風人日記 第十一章

天高く人肥ゆる

  2004年10月1日〜12月31日


 2004年8月中国東北・臥牛吐(旧満州国沖縄開拓村跡)にて
夫馬撮影






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



12月27日  旅立つ

 今日から沖縄に旅立つ。夏に出会った人たちとの再会や普天間基地、辺野古、それにやんばる地帯などを見るのが楽しみだ。
 この日記はしばしお休みである。

 新年メールなどはどんどん下さい。帰り次第ご返事差し上げます。



12月25日  第5回歌仙・総括感想ほぼ整う  連句会しばし休会

 先月開き、一旦満尾した歌仙の最終治定前の総括が、今日アップした湊野住君のものでだいたい整った。
 「だいたい」というのは本当はあと二人分ほしいからだが、なかなかままならない(掲示板一般欄参照)。忙しいからだろうと思い、正月休み中待つことにする。

 その休み明けをいよいよ締めきりとし、最終治定決定となる。
 同時にそれをもって、従前の風人連句会例会はしばらく休会となる。オンライン連句会として2年9ヶ月前始めたものが発展、「座」の例会として定着していたのだが、このところメンバーに色んな事情が重なって縮小傾向にあったためだ。

 別の所から新たな手ほどきを求める声もあり、しばらく様子を見て、出来れば再編拡大を目指したい。
 それまでウェッブ上でのファンであった皆さんともしばらくお別れである。メールなど頂いた方始め、ときおり御覧になっていた方々、どうも有難うございました。

 会はやめるわけではありません。再開を待っていて下さい。



12月24日  年賀状出す

 昨日、年賀状を書いた。例年より早いが、27日から旅に出るので、早めに書いたのである。今日にはもう郵便局に出す。

 メールのある人には出来るだけメールにすることにしているので、年々はがきの量は減っている。メールは在宅の場合は大晦日か元旦に出すが、今年は2日になりそう。賀状や年賀メールがこないなと感じる方は、しばらく待っていて下さい。

 歳時記的に言うと、「年賀状」は新年の季語だが、「書く」とか「出す」が付けば歳晩風景となろう。毎年、面倒な思いもすると同時に、正月にもらった賀状を読むのは楽しいから、功罪両面、このときでなければコミュニケーションのない人もいるから、やはり得難いものではある。ゆえにメールなど使いそうにない年長の先輩方中心に出すことになる。

 今日は、このほかに沖縄への荷物も出す。これもちょっと早いが、航空会社にそういうサービスがあるので利用することにした。自宅で出せば、ホテルまで届くそうなのである。便利なものだ。



12月22日  冬至過ぐ

 ゆうべ、柚子湯に入ろうと思っていてうっかり忘れてしまった。だんだん迫ってきた沖縄旅行の件で沖縄の知人から電話やメールがあり、あれこれ案内して下さるとのことに、気分がすっかりそちらに行ってしまったためだ。

 事前に送る荷造りも始めたのだが、何しろ気候がだいぶ違うから、当日羽田まで着ていく服装を含めなかなか決定できない。去年も沖永良部島、与論島、沖縄と同時期に行ったのに、どういう服装だったかしかと思い出せない。写真をとりだして思い出す始末である。

 今年は沖縄本島に限って、普天間基地から象のオリ、辺野古の海など問題の地を見せてもらったり、夏の旧満州の旅で一緒だった方々に会うのが主要な目的だ。27日には又吉学級(沖縄大又吉盛清教授主宰の旧植民地問題研究講座)の同窓会(私たち夫婦もそのメンバーのうちとして扱ってもらっている)も開いていただけるというので、大きな楽しみだ。

 「葫蘆島」(旧満州からの引揚げ港)というビデオをおみやげにしようと、かなり時間をかけて用意もしている。
 元満州開拓民だった山城さんや宮里さんなどお元気でいられるだろうか。平和な暮らしぶりをちょっと拝見したい気もしている。



12月20日  会議は憂鬱

 昔、「会議は踊る」という名作映画があったが、現実の方ではもう冬休みに入りかけているというのに、急きょ会議的なものが複数あった。そして憂鬱な内容であった。
 決着はまだつかない。

 空模様も灰色で午前は寒く、私は今冬初めてオーバーを着た。
 帰宅後、もう一つ個人的難事も起き、大あわてで対策にエネルギーを費やし、終ってついホッとし酒を飲み出し、気がついたら休肝日だった。

 しまったと思ったが、時すでに遅し。やむなく休肝日は明日あさってへと一日ずらすことにし、もうあきらめの境地で飲んだ。といっても、せいぜい2合ほどの酒だが。



12月17日  旧友再会

 今日は高校2年の同級生二人と3人での小さな忘年会だった。うち一人はたぶん15年ぶりくらい、東京では初めての顔合わせだ。もう一人は去年だったか同期会で40年ぶりに会い、以来時々飲むようになった彼。

 3人とも高2のとき仲良しグループで、修学旅行のときも同じ班編成をした。16,7歳だった。
 今や61歳のロートルトリオ。しかし,私以外の二人はほとんど白髪のない黒々した髪だった。腹も出ていない。私は頭も薄いし、一番年寄りふうだった。

 しかし、友人は「君の風人日記を読むと若返る。いやあ、いいね」とほめてくれた。二人ともパソコンは使いこなすし、仕事先でもトップ的地位にある現役だ。金まわりもよく、ぼくも払うというのにまた奢ってくれた。しかもそのことを少しも負担に感じさせない言い方で。いい気分である。

 3ヶ月に一度は飲もうということになり、次は両国で河豚をとなった。楽しみである。



12月15日  仲冬 歳晩模様

 歳時記的に言うと、12月7日の大雪(たいせつ。雪が降ったわけではない)以降は冬も半ばの仲冬となる。11月7日が立冬だったから初冬ははや過ぎたのである。

 そのせいか、今日あたりは本格的に寒くなった。南側の窓から見える近隣公園の木々は、紅葉というよりもうあらかた落葉し、裸木になりつつあるし、北側からの風景はだいぶ前から薄茶色系統が大半である。中に黄や赤紫の菊花がところどころ鮮やかに咲いているのが、数少ない彩りだ。

 川面に朝靄のなか、鴨が数羽づつ泳いでいくのも冬景色らしい。先だっては川鵜が20数羽も群をなしやってきて、一斉に潜っては長さ7,8センチとおぼしき小魚(たぶん鯉や鮒の若魚)をくわえていた。私はそれを見るとやきもきし、遠くの窓ガラス越しから「おまえら、何もそんなに大量に来て食べることはないじゃないか」と怒声を発したりした。

 妻に言わせると、「君は前世、魚だったんじゃないかしら。魚に関しては異常に親近感を持つわね」だそうだが、ナニ、少年時代は小川での魚捕りが大好きだったのだから、話は矛盾する。
 要するに、川や池や田圃にまでどこでも魚がいた時代とはすっかり変ってしまったことが背景にあろう。

