風人日記 第十二章

またしても新しき年
  2005年1月1日〜3月31日


 2004年12月28日沖縄北部・辺野古海岸にて
ここは普天間基地から移転するヘリポート基地予定地で、沖合の視界ほぼ全面が埋め立てられ、
飛行場となる。手前左側は米軍上陸用舟艇訓練地の鉄条網。赤や黄のリボンが結ばれているのは、
「ヘリポートをやめて」「珊瑚礁を壊さないで」「漁業を続けさせて」といった祈りの言葉が書かれたもの。
反対運動は連日朝から夕方までカヌー隊が出て、沖合予定地に作られつつある工事用櫓(画面左
側人物ー案内して下さった砂川八重子さんーのはるか沖にかすかに見える)周辺で工事阻止行動を行
っている。ほかに浜での座り込み、近くの米軍キャンプゲート前で毎朝反対ビラ配布などが行われている。

田村志津枝撮影。
なお、画面の右人物(青い傘を持っている)は私、夫馬です。
画面でははっきりしないが、当日はかなりの雨と風模様でした。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



3月30日  岡崎正隆さんの退職パーティー

 昨日、都心のプレスセンタービルで、文藝春秋社の編集者岡崎さんを励ます会があった。
 岡崎さんは在社38年、その間500冊の本を出し、7人の直木賞作家の密接な伴走者だった。

 例えば佐木隆三さんとは何冊もの本を出したばかりか、世界10数カ国を一緒に取材旅行したというし、夏樹静子さんの本は37冊も出したそうだし、古川薫さんや高樹のぶ子さん、伊佐千尋さん、五木寛之さん、など九州界隈の作家はほとんど担当していたため、「九州探題」と呼ばれていたという。

 酒豪でも知られ、作家連と飲み出すと、朝まで飲み続けがしばしばで、この日「ノーメル賞候補」とノミネートされたほどだ。
 ほかに長距離ランナーでも知られ、ギリシアの2百数十キロレースに連続10年参加し続けている世界でもまれな人でもある。

 60歳になった今後もまだまだこの酒と走りはやめないというから、何ともすごい。
 で、そのエネルギーを買って、4月からは日藝文芸科に学生を教えに来てもらうことになった。受持って頂くのは「編集演習」という授業で、講義のほか学生たちに実際に雑誌の編集・制作を指導してもらう。

 岡崎さんはその雑誌の名を「江古田春秋」としたいと今から表明している。文藝春秋を退社しても「江古田春秋」というわけだ。やはり文春と文芸編集者を生涯愛し続けた人らしい。
 私とはこれから毎週一度は顔を合わせることになる。江古田の飲み屋を案内しようかとも思うが、いや、とてもつきあいきれないかなと恐れてもいる。



3月28日  ベランダの水仙咲く

 私はベランダに17の鉢を置いているが、そのうちこの2年ほどは約半分が球根系で、4鉢に水仙がある。

 ところが、それが葉だけは去年11月ぐらいからずいぶん出ているのに、ちっとも蕾をつけなかった。
 正月を越え、3月になってもそうだった。

 それが半月ほど前、一つだけ蕾が出来、オオッと思った。
 以後、その根もとにだけは欠かさず水をやり続けたところ、遂に今朝になって見事に咲いた。黄色い6弁を光背にしてオレンジ色の花芯(というのかしら)がまるで太陽のごとく咲いている。

 匂いはないが、一輪だけということもあって、まさにベランダの太陽である。
 脇にはピンクのヒヤシンスが星形に沢山咲いており、その横には雪待草が4輪白い小さな釣鐘をぶら下げている。チューリップの蕾もふくらんできた。

 わがベランダもやっと春である。相棒が台湾へ行ったので、昨日から私はしばらくひとり暮らしだが、これで賑やかだ。



3月26日  卒業式

 昨25日は大学の卒業式だった。毎年のことではあるが、卒業メンバーは年々違うし、出来事もいろいろ違ってくるし、やはりそれなりの感慨がある。

 今年は学科の式が仮設校舎内になったこと、挨拶の学科主任も替わったこと、など学科単位の変化もある。

 わがゼミに関しては比較的まとまったクラスで、メンバー間の仲も良かったようだ。就職率も近年としてはかなりよく、しかもうち二人は日大職員および学科副手で、いわば身内に残る。他に編集者ひとり、外食産業の企画部門ひとり、金沢の製造関係企業ひとり、ドイツの公立クラシックダンスカンパニー専属ダンサーひとりなど。

 文芸科にしてはずいぶんバラエティーに富んでいるとも言えるし、ほかに公務員試験予備校入り、フリーター、就職留年、など全体を考えると、やはり思うような就職(1年前の第1志望はたいてい出版・マスコミ関係だった)はなかなか出来ないとも言える。

 が、まあ、いろんなジャンル、いろんな土地に教え子が新たな生活を広げていくことも確かで、教師としては楽しみである。
 そういう彼らに「いろいろお世話になりました」などと改まって挨拶され、ドレスアップした姿に囲まれ記念写真などとると、やはり嬉しく、そして少し悲しい。

 みんな、元気に行けよ。頑張れる者はがんばり、がんばれない者はのんびり行きなさい。今は30まではモラトリアム時代にして構わないし、急いでも格別いいことがあるわけではない。
 それから、書く気のある人は30になったら立ち止まって、もう一度書いてみること。

 では、ほんとに元気でな。



3月24日  娘の引っ越し

 今日、娘夫婦が同じ市内、隣の駅近くに引っ越してきた。
 今、電話が通じて話したところ、昨夜は徹夜、今は全室荷物だらけで呆然としているところらしい。しかも、明日は二人とも仕事らしい。

 ともかく今日は早く風呂にでも入って寝るように、あとは半月くらいかけてゆっくり整理すればいい、と伝える。
 引っ越し関係の手伝いはちょっと考えたが、六十過ぎた年寄りは引っ込んでいようと考えた。若いときでも、あと何日か体のあちこちが痛くなったりしたから、今さら冷や水はしたくない。

 引っ越しはするたび、もうしたくない、と思ったものだ。でも、しなければならぬのが人生で、やってしまうのが若さでもある。

 ともあれ、今晩からすぐ近くに娘がいると思うと、いささか不思議な、何となくいい気分である。近くに娘がいるのは19年ぶりかしらん。



3月21日  彼岸の中日

 暑さ寒さも彼岸までと言う通りすっかり暖かくなった日に誘われて、二つ先の駅朝霞台まで電車に乗った。そこの畑にはさまれた地に、なかなかうまい落ち着いたレストラン「紅橋(くれはし)」があり、窓外を眺めながら昼食をとりたくなったからだ。

 行ってみると、もう2,3年ぶりだったのか、畑はだいぶ減っていたが、近くには梅の木も紅白いくつか咲き、坂が見えてやはり見晴らしは悪くない。ホタテと菜の花の薄味煮、ビーフシチュウ、パスタに、アサヒの熟成ドラフトビール、微かなスパークリング赤ワインのグラス、そしてデザートが甘いフルーツプリン、というランチコースはほどよくおいしかった。

 広いガラスのウインドウ越しに入る日の明るさと暖かさも、心地よい。
 食後、近くの黒目川の土手を散策すると、まだ帰らぬ鴨が大きな鯉の群の上を泳ぎ、やや密植ぎみの桜並木の蕾がだいぶ膨らんでいた。1週間後にはもう咲き始めるのではないか。

 と語らいながら、相棒は花粉症で鼻にティッシュを詰めマスクとゴーグル姿だから、何ともサマにならない。彼女曰く「来週、台湾に行くのが今や最大の願望」というのは、彼の地には花粉症がないからだ。

 この花粉症、すっかり春の季語となったが、実際、時代とともに妙なものが流行る。見るだにつらそうだし、帰りの電車内でも何人か同病らしき人がいた。白い烏天狗(表現矛盾か)みたいな尖ったマスク姿が目立つ春分の日だった。



3月19日  インターネット放送局 インターネット新聞

 ちょっとしたきっかけでインターネット放送局というものの存在を知り、その一つ「ビデオニュース・ドット・コム」を見た。ビデオカメラ一台を武器に一人で取材し、一人で書くいわゆるビデオジャーナリストの神保哲生がやっているもので、自分のパソコンからインターネット放送局として録画ビデオなどを発信しているものだ。

