風人日記 第十章

朱夏

  2004年7月1日〜

2004年7月4日 奥秩父・両神村 丸神の滝(全長76m)
 夫馬撮影






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



9月30日  台風一過、これで「朱夏」も終る

 3ヶ月前、暑さからこの日記第10章のタイトルを「朱夏」と思いついて命名した。日が経つにつれまさにその通りだったわけだが、さすがに9月中旬からは、そぐわないかなと感じ、この章は早く切り上げ、11章にしようかと思ったりしたけれど、その途端また暑かったりして、このまま来てしまった。

 だが、昨日から今朝への台風通過で完全に秋空になった。気温も涼しく、昨日は上着を着て出校した。今日もそうなるだろう。
 学校も授業2週目で軌道に乗り、学生諸君も早まった日没と共に「勉学の秋」気分のようだ。

 中国雲南地方をさすらっていた学生もどうやら無事帰国したようだし、ホッとした。
 そうそう、私の長篇も十日前に脱稿、完成した。625枚。さあ、あとはどうなるか。



9月27日  秋雨

 昨日今日と2日続けて雨である。かなり強く降るときもあるが、多くはしっとりした小糠雨、霧雨で、やわらかい。
 涼しくなったし、これで残暑もほぼ終るだろう。長い暑い夏だった。



9月25日  1年生やるぞ

 今週、4年を除く他の授業を一通り再開した。その結果、1年が一番元気だった。
 私は各学年ゼミで毎年夏休みの宿題として、@本を5冊読むこと、A映画・芝居を5本見ること、B美術展・音楽コンサート・写真展など他の表現を5つ見ること、C旅を1週間以上、出来れば外国、国内なら自転車旅行、お遍路など手作りで試みること、を出しているのだが、今年の1年は実によくやったのである。

 まだ全員聞いたわけではないが、昨日報告を聞いた5人のうち、大半が本も映画も実によく挑戦していたし(新芥川賞・直木賞作や村上龍のもの、華氏911などちゃんと手を出していた)、旅に至っては、感心するほどだった。

 まず1番バッターが内モンゴル・フフホトへバイオリンを持って出かけ、現地のモンゴル民謡を聴いてまわる旅をしたという。うまいのもさほどでないのも色々あったらしいが、直接聞き、時に一緒に合奏したりしたというから、いい旅だったろうと瞼に浮ぶようだった。

 次が女性二人で、この日欠席の更に二人と計4人のゼミ同級生で、5泊6日ソウルの旅をしてきたそうだ。「安いチケットの都合で1日足りなくなりましたが」というエクスキューズも初々しく、しかしチケット代は飛行機・ホテル代全部込みで6万円、添乗員・ガイドの類は一切なし、完全自由ツアー、ただし現地で何かあったときは連絡できるシステムと聞いて、女の子たちなかなかやる、と感心した。

 タクシーでぼられたりもしたようだが、いろんな人と接して涙ぐむこともあったとか、「ナンタ」というキッチン演劇・演奏(?)を見たり、美術館巡りをした報告も充実していた。ヨン様ブームのあほらしさもちゃんと見届けてきたようだ。

 4人目は家族にくっついてロンドンに行き、しかし出来るだけ宿題を実行しようと、一人でナショナルギャラリーや大英博物館を見てまわったという。ちゃんとおみやげを買ってきて全員に配ってくれた。

 5人目はどうも旅はあまりしなかったようだが、代りに本や映画、音楽は相当こなしたようだ。音楽サークルの合宿では酒も明け方まで何回も飲んだらしい。彼は2浪組で歳がいってるから大いにやればいい。

 それに比し情けないのが2年生で、ひとり、映画を30本くらい見たという話を除いては、本は3冊しか読まなかったとか、隣県のお祖母ちゃんちに行ったとか、友達の車に乗せてもらって九州を半周りしたとか、ろくなものがなかった(九州半周りは、まあいいか)。

 1年の時はまじめに、本気でやろうとするが、2年になるともう「先生の言うことなぞどうせ罰があるわけじゃない」「大学生にもなって夏休みの宿題なんて」と途端にだらけだすのである。
 フム、理解はするが、1年の方が充実しただけ、やはり当人自身がよかったんじゃないのかねえ。



9月23日A  後期授業開始

 21日から後期開始、わが授業も昨22日に再開した。
 院生の中原君は、夏休み中、もっぱらビデオで自主映画製作をしていたとのこと。自分で脚本監督を担当し、演劇科の諸君に俳優を、音楽科の友人に音楽を依頼、という具合に、芸術学部である特性を生かしたやり方のようだ。

 それが一番なのだ。芸術総合学部である日芸は、そういう利用の仕方がベストなのである。もともと映画自体20世紀に出来た第7芸術ーつまり音楽、美術、文学、演劇、写真、などを総合した芸術なのだから。

 予算は2時間もので50万円プラス宣伝費20万円と聞いて、これもヘーエと思った。ビデオならではの低価格だ。昔みたいにフィルムなら、フィルム代、現像代などだけで、はるかに高くなるだろう。

 創造意欲のある若者にはいい時代になったものだ。日芸は特に恵まれた環境にある。みんな、どんどん映画を作るといい。なんといっても多くの人の目に触れやすい、力のあるメディアだから。

 もう一つの授業、連句の方は、夏休み明け単発句会ということで、俳句による「夏休み」句会を行った。夏1句、秋1句の句をその場で全員が作り、板書し、選句、投票、披講まで行い、全体の天・地・人を決めるやり方である。

 なかなか面白い句もあった。

  屋根も飛び母も飛びけり台風圏      白坂みえ
  
 確かに凄い台風があった。それにしてもこのお母さん、どこまで飛んでいったのか。作者は鹿児島が実家である。
 ともかく夏は終り、勉学の秋が始まった。



9月23日@  若干の訂正

 以前8月27日付けで、満州のことについて、「満州という地名や満州族という言い方はない」と書きましたが、誤りでした。満州という言い方は後金から清時代にかけ、旧女真のことをそう言い換えたそうです。それにつれ女真語を満州語ともいったようです。
 以上、訂正まで。8月27日の記事もその部分、書き直しました。



9月20日  どうにか回復 原稿を仕上げに

 下に書いた腹痛、その後18日夕食後また少々ぶり返したが、腹を温め、鎮痛剤を飲んだら、収まった。どうやらもういいかと少し飲んだビールが腹を冷やしたためらしく、ゆえに病名はやはり膀胱炎だろうと思えた。