 あちこちから相次いで来年のカレンダーが届いたり、懐かしい人からお歳暮が届いたり、高校の同級生からこぢんまりした忘年会の連絡が来たり、年末年始にかけての研究旅行の日程がほぼ定まったり、なにはあれ、私にも歳晩模様が訪れてきた。



12月13日  劇団「態変」を見る

 昨日、かねがね噂に聞いていた「態変」の芝居というかパフォーマンスを初めて見た。
 場所は、新宿の「タイニーアリス」という地下の小さなライブハウス(それとも小屋と呼ぶのか?)。私には初めての場所だが、すでに開業20年以上らしく、新宿のいわばアングラ劇場としてはかなり知られたところらしい。

 「態変」は金満里さんが率いる重度身体障害者の劇団で、この日の演目「帰郷ーここが異郷だった」も、重度障害者6名が舞台上で芋虫のごとくごろごろ寝転がって動き回ったり、それもままならぬ金満里さんなぞは、床に寝たまま指先と腕だけで踊る(大野一雄の舞踏を連想させる)という具合だ。

 むかし睡眠薬サリドマイド剤によるいわゆる「あざらしっ子」というものがあったが、多分それではと思える俳優や、そのほか出演者はすべて異形の人たちである。

 ゆえに、見るだにつらい面もあるが、しかし出演者も劇団関係者もすべてその大きなハンディを正面から受け止め、自らの異形な体をさらして、身障者の重い生と、彼らだからこそ見えるに違いないこの世の実相といったものを表現しようとしている。

 態変とはそれゆえの命名なのであろう。
 せりふ・ストーリー性なし、すべて肉体のみによる表現(音楽と多少の小道具、照明などはある)は、長くなると単調感もやや出るが、しかし、私は出演者の一人が背中に白い羽根を付け後ろ向きに上方をじっと指さし続けるシーンや、6名の出演者が乱舞の果てに舞台から観客席後方を一斉にじっと凝視し続けるシーンなどで、彼らの言わんとすることが痛いように分る気がした。

 その視線がもし私に向けられていたら、私はそれにはたして堪えられるかとも思った。
 自分が健常者として、のうのう、ぬくぬくと生きている身であることを思い知らされた日であった。



12月11日  大学一段落

 昨日、11月のAO入試、留学生・帰国子女入試、校友会入試、と続いていた一連の入試の最後のもの、付属高校推薦入試が無事終了した。これであとは2月の一般入試を残すのみとなった。
 同時に学科での定例会議や懸案事も終り、代って仮校舎への引っ越し作業がいよいよ本格化した。

 すでに完成している仮校舎へ冬休み中に研究室も教室も万事引っ越すのである。現校舎はそのあと、入試後の春休みから取壊しになる。

 引っ越しは同じ敷地内とはいえ、手で持って運べるわけではないから、やはり大変な作業となる。夏休み中の所沢新校舎への引っ越しは、もともと文芸科専用の施設は少なく研究室も事務室もなかったから、比較的ラクだったが、今度は、教師一人一人も自分の研究室の荷造りをせねばならない。

 それをこの数日かけてぼつぼつ進め、昨日で私に関してはどうにか一段落した。
 年内の学校日程としては、あと補講・卒業試験期間と会議少々だけだ。むろん、それ以外にも委員会の報告書作成などかなりやっかいな仕事も残ってはいるが、それは自宅の書斎でも出来る。
 つまり、学校関係としては、いろんな意味でホッとしたわけである。

 今日明日はともあれ週末だ。先週みたいに遠出の用もないし、ゆっくり休養がてら冬休みの研究旅行の計画でも立てたい。



12月8日  大学歌仙巻き終る

 4月に開講し、5月から実践に入っていた学校での歌仙が、今日満尾した。
 日芸でのこの講座はもう13年続いており、私にとっても楽しい授業だ。当初は7,80名集まったり、かと思うと10人くらいだった年もあるなど(事情あって授業日を突然変更したせい)いろいろだったが、この6−7年は登録30数名、常時出席20名前後とほぼ安定している。

 これが適正人数で、これ以上増えると、せっかく毎回出てくれても年間を通じて採用句ゼロという諸君が増え、お互い困ることになる。なんといっても歌仙は36句しかないから、仮に一人1句と限定しても36人がぎりぎりなので、才能ある学生が一人で2句3句と採用されてしまうと、必然的にあぶれる者が増えるのだ。

 実際、毎年、相当熱心、あるいはまじめでほぼ皆勤の諸君の中からさえ、何人かはあぶれ組が出てしまい、可哀相なことになる。今年も3人ほど出てしまったようだ。
 だから、今年も11月中旬くらいからはなるべく未採用者から句を選ぶようにしてきたが、しかし他や常連からいい句が出れば採らないわけにもいかず、なかなかつらいところである。

 教室を満杯でも40人の部屋に固定しているのはそのためで、年によっては希望者がそれ以上になっても、訳を言って部屋を変えることはしない。つまり、希望者が多い時は最初から人数制限することになる。
 じっさい連句をやるには、互いの顔がよく見え、ふつうの座談調で声がちゃんと通じ合う範囲内でないと「座」という感じにならないのである。

 「座の文学」である連句は、たとえ教室でやるにせよ、ときにはちょっと座談を交えたりしつつ和気藹々と交流し、一座の「和」を醸し出していく必要がある。

 学年始めには不断交流のないいろんな学科から人が集まるせいで、いささか雰囲気がぎくしゃくするのだが、13年も続けていると、私自身、いくらかはその手だてに熟してきたのか、進行につれ次第にクラスの雰囲気も和み、ずいぶん打解けてくる。

 当初はどうしても人数が多く、「言葉」に慣れている文芸科中心的気配もあるのが、後期くらいからは全く対等になってくる。今年なぞは、人数的にも放送科が多かったせいか、ひょっとしたら採用句数も放送科生の方が多かったかもしれない。他に映画科や写真科もなかなか活躍した。

 どういう訳か、今までデザイン科と音楽科だけはめったに参加者がないのが不思議である。何か理由があるのかしらん?



