風人日記 第九章

こころ清新

  2004年4月1日〜

秋山祐徳太子作 ブリキの男爵シリーズ〈バロン・フマ〉
2002年 夫馬所蔵






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



6月29日  相次いで外国各地から書き込みが

 このところ、このHPの「一般掲示板」が賑やかになっている。
 インドへ行っている女子学生を始め、教え子の二人(もう30をいくつか越えている)が、ひとりは居住地のシドニーや旅先のハノイから、もうひとりはバンコックから書き込んできてくれたからだ。

 女子学生は1ヶ月前突然、リュック姿で出かけていった蛮勇ぶりにも関わらず、ブッダ正覚の地ブダガヤでの瞑想コースを経てすっかり何ごとかに開眼したようだし、シドニーの現地銀行員(日芸卒としては珍しい)は65歳の父親を連れての親孝行旅行のようだ。
 バンコック者は、以前の日本語塾(かつて数年バンコックで開いていた)についで、ゲームセンター開設やら、現地のおもちゃなど民芸品の商売やらと、あれこれ模索している様子である。

 いずれも、熱暑のかの地で飛びまわっている様がよく分り、あらまし知っている場所だけにその姿が映像になって浮んでくる。
 私はもう暑すぎて、夏にあの界隈で動いたりは出来そうにないが、若者たちよ、頑張れ、と言いたい。

 それにしてもわが教え子、そしてわがHP、ようやっと念願の国際性を帯びてきた。慶賀すべきことである。



6月27日  地鎮祭と汗、そして螢遠のく

 昨日は大学で、これから6年間にわたる新校舎建築工事の地鎮祭が行われた。
 ところがこれが猛暑のなか、中庭の四辺も囲まれたテント内で、礼装とまでは言わぬが上着ネクタイ姿にぎっしり満杯の出席者という条件下だから、暑いこと暑いこと。

 暑さに弱く汗っかきの私は、開始後しばらくから胸のあたりを汗がツーッ、ツーッと滴っていくのが分る。ほとんど苦行状態で、1時間後終了して大講堂へ移っての直会の時、ふと上着をはだけてみたら、下のYシャツがほぼ全面汗でぐっしょり濡れていた。
 たぶん、テント内温度は35度くらいになっていたのではないか。

 ぐったりして帰宅、本当は螢を見に行きたかったのだが、その元気も出ず、明日にするかとだらけた。
 けれど、今朝になってみたら、やけに涼しい。昨日より10度低いとかで、夕方からは雨の予報、これでは螢はおそらく出ないだろう。螢はむっと蒸し暑い夕が一番なのだ。

 ああ、残念。今年もだんだん螢の季節が過ぎていく。そして、積み残しの仕事ばかりがたまっていく。今日もこれから原稿書きだ。



6月25日  6月3日著作権法改定によるCD問題

 今日、所沢校舎での1年ゼミの時間に、課題として提出された自由エッセイの中に、「私にとってのCD」という1000字の小文があった。

 内容は、先般衆議院で可決された同法は、海外でライセンス生産された日本の音楽CDが、逆輸入され格安販売(1枚1000円ほど)されることを防ぐため、5年間の輸入規制期間を設けるというものだが、その余波で従来販売されていたふつうの輸入盤CDまでが規制される、冗談ではない。

 おまけに、これとは別に、コピーコントロールCDの導入問題があり、これはCDからMDへのコピーを防ぐため、CDにコピーガードを施したため、このCDをCDプレイヤーで聞き続けるとプレイヤー自体が故障してしまう、一体どうしてくれるのだ、コノヤロー、というのである。

 そういうことに疎い私にはよく分らぬ面もあったが、学生たちの間では賛成論相次ぎ、全くひどい、許し難い、と熱弁が噴出した。
 ざっくばらんに言うと、映画のDVDですら1500円程度プラスおまけありの時代に、日本のCDはなぜ1枚3000円もするのか、それを買わせるために無理矢理妙なことをしているのではないか、ということらしい。

 聞いていると確かにその通りで、18,9歳の若い学生たちに理がある気がした。
 これを書いた学生は相当の音楽好きのようだが、コピーコントロールCDのせいでプレイヤーが壊れたため、このところずっと音楽を聴いていないとも言うのだった。

 たまにしかCDを買わない私でも、確かに3000円は高いなと思うから、この問題は業界、国会、関係省庁で早急に改善すべきではなかろうか。
 と、若者たちの勢いに押されて書きました。



6月23日  川村湊氏受賞記念会

 昨日は文芸評論家川村氏が『補陀落ー観音信仰の旅』(作品社03年11月刊)で、先月、伊藤整賞を受賞した記念パーティーが開かれた。

 アルカディヤ市ヶ谷で評論家や作家、編集者、文芸担当新聞記者らが約100人ほど集まった。文壇関係の会は私も久しぶりだったが、会う顔触れもなつかしい人が多かった。入口階段でいきなり小説家の加藤幸子さん、元新潮編集長の坂本忠雄さんにあったのを手始めに、廊下で会った川村夫人亜子さん、更に中で出会った宮内勝典さん、三田誠広さんらは何年ぶりかの気がする。

 むろん、他にも前回はいつだったか思い出せぬような人が何人もあり、かつ一様に歳をとった感があった。津島佑子さんなどもかつては中年ながらなかなか色香ある女性と見えていたのに今回は洒落たインドのサリー姿にも関わらず、失礼ながら、ああ、彼女も相応に歳とったな、という実感があった。

 もとより、1年以内くらいに顔を合わせた人はその何倍かはおり、しかし何やら妙になつかしい印象があったのはなぜだろうか。そういう思いは私だけではなかったらしく、「同窓会みたいね」という発言が一度ならず聞こえもしたから、なにがしかそういう匂いがあったのだろう。

 訳はたぶん、主賓の川村夫妻自体が今年53歳で、かねて若手若手と言われてきた彼がもはやそういう歳か、先達・年長組はだんだん薄くなっており、といって会場に若い人はあまりいず(一番際だって若かったのが島田雅彦だが、それでも40代だろう)、白髪出っ腹目立ち、従って何か落着いた気分が全体をおおっている、という実感のせいだろう。

 しかしまあ、私は何人かから「元気そうだな」「若いね」「色艶がいい」とか言われ、自分でもそう思えたのが、気分が良かった。内心秘かに、まだまだ現役だ、現に書いてるぞ、そのうちお目にかけよう、と自負していられたせいかもしれない。これも書く効用であろう。



6月22日  台風一過美しき青空

 空にわずかに白雲浮び、川には真鯉、緋鯉がさわさわと泳いでいる。
 ベランダの鉢植え類はまずまず無事だった。

 ただし、百合はもう全部終ってしまった。代ってトマトが色づき初め、2日前、最初の1個を収穫し、パートナーと半分づつ食べた。プチなので、まさに一口にも及ばなかったが、香り強く美味であった。

 このところ、やけに眠い。夜は蒸し暑く、汗をかく。ゆうべはクーラーを「おやすみモード」で初めて一晩中入れっぱなしにした。
 私は暑さにも弱く、クーラーにも弱い。これからかなり辛い季節である。



6月20日  父の日の感慨

 昨日は池袋で娘と落ち合って、デパートの伝統工芸展を見たのち、懐石料理を水入らずで食べた。5300円とかのコース。超1級というわけではないが、なかなかうまく、手頃な料理だった。むろんすべて娘の奢りである。

 娘はほかに、汗っかきの私のために紺麻のシャツもプレゼントしてくれた。
 「フーム、こういうことをしてくれるようになったか」といささか感慨を込めていうと、26歳の娘は笑っていた。就職、結婚、と早めに済ませ、先だってはマンションの予約購入申込みまでしてしまった。

 私と違って万事堅実である。
 そういえば大学も経済学部を選んだ。文学系なぞ、私を見ていて絶対やめようと思ったそうだ。そして卒論も「バリアフリーの経済効果」だった。思想もえらく穏健、人並だ。

 親の私がひどく過激で、波風の多い生き方に映るらしい。3年前、ニューヨークの911事件の時、大学事務所から娘宛に私の消息問い合せの電話がいったため、「またか、わざと事件のあるところへ行っている」、と思ったそうだ。

 私は青年時代、ギリシアでキプロス戦争、インドのカルカッタで言語問題大暴動に遭遇したほか、ベトナム戦争下の旧サイゴンでいわゆるテト攻勢に巻き込まれ危うく命拾いしたことがあったからだ。28歳の誕生日前後は、インドのゴアで、肝炎のため死線をさまよったこともある。20代なぞまさに疾風怒濤のなかであった。母子家庭だった母親なぞ、ただオロオロしていた。

 なのに、娘は26歳にして堅実な勤め人にして自前の家までまもなく持ちそう、そして父親に結構な懐石料理と酒を振舞っている。
 ウームとうならざるを得まい。



6月18日  いろいろ首相、いろいろやってくれましたね

 小泉君、改革を旗印に登場した君は、この2年余で実に色々やってくれましたね。
 殊に最近はバタバタと何かどさくさにまぎれるごとくやってくれている。その最たるものが年金法案の強行採決と、昨日今日の自衛隊多国籍軍参加決定だ。

 前者は国民50年の生活を危うくし、後者は平和憲法50年をなし崩しにごまかし壊した。無責任に、他人事のような表情で、傲慢に、薄笑いさえ浮べつつ、国民を騙し、いろいろ浅はかな私利私欲と底の浅い右派思想を、いつのまにか実行してくれた。

