風人日記 第七章

秋天

  2003年9月23日〜12月24日

鬼界島、往昔の流人・俊寛像前にて
2002年12月






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



12月24日  歳末の匂い 小嵐九八郎さん

 今日は終日原稿書きに使えたが、途中昼食に出た折のちょっとした風景や窓外から聞える宣伝カーの音などで、世間の気配というものは伝わってくる。
 そういえばクリスマスというものもあり、今日はイブである。

 我が家ではケーキも七面鳥も神への祈りも何もないが、代りに「歳末」を感じる。
 例年なら年賀状の準備もあるが、去年からこちらからは出さないことにしたし、それに26日から南の島へ出かけてしまうので、お節料理を含め、通常の歳末の準備は何も必要ないのが気楽である。

 ゆえに、出発までは、ただひたすら書いておきたいとだけ思う。その進捗具合次第で、休暇の気分も違うから。いや、休暇というか、半分は別の形の取材研究旅行でもあるのだが。
 
 そうそう、今日は友人の作家小嵐九八郎さんから長文の手紙を貰った。パートナーの田村志津枝の本『若山牧水 さびしかなし』(晶文社)をえらく誉めてある。川崎の本屋でわざわざ2冊も買ってくれたそうだ。正月号の図書新聞のコラムにも書いてくれたという。有難いことである。



12月21日  掃除 ベランダの手入れ

 厳寒から一転して穏やかな日曜になった。
 微熱もどうやらとれたので、水周り周辺のカビとり、次いで、ベランダの鉢類に有機肥やしをかけ、ベランダを水洗いした。

 26日から奄美・沖縄方面へ出かけるので、大掃除の小分け前倒しという感じもある。室内も昨日、クリーナーをかけたから大分きれいになっている。
 これから風呂場もちょっと掃除をしよう。

 外は秩父の山が美しい。宝登山のすぐ右手に遠く真っ白に冠雪した浅間山が見えている。うちの奥さんの出身地はその麓である。
 遠景の山景色を見ていると、また、わが出身地の濃尾平野も想い出す。冬には加賀の白山が真っ白に美濃の山の向うに見えたものだ。

 そういうところがこの関東平野のただ中、南埼玉の地と故郷愛知県尾張地方の似たところである。



12月20日  授業終了 研究日へ

 昨日の補講を最後に、各学年とも一通り年内の授業が終った。
 これで実質的に冬休みに入るが、大学教授としてはいきなり休みというわけではなく、研究日に入る、つまり授業はないが個人としての研究をする時間ということである。

 私なぞ創作系の者の場合は、いわゆる研究というより創作時間、ということになる。美術科の先生なら自分の作品を描く、音楽科の先生なら作曲をしたり演奏活動をしたりというわけで、文芸科の私の場合は要するに小説や文章を書くことになる。あるいはそのための取材や調査活動をするわけである。

 やっと自分の時間なのだ。さあ、書くぞと思ったら、娘が住宅問題で手助けを要請してきた。そしてそれを終え帰宅したら、学校から電話で学生の病気についての報告と相談があった。ウームと腕組みするような内容である。

 今日は外は猛烈に寒かったので、治りかけた風邪がぶり返さないかという恐怖感もある。そう、このごろは風邪をひくのも怖くなってきた。一度かかると半月くらい体調不良になってしまったりするからだ。

 なかなか世の中も人生も思うようにいかない。
 そうだ、サダム・フセインが掴まったことについて何か書こう書こうと思いつつ、結局身の周りのことばかりになってしまう。その方がやはり自分にとっては大事なのかしらん。



12月17日  微熱肩こりマッサージ

 14日に歩いたあと、なんだか妙に草臥れたと思ったら、15日に微熱が出、肩こり背中痛があんまり強いので近所のマッサージにかかったら、ずいぶん気持がよかった上、楽になった。マッサージ師によれば、机に向う姿勢が問題だという。

 が、16日には微熱に加えどうも鼻づまり模様の感もあり、終日外出を控え、寝る前に漢方の風邪薬を飲んだら、今朝は肩こり微熱ともだいぶよくなっていた。
 そこで、朝・午と同じ漢方薬を服用しているが、ほんとに風邪なのか否かの確信はない。他には殆ど症状がないからだ。

 だが、まだ多少の微熱はあるし、肩もこっている。何だろう。風邪もいったい何だろうと、よく分らない。人間の体も、薬もよく分らない。



12月14日  久々に歩く

 今日は好天に誘われ、午前10時半ごろから土手づたいに歩き始めた。川では大型のかもめが魚を残酷なほどに啄んでおり、土手横では烏の大群が枯れ木に黒い葉のように集まっていた。

 途中から街を見ようと志木の江戸時代以来の古い町・本町を少し歩いた。蔵造りの昔のままの薬局や荒物屋、呉服屋などと新しいマンション1階のギャラリーふう小物店、陶器の実作販売の店などが混在しているところが面白い。

 いずれにしてもこぢんまりした田舎町の風情が牧歌的で、私は好きだ。疲れなくていいのである。
 中にロコハウスというステーキ屋があり、ハンバーグがうまいので、時間はまだ11時20分だったが、入った。

 牛タンの塩焼きでグラスワインを1杯づつ、あとは大根下ろしをたっぷりかけたハンバーグを食べた。このごろ肉類は積極的にはめったに食べないのだが、そのせいもあってうまいと感じた。今後はあまり食事制限なぞしないで、食べたいものは気ままに食べようかと意見が一致した。

 また土手を伝って歩き出すと、後ろから赤シャツ、旗を立てた大人の大軍団がびっしりついてきている。驚いて見つめると、全員が「埼玉ウオーキング協会」とかいう名札をぶら下げており、旗ごとに何隊もあり、総勢2,3百人はいそうな様子だ。

 それがサッサッとかなりのスピードで後ろに迫ってくるから、なかなかの迫力である。
 私たち二人は急に追い立てられるような気分になり、追いつかれたら大変と必死に早足で歩いた。それがずっとニュータウンまで続いた。軍団はなんと団地内まで追い続けてきて、中央公園で弁当をとったのだ。

 おかげで家に帰り着いたときは相当くたびれていた。
 フーッ、いい運動だった。



12月11日  アクセス数2万突破

 このHP開始は2002年4月12日だから、今日で1年8ヶ月丁度ということになる。
 それで2万という数字は多いのか少ないのかよく分らないけど、何にせよちょっと達成感はある。

 1ヶ月平均にすると丁度1000,1日平均にすると33。さて、どう解釈すべきかしら。
 むしろ、よく持続していることの方に意味があるかもしれない。今では毎朝、必ずHPを開くことなしには始まらなくなっているのだから、まさに日常生活とともにあるという次第だ。

 今後はどれくらいまで持続していくだろう。ずーっと長く続きそうな気もするし、そのうち何かを機にだいぶ変りそうな気もする。
 ただ、全くやめることはないような気がしている。これは確実に新しい表現媒体であり、コミュニケーション手段だと感じているから。

 学生諸君や教え子諸君とのコミュニケーションもこれに負うところが大きい。いわば若さとのつながりでもある。
 ともあれ、皆さん、今後もこのHP、せいぜい開いてやって下さい。



12月10日  橋の会解散公演「蝉丸」

 昨夜は宝生能楽堂へ能を観に行った。
 橋の会は24年前の創立以来の会員というか常連で、当初は青山の観世能楽堂で行われていた研究会などにも出たりしていた。

 私は17歳の高校時代に観世流の謡曲を習ったり、家中が能謡曲好きだったせいもあって、今でも謡曲の節回しがふと出てきたりするし、20数年前の小説第3作目は、「求塚」を現代に移した「夢現」といういわば能小説だったりする能好きである。

 橋の会は通算74回のうち多分6割は観ていると思う。曲はまだまだ未見のものも多いが、しかし一通りの種類は知っていると言っていいと思う。

 その中で、昨夜のものは稀にみる逸品だった。醍醐天皇の第4皇子、生れながらの盲目の蝉丸が父帝の命で逢坂山に捨てられ、後にたまたま通りかかったこれまた生まれつき髪が逆立っている女性の姉宮逆髪と遭遇し、涙の語らいと別れをするという、まことにもって凄まじい設定の悲惨悲哀に充ちた話なのだが、これが観世銕之丞、清和そして大鼓の亀井忠雄、笛の藤田大五郎らの名演で、真実、瞼に残る名舞台となったのである。

 能はとろりと少し眠くなるくらいがいい舞台だとよく言われるが、昨日の舞台に関しては、私は片時も眠気なぞ生じなかった。心地よい緊張と哀しみとともに、そしてそれを錦をまとった抽象的舞台に表現する方法に、久々の日本美を感じつつ堪能した。

 感想をオンデマンド雑誌「遊歩人」2004年1月号の特集「2003年 この逸品」に早速書いたから、詳細はそれを御覧頂きたい(発売は少し先。池袋のジュンク堂等でタダで手に入る)。
 いいものはやはり本当にいい、とつくづく感じた一夜であった。



12月8日  秋山会で鬼怒川温泉へ

 文芸評論家の秋山駿さんを囲んで、毎年温泉へ出かける会が今年も開かれた。
 物書きに編集者に文芸担当新聞記者連で、もう10年以上も続いている会だけに、のんびり飲んでは語らうのが楽しみだ。

 今年は幹事が新聞記者だけに新人の若手記者が3人も加わり、総計18人となり、新鮮味が出た。逆に物書きは秋山さんを除くと4人だけでちょっと淋しかったが、評論家の川村湊さんなどは韓国から駆けつけてくれたから、、まずはよしとすべきだろう。

 秋山さんは今年73歳、往年を知る者としてはやはり年をとられたなあという感じはするが、そういう当人もいつしか還暦なのだから、当り前だろう。私など年に1回しか会わない人も多いので、会うたび、ああまた互いに1年歳とったかと思う。
 
 飲み会は宴会場のあと、部屋でまた始まり、延々午前まで続くが、これが2−3年前までは午前4時頃まで続いたのが、このごろはだんだん縮まり、今年は一番遅い人たちでも午前1時半ごろだったらしい。私などは11時半頃引き揚げたし、そのあと前後して風呂に入り、引き揚げた人が多かったようだ。

