が終るし、他の用も大体なくなるからだ。
 で、しからば今日からさあ小説を書こう、となるかというとそうはならない。さすがに疲れているし、意識もすぐは切り替わらないからである。

 で、今日はまあ休日となり、日曜から書き出すことが多い。
 今日はいわば転換前のカデンツァの時間というわけである。寝転がって本を読んだり、散歩したり、どこかへ軽く出かけたり、気ままで心地よいときだ。



6月4日  メーリングリスト

 このごろペン電子文藝館委員会のメーリングリストなるものに加わったので、毎朝開くメール受信欄がずいぶん様変わりした。
 従来、日に数通だったのに、時にMLだけで10通ほど、そしてほぼ毎日来る。

 しかも、内容は直接自分に関係ないことも多く、誰々さんから誰々さん宛などとなるから、なんだか他人のやりとりを覗いているような感覚もある。ふつうの手紙や電話ではこういうことは有り得ない。

 最初はちょっと驚き、数の多さもあって煩わしい気がしたが、慣れると処理の仕方も分り、フーム、妙なものだな、メールの世界のメリット・デメリットは何か、今後人間生活にどう影響していくだろう、などとあれこれ考えたりもする。

 私は他に定期不定期に送られてくるメールマガジンも幾つか受けているが、これもメリット・デメリット双方ある。昔からのダイレクトメール類と似ているので、不思議はないが、送る方はずいぶん楽になったと思う。
 活用法は私なぞにもあるかも知れない。



6月2日  本日よりページ更え 更衣代りです

 書斎前の田圃に異変が起った。
 
 数日前からブルドーザーやユンボが入り、休耕田の一部を埋め立てていたのだが、畑にしてレジャー農園にでもするのかと思っていたら、一昨日、そこにテントが設営され、黒い服の男たちが車何台かで集まり、どうやら地鎮祭みたいなことをした様子だった。
 
 気になって昨日、小雨のなかを見に行ってみたら、何と「建築表示書」みたいなものが掲示され、産婦人科病院が建つと書かれていた。五階建て四棟、駐車場付きで、かなりの面積である。打たれた杭から察すると、建物だけで田圃三枚分以上、駐車場が二枚分くらいで、私の書斎からはほぼまっすぐの位置にある。

 こちらは14階だし川の向うだから、視界が完全に阻害されることはないが、著しく変ることは確かだ。もともとそこは市街化調整区域で、住宅などが建つことはない、何か建つにしても道路際に店舗だけ、と聞いていたので、11年前、このマンションを選んだのだが、がっかりである。

 掲示の中には「農地転用許可書」なるものもあり、地元の農地委員会が許可しているので、今更どうにもならない。地主連は今どき広い田圃を一挙に買ってくれる相手なぞめったにないし、耕し手も減る一方、値段がよければチャンスとなったろうし、農地委員会も病院ならいいじゃないか、大義名分も立つ、となったにちがいない。農地委員会なぞ、けっきょく情勢と背景次第という話も聞いたことがある。

 土の露出した予定地の隣では、水充ちた稲田が徐々に薄緑の稲を濃くしつつある折だけに、対比が何とも物悲しい。
 産婦人科だというから、人間の苗が生まれるのを楽しむかという気にしたいところだが、内科等ならこちらにもメリットはあるのに、産婦人科じゃ何の関係もない感の方が先立つ。

 あまり気分の良くない衣替えの出だしである。