風人日記 第八章

新年を頑張る

  2004年1月3日〜

沖永良部島にて 大紅合歓
2003年12月27日






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



3月30日  花風邪

 こんな言葉も季語もないが、ちょっと風邪気味である。
 実は卒業式の日あたりから少し喉がいがらっぽくひっかかっていたのだが、土曜日曜を花に浮かれて外に出すぎたせいか、昨日は37度の微熱が出てしまった。

 咳も出るし、ひとに移すのも悪いから、大事をとろうと学校での履修生面接と会議を休んだ。
 今日も夕方から、秋山駿さんの和辻哲郎賞受賞祝いがあるが、どうすべきか。咳と熱、それに午後からの天気の具合にもよろう。

 風邪は自分だけでなく、他人にも影響するから判断が難しい。
 こういうことはいくつになってもあまり進歩しないものである。



3月28日  花ほぼ満開

 昨日まではまだ少し肌寒かったが、それでも花は8分咲き、今日は朝から好天温暖に恵まれ、ほぼ満開の気配である。下の柳瀬川畔河川敷には、今現在(午前10時)すでに数十の青シートが席を予約確保している。すでに宴を開きかけている人さえいる。

 昨日は車の買い換えに伴う代車が来た。納車は4月1日になるので、土・日だけでも代車をということで、何と購入予定と同じランクスの新車(2000キロ使用)をもってきてくれた。

 近所の花見の方がいい気もしたが、せっかくだから乗るかと、三芳町上冨(かみとめ)の多福寺へドライブした。ここは武蔵野の面影が濃く残るひなびた中規模の寺で、私の好きなベストスポットの一つだ。

 森は少しだけ芽吹きの色を見せ、赤松の巨木が何本も自然倒壊していた。ところどころに桜が少し咲いている。界隈を歩き、畑地のはしに出ると、だいぶ向うに日芸所沢校舎があるように見えた。近くには若山牧水の祖父の出身地・若山茶園がある。つまり牧水の血筋はこのあたりというわけだが、その祖父は長崎に蘭方医学を学びにいき、その後日向の山里で開業したようだ。

 その村を私はパートナーと一緒に先年訪れたことがあるが、武者小路実篤らの新しき村にも近いかなりの山家であった。そんなところになぜ開業したかよく分らぬが、おかげで牧水は日向生れとなったわけだ。人間の動き・移動というものは面白いものである。

 今(10時20分)、隣の棟の住人、画家の東千賀さん(このHPの私のプロフィール欄挿絵の作者)が手作りの酵素ジュースを届けて下さった。季節の果物や野菜をもとに、海草から作った酵素を入れて発酵させたもので、すでに数年来ずっと頂き、私は毎日風呂上がりに必ず飲んでいる。私の皮膚の色艶のよさや風邪にかかる頻度が減ったのは、ひょっとしたらそのせいかもしれない。

 さて、のんびり花見散歩に出るか。



3月26日  卒業式

 昨日は今年度の日芸卒業式だった。文芸科は学部生150名、院生約10名が卒業である。
 例年通り着物に袴姿が目立つ華やかさの中、優等賞や卒論卒制の学部長賞(かつて吉本ばななもこの賞をもらった)などの授与が続いた。

 賞はもらわない子のことを考えると、功罪両面ある気がするが、しかし努力した子、頑張っていい実績をあげた子はやはり顕彰してやりたい。後輩のためにも励みになるだろう。
 私のゼミ関係では、4年ゼミから小説で学部長賞が一人、1年の時のゼミ生から毎日広告賞優秀作グループの一人が総長賞になった。ほかに連句のクラスにいた子からも学部長賞が出た。

 講堂でのパーティーでは、着飾った学生諸君に囲まれて樽酒を飲んだり、記念撮影をしたりが楽しい。研究室にもゼミ生が皆でやってきて花束をくれ、写真を撮った。中退生もやってきて、卒業生に混じって祝い酒を飲んでくれたのもよかった。ゼミ生の中には4年間私のゼミにいてくれた子も複数いる。

 これでまたお別れ、不況下の実社会に皆(院進学者は別として)出ていくわけだが、きちんとした就職者は少ない。どうなるか心配だし、しかし例年のことを考えると、結局なんとかやっていくだろうという楽観もある。

 5年後、10年後、意外な展開を見せてくれる子も出るのじゃないかと、それが一番楽しみだ。やはり作家や表現者が現れてくれるのが嬉しいが、市井のちょっとした職業の中で心豊かに過ごしていてくれたりするのもまたいい。町の不動産屋さんがむかし学生時代には小説を書いたりした人物だなどというのは、社会を豊かに、味のあるものにすることでもあると思う。

 去りゆく諸君、どうか時々はこのHPを覗いて、近況など知らせてほしい。
 では、みんな、元気で。



3月23日  寒かった

 この3日ほど随分寒かった。20日の土曜日は午前からずっと雪が降ったし、昨日も降りはしなかったが、気温5度以下で冷雨が続いた。
 おかげで、せっかくの春休みだというのに外出もままならず、喉と鼻の奥がちょっとひっかかり気味だ。

 昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というが、今年はそのお彼岸の中日に雪が降ったわけだ。ただし、彼岸は17日が入りで、23日の今日が明けだから、折から少し天候も持ち直し気味のこととて、やはり今日で寒さも明けたのかもしれない。

 3分咲きの桜や、ベランダのムスクリや鈴蘭など鉢植え類も、寒そうだった。早く花見日和にならぬかしらん。



3月21日  追記

 今、田村からローマ字のメールが入った。
 それによると、彼女は狙撃現場を見るため、昨夜台南に移動、南部の高雄や中部の台中、嘉義などでは連戦派が選挙管理所に押し寄せるなどして、一晩中大変な騒ぎだったが、台南は祝賀ムードで静かだという。

 開票見直しはあるかどうか。ポイントはそこだろう。



3月21日  台湾総統選

 昨日は隣国台湾の総統選挙日だった。
 前日陳水扁狙撃事件が起っていたので、どうなるか余計関心をかきたてられたが、3万票という極めて僅差で、陳氏が勝ったという。無効票が33万票もあったというから、微妙な結果だが、私はひとまず喜びたい。
 
 なぜなら、私はかねて台湾は独立した方がいいと考えているからだ。台湾は1895年に当時の清から勝手に捨てられ、1947年には蒋介石国民党軍によって武力で弾圧支配された歴史過程からいっても、本省人(台湾語を話す台湾人)7割、外省人(国民党軍とともに戦後渡って来た人たち。主として北京語を話す)1割5分、客家や少数民族1割5分という人口の現状からいっても、大陸中国に属さねばならない必然性はない。

 広い意味で中華民族だからといって、1民族1国家である必要もない。アングロサクソン人やアラブ人なぞ、世界にいくつも国を持っている。シンガポールという中華民族の国もすでにある。

 ついでに言えば、漢民族による少数民族支配体制である中華人民共和国は、かつてのソ連のように一旦解体し、チベットやウイグル、モンゴル、雲南地方の少数民族などは、住民の意思によって国家を決めた方がいい。

 大国主義は世界にとっても有害で、迷惑そのものだ。ましてや、非民主的な体制となればなおさらである。

 その意味で台湾の独立はその突破口になる気がし、私はずっと注目してきた。
 4年前の前回総統選の時は、私は台北にいて、陳水扁当選の報に陳水扁事務所前に駆けつけ、台湾人たちの祝賀の熱狂ぶりをつぶさに見たし、パートナーの田村志津枝は今回も情勢を見に台湾に行っている。