 飲む酒の量も減ったと、翌日何人かが言い合った。前は持ち込みの酒が1升瓶やらウイスキー、焼酎やら何本も林立したが、ゆうべあたり宿で注文した焼酎2本とビールの他はウイスキーが1本だけだった気がする。
 体力の方も落ちたということだろう。

 それでも2日目の今日は、東武線で浅草まで戻るや、そのまま駒形どぜう屋へ繰り込み、13人で真っ昼間からどぜう肴に焼酎を3時20分まで飲み続けたから、エネルギーは落ちていないとも言える。

 そのあと、ついでだからと中沢けいさんらに誘われ浅草寺へおみくじを引きに寄った。私は実は30代後半頃2−3年続けておみくじ類を引くたび大凶、凶などが続き(たぶん7−8回ぐらい本当に連続した)、じっさい実生活上も不運不遇が続いたので、以来おみくじ類を20年ほども一度も引かなかったのである。

 ゆえに、今日もお参りはしたものの、おみくじはかなり逡巡したのだが、同行者が次々引くし、それに還暦直後で何となくいわゆるゲンも改まっているのではという気がして、思い切って引いてみることにした。

 結果は、驚くことに、何と「大吉」だった。いやあ、嬉しかったなあ。
 根拠なぞないと思いつつ、しかし、かつての凶続きの不気味さから解放されたことは事実であり、なんだか本当にいい運が向いてきそうな気がしたから不思議である。
 占いとかこの種のことはいったい何でしょうね。



12月5日  寒気強し ゼミ誌のこと

 今日は最高気温が10度を切った。曇りから雨模様の寒い日だった。
 そのせいか所沢校舎での学生たちの出席率もずいぶん悪かった。出来上ったばかりのゼミ雑誌の合評日だというのに、どうしてかと考えたら、自分の作の合評に出たくないという者が結構いるらしいことが分った。

 自分で思うほど出来は悪くなかったりするのに、気になるらしい。
 むろん、逆の場合もあるから、学生たちにとってはやはりかなりのプレッシャーにはなるのだろう。

 今年のゼミ誌のタイトルは、

 1年:FUMAGINE
 2年:フーマ忍法帖
 3年:FUMA’S BEST

 だった。毎年私の名前をもじったり詠み込んだりするのが慣例みたいになっているのだが、10年以上になるのに、次々と新しい名前を編み出してくるので感心している。
 
 2年の雑誌では、私は黄金色の忍者衣装を着せられ、飛んだり跳ねたりさせられた。その写真が扉など3カ所に使われている。
 うちの太太(奥さん)に見せたら、「情けない」と本当に情けなさそうな表情で言った。



12月2日  本日還暦

 妙な気分である。
 これまでにちゃんちゃんこ代りの赤いマフラーを2枚もらった。
 私は今日もただ仕事をするのみである。いい文章が書けますように。



11月30日  娘と二人、水入らずのすき焼

 昨日の土曜日、銀座の「岡半」で娘の出雲と会食した。
 出雲は私の北京旅行前に26歳となり、私はあと2,3日で還暦を迎える。北京からの帰国は10月末だったし、11月は胃薬を飲む日々だったため、日程がだんだんずれて、ゆうべ合同誕生会となったのである。

 考えてみれば、長いあいだ娘と二人っきりで食事をすることなどなかった。彼女が中学時代まではちょくちょくあったのだが、高校時代以降、めったになくなった。会うときはたいてい他の親族などが一緒で、何かの儀式の折だったりした。

 年齢的にも生意気盛りで、双方ともに会ってもあまり面白くもなかったのだろう。
 そのうち、私にも出雲にも配偶者が出来て、今度は会うとき彼らが一緒になったりした。

 だから、昨日の水入らずの会はほんとに、ひょっとしたら10年ぶりくらいかもしれない。
 出雲は還暦記念の赤いマフラーをくれ、私は去年末奄美大島へ行ったとき、出雲紹介の宿「ばしゃ山村」で記念にもらった幸福の樹を持っていった。

 幸福の樹は小さな枝っきれだったのだが、鉢に植え毎日水をやっているうちに根が出、葉が出、今ではすっかり青々と繁っているのだ。ばしゃは芭蕉の現地訛りで、ばしゃ山とは芭蕉の樹がたくさん植えられた山の意味だというし、幸福の樹も葉が広く、ちょっと芭蕉にイメージが似ているので、私はずっと「ばしゃ山の樹」と呼んできた。出雲紹介の地の記念の意味合いもあってである。

 娘にもそう言って渡したから、たぶん彼女も「ばしゃ山の樹」と呼んでくれるだろう。奄美は彼女の勤め先と縁の深い地でもある。

 食べたすき焼はきれいな個室のせいもあってえらく高かったが、1枚1枚仲居さんが丁寧に焼いてくれる松坂牛の霜降りは、舌の上でとろりと融けるようで、確かにうまかった。デザートのなんとか豆腐(杏仁豆腐に似ていた。中にマンゴーの実が入っている)もうまい。

 娘はそのあと茶を啜りながら、ぼつぼつ家がほしくなったという話をした。いま一番金利が安いときでチャンスだ、マンションにするか、一戸建てにするか、どの辺にするか、まだ早いかしら、といった話だ。
 今後の人生の方針、家族計画、日々日常の気分、に大きく影響しあうことだから慎重に考えなさいとアドバイスした。
 
 岡半を出たあと、プランタン近くでまた紅茶を飲み、有楽町線で途中まで一緒に帰った。



11月25日  時雨降る

 氷雨と言いたくなるような冷たい雨がほぼ終日降った。うちの太太は彼女の娘と娘の誕生日記念の恒例の温泉旅行に諏訪へ出かけていったが、諏訪湖も雨だったろう。

 私は終日、書き物を続けたが、その書斎の窓を北側から吹き降りの雨がぬらすと、それ以外の道路や鉄道などの音が一切聞えなくなって、かえって静寂が際立ち、寒々しい気配とともに集中感が高まる。

 予想よりはるかに仕事が進み、充実感も生じる。下の柳瀬川の水量が増し、河川敷部分も殆どが濁り水で埋まり、ちょっとした嵐の風情すらある。
 私はますます気分が心地よく緊張する。

 ふと思う。こういう日、家がないとほんとに寒いだろうなと。
 下の河川敷にあった、このごろ姿を見せなくなったホームレスの茣蓙をかむった身の周り品が、すっかり水に没して見えなくなっている。



11月23日  今日から仕事本格再開

 書く方の仕事のことだが、帰国後、編集者と会って意見を聞き、考えていたのを、いよいよ具体的に第2稿にとりかかることにした。
 
 この間、ピロリ菌退治の薬を1週間飲んだり、そのあと食べ出したやはりピロリ菌に効くというヨーグルトがどうも体に合わなかったらしく軟便が続いたりしたため、胃の調子をどうも把握できず気分も締まらなかったのだが、時間がどんどん経っていくので、ぼつぼつここらでと踏ん切りをつけたのである。

 あと10日後にはなんだか気の重い誕生日も迫っている。体力のあるうちに気力にも活を入れておく必要があるだろう。さあ、やるぞ。



11月21日  カザルスホール

 ゆうべ、お茶の水のカザルスホールへ行ってきた。
 昨年12月から日本大学のものになった元「主婦の友社およびお茶の水スクエア」の一角にある音響のいいホールである。

 そこで「日本大学カザルスホール」と改名してのオープニングコンサートが開かれたのだ。入るのは初めてだったが、座席数500,程良い広さで木造らしき内装、2回にはバルコニーふうの席もあり、正面のパイプオルガンも美しく、なかなかいい。

 7時からコンサートが始まると、チェロやピアノの微妙な音色が柔らかくよく聞え、音楽ホールとしてのよさが実感できた。1000人以上も入る大ホールではどこか音が他人事じみた感じになるし、演奏家の表情など遠すぎてろくに見えないが、このくらいだと出演者の歩き方や足音までよく分り、親しみが持てる。

 プログラムはバッハのオルガン曲(水野均)、リトアニアのチェリスト・ゲリンガスのチェロ、ロシアのウゴルスキのピアノ、田部京子らのピアノ3重奏曲、ソプラノ歌手森麻季のヘンデルやオッフェンバックの歌劇曲、山田耕筰作曲「からたちの花」など。

 ロビーにはワインにつまみも出て、顔見知りたちと挨拶を交わしながらの、なごやかでほどのいいコンサートだった。



11月17日  連句会開く

 昨16日(日曜日)午後、風人連句会の第4回歌仙11月例会を、また新江戸川公園松声閣椿の間で開いた。
 前回欠席だった精神科医未生草さん、今回初参加の25歳うら若き乙女(N取次会社勤務)宇多美紀君も加わり、7名が集った。

 今回から衆判(合議制)とし、いよいよ連衆(メンバー)が捌きまでしていく第1歩を踏み出した。初級の段階は終え、中級に入ったということである。今後が楽しみ。

 終って6時頃から高田馬場で飲んだ。未生草さんの息子さんがたまたま日芸出身者であり、野住君や美紀君が知っている人らしいことが分り、世間の狭さに驚き、かつ話が盛上がる。
 それに野住、玲の乙女二人が実に歌舞伎など芝居のことに詳しいのにも感嘆する。

 冬狸さんは身近に刺し殺されたりした人が何人もいるというので、これにも驚く。一体どういうことだろうか。
 暖かい夜を、10時半帰宅。



11月15日  太太の新しい本

 うちの太太が新刊本を出した。

  『若山牧水 さびしかなし』 田村志津枝(晶文社1900円) 来週半ば発売

 太太の実家は信州小諸の旧本陣の建物があった病院だが、その本陣2階の一室に明治43年、若き牧水が2ヶ月以上秘かに滞在し、酒ばかり飲んでいた。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」の歌はそのとき詠まれたものだ。その歌碑が今でも庭にある。

 一体なぜ牧水はそんなふうに内緒で、山間の小さな城下町の個人病院の屋敷内に長滞在していたのか、そこから稿を起して青年歌人牧水の心の謎に迫るというもの。

 太太は従来台湾関係や映画関係の本を書いてきたが、これは初めての文学関係本。かつ、おのれに関する本でもある。父親や祖父母のことなぞもしばしば登場する。信州とそこに住む人々に関する本でもある。

 関心の持てそうな方、ぜひ店頭にて手に取ってみて下さい。



11月14日  子女、平論家

 今日、大学で留学生・帰国生入試が行われた。来年度入試の第1弾だ。
 この「帰国生」というのは見慣れぬ言葉だが、去年までは「帰国子女」と言っていた。その「子女」に関してかねがね妙な言葉だなと思っていた。