 たぶん個人差があるのだろう、私の場合は血尿は出ないが、激痛が起る、ということらしい。これで経験則は十分記憶したので、今後はもう慌てず済むだろう。

 一昨日昨日と2日完全に休んだ甲斐あって、今日は体が何やら軽く好調、気がかりだった原稿もスムーズに進み、ほぼ仕上がり模様となった。やっぱり健康が一番、病気というのは、疲れすぎだ、休め、という信号なのだと改めて感じた。夏ばてもあったのでしょう。
 もういい加減、すずしやかな秋になってほしい。



9月18日  激痛

 今朝明け方、膀胱が張ったような気配にトイレへ行くと、尿の出が悪く、かつ便意もあるようであまり出ず、次第に下腹部が痛くなってきた。

 一旦寝たが、まもなく更に悪化、右下腹部に移動して激痛となった。虫垂炎かとも思ったが、2年前ロンドンで生じた症状と似ている気がし、あれこれ思い出そうとしたが、痛くて脂汗が出、思考力もなし。

 パートナーは救急車を呼ぼうかとまで言ったが、早朝だし、どこへ連れて行かれるか分らず、かつかねがね医者に対しあまり信頼感のない身は、どうもその気にならず。現にロンドンの医院では不快な思いをしたことも思い出した。

 で、『家庭の医学』を見てもらい、一つ一つ可能性を検討。どうやら虫垂炎や胆石、結石の類ではなさそうと判断し、それなら結局、鎮痛剤と抗生物質を飲んで安静にしている以外なさそうと考え(時間もまだ7時前で通常の医院は開いていない)、少しだけ食べ物を胃に入れ、ロンドンで処方された薬を飲んだ。食欲は多少はあった。

 そしてともかく寝た。
 痛みはだんだん引き、8時半頃にはほぼ収まった。通じも少しあり、しかし不十分な気がしたので、乾しプラムを促進剤として食べたら、まもなく排便。さっぱりした。尿の方もほぼ正常化した。

 ひょっとしたら前夜のこんにゃくが原因の腸閉塞かという気もしたが、むろんはっきりしない。言えることは結局、暑い夏中ずっと、間に満州の旅を挟んで書き続けた疲労のせいだろうとなった。昨日現在618枚。これはやはりかなりの量だ。

 昨日ぐらいまでは、オレも年の割にまだまだ元気と自信を持ちかけたところだったのに、いっぺんでギャフン。やはり健康が第一と思い知った日であった。



9月15日  長篇第5稿

 暑さのなか、ずっと書き続けてきたのが、いよいよ最後の山場にさしかかった。ここをうまく書ききれるかどうかで、今回の正否が決まろう。ゆえに緊張するが、しかし緊張しすぎてもいけない。
 ほどほどに余裕を持って、闊達に筆を運ばせたい。

 枚数は600枚を超えてきた。最終的には何枚になるか。わが作としては過去最長である。
 長篇執筆は体力がいるが、歳をとって最長作を書けるのは、まだまだ元気の証拠とも言えよう。なんだか少し自信がついた。ただし、うまく本になればの話だが。

 すっかり秋風が涼しくなった。昼間でも窓を開けておけばほどよい気温である。クーラーが要らないのが、何より有難い。おかげで、体調もよい。
 土手でも歩き、稲刈りのほぼ終った田圃を愛で、彼岸花の真っ赤さを味わいながら、小説の終結部を考えよう。



9月13日  風人連句会秋の陣 AO入試2次審査

 昨12日、小石川後楽園涵徳亭で秋の連句会が開かれた。常連の連衆が西湖と白堤まで模した池の見える和室で、ちびちび飲んだりつまんだりしつつ、歌仙の続きを巻いた。
 連衆は冬狸、代志朗改め花蹊庵、野住、玲、南斎。

 結婚したての玲君ら若い女性が意気盛んだったのに対し、中年・初老男性は欠席者が多かったせいもあり、どうも元気出ず。今年のうち続く暑さのせいもあろうか。老年は暑さに弱いのである。夜は早めに帰ったのに、ぐったりしていた。
 結果はこのHP歌仙欄に掲載しました。御覧あれ。

 今日は午前中、原稿の続きを少しでも進めようと書いたのち、11時頃大学へ向った。AO入試の審査のためだが、これがこの間読んだ27編平均30枚くらいの長さの小説とも創作ともつかぬものを審査する仕事で、かなり草臥れる。

 それでも高校生諸君は一生懸命だろうと、9名の教員全員手を上げたり下げたり、何とか6篇を選んだ。あとはまた第3次試験で更に選抜する。
 このごろの入試はいわゆる一般入試(従来の学科試験入試)のほか、このAO入試や校友会入試、付属推薦入試など多様化したので、教員も楽ではない。

 何とか才能のある、個性的学生がほしいゆえだが、少子化の折から、なかなか思うに任せないのが実状だ。文芸科の場合、いい文章を書けそうな子ならどんどん採用しますよ。奮って応募して下さい。



9月11日  秋風ぞ吹き 稲穂刈らるる
 
 昨夜は涼しくやっとクーラーなしで眠れ、今日また終日クーラー要らず。窓外の田ではすでに稲刈りが進み、本日夕現在、ほぼ7割が終る。

 久々に寄居の「かんぽの湯」に行き、湯上がりに15分ソフト整体なるものを頼むと、肩から右腕にかけてずいぶん凝っていると言われる。ずっとパソコンを使ってますと答えると、本当は30分やった方がいいと言われる。

 がまあ、15分でも心地よく、少しボーっとしながら、これも久しぶりの車で関越道を帰る。高速は7月以来である。中国東北の意外に整備されていた高速道路を思い出した。旧満州では毎日朝から一日殆ど車に乗りずめだった。あれもずいぶん疲れた。

 今となってはよくもったと思うが、代りにパートナーは帰国後1週間風邪を引いたし、そのあと私も風邪をぐずつかせた。どうやら治ったが、やはり満州、そしてそのあとすぐの仕事のせいかもしれない。もう無理はきかない。



9月9日  どうもぐずつく

 風邪もいささかぐずついているし、今日から涼しくなるといっていた天気もまだ暑くぐずついている。夜、クーラーなしで眠れれば風邪などスッと治るのに、クーラーを消すと暑くて汗をかく、の繰り返しで、すっきりしないのである。

 もう一つ、新しく使っている赤ペンによる書き直し表示可能な(つまり従来の黒ペン原稿に直したところだけ赤字で表示される)エディターソフト「超漢字プロセッサー」の疲れもある。書くのはどうにか出来るのだが、今もフロッピーに保存するのにまたしてもメーカーにまで電話してしまった。上書き保存と言わず、いったん削除して新規をドラッグする形になるので、迷ってしまうのだ。