 彼女は今日あたり、台北から陳水扁の故郷である台南に移動しているはずだ。
 彼女の話はまだ聞いていないが、外省人の多い台北、圧倒的に独立派の多い台湾南部、それぞれの実情、および陳狙撃者はどういう背景か、を早く知りたいものである。



3月19日  教授会と花

 平成15年度最後の教授会が昨日開かれた。
 教授会は月に2回が通常の慣例だが、2月以降は入試のため毎週教授会となるので、結局この1ヶ月半以上は7週連続開催となり、大変だった。

 それが昨日の会議で最終となり、今年度は終りというわけである。
 あとは3月25日の卒業式だけで、4月1日の新学年度開始まで何もない。学科内の体制も改まることになったし、4月からは文字通り気分一新だ。

 今年は桜の開花も早い。下の土手の花はもうチラホラ咲いた。4月ともなれば爛漫の花か、ひょっとしたらもう散っているかもしれない。
 いずれにせよ、さあ、花見のシーズンだ。土手と河川敷にも花見用の看板や提灯が出だした。



3月16日  スペイン、ロシア選挙

 相次ぐ二つの大きな選挙結果が面白い。
 スペインは新首相予定者がイラク撤兵を明言、ブッシュ、ブレアは自己批判を、とも言った。快哉である。

 これで日本はいよいよ、米英につぐ3番目のイラク出兵大国となったわけだ。テロにねらわれる確率も一段と高まった。何かあれば小泉内閣は吹っ飛ぶだろう。小泉よ、早めに自己批判したらどうだろう。

 ロシアはまた凄い。プーチン票70%強とは、KGB派閥独裁の兆候かも。エリティン以後の新興7大財閥のうち5人までがユダヤ人であった事実も凄いが、それを次々と逮捕投獄し、強権政治を作っていってしまうやり方も凄い。

 ロシア人はどうも、ツアーの時代から独裁が好きなのかもしれない。かつては怪僧ラスプーチンもいた。今度のプーチンは小柄、髭なし、若さ、柔道マン、とだいぶイメージは違うが、あの冷たそうな目つきは、いかにも秘密警察出身の不気味な匂いもある。果して怪プーチンになるや否や。今後監視していく必要があろう。



3月14日  マンション理事会4時まで

 昨日土曜日、今月の理事会が開かれたのだが、これが午前10時に開始し、えんえん午後4時までかかった。もちろん昼食も抜きである。

 草臥れ果てるが、しかし、中身は駐車場増設問題やら、来年度予算案やら、問題が山積していてどれも大事だから、いい加減にするわけにはいかない。
 で、結局6時間ぶっ続けとなったわけだが、途中腹がグーグー鳴ったものの、やっと終ったときには腹も麻痺してかえって空腹を感じなかった。

 しかし、目はチラチラしていたから、帰宅して少し腹を充たしたが、それより不快だったのは、駐車場問題で、増設案の中に、たった車2台分のために大きな欅の木2本を伐採する案があり、それに対してろくに反対も議論もない感じだったことだ。

 つくづく情けなくて、腹立たしくて、それで食欲もなくなった気がする。むろん私は今後とも反対を続けるつもりだが、なんだか虚しい気さえする。こういう案がもし簡単に通るようなら、そういう人たちと共有所有地を持ちつつ暮し続けることが、不快になりそうでもある。悲しいことだ。



3月11日  東京鯱光会開かれる

 ゆうべ、東京の半蔵門で、東京鯱光会が開かれた。鯱光というのは名古屋城の金の鯱の光の意で、つまり我が母校・名古屋の旭丘高校の校章であり、前身の旧愛知一中およびそれと合併した旧市立第三高女の月例合同同窓会のことである。

 一番古い人は79歳の一中OB、最年少は現役のお茶の水女子大3年生という会だったが、最多組はこの日講師役の弁護士山崎順一君に合わせ、わが14期生で、約30人が集まった。

 山崎君は昔は学生運動の闘士で、三派都学連の副委員長までし、卒業後も運動を続けたが、30前後から転身、弁護士となり、いまはかなり大きな法律事務所の中心メンバーだ。

 会は毎回卒業生から講師一人を選び、夕食を共にしたのち専門分野の話を聞くという運営で、今回は彼が「知的財産権」の話をした。平たくいえば特許関係の訴訟話で、塩味枝豆の冷凍食品に関してすでに特許があったが、枝豆は真ん中から双葉ふうに二つに割れる、ゆえに全体に塩味をつけるのはさほど難しいことではないと論じたところ、多分それがきっかけでその特許が成立せずとなり、大きな金額の勝訴となった、といった内容だった。

 日頃の私のレパートリーにそういう話は全く無縁だから、ちょっと用語等の肌触りが悪かったものの、ヘーエという感じで面白かった。

 会は全員の自己紹介もあるが、発言内容の半分ほどが健康関係の話になった。旅先のハワイで脳梗塞を起し一ヶ月入院したら、治療費が2000万円かかった、カードなどの付属保険では限度額300万円だからとても足りない、皆さん、海外旅行には医療保険をぜひ、といった内容から、ナニナニで半年入院した、どこそこが悪い、といった話が目白押しだ。

 講師の山崎君自身、折から腰痛だとかで、立っていても座っても苦しそうだった。
 2次会は還暦記念飲み会となったが、やはり健康関係の話が一番多かった。腰痛は布団の上で膝を曲げ、頭からゆっくり丸めるように起き上がる腹筋運動をすると効果があると、42年ぶりに会った脇田昌二君が教えてくれた。早速やってみよう。

 会にはほかにも大島紳也君など42年ぶりの人がおり、まことに懐かしかった。同窓会がだんだん良いものに思えてくる。同期会として別立てでやろうという話になった。幹事の井本邦夫君、ご苦労さんですが、よろしく。



3月10日  第5回歌仙アップ

 第4回の総括後にと思っていましたが、太田さんのHPにすでに掲載されていることもあり、今日アップしました。
 連衆の方は、総括・感想、早めに送って下さい。



3月8日  2ヶ月ぶりの風人連句会

 昨日お午過ぎから、新江戸川公園松声閣で、連句会を開いた。1月以来だから2ヶ月ぶりだ。
 連衆は精神科医の越智未生草(50代男性)、建築家の森山深海魚(40代男性)、歌人の太田代志朗(62歳男性)、編集者の長谷川冬狸(50代女性)、中国語学生の湊野住(25歳女性)、演劇ライターの落合玲(26歳女性)、それに私夫馬南斎の7人である。

 もう一人、若い女性講談師の神田京子さんが参加予定だったが、急な事情で来れなかったのが、残念。次回は是非来て下さい。

 会は歌仙〈こぼれ萩〉の続き、名残の裏6句を順調に巻き終り(結果はこのHP「第4回歌仙」欄に載せてある。御覧下さい)、総括のあと、すぐ次の歌仙に入った。これでもう第5回である。
 初めてオンライン上で風人連句会を立ち上げたのが、2002年4月だったから、もうほぼ丸2年となる。

 当初はオンライン自体にも慣れなかったし、どうなるか、どんな連衆が集まるか、果して進歩していくか、全く五里霧中だったが、いま冷静に眺めてみて、なかなかいい発展をしてきたと言える。

 メンバーも多彩だし、なごやかにいろんな話が出来るようになったし、進歩も着実で、もう何人もが当番制でいわば代貸しにあたる執筆(しゅひつ)をこなせるようになってきた。発句の作者も長谷川冬狸さんについで今回は太田代志朗さんが担当し、なかなかの出来である。執筆の未生草さんにいたっては、投句をばさばさと落したりする。