12月6日  秋山会で熱海へ

 今年も文芸評論家秋山駿さんを囲む会で、昨日から温泉へ行った。
 今年の参加者は19名。小説家、評論家、新聞記者、編集者らのほか、今回は秋山さんの元教え子(47歳男性)、現教え子(24歳大学院生女性)2名が加わり、平均年齢がだいぶ下がった。

 ということは、この3名を除くと平均年齢57歳とかになるそうで、何ともロートルの会だと改めて感じ入る。参加しだしたのはもう7,8年前からだったろうか、いや、10年近いか。ともあれ当時は皆もっと若かった。秋山さん自身も若くてスタスタ歩かれ、持ち込みで飲んでおしゃべりし続ける夜の2次会も午前2時3時までつきあわれたものだが、このごろは歩くのも飲むのもずいぶん抑えられるようになった。

 かくいう私自身、飲むのは10時過ぎあたりで失礼して引っ込み、風呂に入って早めに寝た。翌日の今日も、熱海海岸やハーブ園を散策後、そば屋で12時半頃から飲み始め3時まで続いたのには楽しくつきあったものの、そのあと川村湊・富岡幸一郎ら相対的若手は更に小田原のだるま屋(川崎長太郎ゆかりの店)で2次会をするとして出向いていったが、さすがにもう同行する気にはなれなかった。

 乗った新幹線ではもっぱら居眠りし続けて東京駅へ着いた次第だった。
 しかしまあ、こういう会も参加できるだけまだ元気ということかもしれない。来年はどうなるだろうかとふと思った。



12月2日  娘と会食

 昨夜は久々に娘と会い、鮟鱇鍋をつついた。
 二人の誕生日の中間をとって、二人分同時の誕生会をやる趣旨だったのだが、ちょうどそのころ私が忙しくて、延び延びになっていたものだ。

 27歳になった娘はやや体重も増えたようで、だいぶ大人っぽくなっていた。会社から池袋の待ち合せ場所に来た経路も最短的確で遅刻もしなかったし、会社での仕事もだんだん責任を持たされているようで、まずまずの成長ぶりと思えた。

 酒のメニューも、これは黒糖酒、これは芋焼酎などとすぐ分り、私が選んだ秋田の新酒の味も的確に評価したし、そういう方面もまずまずの進歩である。
 刺身や鮟鱇の味もよく分るようだった。

 購入予定のマンションのローンも手配済みというし、もう一人前になりかかっているなという実感があった。来春にはわりあい近くに越してくるわけだし、これからは時々いっぱいやれるかもしれない。2,3歳のころから私の晩酌の相手をさせてあるから、酒は嫌いではないはずなのだ。

 それにしても私はまた1つ歳をとった。誕生日なぞちっとも面白くない。



11月29日  栗田美術館と栗田英男氏

 昨日は、栃木県足利市の栗田美術館へ行った。
 この美術館へ私は20年以上前2度いったことがある。1度目は雑誌に連載していた「美術館のある町へ」の取材で、2度目はその1,2年後あたり、登り窯だったか記念館の起工式に招かれてでだった。

 館長(創立者)の栗田英男氏にもその際など2度会ったが、熱血漢的人物とも、背景の面白い人物とも映った。戦後直後の改進党代議士にして、その後失脚、裏街道を歩き、しかし伊万里・鍋島専門の美の城「栗田美術館」の設立充実には感嘆すべき情熱を傾けた、確か生涯独身、しかれども女性の影多し、母に孝、弟を慈しむ、という多面性の主なのだ。

 私は一時彼をモデルに小説を書こうと思い、あれこれ調べたほどだが、結局書かなかった。

 その栗田美術館へ突然行ってみる気になったのは、関東平野の紅葉を見がてら美しき陶磁器にふれたいと思い立ったからだが、行ってみると館はものすごく立派になっていた。
 かつては本館ほかほんの2,3の建物しかなかったのに、一山分にいわば本丸、二の丸、三の丸、奥の院ふうにいくつもの豪華な館(歴史館、記念館などそれぞれ命名されている)が建ち、食堂、喫茶室、売店、陶磁研究所、大がかりな直売所、大駐車場、とまさに一大陶磁美術センター城の趣なのである。

 栗田氏は8年前に亡くなっており、今は遙かに大規模になった財団法人組織で運営されている様子だった。80名の団体客などがバスを連ねてきていた。

 久々に見た大小無数の有田焼(伊万里・鍋島は本来こう呼ぶべきだ)も格別で、黒を基調の、ほどよい照明の室内で私とパートナーはしばし別世界に遊び、まさに陶然たる思いを堪能した。
 山荘での蒸籠弁当も季節感にあふれ、おいしく、ほどよく、つい興に乗って焼き物もほしくなり、売店でカラフルな蘭人模様のポットとマグカップを2個購ってしまった。値段もほどよいのが商売のうまいところだ。

 今朝、そのポットとカップでさっそく朝のミルクティーを飲んだのが楽しかった。
 かつては目のきれいな熱血漢、今回見た晩年の写真ではかなりの悪相になっていた栗田氏の人生と人物像を思いながら飲む茶は、微妙な味でもあった。ただし、やっぱり小説に書く気にはならないか…。



11月27日  江古田文学賞授賞式

 昨日、日本大学芸術学部大会議室において、今年度(第3回)の江古田文学賞授賞式が行われた。
 私は3人の選考委員の一人なので、代表して選考過程の報告および受賞作の紹介等を行った。

 選考委員は私以外が、伊藤氏貴さん(36歳、本学大学院博士課程修了、芸術学博士第1号取得者、「群像」評論部門新人賞受賞の気鋭の文芸評論家)、斉藤礎英さん(39歳、本学文芸学科卒。7年前「群像」評論部門新人賞受賞,「群像」誌上等で力作評論を発表し続けている若手文芸評論家)である。

 いずれも本学OBであるうえ、私などより20歳以上若い新進で、感覚もその分新しい。選考は二つの世代の意見が交わって公平になったと思う。

 受賞者は二人。
  谷不三央君(23歳、本学文芸学科4年、愛知県出身)
  富崎喜代美さん(40歳、主婦、佐賀県在住、九州芸術祭文学賞佳作など)

 今回から江古田文学会員以外にも間口を広げ公募したため、北海道から九州まで、年齢層も10代から50代まで幅広い応募を得た。受賞者も学外からは初めてである。
 作品や選評は昨日発売(東京の大きな書店では市販している)の「江古田文学57号」を御覧下さい。

 谷君の作「Lv(レベル)21」は、大人になりたくてしようがない21歳という微妙な年齢(20や19歳とも違い、24歳25歳にはいっていない、社会人でもない学生)の、他愛ないがしかしどこか理解できる気分をユーモラスに、かつ洒脱な文章で描いた佳作。

 富崎さんの作は、14歳の女子中学生の性と恋の揺らぎを、軽妙で巧みな展開で読ませる。14歳にしてはものをよく知りすぎていたり、14歳同士のコミュニケーションにケータイが全く登場しないなど欠点やカマトト作的印象もあるが、文章は一番うまい。

 ほかに選からは漏れたが、3作ほどこれからが期待できる秀作もあった。いづれも文芸学科の2年、3年で若いだけにうれしいことだった。
 今年は、3月卒の佐藤弘君が卒業制作作品で「新潮新人賞」を受賞したし、昨年はまだ1年に在学中の尾高悠一君が「中原中也賞」を受賞するなど、文芸学科の若い諸君がだんだん世に認められてきたのがうれしい。

 この上は、芥川賞受賞者がぼつぼつ出ないかというのが、私の期待である。



11月25日  対岸に砂州出来る

 下の柳瀬川は、私の書斎から見える範囲が護岸のせいでちょうど左右一直線だったのだが、そこに今朝、小さな砂州が登場した。
 この夏の台風で対岸の小さな木が倒れ、川に突っ込む形のままそこにゴミや流木が引っかかって膨らみ、あおりで下流側に砂が堆積し続けていたのが、遂に水面上に姿を現したのである。