 いろいろ早くさっぱりしたい。



9月7日  風邪、どうにか乗り切れそう

 土曜ぐらいからやや風邪気味、しかしあまり閉じこもってばかりもと思い、日曜日にちょっと散歩に出たら、折悪しく雨となってからだが冷えた。傘は持っていたが、どこそこ湿り、気温も下がった。

 で、昨日は少し熱っぽかったが、熱を測るとかえって意気阻喪しそうなので、測らないまま頑張って長篇の5稿を直し続けた。
 夜も風呂を控え、赤肉(昔なら犬だったのだろうが、今はビーフである)を食べ、酒を飲んで8時には寝た。

 都合約11時間半眠って起きたら、どうやら9割方治っている感じ。これなら何とか乗り切れそうだ。むろん、仕事はちゃんと3時までやった。
 このところ使いだした超漢字プロセッサーというエディターソフトが、少々気骨が折れる。むろん、利点あればこそ始めたのだが、新しいものは何でも習熟するまで時間がかかる。



9月4日  母、米寿

 田舎の母がこの8月に満で88歳を迎えた。
 昔なら大変な慶事である。子供時代住んでいた村では、米寿の人など一人かそこらで、村中に赤飯を配ったりした。

 今では、女性は平均寿命が87歳だから、珍しくもなんともなくなったが、やはり祝いのプレゼントくらいはと思って、満州へ行っている間も心がけた。当初、座りやすい中国椅子でもと思ったが、大きな物なぞは今さら不要だと母が言うし、結局食べ物かと探したが、中国からわざわざ送るほどの物は地方都市では見つからなかった。

 で、日本から、それも地元の志木の丸井で見繕うことにしたのだが、結果はチーズの詰め合わせとなった。金1万円。今や一人息子となってしまった働き盛り(といっても還暦だが)から米寿の母への贈り物としては少額な気もしたが、今朝、母からいい物を有難うと電話が来た。

 多いから、食味期限内に食べきれるかと心配だそうだ。ま、冷蔵庫にでも入れ、柔らかい順に食べていってちょうだい。



9月2日  超漢字プロセッサー 所沢文芸棟竣工

 中沢けいさん御推奨の超漢字および超漢字プロセッサーを8月に購入していたのだが、いよいよインストールしてみた。最初12インチの古いパソコンに入れてみたのだが、画面に合わせると字が11ポのものしか使えず、老眼には見づらい。

 で、やむなく、ふだん使っているソーテックの14インチの方に入れた。大きさは丁度いいが、だいぶ古くなっているうえ、HPやらメール、ネット関係、エディターといっぱい使っている機械は、ただでさえこのごろ疲れ気味で、しばらく使っていると「ジー」と音がし出すようになっていた。

 そこへ、更に区画分割したうえに、かなりの容量を使うことになるので、すぐ「ジー」といいだし、加熱する。ほんとにきちんと使えるかまだ心配だが、とにかく明日からは、第5稿に入ることになった長篇の直しに使う予定だ。

 この超漢字プロセッサーを使うと、直した部分が赤字で書け、印刷もそうできるので、編集者に見せるにもどこをどう直したか一目瞭然である。600枚もの長さのものになると、少し直しただけなのに全部を読み直すのは大変だから、何とか間に合わせようとこの超漢字を入れたのである。

 さて、大学では、所沢校舎に初の文芸科専用棟が完成し、竣工式となった。
 初めて入ってみた建物はさすがに真新しく、広く、コンピューター室や資料室も整い、研究室も広々し、快適そうである。窓の外の景色もいい。木々や畑など緑が多く見える。

 後期からが楽しみだ。



8月29日  偽(ぎ)満州国のこと

 台風16号のせいで雨が降って涼しく、やっと頭がクリアーになってきた。

 そこでぼつぼつ旅の話だが、今度の旅には二つの大きな特徴があった。
 一つは旧満州国の歴史的事跡を訪ね歩くという目的、もう一つは沖縄大客員教授又吉盛清氏(旧日本植民地研究家)主催のツアーへの特別参加なので、メンバーの大半が沖縄の人たち、という点である。

 つまりこの旅は、私にとって満州と沖縄の二つに同時に身近に接しうるものだったわけで、それが一番面白かった。

 それは具体的には旅順の日露戦争戦跡から始まって、大連の旧満鉄本社跡、日本人街、旧監獄跡(伊藤博文暗殺者安重根処刑場)、旧ヤマトホテル(現大連賓館。我々はここに泊った)など、次々と訪れながら、同時にそれらに対する沖縄の人たちの反応が肌で伝わってくるということなのであった。

 大連の次の瀋陽(旧奉天)・撫順では、9.18事件(満州事変)後の日本軍による中国人村約3000人皆殺し「平頂山事件」の殉難遺骨館、撫順戦犯管理所、それについ先だっての北朝鮮脱北者の駆け込み事件現場・瀋陽日本領事館などへ行ったのだが、そのたび自らも沖縄戦による戦争の悲惨を知る沖縄の人たちは、あるいは悲嘆の声を上げ、あるいは声もなく静もり、あるいは「さあ、駆け込み体勢に入りましょう」などとユーモアたっぷりに声を飛ばすのだった。

 圧巻はハルビンから更にバスで3時間半のチチハルよりまた小1時間離れた、もはや蒙古地区と言っていい旧開拓地を訪ねたときであった。ツアーメンバーの中に72歳の山城さん(男性)、73歳の宮里さん(女性)という二人の旧開拓民がおられ、13歳から15歳前後の時の悲惨な体験を自ずと口をついてほとばしるように話されるのだった。

 ことに宮里さんは、両親、妹をチチハルの収容所で喪い、地獄を見たのち、孤児となって1年後、両親・妹の骨をあり合わせの紙箱に入れて引き上げたというのだが、その両親の顔を思い出そうとしてもどうしても思い出せないというのである。

 14,5歳なのだから通常なら憶えていないはずはないのに、たぶんあまりの悲惨に会うと、人間はその部分だけ記憶がぽっかり空白になるのであろう。遺骨はあれど、顔はなくなっているのである。

 満州引揚者の悲惨ぶりは、少年時代以降、いろんな形で目や耳にはしてきたが、こうして当事者の口から直接現地で聞くと、60年近くもたっているのに、その光景がまざまざと目に浮び、当時2歳で比較的平穏な内地の故郷に疎開していた身にも涙はにじむのだった。

