風人日記 第十三章

希望のシーズン
  2005年4月1日〜6月30日


2005年3月25日日芸卒業式後の夫馬ゼミ飲み会にて。
スカートにシルクハット、モーニング姿で式に臨んだ卒業生寺本達史の
シルクハットを借用した。
撮影:修士修了・杉浦基(修士論文で湯川制賞)






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



6月29日  やあ、お湿りだ

 ふつう、雨は鬱陶しいし、私自身あまり好きではないのだが、暑い空梅雨が続くと、一体どうなるんだという気がしてくる。そこへ、久々の雨である。

 いやあ、いいねえ。緑が文字通り瑞々しくなるし、すっかり伸び揃ってきた緑田も生彩を示す。あじさいの色も映える。わが皮膚の痒みも少しは減る。

 明日は学部長選挙第1次投票だ。気分もすっきりいきたいものだ。



6月27日  暑いなあ

 今27日午後1時15分。南側リビングのサッシ戸に外付けの室外気温計では摂氏35度。直射日光下ではもっとだろう。

 湿度は分らないが、とにかく暑い。図書館に返却予定の本があるのだが、外へ出る気にならない。
 代りに電話ばかりが行き交う。さっきかかってきた電話は40分の長話となった。昨夜のそれも同じくらいだ。いずれも選挙がらみである。

 いやあ、暑い、暑い。



6月25日  シルクロードの本

 夏休みに中国領シルクロード、昔風に言えば長安の都から入って敦煌、天山南路北道・南道を一巡りしようと思っているので、このところその種の本を読んでいるが、つまらぬものが多い。

 シルクロード通とか東西交渉史などの歴史学者が書いたものでも、要するに珍しいシルクロードをいかに苦労して、その実中国側や旅行社の言うとおり動いたかが書いてあるだけだったりする。文章は無味乾燥なレポート文そのものだ。

 そこへいくと、今読んでいる陳舜臣の『シルクロード巡歴』は、何よりも文章がいい。歴史的知識や背景と相まってのふくらみと味がある。作家の文章だなあ、というのが率直な実感であり、ゆえに改めて作家の文章力というものを感じた。

 小説や文芸全体の地盤は世の中でずいぶん下がったが、しかしやはり文芸作家の文章は違う。丸く、柔らかく、読みやすく、心地よい。
 文章の良さとは、即、文化の品位であり、人間の含蓄、奥行きである。

 私は陳さんのおかげで、自分が作家の端くれであることにも改めて誇りを持った。売れなくとも、本が出なくとも、まだまだ捨てたもんじゃない、やっぱり書き続け、作家であり続けようとひとりゆっくり頷いたものだ。

 今晩も明日も慈しんで陳さんの『シルクロード巡歴』を読み続ける。



6月23日  日芸してる

 昨日、学校の廊下でばったり出会ったあごひげの4年生と立ち話になった。彼は2年次のゼミ生である。

「やあ、しばらくだな。どうしてる?」
「あ、このごろライブハウスで歌ってます(註:彼は文芸科生である)
「歌?」
「ええ、オーディション受かったもんですから」
「ふーむ。プロになれそうなの?」
「さあ」
「4年だろ、就活は?」
「あんまりやってません」
「あんまり?」
「全然です」
「じゃ、卒業後どうするの?」
「どうしましょうね」
「………」
「あ、Sは内定しました」
「お、どういうとこ」
「ドトールです」
「そうか。管理部門かな」
「店長候補らしいです。出身地で勤務すると言ってます」
「なるほど。いいかもしれんな。他のみんなは?」
「全然です」
「全然って?」
「日芸してます」

 初めて聞く言葉だったが、意味はすぐ分った。

「ふーん、日芸してるか(笑)」
「ええ、そうです(ニヤニヤ)」

 というわけです。皆さんお分りかしら。



6月20日  選挙の季節−市長選、総長選、学部長選

 昨日は地元志木市の市長選挙だった。評判の良かった現市長が突然一期のみで退任を表明したため、県議と市助役の新顔二人の争いとなった。

 県議の長沼氏は地元で育ち25歳の埼玉大学院生のとき全国最年少市議となって以降、市議6期、県議3期(補選2回)50歳の市民派無所属。助役の児玉氏は県職員から出向というか天下りで市役所へ来てこの間助役をしていた60歳、市会議員19人中18人が支持(共産、公明党も含む)。公約・政策は殆ど同じ。

 ウームである。経歴人柄からいえば長沼氏で、これまで市議、県議選で私は彼を支持してきた。カンパしたことさえある。が、市議19人中18人が助役につくということは、長沼氏はよほど仲間内からは評判が悪い、あるいは人付き合いが下手と言えよう。