 しばらく前から、おっつけそうなると期待していただけに、遂に出来たか、の感じだ。砂州が出来ると単調だった景観に変化が出るばかりか、さっそく鴨や鴎、白鷺などがやってきて休憩地にし出した。
 それが楽しい。なんだか、自宅の庭池に鴨を飼っているような気分である。

 むろん、今程度の砂州ではちょっと水が出たらまた流されてしまいかねないし、左側の倒木が何かの都合で流れたり除去されたら元の木阿弥であろう。
 ゆえに、ひょっとしたら一時の現象かもしれないと思えば、よけい得難く思える。

 実は私は前のパソコンが壊れて以来、10,6インチの小型パソコンを使っているのも、これだとパソコンを使いながら窓外の川の景色がよく見えるからである。大きいデスクトップ型などをおいたら、小さな机がほとんど占領されるうえ、川がよく見えなくなりそうなのが惜しいのだ。

 庭に池やせせらぎを造れる大きな家屋敷なぞ、どう考えても無縁な身にとっては、眼下の新しい景観は宝である。



11月23日  紅葉とオオムラサキ

 今日は世が祝日、しかも勤労感謝の日だから、私も休むことにした。この前の土曜日は留学生入試と会議で出校したし、日曜日は一応休日だったが、連句会のかなり大事な用件があったうえ、夜までそのオンライン化やメール発送をしたりで、あまり休んだ実感がなかったからだ。

 行く先は関越道に新しくできた「嵐山小川町インター」。ここから降りてどこぞ紅葉のきれいな場を見つけ歩こうという目論見だった。
 が、降りてみたら、要するに旧知の小川町近くだったので、かつてカタクリの花を見に行った西光寺に向い、近くに駐車して歩いていたら、見晴らしの丘公園へ登る径近くにオオムラサキ館(?)という無人小屋があった。

 以前も一度来たことがあったのだが、入って自分で電気を付けてみると、オオムラサキを始めギフチョウやアゲハチョウ、南米のモルホチョウなどの美しき蝶々、およびカブトムシ類の標本がずらりと並んでいて、思わず歓声を上げ見入ってしまった。

 私は小学生時代、かなりの蝶々収集少年だったのだ。夏休みになるとほとんど連日、捕虫網を持って村里をとびまわり、5年生のころには学校一の標本保持者だった。
 近所ばかりか、電車に乗って岐阜の金華山まで出向き、当時でも貴重だったギフチョウを何匹も捕まえ、その美しさに魅せられていた。

 2,3匹は麓の名和昆虫館に1匹何十円かで売ったりした。値段を覚えていないが、1匹売ると岐阜・一宮間の名鉄電車賃くらいが出、2匹売るとその上にラーメンの一杯も食べられた気がするから、子供にはかなりの魅力だった。

 大人になってからは自然の生き物を採る行為自体がいいと思えず、蝶々ももっぱら鑑賞するだけとなったが、見るのは好きで台湾まで行ったりした。

 オオムラサキは少年時代も一度も採ったことのない珍しいもので、東京近辺に住むようになってから高尾山かどこかで1,2度飛んでいるのを見たことがあるだけだ。
 そういう思いが一気に蘇り、パートナーと二人以外誰もいない山中の無人小屋で、しばし本当に別世界に遊んだ。

 それから気分がよくなり、脇の道を600メートル登って仙元山上の見晴らし公園まで登った。だいぶ汗をかいたが、それも久々で心地よい。上から紅葉で粧った東秩父の山々、下の小川町を見下ろし、柚子の実を12個200円で買い、山を下りた。

 昼食は小川町旧市街の「女郎うなぎ」にした。むかし江戸(東京?)で女郎をしていた女性が開いたという由緒(?)ある店で、全館個室の部屋はすきま風が吹きいりそうに古び汚れたものだが、うなぎは1匹づつ生け簀からとって焼くもので、風情がある。

 満腹し、いい気分で帰宅してもまだ午後2時だった。近場は気楽でいい。



11月21日  風人連句会開く 東京国際女子マラソン

 久々に連句会を、すっかりなじみになった小石川後楽園涵徳亭にてもった。
 参加は太田花蹊庵、長谷川冬狸、湊野住、夫馬南斎の4名。落合玲君は昨日結婚式、深海魚さんは仕事で欠席。

 歌仙の方は残り4句を快調に一気に巻き終り、総括を時間をかけて行った。今回は3月から初めて約8ヶ月がかりとなり、途中いわゆる「未生草事件」などもはさみ色んなことがあった。内容も変化と国際性に富んで、悪くない出来だと思う。歌仙欄を御覧乞う。

 最終治定は、このあと本日不参加者も含め全員での総括・感想の集約ののち決定とするので、途中参加の連衆もぜひ早めにメールを送られたし。

 なお、今日は会に向かう途中、飯田橋交差点で東京国際女子マラソンに遭遇した。トップグループから最後尾まで一部始終を陸橋の上から見守ったが、面白い経験だった。トップグループ、中程、終わりの方と、走り方、精気、緊張感等が少しづつ違っていき、全体では2〜300名もいたのか、ずいぶんの数だった。
 外国人選手はスタイル、走り方が一見して違うのも面白い。

 また、マラソンの最後尾が通り抜けていった後の、交通規制の解除につれての車や人の動きも面白かった。いかにも統制がとれ、誰一人秩序を乱したり、ばたばたしたりする者もいないのが、この国の国民性と現状を表しているようでしばし物思わせたのであった。



11月19日  パソコン環境ととのう

 この間光ファイバー化に伴い、ついでのことも含めいろんなことをしてきた。メアド、URL変更通知。アドレス帳の整理。メアド二つの送受信設定。Windows Updateの更新、自動更新化。ATOK15のインストール。などなど。

 昨日は院生の杉浦君が研究室にきてくれ、わがVAIOをチェックし、エディターソフトをバージョンアップしてくれたほか、余分なものの削除、便利な使い方指導など、あれこれやっていってくれた。彼はビックカメラなどでしばしばバイトもしているから、セミプロ的であり、頼りになる。秋葉原で安いメモリーも探してくれるそうだ。

 長年ISDNだったので、ネットは使ってもすぐ切る習慣が身に付いていたが、ブロードバンドはその必要がないので使い方が確かに違ってくることも実感している。どうしても必要ということでなくともついでにちょっとこっちも見ておくか、といったことになる。HPの更新もハイパーリンクの動きが格段に早く、気軽に出来るようになった。

 メアドの変更も早くも多くの人が受け入れてくれたので、旧メアドには今日あたりゴミメール以外何もなかった。おかげで一括削除できるので、これも手早く処理が進む。

 等々、今のところメリットばかりのようだが、むろん付随してデメリットもある。いろんなものが新しくなれば、扱い方もしばらくは慣れぬし、ソフトによっては新バージョンがいいとは限らない面もある。使い慣れた古いものの方がいいとは、年取るにつれしばしば思うことだが、世の先端を行くIT関連分野でも同じ気分が生じるのが面白い。