 幹事などの役割分担も自ずと出来て来、2次会の手配までてきぱきと進むようになった。
 そして、その2次会がまた楽しい。ゆうべも高田馬場近くの地下のお座敷居酒屋で杯を重ね、11時まで飲んでしまった。出ると、外は相当寒かったが、気分はほろ酔い、良好、心は温かく帰館した。

 次回は5月である。待ち遠しい。



3月6日  やっと落着く

 社会保険事務所のこと、確定申告、車の買い換え・保険問題と続いてきた、煩雑で気骨の折れる雑務がどうにか片づき、ホッとした。
 
 これでいよいよ暖かいのんびり春休みかと思ったら、気候は急に寒い日々だが、しかしまあ気分は悪くない。腰痛で長らく中断していた腕立て伏せも再開し、とうぶん体力涵養につとめる。
 
 それとともに、新しい次作にも取組みたい気がしてきた。先月書き上げた作の帰趨がまだ何とも決まっていないのに、1年書き続けてみると、毎朝「さあ、書くぞ」と向う原稿がないのが物淋しいのだ。

 書くのは辛くもあるが、やっぱり充実したいい時間を提供してくれる。その時間を持てないのは、のんびりはするが、物足りないのである。



3月4日  ウイルスか?

 今朝、また新しいウイルスが出回っているという情報を聞いた。24または25KBの添付ファイル付きメールで、英語なぞで書いてあるもの、というのだが、それでアッと思った。

 昨日、私宛にそういうメールが5−6本も相次いできたのだ。しかもそのうち1本は送信者が私のメールアドレスになっていた。むろん私はそんなメールは出していない。
 で、怪しいと思い、すぐ削除した。

 今朝の情報だと、たぶんそれらがウイルスだったと思える。それで、ノートンを最新版に更新してからスキャンをかけたが、ウイルスは発見されずだった。私のパソコン自体にも何の異常もない。

 結論としては、私の知り合いのどなたかが感染し、その結果、その人のアドレス帳にある名前を使ってウイルスメールをばらまいている、ということだろうと思える。
 皆さん、お気をつけ下さい。そういうメールはただちに削除、そしてアンチウイルスを更新してスキャンをかけることです。



3月3日  車の買い換え

 この2,3日、車の買い換えに精力を使っている。
 6年前中古で買った車が平成3年型である上、今月、車検更改期なので、また整備費用をかけるくらいなら、いっそ新車にしようかというわけだ。

 齢還暦、使用頻度も少ないから、新車を買っておけばひょっとしたら死ぬまでもつかもしれない気もしてのことである。
 で、生れて初めての買い換えとなったのだが、これがなかなか大変だ。中古車のガレージとは近所に一軒付き合いがあったが、新車関係は全く知らない。

 で、大体の車種を決め、ネットでその概要を見、次にその販売会社の総合相談センターに電話して近くの営業所のアドレスを2,3教えてもらい、それからそれらのHPをまたネットで調べ、多少の予備知識を得てから、一番良さそうなところへ電話し、そこを訪れモデルカーを3種類ほど見せてもらい…、と進めていった。

 そしてオプションを検討し、3種類の見積りを作ってもらい、今日、どうにか的を絞ったところである。トヨタのカローラランクス1,5Xリミティッド。
 従来のコロナエクシブに比べての新味は、いわゆるハッチ型で後ろからかなり大きな荷物が入ること、一回り小型で小回りがききそうなこと、道に迷いがちな身のためカーナビ装備を付けた点、などである。

 値引き交渉も学校の同僚複数に教えてもらっていた範囲内で進行したのだが、さてどんなものか。
 家を買うほどではないがやはりかなりの買物、しかも己や他人の安全に関わるものだけに、だいぶ緊張し、くたびれる。

 同時に、さあ、どんな車になるか、と楽しみも平行する。車はもう一つのわが部屋でもあるからだ。夕方、散歩に出たら、いつしかニュータウン内の駐車場の車にランクスはないかと見て回っていた。日頃、車になど殆ど関心のない身としては、おや、オレとしたことが、という感じである。

 まあまあ、面白い体験だ。



3月1日  娘のマンション

 東京にいる娘から、マンションに申し込み、当選した、とメールが来た。何と、志木市内で、車なら6−7分のところである。完工は来年だからまだすぐというわけではないが、妙な気分だ。

 地図で調べ、14階の我が家からその方角を探すと、完成のあかつきには上の方が少し見えるのではという気がする。11階だそうだから、ぎりぎり互いに見えそうだ。
 フーム。

 小学校下級生の時からずっと別々に暮してきたのだが、大人になって結婚してから近くに住むわけだから、なんだかフシギな気分なのだ。スープの冷めない距離というほどではないが、隣の駅だし、窓から毎日互いの館が見えるとなれば、日常感覚も変りそうな気がする。

 私はもともと父親を早く亡くしていたし、18歳で上京して以来、肉親感覚というものはかなり希薄に過ごしてきただけに、いささか戸惑いがある。パートナー曰く「恵まれた晩年」になるのか、あるいは新たなしがらみが増えるのか、よく分らない感がするのだ。

 それにしても人生というのは妙なものである。いろんな巡り合わせがある。



2月28日  オウム麻原死刑判決

 昨日は文芸学科2次試験日で、朝9時から試験監督、ついで面接、作文採点、合否認定会議を終えたのが、夕5時半だった。
 そのあと、2年ゼミ生諸君との飲み会が江古田駅近くであったので、それに出た。

 帰宅後は疲れてすぐ寝てしまったので、麻原判決のニュースをちゃんと読んだのは今朝になってからである。
 予想通りだが、改めてもどかしい気分が沸き起る。

 いったいあの事件は何だったのか。麻原の心の暗部に何があったのか。人間にとって宗教とは何か。超越とは何か。「信じる」とはどういうことか。現世の法と異界の価値観とはどう関係を持ちうるか。村井秀夫を殺したのは誰か。国松警察庁長官狙撃犯は誰か。……

 等等々、様々の疑問が何の解決も与えられないまま、あの男のむさ苦しく、へらへらした顔と態度とともに、ただ虚しく長い裁判が終っただけなのだ。しかも即日控訴だから、裁判は更に今後も長々と続くことになる。オウム自体も名前は改称したものの、相変わらず存続し続ける。

 これもいったい何なのか。日本の警察能力、裁判制度、法体系と事なかれの運用態度、社会のありよう、それらに根本的問題が有りはしないか。
 みんな騒ぐだけは騒ぐが、具体的なことになると、それぞれのパートに閉じこもって、けちくさく、法令条文にばかりとらわれた、形式主義の、無責任体勢が蔓延しているのではないか。

 特に警察の無能ぶりは、捜査過程自体から今日まですべてが情けなくなるほどの体たらくである。自分たちのトップが殺されかけたのに、その犯人すら特定できない。サリンやVX製造情報はあったのに、二つのサリン事件を防げもしなかった。

 世はもっと警察を追及すべきだし、裁判の現状も悲しむべきだろう。
 そして、文学者は何より、人間の心の内部と、宗教や思想のありよう、いま、我々が生きているこの世とは何か、を考え、問い続けるべきだろう。

 歳とともに、そんなことは忘れ、身の周りの花鳥風月、あるいは若き学生諸君らの元気な顔だけを見て暮したい気もするが、まだまだそうもいくまい。



2月26日  雑事あれこれ

 今週初め、年金関係の書類請求のため、川越市の社会保険事務所なるところへ行かねばならなかった。まさにちょっとした書類にすぎないのに、当人出頭の上、立ったまま1時間も並ばされ、挙句、要件自体はほんの5分ほどでお終い。
 