 書くだけ、あるいは写真だけなら、従来からフリーのジャーナリスト(記者)、写真家はいたから、別に珍しくないが、自分で取材した映像と音声をそのまま自らの放送局で発信するやり方は、新しく、珍しい。

 試しに覗いてみた内容も、ホリエモンの外人記者クラブでの発言内容、警察の腐敗ぶりを内部告発した北海道警元方面本部長原田宏二氏の同講演・インタビュー、人権擁護法案・憲法改定国民投票法案に関する日本ペンクラブの記者会見、などのそれぞれ全部で、面白く、かつ情報として良かった。

 一番いい理由は、テレビや新聞報道では、それらのほんの一部が他人の目と判断で切り取られ、編集され、コメント・解釈付きで報じられるのに、ここでは発言進行通りすべてが放送され、勝手な編集や解釈がないことである。それぞれ1時間ほどもかかり、見る方も時間がかかるが、自分の目でじっくり見、考えられる。

 これはネットの利点を生かした新しいメディアのありかたと言える。ナマの映像音声をともなった放送が、大きな資本や組織によらず、まさにたった一人あるいは数人の個人によってなし得るのである。

 こういう放送局は、スポーツや娯楽関係はすでに数多いが、ニュース報道や文化関係ではまだまだ少ないのが残念だが、今後どんどん増えていくのではと思える。
 かのホリエモン氏が言う「テレビ・ラジオとネットの融合」の、大きな示唆がありそうな気もする。

 インターネット新聞の方は前から知っていて、一昨年中国の北京広播学院で交換授業をした際にも、一つの素材として日本のそれらを紹介したりしたが、今回久々に覗いてみると、インターネット新聞「JANJAN」のほかに、やはり元新聞記者が始めた「My News Japan」というのも出来ていて、なかなか水準が高かった。

 放送局と合せ、ネットのジャーナリズムメディアとして今後期待される。



3月17日  春雨

 今日、朝から大学へ行き、委員会ののち教師仲間4人で昼食を仮門前の店でとった。その際、雨が降り出していたが、行き帰りとも全く寒さを感じなかった。二人に小さな傘一つで、多少濡れたのに風邪を引くとかの不安も生じなかった。

 春雨である。2階や3階から見える風景も雨ばかりか春靄がかっていて、あたたかそうだった。もう冬への逆戻りはないとの実感が来た。
 ぼつぼつオーバーはしまうか。マフラーは薄手の方を念のためおいておこう。

 大学も今日で今年度最終教授会を終え、あとは25日の卒業式を残すのみとなった。



3月15日  短篇、試行迷走

 「季刊文科」に連作予定の南島シリーズ第2弾締め切りが、月末である。第1回の30号自体がまだ出ていないので、あまり切迫感はないが、しかしぼつぼつかからねばなるまい。
 
 素材は、しばらく前から漠然と考えていた沖縄か、あるいは1昨年末訪れた与論島か。
沖縄は昨年から2年続けて正月を過ごしているし、去年夏には旧満州の旅に沖縄の人たち大勢と参加しているから、書くことはあれこれある。
 
 が、ありすぎて、30枚の短篇にとても多くは盛り込めそうにないところが難点だ。何を書くか、何を捨てるかが、同じ比重で問題になってくる。書くより捨てる方が難しいという言い方もある。それに沖縄はまだまだ当分関わっていくつもりだから、次以降との按分も考えねばならない。

 で、浮上してくるのが沖縄の前に行った与論島である。ここは島の大きさもイメージも、自分の中で丁度ぴったり一致している感がある。
 順序としても、前作の「沖永良部」と沖縄の間そのものだ。どうも書きやすそうである。

 といったふうに気持が動き、今日は与論島の資料を読んだりネットで調べたりして、暮れてしまった。



3月13日  映画「パッチギ」(井筒和幸監督)を見る

 前から見たい見たいと思っていた映画を、今日、池袋のメトロポリタンビル8階シネ・リーブルで見た。

 プロデューサー李鳳宇(リ・ポンウ)、監督井筒和幸、主題歌にして話の一つの核が「イムジン河」(かつてフォーククルセイダーズが歌い、発売中止になった歌。南北朝鮮分断を哀しく歌うフォーク)、作の舞台は京都の朝鮮集落と朝鮮高校、時代は1968年頃、となれば、何やらきな臭くさえ感じる。

 が、実物は暴力に満ちてはいるが、ある種さわやかな青春ものでもあり、日本人二級高校生と朝鮮高校生のかわい子ちゃん(沢尻エリカ、19歳。ほんとにかわいい)との恋物語である。

 しかし、やはり根本主題は、日朝の歴史であり、日本の在日差別である。だから、からっとした展開に笑っているうちにも、重いものが迫ってくる。
 「イムジン河」はかつて私自身、青春時代にリアルタイムで聞き、発売中止になり、同時期に在日の北朝鮮帰還船もあり、赤軍派のよど号事件が起き、左翼の一部では金日成・正日親子の強行革命路線に期待する気運があった頃だけに、いろんな思いが重なる。

 朝鮮高校生と日本の学ラン高校生との喧嘩沙汰も、映画の舞台京都ばかりでなく、私の田舎名古屋でも、そして東京でも日常茶飯事だった。映画の世界は多分に戯画化されてはいるが、根本においては、私の時代そのものなのである。

 パッチギとは朝鮮式頭突き、私の田舎では朝パン(朝鮮パンチの略)と呼んでいた代物だ。これを食らったら最低鼻血で気絶、悪くすると鼻の軟骨骨折という強烈なものだった。
 このパッチギ、この作を見ていると、今でもというか、今まさに日本社会への強烈な頭突きとして見えてくる。



3月12日  静かな日常

 自宅におり、土曜日のゆえもあって電話も少ない。世間は休みだから、勤めの人からは電話もメールもまずないのだ。おかげで、静かなものである。

  午前、同居人は花粉症が怖いというので私一人で散歩に出た。土手の桜の蕾はふくらみ、そこここの梅はもう満開を過ぎつつあり、赤い桃の蕾がぼつぼつ開く間際の風情を示し、柳はもう黄緑色の芽を吹き始め、すっかり春めいたそよ風を実感した。

 図書館にも寄るつもりだったが、カードを忘れたので(このごろ物忘れが多い)省略し、自宅に戻って、届いて間もない4月号の文芸誌や月刊「遊歩人」など雑誌に目を通し、更に秦さんの湖の本「谷崎潤一郎の文学」も読み継いだ。

 午後後半は志木の街まで春物の靴下や下着などの買い物に出る予定だったが、だんだん億劫になり中止し、5時ごろから同居人主導でビールを飲み始めた。近来まれなことである。信州行きとか税金関係、その他いろんな用、それに寒さが一通り済み、ほっとしたと言える。

 尤も、そう思ってこれを書いている最中のテレビニュースでは、明日はまた冬型の寒さ、ところによっては雪とのことで、今日一旦しまった毛布をまた出さねばならない。今年はいつまでも寒いことである。ずっと暖冬と思っていたのに、世の中おなじことは決してない。まさに諸行無常(あらゆる物事・現象は同じでないの意)だ。

 そうそう、弘前の山内さん、雪は大丈夫ですか? 今、ニュースで家が潰れた映像が出ました。



3月10日  静かな大学

 教授会のため、今日、9日ぶりに大学へ行った。入試もすべて終っているし、学生たちは春休みの真っ最中で、構内は静かなものだった。一応開いている資料室やパソコンルームなどもほとんど人はなく、係員がひっそりいるだけだ。

 研究室にいても、普段は廊下越しにかなり音高く聞える足音や話し声がまるでない。
 教授会も緊張する案件はほとんどなく、どことなくのんびりしている。欠席も幾分多めだ。今頃は休みを利用しての研究旅行か、などと想像すると、こちらも穏やかな気分になる。

 その研究室で文芸科が出している「江古田文学」の最近号に目を通す。「インターネットと文学」特集に若手が多く書いている。去年、中原中也賞をもらった学部2年生久坂雉君と、今度『世界はゴミ箱の中に』(現代図書)というなかなか面白い「ITと文学」論を出した助手の青木敬士君の対談もある。