 しかも、眼前は地平線までつながる一面のとうもろこし畑、プラタナスに楊樹の並木、ゆっくり歩む牛の群、小さな雑貨屋に駄菓子屋ふう2軒ほどのある大半が泥製二間ほどの小さな家の小集落であり、まことに牧歌的にして茫々たる風景なのである。

 平和そのものとも言え、静かで、そして集まってきたモンゴル系ダフール族という村人ら―かつて日本軍に一方的に住んでいる自分の家と土地から追い出された人々たち(山城さんの知り合いはまだ現存していた)が、質朴で人なつっこく、沖縄の人たち(それは自分たちの家を奪って住み、やがて難民となって去っていった開拓者たちの仲間だ)とすぐ仲良くなって、一緒に彼らの踊りと唄、次いで沖縄の唄と踊りを輪になって踊ったのだった。

 不思議なことに、それらはどこか唄の節回し・こぶしが似、踊りの手振り・動きも似ているのだった。本当にそうなのである。
 数年前、嘉手納基地の騒音訴訟で得た補償金20万円を、この村の旧友の息子・娘の結婚祝いとして贈ったという山城さんが、それを泣きそうな表情で見つめ続けていたのだった。



8月28日  留守中の後始末、偽満州国を駆逐する

 今日は朝、荷物が宅配で着いたため、洗濯物の整理から始まって、残務処理あれこれに時間を費やした。
 次いで、局留めだった郵便物も着き、同じくその整理。
 留守中の新聞も袋入りで配達されているので、そっちもざっと目を通していく。

 昨日のメールと合わせて、これでほぼ一段落だが、そういえばメールは99通中90通ほどが、41kbとか42kbの添付ファイル付き怪しげなものと2kb前後のアメリカからとおぼしいもので占められていた。前者はたぶんウイルスメール、後者はニューヨーク株のすすめ、クスリの販売、ポルノのすすめなどのいわゆるゴミメールである。

 アメリカゴミはどうも3年前ニューヨークに行った際、どこか(たぶんチャイナタウンの小博物館)で自分のメールアドレスを書いてきたせいではと思えるが、前者はさっぱり思い当らない。ただし、これもどうも最初の発信元はアメリカだった可能性があるが、このごろは日本のプロバイダー発で来ているものが多いから、よく分らない。

 念のためと思って、ノートンのワクチンだけはすぐ最新に更新しておいたが、どうも気になる。メールの中には「Delivery( fuma@ー私のメアド)」となっているものがいくつもあるのだ。
 これは一体何かしら? 知っている人あったら、教えて下さい。

 偽満州国報告は、こういうあれこれのせいでどうもまだ書く気になれない。



8月27日  帰ってきました

 本日午後3時半過ぎ、10日間の満州の旅から帰ってきました。そうそう、満州は向うでは「偽満州国」と言うことを知りました。確かにその通りかも知れません。満州国はまさに日本のでっち上げ国でしたから。満州国には戸籍すらなかったようです。満州国の運営は殆ど日本人が行っていたのに、日本人で満州国民である者は一人もいなかったのです。

 面白かったけれど、気候だけは期待はずれでした。涼しいかと思いきや、連日カンカン照りで、日傘を差して歩く日々でした。だいぶ日焼けもした模様。
 ただし、大連だけは海風があって、涼しかったけれど。北のハルビンなぞは32度だった。

 今やっと一風呂浴びて、文字通り旅の埃を洗い流したところ。まだ頭がボーっとしていて、思考力なし。
 今日はとりあえずこれにて失礼。明日にでも詳細報告しましょう。



8月17日  すずしやか 明日出発

 15日日曜がえらくすずしかったせいか、以降だいぶ過ごしやすくなった気がする。昨日なども半分以上はクーラーなしで過ごせた。夜も同様である。
 このまま秋の気配になっていくのかなとチラと予感する。

 満州の方は北京秋天ならぬ満州秋天だといいと思いつつ、明日出発する。今回は連日の移動だし、期間も10日間だから、パソコンは持参しない。ゆえに、この日記も27日まではお休みする。

 ただし、現地情勢探査を兼ねてインターネット喫茶などがあったら入ってみるつもりなので、掲示板には書き込むかも知れない。皆さんの方もご用があれば掲示板にどうぞ。
 では、行ってきます。



8月15日  敗戦記念日である 心は満州へ

 テレビがオリンピックと共に、このところ戦争特集をしている。古山さんらの龍陵会戦についで、昨日は特攻隊員らの最後の挨拶録音を放映していた。元気、朗々たる声で、死に赴く決意を語る二十歳前後の若者たちの声声。暗然たる気分になる。

 満州の映像もいくつか出、非農民の開拓団が、文字通り生き地獄をさまよったさまや、開拓民総計28万人中10万人が死んだことなどを改めて思い知らされた。しかも、満州だけでも10年や20年持たせるといっていた関東軍は、彼らを無断で放棄し、真っ先に逃亡していたのだ。

 沖縄でも、日本軍は住民を守ろうとしなかったし、旧「不滅の皇軍」はそういう軍隊だったのである。軍が悪かったのか、日本人全体がそうなのか、あるいは人間というものがそうなのか、よくよく考えてみる必要があろう。



8月13日  第4稿上がる 満州の準備

 今日、ついに長篇第4稿が終りに到達した。400字詰め原稿用紙に換算して585枚。タイトルも変え、第3稿から82枚増やし、ストーリー的にもかなり膨らんで、終局となった。
 手応えもよし。かなりの満足感がある。

 あとはもう一度見直し、月曜にプリントアウトし、待っていてくれる編集者に送る。
 結果はむろん未知数だが、ともあれ目下の人事は尽くした気分である。具体的に書き出したのは去年の2月だったから、結局1年半かかっている。間に十二指腸潰瘍、腰痛があり、かなりつらかった。

 来週水曜の18日からは「旧満州日本植民地事跡の旅」に出かけるから、ぎりぎりタイミングが合った。これで心おきなく出かけられる。荷造りはもちろん、まだ準備を何もしていないのだ。明日午後あたりからそれにかかろう。

 今晩はこれから、NHKスペシャルで古山高麗雄さんの戦争体験を見る。一昨年、「イン・プリズン」という短篇(このHP小説欄にUP)に書いた戦中派作家である。中国・雲南の龍陵会戦で生き延び、ベトナムで戦犯として獄中にいた。
 どうもこのところ、戦争についている。
 