 そして書類はくれるのかと思ったら、後日郵送で、たぶん1ヶ月後くらいでしょう、とのことである。ムーッとしかけたが、申し訳なさそうな、疲れたような中年係員に怒っても仕方がないので、諦めて帰った。

 昨日今日は、今年度の確定申告に取組んだ。私はこのごろ勤め人でもあるが、元来は文筆業者だし、いまでも少しは書いたりしているので、毎年確定申告はするのだ。
 パソコンで「会計王」というソフトを使って、1年分の領収書類を出納帳に記入していくのだが、これが大変なのである。

 ナニ、作業自体は別に難しくもなんともないのだが、なにしろ1年に1回だけの作業だから、手順や要領をすっかり忘れているため、毎回初めて同然の仕事になるからだ。
 数字とか金計算、勘定科目の仕訳、そして必要経費の計算、といったこと自体が、およそ頭の使い方の違うことばかりなのである。

 というわけで、初日は肩は凝り、いらいらし、1日で半分ほどしか進まなかったが、今日はだいぶ慣れていたため、スムーズに進行し、午前中で集計から、申告書の書き入れまで予想外に早く進んだ。

 すべて書き終わり、郵便局へ簡易書留で出しに行ったのが12時半過ぎだったから、あまり疲れずに済んだ。これで懸案解決、ホッとした。

 いい気分の帰途、いつものホームレスのおっちゃんを見つけ、溜っている不要本をまた上げる約束をし、自室と2往復して、紙バッグ4袋分の本(殆ど新刊の寄贈本)を寄贈した。70ン歳の彼はそれを志木駅近くのブックオフへ運び、いくばしかの金に換えるわけである。1冊100円として、40冊くらいで4000円ほどであろうか。

 彼は鼻をぐずぐずさせて、「すみません、すみません」と言っていたが、たまには暖かい酒に鰻でも食べたらどうだろうか。

 こちらは近くのサミットで靴下とパンツ、それに脱臭剤を買って、下着入れやら台所・洗面所などを整理していたら、置き薬の広貫堂なるところの担当者、昔でいう富山の薬売りの売人が背広ネクタイ姿に大きなスーツケースを持って現れ、新しい風邪薬と栄養ドリンク、それに過日の腰痛で消費した貼り薬の補給をしていった。今回まで使用分の代金はしめて2625円だった。フム。

 溜っていた雑務が片づくのは気持がいいものである。暖かいし、さあ散歩にでも行くか。明日は文芸科入試の2次試験で、これが終れば本年度の大事な雑務(ヘンな言い方だが、大学では授業・研究以外のことを雑務と呼ぶ)は全部終る。さぞ本格的にホッとするだろう。



2月24日  文芸科入試1次試験 ややホッとする

 わが勤め先、日芸文芸科の受験生の数が、1週間ほど前までは前年比20%近い減だったので心配していたが、本日実施の入試で最終的には16%減に収まり、ちょっとだけホッとした。
 しかし去年は24%減だったし、この7,8年で受験生は完全に半減である。

 18歳人口自体が毎年10%程度づつ減っているから、そのくらい減るのはやむを得ないのだが、それ以上減るのが問題で、理由はたぶん不況のせいもあろう。芸術系は授業料が高いうえ、生活的には不要不急の内容で、就職率もいいとは言えないからだ。

 毎年今ごろになると、この受験生減少問題と4年生の就職・進路問題が、本当に悩みの種となる。私は世の中はバブル時代より不況期の方がよほど落着いていていいような気もするのだが、若者の就職難だけは何とも可哀想だ。人生の出発点で選択肢が貧しく、先行き暗い気分にさせるのは、大きな罪だという気がする。

 が、大人だからといって、まして大学の先生だからといって、どうにも出来るわけではない。ただ、悲しむのみである。若者よ、どうか挫けないでほしい。



2月22日  4月の気候とか

 昨日一昨日と、いやあ、暖かかった。昨日なぞ、越生へ梅見がてら温泉に入りに行ったら、厚生年金施設の庭先に梅どころか桜が2分咲きになっていた。コートなぞも全く要らない。
 界隈の山里を散策すると、まるで春そのものだった。

 夕方、柳瀬川の土手を歩いて馴染みの寿司屋「惣八」へ行き、久々の握りを食べながら話していたら、今年は花粉が少ないとみな言っているとのこと。マスターも例年2月10日ごろから花粉症が出るのに今年はまだ出ないと言う。

 聞いてわがパートナーは大喜び。これで安心して外出できると、早速今朝から早朝ウオーキングを復活させた。
 花粉は冷夏の翌年は少ないそうだ。世の中、何が幸いするか分らない。



2月20日  ねごと

 私はこのごろ、というかだいぶ前から、寝言を言うらしい。
 らしいというより、何分の一かは渦中に当人自身おぼろに自覚しているから、まず確実である。渦中には何を言っているかも分っていたりするが、起きるとたいてい忘れている。

 パートナーに言わせると、「ばかもの」とか「いい加減にしろ」とか怒鳴ったり、ブツブツ何やら判然としないことを長々と言い続けたりで、耳元でやられると眠れやしない、そうだ。

 おぼろな記憶をたどると、その日あったことが原因の場合もあるし、全く関係なく少年時代や青年時代のことが対象だったりもするから、訳が分らない。

 つまり夢と連動しており、夢は見ながら、なぜこんなことを憶えているのか、今出てくるのか、と自分で驚いていたりするし、こんなこと思い出したくない、早く消えてくれないかと思いつつ、何日も同じことや続きが出てきたりもするから、なお分らない。

 起きると、ぐったり疲れていることもある。睡眠不足というか、睡眠が浅くなり、翌日眠気が続くこともある。困ったものだ。何とかならないものかしら。



2月18日  早朝から夜まで

 昨日は第3回入試日で早朝から出校、教室の一つで監督責任者なるものをしたあと、午後は教授会、ついで私が司会進行役の委員会と続き、19時までかかった。

 普通の勤め人にとってはそれくらい当り前かもしれないが、日頃、週の半分は自宅の書斎にいる身にとっては、ハードな一日だった。
 人間はどうも会う人の数が増えると、それに応じて疲れるような気がする。自分にとっては、一日何人ぐらいが限界値だろうか、とそんなことを考えた。



2月15日  軍艦マーチ

 昨日、テレビニュースで実に久しぶりに軍艦マーチを聞いた。海上自衛隊のイラク出兵を巡ってだが、私はこんなふうにきちんとした形で聞くのは、いったい何十年ぶりだろうと、しばらく不思議な気分になった。

 それで、考えていたら、少年時代を思い出した。小学校時代、運動会の時は必ずこれがかかった。ゆえに私やたぶん周辺の同級生らも、軍艦マーチは運動会の曲だと思っていた。

 中学に入ると、やはり運動会の時などにかかったが、だんだん子供心におかしいと感じ始めた。「♪守るも攻めるもくろがねの〜」などという曲は、明らかに戦争の歌だと思えたからだ。

 それで、中3の運動会の時、生徒会役員として本部席にいたとき、すぐそばで係の先生が軍艦マーチをかけ始めたのを見て、傍らの別の先生に「あれ、おかしくないですか」と言った。するとその先生は、「そうだ、おかしい。おまえ、言えよ、言えよ」と言うのだ。