 イラク戦争に加担していったときは、まさにブッシュの忠犬ハチコーという感じだったが、今や小泉騙(だま)ハチコーである。首相でありつつ国民を騙し、北朝鮮やアメリカでは金正日とブッシュに騙されている。

 拉致問題の核心はジェンキンス問題なぞではなく、ひょっとしたら数百人に上るかもしれぬ被拉致者全体の問題であり、ひいては朝鮮植民地化中の日本政府・軍の朝鮮人に対する非道な扱いや強制連行に対する国家的謝罪や賠償の問題であり、イラク戦争への加担継続・更なる踏み込みは、大量破壊兵器もアルカイダへの具体的支援もなかったことがアメリカ国内においてすら明らかになった今、何の根拠もなくなったばかりか、日本国民と憲法への二重の騙しになる問題なのである。

 情けなく、腹立たしく、悔しく、そしてこういう宰相を持ってしまった自分たちと、全体としてたいして支持率が下がらない日本人の実体に、哀しみと、うすら寒さを感じざるをえない。
 同級生を残虐に切り刻んだあとも一見正常・平静にしていたという小学生に対すると同様、奇妙な日常的静けさと不気味さを感じるこのごろである。

 日本社会はどこか病んでいはしまいか。



6月16日  教え子がインドで殺されそうに

 という書き込みが、今朝の「一般掲示板」にありました。
 ベナレス駅で、突然目つきの「ヤバイ」男に襲われ、ナイフで刺されそうになり、一緒にいた男の子と必死で逃げたそうです。

 いったいどういう男なのか、狂人だったのか、あるいは今の国際情勢と何らかの関係があったのか、詳細は不明ですが、怖ろしいことです。私のなかではインドは、庶民はけちくさくうるさいけれど、基本的にはガンジーを生んだ国らしく非暴力的な平和な国というイメージだったのですが、昨今はインドもだいぶ変ったのかもしれません。哀しいことです。

 ともあれ、このHP「掲示板」を御覧下さい。



6月15日  魯迅の店

 昨日は神保町にある魯迅ゆかりの、というか紹興で魯迅がよく行った店と同じ名の「咸享酒店」なる中華レストランへ行った。
 ここは名代の紹興酒を中国から直輸入しており、店のベランダには酒甕がずらりと並べてある。

 紹興酒は10年もの、15年もの、20年もの(?)など古酒が何種類もあり、誘っていただいた編集者のOさんによれば、中国では娘が生れると、酒を甕に仕込み、やがて結婚するときの酒宴用にするのだそうだ。

 日本の、箪笥のため桐を植える話みたいだが、おかげで熟成した酒は、芳醇にしてマイルド、甘さも程良く、とろけるようで、しかも何の抵抗感もなく、実にうまい。うまさは旨味という言葉の原義そのものではと思える味わいだ。

 「順に古いものへと飲んでいきましょう」と、進んでいくのが何とも快楽だった。
 いやあ、うまかった。また飲みたい。



6月13日  梅雨のやさしさ豊かさ

 ふつう梅雨時はじめじめして嫌だとする人が多いけど、確かにそういう側面もあるものの、私は今ごろが結構好きである。

 理由はあまり暑くないこと、空気や視界がしっとりみずみずしくて優しく感じること、そしてあちこちに花がいっぱい咲くこと、だ。
 外を歩けば紫陽花、くちなし、菖蒲、合歓、石榴、そして水場では睡蓮なぞもある。そのほか木々の小さな花、土手の草々の花など、それこそ数え切れない。

 外へ出ずとも、わがマンションの狭いベランダにも、花は一挙に増える。いま咲いてるのは、白のカサブランカ百合が10花、黄色が3花、薄紅の立葵が3花、ピンクのカーネーションが3花、赤の松葉ぼたんが2花、2,3度憶えたはずなのにいまも名前が出てこない白い洋花ふう菊みたいな花が3花、プチトマトの黄色い小さな花がいくつか、ある。

 それに、花ではないが緑のプチトマトが鈴なりであり、観葉用のパラジウムが緑と白の洒落た模様を大小いくつも見せてくれており、春に咲いたたぶん屋内用の小花くちなしが、ベランダに出しておいたらまた蕾をつけ始めた。ほかに奄美大島で小枝をもらった幸福の木がずいぶん伸びたし、15年前からのアロエも根っこなぞ古木のごとき風情を見せて、青々と葉を伸ばしている。

 まだまだある。台湾で拾ってきた種が発芽したものや、名を全く知らない新芽、更には去年のものから自生してきたおしろい花、鳳仙花、柑橘類の何か、そして私が今月初め蒔いた朝顔、あっ、北側のベランダも入れれば、茴香にミント、横に這う月見草のような花(道端で拾ってきたら毎年えらく増える)、もある。

 いやあ、こうして書いていてもその豊富さに改めて驚かされるくらいで、コンクリートのベランダが、すっかり緑豊かな我が家の庭という感じがしてくるのである。
 結構なものだ。そして私はヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(草思社。この名前もいい)という本を取りだし、その表紙の麦藁帽に野良着姿のヘッセの写真を見ては、羨ましく思うのである。

 ああ、私もそういう暮しをしたい、と。



6月10日  インドへ旅立った教え子女子学生

 一般掲示板を覗いてもらえば分るが、私の学生が一人今インドへ行っている。
 彼女は先週の水曜日の午後、「先生!」と言って私の研究室のドアを突然開けて入ってきた。

 見ると、背にリュックを背負い、Tシャツにジーパンのバックパッカー姿だった。驚いていると、「これからインドに行って来ます。明日の午前3時にはニューデリーです。どうすればいいでしょうか」と言うのだった。

 聞くと一人旅で、宿も何も決めずの旅、そして、7月2日には戻ります、というのである。
 えらく急だなあ、1ヶ月なら夏休みに出ればいいじゃないか、などと思ったが、とにかく午前3時じゃ空港バスもないだろうから、ロビーで時間を待ちなさい、たぶんそこに旅仲間がかなりいるはずだから、大勢で行動しなさい、とだけアドバイスしたら、「はい。もう成田へ行く時間ですから」と元気にすぐ出ていってしまった。

 唖然としたが、同時にさすがに心配になり、後を追ってテラスの階段上から呼び止め、私のこのHPアドレスを渡して、インターネットカフェから書き込みなり、メールなりしなさい、と言った。と、数日後、日本語で書き込みがあり、早速インド人にぼられた上、入院したというのであった。

 ムムムと心配していたところ、今日また2回目の書き込みがあった。それによれば、入院は暴飲暴食の結果らしく、でも、もう元気そうで、今はバラナシ(ベナレス)にいて、次はブダガヤにするかカトマンドゥかと迷っているらしい。どちらもかつて私が滞在し、印象深い地だから、私はいわば両方勧めたいところだ。

 が、1ヶ月の短期の旅となれば、そうもいかないかもしれない。どうするかは結局本人次第、風次第だろう。
 何より、健康と安全が最優先だ。気を付けろよ、みな君。勇敢な女性よ、思う存分動き回り、そして世界を見ておいで。私はそういう娘(こ)が好きだ。



6月8日  真鍋呉夫宗匠のこと

 昨日発行の群像7月号に、作家の阿川弘之さんと真鍋呉夫さんの対談が出ている。阿川さんが『亡き母や』(講談社)という本を出したのを機に、九州での青春の友であるお二人が12年ぶりに会って対談という仕立てである。

 お二人とも83歳、対談中にも出てくるが、あと同年の作家は安岡章太郎さんのみだそうだ。かつては第3の新人といわれた人たちだが、歳をとったといえばとった。

 真鍋さんはかつて安部公房と並ぶシュール調の前衛作家として知られたが、長らく沈黙、だいぶたって私小説ふう作家と趣を変えた。
 同時に俳人として力のこもった名句を多く作られ、12年前には句集『雪女』で読売文学賞を受賞されたりした。

 私との縁はその俳句、というより連句の方である。私は文芸評論家の佐々木基一さんらと20年以上前から佐々木さん宅で、毎月1回連句会を開いていたのだが、ある時からそこへ真鍋さんが連句のプロとして参加して下さったのだ。

 それまではろくに式目も知らず、全く我流での連句もどきに過ぎなかったものが、これによってこの会「魚の会」は一気に本格化し、自ずと真鍋さんを宗匠と呼ぶようになるとともに、連句のレベルも飛躍的に向上したのだった。
 
 私は真鍋さんの句が好きで、『雪女』中にある1句ー

  雪 櫻 螢 白桃 汝が乳房      天魚(真鍋さんの俳号)

 を元に、『恋の呼び出し 恋離れ』(中央公論社)という連句小説を書いたくらいである。
 これは今でも私の代表作の一つたりうると自負と愛着のある本だ。

 数年にわたって教えていただいた頃の真鍋さんは、まだ60代から70代はじめにかけての頃で、今から思えば若かった。黒っぽい着流しに、雪駄、サングラス姿で巾着袋を下げてこられるさまなどは、風情とともになかなか貫禄があり、痩身小柄であるにも関わらずやくざの親分と間違えられたりしたくらいだ。

 檀一雄の弟分で、九州男児丸出しの顔つき・おとこ気が、そう感じさせたのかもしれない。
 今、わが風人連句会のメンバーには、私以外に森山深海魚さんという真鍋さんと一座の経験のある連衆もいるから、いわば風人連句会は天魚真鍋呉夫宗匠の流れをくむ会といっていいかもしれない。