 一方、私はかねて役人や官僚は嫌いだが、しかし中には有能・個性的人物もないではない。児玉氏はたぶん実務的に有能なのだろうと思える。

 実際、長沼氏は広報を見ても新聞記事などのコピー羅列ばかりで、自分としての施策がはっきりしない。人間もこのごろではすっかりネクタイ姿ばかりで、だんだん地方政治家であることに狎れてきた感があるし、かつてのジーパン議員的清新さがうしなわれた。

 私はいささか迷い、だが結局、長沼氏に投票した。理由は、やっぱりただ役人ばかりやって来た人物を好きになれない、行政能力は未知数でも体質・姿勢自体に市民性・リベラルさのある方を選ぼうと考えたからだ。

 結果は長沼氏約13000票、児玉氏約8000票で、長沼氏の圧勝だった。まずは良かったというところである。

 もう一つ、昨日は大学の総長選がらみのあれこれもあった。投票日が今週と迫ってきたので、二人の候補者サイドから所信表明の速達2通、電話2通、それらのなかで話題になった2日前のかなり長文の差出人のはっきりせぬ郵便物に、発売中の週刊文春誌(関係記事が出ている)、と目と耳両方で確かめねばならぬものが結構あった。

 これもフームである。政策は85%同じだし、どちらも私は今回まで名前もろくに知らなかったし、個人的知識も全くない。先々週、巡回立会演説会で初めて顔と声を知っただけだ。
 ムムム、さて、どうするか。

 今回はどちらがいいという確信がどうも生じない。
 しかし、もう時間はなくなってきた。ええい、従来からの私の価値観と直感で決めるしかあるまい。

 もう一つ、来週には学部長選もある。こちらは身近だし、利害も当然あるし、下馬評に挙がる人物らのこともかなり知っているから、かえって面倒でもある。
 うーむ、さて、とまたしても考え込まざるを得ない。

 梅雨にしては暑い日射しの日々の、面白いような、さりとて晴れとも鬱陶しい雨ともつかぬ、迷わせる日和具合ではある。



6月18日  野茂とイチロー

 野茂が200勝、イチローが大リーグ1000本安打の記録を作った。
 大したものである。

 私は、目下現役のスポーツ選手ではこの二人が一番好きである。理由は、戦績もさることながら、彼らが開拓者精神と一種の求道性を持っているからだ。

 野茂はまだ誰も行こうとしなかったアメリカ大リーグへ敢然と一人挑戦していったし、イチローもバッターとしては圧倒的に体力の違う大男の世界へ、やはりパイオニアとして立ち向かっていった。

 そして野茂は、しばしば不調にもおそわれ、次々とチームをさすらい、時にはマイナーリーグにまで落されながら、屈せず投げ続け、ついに今回の達成となったのである。
 あの、ヒゲ面と厚い胸板、独特のトルネード投法、そしてボソッと言い訳や愛想など抜きに一言二言だけ喋る態度がいい。

 イチローの短打打法、全力疾走、黒バットを立ててまっすぐ前方を見つめる視線。これもいい。

 私は体力・才能に恵まれず、小学校時代この方、野球やスポーツに関してはいい実績や扱いをついぞ実現出来なかったが、せめて文学および人生の世界では、この二人の生き方の爪の垢ぐらいは飲みたいと思ってきた。

 スポーツと違ってこっちは一生続いた上でのことだから、まだまだ結果は出ていないが、開拓者精神と求道性は持ち続けるぞと思っている。



6月16日  就活

 昨日、連句の授業時間に黒いリクルートスーツで来ている女子学生がいたので、「就活?」と聞くとそうだという。
「もう、だいぶやった?」
「はい、面接だけで10カ所くらい」
「どんな関係?」
「証券会社です」

 これは意外である。当人は日芸の文芸科生なのだ。普通なら出版編集関係が大半だろう。
 で、他の諸君にも聞いてみたところ、放送科生は大半がマスコミ関係と答えたが、もう一人いた就活中の文芸科生男子がやはり「金融関係」と答えたので驚いた。
「銀行?」
「いえ、証券です」

 まれに銀行とか公務員、それからごく普通の一般企業に行く子はそれなりにいるが、証券会社志望複数と出会ったのは近来初めてだ。
 で、その男子学生に尋ねてみた。
「なぜ、証券?」
「資産運用とかに興味があって」
「…………」