 子供と女なのか女の子を指すのか、しかし入試募集が女だけということはあり得ぬし、一般的にもこれは男女あわせた子供の意に使われるが、すると子は男の意で、女は子とは別という意にとれるし、どこか差別的不思議な用法と感じていた。

 で、帰国生と言い換えたのは妥当な処置だろう。定着するまで暫くは耳慣れぬが、そのうち馴染みそうな気がする。

 その留学生入試で面白い言葉が出てきた。留学志願生のひとり(韓国人)が身上アンケートの[将来なりたいもの]欄に「平論家」と書いたのである。たぶん「評論家」の間違いだろうとは思えたが、筆跡はきちんとしていたし、正論家という言葉もあるし、ひょっとしたら本気でそう書いたのではという気も少しした。

 平論、普通のことを普通に言う、威張ったり気どったり口角泡を飛ばしたり絶叫したりは決してしない。いつも平常心で、落着いて身の丈通りのことをいう人─平論家。
 なんだか良さそうな人、いい言葉のような気がした。これから私も平論家でいこうかしら。



11月12日  小春日和

 昨日までだいぶ寒く、日本も暑かったり寒かったり北京並に気候変動が激しいなと思っていたのだが(向うには三寒四温という言葉がある)、今日は一転して穏やかな晴天である。風もなくぽかぽか暖かい。

 8日に立冬になっているし、立冬以後の11月のこういう日のことを小春とか小春日、小春日和という。いい言葉で、私の好きな季語の一つである。アメリカ西部ではこれをインディアンサマーと呼ぶそうだ。

 昨日はわが太太の新しい本の見本刷も届いたし、かつ彼女の風邪もほぼ収まり、私のピロリ菌(胃や十二指腸潰瘍の原因とか)退治の薬の服用期間も無事終ったし(1週間。下痢・食欲不振などの副作用があるかもという話だった)、私の仕事の方針もどうやら定まりそうだし、諸事まずまずの朝である。

 選挙の結果は予想通り大した変化なし。あれだけ騒いだのに、2日もすればもう何ごともなかったようだ。
 外の川面と土手の緑、欅並木の色づき具合など、自然がやはり一番いい。時のみが確実に経っていく。



11月10日  総選挙結果

 今朝の新聞を見ただけの段階なので、あまり深い判断は出来ないが、結果は要するに2大政党制が進行したこと、全体としては中心軸が明らかに右傾化したこと、世襲制が更に進行したこと、そして結局さしたる新味はないということだろう。

 私は2大政党制などかねがねいいと思っていない。世界の代表的2大政党制国家といえばアメリカとイギリスだが、その2国が横暴なイラク戦争、アフガン戦争を実行し、未だに責任をとっていない。議会制のイギリスでも、嘘をつき、誤った判断をしたブレアを辞任させられない。

 日本も自民・民主の2大政党制になったら、要するに保守の政権交代が可能になるだけで、大きな改革にはならない。民主も今は改革者面をしているが、内部は左右その他ごた混ぜの野合政党で、元気がいいのはむしろ右派だ。従って、政権に近づいたり獲ったりしたら、改憲とか自衛隊の海外派兵とか、自民党以上のタカ派的政策を行い出す可能性も大きい気がする。

 脱官僚と言いながら官僚出身者が結構多い(幹事長もそうだ)し、前代表鳩山が3代目だったのを始め、菅代表までが息子を選挙に出すなど親バカ2代目3代目の風潮は全く自民党と一緒だ。

 ひょっとしたら今後自民党と民主党がそれぞれ右派左派に分裂し、多数派の右派大政党が成立したり、あるいは自民・民主大合併が行われ(むろん少数は抜けるだろうが)、一気に憲法改定に向う可能性もある。

 私はチェック政党としての中小規模の政党、新しい志の新党などが出来やすい中選挙区制の方がよかったと思っている。かつての状態は問題もあったが、ともあれ細川政権も作ったし、いろんな新党が誕生して面白かったではないか。

 共産党なぞもそういう中選挙区制下で、名前を例えば「日本生活党」とでも変えて行動すれば、もっと伸び、連立政権などに参画も可能なのではないか。意固地に旧態依然たる姿勢にしがみついているだけでは、今回のような結果になるのがオチだ。

 社民党も辻元問題に関して党全体の責任として謝罪、体質改善し(土井委員長は辞任)、その上で辻元をあくまで守り、辻元を獄中からでも立候補させ闘うぐらいの気概を示さないから、こういうことになる。現状のままでは消滅してもやむを得ないだろう。

 ああ、あと15歳若かったら、私が政治改革の一角に乗り出したいところなのだが……。



11月8日  再開授業一巡

 江古田校舎の2日間に続き、所沢校舎での授業も一巡した。
 2年ゼミは中国の話に比較的熱心に耳を傾けてくれたので、熱も入った。彼我の国情の違い、物価や給与の違いなどには、関心を持てたようだ。君たちも一度ぜひ中国やベトナムなどへ行ってみなさい、近くの国の多様性というものが分ると勧めておいた。

 1年ゼミはあとでゼミ飲みをするので、話はそっちにまわすことにして俳句の授業をした。毎年この時期には3−4回だけだが俳句の手ほどきをしている。短詩型だし、日本で教育を受けた者は何らかの形で俳句のイロハぐらいは知っているから、もう少し骨格を知ってもらい、実作に関心を持つようにする試みである。

 2年でもそれは続けるし、3年以降は江古田校舎で私の連句の授業につなげる側面もある。このプロセスを踏んだ者は、卒業するとき歌仙の巻き方、俳諧の基本的性質・雰囲気ぐらいは身につけて出ていってくれることになる。
 少数だが卒業後も連句や俳句を続ける者も出る。それが楽しみであり、期待事だ。

 1年は5時から所沢で飲み会をした。浪人組が多いせいもあり、おおむね成人しているし、部活などではすでにだいぶ鍛えられてきているので、案外飲む。
 予約から座での裁量もちゃんと出来ていたし、例年の1年よりしっかりしていた。
 
 2時間で終ったとき、2−3人の目がトロンとしていたが、まず大丈夫だろうと踏んで、まだ2次会に行くという彼らをおいて私だけ帰った。これは彼らへの気配りでもある。



11月6日  久々の日芸での授業

 帰国後初の、ということはほぼ1ヶ月ぶりの授業を昨日した。3年のゼミと連句。
 出席率はまあまあだったが、ゼミの方は何十分も遅れて入って来、挨拶もなく平然としていたり、中国の土産話をしていても何の関心もなさそうに後ろの方であくびをしたりで、北京が恋しくなった。

 北京では遅刻は皆無、正確な授業開始時間に入っていくと全員がぴしっと座って待っており、「ニイハオ」と声をかけると、いくつも返事が返る。
 日本事情が中心の授業内容にも関心は強く、質問など全部は受けきれないほどだった。

 ところが、交換の中国側先生の授業模様を聞くと、出席もあまり多くなく、教室の半分から後ろに固まって座り、しかも半分くらいが寝ていたとのことである。
 授業内容が「中国のテレビドキュメンタリー史」で、文芸科生には直接関係がないといえばないせいもあったろうが、しかしビデオを見せながらの内容にはそれなりの関心も持てたはずなのに、どうも全体としての感度は弱い感がある。

 授業設定、受け入れ学科の選択、教師の授業進行等、いろいろ問題もあったが、同時に学生側の知的好奇心の不足も明らかだろう。
 「中国って、人がびしーっと住んでいるだけで、森なんかないんですかぁ?」などという質問が出たりして唖然とした。

 連句のクラスでは、板書される簡体字が分らなかったという感想も出たが、それなら質問すればいいではないか、そうすればそれをきっかけに日中の言葉や文字の違いから比較文化論にもなり、接点も出来るではないか、と思うのに、そういう積極性はどうやらない。

 マイナス点ばかり言いたくはないが、中国の印象がまだ強いだけに、ちょっと淋しい気がした。



11月3日  ホームページアドレスが移動

 従来使ってきたプロバイダーDreamNetがNTTコミュニケーションズに買収され、OCNとなったため、HPのURL(アドレス)が変りました
 
 従来のお気に入りやショートカットなどから「夫馬基彦の風人通信」をクリックすると、「移転案内」が出ます。そのまま3秒たてば自動的に新アドレスでのページに移動します。
 といっても内容は表紙も中身も従来と同じですが、URLは変っていますので、この新しいページにした上で、お気に入りやリンクに再登録をお願いします(古い登録は消去して下さい)。

 再登録しなくても「移転案内」ページからしばらくは「風人通信」につながり(ジャンプし)ますが、移行期間が過ぎるとジャンプしなくなります。御面倒ですが、どうかよろしく。全くプロバイダー側のせいなのです。

 なお、メールアドレスは従来通りです。変りません。



11月2日  学園祭 進学相談

 今日は朝から久々の大学へ出かけた。日曜だが、折しも芸祭と呼ばれる学園祭のさなかで、午前10時からは各地から訪れる高校生や受験志願生、その父母(大半は母親)ら向けの相談解説に応じるものだ。

 文芸科の場合は人数はさほど多くはないが、それでも石川県や神戸などから駆けつけた志望者もいて、熱心に問いかけてくる。親が脇から口を出すと、制止したりする高校生もいる。書きたいということは一様に言う。ただし、そのわりには読んでいない。

 それが今の世情とも言える。なぜか。理由はよく分らない。
 豊かになり、かつ、目標が社会全体、とうぜん若者にも失われたせいではという気もする。何かをどうしても吸収したい、社会や自分を変革したい、向上したい、そういう熱情はないが、個人としての自己表現はしたい、そういうところだろうか。

 いいのか悪いのか、今後そういう世代がどういう人生を歩んでいくのか、どんな文学作品を生みだしていくのか、よく分らない。
 ただ、普通の文学部とは違って研究より自分が書くことが主体、授業は小人数のゼミ中心、ゆえに授業料も高い、就職率は不況下ではあまり良くない、そういうことをよく考えた上である程度の覚悟を持っていらっしゃいとアドバイスする。