 対談での真鍋さんは、次々と俳句を引用しては語り、九州男児83歳の厚い友情を見せている。



6月6日  今日は雨?緑田に萍(うきくさ)の増え  南斎

 表記の句、緑田と萍が季重なりだが、前者は小生が創案したばかりの未公認季語なので、定着するまではと思って、意識的にこうしました。
 ?は、天気予報によれば今日はお午ごろから確実に雨のはずなのに、今のところ(午前8時半)妙に明るい空模様で、外出すべきか否かためらっている心情通りです。

 たぶん今日が梅雨入りと、予報は言ってます。



6月4日  鷺沢萠、山田英幾さんを偲ぶ会

 ペンクラブWiP(獄中作家)委員会のメンバーで、急逝した2人を偲んで、昨夕、ペン会議室で会が開かれた。

 集まったのは、下重暁子、小中陽太郎、森詠、今野敏、芝生瑞和、西木正明、小嵐九八郎、藤井省三、川口健一、太田代志朗、岡崎正隆、坂上遼こと小俣一平、新津きよみさんら、ジャーナリスト、作家、外国文学者、編集者ら約30人。

 会議室での臨時仕立てだから、ごく質素な会だが、次々に立って故人を語る内容は、エピソ−ドと変化に富んで面白かった。
 鷺沢さんは有名人だから格別意外感はなかったが、山田さんに関しては知らなかったことが続出し、大いに興味をそそられた。

 山田さんはちょっとキザなNHK記者にして文学青年という印象だったが、父親がN響などの指揮者山田和男、元夫人が俳優山田吾一の娘さんだったとか(山田姓は偶然)、癌は3年前の胃癌が取り切れていなかったらしく、当人はどうやら再発を覚悟していたらしいとか。

 更に面白かったのは2次会に移ってから、親友だったというNHKの同僚小俣一平氏から聞いた話で、それによれば、山田英幾といえばNHKでは3指に入るドンファンであり、鹿児島支局時代どうだった、入院してからも病院でどうだったとの実見談が実に意外で、ヘーエ、ヘーエの連続だった。

 また、この小俣氏、生前の写真や山田さんの取材ノートまで持ってくるほど故人の親友で、本当に懐かしそうに話すさまがなんとも友情にあふれていて、こんな友人がいたらいいなと思わせる人だった。

 学生運動家だったとも言い、元新左翼が集まってそういう話ばかりしていたから、話に入れない山田さんが存在感を示そうとして右派化したのではという話も面白かった。山田さんは妙にネオコン的思想の持主だったからだ。

 私は、1昨年のWiPの日にペンクラブで発行した小冊子「21人のプリズン」にその年春亡くなった作家の古山高麗雄さんをモデルに私小説ふう掌編小説「イン・プリズン」を書いたが、そのとき編集担当だった山田さんが、すぐメールをくれて、「自分は実は古山さんの直弟子だった。学生時代以来唯一師事してきた人です」と言ってきたことを思い出した。

 古山さんも思想的にはかなり右派だったから、山田さんはその影響を受けていたのではと思っていたのだけれど、友人に新左翼系が多かったというのも意外だった。思想で付き合いを限定しない幅の広い人情家だった気がする。

 35歳で死に急いだ鷺沢さんの自死の原因に関しては、ついにはっきりした話はどこからも出なかった。自分でプロデュースした芝居の公演が6月15日からだったことからも、発作的な死だったのではという意見が多かった。



6月3日夜  今朝の俳句訂正

 朝、出校前に書いた句、家を出、電車に乗ったあたりから気になり始め、学校に着くや歳時記を確かめ、しまった、やはり間違い、となりました。
 よって、直しましたので、御覧下さい。下の文章の末尾の俳句、中七です。



6月3日朝  季語「緑田」を創出

 先月下旬ごろに田植えがほぼ終ってから、川向うの田が日に日に緑色を増してきた。最初はほとんど一面の沼か池みたいに見えていた田が、だんだん苗の方が主役になっていくのだ。

 「青田」という好きな季語があるが、これは手許の山本健吉編歳時記では晩夏扱い。気になって「田植え」を引くとこれも仲夏扱いで、半夏生(7月1,2日)ごろまでに終えるなどと書かれている。

 しかし、私が毎年見る実感では、少なくとも関東では田植えは5月の連休明けあたりから20日前後くらいまでに終る。6月になってからということはまずない。つまり三季別にいえば、初夏の行事になる。

 理由はたぶん、地球温暖化のためだろう。30年前に比べれば地球というか、日本、そして関東平野の気温は、明らかに2−3度ないしそれ以上暖かくなっているのではないか。この5月なぞ真夏日さえ何回もあった。

 それに応じ、わが好きな季語「青田」や「青田風」も、今や晩夏から仲夏に変じたにちがいない。が、さすがに田はまだ青々とはしていず、まだ初夏である現状にはそぐわない。
 で、何か今ごろにふさわしい季語はないかと考え、「緑田」はどうだろうと考え出してみた。

 歳時記には植田とか五月田という季語はあるが、植田は田植え中ないし直後の語感が強く、五月田は新暦下では誤解を生みやすい。
 そこで実感として緑田というわけだ。

 満更悪くない気がするが、いかがかしらん。

    緑田の今朝のそよぎや出校日   南斎



5月31日  5月の真夏日に山頭火を読む

 この二日ほど埼玉界隈は気温32−3度はあった。おまけに湿度が高く、猛烈に蒸し暑い。そのうえ今日は風が吹きすさび、まるで台風並だった。
 ベランダの百合カサブランカを室内に入れたり、洗濯物を室内に干したり…。

 そのさなかに、行乞流浪の俳人山頭火の書簡集をずっと読み続けた。ちょっとした原稿を書くためだが、むかし若き日、私もまた放浪じみた暮しをしていた時期、彼の句集や彼に関する本を何冊か読んだことを思い出した。

 長い間忘れていたが、ひたすら歩き続ける日々に彼が書いた手紙やハガキを読んでいると、旅暮しの淋しさと哀しみが伝わってくる。今読むと、その頃の彼は50台の後半であり、そして59歳で死んでいる。現在の私の年齢に近い。手紙の3分の1くらいは借金の申込みみたいでもある。辛かったろうな。

   ともかくも生かされている雑草の中
   がちゃがちゃよ鳴きたいだけ鳴け

 これらは昭和9年、53歳の時の作である。



5月29日  ダンスカンパニー「BAKUの会」

 今日は日芸所沢校舎での通称春祭(はるさい。私見ではもう春という実感は通り過ぎているから、青葉祭とかに改名したらどうだろう)だったのだが、秋の芸祭を含め、私が学生諸君の出し物で一番好きなのが、バクの会のダンスである。

 会名の由来は知らないが、要するにモダンダンスの学生サークルで、いつも約30名ほどの男女が若い肢体を文字通り躍動させ、跳びはねさせて、踊りまくる。個人プレーはあまりなく、大半が集団による群舞で、そのコンビネーションがめりはりが利いていて、ピタッと決まっている。

 衣類はさほど露出的なものではなく、今年あたりむしろ地味な印象だったが、しかし、なんといっても良く鍛えられた若い肉体は引き締まっていて、健康なエロティシズムもある。何より体いっぱいで、叫びとともに、両掌の先や顔や肌から何ものかをほとばしらせるように押し出すとき、「若さ」という感動を鮮やかに見せてくれる。

 これは肉体の特権である。文章や言葉ではこうはいかない。絵や音だけでもやはりこうはいかない。肉体、そこから滲み出す若きエネルギーと匂いだけがなし得るわざだ。

 私は毎年このバクの会のダンスを見るのを楽しみにしているが、今年はわがゼミ2年生のO君が踊っていたので、よけい楽しかった。思いきり体を動かし、叫んで踊っている彼女を見ていると、教室で文章についてやりとりしているときの当人とはまた違った顔が見えて、彼女への理解が広がる感もするのである。

 いや、良かったよ、O君。今度は教室で文章を見せてもらうけど、文章にダンスの時のような肉体と若さを盛り込むすべは何かないものかしらねえ。



5月27日  奥田経団連会長の問題発言

 昨日、学校の食堂で放送科の新堀利明先生(元TBSテレビキャスター)と食事をしながら話していたら、新堀さんが「今日の毎日新聞に経団連会長が、〈目指すべき目標〉の第一に“国体の明確化”を挙げていましたよ」と言われた。

 「国体ということは天皇制でしょう。それならはっきりしているじゃありませんか」と私が答えると、「いや、今は象徴でしょう。それを元首にせよということですよ」とのこと。
 仰天していると、新堀さんは「憲法改定はもう進行形になってきていますよ。自民・民主のみならず、公明党までが条件付きで賛成にまわっているでしょう。国会の3分の2はもう完全に越えています」と付け加えた。

 全くその通りである。私は朝日新聞をとっているので毎日のその記事は読んでいなかったが、帰宅して朝日を読み返してみると、奥田氏の会見は11面に大きく報じられていた。そして、「国体」に関する記事は一行もなかったが、「憲法改定が必要」という内容は出ていた。

 思うに、朝日新聞は国体問題は黙殺したということだろう。問題発言として大々的に取り上げるのがいいか、黙殺するのがいいか、憲法問題に絞って論議対象とするがいいか、むつかしいところだ。最近の風潮ではどんな反応になっていくのか自体が一向読めない。