11月16日  HPのアップ簡単に出来ました。皆さん、新しい方を「お気に入り」に入れ直して下さい

 昨夜、下にあれこれ書いたのに、今朝、使用しているHP作成ソフト「ホタル」のマニュアル書を探してその通りしてみたら、実にあっけなく出来た。いやあ、お恥ずかしい。
 新しいURLは以下のようです。

    www.jj.e-mansion.com/~fuma  夫馬基彦の風人通信

名前、内容は元通りですが、今後こちらで進行させますので、「お気に入り」登録など直してくださればと思います。
 古い方は「移転のお知らせ」に切り替え、2,3ヵ月後にはなくす予定です。



11月15日  なんとか光ファイバーに、されど…

 土曜日の夕方、工事業者が来て回線は出来、ついで昨日曜日バッファローの無線ルーターを買ってきて着けた。
 が、これとパソコンとの接続がなかなかうまくいかず、悪戦苦闘の結果、VAIOのサポートの助けを借りてなんとかOK。

 と思ったら、その後、家族のもう一つのパソコン LaVie(こっちはワイヤレス機能内蔵と取説には書いてあるのに、実際はついていないことが判明した)にバッファロー付属のPCカードで設定したら、とたんにこっちのVAIOの方が接続不可になってしまった。

 今朝になってVAIOに問い合わせたら、バッファローのカード子機との接続条件(暗号設定など)が優先するためだろう、後はバッファローに聞くしかない、とのこと。

 そして、今日、さんざん待ってやっと名古屋のバッファローと電話がつながり、2台のパソコンをかなりの時間かけて再調節し、やっとどうにか使える状態になった。メール設定も新しく出来た。
 が、ホームページの設定がうまくいかない。

 要するに新しいURL(これは決まっている)に今までのコンテンツを載せ換え、しばらくは今までのプロバイダーのものと平行させるか、今までの方はやめて、短い「移動のお知らせとジャンプ設定」にしたいのだが、最初のコンテンツ載せ換えで早くもてこずっている。

 おまけに、同居人のパソコンの方は光ファイバーとの接続に伴い、設定の途中で「ダイヤルしない」にしてしまったため(向うがそう言ったため)、従来のメールが使えず大困り(私のVAIOは「ネットワークにつないでないときはダイヤルする」にチェックを入れてあったため、ちゃんと両方使えている)。

 接続のプロセスは自分でやったのに、この「ダイヤルしない」設定がどこをどういう順序で出したか、どうしても思い出せない。どなたか、教えてくれませんか。

 ああ、それにしてもこれでもうまる2日半、光ファイバー問題に時間を費やしている。
 IT関係は便利なものだが、トラブルや労力の消費も大きい。両刃の剣というやつだ、なんとかならぬものかしら。



11月13日  今朝の冬  光ファイバーへ

 表記のことばは立冬の類縁季語で、つまり立冬の朝、ああ今日から冬なのだ、という感慨を込めた語である。今年は11月7日が立冬だった。
 が、普通の感覚で言えばまだまだ今こそが秋たけなわの感で、冬の実感は乏しかった。

 けれど、今朝、ごみ捨てにちょっと表へ出たら、空気はかなり冷たく引き締まり、澄んで、秩父の山々から赤城山、皇海連山、日光連山と一望だった。確かめなかったが、土手に上れば富士山も遠くに見えたはずである。つまり、「今朝の冬」を実感した。

 これで、ぽかぽかと暖かければ小春日和となるわけだが、やや風があり冷たいので、そうは呼べまい。だが、すっきりと身が引き締まって私は好きだ。汗っかき、掻痒症などのせいもあるが、夏や蒸し暑いのはどうも苦手である。

 その今日はブロードバンド(光ファイバー)用の工事日だ。うまくいけば、まもなく新しいメアド,新しいURLに変更の予定である。これまでにもADSLに変更しようとしたことがあったが、このマンションはすでに光ファイバー化しているので不能、とされていたのだった。

 けれど、このごろいわゆるごみメールやウイルスメール(どちらもアメリカからのが圧倒的に多い。日に15通は来る)が多すぎるので、メアドは替ってもこの際、ブロードバンド化しようかと思い切った次第。
 そのお知らせはまた改めて差し上げる。



11月11日午前  ああ、ドジ…

 下の8日付日記、せっかく書いたのに、翌日、事前申し込みがないので今年度はダメ、と申し渡された。9月末近くまでに申込書を出しておくのを、当時二つほどエッセイの締め切りを抱えた忙しさにかまけ、ついうっかり忘れていたらしい。せっかく原稿締切日はちゃんと守ったのに。

 ということは、来年再申し込みをして、掲載は再来年3月ということになる。ああ、何たるスケジュール設定。一種のお役所仕事だ。というか、近頃では役所の方がもう少し融通がきくか(確信はないけれど)。

 が、まあ、紙切れ一枚でも規定を守らなかったのは自分だし、それに、何はあれおかげで作品を書けたとも言える。締め切りがなければ、まず書かなかったろうから.

 さて、せっかくの原稿、どうするか。割合気に入っているので、どこぞ他で発表できるといいのだが。



11月8日  短篇を書く

 「沖永良部」というタイトルの30枚の短篇小説を書いた。大学で出している紀要創作篇用のもので、今朝メールで送った。主として学内向けの出版物で、発行も来年になり、一般の目にはあまり触れないが、楽しく書けた。

 紀要はむろん原稿料なぞ出ないし、市販もされないから、2,3年前までは率直なところ熱意をもって書くという気分にはならなかったが、このごろは割合いい気分で書けるようになった。

 理由は二つある。一つは、一般文芸誌が近頃とみに面白くなくなったというか、品位やレベル、志が明らかに低いという気がして、魅力を感じなくなったことである。おかげで、若いとき以来30年ほども、作品を発表するなら大手出版社発行の純文芸誌と、前提事項のごとく思いなしてきた意識が、このごろ崩れてきたのである。あの雑誌にぜひ書きたいという対象がどんどん減ってきた。

 二番めの理由は、原稿料に固執しなくなったことである。フリーというか作家専業時代は、原稿料や印税が第一の収入源だったから、生活のために原稿を書いていた面もある。当然、原稿料の額は大関心事だったし、いわんやタダ原稿なぞまずというか一度も書かなかった。そんな徒労は出来なかったし、プロのプライドとしてもとても出来ることではなかった。

 けれど、このごろはそういう心配はないのである。そして、考え方も次第に変化してきた。小説の先生として大学からもらう給料は、ひろい意味で作家的部分+教育者的部分の全体に与えられるもので、くれているのも一私立大学というよりそこを通した社会全体であり、したがってそのお返しも大学+社会全体になすべきと思えてきたのだ。

 だから、紀要に書くのも楽しくなってきた。おまけに締め切りまでの時間はたっぷりあるし、催促や嫌みや不快なチェックも全くない。すべてマイペースで進む。気分がいい。出来と水準の維持は自分自身の問題だ。