 1時に終って、研究室にいると、卒業生や在学生らが次々に訪れる。卒業生は久闊を叙しに、在学生は3週間顔を見なかった先生がどんな顔で中国から帰ってきたかを見に来るわけである。「先生、おみやげはー」などと言う子もいる。

 草臥れているので早めに帰ろうと思っていたのだが、次々に掴まってしまって機を逃し、やがて5時過ぎからはジャズの丸山繁男さんが中庭特設ステージでセッションをするというので、それを見ることにし、卒業生の女性二人プラスアルファとビールを飲みながら待ち、見る。

 丸山さんは日芸音楽科の非常勤の先生であると同時に、私の連句の長年の門人であった。見ていたら、奥さんも来場なさっており、かつやがて舞台には息子さん(日芸演劇科4年生)まで登場し、親子が息を揃えて踊りまくった。

 丸さんももう50代に入っているはずなのに、腹は全然出ていないし、元気なものである。親子ダンス・デュエットは実に楽しそうだ。こういう点は音楽や舞踊などのジャンルは何とも羨ましい。
 意外だったのは丸さんらと舞台上で踊りまくった半裸体の色っぽい女性サンバダンサー二人のうち一人が、私の娘と高校で同級生とかだったということだ。おまけにわが文芸科の卒業生だそうで、「センセイにも教えてもらいましたー」と言われた。

 いやあ、オドロキ、オドロキ。



11月1日  日本の秋

 帰国後2日たち、落着きました。今朝は雨でもありました。日本の雨はしとしと柔らかい。そして紅葉がもう半ば進んでいます。北京もだいぶ進んでいましたが、紅葉に関しては日本の方が多彩で美しいような気がします。

 郵便物の整理、たまっていたメールの返事、ベランダの植木鉢類の手入れ、溜っていた新聞への目通し(ただしまだ1週間分だけ)、などを終え、川向うへ目をやると、例の工事中だった建物が、いつのまにか4階分ばっちり出来、1階はすでにコンクリート打ちも済んでいます。
 形が出来てみると、相当大きい実感があります。

 物ごとは形が実際に出来てみないと分らないということでしょう。この大きさで、産婦人科だけということは、少子化の昨今まず有り得ない気がし、すると内科とか他の部門も併設されるんじゃないかと期待感が生じてきました。それなら、こちらにもメリットがあるというものです。

 今、太太が風邪でダウンしています。私も北京で腹をこわして一度ダウンしたし、歳とともに身近にいい主治医がほしくなってきます。
 そうそう、ぼつぼつ十二指腸潰瘍の服薬期間が終ります。また胃カメラを呑んで結果確認をせねばなりません。気が重いことです。



10月31日  帰国しました

 ゆうべ10時半ごろ、無事帰宅しました。いささか疲れました。
 やはりうちは落着く。電気が明るく、ものがよく見えます。汚れや生活臭もはっきりしますが。
 旅暮しはホテル暮しでもあり、どういうわけかライトが暗かったことを痛感します。

 学校へは明後日出校し、芸祭中の進学相談を午前中担当します。



10月30日  いよいよ中国最後の朝

 朝食後、かつて日本軍が上海入城のとき通ったガーデンブリッジを渡って、2階建てレンガ造り(?)ふうの古い街並が残る旧市街を散歩してきた。風情があるともいえるが、それよりやはり老朽化が激しく、新しい建物と比べると薄汚れた貧民街のように見える。これでもかつてはブロードウェイホテルなどに連なるメインロードだったのにだ。建物の建築時間はもう70年から100年近くたっている。

 時間と歴史は過ぎ去っていくものだ、というのが改めて感じる実感だ。どちらかと言えば古い物好きの私だが、この街に関しては建て直すのもやむをえないかなと思い出した。
 そしてそう思うと、北京の古い胡同街も建替えはやむをえないかなとも考え出した。何しろ上海にしろ北京にしろ古い住居はトイレもないのだ。昔は馬桶と呼ばれるおまるを使っていた。

 前回、上海に来たときは、それがまだ朝、路地に一斉に乾してあって、なんとも臭かったものだ。今はどうやらそれがなくなったらしい。上海の町は時間がなくて確認してないが、北京の胡同はいたるところに共同トイレが作られていて、馬桶はなくなったようだ。
 
 郷愁にひたるのは金持や恵まれた階層のすることかもしれない。

 それにしても、あの浦東新市区のSF的市街とこの旧市街との落差はまたなんとも言いがたい。本当にどう言っていいか、言葉が出てこない。

 さて、今午前9時半。あと1時間でこのホテルもチェックアウトすることになる。ネットには遂につながらないようだ。北京以降の分はすべて、日本に帰ってから見たり、オンライン化することになる。
 帰宅は日本時間午後11時を過ぎるだろう。

 そうそう、今読み返したら、10月19日以降書いた分に、例えば来るときの飛行機をビジネスクラスと書いたのに実際はエコノミーだった、など、ところどころ間違いや変更点が見つかったので、何箇所か付記の形で付け加えた。何事も実際の進行は予想通りにはいかないものである。

 さて、あと1時間、最後の自由時間をどう使おうか。



10月29日  上海

 昨日から上海に来ている。太太はもう北京から一人で日本に帰ったはずだ。
 杭州から車で途中、烏鎮(ウーチン)、西塘(シータン)という古い町に寄ったりしながら5時間かけて、かなり疲れて着いた。
 宿はバンドと呼ばれる旧イギリス租界時代の川岸近くの和平飯店で、1906年以来の由緒あるホテルだ。ホテル側は世界で一番有名なホテルと称している。

 確かに1930年時代を頂点に世界の有名人が使ってきたホテルで、7−8年前始めて上海に来たときは、泊りたくても高すぎて、太太と二人で部屋だけ見せてもらった記憶がある。優雅で落ち着いた、気品ある、古き良き大英帝国ふう造りで、おまけにたまたまスタンダードの部屋がなかったとかで代りに最高のHarbour View Suite ルームに泊れることになった。しかも、あとではっきりしてきたところでは、どうやら私に割り当てられた5500号室はバスにジェット泡発生装置、首のマッサージ装置(これは壊れていた。10月30日記)まで付いた最高の部屋らしい。

 窓の外は黄浦江と対岸の浦東地区の夜景が見事である。上海というか中国のシンボルのようになったあの大小3つのミラーボールみたいな球のある、高さ400何十メートルかの塔が夜になると、実にカラフルに電飾されるのだ。形状から行って、私は少年時代見た小松崎茂の空想科学画を思い出した。そっくりの塔があった気がする。

 ほかも高層建築群が光り輝き、まるでSF的風景である。いったいここはどこか、21世紀の未来都市かと思わせる気配だが、それが社会主義中国だとなると、そもここの共産主義、社会主義とはナンなのかと、本当に不思議な気分になる。

 今日はその発展鮮やかなフシギな浦東地区などを歩き、また宿に戻ったところである。幸運にも部屋はそのまま使っていいということなので、パレスにいる気分であとの1日足らずの上海および中国での時間をもっぱらホテルで過ごそうと思っている。多分、こういう部屋にはよほどのことがない限り2度と泊れないと思うので。
 ホテルのネットはつながりそうで、なぜかうまくいかない。



10月27日  西湖は煙り続ける

 朝7時半ごろに宿から10分の西湖に行ってみると、西湖は相変わらずもやり霞んで、薄白く眠るがごとく在った。
 その手前で太極拳や棒体操をする者、そして早朝から散策する者が三々五々湖畔にいる。蘇東バが作ったとという提(蘇提)、白楽天が作ったという白提、そして毛沢東が住んだという別荘、いくつかの塔、大寺院、それらがある必然性が靄の中から浮び上ってくるような気がする。

 ただし、毛沢東に関しては彼が皇帝であればであり、共産主義者であるとすれば、なんだかよく分らないが。

 夕食は久々に老酒を飲んだ。1本60元のかなり高級もの。さすがにうまく,胃をこわして以来ビール少し以外は慎んでいた五臓にスーッと西湖の靄のごとく沁みこんでいった。

 夜、北京の太太に電話。彼女は一人で2日過ごした後、明日早朝、日本に向け帰る。北京でのちょっとした調べものの収穫はあった模様。
 私は明日、車で上海に向け移動する。

 この日記は、書いてはいるが、ホテルのインターネットというか、電話のアクセスがうまくいかず、オンライン化はここ(杭州)では出来そうにない。上海で出来るか、ひょっとしたら日本になるか。



10月26日  杭州へ

 昨25日は最後の北京の日を、午前中は香山公園探訪、午後は闘蟋蟀見物に過ごした。
 蟋蟀のすもうないし闘いは4年前の北京以来、見てみたいものの筆頭株だったが、今度やっと実現した。虫市で蟋蟀は前回も今回もたくさん見たのだが、試合自体は見る機会がなかったのだ。

 広播学院の張采先生が新聞記事でやっている場所を見つけてくれ、切抜きをくれたのである。場所は天壇のだいぶ南側にあたる下町の家具会社の展示場ホールで、ここを借り、下町の面々が毎年今頃から試合を積み上げてゆき、11月中旬に決勝戦にいたるという。

 タクシー2台目でやっと探し当て到着すると、2階のフロアに5箇所ほど机が設定され、そこに人だかりがしている。真ん中にたて20センチ横30センチほどの楕円形の透明プラスチック競技場が置かれ、そこに2匹の蟋蟀が入れられ、それぞれ持ち主が細い棒の先に何かの動物の柔らかくて真っ直ぐな毛をつけたものでちょいちょいと蟋蟀を刺激し、怒らせ、向い合わせて闘わせる。

 こおろぎは逃げて闘わない場合もあるが、しばしば牙をむき、羽を羽ばたかせて咬みあい闘うのである。そしてどちらかが負けると顔をそむけて逃げ、横を向いてしまう。それが勝敗で、これを何匹かのチームで競うというものだが、期待していたほどには面白くない。

 自分で育てた人やこおろぎの区別がつく通には面白いらしいのだが、どれも似たものにしか見えない身には、しばらくすると退屈になってくる。まあ、実見できただけで満足という気分になって、私と太太は引き上げた。

 夜は4年前の知り合い、河原啓明君と高木美佳夫妻がホテルまで来てくれ、会った。驚いたことに美佳さんは9ヶ月の身重であった。近所の行きつけになっていた回族ふうレストランでしゃぶしゃぶを食べながら話すと、今年の4月日本で結婚し、河原君はすぐ北京に戻ったが、SARSを避け美佳君は7月に北京に来、目下4ヶ月目だそうだった。