 今回の日朝交渉結果に対する家族会の反発に対し、「小泉首相に感謝せよ」「批判ばかりするな」のメールや電話が殺到したという報道も同時にあり、また日朝交渉を良かったとする世論調査結果が67%だった今の日本人の意識は得体が知れない。

 私は9条(戦争放棄条項)問題から生じた憲法改定問題が、やがて波に乗って一気に第1章の天皇制規定まで改悪してしまわないかと懸念する。

 9条の改定に関しても反対である。9条は基本精神としてそのままにし、「自衛隊および国連待機部隊に関しては別に定める」と付則を付ければいい、というのが私の考えだ。
 理想は堅持した方がいいし、戦争多発の今や、日本の平和憲法は世界に誇るべき人類の目標ではないか。日本国憲法は時代を先取りした21世紀の聖典なのである。



5月24日  また温泉、そして一言だけ説明

 今日はとにかく解放感から出かけたくて、先週発見した温泉に向った。土曜日は寒くて外へ出られず、昨日は総会でずっと縛られたせいでもある。

 温泉は少し違うところをというわけで、隣町の鬼石の八塩館なるところへ行った。残念ながら先週のように赤い塩水温泉ではなかったが、総ガラス張りの外はすべて緑と谷で、月曜日の昼間のこととて人っ子一人いず、実に気分が良かった。

 それで戻ってきて、このページを見たら、昨日の日記は、どうも何も訳を言わず一人で感情ばかり起伏させているふうなので、せめて理由を一言だけでも書いておくべきではと思ったので、以下に書きます。

 最大の理由は、マンションの駐車場問題で、たった2台分の駐車場増設のため樹齢40年くらいの大きな欅2本を伐採することを含む案(案全体は40台分くらいの増設案)に対し、理事会同様総会でも誰一人反対ないし慎重論を出さず、植栽委員長とか前・元理事長といった人がこぞって積極推進論を述べ、現理事長もそれに呼応するようなことを言い、そんな雰囲気が会議を支配したことである。

 総会では事案は次期理事会への検討申し送り事項なので、まだ決定自体は当分先のことではあるが、私は日頃敷地内の樹や植栽を守り育てる役と思っていた植栽委員長(ボランティア5年と当人自身誇っている)までが、車の方が大事みたいな意見だったことに愕然としたのだ。

 また腹が立ちそうなのでやはりやめるが、哀しいことである。



5月23日  うわーい、マンション総会が終った!!

 今日、1年間の理事の総決算である総会が午後2時から開かれ、夕6時にやっと終った。
 実にホッとした。快哉である。
 そして言いたいことが山ほどある。

 が、言えば更に腹が立つし、いろいろ波紋を呼びそうだし、そして何より、今の私は一種虚無感さえ抱いているので、グッと抑え、あるいはそれを押して言う気力もなく、喉元まで出かかったいろんな言葉(半分以上は批判、罵倒、哀しみ)を呑み込んで、ただ解放されたことを喜びたい。

 私はこのマンションでは在住12年にして初めて理事を務めたが、もう2度とやりたくないと思う。そしてだいぶ信頼していたこの住区に対し、苦い思いを抱いた。ここは東京近郊の、中産階級上の、代表的ニュータウンと言われるから、この思いは、ひょっとしたら日本の中産階級の多くがこうなのかもしれない、つまり日本はこういう国、こういう現状なのかもしれない、という思いにもつながっている。

 それが虚無感の原因であり、疲れの原因であり、そして一方での義務終了による解放感のゆえである。
 とにかく、くたびれ、ホッとした。小泉訪朝問題に言及する元気もない。



5月21日  蛙鳴く

 「蛙鳴く」というと晩春の季語だが、初夏である今晩、今、窓の外からそれが聞えてくる。川向うの田圃に水がほぼいっぱい張られたせいである。
 どこに隠れていたのか、それにつれ蛙が一斉に鳴き出した。

 グワグワグワ。ぐわぐわぐわ。

 美しいとは言えぬが、しかしその鳴き声はどこか郷愁と官能を誘う。
 郷愁は幼年時代の故郷濃尾平野の田中の道を想起させ、官能はそれが雄が雌を誘う性の呼び声であることから来る。

 真夏になると蝉の鳴き声も、音調は違うがどこか似た要素を持つ。少年時代のお八幡の森の蝉時雨の、やはり性の呼び声、そしてはかない死を予感させる声。

 蝉は風情が愛でられるが、私は昔から蛙の声も好きだった。一声二声では面白みはないが、何十何百が波のように寄せては返す合唱は、夏の湿気と暑さと、生の輪廻、田植え前の田圃という環境も相まって植物動物一体となった生類の営み、を感じさせ、じっと聞き入っていると、自分もまたその生類の一つとしてこれから夏に入っていくのだという気が自然に身を包むのだ。

 梵我一如という言葉があるが、それほどではないにせよ、彼我一如くらいの気にはなる。
 そして、こういうとき、また何か新しい作、それも官能的な作を一つ書いてみたくなる。



5月19日  母子家庭

 昨日、日芸における私の最初の教え子、つまり11年前卒業、今年33歳のE君(女性)が満2歳の子供を連れて訪ねてきた。つい先月から母子家庭になり、昔からの知り合いが一番多い江古田・桜台界隈に引っ越してきたというのだ。

 子供はとても可愛い巻き毛の子で、ぱっちり私の顔を見ながら研究室の椅子の周りを動き回るのだった。が、その彼の片手は手首から先がなかった。先天性四肢障害というらしかった。あの乙武君ほどではないが、その4分の1というわけだ。

 私は若き日のすらりとおしゃれで勝ち気だった、そして多分にお嬢さんふうだったE君を思い出しながら、そして彼女も私のことを少しも変らない若さだなどと言ってくれ、懐かしく話したが、しかし、E君が極めて辛い境遇にあることは明らかだった。

 田舎の実家からも受け入れを拒否され、これから2人で生きていくという。

 私は彼女に何か仕事はないかと思いめぐらしたり、自分も母子家庭育ちだったことを思い返したり、娘を保育園に送り迎えしていた頃の大変さを思い出したりした。

 が、思うことは色々あっても、具体的な対策となるとなかなか思い至らない。
 気丈に息子を右手で抱き、しかし少し涙ぐみながら帰っていく彼女を校門まで見送ってから、私はネットを探し回り、先天性四肢障害児に関する情報を見、それに関わる団体や本や福祉関係機関などのサイトを見続けた。

 帰宅してからパートナーから保育園に関する情報も聞き、夜になってやっとアドバイスをまとめ、メールで送った。
 今朝メールを開くと、彼女からそれに対し長い謝意のメールが来ていた。発信時刻を見ると深夜だった。彼女は眠れているのだろうか。

 11年前の卒業生で、このHPを見ている人いたら、ちょっと連絡下さい。



5月17日  古生代の海水温泉を発見

 昨日の日曜日、またぞろ温泉に入りたくなり、埼玉県と群馬県の県境にある神泉村というところに「白寿の湯」という温泉を見つけて入った。民営の共同湯で、大人600円、湯舟二つの大した設備もない施設だが、湯はなかなか良かった。

 赤く濁り、床のタイルなどは赤だいだい色に平たく鍾乳石ふうに盛上がっており、湯は舐めるとひどくしょっぱい。ちょうど海水並の味である。
 で、不思議な気分になりながら、しかし何かいい気分で浸かった。同行したパートナーは折から腰痛だったのだが、長湯をして出てきたあと、腰の痛みがずいぶん和らいだという。

 気になって帰宅後調べたら、そこは古生代の海水が湧き出ている珍しい温泉とのことだった。
 古生代といえば、約2億年から5億年前、生物は海生の無脊椎動物が主流の時代で、一部がやっと地上に進出し始めた頃という。

 むろん、人間さまなど影も形もなかった頃だ。

 うーむ、そうかあ、してみると自分が舐めた塩水はその時代の味だったのか、自分は3,40分とはいえ、古生代の海に浸かっていたのかと思うと、なんだか悠久の気分に浸れた。ちゃちな腰痛ごとき吹き飛ぶわけだ。

 いいとこを見つけた、今後ちょくちょく行こう、というのが、今日あたりも我が家の話題だった。



5月15日  マンション理事会の不快

 今日はこの1年間のマンション理事会の最終回だったので、そのことを書こうと思っていたが、あまりに不愉快なので、やめにする。

 というか簡単に一言だけいえば、理事長の運営が全くイライラするのだ。例えば、従来慣例で行っていたちょっとしたこと(マンション住民に死者が出た場合、管理組合から香典代りに多少のお金を届けること)を、理事長が細目まで決めて「細則」として明文化する案を出したが、大方は慣例通りでいいとして誰一人賛成しなかったにも関わらず(挙手採決までした)、理事長があれこれ話を蒸し返して、計55分も時間をかけたことがその一つである。そんなこと、どうするにせよ、てきぱきやれば15分もあれば済む内容なのに。

 全くうんざりするし、ばかばかしくて話にならない。今日は総会準備の会で議題が少なく、どうやら全部で2時間ちょっとで済んだが、いつもはこういう調子で午前10時から延々昼食抜きで2時からしばしば4時までかかるのである。

 私は仕事でもボランティアでも毎月いくつもの会議に出るが、これほど非効率で、だらだらと長びき、手際の悪い会議は初めてだ。
 おまけに、それに対し、私以外誰もいらだちを表明しないし、成り行き任せ的雰囲気が支配することがまたフシギなのだが、ああ、それを考え出すとやはり腹が立つので、もうやめておく。