 私は次の言葉がすぐは出ず、ウームと唸った。感心したわけでも、否定的に思ったわけでもなく、ただ「想定外」で話の接ぎ穂が浮ばなかったのである。
 そして、不動産会社や証券会社、時には金の延べ棒会社なぞから、夕食時や夜まで時間を問わずちょくちょくかかってくる「資産運用の」電話(たいてい新入社員と思しき若い声だ)を思いだし、言葉を飲み込んだ。

 そういう証券会社員が、休日に連句などをやってくれるのは大いにいいことのような気がするのだが。



6月14日  緑田にぬき足さし足人と鷺  南斎

 今朝、梅雨の間の曇り日なれど雨もなく湿気も少ない心地よさに誘われ、1時間ほど散歩してきた。田んぼの稲が早くも15センチほどに伸び、やや離れてみると、ほんとに一面緑色である。

 確か去年のこの欄にも書いたが、青田ならぬ「緑田」という語感がぴったりだ。で、私はこの語を勝手に季語とすると宣言したのだったが、それを用いての1句が上掲のもの。

 緑田に白鷺は古来ぴったりの景物だが、一人だけ農夫が機械植えしたあとの田の苗の具合を見ては足りないと思しきところに苗を補植していくのである。必ずしも連続的に植えるわけではないから、動きというか歩幅が自ずとゆっくり大股になる。

 帰途、図書館に寄ったついでに、近くで鈴なりのゆすらうめの実を見つけ、6,7粒とって食べた。口に含みピッと種をとばしながら食べると甘酸っぱく、幼年時代を想い出す。

 それにしても近頃はこういう木の実生り物をみな一向とらない。桑の実、枇杷までがぽたぽた落ちていたりする。飽食のせいか、それとも食べられること自体を子供たちなぞが知らないのだろうか。フシギな時代になってきた。



6月12日  娘にお呼ばれ

 今日は娘に昼食のご招待をいただいた。
 隣駅に引っ越してきてほぼ3ヶ月、マンションもどうやら片づいたので、わが夫婦を呼んで午餐会というわけである。

 引越し直後は木々は枯れていて窓からの風景も冬景色に近かったが、今や緑は濃く、リビングに座っても視界はほぼ一面の緑だ。広いベランダには手作りの簀の子ふうボードが敷かれ、鉢植えの深紅の花もきれいだった。

 考えてみると娘の自宅に招待されることなど結婚直後の官舎に一回あっただけだから、これで2度目か。手料理もだいぶうまくなっており、ビールは私の好みのヱビスをちゃんと用意してあったり、なかなか気を遣っている。他に冷たく冷えた韓国産マツカリなぞもある。

 婿殿は殆ど飲めぬ人だから、もっぱら私一人で昼酒となったが、新しいフローリングの床に座る昨今流行の形式、周りの装飾は去年のタイ旅行で揃えたらしい民芸品や仏像の首、など。

 トイレはドアを開けて入るだけで、便器の蓋がポンとあく具合で、わっと驚く。浴室は乾燥室兼用である。キッチンも各室も収納スペースが多く、家具があまり要らないのもさっぱりしている。

 何事も新しいのはいいものだ。婿殿は昇格試験と研修を終え、来週早々、昇格・新赴任となるそうで、それも目出度い。勤務地が新居から近くなるといいのだが。

 といった具合に、今日はめったにないお呼ばれ日となった。
 そうそう、父の日の祝いでもあるそうだった。



6月10日  11年前の卒業生3人来る

 昨日、大学の研究室へ3人の中年になりかけた男が訪ねてきてくれた。いずれも11年前の卒業生、ただし、うち二人は5年卒業であり、更にうち一人は卒業時25歳だったから今36歳である。若い方で33歳、まもなく34だという。

 入ってきた時の第一印象も明らかに学生や院生とは一回り違う感じで、オッサンとまではいかぬがぼつぼつ中年だなあと思えた。

 一人はオーストラリアのシドニーで現地法人のオーストラリア銀行員、もう一人はバンコックに通算7年在住、今は故郷の滋賀県に住んではいるがバンコックにもアパートをおいて往ったり来たりの民芸品販売業。三人目は浅草で生計を立てつつ写真家として個展準備中だという。

 日芸出身者らしく型にはまらぬ生き方であり、話題もアジア各地のことに飛び面白い。
 取壊しになりつつある彼らの学舎を一通り案内したあと、江古田駅近くの寿司屋でビールを飲みつつ話したら、あっという間に時間がたった。

 写真家は子育て中だが、外国組二人は独身のままだし、銀行員はすでにオーストラリア永住権も持っていて場合によってはこのままオーストラリア人になっていくやも知れぬふうでもある。