 美佳君は食欲旺盛、何を言ってもニコニコと「君、君」と河原君を呼び、しあわせ一杯というところだった。河原君は半永住のつもり、彼女は「エエー、そんなー」と言い、いずれにしろ子供は日本で生むものの、あとは学校などすべてこちらの中国人と同じ形で育てるつもりということだった。
 河原君の日中貿易と翻訳を中心とした小さな会社はまだまだ発展途上らしかったが、先が楽しみである。

 その小宴を最後に今朝早く北京を去って、今日は南宋の首都だった杭州に来た。上海より少し南だけあって、気温27度の暖かさだ。寒かった北京(14−5度だった)との落差は大きい。一気に南国ムードである。
 その杭州は予想と違って、驚くほどの近代都市になっており、がっかりが半分、感嘆が半分だ。

 しかし、名にしおう西湖は確かに美しい。背後の山、手前の柳、湖上の舟、島、周りの13層の塔、寺、堤、すべてがけぶるがごとくに霞み、うら暖かく、茫々とし、水墨画のようだ。
 今日はそれだけでも堪能した。



10月24日  最後の授業を終える

 今日は10時40分に迎えが来、広播学院近くのレストランで、副院長、外事処副主任らと会食。朝食を抜いたせいもあって腹具合もほぼ完全に回復しており、高級そうなうまい料理をほぼ人並に食べた。院長の故郷である湖北料理とかで、味があまり辛くも油濃くもなく、どことなく日本の味に似ているのも助かった。

 鴨、あひるを中心にした鳥料理でもある。野菜もセロリと百合根の茹で合わせなど、私の好みにぴったりだった。最後に出た麺は名古屋のきしめんとまったく同じといってよかった。老酒(こちらでは紅酒と言ったり、この日は加飯酒と言ったりした)も、いつもの甘い干し梅干を加えるやり方ではなく、生姜の千切りを入れて飲むやり方が新鮮でうまかった。

 会食のあと、2時から4回目、最後の授業をした。題目は「ビートたけし 浅草の芸人から世界の映画監督へ」で、焦点は久米宏と並ぶ日本のテレビ人間の2大象徴であり、日本社会におけるテレビの役割を代表する人物であること、久米はいわば知的リベラル派、高学歴層に支持が高く、たけしは大衆的暴力派、ゲリラ派であり、大衆への刺激物そのものである、という点である。

 久米はメディアとしてのテレビを信じているかもしれないが(少し虚しく感じているにせよ)、たけしはひょっとしたらテレビなぞ信じていない、だから平気でおちゃらかして、稼ぎ、おどけ、そしてその成果を利用して好きな映画を作る。つまり彼は個人表現としての芸術家であり、久米はあくまで半ジャーナリスト半司会者である、ということだ。

 学生たちはその趣旨をおおむね理解してくれたようだった。あとは、今日は最後だからこちらからいろいろ聞きたいとして、彼らのテレビへの意見、中国にたけしや久米みたいな人がいるかどうか、などを聞いたが、久米的人物はいくらか近い人がいるが、たけしみたいな人はいない、お笑いタレントが政治番組の司会をし、政治家をおちゃらかすなどありえないという返事だった。

 また、日本と中国の将来について問うと、中日は小規模な戦争はするかもしれないという返事もあり、ソ連の解体について問うと、ソ連と中国は違う社会主義だ、ソ連の解体から学び中国はさらに独自の社会主義を発展させると優等生的答えが返り、拍手が起った。中国政府の教育は見事に貫徹しているというべきだろう。独自の個性的意見はなかなか生じ得ない現況がよく分る。

 4時に終え、最後に私がわがHPのアドレスと、E-メール アドレスを黒板に書くと、みな熱心にメモしていたから、今後彼らからメールが来るかもしれない。
 終って、彼らと階下の玄関前で記念撮影をし、10数人と握手して別れた。

 いい北京滞在だった。いや、この数年で一番いい外国滞在だった気がする。仕事ーそれもその国の多くの人、特に若い人と接しられたのがよかったと思える。帰りの車の中でまた来たいものだと、太太や鈴木先生と言い合った。



10月23日  回復 路上按摩

 きのう3食完全に抜き、正露丸を4回飲んで寝た結果、今朝起きると腹が締まっていた。便も硬い。ホッとした。
 念のため朝食は遅めに小さな饅頭(マントウ)2個とハミ瓜の薄切り2枚のみにし、昼は抜くことにした。何しろ明日は昼はやめからまた広播学院副院長主催の会食なので、胃の具合は万全にしておかねばならない。

 本物偽物合わせ安売りで有名な「紅橋市場」へ出かけた。うわさ通りロシア人やらモンゴル人やら外国人がいっぱい、買い物というか買い付けをしているのに混じって、小物を少し買う。だいたい言い値の3分の1強をこちらが言い、それから電卓で数字をやり取りし次第に歩み寄り、最後はじゃ止めると言って歩き出すと、追っかけるように「OK、OK」と呼び止められ、けっきょく約半額強で決着、というのが筋書きだ。

 面倒くさいともいえるし、面白いともいえる。ものはグッチにクリスチャン・ディオールにローレックスにナントカ、みな有名ブランド品だが、むろんたいていは偽物。ディオールのデザインのスイス時計が日本円にして2,3千円である。私はナイキのスニーカーを約5千円で買ったが、これは本物なのか高いのか安いのか、もともと日本での値段も知らず知識もないからよく分らない。知っている人教えてちょうだい。

 4年前、師範大そばで買ったスニーカーがちょうど寿命なので、また北京記念に買おうとおもっただけだから、まあ、どうでもいいのだ。じっさい、偽物本物問題は、ほぼ本物と品質も同程度で普通の人が見ても分らなければそれでいいとも言える。明らかに材質以上の高いデザイン料を物価水準のまるで違う国々の人が払う必要なぞないという気もする。

 ただ、、それにしてもこういうことはかつては香港の役割だったのに、いまは北京か、といささか感慨無量のものがある。

 その買い物を終えて出たところで、路上の按摩屋を見つけた。体格のいい、そして話しかけてみたら人のよさそうな表情をする70がらみの人民服のおっちゃんが1回20分10元と言う。按摩好きの太太が、ホテルでは150元(ただし45分)だったのに安い安いとさっそくかかることにした。

 おっちゃんは私が日本人と知ると(太太は台湾人ということにしてある)、少年時代、日本兵が妊婦を踏みつけたり腕を切りつけたり残虐なことをいろいろしたのを見たと話した。別に非難したり怒ったりしてというより、日本人と聞くと反射的にその記憶がよみがえってしまうという感じで、よほど強い記憶なのだろうと思わせた。

 だが、私が困った顔をしていると、最後に、いや、あれはひょっとしたら朝鮮人だったかもしれない、それから、日本人がいなくなったあと国内で始まった戦争では中国人も残酷なことをいっぱいした、と付け加えて話は終った。国共内戦のことか、あるいはひょっとして文化大革命のときのことだろうか。

 なかなか人情味ある処理だ。そのあと私も按摩をしてもらうと、だいぶ凝りがひどかったらしく、よく寝てないのかと聞くから、きのう胃をこわしたと話すと、そうだろうと頷いていた。
 が、その割には早めに切り上げられた感じがしたのは、太太によれば太太は台湾人、私は日本人だったからだと笑う。少しは怨念が残っているのかもしれない。



10月22日  ついに腹を壊す そして会食・座談

 ゆうべ、近所のレストランで北京ダックを食べたところ、油濃かったのと、そのほか注文した品が予想外に多量だったのとで食べ過ぎ、よる嘔吐と下痢が同時に起った。そのときすぐ正露丸を飲めばよかったのに、どういうわけか、というか十二指腸潰瘍の薬をずっと飲み続けているため、その薬の一部を飲むべきかどうかなどと考えたまま下痢対策を怠ったところ、今朝になってもずっと不調、朝食を抜いてもなお下痢が止まらなかった。

 おまけに今日は広播学院の新聞伝播学院(こっちの学院は学部ないし学科というほどの意味)の幹部連と昼食が設定されており、辛かった。断るわけにも行かないので、事前に事情を話し、私はほとんど食べなかった。代りに太太がある程度食べてくれたが、こちらの風習ではどうも主賓が食べないとほかのメンバーも食べにくいらしく、せっかくのご馳走は8割がた残ってしまった。ああ、惜しい。

 そのレストランは広播の学内の国際センター(留学生寮などもある)内のものだが、一流レストラン並みの設備とうまさだった(そうだ)。ほかにも学内レストランは3つあり、わが日芸の学食を思って少々哀しかった。

 そのあと、2時から4時まで院生、教授、副教授ら10数人と「座談」なるものをした。ま、何でも気楽に話そうという趣旨だが、話題はインターネットのこと、こちらで見られる日本のテレビ番組のこと(「おしん」とか「東京ラブストーリー」など実に限られている上、大衆的だ。それを50代の女性教授が話したりするから、妙な気がする)、日芸放送科、広播双方の就職状況のことなどが主で、あまり面白い話はない。映画の話題が多かったので、太太に代りにだいぶ喋ってもらった。

 私はいつトイレに駆け込むことになるかと思いつつお茶をちびちびなめていた。
 帰りがけ、また明後日は宴会ですと言われ、おもわず「えっ、また!」と言ってしまった。それまでに直ればいいが、心もとない。直ってもまたぶり返さないかと不安も生じる。
 これが噂に聞いていた中国の食攻めだろう。



10月21日  第3回授業 インターネットの自由

 今日は「インターネットと作家、日本のインターネットやメールの現状」という題目で話した。
 まずペンクラブの「電子文藝館」や「青空文庫」などを紹介し、ついで筒井康隆、村上春樹、よしもとばなな、そして私のホームページを紹介し、課金型、情報・ファン型、自己発信型に分け、特徴を説明。

 これらの過程で、井上靖、川端康成、村上春樹はよく知られているが、よしもとばななは殆ど知られていないことが分る。
 ついで、[JANJAN]などのインターネット新聞を紹介、中国欄を取り上げ、いまここで話題になっている中国の犬のことなどを話した。