 来週日曜日の総会が早く終ることを祈るばかりだ。



5月13日  旧2年ゼミ飲みと某M大生の蛮行

 昨日は夕6時半から旧2年諸君との飲み会が、江古田駅近くで開かれた。今年度は私が大学院を持った関係で3年ゼミを開講できなかったので、他ゼミへ散った諸君が、いわば同窓会を開いたわけだ。

 集まったのは6人、所沢での春祭準備やバイトなどで案外少数となったが、代りに熱心だった諸君ばかりとなった。

 ところが、設定した「台湾屋台村」という店が、あとから来た某M大のテニス部(?)とおぼしき大集団(約40人)の傍若無人な一気飲み大会場となってしまい、騒がしいどころではなかった。大声でないと話も出来ない、というかそれもかき消されがちな有様に、店の人を通じて2度にわたって抑制を申し入れたが、全く通じない。

 唖然として見ていると、1年生とおぼしき学生に上級生らが掛け声と妙なおはやし唄を歌って、6,7個並べたコップを次々と干させたり、ビール瓶をラッパ飲みさせたりする。1年生はそれを顔を苦しげにしかめながら飲み、やっと飲み終わるとそのままトイレに駆け込んだりだ。

 おかげでトイレはいつも満員、列が出来、入れもしない。おそらく中は、嘔吐の臭いと汚物でいっぱいだろう。
 上級生は面白そうだが、新入生らしき連中はたいがい暗い顔をしている。

 こういう一気飲みはどの大学でも禁止しているはずだが、このM大に関しては、しばしばこういう光景に行きあう。ビールぐらいならまだ吐くぐらいだろうけれど、これを焼酎や強い酒でやったら命にも関わるかもしれない。

 学生らも悪いが、放置している大学も悪い。それに何より、この光景が延々と続くサマには、知性というものがどこにも感じられない。発せられるのは言葉というより、叫びとはやしだけで、離れて見ていると、人間というより猿の集団にしか見えなかった。なんたる情けなさや。

 というわけで、我々は値下げ交渉をした上で、早々に店を出、喫茶店に移った。「ああ、静かだなあ」というのが期せずして皆から出た第一声で、以降、酒もないのにかえって話に花が咲き、いい会になったのだった。



5月11日  仕事帰りにちょっと一杯

 昨日は会議のため、夕方に出校、6時からの会議が7時過ぎに終了した。空腹だし、会議一つのためにわざわざ出てきたせいもあり、同じ条件の同僚の山内淳教授と「そこらでメシでも食べましょうか」となった。

 つまり、ちょっと一杯となったわけだが、実は私にはこういうこと自体が珍しい。
 なぜなら、私は50代で大学教員になる以前は、25歳時に3ヶ月勤めたことがあるだけだったし、大学教員になって以降も、先生たちはそれぞれ勝手に授業時間を設定し、終るとばらばらに帰ってしまうので、いわゆるサラリーマン的に「仕事帰りに同僚とちょっと一杯」ということはあまりなかったのである。

 それがこのごろは会議が増えたため、ちょっと一杯の機会も自然に出来てきたというわけで、私にはこれが結構楽しい。なんだか世間並になったような、サラリーマンの気持が分るような、そして長年自宅の書斎中心だった生活に変化が出たような気分なのだ。

 実際、私の小説は主人公や登場人物がサラリーマンである例はほんの2,3作程度で、たいがいは自由な物書きや画家、あるいは放浪家などが中心なのである。周辺に多少は普通の勤め人が登場しても、あまり日常的心理などにまで立ち入ることはなかった。

 つまり、勤め人の気持が良く分らなかったのである。
 それがこのごろちょっと分るような気がしてきたのが、楽しいゆえんだ。そのうちサラリーマン小説でも書こうかしら。



5月9日  風人連句会 そして週刊ブックレビュー放映

 昨日、2ヶ月ぶりに連句会があった。代志朗さんが風邪をひいたり、深海魚さんが相変わらず忙しかったりで(建築家は施主が休みの休日が忙しいらしい)、出席者が減ったが、そのぶん中身と親密さは濃くなったとも言える。

 内容は「第5回歌仙」欄に詳しい解題とともに書いたから、それを見て下さい。連衆が式目などにもどんどん習熟してきたのが嬉しい。

 前回書いたブックレビューは、今朝オンエアを見たが、だいぶカットされているせいもあって、私が思っていたほど痛烈な批判とは見えなかった。「これがなんで芥川賞候補なの、解せない」とか「文章が軽薄」、ほかに態度で示した部分などが削られていたのはちょっと残念である。

 が、改めて見てみると、私もずいぶん穏やかに笑みを浮べている感じで、我ながらだいぶ年長者ふうに丸くなったものだと思った。心の中ではもっと強く思っているつもりだが、表現がだんだん大人しくなってきているのかもしれない。

 でも、それならそれで、今後は大久保彦左衛門的御意見番役も意識的に引受けていこうかと考えている。世の中、あまり馴れ合いや利害優先ばかりではうんざりする。腹も立つ。
 人間、歳をとれば穏やかになる面もあるが、あまり遠慮する気になれなくなる面もある。私は率直路線で行きたい。



5月6日  NHK「週刊ブックレビュー」録画撮り

 今日午後、渋谷のNHKセンターで、BS2の録画撮りをした。
 出演はだいぶ久々で、担当プロヂューサーも替っていたし、司会もピアニストの三舩優子さん、女優の中江有理さんとなって、初対面だ。

 書評ゲストも、書評家・吉田伸子さん、東京女子大教授・今村楯夫さんと私で、私はお二人とも初対面だった。

 私が推薦した本は、アメリカの作家ポウル・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳・新潮社)である。由縁はテレビで見ていただくとして、私は吉田さん推薦の本を酷評してしまうことになり、よく言えば場は盛り上がり、悪く言えば物議をかもし、だいぶ紛糾した。

 紛糾は終了後の控室まで持ち越され、吉田さんは「夫馬さんの悪口のところはばさっとカットして」などと悔し紛れだか口走っていたが、私は「あんなものばかばかしくて読めない」と返礼しておいた(^.^)。

 しかしまあ、吉田さんは椎名誠、北上次郎らと一緒に元「本の雑誌」に勤めていてから、最近書評専門家として独立した女性だから、日本には数少ない書評家というジャンルを確立していくためにも貴重な人材だろう。

 ゆえに、私は悪い感じは持っていないのだが、ただ、望みたいのは仕事を確保するために、出版社や著者の側ばかり向いた「ほめ屋」「紹介屋」みたいにはなってほしくないことだ。アメリカやヨーロッパでは、書評家というものはもっと毅然とした、権威あるものなのである。日本でも、ある程度辛口であってこそ、書評家は独立した存在意義があろう。

 何にせよ、ほぼ1年ぶりのテレビ出演です。皆さん、ぜひ見てちょうだい。

 NHK・BS2
 5月9日(日)am:8:00〜8:54
       再pm:11:45〜0:39



5月4日  ピンクフロイド・バレー

 一昨日夜、NHKテレビ3チャンネルで、ピンクフロイド・バレーなるものを見た。
 フランス人振り付け師、牧阿佐美バレエ団、外国人ダンサー数名参加の創作バレエ(というのかしら?)だが、私はピンクフロイドの名に惹かれて、見る気になった。

 ピンクフロイドは、わが青年期というか、すでに30歳前後だったが、ヒッピー期にずいぶん好きだったロックグループだったからだ。いや、ロックというか半ばクラシック的でもあり、シンセサイザー等を使った宇宙音楽的気配がして、ジャンルを超えて好きだった。29歳から10年ほど、ビートルズについで好きだった。

 中でも「エコーズ」とか「ワン・オブ・ディーズデイズ」、それにアルバム「原子心母」などが大好きだった。聞いていると、遙か宇宙の彼方、あるいは生命の根源に旅をし、深い神秘的海のごとき空間で、梵我一如の片鱗を味わって、また帰還するような体験が、そのつど出来る気がしていた。

 それをダンス化するとはどういうことかと興味をそそられたのだが、見終わった結論は、制作者や振り付け師の意図を理解はするが、期待した深みは感じられなかった。
 そして、一番感じたのは、人間の肉体というものは、わりあい単純なもので、あまり想像力を拡げ得ないということだった。

 目に見える肉体や物質などではない、音楽や、言葉、文字の世界、あるいはメディテーションや祈りの方が、想像力はずっと広がるし、深まる。神秘にも近づく。
 肉体、特に外見的肉体は、それらにとってしょせん大したものではない。「肉体は仮の宿り」、という言葉というか認識を改めて思い浮べた。

 でもまあ、面白い時間で、私は1時間半くらい、深夜にさしかかる時間を、部屋を暗くしてこのバレーに見入り、そして何より久々に、ひょっとしたら20年ぶりくらいにピンクフロイドの音楽に聴き入った。「原子心母」はなかったが、「エコーズ」と「ワン・オブ・ディーズデイズ」は二度、ダンスとしても繰り返され、ラストの締めにもなっていたから、演出家たちも半ばは私と同じ気持だったのだろうと思いながら。



5月2日  卒業生と飲み会

 ゆうべは4年前の卒業生との飲み会だった。4人しか集まらなかったが、今26才と27才、今年中には27−8才になる年齢だ。

 懐かしかったが、男1人女2人が失業中なのにはちょっと驚いた。男は今年1月から、女性2人は3月から。理由はそれぞれだが、日芸生のようにかなり特殊な学部を出、面白い仕事をしたい、編集者になりたい、小説を書きたい、などと思っている諸君らには、なかなか世間の水が冷たいということのようだ。