8月11日  教職員旅行

 昨日今日と鬼怒川温泉へ1泊の教職員旅行だった。参加者160人余となり、現地集合現地解散のシステムだが、行き帰りの列車も周りには誰かしら知った顔がいる状態になるから、ま、2日間、勤め先の延長となる。

 夜は大宴会場での飲み会、隠し芸大会、2次会はカラオケとお定まりの手順となるのだが、専任教員になったのが53歳になってから、それまでは20代以来ずっとフリーの貧乏物書きだった身には、こういうもの自体が物珍しい。

 芸術学部という場所がら、隠し芸とはいっても演劇科や音楽科などの若手助手副手諸君などからは、本格的な芸も飛び出す。演劇科日舞コース出身女性の踊りなど、さすが色っぽいものだった。

 日頃あまりざっくばらんな付き合いのない事務方や他学科若手などの生態もだんだん垣間見えてくるし、同学科者も部屋で遅くまで飲んでは歓談となって、交流の場としては確かに得難いものだ。

 困るのは、同室者に大いびきの主がいたり、就寝中のクーラーが利きすぎていたりの類で、おかげであまり快眠とはいかなかった。帰宅した午後の今も眠い。それに、気分転換、楽しみには確かになったものの、どこか疲れもしている。

 たぶん、社員旅行とか勤務先の旅行というものはこういうものなんでしょうね。功罪両面有り、単純に良し悪しを決定できず、ないよりはあった方がいいか、といったところ。
 思えば、私がこの種のものに参加するのはたった2回目。人数的には高校の修学旅行以来であった。



8月8日  休む そしてアジア杯サッカー

 長篇第4稿は、土曜の午前で最後の山場にさしかかってきたが、方針通り土曜は半ドン、日曜は終日休日にする。
 それで、夜はサッカーを見た。

 中国人観客の反日感情、厳戒ぶりが話題だったからだが、見出したら試合も面白くて、ついに最後まで観てしまった。こういうことは思えば何年ぶりかである。世界カップのときも終始見た試合はなかったし、それ以前もずっと記憶にない。

 よくよく考えると、中学時代、学校で中学対抗試合を見て以来かも知れないと思った(確信はない)。当時は体育の授業で自分自身サッカーをやっていたせいもあって、かなりのファンだったのだ。

 おかげで、今でも試合運び等はおおむね理解できたが、ただ一つ、当時も今もよく理解できていないことがあるのに気づいた。「オフサイド」というルールである。
 あれは攻撃側が、ディフェンス側の裏側に何人以上かが行っていてはいけないということだったかしら? 
 
 そこがよく分らない。試合中も何回か用語が出てくるたび、目をこらしたが、結局分らなかった。誰か、知っている人、教えて下さい。



8月5日  ずっと書き続ける

 気がついたら前回から4日もたっているんだねえ。こういうことは珍しい。
 やはり、夏休みはいい。執筆に集中できる。この間、人間ドックの診断結果やら、江古田文学会やらとそれなりにあったが、もう殆ど忘れている。

 ドックは血糖値やコレステロール値が高いとかいつものごとくあれこれあるが、昨年問題だった胃は何ともなさそうなので、ホッとし、同時に忘れてしまった。
 江古田文学の方は、初めて会員の何人かに会ったり、江古田文学賞選考委員として若干の方針説明などをさせられたが、これももうあらかた意識から消えている。

 書くだけだ。山場にさしかかってきたし、肩も張っている。
 これからほぐしの散歩。他は考えない。



8月1日  終日一歩も出ず

 今更いう気もなくなったが、とにかく暑くて、少しは運動せねばと思いつつ、熱中症になってもと気が引けてしまう。
 で、結局、パジャマのまま、ついに部屋から出ず。

 カウチに寝ころんで、終日資料を読み続けた。新書一冊読了。2冊目も少し。
 あとは急に気づいてカーテンを洗濯。黒づんでいたのが、軽く爽やかになった。昨日は志木のダイエーに出かけ、レースのカーテンを新調したし、部屋がずいぶん明るくなった。

 家にいる時間が多いと、忘れていた身の周りに意識がいく。
 そうして、レースのカーテン越しの月はフルムーンだった。



7月30日  仕事 そして若い衆と飲み会

 昨日は、台風で土砂降りになったり、と思うとぴったりやみ、青い晴れ間が出来る天気の中、日中は書き続け、いささか迷ったのち夕方から家を出た。

 2年ゼミ生との飲み会のためだが、江古田駅南口に着くと、東京は大した雨もなかったらしく、傘を持っていない諸君までいたので、不思議な気分だった。

 飲み会は10数人、あまり飲めない女性などもいたが、まずまず皆闊達に飲んだ。真っ青な色のタイタニックとか臙脂色のラブレターなぞというカクテルを飲む者がいたりする反面、刺身を頼んだりする者はまずいないので、大人の飲み会とはだいぶ様相が異なる。

 日頃にぎやかな子たちが欠席したり、授業はめったに出ない者がちゃっかりやってきたり、教室とは違う様子が出るのも面白い。女の子が男から「お母さんに預けときなさい」と煙草を取り上げたり、男が妙に素直にそれに従ったりするのも面白い。

 結局2時間飲んで、勘定をしたら、全部で2万ちょっとと実に安いのにも驚く。駅から5分ほど離れた道の向う側だったせいだろう。
 私は翌日の仕事もあるので、これで帰ったが、若い衆たちは更にカラオケに河岸を変えて、歌いまくったらしい。



7月28日  人間ドック AO入試 学科会議

 昨27日はまず7時に検便用の採便をし、朝食は抜きのまま、7時半に家を出、8時半過ぎから、新宿の某生命健診センターで人間ドックに入った。

 ここはほんのちょっと料金が高いが、その分看護婦さんらの人手が多く、待ち時間も少なく、不愉快事が少ないので、昨年から採用している。
 ただし、診断は必ずしも正確とは言えない。昨年は胃にポリープがあると言われ、紹介された病院で胃カメラを呑んでみたら、ポリープではなく十二指腸潰瘍だった。

 その治療後の検査が未了のままになっているので、今回の検診結果次第ではまた胃カメラを呑まねばなるまいと思っている。その気分が緊張を呼んだのか、あるいは暑さのなか慣れぬラッシュ時に駆けつけたせいか、最初に測った血圧が例年より上下とも20ほども数値が上がっており、心拍数にいたっては100もあった。これは一体何か?