 2チャンネルのこと、自殺サイトのことと話を進めたが、インターネット新聞のあたりから学生たちの理解がどうもずれ始めた。原因はどうやらこちらには個人が自由に個人新聞を作って発信するとか、ネット上に政治を含めて気ままに議論する土壌がないためらしい。新聞というと、彼らは新華社とか人民日報とかだけであり、個人がそんなことをしたら間違いが出ないかと言う。

 大きい新聞やテレビなぞにも間違いはしばしばある、個人のものでも私のホームページなぞはずっと間違いが少ない、と言っておいたが、要するに彼らは党や人民日報、中央電視台(CCTV) などは絶対正しく、個人の発信なぞありえないと思っているのである。

 この落差は大きい。
 この国に言論の自由、報道の自由、HP を作って自由にものを言う自由はないのだ。インターネットやパソコンはかなり盛んだが(学内にもパソコン室はいくつもある)、自分たちが自由に発信できるというふうにはまだ考えられていない印象だった。見られるサイトも何らかの形で制限されているらしい。

 田中宇(さかい)のメールマガジンと小泉純一郎のメルマガを紹介したら、中国では首相が直接国民にメールを出したり、国民が首相にメールを出すなぞありえないと、ため息的声が上った。
 胡錦涛主席も国民に直接語りかけるべきではと私が言うと、そりゃその方がいいけどと戸惑ったような表情だった。

 まもなく、北京では4年ぶりの市人民代表大会の選挙人選挙があり、町ではその標語やポスターでいっぱいだが、候補者は自由に立候補できるわけではなくほぼ決まっているという。
 この国の十分な民主化はまだ10年ぐらい先のことかもしれない。



10月20日  盧溝橋 埃だらけのアジア風バザール

 今日は午前からタクシーに乗って郊外の盧溝橋に行った。バスで行こうと思ったが、郊外バスターミナルまでの行き方がわからずタクシーに乗ったら、どうせあと10キロで盧溝橋だといわれ、霧で寒かったせいもありそのままタクシーで行ったのだ。行ってみたら中心部にあるホテルから10数キロ程度のところで、その近さに驚いた。渋滞しなければほんの20分程度のところだろう。

 1937年7月7日から8日にかけてここで日中両国軍が銃撃戦を始め、いわゆる日支事変、日中戦争の発火点となった盧溝橋事件の起った場所である。中学校ぐらいから歴史の時間に必ず出てきた場所なので、「北京郊外盧溝橋」はもっとしかるべきところと思っていたのだった。

 そこに立派な「抗日紀年館」があって、ここへ入ると、これまでのお遊び気分がいっぺんで吹っ飛ぶ。「日本軍暴行室」「虐殺」コーナーなどが次々とあり、盧溝橋事件から始まって,南京虐殺(30万人)、満州・遼寧省での殺戮事件、以下綿々と日本軍の戦時中の所業が続く。

 むろん、それだけではなく、戦時中に中国アメリカは早くも連合軍を形成して共同して日本軍に対していたこと、司令官が中国人で副司令官がアメリカ人であったことなどが分り、ヘーエと思わせられる。
 その中米連合軍の存在にもかかわらず、なぜ中国がその一軍団に過ぎなかった第8路軍(共産軍)に後に制覇されたかも不思議なことである。

 むろん、それはそれなりの理由はちゃんとあるわけで、歴史はそう簡単ではなかったわけだが、この紀年館を見て一番感じたことは、こんな広い国を、歩いて進む歩兵中心の陸軍で制圧できると考えた日本軍の不思議さだ。どうがんばっても点と線の確保にしかならなかったのは当然だろう。

 と言ったら、わが太太が、それは結果的に言うだけで、今のアメリカもイラクでなぜこんな無謀な侵攻をしたのかと言われているではないか、侵攻前にはアメリカ人の多くはそうは思っていなかったじゃないの、と口を挟んだ。
 確かにそういうものかもしれない。いづれにしろ、人間というものはいつまでたっても愚かなものだ。

 紀年館を出、教科書の写真などで有名な城門をくぐり、更に石製の歴史的建造物盧溝橋、次いでもうひとつの橋を渡り、対岸に行くと、ここはがらりと変った埃っぽい農村の物資集積場で、だだっぴろい平地に野天の大きな市場というよりバザールといった方がいいものが開かれていた。

 衣類、雑貨、野菜、果物、穀物、肉、魚、鍛冶屋的品々、ほかなんでもある。昔懐かしいオート三輪車、しかも無蓋のオート三輪が「バタバタバタ」と物凄い騒音をたてて走り回っている。
 私はここでパジャマを20元で買った。ホテルで10日間着た持参のパジャマをクリーニングに出すと40元かかるからだ。

 それから私と太太はやっちゃ場の脇の野ざらしの店で、もつスープと餅(ピン)と呼ばれる中国風ナン(中央アジアやアラブ、アフガンなどで食べる種無しパン)みたいなもので昼食をとった。もつスープは食べきれず残したが、餅はうまく、私は2枚食べた。算帳(勘定のこと)は二人分で6元半(約100円)だった。
 


10月19日  蟋蟀・骨董 師大(シーダー) 故宮・天壇

 昨日18日はフリーデイだったので、午前中は蟋蟀市を見ようと藩家園花虫鳥園へ行った。
 こおろぎをはじめ虫類、小鳥、ペット類、凧、骨董、花などがいっぱい集まる市場である。こおろぎは4年前もこういう市場で見て以来、すっかり北京の景物としてわがカップルの中で定着した。

 が、今回はちょっと時期が遅いそうで、こおろぎよりきりぎりすが多く、これが小さな竹篭や瓢箪製の虫入れに入れられ何千と鳴いている。他に蚊に近いような小さな虫で耳を近づけるときれいな音で鳴いている虫など、あれこれがいっぱい並んでいる。この小さな虫は縦3センチ横5センチほどの洒落たつくりの木製の箱に入れ、ポケットなどに入れておいて時折取り出し、耳にあて聞くのだという。中国人は粗野そうに見える労働者風のおっちゃんなどがこういうことをするから面白い。やっぱり文化の民である。

 その花園を出て歩いていると、路上に虎や狐、豹などの毛皮を持った少数民族風の男たちがたくさんいて、売ろうとしてくる。虎の皮など見事なものである。値段はかなり高いが、物はウーム一つほしいなあというような代物ばかりである。しかしそもそもがワシントン条約違反のものばかりだろう。産地はあとで聞くとたぶん内モンゴルだろうという。

 少し歩いたところにある藩家園旧貨市場は、いわゆる大骨董市場で、家具から宝石、雑物に至るまで偽物ほんもの何でもある。全部見て回ろうと思ったら2,3日はかかるだろう。
 で、太太が瑪瑙の安い首飾りを2つ買っただけで、引き上げる。

 界隈で昼食後、バス停の表示に「北太平庄」を見つけた。これは4年前1ヶ月通った北京師範大学のある場所だ。で、1時間ほどかかりそうだったが、懐かしくなってこのバスに乗った。
 着いた師大(シーダー)界隈は昔のままのところが半分、変ったところが半分だった。
 大学の門自体が新しいビルになっており、昔よく食べた学食も、日本語のメニューがある「一心」という日本式の名前が付いたレストランに変っていた。教室などは前のままだ。

 1ヶ月住んだホテルまで歩いていくと、ここもだいぶ変っていた。というか、ホテル自体は何も変っていなかったのだが、界隈もホテルもさびれ、かつては満員で活気のあったホテル内部が半ば廃館になったかと思えるほど閑散として寂しげだった。
 近所のよく通った包子屋もなくなっていた。近くの交差点は巨大な高架道路になっていて景観自体がまるで変った。
 たった4年でこんなにも変るのかという思いである。

 今日19日は、またミス万が車で迎えに来てくれ、鈴木さんと私と太太を乗せて故宮と天壇見物に連れて行ってくれた。天気は曇り、ちょっと肌寒い程度で、日に焼けず、私には丁度よかった。
 故宮は相変わらず巨大広大で、中国の中華思想を眼前にする印象だったし、天壇は宗教施設とも天文台的施設ともつかぬ不思議な、よく分らぬところだった。人だけはどちらもものすごく多い。

 昼食に連れて行ってくれた「老北京ジャー醤面大王」という古い有名な店の料理が実にうまかった。桂魚のあんかけ、卵で作った巨大なプリンみたいなもの、麻豆腐(マーボ豆腐ではない)などが絶品だった。運転手の張さん(35−6歳くらい。北京のことは実によく知っている。こおろぎのことも並木の木の名前もこの店での料理の注文も大半が彼が教えてくれた)を含め5人で満腹し、なお食べきれなかった。

 もう1−2キロ太ったが、この調子だと中国を去るときには3−4キロ太っていることになりそうで恐ろしい。私はいろんな数値が高いのだ。



10月18日  魯迅の学校、第2回授業、学生たちとお茶をする

 昨17日は午前中、太太と界隈を散歩。近くにある魯迅中学校という看板の学校前で、居合わせた先生風の人にここは魯迅と何か関係があるのかと尋ねたら、もと魯迅が教えていた女子師範学校あととのことだった。「エーっ」と声をあげ、中を見せてくれと頼むと「ああ、いいよ」と案内に立ってくれた。

 中庭に白い魯迅像、左に折れると魯迅が実際に教えたという教室棟が大きく魯迅の名入りで残され、中庭周りの廊下には魯迅が書いた「三一八」という作品のこと、その素材となった三一八事件、そのとき死んだ2人の女子師範生の名前、写真などが展示してある。三一八事件というのは1920年代に起きた反日本帝国主義運動の中で5000人の学生らが集会をした際、当時の政権から弾圧され何人かの死者が出た事件だが、そのうちの2人がここの女子師範学校生だったのである。

 私が壁の文面中の「日本帝国主義」という言葉を指で指すと、案内の中年中国人は「ハハハ」と大きく笑った。そして私が魯迅像の前で太太に写真を撮ってもらいながら、「私も作家だ」と下手な中国語でしゃべると、彼はまったく分らなかったらしく、太太にこう言ったそうだ。「日本人はみんなああいう喋り方をするが、何を言ってるか全然分らない。ヘンなやつらだ」

 つまり、彼は太太は中国人で私だけ日本人だと思っていたのだ。
 ついでに言っておけば、彼のことを私たちはずっとこの学校の教師だと思っていたが、一緒に門を出ようとするので聞いたら、「いや、近所の者だ」とのことだった。