 家族内でいろんな問題が起っている者もいて、「社会ってこんなに厳しいとは思わなかった」「先生、死のうと思ったことないですか」などと言われると、ウームと答に窮してしまう。
 似た思いをしたことはあったし、苦労はずっとあったが、しかし時代性も個人的条件も違うし、いま現在の実感は還暦の私と20代の彼らでは随分ちがうから、どうアドバイスすればいいか迷ってしまう。

 それなりに答え、「ちょっと気が楽になりました。今日は気分転換になって良かった」と言われると、こちらもホッとする。あまり閉じた方向に考えを追いつめず、時間の推移を待ちなさい、というのが結局一番の知恵のような気がする。

 実際、彼らはいまの平均寿命・余命から計算すると、あと60年ぐらい生きねばならないのだ。慌てる必要なぞないし、モラトリアム期間は30くらいまであると考えて構わない。おのれの資質と好み、社会の現実をその間にだんだん見極め、30前後でなんとかおのれの道を決めればいいのではないか。

 しかも、それだって35歳、あるいは40代で再転身したって構わない。恋人や伴侶選びも同じだ。慌てる必要はないし、やり直しを怖れる必要もない。何か表現活動をしたいなどと思っている者は、むしろその方がいいぐらいである。

 などといったつもりで、とにかく酒だけはわりあい飲んで、11時前、お開きにした。ひとりが「今日は夕方になって急に寒くなりました。先生、風邪などひかぬよう気をつけてお帰り下さい」と大人っぽく心遣いしてくれた。



4月29日  いよいよ連休入り

 やっぱり休みはいいな。私の大学勤務は通常週3日、会議などが増えると4日出校だから、普通の勤務に比べればずいぶん楽だし、満員列車に乗らなければならないこともめったにない。
 それでも、休みが続くとホッとし、解放感がある。

 それは出校はその程度でも、前日はある程度の予習や準備はしなければならないし、授業は要するに人前に出て話したりすることだから、身だしなみその他相応の気遣いもある。私の場合、持病の炎症を抑えるため前日から抗アレルギー剤を服用するなどの準備もある。

 連休はそれらからすっかり解放され、パジャマ姿のまま自宅の書斎で書いたり、書見したりしていられる。むろん、好きなところへ出かけることもできる。新車もあるし、みどりの季節、万々歳だ。

 尤も、連休中は道路は渋滞するし、行く先も混んだりが多いから、あまり遠出はしない。近場の森や村里を歩くのが大半である。

 あとはやっぱり本。連休明けの5月6日にはNHK・BS2週刊ブックレビューの録画撮りがあるので(オンエアは5月9日の日曜日)、そのための本も読まねばならない。個人的に読みたくて買ったままになっている本もむろんある。
 連句会も近いので、芭蕉連句集などもまた繙きたい。

 他に、ちょっとこのごろ出過ぎた腹も引っ込めたい。ウオーキングと腕立て伏せだ。
 さあ、今からパジャマを脱ぎ、ウオーキングに出るか。



4月26日  向いの病院オープン

 昨日、駐車場にテントを張り、完工式でもする様子だったが(出かけたので見届けなかった)、今日は朝から次々とベビーカーを押した女性などが訪れるので、どうやら本日オープンらしい。
広い駐車場も1時間後くらいにはいっぱいになった。

 Hospital for Ladies 恵愛病院 産科、婦人科、小児科。

 小さい子供が歩き回ったり、女性やベビーカーがやけに目に付く。
 視界、ガラリと変化す、である。



4月25日  1年ゼミ、2年ゼミ、メンバー定まる

 23日の金曜日、所沢に出校した。2年は最大定員16名のところへ20名くらいの志望カードが出ていたので、この日選抜結果を発表しておいた。男9名、女7名の16人。例年は男女ほぼ同数にしていたのだが、今年はどういう訳か女性志望者がちょっと少なかったので、こうなった。

 先週、顔見世には来ていたのに、カードを出さなかった者が意外に多かったのだ。1年の時のゼミ生からも、男は全員来たのに、女は1人だけだった。なぜだろうなあ、と首を傾げたら、男子学生の一人がすかさず「先生は女の子にはあまり人気がないんです」と、遠慮もなく言う。

 やや傷ついて、「ウーム」と皆の顔を見回したら、男子どもはいずれもニヤニヤしている。女子は黙ってじっと私の表情を覗いている。新しく来た女の子たち(6名いる)は「そんなことはないわよ」と言っているようにも思えた。

 そういえば今年の4年(3年から持ち上がり)も男が圧倒的に多いし、どうも私は男の方にもてるのかしらん。
 帰宅してパートナーに夕食時、このことを話したら、「君はずけずけ言うからじゃないかなあ。でも、男の子には信頼されてるということだろ」と言うので、そうかもしれないとも思った。

 しかし、実は去年の志望者は、女子20名近くに男10名くらいだったのだ。4年だって今年の卒業生はゼミに男は2人のみ、あとは圧倒的に女性だった。
 だから訳は、結局さっぱり分らない。去年は男女比率をほぼ同数にするため、女性をずいぶん落したから、その評判が尾を引いたのかもしれない。

 いやあ、難しい。

 が、まあ、1年ゼミも2年からの再履修生を含め11名が定まり(これは女5,男6で、学籍番号での自動決定だから人気には関係ない)、ともあれ両学年ともクラスが定まった。
 1年は早くも課題のエッセイの提出から合評に入った。いよいよ授業が軌道に乗りだしたわけである。

 と思ったら、来週はもう連休で、学生諸君とはまた2週間、顔を合わせないわけである。なんだかちょっと気勢がそがれる。学生諸君にも昔から5月病というのがある。連休くらいからが危ない。みんな、気をつけよう。



4月23日  二人の死

 私の属する日本ペンクラブWiP(獄中作家)委員会のメンバー二人が、最近相次いで亡くなった。
 一人は女性作家の鷺沢萠さん(35才)で、もう一人は副委員長のNHK記者兼作家の山田英幾さん(53才)である。

 二人とも普通ならとても死とは結びつかない年齢だけに、訃報を聞いたとき驚いた。鷺沢さんは自殺とのことだったから、記憶に残るちょっと太めの健康そうなイメージからいって、不思議な気がしたし、山田さんはそのほんの8日後のことだったから、本当に仰天した。

 ひょっとしたら二つの死には何か関係があるのかとさえ咄嗟に疑ったが、結局それは偶然で、山田さんの方は癌の再発だったというから、そういえば以前、癌云々の話はちょっと聞いていたような気がしてきた。

 気がするというのは、確かに一度癌になったといった話は小耳にはさんではいたが、会うときはいつも若々しかったから、胃癌くらいの軽いものを切り取ったのだろうくらいに考え、ろくに憶えてもいなかったのである。

 委員会内で、山田さんとはわりあい親しく、一昨年のWiPの日に発行した『21人のプリズン』というショートショート集に、私がその年の春亡くなった作家の古山高麗雄さんを主人公にした「イン・プリズン」という掌篇を書いたところ、編集担当だった山田さんが古山さんの直弟子だったことが分り、ますます親しみと縁を感じてもいたのだった。

 それに昨年暮れには、ペンクラブの広報に当初私が書く予定だったWiPの日「大江健三郎ー鄭義対談」のレポートを、ちょっとした手違いから私がやれず、副委員長としての彼に半ば無理矢理押しつける結果になったなどということもあった。

 思えば、その頃もう彼は体調が悪かったらしいから、悪いことをしてしまったものだが、あとで私が詫びると、彼は一言も不平を言うことなく、「結構楽しんでやりましたから、気になさらずに」というメールをくれたりした。

 死因は多臓器不全で、もう癌は体中に転移していて、どうしようもなかったそうだから、若いゆえに進行が随分早かったのだろう。
 英語が達者で、確かニューヨーク駐在員だったりもした彼は、国際諜報活動ものみたいな長編小説を書いていたし、去年会ったときには次作を1000枚くらい書いているとも語っていた。

 私はどちらも読んでいないが、せめて2作目を陽の目に会わせてあげたかったと、いま痛切に思う。
 ああ、人間とは、死んでしまえばやはりお終いだなあ。



4月21日  向いの病院

 昨年の6月2日付でこの欄に、書斎の窓外、柳瀬川対岸の田圃の中に産婦人科病院が建つ工事が始まったと書いた。
 あれから10ヶ月余、今、それがほぼ完成した。

 鉄筋4階、塔屋部分は6階、薄レンガ色タイル貼りコの字型のなかなか立派な建物だ。立てられた看板によれば産科、婦人科、小児科、完全個室制入院室で、駐車場も広く、植栽もかなり豪華に植わって、産科中心病院としては上級なのかもしれない。病院のマークも赤ちゃんが乳首を吸っている絵だ。

 私はどうせなら内科とか、自分たちにもメリットがありそうな科目もできないかと期待していたが、それはなさそうな代りに、産科となれば病気という暗いイメージより、赤ちゃん誕生のめでたいイメージの方が強いから、まあ、これはこれでいいかと思っている。

 工事開始直後は、市街化調整区域なのにと不満だったが、面白いもので、工事が進んで行くにつれ、そこはどうするのだ、色はそれでいい、駐車場の形と配置はきれいに整えよ、とかあれこれ自然に意見が浮び、次第に出来上っていくのが楽しみになっていた。