 ほかに古井由吉さん、西部邁さんの特別講演録もあって、読み応えがある。加湿器の湯気が出る音を聞きながら読み進め、気がついたら5時半を過ぎていた。あわててひとり研究室を出た。



3月8日  芝生瑞和((しぼう みつかず)急死

 6日日曜の夜遅く連絡を受けたが、7日の朝刊ではっきりした内容は、死亡日は3月3日、発見が3月5日、死因はくも膜下出血、発見が遅れたのは、沼津の別宅に一人でいたためのようだ。

 まだ59歳。パレスチナやイラク、ニューヨーク、ブラジルと、いつも飛び回っている印象の男だっただけに、突発的印象は免れない。ペンWiP(獄中作家委員会)副委員長として去年もスペインでの国際WiP会議に日本代表で出てくれたばかりだった。

 ぼくはこのところ奄美大島でのWiP集会や忘年会、新年会にも参加できずだったので、もう半年ほど顔を合わせぬままになっていたが、テレビのニュースで彼がアラファト議長にインタビューしたりする図を見たりしていたので、そんなに会っていない気もしていなかった。

 語学が堪能で、視点のはっきりした得難いフリー国際ジャーナリストだった。世代が近いせいと、無邪気なところのある性格が合って、私とはわりあいウマがあった。政治的意見も似ていた気がする。そのせいもあって、私は彼の著書をNHKの「週刊ブックレビュー」で取り上げたこともある。

 彼は戦時中の荒木貞夫陸軍大将・文部大臣の孫で学習院出身、かつ奥さんはブラジルの大富豪出身、という不思議な家柄・背景だったが、どう誤解してか私のことも「夫馬家も由緒ある家系だよなあ」なぞと言ったりするのが愉快だった。ナニ、私の家は濃尾平野の農民の家系に過ぎない。ちょっと馬に乗って走りまわっていただけだ。

 それにしても、このごろときどき世代の近い知人・友人がぽろっと亡くなったりするようになった。ドキリとすることではある。



3月6日  秦恒平さんの「湖(うみ)の本」シリーズのすごさ

 秦さんからまた「湖の本」を頂いた。
 「湖の本」というのは、作家の秦恒平さんが18年前から始めた自作の創作・エッセイなどのシリーズで、特徴はあくまで作家自身による編集制作(御家族の協力はある)、資金も自前、代りにソフトカバーで表紙・装幀は全巻同じ、ページ数は毎回140−150ページ程度で均質化、販売は直販、HPを通じての申し込み、のものである。

 自費出版は昔からあるが、それとも少し違い、かつ最大の違いはすでに18年間、82巻もシリーズが継続していることだ。全部併せれば原稿用紙3万枚分とか。ハードカバーの全集にしても、たぶん20巻は超える大全集となろう。

 今回頂いた最新刊は、エッセイ33『谷崎潤一郎の文学』で、「清経入水」で昭和44年太宰賞を受賞されて以来、個性的な小説家であると同時に、訴求力と熱情こもる評論でも知られる氏の、御本人曰く「もっとも愛着ある、書かずにはいられなかった谷崎潤一郎論」である。

 まだ読み始めたばかりだが、私も谷崎は好きだし、大学での先輩同僚・作家の尾高修也氏が先年、優れた谷崎論『青年期 谷崎潤一郎』を出されていることからも、楽しんで仔細に読もうと思っている。

 昨今の出版事情、文学の衰退、いい本が売れないばかりか出版発表の機会さえ失われつつある状況に果敢に挑み続けておられる69歳の先輩作家に、心から敬意を表したい。
 しかも氏は、こういう個人業の実績の上に立って、ペンクラブでの電子文藝館を実現、拡充されているのである。そちらもすでに570作、傑作名作多数を含めすべて無料で閲覧できる、オンラインでも最大の図書館だ。
 
 わがHPの読者諸氏よ、両方合せ、ぜひ一度御覧下さい。「秦恒平」あるいは「電子文藝館」で検索すれば、すぐでます。



3月4日  雪 そして、さばさば

 昨日は、西武の堤義明氏が逮捕され、日本も多少の自浄能力はあるかと思っていたら、今日は早朝から雪だ。
 細かい粉雪が降り続け、だんだん積もっていった。

 雪景色の清浄さはいつ見てもいい。降っている時は空は灰色で暗いのだが、木々がだんだん雪に白く装われて、ちょっと樹氷みたいな見栄えになっていくのなぞ、実にきれいだ。灰色の雪片が横降りに次々と舞っていくさまも、精神までもしんしんと静もっていくようで、私は好きだ。

 作品がとにかく満足のいく形で仕上り、先の展望もともあれ生じ、出来た時間で昨日今日の午前と懸案の確定申告をすませた。驚くことに税額が去年と全くぴたりと同じだったのは、偶然にしても出来すぎみたいな気がした。

 何かいいことの予兆だと思いたい。
 これで学校の春休みとしての3月(出校日はまだ3回あるが)の使い方が、やっと視野に入ってきた。

 まずは信州にちょっと用がある。
 さて、どう日程をたてるか。余裕を持って考えよう。



3月2日  ああ、一段落 しかしこれから

 昨日、出校中に研究室にこもってとにかく長編を書き上げた。自分では、出来た!の実感があり、一種の達成感さえある。こういうことは珍しいから、たぶん作品も客観的に悪くないのではと言う気がする。

 ただし、他人、というか世間の反応はむろん分らないし、甘くないだろう。どうなるか、やきもきしつつ待つしかない。

 いづれにせよ、今日は久々に晴れ晴れした気分だ。体調も悪くないし、昼食は同居人と外に食べに出、梅の香なぞかぎながら土手を歩いて帰った。
 帰ると学生時代以来友人の作家・青野聰から嬉しいメールが来ており、またいい気分になった。友はやはり有り難い。

 彼は4月に1年間、サバチカルでロンドンに行く。家族連れでの海外生活はまた面白いだろうな。
 そういえばぼくも今年の夏から9月には、西域へ行く予定だ。

 むかし27歳の時、西遊記の旅として行こうとしたが、当時は個人では通れず、代りにシベリア・イルクーツク経由カザフ、ウズベックと天山山脈を北側上空から眺めて通リ、アフガン経由、パキスタン、インドへと入った。その旅がぼくのいろんな意味での原点である。

 ゆえに、長年、中国領天山南路に欠落感を抱き続けてきたのだが、それが還暦を過ぎてやっと埋まるという次第だ。トルファンなど、8月の平均最高気温42度とかいうのだが、暑さに弱いぼくなぞ、いったいどうするか。でも、楽しみだ。

 今日の充実といい、人生はまだまだ面白い。



2月28日  如月おわり、明日は弥生へ

 今日は予定したペンクラブの会合を欠席し、部屋を24度、足温器を熱めにして、長編の直し作業を進めた。朝8時半から夕5時半まで、昼食30分を除いて頑張ったせいあって、だいぶ進捗した。

 明日はまた出校日で、委員会、教授会と会議があるが、少しでも合間があいたら今日の仕事のつづきを続けるつもり。そのためフロッピーをとり、遺漏なきよう準備した。明日にはぜひとも完成させねばならない。

 体調悪化せぬことを切望する。



2月24日  忙しい

 このところ猛烈に忙しく、この日記を書いている暇がありません。書きたいことも色々あるんですが、しばらく先にします。
 皆さん、ちょっと時間を下さい。



2月20日  ああ、疲れる 確定申告

 また確定申告の季節になってきた。私はフリー時代が長かったからもう30年以上ずっと申告し続けているが、何度やっても毎年気が重い。
 近年はパソコンで会計ソフトを使っているけれど、これも便利な反面、くたびれる。

 理由は要するに年に一度しか使わないから、使い方をすっかり忘れており、あまつさえ今年なぞは前のパソコンが壊れてしまったから、ソフト自体のインストールから始め、過去のデータもフロッピーなどから入れ直さなければならない。