 午後は広播学院で2度目の授業をした。「日本のテレビにおけるドキュメンタリー番組と書評番組」という題目で、眼目はテレビ媒体と本の関係である。興味を持たせるために中国を題材にしたドキュメンタリー番組を2本ほど紹介し、それらが半年後くらいに本になったりすることがしばしばあることや、NHK週刊ブックレビューを見せて(むろん私の出演したものだ)、テレビと活字出版との相互関係について語る、というものだ。

 中で学生たちが一番興味を示したのは、本題よりついでに見えてしまうコマーシャルだった。私がその部分を早送りしようとすると、一斉にブーイングが起った。以降はコマーシャルをゆっくり見せたが、彼らにはそれが一番わかりやすく、かつ日本の実態が伝わるらしい。実際、こちらは中国を素材にし、中国人がしゃべる内容なら彼らが興味を持つだろうと考えたが、ひとつは上海が舞台で上海語だったため、出席者中(この日は増えていたので数えたら100人近くいた)たった二人しか分る者がいないのだった。

 発言は相変わらず活発で、次々とたつので、時間が足らない。
 切り上げ、希望者はお茶を飲みながら話そうと言ったら、今度は付いてきたのは日本語科からのもぐり学生4人だけだった。
 彼らにプラス通訳係の張采先生、日本語科の2ヶ月前まで東北大に12年いたというナントカ先生(おばちゃん風中年女性)、わが太太、それにあとから合流した放送科の鈴木先生、その通訳係の男性の張先生(神戸大に10年いた)の計9人で、日本語、時々普通語(中国の標準語)でいろんな話をした。

 日本語科の学生は大学院修士1年が二人、学部生が4年二人の、男女2名づつである。みななかなかちゃんとした日本語を話すし、うち2名は東北大12年の先生よりうまいくらいだ。
 卒業後は日本語を生かしてマスコミ関係の仕事につくか、翻訳家などになりたいということだった。昔、私が22−3歳でパリに行っていたころ、アリアンスフランセーズという語学学校の教師に聞かれると、ほぼ同じ答えをしたことを思い出した。むろん、その通りになどなりゃしない。人生とはそういうものだ。
 
 と私は思っているが、彼らは案外その通りになるかしら。聞くと、広播の卒業生の多くは実際マスコミ関係に就職するそうだ。



10月16日  田村を訪ねる

 今日は授業もなく時間が空いたので、わが太太(タイタイ。中国式の妻・奥さんの呼名。どっしり強そうでぴったりなので、今後こう呼ぶことにする)とどこへ行こう、とりあえず出来たての地下鉄で終点まで行ってみよう、となり、苹果園(りんご園の意)というところで降りた。

 と、たった30分ぐらいでかなりの郊外であり、駅前のバス停で行く先を眺めていたら「田村」という場所があった。太太の苗字である。「おっ」となり、そこへバスで向った。
 そして約20分、もうすっかり田舎の町となったところが田村だった。

 埃っぽく、水溜りのある、殺風景な町。そこの真ん中に小さな市場があり、中に2軒ほど食堂があったので、そこで昼食をとった。テーブル4つ、子供のいるおばちゃん一人が接客係、そこで燕京ビール1本、煮た落花生1皿(いっぱいある),きうりの塩油かけ、隠元豆と豚肉の合わせ炒め、お茶、と頼み、味も結構うまく,ほどよく腹も充ち,満足して勘定を頼むと、全部でたった18元(1元は約15円)だった。

 安い。北京市内の半分だ。ホテルのレストランと比べれば10分の1以下である。
 いやあ、やっぱり田舎はいい、牧歌的だ、むかし旅をしていたころみたいだ、そう言いあった。田村太太は興に乗って店のおばちゃんに名刺を見せ、「ほら、あたしの名は田村(ティンツン)よ」と楽しげに言ってみせた。相手はフーン、ニッと笑ってみせただけである。



10月15日  北京初授業

 今日は北京広播学院で初授業をした。
 12時半、通訳をしてくれる新聞伝播学科(新聞はニュース、伝播はコミュニケーションの意)の張采先生が車で迎えに来てくれた。
40歳前後、何とか大学(聞いたが覚えられなかった)の日本語科を卒業後、広播学院の大学院修士を出、いま副教授をしながら、なお博士課程で学びつつある9歳の1児の母である。一昨年、日芸の放送科に交換教員で来たこともある。

 広播学院は北京東部の新しい地域にあり、16学科、1万6千人のかなり大きな学校である。
 その新聞学科の建物5階の50人くらいの教室で、授業開始。学生は男女ほぼ半々、東北やセッコウ省や、山西省、福建省など全国各地から集まっており、直接確かめなかったがチベットや新疆からも来ているそうだ。

 ゆえに大半が学内の寮暮し、寮にはテレビもないそうだ。年次は2年生のクラスだが、日本語科の学生などが院からもやってきており、満員だった。
 その諸君を相手に、私は日本のニュースキャスター論、特に久米宏に焦点を当てて、彼の18年間を紹介、分析した。

 彼の年俸がいま7億2千万円、と言うと、どよめきが起った。中国では月給5,6千円という人がいっぱいいることを思えば、信じられない数字だろう。
 彼や筑紫哲也の影響力は日本のポピュリズムに多大の影響を与え、細川内閣や小泉・真紀子内閣の成立にも大いに寄与したことを強調したが、このあたりは共産党による一党独裁、自由選挙のない中国の政情下ではなかなか理解されにくかったようだ。

 マスコミが司法、政府、国会の三権に次ぐ第四権的力があると言っても、これもなかなか理解しがたいらしい。三権分立自体が中国ではないと言っていいからだ。だが、その辺のことをこそこちらは語りたくて、この題目を選んだのだ。

 授業は日本のテレビのビデオを織り込みながら進めた。それを張先生が通訳し、特別参加のうちの奥さんが時々補足する。奥さんは張芸謀監督の映画「秋菊物語」などの字幕翻訳をするなどしており、中国語はかなりうまい。私が彼女を紹介し、彼女が少し中国語で喋ったりすると、拍手が起きた。

 学生たちはなかなか闊達で、質問はと言うと、何人もが手を上げいろいろ聞いてくる。日本語科の学生が司会役を買って出、日本語と中国語で司会をしたりまでした。
 そして、ともあれ2時間15分の授業を終えると、学生たちはかなり盛大に拍手してくれた。

 授業はあと三回、同じクラスで、ある。だんだん馴染みになっていくだろうし、次には学生たちにもっといろんなことを聞いてみようと思っている。授業後、お茶でも飲みながら話すのもいいと思っている。



10月14日  うちの奥さん来る

 夜10時半過ぎ、奥さん(あまり奥になぞ引っ込んでいないが)、到着。アメリカのユナイテッド航空で往復4万3千円の格安チケットのため、こういう時間になる。が、それにしても安い。
 部屋はもともとツインの部屋なので、そのままただ合流するだけ。朝食券もツイン部屋は二人分出るとのことで、発給され、つまりは私と一緒の間は朝食付きタダ。来ない方が損みたいな話だろう。

 成田空港では、欧米人客は靴まで脱がされ厳重なチェックを受けていたそうだが、日本人などはゆるいものだったそうだ。これも今の日本人には毒などないとみなされている証拠だろう。
 ただ、彼女は直前まで、まもなく出す本の著者校および映画の字幕の仕事で大忙しだったので、文字通り荷物はトランクに放り込んできた感じだ。

 荷を解くなり按摩を求めてマッサ−ジルームへ駆け込んでいった。終って部屋へ戻ったのが12時近く。風呂に入って寝たのが北京時間1時過ぎというあわただしさだった。



10月13日  マイペース

 今日は朝8時半から一人で歩く。寒さを警戒して、マフラーにチョッキ、レインコートと装備をしたら、10時ごろから暑くなり、だんだん脱いでいく羽目になった。
 空は青空、空気さわやか、まさに北京秋天の感じ。

 裏町にはまだまだ胡同(フートン)があることも分かり、うれしくなる。政府のある中南海まで胡同を歩き、長安街を戻る。
 西単の中外デパート地下のスーパーマーケット(超級市場)で、ビールや水、椰子ジュース、カシューナッツ、香梨,柿などを買い込む。両手でいっぱい持って70元(約1000円)。安い。

 ホテルだとエビアン水の小ペットボトルが20元(300円),いくら外国人価格とはいえ暴利である。同じく洗濯がワイシャツ1枚30元(1元は15円),アイロン代は別で10元ぐらいかかる。つまり日本よりはるかに高い。これもこれからは外で洗衣屋を探すことにする。
3週間近くいるのだから、こんな暴利からは自己防衛しなければばかばかしい。

 西単の街も、表はどでかい巨大建築に花でうずまる公園、2歩くらい裏へ入ると昔ながらの平屋建ての胡同の路地で、その二重構造性が中国の本質だろう。
 共産主義を名乗りながら資本主義そのもの、繁栄を見せながら鄭義のような作家は追放する。そういう二重構造である。
 


10月12日  長城へ行く

 昨日来朝方まで雨で、今朝は猛烈に寒く、長いメリヤスズボン下をはいて、レインコート、マフラーという姿で、午前9時、出かけたところ、長城界隈は一面の雪景色だった。景色は絶景だが、しかし降ってこそいないものの、石段も道も雪と雪解けのぬかるみで、滑って危険極まりない。
 
 そこを少しだけはと同行の鈴木教授とともに手すりにつかまりつつ登り、写真3,4枚を撮って早々に降りた。
 案内のミス万(わん)も、こんなに寒いとは思わなかったと、ぶるぶる震えていた。
 それから定陵へ。
 ここではすっかり晴れて、ぽかぽか暖かかった。門前で食べた小さな梨がうまい。

 相当くたびれて5時ごろホテルへ戻る。
 明日は自由行動日。のんびりぶらつこうと思う。ホテルの物がやけに高いので、ビールなど飲み物を買い込んでおきたい。



10月11日  ブジ北京着

 昨日午後1時過ぎ北京着。迎えの女性二人に案内され民族飯店に入った。ホテルの説明、食事のことなど話された後、今日はこれで自由、明日11:30に迎えに来ますとのことで、解放される。その今日は広播学院長との顔合わせ、歓迎会食(昼)。