 何ごとも物事が、具体的に出来ていく過程というものは面白いし、形ある物が出来ていくのは楽しみでもあるのだった。
 駐車場周辺に植栽を植えだしたときは、気になって近くまで2度も見に行き、桜がメインであることを確認すると気分が良くなった。これで来年以降、桜の花が見られるというわけだ。

 オープンはまだだが、「初夏オープン」の看板があるから、まもなくだろう。
 するとお腹の大きな妊婦たちが次々訪れ、やがて赤ちゃんを抱いて退院していくさまが見られるだろうと、また楽しみになっている。

 生命の誕生はいいものである。人口も、増えないまでも減らないでいてほしいものだ。



4月19日  私は腹が立っている

 このところあまりに腹が立つことが相次いでいる。詳述すると延々長くなりそうなので、まとめ的意味を込めて何人かの人への提言だけを書いておく。

 1、まず小泉純一郎

 君はこの間、肝心なときは官邸や公邸に閉じこもって姿を見せず、事態が決着したら現れて、「(人質だった人は)大勢の人に迷惑をかけ、外務省職員などは寝食を忘れて助けたにもかかわらず、まだ勝手なことを言っている。常識というものはないんですかねえ」なぞと白々と言った。また、君の周辺の自民党や公明党など与党の中には「救出経費を人質たちに払わせよ」と言う者までいる。
 本末転倒も甚だしい。こういう事態になったのは何といっても第一に、小泉首相、君が、国民の多数が反対だったにもかかわらず(事前の世論調査ではどの社のものも反対率70パーセント前後だったはずだ)、強引に自衛隊出兵を決めたことにあるではないか。イラクの武装勢力が真っ先に要求したのも「自衛隊撤兵」であって、「戦争反対の民間人がボランティア活動に来るな」とは一言も言っていない。
 君はこういう事態を招き、無辜の民間人に迷惑をかけたことをまず謝罪すべきであり、経費を払えと言うなら、君こそが払うべきだ。

 2、人質の家族および、高遠、郡山、今井さんへ

 事情は理解するし、難しい立場であることは認めるが、この件の後半の言動は軟弱すぎる。ただ謝ったり、「国民の皆様にご迷惑をおかけし、申し訳ありません」などとばかり言う必要はない。私など心配はしたけれどちっとも迷惑じゃなかったし、私の周辺では皆ほとんど同じ感覚でいる。迷惑をかけられたなぞという人には、今のところ会ったことがない。
 救出も本来、自衛隊出兵をした政府が行うべきことであり、政府や国家は国民個々が政府支持者であるか否かを問わず、「国民の保護と扶助のためには」力を尽くすべきなのだ。そんなことはパスポートの最初にも明記してあることでしょう。
 あなた方が何より言うべきことは、「この事態の責任はイラク出兵を決めた政府にある。小泉首相は自衛隊を撤兵してほしい」ということだ。心配をかけたことには率直に感謝すればいいのです。小泉や自民党やその周辺など以外は、誰も迷惑など受けていない。マスコミは大はしゃぎだったし、国民の多くは今度の件で初めてイラク問題を身近なこととして感じ、目を見張って事態を注視したのです。

 3、シャロンへ

 テロリストとはまさにお前のことだろう。ガザから撤退するための条件とか言っているそうだが、ガザからは撤退するが、代りにヨルダン川西岸地区での入植は拡大すると言っているではないか。つまり、パレスチナ人は狭いガザ地区に閉じこめ、より広く、いい場所は自分たちがとる、ということだろう。
 独善、正規軍による国家テロ・侵略以外の何ものでもない。お前に言うことはただ一つだ。
 首相官邸で自爆せよ。

 4、ブッシュへ

 今になって後始末は国連に頼むと言いだしたが、何たる身勝手、何たる無責任、恥知らず。
 誰が考えても、無理矢理自分たちで、嘘までついて始めた戦争と人殺しの結果や後始末は、自分たちですべきだろう。小泉流に言えば、「自己責任」「支払いは自分でせよ」だ。
 すべきことはただ一つ、ただちにイラク国民および世界に謝罪し、米軍を撤兵することだ。そして辞職せよ。
 その結果イラクが分裂したら困る? 困るのは自分たちのメンツと石油利権が潰れるおぬしたちだけだ。イラクはもともと統一した国家ではない。第1次大戦後に欧米列強の都合ででっち上げられた国であって、本来クルドは独立国家となるべきだし、シーア派とスンニー派も別国家になってもいっこう構わない。元来、国家というものはあまり大きくない方がいいのである。大国主義はろくなことがない。フセインも「大バビロニア主義」を唱えて独裁をしたのが、根本の過ちだったではないか。



4月18日  田山花袋記念館

 今日は群馬県館林市の田山花袋記念館を訪れた。
 すぐ脇の躑躅ガ丘公園の巨木躑躅が見頃というのと、近くに鯉のぼりが数百だか泳がせてあるのを見たいついでもあってのことだ。

 記念館は隣に生家もあった。17俵2人扶持の館林藩下級武士の平屋建て22坪の家。
 決して大きいとは言えぬそこに5人家族だったらしい。今風に家具でもおいたらろくなスペースもなさそうな家に、どんなふうに昔の人は暮したのか。

 花袋の勉強した部屋は玄関脇の4畳間だったというが、貧相な小さな部屋だ。そこから14才で上京、5年後、当時の大作家・紅葉の門を叩いたという。

 出世作となった「蒲団」は、作家を慕ってくる若い女弟子を自宅に寄寓させ、彼女が去ったのち、彼女が使っていた蒲団の匂いを嗅ぐことで、女弟子への思いを赤裸々に告白しているとして評判になった、いわゆる自然主義文学の代表作である。

 そのモデルとなった女性から花袋への手紙、また花袋から女性への長い手紙、更には「蒲団」が出てからの花袋から女性へのモデルとして書いてしまったことへの詫び状などがあり、興味深かった。

 女性の筆跡はいかにも細筆の、嫋々とした女らしさ、かよわく、触れなば折れん風情のものであり、また花袋のものはやはり毛筆流麗に、しかしいかにも恋心を秘めたかのように細やかに丁寧に、相当年下の女性に向け思いを込めて書いている風なのである。

 去年の夏、連句会で山形・上の山界隈を訪れたとき、斉藤茂吉生家や記念館を訪ね、やはり茂吉が随分若い女性に老いらくの恋をした事実を知って、興をそそられたが、花袋の場合はそれに比べれば随分若く、いわば中年初期の恋といった感じだが、これもまた面白いには違いない。

 いずれの場合も、どうも師弟の恋の気配もあるところがまた、フムフムというところだ。
 「蒲団」の女性の場合は、その後結婚したり離縁したり、通常ならざるというか、あまり幸せならざる人生を送った模様なのも、何ごとかを感じさせる。

 文学史上の大家と思っていた花袋、あの髭の立派な、四角く恰幅のいい花袋が、亡くなったのはたった58才だったというのも、今となってはフームという感じである。



4月16日  久々の所沢

 今日は所沢校舎での初授業日なので、車で出校した。我が家からは約30分、途中は半ばが畑中ののんびりした道で、村の集落には八重桜や菜の花、花水木などの花が咲き、木々は薄緑色の芽吹き時で、どこもきれいだ。
 空気も清明、暑からず寒からず、風ここちよしで、一年でも最もいい季節の一つであろう。

 大学構内も桜が八重のほか、御衣黄というのだったか花が黄緑色の種類が咲き、体育館前の方にはピンクの花が咲き乱れていて、彩り豊かである。

 それらを背景に、学生諸君が新入生歓迎・獲得の部活勧誘机を出して、呼び声を挙げていたり、野外舞台ではロックバンドが歌うというか喚きちらしていたり(?)で、賑やかだ。
 日頃は広さの割には学生数の少ない1,2年だけの敷地は、どちらかといえば静かなのだが、この時期だけは違う。

 その中で新1年はゼミ室を探せず迷ってくる者が何人かいたり、2年ゼミは最大定員16人のところへ20数人が押しかけ(これでも去年より10人は少ない)、8人ほどは立ったまま私の話を聞いた。

 定員以上の場合は要するに選抜し、超過分人数を落さねばならないのが、辛い。志望アンケートを出してもらって、それで来週までに判断するのだが、体験的に言って、こういう物を書くのがうまい子が必ずしものちのちいい学生、いい物を書く素質有りとは限らないから、選抜が難しい。自己PR、コピーライター的能力に優れた者、必ずしも文学的才能有りではないのである。

 寡黙で内向的だったり、要領の悪い者が、案外伸びたりもする。同時に才ある者はやはりそういうことにも才あったりもする。また、クラスのメンバーは、文や才ばかりが求められるわけでもない。ユーモラスで楽しい子、クラス内交流に熱意のある子、その子がいると何となくなごむ子、なども得難いのである。

 つまり、人を選ぶのは本当に難しい。さて、来週までにどうするか。なるべく誰をも傷つけず、うまく進行させたいものだ。



4月14日  ほぼ3ヶ月ぶりの授業

 1月中旬以降は卒論卒制の読み、2月は入試、と忙しかったが、3月は春休みだったから、教室での通常の授業自体は今日がほぼ3ヶ月ぶりだった。
 新年度の、しかも初めての大学院の「文芸創作研究」の第1回と、新3年4年の連句の授業、というか半ばガイダンス。