 今、ほぼ午前中をかけそれだけやっただけで草臥れてしまい、このHPの日記更新に切替えたところだ。手順はどうやら思い出しつつあるが、つまりは1年分の領収書類を一つひとつ打ち込んでいかなければならない。

 折角の日曜日、そんなことだけでつぶしたくないという気がむくむくと湧いてくる。風邪ぎみもどうやら収まりかけたから、数日ぶりに散歩にでも出たい。いや、ぶり返しては困るから、赤城、日光など今冬一番の美しき山々を遠望しながら、音楽でも聴くか。



2月18日  ペンクラブ電子文藝館委員長秦恒平さんの骨太発言

 私は昨年3月まで電子文藝館副委員長だった縁もあり、秦さんのホームページをほとんど毎日愛読しているが、この15日、16日付の日記「作家秦恒平の生活と意見ー闇に言い置く私語の刻」が実に面白かった。

 それは14日に開かれたペンクラブ理事会にて、秦さんが電子文藝館「主権在民史料特別室」に次の掲載予定稿として、ある文書の件をはかったところ、井上ひさし会長は直ちに賛成したものの、中西進副会長は猛然と反対したばかりか、その出典に対しとても学者とは思えぬ感情的暴論をはいた。また他の理事は浅田次郎氏を始め数人が当の対象に対する評価は抜きにして、ただ、“問題が起きそうだからやめておいたら”式の発言だけをし、ほかは誰も何も言わなかった、というものだ。

 問題の文章とは、昭和49年刊行の中央公論社『日本の歴史』第22巻「大日本帝国の試練」中に納められた「日本皇帝睦仁君に与ふ」という一文(明治40年、在サンフランシスコ総領事館玄関に掲げられた文書)で、すでに長年公開されてきたものである。

 秦さんは新聞記者も傍聴している公開理事会でのことだからとして、率直にあらましを報告されているし、問題の文もHPに載せられているので、転載してみる。

 日本皇帝睦仁君に与ふ
                 (「暗殺主義」第一巻第一号 明治四十年十一月三日)


 日本皇帝睦仁君足下 余等無政府党革命党暗殺主義者は、今足下に一言せんと欲す。
 足下知るや。足下の祖先なりと称する神武天皇は何物なるかを。日本の史学者は彼を神の子なりといふと雖も、そは只だ足下に阿諛(あゆ)を呈するの言にして虚構也。自然法のゆるさゞるところ也。故に事実上彼また吾人と等しく猿類より進化せる者にして、特別なる権能を有せざるを、今更に余等の喋々をまたざる也。
 彼は何処に生れたるやに関しては、今日確実なる論拠なしと雖も、恐(おそら)く土人にあらずんば、支那或は馬来(マライ)半島辺より漂流せるの人ならん。
 今は足下は、足下の権力を他より害せられざらんが為めに、而(しかう)して其権力を絶大・無限ならしめんが為めに、其機関として政府を作り、法律を発し、軍隊を集め、警察を組織し、而して他の一方には、人民をして足下に従順ならしめんが為めに、奴隷道徳、即ち忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす。而して其必然的結果として生じたるは貴族也、資本家也、官吏也。如斯(かくのごとく)にして日本人民は奴隷となりたる也、自由は絶タイ的に与へられざる也。足下は神聖にして侵すべからざる者となり、紳士閥は泰平楽をならべて、人民はいよいよ苦境におちいれり。
 自由を叫びたる新聞・雑誌記者は、入獄を命ぜられたるにあらずや。単に憲法の範囲内に於る自由を主張したる日本社会党すら、解散を命ぜられたるにあらずや。こゝに於而(おいて)吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを。自由の敵なるを。吾人徒(いたづ)らに暴を好むものにあらず。然れども、暴を以而(もつて)圧制する時には、暴を以而反抗すべし。遊説(ゆうぜい)や煽動の如き緩慢なる手段を止めて、須(すべから)く暗殺を実行すべし。
 睦仁君足下。憐なる睦仁君足下。足下の命や旦夕(たんせき)にせまれり。爆裂弾は足下の周囲にありて、将(ま)さに破裂せんとしつゝあり。さらば足下よ。

 確かに激越な文章ではあるが、これからしばらくして「大逆事件」が起っていることなどからも、歴史的には貴重な資料であろう。
 それに関するやりとりが面白いし、考えさせる。皆さん、ぜひ、秦さんのHPを一見してみて下さい。

  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/



2月16日  雪  朗報なし

 今日は朝から雪である。正確にはみぞれ模様、積もりそうには思えぬがいかにも寒そうだ。温度差の激しい北側の書斎にはとてもいる気になれなくて、ずっと南の居間にいる。
 そこでひょっとしたら今日来るかもしれないある知らせを待った。

 が、やがて来たそれはがっかりする内容だった。かなりの時間をかけた大事なことだったので、相当の気落ちをもたらした。
 おかげで午後になっても着替える気になれず、未だにパジャマにガウン姿のままである。

 昨日、入試のあと江古田で同僚たちと少し飲んだおかげで、風邪ぎみが飛んだが、また元気なしだ。
 雪はもうやんだが、外の人はまだ傘を差しているから、寒いだろうな。外へ出る気になれない。
 


2月13日  思わぬフォークジャンボリー

 ゆうべ、やや風邪ぎみのため書見もやめ、のんびりテレビを見ていたら、たまたまBSで懐かしい面々が次々出てきてフォークを歌っていた。

 高田渡、南こうせつ、小室等、トワ・エ・モア、いるか、……といった具合。歌も「風に吹かれて」といったかつてのベトナム反戦歌から、「帰ってきた酔っぱらい」、「神田川」といったヒットソングまであれこれ。

 「神田川」では思わず涙ぐんでしまった。3畳間の下宿、冬の寒さのなか通う銭湯、カタカタ鳴る石けん箱の入った洗面器、若さと恋、場所も状況もよく知っている背景だけに、頭の中が即40年前のあの時代にフィードバックしてしまい、「♪若かったあのころー」というリフレインのたび、涙が出てしまうのだ。

 ああ、自分たちも懐メロ世代になったのか、と相棒と言い合い、しかし、布団に入ってからも「若かったあのころー」というリフレインが耳について離れなかった。



2月11日  春節三日  紀元節

 今日は中国や台湾、朝鮮半島、沖縄などでは春節(旧正月)の三日目に当る。いや、ベトナムなど南の国でもそうだったか。
 日本でも私の幼年時代ぐらいまでは旧正月がまだ生きていた。

 小学校時代以降は年賀状に「新春おめでとうございます」とか「賀春」と書くのを不思議に思ったが、旧正月なら立春後なのだから、まさに新春を寿ぐのは妥当である。ほかにも七夕とか桃の節句など、明らかに旧暦にした方がいいものがいくつかある。新暦の七月七日ではまだ梅雨のさなかで夜空は美しくないし、新暦の三月三日では桃なぞ片鱗も咲いていない。

 歳時記の世界もこのごろは新旧ごっちゃになってきた面があり、迷うことがある。

 今日は建国記念日、つまり戦前の紀元節だが、これも何の日だか起源を知っている人はまれになってきた。神武天皇がらみと知っている人でも、神武天皇の生誕日などと思いこんでいたりする。正確には紀元前660年の神武天皇即位の日である。

 だが、そんな遥かな昔の、むろん新暦どころか旧暦さえなかった時代の日が正確かどうかは全く定かでない。だいたい神武天皇は127歳まで生きたことになっているが、あの時代にそんな長命があったとは思えない。史実でないことは明らかだろう。

 が、神話であれ、この日に日本国家が成立したのか、当時の日本の版図はどんなふうで、どんな人たちが住んでいたのだろう、言葉はどんなだったろう、などと想像してみることは、それなりに面白くもある。

 版図は大和盆地を中心に畿内一帯と九州あたり(たぶん四国や日本海側は違ったのではないか)のみ、人間は支配階級が朝鮮からの渡来人、多数は縄文人的原日本人、言葉も支配階級は朝鮮語に近いもの、縄文人たちは今の沖縄語や各方言に近い原日本語だったのではないか。

 私の住む埼玉県のこのあたりは、落葉樹林帯の広がるいわゆる武蔵野で、斜面上の台地のあたりに竪穴式住居がぽつぽつと集落をなしていたのだろう。近所にそういう遺跡がいっぱいある。朝鮮からの帰化人はまだいなかったはずだ。馬はいたのかどうか?