 その先生は組合系の人だったのだが、自分では言いたくないらしい。
 私は迷ったが、運動会係の先生は単純でよく怒る理科の先生だった。中学生から見てもあまり思慮のある人とは見えない。で、うかつに言ってもろくなことにならない気がして、そのままにした。

 おかげで、軍艦マーチは、秋の青空のもと一日中高らかに鳴り響いていた。それは徒競走とかリレー、そして何より行進、入場の際などには、ある意味でぴったりで、歌詞なしの曲だけなら気分がいいような気もした。「♪ジャンジャジャジャ、ジャジャジャ、ジャジャジャジャン〜」、気がつくと、周りや私自身もいつのまにかそう口ずさんでいた。

 以降、軍艦マーチを聞いたのは、長らく右翼の街宣車からの騒音としてだけだった気がするが、昨日はそれが日常の夕食時のニュースからだった。これから皆どんどん慣れていくだろう。口ずさむ者も出てくるに違いない。
 
 日本は随分変ったのか、あるいは実は昔からちっとも変っていないのか、どちらかしら。



2月14日  春うらら

 昨日今日と暖かい。昨日は4時頃から、隣町というか隣村の三芳町竹間沢集落を歩いた。梅は紅白梅ともほぼ満開、辛夷のつぼみが早くもふくらんでいた。

 腰痛がまた少しぶり返し気味だが、連日7時間ほども机に向っているせいだろう。今日はもう半ドンでやめるし、明日以降もなるべく長時間座り続けないようにしよう。冬の間、著しく運動不足になっていたから、これからはそれを取り戻す時である。

 微熱、腰痛などが続いたため、何となく中断していた腕立て伏せも復活させたいのだが、腰痛の残るとき、してもいいのか否か、どなたか御存知の方ないかしら?



2月11日  第2稿どうにか出来る

 11月以来、暇を見つけては書き続けてきた長篇の第2稿が、どうにか出来た。第1稿は去年の2月から9月までかかったから、両方合わせると、丁度丸1年である。
 
 目下の長さはほぼ500枚。これから通読、直しとなるから最終的にはまだどうなるか分らぬが、とにかくホッとした。いい気分でもある。

 今日は世間は休日でもあるから、これで仕事をやめ、散歩でもしよう。世はすでに立春も1週間過ぎた、初春なのである。



2月8日その2  二つの故障直る

 2月5日付で体とパソコン両方に故障が生じたと書いたが、パソコンの方は、それを見て翌日すぐ作家の福本順次さんと教え子のパソコン業界人いけがみあきこ君がメールで直し方を教えてくれ、おかげで実に簡単に直った。大感謝である。

 合わせて、このHPをほぼ毎日見ていてくれる常連さんが思わぬところに散らばっていることを改めて知り、嬉しかった。

 腰痛の方も、6日朝あたりから8割方治癒し、旧友との再会にも何の支障もなかった。貼り薬などは今朝まで使っていたが、夕方の今、もういいような気がする。そういえば、だいぶ以前ぎっくり腰をやったときも、絶叫するほど痛かったのに、結局1週間したらほぼ日常生活は出来るようになったことを思いだした。痛さつらさも1週間、ということか。

 今日、川本町の荒川へ白鳥を見に行った。シベリア渡来の小白鳥が約120羽、鴨が多分5ー600羽。まったく寒さを感じさせないうららかな初春の日差しのなか、のんびり川面を泳いでいた。



2月8日  旧友と昼酒

 2月6日は名古屋から高校時代の同級生が出てきた。AH君、弁護士。待ち合わせ場所も霞ヶ関の東京簡栽だったが、ケータイで連絡をとって日比谷公園の松本楼前で午後2時頃会った。

 歩いてきた朝日君はもちろん歳は同じなのに髪は真っ黒、腹もまったく出ていず、シャープな体つきで、50歳くらいに見える。向うは開口一番、「恰幅よくなったなあ」。

 彼に言わせると10年ぶりぐらいだと言うが、私は7,8年だと思っていた。確かめようと考えたが判然としない。
 松本楼が満員だったので、帝国ホテルのカフェへ移動し、そこで真っ昼間からビール、次いでワインと飲んだ。エスカルゴやチーズ、フルーツと次々つまみもとる。

 浪人時代の暗い気分の時一番付き合った仲なので、親近感がひとしおある。高校時代の友人では一番親しいというか、今や殆ど唯一の友かもしれない。青年期以降もお互いかなり不遇というか回り道をした同士だ。

 私は大学中退、定職なしで食うや食わず、33歳で新人賞はもらったが、相変わらず食えず塾の講師などをしていた。彼の方は学大を出て教師をしていたが、ある時、代々の家が人のいい父親のめくら判一つのせいで人手に渡ったため、一念発起し、勤めを辞め司法試験に挑戦。視力が極端に弱いハンディを背負って数年以上頑張り、34歳で司法試験に合格した。

 42,3歳の、私が芥川賞候補に3回続けてなった頃は、彼は名古屋でしばしば私を励まし、御馳走してくれた。私の本を10冊も買って友人たちに配ったりもしてくれた。
 それでも私はずっと貧乏で、40代から50代前半まではひとり暮らしのままだった。

 その私とお代わりをするたびグラスを何回も合わせて、彼はこう言った。
 「優しい目になったなあ。18歳の時以来、初めてだな」
 「そうかな。じゃ、前はどんな目をしてた?」
 「いつもギラギラした目だったよ」

 そうだったかと思いながら、私は楽しい気分でまろやかな味のニュージーランドワインの杯を重ねた。これも還暦祝いかもしれない。



2月5日  腰痛とパソコン不調

 月曜から痛かった腰がだんだん悪化、昨日は学校で会議後、早々に帰宅し、鎮痛剤を飲んだ。更に夜、鎮痛剤を飲み9時過ぎ就寝。それでも痛く、寝返りが苦しかった。

 なんだか軽いぎっくり腰のような気もするし、とにかく辛かったが、今朝、ヨガの体位ののち、塗り薬と貼り薬を試みたところ、目に見えてよくなった。

 で、いつもの原稿の続きを書こうとパソコンのエディターソフトを開いたところ、フォントが勝手にゴチックに変っており、しかもあとを書こうとすると妙な数字が出てきたりして書けない。

 エディターソフトをインストール仕直したりしてもダメなので、エディター会社に電話したところ、多分ウインドウズのフォントのキャッシュが問題を起したのだろうとのこと。

 その直し方は私には分らない。悪戦苦闘しているうち、貴重な午前の書く時間が過ぎていき、諦めてもう一つの小型パソコンで書き出したが、キーのシステムやカスタマイズが違うため、調整したり慣れるのにまた手間取り、結局午前の大半が使えなかった。

 やっと書き出して、本日は4枚半。久々の私の時間だったのにうまく行かないものだ。体もパソコンもこのごろちょくちょく故障が起る。古びたのかしら。



2月3日  入試始まる

 また今年度の入試が始まった。日芸の場合は8学科あり、美術・音楽・デザインなど実技の2次試験を課す学科もあるため、毎週火曜日、4回に分け入試が続くことになる。
 今日はその第1回目で、美術学科・音楽学科・放送学科の日だ。

 私は午前9時10分に出校し、学部長、学務委員長の檄ののち、放送学科の試験監督に動員された。英語と国語の計2時間、休憩等をはさんで午後12時30分まで、退屈で、しかし緊張感だけはある時間がずっと続く。

 受験生たちはもちろんカチカチで、やたらあくびをしたりする。あくびは緊張が続くと身をほぐすため自然に出るらしい。申込み票と受験票を照合していくと、出身校や出身地が分り、ヘーエこんなに遠くから来ているのかとか、おやわが故郷からも来ているなどと分り、それなりに面白い。