 残念なのはどうしても読者が限られることだが、それはいずれ何らかの形で本にして、世に出せばいいことだろう。
 まあ、皆さん、待っていてください。



11月6日  芸祭

 わが大学の学園祭が今年も11月3,4,5日と行われた。例年と違って休日は3日のみ、あとはウイークデイだったので、客の入りが心配されたが、3日は過去にない大入り、4日以降も予想よりは悪くない感じだったようだ。

 私は4日の午後、進学相談を担当したが、さすがに現役の高校生諸君は少なく、専門学校生、浪人組がほとんどだった。専門学校生は一旦入ったものの、どうもやはりそぐわない、日芸に行きたくなった、と言う子が多い。小説を書きたい子もいれば、シナリオを書きたい子もいる。

 甘いことを言ってもあとが困るだろうから、出来るだけ率直に言うことにしているが、熱意は皆なかなかなので、つらいときもある。
 若き諸君よ、志があればとにかくトライしてみなさい、さしたる志がなくとも気になるならやはり覗いてみなさい、としか言いようがない。

 これでは結局何も言ったことにはならないかしら。若者の将来への相談とは、いつになっても難しいものだ。



11月3日  エッセイ「奄美の島はプリズンか」をアップ

 10月24日(日)奄美大島・奄美パークにて開かれた、第24回ペンクラブWiP(獄中作家)の日記念集会『言葉の牢獄ー方言からの再出発ー』(宮崎緑総合司会)のパンフレットに掲載した私の文章を、このHPエッセイ欄に載せました。

 集会の目的に沿った短いものですが、よかったら見てください。私はこの数年、九州の島から次第に南島へと、毎年二つ三つの島を訪れ南下していくのを恒例にしています。むろん長期的目論見もあってのことですが、それはまあ今は内緒。今年も年末には沖縄に行くつもりです。



11月1日  さよならパーティーさびし イラクでの日本人青年殺害事件更に哀し

 昨日の学校での江古田校舎さよならパーティーは、事前に考えていた諸君らも都合が悪くなったのかあまりこず、結局、わが教え子は一人だけ(ほかに在学生一人)となった。せっかく私としては第2礼装くらいで、日曜出校したのに残念だった。

 イラクでの幸田君殺しはなんとも声が出ない。彼の今回のイラク入りが無謀・無思慮な行動であることは免れないが、自分の昔の行動を思うと(1968年2月25歳のとき、戦争中のベトナムへ行き、しかも危険地域とされるところに滞在したり、訪れたりした)、いくらかは分る面もあり(戦争や状況に関心と憤りがあればあるほど、実態を見たいと考えるものだ)、しかしながら、やはり今回はいくらなんでも危なすぎると言えるからだ。

 それにしても一番の基本は、日本政府が無条件にブッシュを支持し、イラクに出兵したからである。なのに、人質の報に小泉が真っ先に言ったのは「テロには屈しない。自衛隊は撤退しない」という断定だったのは、イラク情勢と日本軍出兵(「自衛隊派遣」などという言い方はまやかしにすぎない。英語や外国語に翻訳すれば即こうなる)の意味をきちんと認識していない、単純で無責任な発言そのものだ。

 あの時、「日本政府は事態を慎重に検討する。(拘束側は)交渉に応じてほしい」といった言い方をすれば、殺されずにはすんだのではないか。現にこの前のイタリア人女性二人の際は、イタリア軍は日本軍以上に戦争に加担しているにもかかわらず解放されたではないか。

 それに、目下の自衛隊の派遣期限は12月14日である。その先はまだ何も決まっていないし、国民の合意もない。今度こそ、小泉はきちんと国民の意向を聞き、判断すべきなのだ。いくら総理とはいえ、このような大事をいかにも単純な頭と言い方で、勝手に決めるべきではない。オランダ軍はサマワから来年3月には撤退するそうだし、そうなったらいよいよ日本軍がターゲットになるのは自明の理ではないか。

 哀しいことである。



10月30日  同病相憐れむ

 私はこのことわざの意味を今回痛感したものだ。28日の教授会の前後に雑談で、下に書いた「体内爆弾」の話をしたら、「あ、それは尿路結石だ。痛かったでしょう、えへへへ」などと言い出した人が複数いた。一般教育のA教授、外国語のH教授などである。

 言葉としてはその程度だが、顔はなにやら嬉しげで、実際、A教授なぞはあとでわざわざ私の研究室まで来てくれ
、「自分は10年前、救急車を呼び3日入院した。結石は階段から何回も飛び降りるといいですよ。その衝撃で結石がコロンと下へ流れていく。まあ1週間は苦しむ運命ですね」とか、「放送科のHaなぞは、私が結石になったと知ったら、嬉しそうに早速やってきて、〈君もやったんだってえ〉などと急にやさしい口調で言いましたよ」などと、満面笑みでおっしゃるのだった。

 ウーム、階段から飛び降りるのかと半信半疑で聞いていた私は、しかしだんだん元気になってきた。要するに、この結石なるものはかなり体験者がいること、しかも年下の人が多く、老人病というわけではなさそうなこと(A教授もHa
教授も40歳前後でなったとおぼしい)、痛いだけで命に別状はなさそうなこと、などが分ってきたからだ。

 事実、その通りで、今日午前、病院でCTを撮ったところ、右尿管に米粒大の結石ひとつが詰まっていることが確認された。そして医師は至極にこやかに、「あ、おたくの腎臓は海綿状の部分が多く、結石の出来やすい質ですねえ。親からもらったものだからしょうがないでしょう。ところで、仕事は? ああ、座っているのが一番いかんのですよ。電車に乗ったら連結器の上、車はライトバンが一番です。痛かったら坐薬がよく効きます。そのうち流れていくでしょう」、と他人事(当り前だ)のごとくのたまうのだった。

 なんだかしごく物理的事象でかつ成り行き任せみたいなところが、いっそホッとさせ、同時にいささか気を抜けさせるのだった。私は早速帰途、駅の「京樽」ですしを買って帰り、利尿効果のありそうなお茶をがぶがぶ飲んだ。何でも水分を1日2リットル飲むといいそうだ。さあ、おしっこしろ、じゃんじゃん出せ、さすれば石も流れん、というわけだ。

 実に物理的、論理的でいい気がする。私はもう心配しないことにした。ただし、薬だけはドカッと食卓上に増えた。



10月26日  今度は体内爆弾

 一昨日夕食後から腹痛が起った。1ヶ月前とほぼ同じ場所、症状と思えたので、前回の救急車を呼びたくなるほどの激痛になる前に鎮痛剤を飲んで何とかしのいだのだが、早めに寝た後も深夜痛みで2度も起き、鎮痛剤を飲みついだ。

 さすがに今度は医者に見せようと朝になって病院を訪れたら、前回までは多分膀胱炎だと思っていたのに、どうも違う、結石の可能性ありとなった。腎臓で形成されたカルシウムなどの石化したものがこぼれ落ち、尿路のどこか途中で引っかかっているのではというわけだ。