 私は青年時代、自分の先祖は朝鮮半島から満州にいた騎馬民族扶余族だと夢想していたことがある。広野を馬に乗って駆けめぐり、やがて海まで渡って日本にやって来、そして濃尾平野から関東平野まで走りまわったのである。

 いやあ、結構結構、夢おどる。



2月9日  少し酔う 少し風邪ぎみ

 昨日は2回目の入試(映画、音楽学科)で早く出校し、午後は教授会と大学院の修士論文審査があった。仮設校舎の研究室は暖房の入れ具合がどうも飲み込めず(私は22−3度が適温なのだが、その設定だと寒すぎ、25度くらいにすると頭にかかってくる温風だけが暖かすぎるのである)、昼過ぎくらいからやや喉がひっかかり、微熱っぽくなってきた。

 が、そのまま会議などをこなし、5時から教え子の院生3年目S君と江古田駅近くへ飲みに出た。彼もこの1年ほど必死に取り組んできた修論審査が済んだし、私も読んだ(審査でではなく、個人的に)内容がなかなか良かったので、かねてパソコン不調の折など色々世話になった礼もかねて、いっぱい奢ることにしたのである。

 若い人と2人きりで飲むことなぞめったにないが、彼とは大学1年でわがゼミに入ってきて以来、丸7年のつきあいだから、肩が凝らない。話題もいっぱいある。卒業生の誰彼のこと、1昨年から去年にかけて彼が半年ほども放浪してきた東南アジアやチベット、インドの旅のこと、そして修論の内容(「マンガの政治力」)のことなど、盛りだくさんだ。

 酒もすすみ、刺身や寿司などつまみながら、3時間あまり大いに話した。熱燗を飲んだあたりから風邪ぎみは吹っ飛んだようだった。Sは3年も遅れて入ってきたからもう28歳なのに、まだ院の後期課程(いわゆるドクターコース)に進むという。

 私も4月から院での持ちゴマがひとつ増えるし、私の講座を彼がとるとらないにかかわらず、狭い学内のこととて更に3年はつきあいが続くことになろう。
 となると都合10年の師弟関係、というわけで、人間関係としても相当長い部類になる。

 かつて、文芸評論家の江藤淳さんが、かなりの期間教授として勤めた東工大を去る時、

  白梅や弟子ひとりなき別れかな   (上5,うろ覚えで、この通りかどうか定かでない。確か梅が出てきた と思うのだが)

 という句を最後の教授会で披露されたという挿話を思い出しながら、私は少なくとも一人は弟子がいるということかな、と考えた。
 かつては佐々木基一さんとか森敦さんなど師を持つばかりだったが、今は弟子を持つ心情が分るようになってきた。

 ただし、風邪ぎみは今日になっても直っていない。



2月7日  娘のマンション

 昨日は、隣駅近くに越して来るという娘夫婦のマンション内覧会というものがあった。ほぼ出来上がったものを検分し、あれこれ細かい手直しなどを要請するもので、予約新築物件ならではのなかなかいい制度だ。

 駅から10分、11階の部屋は、目の前が広々した某高校の敷地で樹木がいっぱいあり、右手には秩父の山も見え、見晴らしは絶好だった。北側は廊下でやや難点があるが、婿君はエレベーターに近いから朝一刻を争う時は便利でいいとのことに、なるほどそういう観点もあるかと思った。

 私などはつい、静けさ、書斎の条件などを優先して考えるが、毎日の勤め人である娘夫婦は感覚がだいぶ違う。まだ20代の年齢の割には立派な住まいであり、当人たちも満足げだ。ローンが大変だと、そのことを言う時ばかりはため息が必ず出るが。

 48歳までまともな住まいに住めなかった私には、それにしてもこの世代でまずまずの家を買えるかといささかの感慨がある。むろん、ずっとフリー暮らしだった私との生き方の違いが最大だが、地価安、金利安の社会状況もかなりある。私の住まいは買った時の半値ほどになったが、代りに娘の世代は有利になった。世の中、結局つじつまが合っているのかもしれない。

 引っ越しは3月下旬だそうだ。引越祝儀を少しやることにして、娘夫婦と別れひとり帰宅した。



2月5日  行水遠く梅にほふ里

 昨2月4日は立春だった。そのせいか近来まれな暖かい日で、外に出るにもマフラーが要らないくらいだった。

 所用で近所に出ると、そこここに梅の香が漂い、つい誘われて散歩してしまった。むかし小さな砦があったらしい柏城跡から、市の名物「旗桜(5弁のほかに旗のように立った6弁めがある)」のある長勝寺跡、ついで柳瀬川の土手である。

 遠景に多摩・秩父の山がかすんでおり、思わず水無瀬三吟が思い浮かんだ。

  雪ながら山もと霞む夕かな   宗祇
    行水遠く梅にほふ里     肖柏
  河風に一村柳春見えて     宗長

 むろん、ここでの山は摂津の国の山並であり、行く水とは後鳥羽院ゆかりの水無瀬川で、歴史も典雅さもだいぶ違うし、山もこちらの方が遠すぎる気がするが、しかし秩父の山もところどころに白い雪が見える上、柳瀬川も字や音まで似ているし、梅はあちこち、というわけで風情はまあ借りてもよかろう。

 色々あったがいよいよ春か、というのは、毎年変らぬながら素直な心情だ。
 この季節の推移による自然、そして時間と、大げさにいえば宇宙的神秘をほの感じる思いが、俗事・憂いをしばし忘れさせてくれる。

 さあ、とにかくまた生きるか。



2月2日  イラク総選挙

 結果が出るのは5日から最終的には9日ともいわれているが、シーア派偏重のアンバランスなものになることは間違いあるまい。フセイン時代、スンニー派偏重だったから、その揺り返しでやむを得ない面もあるとはいえ、公平とは言えまい。

 場合によっては内戦状態化へとも考えられるが、そうなるくらいなら、これを機会にクルド人国家が独立すればいいと思う。私はイラク戦争や湾岸戦争以前から、ずっとクルド独立論者だが、両戦争ともクルド人の民族自決は結局認めず、大国の利害、中東地域の非流動化、国家を持たぬ弱小民族の犠牲・抑圧、が前提にあるかのごとき流れには、納得しがたい。

 今回も私はクルド独立のきっかけになるなら、ある意味ではイラク分裂もチャンスと思っている。イラクなどという国家は、地図で見ても明らかなように地図上に定規でまったくまっすぐ線を引いて作られただけの、第一次大戦後の英仏などヨーロッパ列強の都合による、本来何の根拠もないでっち上げ国家なのだ。ならば、そんなものはイラク戦争という更なる理不尽を機に解体しても一向かまわないのである。

 イラク解体、クルド独立、アメリカ・イギリス軍撤退、中東民族自決再編、はないものか。
 米英の武力を背景にした訳の分らぬ見せかけの民主主義はごめんである。



1月31日  東京西部を歩く

 昨日は所用があって、東京世田谷の小田急線成城学園駅近くと、それから登戸乗り換えで南武線、ついで立川からモノレールに乗りついで立川市の立飛というところへ行った。

 小田急線はかつてよく乗った線だが、何年ぶりかで乗ってみると高架に変っており、馴染みのあった駅舎が全くなくなっていた。列車は沿線の家々の屋根のあたりを走り、駅はどこもほとんど同じ印象のコンクリートの直線ばかりが目立つ。

 また、立川駅周辺は「えっ、こんな大都市に!」という変りようだ。昔は駅の北側なぞ基地につながる広い空間だった気がする。それがデパートやらモノレール駅が出来、案外大きなモノレール列車(沖縄のゆいレールと比べるとずいぶん大きい)がするすると走っている。

 立飛がまたすごいところで、ほんとに真っ平らなところに大倉庫、ホンダの巨大な駐車場と販売会社、今まで見た中で最大のゴルフ練習場、宗教団体の大集会場と思しきもの、等がだだっ広く広がっているだけなのだ。民家的なものや、曲がりくねった道は一切ない。