 日藝文芸科出身者は普通の意味での就職に恵まれぬせいもあるが、それがバネになって自由な生き方、意識のグローバル化が進んでいるとも言える。

 彼らは私が日芸に非常勤講師で通い出した最初の教え子たちであり(当時3年生)、ということは私の日芸教師生活ももう14年になる計算だ。時はたつものである。校舎はあと数日で図書館も完全に壊され、もう彼らが知っている建物は学食ぐらいになるだろう。4人でその工事現場の瓦礫を眺めたとき、嘆声のあとしばらく沈黙が続いた。



6月7日  またしても映画です

 谷章さんへ

 昨夕、『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド監督・主演)を見ました。近くのシネプレックス新座でやっていました。昨今増えたシネコンの一つで、我が家からは柳瀬川の土手沿いに30分、草の道を歩いて行けます。なんだか少年時代、村の神社なぞで行われた野外映画会にでも行くような気分でした。
 なかは9つも部屋があり、大は500近い席から小は130くらいまで。ミリオンは350くらいの部屋で、スクリーンも椅子も快適でした。

 作品は確かに夢中になって、というか女子ボクシングという意外性に惹かれて引き込まれました。
 が、怪我のシーンあたりからやや長く感じ始め、見終わってみると、力作、丁寧な作りでハリウッド映画としては上出来と思いつつ、あれこれ欠点も浮んできました。主役のトレーナー、フランキーの娘とのことがなんなのか一向分らないこと、イエイツの詩を愛読するほどの人物が教会の神父にあんな質問をするかと思えること、ラストのレモンケーキ屋?のワンカットがよく分らぬこと、全体に相当類型的なこと、などです。

 女子ボクシングという意外性を除くと、男子なら似た話があった気もします。
 また、初老のある種しょぼくれ先生と30代くらいの女性のほのかな愛、という主題もこのごろ似たものが多く(「センセイの鞄」「博士の愛した数式」)、あまり新鮮みがありません。

 しかしながら、映画のあと、1階(全体がオリンピックという建物)のセルフ・イタ飯屋に入ったら、アメリカ風仕立ての広々と天井が高い中に、子連れの夫婦や若い組合わせの客が多く、インテリアもふくめなんだかニューヨークかロスにでもいる気分になりました。日本も変ったもんです。

 ほろ酔いで夜の土手を歩いて帰るのはいい気分でした。勧めてくれてどうも有難う。こんな機会でもないと、こういう宵の過ごし方は当分なかったでしょう。
                          ちょっと御報告まで。



6月6日  韓国映画『シルミド』を見る

 ゆうべ9時からテレビ朝日で見たこの映画は、かねてモデルとなった実話をふくめ話は聞いていたし、主役がアン・ソンギだしで、期待して見た。

 確かに噂に違わぬ迫力あるシーンの連続で、ウームなぞと唸りながら、引き込まれて見た。かつて南北対立が熾烈だった韓国軍事政権時代に、北の金日成暗殺を目的に殺人犯などの囚人で特殊部隊を編成、成功の暁には無罪放免、国家の英雄として遇するという触れ込みのもと、猛訓練をする。

 が、いざ出撃のその日、国家の方針が変り、暗殺中止、部隊員は計画発覚を恐れ全員殺害、となる。ために、せっかく連帯感が生じ始めていた訓練部隊側と特殊部隊間で戦闘となり、その過程で囚人部隊はもともと戸籍を抹消されており、仮に暗殺成功で生還したとしても殺される運命だったと判明する。

 激怒した囚人部隊はソウルの大統領官邸に向け反乱軍として向うが、途中包囲されて全員玉砕。

 大変な話だし、政治と国家の冷酷、翻弄される個人たちの無惨が際だつ内容だ。

 見終わってやはりウームと唸るしかない実感だったが、それにしても一番残った気分は、こうした事態を引き起こした当時の責任者たちは今、どう思い、どうしているか、ということだった。かなり亡くなってもいようが、まさか全員死んでいるわけもなかろうし、いくら政権が変った、情勢が変った、といっても、それならいっそうああいう非道をしてしまったおのれや権力を、いったいどう考えるのか。

 そこのところを一番知りたい。人間とはどういうものか、権力や国家とはどういうものかが、少しは解けそうな気がするから。



6月4日  日本兵はいずこ

 しばらく前までフィリピン残留日本兵80何歳の話がマスコミを席巻していたが、このごろ全く消えてしまった。

 この間、私は喉風邪と風邪薬、それからちょっと忙しかったせいで、いささか世事にボウーッとしていたので、ついうっかり決着を見逃してしまったのかと、不安かつ不思議な気分でいる。
 あれはいったいどうなったのでしょう? どなたか教えてたもれ。