 花粉症ですとティッシュペーパーを机の上に置くことの許可を求める子もいて、そうか、もう始まったかと春を感じもする。そういえば今日は節分で、季節が代り、明日は立春なのだ。入試は春の季語でもある。

 明日も出校し、4年の卒業制作・卒論の優秀賞などを決めなければならない。今日はその候補作を自宅に持ち帰った。卒業もまた春の季語。大方の大学生や非常勤講師・客員教授の先生などには長い春休みだが、専任教師には結構忙しい季節である。

 ああ、落着いて書く時間がほしい。



2月1日  大事二つ

 昨31日、大学で卒論・卒制の面接審査を終えた。ちょっと厳しく言いすぎたかなと思ったり、終ってもまだ完全に納得できない疑問作もあったりで、万事OKとは言い難いが、どうやら不合格にはせずに済みそうで、ともあれ学生諸君もこちらもお互いホッとしたことは確かだ。

 何といっても不合格、卒業できずとなると、学生にとってもその父母にとっても、場合によっては人生の一大事なのである。せっかくの就職や計画がパーということもあるからだ。

 終って、6時前から池袋の居酒屋で4年ゼミ諸君との飲み会となり、休学生、留年決定生、5年生までも参加し、思いがけず「還暦おめでとう」の掛け声とともに紅いセーターを贈ってくれたのには驚いた。赤すぎず、臙脂ぽくてなかなか趣味もいい。これで赤マフラー2本、赤セーター1着となった。

 で、今日は早速、朝からそれを着た。
 そして、午後からはマンションの駐車場抽選会で区割り係として3時間務めた。めったに接しないいわば御近所衆が次々現れては、悲喜こもごも微妙な顔をして駐車場獲得戦をしていくのが面白かった。

 我が家自身も何とか今までと似た場所を確保できたから、余裕を持って見ていられたが、事前に何の下見もせず、一旦自分で決めた場所をまた途中で変えてほしいと申し出る人、抽選が終り、区割り作業が進んでいるなか、理事会役員の隣に座り込んで、何とかならないかと言い募る選外者など様々で、世相と人間模様を見る思いもした。

 ちょっと前の他のマンションの例だが、「駐車場問題ではうっかりしたことを言うと、殺されるわよ」などという話もあり、この件、些細とも言えるが日常生活としては重大問題なのでもある。

 というわけで、この土日、休日どころか大事2題となった次第である。



1月30日  卒論卒制読み終える

 本日午前、11人分やっと読み終えた。例年より少ないので、助かったが、やはり大変は大変。全部読み終えてみると、最初の方に読んだものをもう一度見直したくなるから、今それをしているところなり。

 予想よりはるかにいいものもいくつかあったし、詰まらないものもいくつかあった。かなり問題有りと、対処を決めかねているものも一つある。が、ともあれ多くはそれなりに頑張ったなと思わせ、ホッとした。

 あとは明日の面接次第。そして副査の先生の点との平均点で決まるから、合否はまだ確定しない。
 生涯、ひょっとしたらこれ以上長い文章を書くことはもうないだろう諸君もいようし、これをきっかけに本気で書くことの面白さを認識し、更に書いていく人も出よう。

 先々更にいいものを書きそうな人が2−3名はいそうな手応えを感じた。それが収穫の満足感というものかもしれない。
 


1月28日  小津映画「麦秋」について

 昨日付けの文章を書いたら、早速今朝、連句仲間の精神科医・越智未生草さんからこんなメールが届いた。
 
  小津映画は30才の頃から、銀座の並木座でよく観たものです。
  私も大好きな作家です。最高傑作は「麦秋」だと思います。
  「晩春」は、原節子のエロチシズムが素敵です。
  あまり評判にはなっておりませんが、「お茶漬けの味」も好きです。
  「麦秋」では、原節子が兄嫁と海岸を裸足で歩くシーンがいいですね。
  核家族化を肯定的に描いたと言えるかどうかですが、あらがえない
  歴史の流れとして、その悲哀を描いたのではないかと私には感じられます。

 それで私もこんな返事を出した。

  > あまり評判にはなっておりませんが、「お茶漬けの味」も好きです。

  先だって見ましたが、やや単純すぎる感がしました。女たちの像は面白かったけど。

  > 核家族化を肯定的に描いたと言えるかどうかですが、あらがえない
  > 歴史の流れとして、その悲哀を描いたのではないかと私には感じられます。

 仰るとおりです。しかも結局は男性優位の懐古的考えがあると思うのですが、それで
 も「東京暮色」に比べると、少なくとも時代の相に対して敏感な気がしたのです。
 それに映像と作りがずっと緻密です。

 以上、本当は掲示板ででも皆さんと話が続いていけばいいと思いつつ、ここに書いておきます。



1月27日  再び小津映画について

 ゆうべ、またBSテレビで小津安二郎の映画を見てしまった。「東京暮色」である。

 これが詰まらなかった。いつものように家族を描き、笠智衆演ずる男やもめの父、原節子の長女、アプレゲールの次女(有馬稲子)、叔母、同僚と、配置・役者は同じふうなのだが、全体に妙に通俗で、暗く、味わいに欠けるのである。

 理由の一端は次女がいい加減な学生との恋愛で妊娠し、中絶し、あげく酔って踏切事故で死んでしまう、しかもその最大の理由は、むかし、母が他の男と駆落ちしてしまったため、という筋立てのせいだろう。

 「麦秋」で子持ちの中年男との結婚に踏み切る長女、大家族が離散してそれぞれの世代に応じた核家族化することを肯定的に描いた小津にしては、この次女、もう少し描きようがあったろうにというのが率直な感想だ。

 尤も、小津という人、今や世界的な大監督として扱われているが、名作と言えるのは「麦秋」や「東京物語」などほんの数作であって、60作ほどある作の他のものは、キャバレーものやら通俗もの、古くさい価値観の半ばお涙頂戴ものなども多いことを考えると、大作家といえども、傑作は所詮その程度の確率でしか出来ないということでもあるかもしれない。

 つい見てしまったが、見ている間じゅう「長いなあ」「通俗だなあ」と感じ続け、見終わって不満ばかりが強く残った小津映画であった。



1月25日  初湯初温泉

 などと書くと、どこぞさぞ風情ありげなところへと思われるかもしれぬが、なに、車で1時間の馴染みの湯、北秩父は寄居のかんぽの湯である。郵便簡保の経営で、一人800円、割引なら600円。

 なーんだとなるが、ここは以前も書いたように、眼下に濃緑の荒川の瀞を見下ろす丘の上にあり、湯舟につかりつつ見える対岸は、秩父の山村がのんびりと傾斜状に広がり、視界は180度、温泉は天然のやや白濁気味の弱硫黄泉で、露天風呂もあり、と近郷では一の湯である。

 ここに午前中からつかり、午は2階のレストランで1000円のバイキングが気楽でほどよく、終って車で20分、風布の里のみかん山を散策し、かねて知りおきし山道のせせらぎ脇で自然の山葵なぞを少し採集して、帰宅。むろん、湯がいて晩酌のつまみにするつもりである。

 途中の農協で買ったナントカ・ナントカマムという地中海ふうの珍しい花を、ベランダの鉢に植えて、今日はお終い。
 あとはだらりとカウチに横になって本でも読む。いい日曜日だ。退屈を感じても絶対脇に積んである卒論・卒制など読まないのである。