 これは場所によっては猛烈に痛く、激痛・冷や汗となるため、驚いた患者がしばしば救急車を呼ぶそうで、前回の症状と一致する。
 断定はまだ出来ないので、改めてCTスキャンをとって判定となり、その予約をして帰った。

 で、まあ、方針決定かと安心していたら(痛みは鎮痛剤のせいでだいぶ退いていた)、ゆうべ深夜にまた痛み出し、あわてて鎮痛剤をまた飲んだ。
 そして今朝、食後また痛み出し、さらに鎮痛剤となり、病院に電話、CTの予定を早めてくれといったら、痛い間は出来ない、痛みは要するに鎮痛剤で抑えるしかない、みたいな返事だった。

 思うに、つまりは体内のどこかに米粒大くらいの石のような爆弾があり、それが気分によって小爆発を起こしては私を痛めつけているということらしい。

 むむむ、年とるといろんなことが起きるねえ。それとも、これは年とは関係ないのかしら。



10月24日  今度は地震

 いやあ、昨夜の地震は長かった。そしてしつこかった。もう終ったかと思うと、また起るという具合で、6時ごろから10時ごろまで何度も天井から下がる電灯類の揺れ方を眺め続ける仕儀になった。これは濃尾大地震以来である。

 というのはウソで、私は濃尾大地震のときはまだ生まれていなかった。が、おじいちゃんおばあちゃんがよく語って聞かせたので、まるで自分が体験したみたいに、頭に刷り込まれている。

 それによると、濃尾平野のど真ん中にあった祖父の家(田舎の地主の家だったから大きな梁や柱を使ったかなり大きなものだった)は、見事に潰れ、仏壇の前にいたり、雨戸をいちはやく蹴破って便所横の竹藪に逃げ込んだりして、ようやく助かったという。

 仏壇は金属製で頑丈で立派だから、上から落ちた梁などもそこで止まり、仏壇前で丁度お参りの格好で座っていたひいひいおばあちゃんは助かったそうだ。やはり仏様はいるのだ、という話だった。
 竹藪は、竹の根は地中にごつごつと這い回っているので、揺れが少ない。ほかは大地自体がぐらぐら揺れたので、普通に歩くことなぞ出来ず、みな転んでしまい、そこへ屋根から瓦が落ちてきたり、家が倒れたりで、近所の人は何人も死んだそうだ。

 今度、新潟の人はそういう体験をしたのだろうか。今日は朝から大学でAO入試をしていたので、詳細ニュースを見ていないから分らないが、近かった人たちは相当怖かったろうと思う。
 地震、雷、火事、親父。怖い一番目に置かれるゆえんだ。

 アレ、なぜ台風や水害はないのかしら?



10月22日  台風つづく 伊勢湾台風のこと

 20日から21日にかけて台風23号が襲ってくるというので、またベランダの鉢植えなぞを避難させたが、空振りだった。
 結構ともいえるが、なんだか肩すかしを食わされた感じで、物足りなくもある。被害がひどいひどいといっても、私なぞは少年時代に伊勢湾台風を体験しているから、つい比較して「何ほどのことやあらん」と思ってしまうところがある。

 伊勢湾台風では、名古屋を中心に5000人が死に、津島や海部郡などは1週間ほども水がひかなかったのである。5000人の死者というのは、今思ってもすごい。ニューヨークの911事件が昨今の戦争の引き金になり、歴史的大事件扱いされているが、あの死者は約3000人なのだ。イラクにおける米軍の死者は目下1100人である。

 15歳、高校1年のときに5000人の死者の惨事に出会い、実際に死体の並ぶのを見、連日日赤のトラックや自衛隊のトラックで救援清掃作業などに動員された経験はかなり大きかった。以来、インドなどで死体に出会ってもあまり驚かなかったし、神戸地震のときも格別仰天はしなかった。911のときもニューヨークにいたが、事柄の意外性に驚きはしたが、惨事の度合としてはやはりすぐ伊勢湾台風と比較した。

 いわば私の中の「惨事の基準」なのである。

 さて、その一昨日、私は書斎で暖房を入れた。今年度初である。つい先だってまで、あんなに暑かったのに早いものだと、そしてなにやら春秋など中間季が少なくなったのではないか、とものさびしい気がした。
 私は人生の秋なのかしらん。



10月18日  江古田文学賞候補作を読み出す

 学校で出している文芸誌「江古田文学」の新人賞選考委員を今年から引き受けたため、選考時期に入ってきた。
 編集部を中心に作っている第1次予備選委員会を通過してまわってきた候補作は、全部で7編である。
 本来は候補作は5編プラスマイナス1篇、としてあったのだが、落とすに忍びない作揃いということで、7編に増えたそうだ。

 ということは、力作ぞろいであろう。応募者は北は北海道、南は九州から、年齢も10代から4,50代くらいまでと、幅広かったそうだ。そうだというのは、私のところにまわってきた候補作は、名前も年齢も一切の情報は削られた作品本体だけで、どれがどういう人の作なのかさっぱり分らないからだ。予備選の選考も、同じように一切伏せてやったそうである。

 若い人たちに任せたら、そういうふうに潔癖な方法になった。在学生の応募が多いから、情実が入らないように、というわけだ。
 となれば、こちらも厳密・客観的にやろうという気になる。

 読み出した範囲では、なかなか力作がある。まだほんの2作目だし、むろん選考過程なぞ洩らすわけにはいかないが、いい結果が出るのではという予感は生じてきている。願わくばもう少し予算があって、大勢に賞金を出してやれるといいのだが、今年はそういかない。

 来年以降はなんとかそういう予算措置をとっていきたいと思っているので、今年応募しなかった皆さん、来年はぜひ挑戦してください。



10月15日  いつもの14インチパソコンが壊れ、小型VAIOでやっと更新

 12日に今まで使っていたソーテックのノートパソコンが、一般掲示板に書いたような経過で、壊れた。断定は出来ないが、冷却ファン劣化故障から波及しての破損で、修理するにせよ相当経費と時間がかかる上、いろんなデータは回復が難しそうである。

 ただし、原稿類は全部バックアップをとってあるし、HPは今日、大学の助手青木敬史君らのおかげでオンラインからダウンロードして更新できるようになった。メール類だけが今のところまったくゼロ化、2年半分くらいの受信、送信分の多くが失われた形になっている(多少はこちらのパソコンに残っている)。

 これは痛いし、残念だが、さりとてかなりの経費をかけて専門業者に依頼・復旧する要があるかとなると、具体的に考えていくにつれ、どうしても必要なものは案外ないことにも気づく。かつて手紙だった時代の信書も、私はほぼ全部とってあるが、書斎・地下のトランクルームのもの合せて、過去のものを探し出す要があったことはめったにない。せいぜい年賀状の2年分くらいあれば、用は足りてきた、ようでもある。