6月2日  青梅雨(あおつゆ)

 今日は朝、出がけはほんの用心のための傘だったのに、昼過ぎからだんだん降り出し、帰途はすっかり雨だった。

 そうして柳瀬川の駅からはしとしととほどよい雨に、自宅への最短距離を通る気にならず、欅並木と桜、櫟、ナントカ楡、木楢、つつじ、紫式部などが青々と繁る中庭側を通って、帰宅した。
 
 さつきはほぼ満開、桜も2ヶ月前の花どきとはうってかわって猛きほどに葉が濃い。梅の実が青々ともう大きい。

 昔、好きで何度も読んだ永井龍男の「青梅雨」という短篇が自然に思い浮かんだ。丁度今頃、青梅雨がしとしと降るころ、湘南のどこか小駅で、商売が破綻したかした初老の男が老妻とその姉(妹?)の3人とで静かに心中していく話で、最後に駅の売店で、安い、たぶん透明なガラス瓶入りの1合瓶かの酒を買って帰り、それを3人でしみじみ飲んで互いに感謝しあう話だった。

 私はまだ若いころ、といっても30代のころそれを読んで胸うたれ、以後、3,4度はそれを折々読んだ。たいてい涙が出たし、一番自分自身がつらかったころは最後まで読めない時もあった。

 と、そう思いながら、今すぐ引っ張り出して読む気にならないところが現在の幸せさなのであろう。歳はあの主人公と一番近くなっているのではと思えるが、人間は境遇によって随分文学的鑑賞眼まで変るということでもあろう。

 暦的にはまだ青梅雨の季には少し早い気もするが、今日の雨はほんとにそんなことを思わせた。



5月31日  今日は酒買いに

 今日は本来いろいろ書くことがあるはずだった。昨晩、大事にしてかつ相当がっかりすることがあったし、1週間ぐずぐず不快だった喉風邪がほぼ回復の気配を見せたし、天候さわやか、近くの水田が一面に美しい水面を見せ始めたし、短篇のいいアイデアが思い浮かんだし……等々である。

 だが、それらすべてのためにもと、隣町のディスカウント店で月末特売の「越乃寒梅・別撰」を買いに行ったら、いっぺんで気分がそちらに向いてしまった。

 いつも、特売時は1升3980円と破格の安さなので、これまで2度ほど散歩ついでに買っていたのだが、飲み出すとさわやかさにひかれすぐなくなってしまうので、今日は2升買っておくか、しからば徒歩では重いので車で、とわざわざ出かけたと思いねえ。

 と、なんと、そのいじったれ根性を神が見抜いたか、今月に限って特売なし、寒梅・別撰はなんと1升6280円の値が付いているではないか。
 ややや、一体なんだ、うらをかきやあがって、とはこのことだろう。

 くやしかなし、さりとて腹いせに悪態ついて帰る気にもならず、やつがれは、では、この際何か新銘柄を、と加賀のナントカ「常きげん」山廃純米吟醸に、浦霞純米、とついつい2本も買ってきてしまったのだが、夕食膳にひらまさの刺身を整え、いざ、ものものしき山廃純米吟醸を常温で一献と試してみたところ、寒梅とは随分違うのだった。

 まずくはないのだが、酒こうじの香りと味が強すぎ、コクはあるがさわやか感に欠け、なんというかいかにも北陸の田舎の旧家のやや薄暗き座敷で、九谷の色も肌ざわりも厚ぼったい器で背筋伸ばしてぐいと飲む、みたいな味なのだった。

 ああ、残念、今のオレはそんな仰々しいものより、あのさらりと、ほどよい谷川の水のような越乃寒梅をやはり飲みたかったなあと、悔やめども時すでに遅し。浦霞の方はまだ試してないが、2升も買ってしまったからには当分はこれらを飲まぬ訳にはいくまい。

 やれやれ、身から出たさび、ならぬ身からでたさけである。世はすべてままならぬものだわい。



5月29日  春祭 バクの会のダンス

 昨日は所沢校舎での春祭だった。1,2年中心の祭だが、今年からは江古田校舎が工事中なので、だんだんこちらが学内行事としても中心になって来た感がある。

 天気も良く、私も喉風邪が一段落したので、11時過ぎから出校した。屋台で焼きそばを食べ、抹茶をいただき(茶道研)、映画サークルの短篇作品を2本見、1時20分からお目当てのバクの会のダンスを見た。