 と、ここまで書いてきたところで、「たちひ」と読む地名の珍しさといい、ひょっとしたらここは元「立川飛行場」の跡地で、立飛は立川飛行場の略称あるいは通称だったものではないかと思いついた。むかし立川周辺には府中の中島飛行機の飛行場、横田の米軍飛行場、など複数の飛行場があったから、あるいは当時から立飛といった通称があったのかもしれない。御存じの方あったら教えていただきたい。

 いずれにしろ、目的は全然別のことだったが、この日午前から夕方まで東京西部を歩いてみて、「たまには街へも出なきゃいかんね」「そう、世の中変っていってるわなあ」と同行者と言い交わしたことである。
 帰途はまた立川から中央線で西国分寺乗り換え、武蔵野線で北朝霞、そこで東上線乗り換えという経路で帰った。武蔵野線も一昔前まではなかったものだ。



1月29日  ほっと一息

 昨28日卒論・卒制面接が終った。4年10名、5年2名、主査夫馬基彦、副査中沢けいで、午前10時15分から昼食をはさんで午後2時で終了だった。全員合格である。
 学生諸君も緊張していたが、こちらもこれで16年度分の在学生用学事の山は越えたことになる。

 あと、まだ学部長賞の決定やら、大学院修士論文の審査やらがあるが、量はさほどではない。もう一つあった教員昇格用の業績審査報告書も、今日午前書き終え郵送した。
 これで来週からは来年度用の入試、ついで3月25日の卒業式へとなっていく。

 入試は日芸の場合、2学科づつ毎週火曜日4回に分けて行われる。試験監督がずっと続くことになるが、文芸学科の2次を除けば直接さほどの役回りが来るわけではない。まずは一段落、のゆえんである。

 卒業予定者諸君、卒業式の日には大いに飲もう。なお、学生掲示板に関連事項を若干書いておいた。参照されたし。



1月26日  卒業制作読み一巡  雪が降る

 12篇約1400枚を一通り読んだ。予想より遙かによく、佳品、力作合わせて2篇を含め、大半が面白かった。詩的とさえ言える佳品、思わぬ設定の連発で迫る力作、はいずれも甲乙つけがたく、今のところ同点にしてあるが、少し時間をおいて、全体をもう一度見直し、面接に臨む必要があろう。

 その間に教員用文書の資料読みに入った。これも本1冊分あるので、簡単ではない。ゆうべから少しくしゃみが出たり、喉が引っかかったりし出した。あぶない、あぶない。
 で、昨夜は休肝日だったにもかかわらず酒を少々飲み、早めに寝た。

 さいわい熟睡できたので、何とか乗り切れそうな気がする。今日は足温器をつけ、足裏から暖めながら、書斎にこもった。
 早朝、外は雪模様だったが、今はやみ、曇天である。



1月24日  超いそがし

 このところ卒制を読み始めた。土・日も完全につぶして読み進め、目下6編を終ったところ。丁度半分だ。

 今のところ、出来具合はまあまあ。予想外にいい者もいれば、やや期待はずれもある。が、どれも当人としてはだいぶ頑張ったなという実感が伝わり、印象は悪くない。
 あと半分、こちらも頑張って読み、面接に望みたい。

 ほかにも教員用の大事な文書書きがあり、学生の卒制読みとどう調整するか気ぜわしい。学生諸君の4年はもう春休みムードだろうが、こちらは今が年度末の一番忙しい追い込み期である。
 さあ、また読むか。



1月21日  今年度授業終る

 今日の1,2年をもって私の今年度授業は終った。あとは試験期間、そして入試に伴う休みへと続く。
 私は試験は行わないが(日頃の授業で課題をしょっちゅう出すから必要がない)、4年の卒論・卒制審査が1週間後に迫っているから、あと1週間はその読みで忙殺される。1人平均9ー100枚で12人、中には300枚近いのもあるから、計約1400枚である。

 これまた大変なのだが、授業が終ったのはとりあえずホッとする。授業は毎回緊張の連続というわけではなく、雑談や和んだ時間も多いのだが、でも、やはりかなりの数の人前にたつことは、気の抜けないことでもある。
 それに、1年間の予定した内容が、いい結果を上げられたか否かも当然気になる。

 今日の1,2年生に関してはまあまあいい結果だった。それぞれ2人ほど、作家である私から見てもなかなかうまい文章を書く子が現れたし、それぞれ200ページからなるゼミ誌も充実していた。特に1年生のそれは、例年の倍の厚みがあった上、「旅の特集」など上級生を上回る内容だった。11名中7名が外国へ出かけ、しかも内容が面白い。

 2年は4月から江古田校舎進学となるが、どんな方向を選んでいくか。ゼミはだんだん専門化していき、私も3年からは本格的に小説を教える。文芸科へ入ったからといって誰もが小説や文学に向くとは限らないから、学生諸君もかなり考えどころだろう。年齢的にはまだ二十歳そこそこだから、方針がそう簡単に定まるわけもない。

 だいぶ悩んで3年のゼミや授業科目を選ぶことになろうが、そうやって少しづつ進んでいくのは先輩も皆そうしてきた道だ。大いに悩め、それが青春だ、としか言いようがない。教師も、むろん親も、誰も結局、決定的な指針なぞ与えられないのである。

 ホッとしつつ、そんなことを決まって考える時期だ。
 さて、1,2,3年に関しては年度末の成績評価をつけ、4年についてはどっかり積まれた卒制との格闘である。まだまだ教師業の荷は続く。



1月19日  首の痛みとれる

 1月11日付で首の痛みのことを書いたが、その後日ごとに痛みは薄らいでいき、北陸の温泉の効用もあってか、今朝ほぼ完治している。

 寝違いだったかもしれないし、もう一つ考えられるのは、今使用中のこのパソコンが10,8インチときわめて小さい旅行用なので、それで正月4日以来毎日長時間報告書などを書き続けたせいかとも疑っている。私は右目が特に悪いので、目の酷使による疲労が右首や肩の凝りになったのではという可能性だ。

 そういう例はあるだろうか? 御存じの方あったら教えて下さい。もしあるのなら、パソコンをやはりもっと大きいものにせねばならないかもしれない。机が小さいのでなるべく大きいのは買いたくないのだが。



1月18日  北陸から帰る

 15日から芭蕉の「おくのほそ道」の足跡を訪ねる一環で、北陸へ行っていた。かの歌仙「山中三両吟」を巻いた山中温泉、それに大聖寺、永平寺界隈である。ついでに、文章と雰囲気が好きだった作家水上勉さんゆかりの地、越前丸岡界隈、竹人形の里なども訪ねた。

 3日とも雨にて、寒く、空はいつも暗く灰色で、ああ、これが日本海側だ、と思いつつ、オーバーの襟を立てて歩き回った。去年、金沢で室生犀星や鏡花ゆかりの地などを歩いた時は、さほど天候は悪くなく、あまり暗い印象はなかったが、今年は終始空に抑えられるような感じがした。

 山中や永平寺には雪も残っており、永平寺なぞは堂内を経巡るのが足裏から寒さがしみわたる感じで、寒行みたいだった。北陸では「弁当忘れても傘忘れるな」と言うくらいだそうで、なるほどちょっと日が差したかなと思ってもすぐ雨が降る。そして時にかなりの吹き降りに。

 おかげでレンタカーは諦め、全部バスや列車などでまわったが、これはかえってよかった。いつも車ばかりだと、つい自分の空間が移動するだけになりがちだが、バスや電車だと地元の人の顔や会話がよく見える。待ち時間など無駄なような時間に思わぬ発見があったりもする。

 今後はなるべくこうするか、いつの間にかだいぶ車に狎れすぎた、と改めて思った。



1月13日  卒論・卒制提出

 今日、今年度の卒論・卒制提出があった。わがゼミ関係は予定していた4年生、5年生がおおむね提出したようでホッとした(未確認者もいる)。4年が11人、5年が1人か。4年には留年組も2人いて、彼らは来年提出となる。