1月24日 久々のヒッチコック映画

 ゆうべ、BSテレビで「めまい」を見た。随分昔に見たような気もするし、しかし、見ていてちっとも思い出せなかったから、ポスターだけで見たのかもしれない。ただ、主人公の女性はキム・ノヴァクだとはすぐ思い出せたから、その辺がフシギだ。

 映画はここでもう終るかと思うと、次々先があり、2重3重構造になっていて、じつにうまいものだった。作りも丁寧で、この時代の映画が一番黄金時代だったのかなと、つくづく感じた。2週間ほど前、小津安二郎の「麦秋」を見たときも似た思いを持ったから、つまりは映画は1940年代後半から20年間くらいが、少なくとも日本やアメリカ、ヨーロッパなどでは黄金時代だったのではないか。

 そしてそれは、私の幼年期から青春期にほぼ重なるから、自分の中で映画がまるで人生の一部だったみたいに思えるのかもしれない。
 それにしても「麦秋」のなかの原節子が28歳の設定だったのが、とてもそうは思えず、35くらいだろうと感じたように、「めまい」のキム・ノヴァクも作中で26歳と言っているのに驚いた。やはり少なくとも30くらいに思えたからだ。

 服装とか髪型、言葉遣いのせいもあろうか。確かに全体にレトロ感はあるのだったが、しかし、昔から彼女らはわが目には相当の年長に見えていた。
 でも、そのキムがゆうべはいかにも若々しくも見えたから、つまり30などというのは随分若く思えるということで、やはり時間はたっている。

 それにしてもヒッチコック、大した監督だ。こういうきちんと作られたエンターテインメント性、そして映像の特質を生かし抜いているところが、映画の魅力である。
 小説ではこうはいかないところがある。



1月22日  会議はフシギ

 今日は学校の事務所にちょっとした書類を一つ出し(午前11時10分)、次いで12時10分から学科会議。本年12月予定の仮設校舎への引越し準備等を考え、ほんの30分ほどで終った。あとは3時半から学部教授会、の予定だった。

 ところが、この教授会、予定の3時半になっても一向始まらず、前の会議二つが長びいているとかで順送りに延び延びとなり、結局始まったのは50分後の4時20分だった。

 そして始まってみたら、報告以外大した事柄もなくただ淡々と進み、何の発言もなく30分ほどで終ってしまった。

 つまり、私は計1時間の会議のために、午前11時10分から午後5時まで学校にいたわけだ。会議は踊るどころか、虚しく待たせる、である。ああ。



1月21日  雨の金沢

 18、19日と金沢へ行って来た。ちょっと調べごとがあってのことだが、上越新幹線、北陸線と乗り継いでの列車の旅が新鮮だった。新潟側から金沢へ入るのは初めてなのである。
 トンネルを出ると雪、次いで雪薄らぎ、金沢は雪は全くなし。

 翌日は朝から冷たい雨となり、実に寒かった。傘をさして歩きながら、早々に帰ろうかと思ったほどだが、午近くからだんだん晴れ、犀星の育った雨宝院で御住職から懇切な説明を聞いた頃から、気分も晴れた。

 犀星記念館や寺町の隠し出城を見て快調となり、けっきょく予定の4時半の列車で帰途についた。夜の列車旅も久々だ。越後湯沢あたりの雪が真っ白だった。そこから大宮までわずか1時間であることもオドロキだった。
 
 これから時々、列車旅をしようと思った次第。



1月17日  崇高な任務

 昨日のニュースで、イラクに派兵される自衛隊員の壮行会において、石破防衛庁長官が隊員たちに、「崇高な任務である」と訓示していた。
 憲法に背いて戦地─しかも誤った戦争の地へ武装軍隊が行くことが、「崇高な任務」なのかどうか、極めて不可解な言い方だと、耳がぞよぞよした。

 かねてこの石破という男、目つき、顔つき、ものの言い方、考え方、何やら気持の悪い不快な輩と感じていたが、イラクにおけるこの間の各国軍隊のありようからいって、実態はほぼ分っていることを、「崇高」ともったいぶって言う感性は、大うそつきでなければ醜悪で不気味である。

 しかもそのあと、夜の別のニュース番組で、今回のサマワ地区での仕事は、市民と接触しないよう市外の浄水池近くに閉じこもって、水を浄化する仕事をするだけ、しかも水はさほど不足しておらず、不足するのは電力不足で汲み上げられないためである、ともレポートしていた。

 事実とすれば、嘘の上に滑稽がつく。そんな仕事を暑い砂漠のど真ん中で、アメリカへの小泉首相の面子のためにのみし続けるのが、なぜ「崇高」なのか。
 それでも死に遭遇する危険があるからだ、というなら、そんなことで死ぬのはそれこそ悔やみきれない「犬死に」というのではないのか。

 見送る家族がハンカチで涙を拭いていたが、あれはその犬死にへの不安と悲しみゆえではと思えた。
 


1月16日  成人式その後

 今日、学校で1年のクラスに成人式のことを聞いたら、出席女子3名、男子2名だった。騒ぎは一つもなかったみたいで、中学や高校の旧友に会えて面白かったという感想の方が強かった。面白いと思えるのはまあ幸せな状態にいることの証拠だろうから、こちらも安堵した。

 その成人式帰郷のおみやげのケーキを持ってきてくれた子がいて、皆で一つづつ頂きながら、四方山話をした。これで4月まで会わなくなるし、4月以降はクラスは変る。転科する子もいる。また顔が合う子も何人かはいるだろう。

 毎年のことだが、こうして変化していくから、人生は面白いのかもしれない。日本の場合はそれが四季の変化とともにめぐるところがいいとも言える。春4月花の候とともに新学期、というのは得難いものだ。

 歳時記的1年、歳時記的人生、そして歳時記的感慨。還暦なるものも思えばその60周期ということかもしれない。



1月15日  声が涸れる

 昨日、5限の連句の時間の終りごろ、これで1年間の授業も終ると話している最中に、突然声が涸れ、嗄れたり引きつったり、なんだか泣き声みたいにもとれる声しか出なくなった。慌てて咳払いしたりあれこれしたが、直らない。

 いくら最後の授業とはいえ、毎年のことだし、感極まるほどではなく、誤解されはせぬかといささか焦った。
 原因は、かねて私は喉が弱い上に、この日は午前中から会議の司会役を務めたり、午後は年間最後の授業がつづいたため、話をずっとしたせいだろう。

 大学の授業は90分だから、大半を喋り続けると、かなり喉を使うことになる。
 だが、これも明日の所沢の授業で当分なくなる。仕事は卒論・卒制の読み、ついで入試、と大事なことがずっと続くが、教室での授業は4月の新年度開始までないからである。

 やはりホッとする。授業は、小人数であれ、若者だけであれ、何といっても人前で、教えるとして、話すわけだから、一定の緊張はどうしてもあるからだ。
 喉の涸れは喉の使用というだけではなく、その緊張のゆえもあろう。



1月13日  新年連句会

 昨日は今年の初連句会を行った。
 場所は、風人連句会の若きメンバー落合玲君の住む、東京新宿区中井の落合邸である。

 近くに作家の林芙美子邸が公開されているので、それをまず見学した。林芙美子というと何となく貧乏で薄幸な「放浪記」の人というイメージがあったが、訪れた家は総木造平屋造りの一部茶室ふう、一部京都のお寺さんふうのずいぶん凝った、洒落たもので、豪華ではないが贅沢な造りだった。

 敷地もいま残っているだけで500坪ほどあり(かつては1000坪以上)、ハケふう傾斜地とはいえ、かなりの家屋敷である。同行の建築家森山深海魚さんによると、地価はたぶん現在坪250万円ほど、建築費は坪90万ぐらいではないかというから、大したものである。