 毎年ほぼ欠かさず見ているもので、若い肉体が厳しい訓練を感じさせるきびきびと統一のとれた躍動を見せてくれるのが気持ちよくて、今年も堪能した。

 ただし、今年は衣装が地味すぎ(黒シャツにジーパン姿)、その点物足りなかった。ジーパンは普段着にし、こういう時はもっと華のある格好にした方がいいと思う。黒シャツも同様。あれは組合わせによってはシックになるが、穴のあいたジーパンと一緒、しかも30人もが黒づくめとなると、舞台が暗くなる。

 若者はやはり明るさ、健康な肉体、溌剌とした笑顔(これは十分あった)が一番で、それらが揃うと自ずと健康なエロチシズムも醸し出され、舞台が躍動し、華やぐ。

 大人はそれらを茫然と、若さへの郷愁と羨望、悔恨を味わいつつ、眺めるのである。



5月27日  いやあ、困った

 おとついくらいからちょっと喉と鼻の奥が引っかかるなあと思っていたが、さしたることはないので出校し、3時限続けてかなり喋り、そのあと若い副手と夕食をしていたあたりから、声がかすれ始めた。

 私はもともと喉が弱いので、ああ、今日は喋り過ぎなんだ、と思って帰宅した。ところが、昨日朝、起きたらまるで声が出ない。アレレと思いつつ、漢方系風邪薬だけは飲んで出校、午後の授業へ行ったが、殆ど声が出ない。さすがに困ったし、学生諸君もびっくりしていたが、課題作の合評日で、司会・発言は学生中心だから、かすれ声で短いコメントだけしてなんとか終えた。

 そのあと教授会となり、終りに43年勤められた前学部長八木信忠先生が定年退職挨拶をされた。学園紛争時のことから始まって中身のある面白い話であり、結末部には文芸学科にも少し言及された。

 私は教授会ではいつも八木先生とは一人おいた隣あたりに座る慣習だったせいもあり、ぜひ一言お礼とねぎらいの御挨拶を言いたかったのだが、ヒーヒー声しか出ない。会終了のざわめきの中ではそんな声はかき消され、振り向いてもらえなかった。

 出口へ向う途中一緒になった山内淳教授が「声が出ないと何も出来ないですね」と言ってくれたが、まことにその通りである。
 まるで五官の一つがなくなったみたいな感じ、というかコミュニケーション不能、の実感があり、声、喋る、会話、の重要性を痛感した。

 これほど声が出なかった体験は少年時代以来の気がする。いったい原因は何かしら。多少微熱も出てき、咳なぞも出るから、風邪なのだろうが、こういう症状の風邪なのかしら? 症状は一晩おいた今朝になってもほんの少ししか好転していない。

 というわけで、今日は所沢校舎のゼミ1年、ゼミ2年を臨時休講にすることにした。これも私としては、近来珍しいことだ。
 学生諸君、当日休講でごめんな。



5月25日  中央アジアとチベット

 今年の夏から秋にかけて中国領中央アジアへ行くことになっている。昔風に言えば西域、今は新彊ウイグル自治区だが、更に古風に言えば天山南路南北道界隈である。

 私はかつて27歳のとき、三蔵法師玄奘の旅、その後「西遊記」のモデルになった旅にならって、同じ道を通りインド行きを企図したが、当時の中国は敦煌以西の個人旅行を認めていなかったので、やむなく船でシベリアに上陸、ソ連のエアロフロートでイルクーツクへ、ここで乗り換えカザフスタンのアルマアタ経由ウズベキスタンのタシケントへ。いわば空路による天山北路で、天山山脈は飛行機から見たのだった。

 そのあとサマルカンドを経て、再びタシケントからアフガンに入り、バーミヤンやハッダの仏教遺跡を見た後(いずれも玄奘が訪れたとされる)、パキスタン、インドと進んだ。

 そのインドでは、ヒンドゥーの主だった聖地をめぐった後(インドでは仏教はヒンドゥー教のヴィシュヌ派の一分派と見なされる)、ラジギール(王舎城)やブダガヤ(釈迦正覚の地)、ナーランダ(鹿野苑)を歩き、特にブダガヤでは1ヶ月くらいとどまって、滞在中のダライ・ラマなどチベット僧やチベット人巡礼者たちの顔を見て過ごした。

 このブダガヤはその後も長い間、私にとってこころの一つの原点になる場で、以後しばらくは十年に一度は巡礼に訪れると大塔の前で誓約し、実際、その十年後には訪れもしたのである。

 ゆえにというか、話は戻るというか、私にとって玄奘の道の半ば、敦煌から天山南路、今の中国領中央アジアを歩いていないのは、長い間、「欠落」となっていた。そこを還暦を過ぎた後、まだ多少は体力のある間に歩いてみたいというのが今回の企図なのだ。