 毎年のことだが、学生にとっては生涯唯一、そして学生期の最後のまとめだから、目が血走る。昨日あたりは皆必死で最後のプリント、製本、に汗をかいたはずである。

 今日は午ごろまでにほぼ全員が出し終り、3限目の時間、安堵感とともに四方山話をし、5時半からは近所の居酒屋で打ち上げ飲み会となった。といっても1人前980円料理コース(酒代別)というやつで、どう見てもたいしたものではないのだけど、しかし学生諸君は嬉しげに、満足げに、大いに飲み、食べた。

 酒には結構詳しく、芋焼酎の銘柄は何か、焼酎にはレモンではなく梅干しを付けてといったはずだ、などと結構うるさく注文を付けては、ビールからお銚子、ウイスキーのロック、などと次々飲む。私もこういう時はいろどりのいいものにすることにし、カシスグレープフルーツなぞというものを頼み、お代りまでした。

 料理もむろん追加となり、ともあれ満腹にはなったと思う。私はいつもの慣習でちょっと多めに払って帰ったが、若い諸君は更に2次会に繰り込んだようだ。
 4年はもう月末の卒制面接を除けば3月25日の卒業式まで、何もないのである。長い休み、ただし20余年にわたる人生のモラトリアム時代最後の休暇だ。彼らは今後、もうこういう長い休みはまずないのである。

 働き蜂社会である日本では、社会人になったら、夏休みですらせいぜい1週間、ひどい場合はお盆休み3日で終りなのだ。せいぜい最後の休みを謳歌するといい。有意義に使うことだ。
 みんな、元気にいけよ。



1月11日  首の痛み

 今朝、2年前の卒業生から長いメールが来て、久しぶりに先生のHPを見たら尿路結石の件以外はお元気そうで何より、と言ってもらった。

 ところが、その直後、右頸部が妙に痛いのに気づいた。触るとグリグリがある。「あれ、癌じゃないだろうな」とすぐ思ってしまったのは歳のせいだろうか。昨日、同い年の某氏が「友人が癌を発病したので、これから対策会議だ」と出かけていった話を聞いたばかりだったせいもあるかもしれない。

 病院へ行こうか迷ったが、例によって「家庭の医学」を読んでみると、寝違いの可能性もあるらしいので、一日様子を見てみることにした。大事でなければいいが、それにしてもだんだんいろんな故障が起るようにはなった。憂鬱なことだ。



1月8日  仕事始めで出校

 今日は新年の仕事始めだった。といっても、自宅書斎での企画委員会報告書書きなどはすでに4日から丸4日間書き続けていたから(計40枚書いた)、初出校日と言った方がいいかもしれない。
 学食での顔合わせ会は11時からだが、仮校舎や新しい研究室を早く見たいので、早めに出校した。

 わが文芸学科の諸施設および研究室は、エレベーターなしの3階。研究室はあけるなり「いやあ、うなぎの寝床!」と思ったが、真っ先に窓を開けてみると、表通りに面していて、すぐ前が居酒屋、電気屋、そば屋などと並んでおり、いかにも街へ来た感がする。

 これは廊下や階段を歩いてもそうで、近所の喫茶店やら裏口からの通り、駅近くの商店街がちらちら見え、やはり街なかへ来た気分になる。今までは隣のデザイン科の教室、隣接の病院やマンションの建物しか見えなかったから、だいぶ新鮮で楽しい。

 2階には外国語科と一般教育科の控室もあるので、それらに友人の多い私としては好都合だ。事務局とも渡り廊下でつながっているし、本館の放送科なぞとも意外に近くていい。問題は研究事務課が図書館棟に行ってしまったためずいぶん離れたことと、学食が遠くなったことだ。

 私は出校日には必ず学食で昼食をとるのを習慣にしてきたので、これは少々残念である。おまけにすぐ目の前に割合そばのうまい長寿庵が見えるから、今後は水曜は学食(放送科の元ニュースキャスター新堀俊明先生とお喋りしながら昼食をとるのが楽しい習慣なのだ)、木曜は長寿庵となる可能性が大だ。

 研究室の荷解きにすっかり汗をかいたが、うまくいけば元事務室で不要になった長椅子がもらえそうだから、そうなれば疲れた時なぞごろりと横になれるかもしれない。もっとも幅がだいぶ狭いからそううまくはいかぬかもしれないが。
 所沢校舎同様、こちらも3階までいつも階段を上り下りするのは、足の老化防止に丁度いいかもしれない。

 研究事務課に書類3種も提出したし、研究室もどうにか落ち着き、これでホッとした。あとは来週からの授業開始を待つのみである。
 学生諸君はこの新校舎にどんな反応をするだろう。



1月6日  沖縄(2)

 12月30日は車でのんびり東海岸を南下、途中、沖縄では一番高い場所にあるという高江集落で休憩したり、かの宮里藍ちゃんの出身地という平良集落を通ったりした。そこからは島を横断、本部半島に入り、今帰仁城址、ふくぎ並木の残る備瀬集落を経て、沖縄人が必ず「見ていけ」と上げる「ちゅら海水族館」に入った。

 いやあ、ホント、ここも見事。高さ4階分ある大水槽にまるで飛行船のようなジンベエ鮫が悠然と泳ぎ、ほかに鯖やら鯛、大エイが視界一面に泳いでいるのだ。私は水族館が好きで、東京でも、またどこか訪れるたび海辺の施設ではたいてい見てきたが、ここはまぎれもなく過去最高である。誰もがホウホウと声を上げ、しばし陶然と動かないのだった。

 そのあとは中部の沖縄市、旧コザの町に入り、市中心部のデイゴホテルというシティホテルに30日、31日と連泊した。コザは私などにはすぐ記憶に蘇る、かつて沖縄復帰前夜、いわゆる「コザ暴動」が起った地で、復帰運動時代の象徴的場所なのである。

 町なかのシティホテルを選んだのも、そのコザ暴動の中心部だった通称ゲート通り(嘉手納基地のゲートからまっすぐ続いている。現在の名は空港通り)からほど近いからで、デイゴホテル自体、かつて本土から運動支援や取材などに入った知人たちの口からしばしば聞いた名だったからだ。

 ツイン2人で1万円ほどの料金も安い上、部屋は結構広く、5階に見晴らしのいい大浴場もあるから、悪くない。おまけにすぐ横手にはかのりんけんバンドの実家、沖縄漫談師照屋林助さんの「コザ独立国国立劇場」(1階が三線の店と住宅、2階が劇場になっている)なのだった。1階の店をちょっと覗いてみたら、林助さんの長女、りんけんの姉という方があれこれ話して下さり、コーヒーまで淹れると言われた。

 私はコーヒーアレルギー(珍しいけどほんと)なので遠慮して、問題のゲート通りへ(長女さんは"私たちは夜あそこへは近寄らない"と言われた)。
 なるほど、英語看板の店がずらりと並んでいる。衣料品店は大半がインド人経営だし、みやげ物屋、ヌードショーの店、ナイトクラブ、レストランなど。さほど長くはなく、10分ほど歩いていけばそのままゲート正面に行き着いてしまう。
 インド人の店は私には懐かしかったが(昔インドやサイゴンなどでずいぶん見た)、こんなところで出会うとなると妙な気分である。

 大晦日にはここを通行止めにして「オレンジレンジ」の紅白出場コンサートが開かれた。とはいうものの、私たち夫婦はどちらもオレンジレジンなるものを知らず、寒風のなか覗きに行ってみたが、寒いだけで全く興味がわかずすぐ帰って、結局テレビで見たが、やはりちっとも面白くなかった。

 それより、二晩とも夕食をパーク通りにある「オ・ペイシ」というブラジル料理屋で食べたのが、よかった。本土の千葉県からサンパウロ6年、ついで日本では一番ブラジルに気質が似ているという沖縄のここに移住して4年の、若い夫婦がやっている店だった。どうやら二人ともカーニバルとサンバ狂いの人と見えた。
 椰子の芽のサラダ、鮫とトマトのココナッツミルク煮、黒豆と干し肉の煮込み、それにブラジル産黒ビールなどがお勧めである。

 31日の朝は近くに住む山城成剛さん(旧満州内モンゴルのオニュウト入植者)が訪ねてきて下さったりもした。山城さんは嘉手納基地のフェンスのほど近くに住むのだが、何年か前その騒音補償で得た20万円を、かつての入植地で世話になった幼馴染みのモンゴル人ソージュー氏の息子・娘の結婚祝いに贈ったという偉い人だ(20万円は向うではたぶん2年分くらいの年収だろう)。