 胃のレントゲンや超音波内臓検査も、気のせいかだいぶ長めで、何やら気になったが、まあとにかく2時間足らずで終るには終った。あとは、1週間後の結果待ちである。この期間が何となく入試の発表を待つような気分で、落着かない。

 そして遅い朝食をとってから大学に行くと、今度は本物の入試である。
 といっても通常の一般入試ではなく、AO(アドミッション・オフィス)入試といって、学科試験ではなく特技中心での入試だ。芸術学部文芸学科としては、当然文章がうまいかどうか、何らかの実績があるかどうかなどが審査対象となる。

 応募55通のエントリーシートを9人の教員全員が全部目を通し、合議の上、1次通過を決定したのが2時間後だった。

 そうしてそのあと、すぐ学科会議。これも夏休みを控えて最後のものだし、9月初めには所沢校舎で新文芸棟完成・引越しがあるので、やるべきことは多い。更に番外の難問なぞも出来(しゅったい)し、会議は延々と続いた。

 私は5時に人と会う約束があったのを30分延ばし、それでもまだ終らず、ついに中座となった。あとで聞くと、会議はまだしばらく続いたそうだ。それを聞いたら、聞いただけでまた疲れた。ああ、暑さのなか、大変な日だった。



7月25日  久々に温泉

 大分夏ばて気味なので、とにかく温泉にと、例の紀元前数万年の海水温泉を求め、埼玉・群馬県境の神流川岸に行った。手前が埼玉県神川村で、以前行った赤い「白寿の湯」がある。対岸が群馬県鬼石町で、八塩温泉がある。

 地形、塩という名前から多分と見当を付け、3軒ある旅館のうちその名も神水館という宿の湯に入ってみた。
 当たりである。温水、冷水2槽ある湯舟のうち、冷水の方が白寿の湯ほどではないが薄赤く、しよっぱく、まさに同系統。温水の方も色はほぼ透明だが、完全に塩水。

 その二つを交互に入るといいというので、その通りにする。温水はかなり暑いし、空気も暑いから、冷水浴も気持がよかった。が、やはり温水みたいに湯の成分がしみこむという感じにはならない。

 ウーム、前の湯の方がよかったかな、ただし、白寿の湯は銭湯ふうで人が多く、雑ぱくなのが残念だったが、などと思いながら、川を見下ろす、風情も景色もいい、人の少ない静かな、一見大正ロマンふう昭和6年建築の和洋折衷サロンで、ジンジャーエルを飲んで帰ってきた。

 帰宅すると、ばったり2時間近く昼寝となった。まだボーっとしている。今、午後4時45分なり。



7月23日  暑くて何も思いつかず ただ書く

 昨日は午後、学校で会議が二つあり出校したが、それ以外はこの4日間ほとんど家から出ず。いや、今日などは完全に一歩も出ず。
 理由は要するに暑いからだ。

 散歩ぐらいしなければと思いつつ、運動も室内で腕立て伏せと竹踏みのみ。
 あとは書き、読み、そして眠るのみである。寝る方は昼寝、夕食後寝(?)、本寝、とひょっとしたら全部で10時間くらい。

 子供時代みたいだが、それくらいでやっと体が保てている実感があるのは、歳で体力が落ちたのか、それともそれだけ暑いということか。熱帯の人たちがボーっと暮しているらしい様相がよく理解できる。

 でも、短時間であれ集中は出来る。ゼロを発見したのもインド人だ。



7月20日  やっと執筆体制に 夜は満鉄の記録映画

 1ヶ月以上前から考えはじめ、まもなく長篇の第4稿を書きたくて仕方がなかったが、ずっと資料読みに追われていた。この間に読んだ本はかなり厚手のものを含め12冊ほど。それに、大学の授業や雑務も忙しく、なかなか時間がとれなかった。

 というか、学校がある間は週3−4日はそちらに時間をとられ、体力の問題もあり週1日半はやはり休息日がほしいし、となると残る時間は週2日ぐらいで、この時間に書き出しても、書いたと思うとすぐ間が何日もあくことになるから、効率が極めて悪い。

 ゆえに、もっぱら資料読みに当てていたのだが、それが一段落。かつ、ちょうど大学も前期授業が終り、あとは会議いくつかを残すだけになったので、いよいよ書き出したのである。

 久々だから、嬉しいような、緊張するような、そしてやはり書くことは相当疲れる作業だとつくづく思う。午前中3時間ほど書いただけで肩のあたりが固くなり、昼食後1時間以上もぐっすり昼寝。午後また3時間書いたら、もう目がしょぼしょぼしてきた。

 ダウン、もうやめ。そういえば前に書いていたときも、途中から1日5−6時間にしたことを思い出した。張りきって7時間8時間書こうとしても結局文章がゆるくなってダメ、それより5−6時間にした方が文章も体調も気力もいいことに気づいたからだ。

 よって、今日も6時間でやめ、以後、そのペースにすることにした。
 そして、腕立て伏せ60回(10回1本で6本)、間に腹式呼吸5分づつ、を日課にするつもり。

 あとは夜、満鉄記録映画全12巻を順に見ていくのが楽しみだ。
 これは執筆とはまったく無関係、この8月に10日間ほど「旧満州の旅」に出かけるので、その下準備である。行く先は要するに旧日本植民時代の旧跡、開拓地などで、多くが鉄道、つまり旧満鉄の路線に乗ることになるからだ。

 これもワクワクである。



7月18日  信州が恋しい

 信州小諸の市民大学へ講演に行っていたパートナーが、ゆうべ帰ってきた。去年11月に出した『若山牧水 さびしかなし』(晶文社)の縁で、小諸時代の牧水について話したのだが、聴衆130人で盛会だったそうだ。

 その彼女によると、小諸は日は照っていたが日陰はひんやりと涼しく、講演会場以外は、事務室もホテルも冷房は不要だったそうである。
 冷房なしで眠れるのは本当に羨ましい。

 私は昨日は運動不足解消のため、夕方から日が雲で陰った合間に何とかウオーキングをしようと図ったが、暑くてダメだった。5−6分外に出ただけでシャツの下の胸元あたりに汗がツーッと垂れ落ち、縮緬の下着が見る間に濡れていくのである。

 毎年一度は書いているが、私は汗っかきの上、汗をかくと体のあちこちが痒くなる体質で、皮膚科の主治医からはかねがね、「あなたは汗をかくな」と言われている身である(そんなことムリだ!)。

 で、結局、私は午ごろ、サミットへちょっと果物などを買いに出た以外は全く外歩きしないまま、クーラーのなかで過ごした。
 ああ、信州へ引っ越したい。



7月16日  暑い、深夜に火事

 いつのまにか梅雨明け。つまり実質空梅雨で、連日の猛暑である。今日も35度くらいか。
 今日は午前2時頃、少し離れた本町で火事があったらしく、深夜だというのに有線放送やサイレンが鳴り、騒がしかった。