 そこまでは去年くらいから既定事項だったのだが、このごろになって、どうせ行くならチベットへも足を伸ばしてみようかという気が生じ始めた。ブダガヤではチベット人たちと随分つきあったし、その後ネパールのカトマンドゥでも、私はもっぱらチベットレストランで食事をするなど接点も大きかったし、文化的にも関心があったからだ。

 それで、この2日ほどは『地球の歩き方・チベット』を買ってきてずっと目を通していたのだが、行きたし、されど逡巡もあり、である。

 理由は高山病、タクラマカン盆地西部から隣接しているのにそちらからの空路はない、入域許可証もいる、ラサはかなり中国化(漢化)しているらしい、初老の身には大旅行になり過ぎかな、といったあれこれからだ。

 うーむ、とまさに思案投首、孫悟空みたいな屈強なボディーガードでも付いてくれぬかしら、というところである。中国語の通訳はうちの奥さんがいるけど、ウイグル語、チベット語通訳はどうするかも思案のうちだ。

 チベットは次の機会にまわした方がいいかしら、でも、もうそうそうは機会もないかもしれぬし、さて……。
 


5月23日  もう田植え始まる。いやあ、早い

 昨日、下のように書いたのに、今朝見ると、もう田何枚かに苗が植わっている。これを書いている今も一枚に田植機が動いている。機械植えだから速いのである。1時間もあれば1枚完了といきそうだ。

  田一枚植て立去る柳かな  芭蕉

 それにしても昔は水を入れてから何日かおき、田が水を十分吸ってから植えた気がするが、今はどうも違うらしい。水を入れると同時に耕耘機で耕し、それが終るとほんのまもなくで田植機登場みたいだ。理由はよく分らぬが、とにかく手植え時代とはいろんな条件が違ってきたのだろう。

 ひょっとしたら、土曜に代掻き、日曜に水入れ、そして月曜は勤め先を休んで田植え、と一気に仕事をする都合があるのかもしれない。農業は完全に休日産業化したとも言える。

 いづれにしろ、これで今日の夕方には殆どの田が水鏡となろう。線路の向う側なぞは大宮の見沼田圃と並んで、埼玉南部では今や最大の水田地帯とも言われているだけに、視界一面の水田風景はなかなかの見ものである。



5月22日  田に水入る

 この数日代掻きが始まっているなと思っていたら、昨日の土曜日から水が入り始め、今日はわが書斎から見える田の半分ほどに水が入った。

 全部にはいると視界の多くが水となり、ちょっとした水郷ないし沼模様となって、何やら東南アジアふうの雰囲気ともなるのだが、今はまだそこまで行かない。でも、水中をゆっくり動く耕耘機、抜き足で歩く人の遠景を見ていると、南国的牧歌の風景となる。

 昔は代掻きも田植えも大変な労働だったが、今は機械でさほどではなさそうなので、見る方ものんびりしていられる。
 田植えは来週の土日か、それともそれまでのウイークデイのうちにやってしまうのだろうか。



5月20日  平岡篤頼(とくよし)さん死去

 18日、早稲田文学の市川君から電話があって、平岡さんの死を知らされた。なんでも新宿の文壇バー「風花」で作家の重松清、清水博子さんらと酒を飲んでいる最中倒れ、救急車で運ばれたが、そのまま帰らぬ人となったとのことだ。

 不慮の死とも言えるが、齢76歳たることを思えば幸せな死に方とも言える。殆ど苦しむこともなく、寝たきりとか、人に迷惑もかけず、好きな酒を飲みつつ、教え子の作家らに囲まれ身罷るとは文学者としては言うことなしでもあろう。

 重松は若いころ何年も「早稲田文学」の専従事務局員をしてくれた人だし、清水は文芸専修(創始者は平岡さんだ)の教え子である。

 そして何より、その早稲田文学はつい先だって事実上の休刊となったばかりであることを思えば、第8次からの復刊責任者として長年私費も投じ、文字通り屋台骨として背負ってきた発行人としては、いわば早稲田文学とともに去りぬ、という実感がある。

 私は第8次のほぼ初期から当初は編集委員、ついで早稲田文学新人賞選考委員として、ほぼ20年一緒に仕事をさせていただいた。というか、私はもともと仏文専修での先生の教え子でもある。

 最初に出会った大学2年の時は先生がクラス担任、私がクラス委員で、後半は学費学館問題をめぐるいわゆる早稲田紛争のストライキが半年も続いていき、私と先生は相当激しく対立し合う立場にもなったのだった。