 インターネットはしばらくホテルの担当者と言葉が通じず悪戦苦闘したが、夜になってやっとホテルのアクセスポイントにつなげばOKということがわかった。ただし、やってみると、3,4回に1度しかつながらないが。しかしまあ、これで一安心。このHP更新もそれで試みている。日本でちゃんと見られればうまくいったということです。

 ともあれ、トライ版。
 こちらは雨で寒し。気温10度くらいか.皆コートを着ている。



10月9日  明日出発します

 荷造りもすみ、スーツケースは今日空港に送る手配にした。ビデオや資料、向うの関係者への土産などで、予想外に重くなり、ずっしりとしている。
 あとはノートパソコンと洗面道具類をショルダーバッグに入れるだけである。

 飛行機はビジネスクラスだからゆったり足を伸ばしていけるだろうビジネスに乗るのは2度目。ふだんは無論エコノミーで、ゆえに窮屈で足踏みなどしていないとエコノミー席症候群になりそうな気がする。校費出張とはありがたいものだ。そして世のある程度の年齢のサラリーマン族たちはたいていこうしているのだろうななどと考え、組織人は楽なものだとも思う。
 長年まったくフリーだった私は、何をやるにもすべて一人でやってきたものだ。乗り物は一番安いものばかりだった。
 (10月30日記。この項はまちがいだった。実際に空港へ行ってみたらエコノミーだった。チケットにBと記載されていたし、去年まで毎年ビジネスクラスだったというからそう思い込んでいたのだが、どういうわけかエコノミーになっていた。やはり、エコノミーにしか縁はないらしい)。

 気候はもう晩秋で、だんだん寒くなってきた。大陸性気候の北京の朝晩はもっと寒いかもしれない。気をつけていってきます。
 そうそう、この日記の更新はトライしてみようとは思っているけど、向うの状況次第では出来ないかもしれない。その場合は掲示板に書き込むことにしますから、そちらを見てください。メールはヤフーメールで見られるように設定したので、通常通りでOKです。ただし、毎日チェックは出来ないと思います。

 では行ってきます。



10月6日  北京行き迫る

 10日からの北京広播学院との交換教授の日程がだんだん近づいてきた。
 昨日から旅行スーツケースを出して、衣類などを詰めだした。向うは東京よりややすずしめ、しかし10月も後半はちょっと寒いそうなので、セーターやレインコートなども入れる。

 あとは教材だが、ビデオデッキが向うはPAL方式、こっちはNTSC方式と違うので、向うにNTSC用のデッキを用意してもらうよう学校からFAXを打ってもらった。放送大学だからあるだろうとは思うが心配でもある。

 4年前、師範大学で中国語講習を受けたときのコーディネーターだった河原啓明君に当時のアドレスでメールを打ったら、今日、ちゃんと返事が返ってきた。北京で日中貿易のコンサルタント会社を開き、しかも、当時私と語学同級生だった女性と結婚しているとのことに驚く。

 しかし、これで楽しみがひとつ増えた。若い河原夫妻との再会である。異国の地で、どんな風に人生を切り開いているか。北京語が達者で世話好きだった彼の様子が想い浮ぶ。



10月4日  後期授業一巡

 昨日で後期の授業が一巡した。充実した夏休みを送った者もいれば、大変だったらしい学生もかなりいる。
 
 持病の喘息が悪化して飛行機のなかで肺が破れ、死ぬ思いをした挙句、せっかく帰郷したものの空港からそのまま入院生活になった人、学業を放棄し休学を考えた人、他の目的のため、実際に休学届けを出した人(彼は父親が死亡した)、精神状態が鬱屈し体重が8キロも減った人、授業が合わずクラスを移れなければ学校を辞めようかとまで悩んでいる人、等々かなりの比率でいる。

 それらの話を聞いたり、相談を受けていると、若い人、青春もラクではないなとつくづく思う。
 そういえば自分の青年時代もそうだったと思い至りもするのだが、齢と経験だけは重ねても、けっきょく具体的に何かしてやれることはあまりないことにも気付く。

 個人の問題は、経済や生活にしろ、内面の問題にしろ、理解は出来ても解決策は出してやれないことの方が多いのだ。結局は時間が解決するとしか思えない事例も少なくない。
 結局は話を聞いてやり、あとは経験上ベターと思えることのみをアドバイスする程度が、大学教師の出来る範囲内という気がする。

 青春はラクではない。闘いの時だ。そして闘い、経験した分、成長する。
 そう思って、見ている。



9月30日  エッセイ欄に久々に5編アップ

 長らくエッセイ欄に触れないままだったが、何かないのですかという質問が出たりしたので、最近のものから5つほどを載せることにした。
 
 この間、それなりにあるにはあったのだが、あまり大したものはなかったし、日記欄がいわば日々の新しいエッセイであるという意識があったので、何となくおざなりにしていたのである。

 アップしたのは、以下の5編。

  1、夏は真っ黒けだった
  2、フシギの人 今野敏さん
  3、ウエールズの深奥 秘密の園
  4、北京とアメリカ
  5、小沼丹さんと大学の先生

 いずれも今年の、短いものばかりで、肩もこらないと思うから、ぜひ覗いてみて下さい。



9月29日追補  連句欄に新歌仙あり

 解題もあります。ぜひ一見を。



9月29日  風人連句会、新江戸川公園松声閣で

 昨28日「第4回歌仙」の例会を、松声閣(旧細川邸)にて開いた。
 連衆は幹事兼執筆(しゅひつ)の長谷川冬狸(編集者)、太田代志朗(歌人)、湊野住(「見立て」研究者)、初参加の落合玲(フリーライター)、それに宗匠としての私の5人。もう一人、新人の宇多美紀君(会社員)は近くのリーガロイヤル早稲田まで来たらしいのに、道に迷って辿り着けなかったそうだ。?

 仲秋のさわやかさの中での庭は緑濃く、微かに秋の色も見え始め、床の間付きの和室の窓を開けはなしていると、そよ風心地よく、いい気分である。
 初参加の玲君は、今日が誕生日とか、おまけに夜には婿殿予定者が家に挨拶に来る日とかで、まさに記念すべき日だった。

 彼女を寿ぎつつ開始した歌仙も順調に進行し、脇で私はこう付けた。

  発  遣水の響きて萩のこぼれけり   冬狸
  脇   今日生れたる満月の人     南斎

 26年前のその日は満月で、月の引力に惹かれ、その明け方に生れた人が多いのである。

 連句は6時頃終了、高田馬場のこぎれいな居酒屋で2次会となった。

 なお、今後の連句会はオンラインから座中心にと移行し、次回からは捌きも衆判(合議制のこと)とし、いずれは連衆の持ち回りで捌きをしていくことにした。連句は捌きをしてみないと本当の味わいは分らないし、習熟もしないからだ。

 そのため今後オンラインはつなぎ的役割となり、「オンライン歌仙」の名も「第4回歌仙」となる。次回例会は11月16日(日)と決定。
 10月は私が北京広播学院へ交換教授で出かけるので、どちらもお休みとし、11月からオンライン上で少し進行させ、また例会へと引き継ぐこととなる。

 連句会のレベルアップを図るためもあり、今後は中級者(例えば1年以上の経験者)または表現活動を仕事とする人を連衆とすることにもしたい。
 正直、オンラインで毎日投句を受付け、3−4日に一度は治定(じじょう)を書き込み、ということにやや疲れてきたからでもある。同じ基礎的式目解説などを何回も書くことにもくたびれた。

 このため地方在住者の連衆にはかなり気の毒なことにもなるが、たまに上京するとか、身近な場に自分で新しい座を作るとかして、方策を考えてほしい。
 各地に新しい座が出来ていくことこそ、実は私が一番望んでいたことです。たまには私が捌きに行ってもいいと思っています。

 むろん、上記の条件を満たす新参加者は大いに歓迎です。我と思わん方、どうぞ。



9月25日  10月7日WiPの日のこと

 去年の京都集会に続き、ペンクラブWiP(Writers in Prison)の日の催しが、今年はWiP(獄中作家)委員会と人権委員会の合同で開かれることになった。
 要項は以下の通りです。

       『自由のために書く』
     ー中国亡命作家 鄭義(ていぎ)と大江健三郎の対話ー

   10月7日(火)日本プレスセンターホールにて(内幸町プレスセンタービル10F)
      交通:地下鉄千代田線、日比谷線、丸の内線:霞ヶ関 三田線:内幸町 JR:新橋駅
    
    参加費:1000円(同時通訳レシーバー貸出料、パンフレット代込み)
    定員:320名(申込み制) 往復ハガキ、FAX、e−mailで
       日本ペンクラブ事務局(安西)へ
          住所 103−0026 東京都中央区日本橋兜町20−3
          FAX 03−5695−7686
          e−mail secretariat02@japanpen.or.jp

 ゲストの鄭義さんは、中国の代表的現代作家で、天安門事件のリーダーの一人として中国政府から追われ、アメリカへ亡命した。現在は家族とワシントンに住んでいる。
主な作品は、『古井戸』、『神樹』など。いずれも日本語翻訳あり。『古井戸』は映画化され東京映画祭でグランプリを受賞。

 大江さんはノーベル賞作家で、人権問題等に関心が深い。ペンクラブ会員でもあり、無料出演。

 その公開対談を同時通訳付きで聞いてもらい、質疑などもするものです。パンフには委員会メンバーの物書き連が皆、何か書いています。私も「北京とアメリカ」という小文を書きました。
 なお、会場では私は受付か会場整理係をしています。関心のある人、是非御参加下さい。



9月23日  明日から授業再開、章を改める

 7月末からの夏休みも終って、いよいよ明日からまた大学の授業が始まることになった。いわゆる後期日程である。
 当然、書斎にずっと籠っていられた時間とは、気持もがらりと切り替わることになる。

 で、ページも新しくし、タイトルも変える。来月10日から行く予定の北京では、「北京秋天」と言って、秋が一番いい季節とされる。
 今日は関東平野も台風一過の秋晴れとなり、秩父の山々も遠くまで見通せ、空青く、田黄色く、風さわやかなので、「埼玉秋天」と拝借する。

 学生諸君がどんな顔をして出てくるか、就職決定者が少しは増えていないか、どんな体験をしたか、夏の成果を聞くのが楽しみである。
 むろん、誰もがいいことばかりとは限らないことも、よく承知しているのだが。それも含めて、ともかく一人一人顔を見て聞くことから始める。

 みんな元気で出て来いよ。