 昨日は所沢校舎で教授会があり、事務方の若干の人事異動が報告された。
 去る人あり、来たる人もあり。人事も時間も流れていく。所沢校舎に新築中だった文芸棟がほぼ完成しており、ちょっと窓越しに覗いたところでは、いかにも真新しく、広そうに見えた。9月に引っ越し、後期が楽しみなり。



7月14日  委員会2つとゼミ飲み会 韓国系、台湾系国会議員誕生のこと

 12日は会合が3つ続いた。
 まず3時からが、学部の企画委員会。これは私が担当副委員長で、司会進行役をしつつ毎回ほぼ2時間かかる。学部執行部を始め、事務方の役職者、そして教員は中堅から若手までとメンバーも多く、学部の中長期的問題、改革方針などについて議論が行われる。

 この日も公開講座、ナイトクラス設置の可否、9番目の学科、必修単位数の緩和、学科間横断授業など、いろんなアイデアが多数出た。むろん、すぐ決しうるものではなく、議論の端緒にのった程度だが、大学の充実・発展という意味では意義のある内容だと言える。

 それを終えたのち、6時からはオープンキャンパス会議。これは毎年海の日に行っている高校生、受験生、父母向けのオープンキャンパスが、いよいよ1週間後に迫ったので、その最終打ち合わせである。

 オープンキャンパスは今年で4回目、いろんなイベントや模擬授業などが好評で年々参加者が増え続け、去年は3500人ほどになった。今年はひょっとしたら4000人かと、準備にも力が入る。入場者全員に、かなり上等のキャンパス・トートバッグ(デザイン科若手による日芸デザイン)も無料で出すことになった。

 それが40分ほどで終ったあとは、ケータイで連絡をとって、夫馬ゼミ4年の飲み会に駆けつけた。江古田駅南口近くの居酒屋だ。
 集まっていたのは、案外少なく7人。しかも現ゼミ生は5人で、2人は2年次のゼミ生である。現ゼミ員は14人いることを思えば出席率は極めて悪い。いったいどういう訳か。

 折からの試験、就活も考えられるが、一番はバイトらしい。学生は先生との会よりバイトの方を優先させるのだ。これはどの学年もなべてそうだ。なにやら物悲しいことである。

 だが、7人中5人は可愛い女性たちで、しかも2年次の子が2人も来てくれたのは嬉しいことだった。うち一人が在日3世で、このところの就活のことなどを聞いた。出版社にかなりの数アタックしているが、大分いい線まで行くものの今のところ未決定とのこと。在日たることは影響しているかと聞くと、面接で質問などはされるが、自分は今のところ感じていない、との答にホッとする。日本社会もだんだん変ってきたのかも知れない。

 そう言うと、お父さんもそう言ってますとの答に、また嬉しかった。2世は相当の差別を体験してきているはずだからだ。
 今度の参院選挙で、韓国系日本人の白真勲、台湾系日本人の蓮舫の両氏が当選したことと合わせ、いささかの希望を感じさせる。韓国系国会議員の誕生はかつて自決した新井将敬氏以来ではなかろうか。今後を見守ろう。



7月12日  風人連句会7月例会開く そして選挙

 昨日午後、東京小石川の後楽園涵徳亭に、代志朗、冬狸、野住、南斎が集まった。思いがけず連衆が少なかったのは、家族の結婚式とかその他忙事出来のせいである。選挙のせいではなさそう。

 暑いさなか、しかも2ヶ月ぶりの例会となると、なかなか頭が戻らなくて、一同苦吟。が、まあ、細川邸よりはるかに重厚な建物の床の間付きほど良い和室は、窓外に中国西湖を模した池が蘇提(蘇東坡が作ったもの)か白堤(白楽天が作った)まで付けられてあり、楓の緑葉越しの景色はなかなかなものであった。

 そこで梅雨晴れの参院選挙の句から始まって、月、老残、そしてモンゴルからイランまで駆けめぐって、また庶民的我が家に戻るという句が、ともあれ9句出来た。出来具合は第5回歌仙欄でどうぞ。解題もあります

 もう一つは言わずと知れた選挙。
 投票率が心配だったが、まあまあだったとも言え、結果は民主増大、自民にお灸、しかれども共産、社民系は激減で、前の総選挙同様、要するに保守2大政党化が進行しただけとも言える。

 民主党は自民党よりましだが、しかし憲法改悪には賛成だし、党内は極右から昔通りの労組頼み古くさ体質の旧社会党議員まで抱え込んでおり、主流の若手新保守派は、松下政経塾出身者やネオコン的体質者、昔なら当然自民党へ行った官僚や県議出身者などが多く、本来のリベラル性や革新性、知性は感じられない。

 ゆえに、私は今度の選挙結果にもほとんど期待が持てない。国会もマンションの理事会と似たようなものではという、ほとんど諦めの境地の方が先に立っている。
 こう感じざるを得ないこと自体が情けないことだ。



7月10日  猛暑の東京、上着の矛盾

 連日暑いが、昨日も本当に暑かった。わが埼玉南部で35−6度、東京でも35度を超えたそうだ。

 その東京は早稲田の大隈講堂で、夕方からペンクラブの「言論表現の自由」シンポジウムが開かれることになっており、そこで友人の小説家小嵐九八郎さんと会う予定だったが、午前中に彼から電話があって、7時東京駅でと変更になった。

 あとで聞いたところでは、あまりの暑さに30年ぶりの早稲田(そこで彼はかつて内ゲバを体験した)に出かける気になれなかったとのことだが、更に後でネットで別に得た情報では、大隈講堂は冷房がなく、参加者は猛暑でほとんど思考停止状態だったとのことだった。

 行かなくて本当に良かったわけだが、一杯飲みに入った八重洲口の小さな寿司屋も折から満員で、結構暑かった。そこでン十年昔の同期生二人は、しかし暑さに負けないぞ、我らはまだまだ若い、これからだ、みたいな顔をしてビールと魚を喉に流し込んだ。

 私は上着を脱ぎたかったが、脱いでも掛けられそうなところが見当たらないので、着たままにした。上着着用は往復の電車の中がずいぶん冷房が効いていて、上着なしだと私などはかえって風邪を引きかねないからだが、これまた夏の大きな矛盾である。