 おまけに彼女、23歳の時からちゃんと結婚していて、相手は画家、自分も元は画家志望で、その夫と生涯一緒だったというから、だいぶ印象が改まった。家の造りも200冊の参考書を読んだり、設計も戦前ドイツのバウハウスを見に行った有名設計家に依頼、自らも京都に何度も足を運び、あれこれ細かく注文を出したというから、本質的に芸術家肌だったのだろう。

 連句の方は古い和室の掘り炬燵に足を突っ込んで、ぬくぬくと庭を見つつ、まことに快適であった。約3時間半で名残の折表を巻き、庭の柚子なぞをみやげにもらって、目白駅前のイタリア料理屋へ移動し、二次会となった。

 出来上がりは連句欄にアップするので、どうぞ御覧下さい。会はだんだん定着し、今では交代の執筆役のもと、捌きも衆判(合議制)となり、連衆の腕もずいぶん上がった。今後、隔月ぐらいに例会を持っていくことになりそう。楽しみである。



1月11日  マンションの理事会

 昨日はマンションの理事会だった。理事はほぼ10年に一度まわってくるもので、今年度がいわば私の当番というわけだが、毎回、朝10時から昼食抜きで午後2時過ぎまでかかり、しかも重要問題続出で極めてくたびれる。

 私はつい書き物のある折、他用のある際などは欠席がちになるが、議事録作成当番の時などは万難を排して出ざるを得ない。昨日はその日で、4時間、メモをとり続けだった。
 そして、帰宅後、議事録作成にかかったのだが、これが書式がうるさくきまっているし、わがパソコンではその書式が作りにくいため、やけに時間がかかる。

 くたびれて今日に持ち越し、日曜だというのに、午前から始めて結局午後にまでわたり、通算A4四枚弱を仕上げるのに4時間以上かかった。正直うんざりするが、しかし内容は何千万円とかかる修繕のことや、駐車場抽選にまつわる身体障害者をどんな扱いにするかのシビアな議論、ゴミ置き場への不法投棄防止策、迷惑駐車への防止具体策など、どれも看過できない問題ばかりなので、いい加減に扱うわけにはいかない。

 日常生活を円滑に生きていくだけで、決して楽ではないと改めて思った土曜日曜であった。



1月9日  新年初授業 成人式

 今日は所沢校舎での初授業だった。2年と1年のゼミ。
 2年はどういうわけか出席者16分の5,1年は女性は全員出席、男は1人だけ。理由不明。
 ヒント:1年の女性の1人が大きな荷物を持ち、今日、授業後帰郷する、12日の成人式に出るため、と言う。

 1年の浪人組、2年の現役組は、今年成人式なのだ。ひょっとしたらそのせいかと半分納得。
1年はそれからしばらく成人式談義になった。女性組はおおむね着物を着るという。ただし、貸衣装1人、姉のもの1人、母のもの1人。友人の中には当日午前3時から美容院に予約している者あり、など話が弾む。

 成人式に暴れることへの批判も出る。暴れるくらいなら出なきゃいいのに、という意見が多い。
 でも、ひょっとしたらそれは希望大学進学組の意見かも。高卒組や不本意組の中には、大勢の場でこそ儀式を破壊したい感覚もあるかもしれない。

 むかし形式的な儀式や旧態依然とした行事に反発も感じたことを想い出しながら、そんなことをチラと思った。
 いずれにしろ、今年の成人式はどうなるか。自分の学生たちの顔を想い浮べつつ、関心を持つことになる。



1月7日  やっと軌道に

 小説がやっとスムーズに動き出した。暮れもかなり書けていたのだが、南の島に出かけて別世界に浸ってから、なかなか元に戻らなかったのだ。ならば、旅になぞ行かなきゃいいとなるが、そうも思ったり、しかし年末年始まで北向きの書斎に籠りきりでは却って頭も体も停滞すると感じたり。

 ま、要するに楽しみもしたいし、仕事の充実もほしいという贅沢心であろう。
 そうしてこの間に松の内も過ぎ、いよいよ明日から学校である。まずは教職員の新年顔合せ会。学食で立食パーティーというわけだが、これも学校の気分に戻っていくための手順であろう。

 そうして明後日からは授業。4年生は卒論卒制の提出日でもあるので、11日ぐらいにはドカッと提出作品が宅配便で自宅に届くだろう。すると、その後は一人平均100枚くらいの卒論卒制を、たぶん10数人分読み続けることになる。

 いやあ、降参、と言いたくなるが、むろん主査としてはそうはいかないし、読めばそれなりに面白くもあるから、とにかく時間が要るということだけだろう。
 いずれにしろ、自分の作品の完成は遅れる。教師は結局、冬休みとか春休みなどまとまった休みの時しか、まとまった仕事は出来ないのかもしれない。

 寒くて体調が上下する。今日は漢方の風邪薬を1回飲んだ。何とか収まりそうでもあるが、油断は出来ない。明日は暖かくなってくれないものか。



1月4日  日常性の回復 年賀状の苦楽

 昨日から小説を書こうとしたが、頭がまだ別世界から戻らない感じで、殆ど書けなかった。年賀状の返事書きも多数あったせいでもあるが、今日になってやっと頭が元に戻った。
 
 とはいっても書けたのはやっと3枚強。集中しかけたところへ、また新たな年賀状が来たりするから、また時間と頭の中身をとられてしまうのだ。年賀状は年に1回の消息も多く、楽しくもあるからだ。
 困ったものだが、やむを得ない。正月とか旅行とはそういうものだとも言えるからである。

 さて、もう年賀状は終りにしたい。明日以降届く分に関しては、よほどの例外を除いてどなたにも返事は出さないつもりである。該当する人、どうかお許し願いたい。来年以降は早めにメールで下さい。メールだと返事も楽で、早く済む。



1月3日  新年おめでとう

 新しい年になった。誕生日はちっともおめでたいと思わなくなったが、新年を迎えるのは、気持が改まる感じがしてやはりおめでたい気がする。凛とした冷気の中に暖かい陽がそそぐ感じもいい。

 そこで、このHPの新しい章もやはり「おめでとう」から始めたい。
 今年は、暮から沖永良部から与論島、沖縄・那覇と歩いていた旅の途次、元旦を那覇で迎えた。

 沖縄の正月なぞむろん初めてだったが、首里城での正月の儀式や新春の舞がとても異国情緒があって面白かった。儀式は様式も用語も殆ど中国ふうで、田村によれば発音もほぼ福建語に近いという。やはり、沖縄は距離的にも、文化的にも半ば福建あるいは台湾領域なのである。

 気候は沖永良部は曇り、小雨が続き、寒かったが、与論島以降は好天に恵まれ、与論なぞは噂どおり白砂緑葉、紅い花みだれる別天地だった。黒糖酒もほんわり甘くうまい。
 そこへ新鮮なブダイの刺身なぞつつきながら、眼下200度くらいに広がる真っ青な海と水平線を見おろしていると、まさに時間が止まる心地だった。

 ああ、極楽。
 2日間、自転車を借りてとにかく走り回った。半日で島半分が回れる。どこをどう走っても歩いても、交通事故の心配なぞまずなく、静寂に充ち、空は青く、空気は暖かく、そよ風がなんとも心地よい。
 
 2日に帰宅してみると、内地も案外暖かい。この分だと、今年はいい年になりそうだ。
 さあ、書こう。
 そうそう、皆さん、今年もどうかよろしく。