 大学院の方は、なにしろ新1年自体が9人しかいないところに講座数は随分あるから、はたして学生が来るのかしらという疑念もあったが、ちゃんと来てくれていて嬉しかった。あと来週あたりに来る者もいるというから、最終人数はまだ不明。

 連句の方は今日だけで20数名が登録カードを出していった。しかも放送科生が一番多く、ついで文芸科、映画科の順となった。例年は文芸科が圧倒的に一番で、ついで放送科、以下各学科わりあい同程度だったから、今年はやや異変である。

 放送科生に誰か先輩に聞いたのかと尋ねてみたところ、「いえ、誰にも聞いていません」というので、なおさら不思議な気分だ。
 文芸科生の方は、来るといっていた学生の顔が見えないから、まだこれから来るのだろう。

 例年今ごろは、新受講者の集まり具合が気になる。数が少ないと淋しいし、といって多すぎても困るし、また数以外に中身も熱心な学生、センスのいい学生がどのくらいいるかと、あれこれ期待する。

 いずれにせよ、3ヶ月ぶりに喋りつづけると、喉が涸れ気味になり、くたびれる。授業はやはりかなりの労働なのだとも改めて思う。
 明日は4年ゼミだが、これは3年からの持ち上がりなので、メンバーはほぼ替わらない。いよいよ卒制と就活の年なので、活を入れねばなるまい。



4月12日  イラク3日本人人質事件とバザール商法

 いま午前9時だが、人質はまだ解放されていない。いったん流れた解放情報の期限からすでに6時間たっている。24時間以内に自衛隊が撤退する回答がないと、順に殺していくとか、いや、やはり釈放すべしという聖職者の話など、いろんな情報もある。

 日本で大騒ぎになっていること、米軍もファルージャで停戦したことなどから、この件はもっと使えると拘束側がエスカレートしてきたのかもしれない。あるいは水面下で身代金の交渉でも進んでいるのか。

 すべては推測するしかないが、かつて私がトルコやイラン、アフガニスタン、パキスタンなどのイスラム地帯を訪れた印象では、あの界隈には「バザール商法」とでも呼ぶべきやり方があった。

 例えばバザールで何かを買ったり売ったりするとき、定価や正札といったものは一切なく、ちょっとした衣類一つでも3倍、最低で倍くらいの値段の開きから交渉が始まり、途中でチャイなど飲んだり、「もうやめる、帰る」などと席を立ちかけたりした挙句、1時間ほどもかけてやっとほぼ適正値段で決着するのだ。大きな買物だと、一日がかり、二日がかりだったりした。

 しかも途中、場合によってはかなり激しいやりとりや非難をしあったり、と思えば互いの家族の話をし、「お宅の娘をうちの息子の嫁にどうだ」などといったことまで言いあったりしたあと、また金銭の交渉に入るのである。

 だから、私は今度の件が起ったときも、そう簡単に最初の提示条件通りことは進まないのではと思っていた。あの世界に定価やその種のルールはそもそもないのだ。
 現状はひょっとしたらそういう交渉過程であって、相手自身、チャイでも飲みながら考えているのではないか。

 確かに黙って釈放するより、日本政府やアメリカから少しでも譲歩を引き出したり、世界の世論を引きつけたりする方が、得策ではあろうからだ。多額の身代金(名目はファルージャの死傷者への見舞金、あるいは復興資金など何でもいい)をとる現実的、それこそバザール商法的利得も有り得る。

 むろん、どうなるかはまだまだ分らないが、そういう2転3転のバザール的駆引きがありそうな気がする。



4月9日  学校始動、そしてまたしてもマンション理事会。

 8日は入学式、続いて新体制初の学科会議、9日は新入生ガイダンス、文芸学科教員懇談会(メトロポリタンホテル)と、行事や会が続いた。

 1番新鮮なのが1年ゼミのガイダンス兼顔合せ会。今年は10名のフレッシュマンがわが研究室に集まった。男女5名づつ、地方出身者(つまりひとり暮らし開始者)6名。18歳7名、19歳2名、20歳1名。

 第1志望者もいれば、他学科、他大学に落ちてという者もあり。「書きたい」志望者もいれば、ロックなど音楽や演劇志望者もいる。別に格別何の目標もない、ただ何となく来てしまった、という者もあり。

 まあ、その通りだろう。だいたい例年通りだし、バランスは色々あって丁度いいとも言える。個性、能力、クラスのまとまり等はこれからおいおい分り、磨かれていくだろう。それが楽しみだ。

 教員懇談会のあと2次会に寄り、12時すぎ帰宅した。煙草を吸う人がすぐ横にいたせいか、喉が痛くなった。

 その喉をゼイゼイいわせ、咳をしながら今日は、午前10時からマンションの理事会。この日は駐車場増設問題のアンケート結果が出て来、5月の総会にどういう方針を出すかが決まるだけに、さぼるわけにはいかない。たぶん昼食抜きで午後2時まではかかるだろうからと、ゆべし2個とのど飴7−8粒、瓶いっぱいの甜茶を持参して臨む。

 ゆべしを食べながら頑張ったせいあって、大きな欅を伐採して駐車スペースにという案は、どうやら引っ込めてもらってホッとした。が、総会関連の議題は多く、結局終ったのは4時20分だった。目がチラチラ、喉はゼイゼイ、足まではふらつかなかったが、すっかりくたびれて帰宅した。

 おかげで、イラク3日本人人質問題について落着いて考える暇がろくにない。



4月7日  旧友再会

 昨日は、先月の東京鯱光会で40年ぶりに出会った高2時代の同級生・脇田昌二君と、銀座で会った。彼の行きつけの、魚のうまいこざっぱりした小料理屋である。

 松江出身のあるじが日本海もの中心に集めたという生きのいい魚がずらりと並ぶカウンターに座って、ノドグロやらメダイなどの刺身や煮付けを食べながら飲む島根の酒がまた旨かった。

 脇田君は元銀行員、今はファイナンス会社の代表取締役副社長で、裕福そうだ。一昨日まで台湾でゴルフをしていたという顔は健康そうで、髪も真っ黒、腹も出ていず、実に若々しい。横に座っていると、こちらの白くなった鬢が気になった。

 むかし彼とは確か浪人中に彼の三河の山中の実家を訪ね、離れで一晩、飲めない大酒を飲み、完全にダウン、翌日一日、生れて初めての二日酔いで頭がズキズキしたことなどを思い出した。

 それに面白いのは、彼の娘さんが今、わが日芸の映画科に来ていることだ。むろん偶然だし、奇遇というべきであろう。そのうち顔を合わせるのが楽しみである。父親にどのくらい似ているか、どのくらい感性や生き方が違いそうか。歳をとると、こういう楽しみも生じるのが愉快だ。



4月5日  清明過ぐ

 昨4月4日は24節気中の清明だった。名前の通り、気候清明の時というわけで、中国や沖縄では清明節としてお盆以上の祝いの日だ。
 あいにく、関東では雨が降り、終日冷たい日となったが、今日は一転、清明な日和である。
 この日記の4月以降の第9章を「こころ清新」と名付けたことと、昨日今日の天候からそのことを思い出した。

 ついでに章名の下のカットを当初は新車の写真にしようかと思っていたが、友人秋山祐徳太子の作品写真にすることに変更した。この写真はこのHP「小説」欄の下部に載せていたのだが、場所のせいでめったに人目に触れていないようだったからである(そっちの方が画像が大きいからちゃんと見たい人はそっちをどうぞ)。秋山さんの明るい高音の話し声が浮ぶ。

 今日は本当に天気がよい。雲一つない。
 もう半ば以上散った桜の花が、青空にはえている。



4月3日  新車初乗り

 1日に納車されたトヨタランクスに、1日は近くのうどん屋まで、2日は初めて高速に乗って森林公園近くの山中まで行った。

 エンジン音静か、バックミラー大きく見易し、バックモニターが付いているのでバックが下手な私には大安心。カーナビ付きなので、向うで道に迷ったときも道筋がすぐ分り、重宝だった。

 ところが、帰途、「自宅へ戻る」と(助手席のパートナーが)設定したつもりなのに、ナビの指示は右へ行くべきところを「左へ」とか、折れるはずもないところを「右折」とか妙なことばかり。おまけに、かけたCDが、2曲目から音がとびだし、止めてCDを出してみたら、何か薬品でも飛び散ったか、高温でもかかったかのごとく一面に変色し汚れていた。

 帰宅後、ディーラーに来てもらったら、どうやらナビに関してはこっちの操作ミスらしいと分ったが、CDに関しては全く不明。結局、現物をディーラーが持ち帰り、調べることになった。
 せっかくの初乗り、おかげでどうも気分晴れぬものになったが、新しいことにはこういう初経験も付随するということかしらん。



4月1日  新学年度始まる

 本日、新年度第1回の教授会が開かれた。江古田、所沢両校舎で新校舎にまつわる起工・竣工がなされる予定の、色々変化がある年度の始まりだ。
 わが文芸学科でも学科主任が10年ぶりに替わるなど新しい体制がスタートする。

 私も今年から大学院で創作講座を持ったり、学部で3年ゼミを持たなくなるなど、それなりの変化がある。どんなふうになっていくか、始めてみなければ分らぬが、新しいことは楽しみでもある。うまくいくかどうか、新しい出会いがどうなるか、やはりいくつになっても心ときめく面がある。どうか面白い、魅力的な学生諸君が来てくれますよう。

 このHPの「大学あれこれ}欄に学科の新体制情報を若干書いたので、学生諸君は見てちょうだい。