7月8日  公開講座で「連句の楽しみ」を語る

 昨日は、日芸小講堂で、18時30分から20時まで、大学と練馬区共催の日芸公開講座が開かれた。連続4週の「文芸ルネサンス」中の一環で、私は作家・俳諧師の肩書で連句を担当というわけだ。

 前にも所沢校舎でしたことがあるので、今回も前半解説、後半実践のつもりで臨んだのだが、たぶん平均年齢60歳くらいとおぼしき方々が熱心に肯いたりしつつ聞き入って下さるせいもあって、歴史や江戸時代の経過などの話に熱が入りすぎ、気がついたら歌仙の発句、脇、第三の式目説明を終ったところで時間切れとなった。

 いやあ、考えてみれば、ふだん大学の講座では説明だけで3−4時限分、実践開始後も発句だけで1時限(90分)かかることを思えば、1時限分でそこまで一気にやろうというのがどだい無理な話ではあった。

 と、あとで気づき、かつ、そのぶん基本的知識・解説としては、わりあい丁寧に伝えられただけでもいいかとも考え直した。あとはこのHPの俳諧・連句欄を見ていただけばいいとの考えもあり、実際最後にそう付け加えた。解説、実践の治定(じじょう)なども、今見直してみてもかなり懇切にしていると思えるので。

 若い学生諸君も、1年のゼミから一人、2ゼミから一人、その他二人ほどが参加し、おじさんおばさんたちに混じって聞いてくれた。連句って面白そうですね、という感想が返り、やはり嬉しかった。

 皆さん、どんどん連句に親しんで下さい。そして、腕が上がったら、わが「風人連句会」に挑戦してきて下さい。それが楽しみなのです。



7月6日  久々のペンWiP委員会

 昨日は、夕方から兜町のペン会館での委員会に出た。間に山田英幾、鷺沢萠両委員の死などがあったせいもあって、追悼会で顔は合わせているが、会議自体はしばらくぶりだった。

 議題は今年10月のWiPの日のことで、委員の宮崎緑さんが奄美大島の「奄美パーク」館長をしていることもあって、そこを無料で借りて「ことばの牢獄、方言の再出発」といったテーマで行うことに大筋が決定した。

 ただし、ことばの牢獄とは何か、獄中作家委員会とどう関係があるか、などについてはいまいちはっきりしないことも事実で、シンポジウムの人選もいささか曖昧なままになった。
 遠くて経費がかかることも問題点の一つだ。スポンサーがうまく付いてくれればいいのだが。

 10月下旬となると、学校のことなどでかなり忙しい時期でもあり、個人的には果して時間がとれるかどうかも懸案事項ではある。まずは先行き頼み。
 近所の居酒屋での食事兼2次会が楽しかった。



7月4日  ついに見たぞ、今年のホタル! そして滝

 昨日、奥秩父両神村の国民宿舎へ行き、夜8時頃から、近くの小森川の川原および、宿舎中庭の池周辺で、源氏ホタル計10数匹を見た。

 天候がすっかり梅雨明け模様でカラッとしている上、秩父地方は夜になるとかなり涼しく、ホタルには不向きな条件だった。現に1週間ほど前には5,60匹が池が明るくなるほど飛んだというのに、この2,3日はもう20匹程度とか。この日は更に少なめのようだった。

 それでも10何匹かが、ピカピカ緑がかった灯りを点滅させ、あるいはフワフワ飛ぶさまはやはり幻想的で美しい。飛ぶのは雄、雌は草葉の裏あたりでただじっとお尻を光らせ、雄を待つ。
むろん、あの光は求愛の印であり、光って飛んだあとは交尾があるのだ。

 以前の蛙の鳴き声もそうだし、蝉の鳴き声もそうだが、蛍の光も要するに性的サインであり、官能の表現なのだ。だから、なまめかしく、蠱惑的なのである。

 温泉に入り、うまい食事を食べたあと、この官能の緑の光を見、私はやっと今年もいよいよ夏を迎えたと実感して眠りについた。

 翌朝たる今朝は、車で宿から小1時間も山道を走り、丸神の滝を見に行った。車を止め、山道を歩いて登って20分、滝は埼玉県最上の滝と言われるだけあって、全長76メートルの華麗なものだった。

 私は滝も好きである。あれは滝のどこか一点に焦点を当てて視界を止め(止観)、そのままじっとしていると、今度は滝の流れる水が静止し、周りの風景が動き出す。これは昔から「天台止観」などで用いられる瞑想法の一つでもある。静と動の対比、実相、同一性、ひいては万物(色)の空たることを認識させる手法だ。

 官能の蛍の光と滝。夏の素晴らしきもの二つである。
 尤も、この滝、冬は凍結するという。それも素晴らしかろう。また見に来よう。



7月1日  いよいよ7月

 今日から7月である。学校はまだしばらくあるし、あれこれ雑務も多いが、しかし何やら夏休み風も吹いてきて、心浮き立つ面もある。
 今日あたりすっかり晴れ上がって気温も高く、湿度もあまりなく、カラッと明るい陽光を感じる。自然に朱夏という言葉を思い浮べた。

 教授会を終って4時10分過ぎ、帰り支度でテラスへ出たら、学生らが男女うちまじって大勢たむろし、みんな楽しげにお喋りしている。服装がTシャツや薄もので、肌の露出度も多くカラフルなせいもあり、なんだか解放感に充ちて見える。

 実際、彼らも授業によっては早くも前期最終授業だったりで、夏休みの到来を間近に感じているのだろう。若者たちは本能的に夏の解放感を好きなのだ。
 青春の夏休み。たとえ憂鬱な卒制や就活が控えていても、そんなものは陽光とピンと張った肌の火照りの前には吹っ飛ぶのに違いない。女子学生たちがなんだか急にきれいに、はつらつと見えても来る。

 その学生たちに、午過ぎの授業時に、「先生、今日は飲もう飲もう」などとワイワイ言われると、ええい、そうしちゃうか、と半分ほど心が動きかけたが、しかし、私はゆうべくらいからちょっと風邪気味なのだった。昨日、上着なしで通勤したら、電車の中がやけに寒かったせいと、帰宅後薄着でいたためだ。おまけにクーラーを付けたまま寝たせいか、右偏頭痛が激しく、あまり熟睡できなかったせいもあろう。

 まことにロートルは「しょむない」ものである。
 で、ちょっと風邪気味で、と言ったら、学生のひとりの訳知りが、「あ、そんじゃ、しょがないですね。年寄りは大変だから」と許してくれた。

 ただし、むろん、代りの日の約束はさせられたが。