 大晦日のお昼ごろには、車でほど近い東南植物楽園を訪れた。ここも満州の旅で一緒だった台湾出身の大林静枝さんが経営の一角にいる場所である。
 椰子林が台湾の美濃(メイノン)を思わせる深さと美しさで、すばらしかった。

 中のレストランで食事中に探しに来てくれた大林さんが娘さん(40代か? ここの現社長である)を紹介して下さり、私たちは社長の案内で園内の一角を見て回った。万華鏡や竹楽器のコレクションがほかではないものだった。実生から育てたという樹齢37年の椰子林がやはり一番よかった。

 さて、翌日いよいよ年あけた元旦は、浦添市に住む宮里静江さん宅を訪ねた。彼女は今年72,3歳、やはりかつての内蒙古「青雲」入植者で、13歳で入植、翌年敗戦となり、ソ連軍に追われるようにして着の身着のままで逃げ、一時オニュウトにいた後、チチハルの収容所(元日本人中学校)で1年いる間に妹、父、母を次々亡くし、全くの孤児となって15歳で引揚げてきたという人である。

 その引揚げ港となった葫蘆島に関する映画のビデオ(近代映協制作)を届けようと寄ったのだ。
 着くと息子さんが迎えて下さり(彼も夏の旅で一緒だった)、なかなか瀟洒な静江さん宅に入った。広いし、清潔だ。私は正直ホッとした。なぜなら、“死んだ家族の顔はどうしても思い出せない、15にもなっていたのにどういう訳かその部分の記憶だけがスッポリない”という宮里さんが、その後の生活も不遇だとしたらこの世は救われない、と考えていたからだ。

 おまけに子供・孫にも恵まれておられ、この日もまもなく何人ものお孫さんたちがにぎやかに正月の挨拶に訪れたのを見て、田村も同感だったらしく、“宮里さんが幸せそうで本当によかった”と帰りの車のなかで呟いた。

 私たちはそれから南部の平和祈念公園とひめゆり資料館に向った。斎場(セイファ)御嶽にしようかとも迷ったのだが、ウタキと久高島は来年にまわすことにして、今回は初めての田村のためにもとにかくこの2カ所をと考えたのだ。
 そうして、これが思わぬ結果をもたらした。

 なんと、私たちは平和祈念公園のずらりと並んだ沖縄戦没者墓碑銘のなかに、長野県「田村忠夫」、つまり田村の伯父の名を発見したのだ。軍医として沖縄で戦死したとだけ知っていた伯父、その伯父の死がなければ次男の田村の父は長野県に戻ることはなく、従って田村の故郷となることもなかったというゆかりの人物である。

 私たちは声を上げ、墓碑銘の記念写真をとった。
 そうして、次にひめゆりの塔と資料館を訪れたのだが、私たちはさらに驚くことを知った。
 ひめゆり隊とされる沖縄師範と第1高女の女学生たちが派遣された場所は、当時の南風原陸軍病院であり、その後彼女たちが隠れたガマ(壕)は、その陸軍病院第2外科避難所だったというのだ。

 田村忠夫は外科医だったのである。勤務先は南風原陸軍病院だった可能性は極めて高いし、となると第2外科だったか否かはともかく、いずれにしろひめゆり隊などと似た状況下のガマやその近辺で死んだ可能性は高かろう。
 終戦時満1歳半で台湾からの引揚げ者だった田村は、その辺の詳しい話は全く知らなかったというのだけれど、たまたま訪れた地で知ったこととしては相当の発見だ。

 最後の夜、そして元旦の夜は、那覇のホテルに泊まり、正月のこととて餅つきや振舞酒に楽しんだが、昼間の余韻はずっと私の胸に残った。直接の関係は何もないと思えていた沖縄が、実はちゃんと関係があったと知ったのである。
 
 翌朝はまた、満州の旅の仲間、松川邦雄・和子夫妻がホテルまで来て下さった。葫蘆島のビデオを差し上げると、お返しに10年以上たつ泡盛の古酒、与那国島産の「舞富名」を下さった。酒好きの私は思わず頬がゆるみ、田村から「あの喜びよう」とからかわれた。

 いい旅だった。来年もまた行く。



1月3日  沖縄から雪の残る内地へ(1)

 12月27日から昨1月2日まで沖縄にいた。
 27日は那覇の「わらじや」で、又吉盛清沖縄大教授の又吉学級忘年会が開かれた。又吉さんが沖縄タイムス連載の「沖縄人・兵士・植民地」で第10回平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞された祝いの会で、上原待子さんの知らせで私たち夫婦も埼玉から参加するというためか、12名が師走の忙しいなか集まった。

 店も、女主人の諸喜田弘子さんが夏の旧満州の旅のメンバーである縁だ。おかげで会費の割には豪華な沖縄料理が次々供され、私も田村もホウホウと言いながらソーキやら豚足、ゴーヤー、豆腐チャンプルーなどに舌鼓を打ち、うまい久米仙の泡盛の杯を重ねた。

 ついにはカチャーシーまでが始まり、他の客を含めた店中の人全員がタオルをリレーされるたび順に踊るのだった。噂には聞いていたが、なるほどこれがカチャーシーかと、生れて初めての私も見よう見まねというか阿波踊りふうの勝手な手振り足ぶりで踊ったのだが、いやあ楽しかった。

 おかげで最初の宿に着いたのは10時40分ぐらい、入浴して床についたのは0時過ぎという具合だった。
 翌日はまたメンバーの砂川八重子さんが、軽乗用車で普天間基地から沖縄国際大のヘリコプター墜落現場、嘉手納基地、象のオリ、ヘリポート基地建設予定地の辺野古の海、と雨の中を一日案内して下さった。

 暖かいと思っていた沖縄の気候が雨で予想外に寒く、辺野古の浜なぞは風がピューピュー吹きつのった。しかし、きれいな海であることは一目瞭然で、その入江からの沖合一帯、ほとんど視界の90%ほどが埋め立てられ騒音激しいヘリ基地になると具体的に示されると、いったい何たることと怒りが沸いてくる。情けないと言ってもいい。

 砂川さんはそれに反対するため、毎朝5時半に起き、近くの米軍基地ゲート前に二人で立って「ヘリポート建設反対」を訴えていらっしゃるのだった。ほかに浜近くにはテントによる団結小屋もあり、座り込み組も何人かある。
 更にはカヌー隊というものがあって、前日までは毎日カヌーで沖合まで出、建設予定地の単管(櫓のようなもの)周辺で1日6時間以上建設阻止行動をとり続けているというのだった。

 ウームとうなるような地道で大変な闘いだが、防衛施設局も政府も退く気配は見せていないから、これがいつまで続くのか。
 私はだいぶ疲れ、憂鬱な気分で、この日も夜9時半ごろに宿に入ったのだった。

 3日目はそれから逃れる意味もあって、一転、基地からは離れ、北のやんばる(山原)地方へとレンタカーで東村まで走り、「シドマス・イン」という名のベトナム風の不思議な宿へ行った。全くの山のなか、森の脇に大きな一軒家ーそれがどういう訳かベトナム建築なのだーがあり、いわば自然好きばかりが集まっているのだ。

 ここは値段も安く、しかし部屋は広々し、食事も1500円の刺身定食は近海のエラブダイなど8種の新鮮な刺身が大皿に盛られ、まことにうまく、気分がよかった。食べきれないほどである。
 夜は全くの静寂、というか野鳥の鳴き声だけがあれこれ飛び交い、広い空と雲と森が月明かりに青白く広がっているのだった。

 いやあ、よかった。ここは一泊では惜しい、また来よう、そう思いつつ寝、翌朝起きると、宿のおっちゃんが近くにヤンバルクイナがいると教えてくれたので行ってみると、ホント、いる、いる、ちょっと歩くうちに絶滅寸前とされる貴重種が7羽も目撃出来たのである。

 いやあ、満足、感激。そして、そのあとーというところで、以下次回。乞う御期待である。