 と、書きながら、いや、近い過去3か月分くらいの郵便物は、時に引っ張り出して確かめることもちょくちょくあるなあとも思う。メールの場合も同様だ。
 また、相手のメアドなど調べる場合は、たいてい過去のメールから「返信」にして出していることにも思い当たる。

 となると、やっぱり不便か。
 しかし、不便くらいなら、別にたいしたことではないとも言える。これを機会にある意味でさっぱり身辺整理をせよ、という何者かの意思かもしれないとも思う。

 などとあれこれ思いがけず考えさせられながら、結局、諦めを自分に馴染ませているのかもしれない。
 ともかく、そういう事情で、この日記も久しぶりの更新となりました。



10月10日  台風はそれたが…

 昨9日は超大型台風が関東を直撃するとかで、ベランダの鉢類を防備したり覚悟をしていたのに、雨量はかなりだったものの、けっきょく嵐というほどにはならず、過ぎていってしまった。
 おまけに、天気予報では明日は晴れとまで言った。

 ではと、洗濯もして、今朝を迎えたが、何時になっても一向晴れず、ついに外出の機会も失ってしまった。二重の肩すかしである。ああ、昔から言うとおり、人のこころと秋の天気は変りやすいものだ。うそ寒いことである。



10月8日  「大量破壊兵器はなかった」のなら戦争の責任は?

 アメリカ政府自身が膨大な予算と1000人に上る情報要員を投入の結果、イラクに大量破壊兵器はなかったと報告した。
 となると、開戦した責任は一体どうなるのか。

 ブッシュもブレアも、「イラクに大量破壊兵器があることは間違いない。ゆえにサダム・フセイン政権をやっつける」と言明して開戦し、わが小泉首相は「あの二人がそう言っているのだからそうでしょう」として、自衛隊出兵を決めたのだった。

 その根拠がくずれたら、彼らは開戦の誤りを認め謝罪し、出来るだけ早く撤兵すべきであろう。それが常識というものだ。
 ところが、謝罪も撤兵の話も一向出てこない。

 アメリカではブッシュが再選を目指し、イラク戦争は正しかったと言い続け、ブレアもいっかな辞任せず、不純一郎はこの問題に触れさえしない。代理人の細田官房長官は「大量破壊兵器がなかったのは結構なことだ」なぞととぼけた発言をした。

 そりゃあ、大量破壊兵器はどこであれない方がいいには違いないが、嘘を言って人を殺したり、殺すかも知れない状況に大勢の人を追いやったことについては、まるで頬かむりだ。
 無責任、我関せず、起きてしまったことはしょうがない。

 これではどちら側であるかを問わずイラクで死んだ人々、恐怖を味わった人たちは救われない。そして、世界の倫理、最も基本的な人間にとっての正邪の観念が保てない。

 アメリカ人よ、ともかくブッシュを大統領から引きずり下ろせ。
 イギリス人よ、とにかく嘘つきブレアを議会で不信任せよ。
 日本人よ、何とかして不純一郎を辞めさせよう(無理かしら。書きながら何やら虚しい)。



10月6日  エッセイ欄に書評『森敦との対話』をアップ

 10月3日(日曜日)付け赤旗・読書欄に書評を書いた。新聞のタイトルは「希有の運命的出会いを明らかに」となっているが、原題は「希有の出会い」である。

 「月山」の作者森さんとは、森さん晩年の10年ほどお付き合いさせていただき、いわば弟子にあたる身だ。私が芥川賞候補になったりしていたころーつまりもう18年も前のことだがー、しょっちゅうお会いしたり、朝から電話を頂き励ましてもらったりした。

 森さんが亡くなられてからもう10年になろうか。その年に養女の富子さんがこの本を書かれ、そして私に書評依頼が舞い込んだ。
 おかげで私は10年ぶりに森さんの謦咳を思い出し、なつかしい思いにかられながらこの本をゆっくり読んだ。

 新聞のこととて与えられた枚数がほんの2枚弱なので、紹介程度でしかないが、私にはいろんな思いを生ぜしめた本である。よかったらご一読下さい。



10月4日  エッセイ欄に「山頭火の書簡」をアップ

 「国文学 解釈と鑑賞」04年10月号「特集 種田山頭火」に書いた文章をアップした。
 山頭火は放浪の俳人で知られる、無季自由律句代表者のひとりである。

 私は自分自身、若い頃かなり放浪的だった時期に、山頭火の句や本をかなり読んだ。今回は、久しぶりに山頭火の書簡を読み返し、当時を思い出したりしつつ書いたのだが、30代の頃、山頭火にやや否定的な気分も生じ、離れたのに、今回は、句もなかなかいいと感じ、やはり彼はめったに出来ぬ人生を貫いた人、と感じた。

 こちらも放浪期だった頃は、山頭火の時代は行乞流浪でともかく生きていける結構な時代だったのだと思ったことを思い出す。
 そして、60歳、いわば定着した真っ当な社会生活を送っている今、却って山頭火の放浪人生に肯定的になる。面白いものだ。

 横書きで載せたので、読みやすいように少し行あけなどをしたが、内容は雑誌発表通りである。関心ある方、お目通し下さい。



10月2日  今日から10月の章 イチロー新記録達成!

 今、テレビでイチローが258本目のヒットを打った瞬間をライブで見た。さすがである。大したものだ。爽快感が突き抜け、他人事だというのに、涙がにじんだ。彼は同じ愛知県人だと、日頃は殆ど考えもしないことが浮んだりした。

 素晴らしい光景を見るということは、見るだけで気持がいいことを改めて知った。だから、何百万という多くの人にそういう感動を与えられる人物はやはり素晴らしいし、偉い。イチロー、有難う。

 さて、この章のイントロに載せた写真は、この夏10日間行った旧満州国の旅でのハイライト、内蒙古地区の臥牛吐(オニュート)という村で撮った写真である。右端が我々がチチハルから乗っていった貸切バス、時刻は午後4時過ぎで、未舗装の道を牧牛が、特に誰に追われるでもなくぞろぞろと村の牧舎目指して帰って行くところだ。

 画面では見えないが、周囲には小さな農家や村に2−3軒だけある店類ー雑貨屋、食堂などがある。
 ほど近くの私たちが訪れた家は、同行の沖縄県人山城さん72歳が、13歳までいたときのモンゴル人の友人の家で、その友人と山城さんは子供時代の愛称で呼び合っていた。

 しかし、その家は土間に半分茣蓙敷き寝所部分があるだけの部屋二間の、貧しいものだった。台所も土竈二つに大きな支那鍋がのっているだけだ。冬は零下2−30度になるというのに、窓も薄いものだった。

 この村から車で5ー6分の小学校で、このあと小学生たちがブラスバンドで迎えてくれ、踊りや歌を披露してくれた。沖縄人30人プラス私たち夫婦らはみな感激し、若干のお金のほか持っていたカメラや持ち物を寄付する人まで現れた。

 この子たちは日本人のこと、そして彼らにしては突然現れた我々をどう思っているのだろうと考えながら、帰途についたが、満州全部の中でこの村が一番印象に強かった。