 が、その後、私が33歳で中央公論新人賞を受賞した時は、真っ先に祝って下さり、その後第8次早稲田文学に誘って下さったのである。その時のメンバーは青野聰、福島泰樹、三田誠広、高橋三千綱、鈴木貞美、荒川洋治、立松和平、夫馬基彦、そして名前だけだったが村上春樹であった。

 ほぼ同世代、当時は全員30代半ばで、いわば平岡さんを親分とする若手文学者集団の趣きであったが、今や、青野、福島、私は60代、残りも50代後半である。当時はベストセラー作家であった者も今や静まっていたり、と思うと大学教師が5−6人もいたりで、何にせよ、時の変転を感じざるを得ない。

 明日は先生の通夜に行こうと思う。誰が来ており、どんな話が出るか、平岡さんはどんな顔でその光景を眺めて下さるか、それを想像するのが、いっそう懐かしい。



5月18日  高2の同級生と夕食会

 昨夜は両国のふぐ屋に集まっての愉快な会だった。
 集まったのはいつものファイナンス会社副社長の脇田君、トヨタのシンクタンク取締役理事の臼井君に加え、初参加のゼンセン同盟会長高木剛君である。

 当然ながらみな60過ぎた初老な訳だが、顔を見た途端、「オウ」「オス」となり、時間は40数年前の16,7歳の時に戻る。4人とも仲良しグループで、修学旅行の時も一緒に班を作った。
臼井君がその時の写真を持ってきたのを見ると、みな、まるで紅顔の少年そのものだ。

 が、今は高木は組合員83万の民間最大労組のトップであり、臼井はつい先頃までは経団連会長の演説草稿を書く知恵袋だった。脇田は2500億円からの金を動かすという。
 話もあれこれ幅が広くなり面白い。

 6時からの会に誰一人遅れず、楽しげにやってきて、冬ならぬ初夏の脂ののったふぐを大いに食べ、ひれ酒を一人4杯づつも飲んだ。私など日頃日本酒は2合くらいまでと決めているのだが、この日ばかりは勝手に制限解除だ。

 最近の経済動向から、企業のリストラ、北朝鮮問題、わが小説のことまで、あれこれ喋り合った後、高木がまだ次の場があるというので9時前にお開きにした。高木と脇田は黒塗りの運転手付き車、臼井はさっとタクシーに乗り、私は脇田の車に同乗し飯田橋駅まで送ってもらった。

 うーむ、電車で行き来するのは私だけらしかった。



5月15日  カザルスホールのアナスターシア

 昨日は東京お茶の水の日本大学カザルスホールへ、コンサートを聞きに行った。
 日本大学主催のもので、室内オーケストラ「チャイコフスキー」とバイオリニスト、アナスターシア・チェボタリョーワ出演である。

 モーツアルトのディヴェルティメントから始まり、コレッリの合奏曲、バッハのチェンバロ協奏曲、そして休憩をはさんでヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲「四季」というプログラム。

 ピアノで弾くチェンバロ協奏曲もピアノがなめらかで良かったが(アンドレイ・ピサエフ ピアノ)、一番陶然とさせてくれたのはアナスターシアのヴァイオリンによる四季だ。元来好きな曲だが、ちょっと大きくなった妖精といった感のある、長身細身、真っ白な肌に顔半分をおおうような長い髪の彼女が、白い長い腕を無造作に動かして弦を動かしていくと、まるで不思議の楽器のごとく妙なる音色が流れてくるのだった。

 遠目で無表情に見える分、なんだかナマ身ではないような、雪の北国から来た人形のような気がしてくるのである。演奏法は人によってはもっと身振り表情に感情を込めたりするものだが、ほんとに無表情らしいのがいっそ神秘感をもたらす。

 そして同時に思ったのは、やはりクラシック音楽というのはヨーロッパのもの、石の文化によって堅固に構築され、かつ繊細な別世界を生み出すもの、という実感だ。白人世界の美、というものも久々に感じた。

 コンサート後、近くのタイ料理屋へ寄り、ミャンマーとラオスのビールを飲みつつ店内を見渡していたら、余計そう思えた。湿潤な東南アジアの木の建物で、東アジア人だけによる演奏をしたら、同じ曲がどんなふうに聞えるかしら。



5月13日  外人部隊

 昔好きだった映画に「モロッコ」というのがあった。ゲーリー・クーパーがフランス領モロッコの外人部隊兵士で、街の酒場か何かでふと出会った金持ち女性マリーネ・ディートリッヒが彼に惚れ、命もあてども全くない兵士の出発に、あとを追って砂漠の中まで、ついには裸足になってついていくというラストシーンだった。

 米・独の大スターたるクーパーとディートリッヒがこういう場末というか、それこそ世界の果てみたいな恋を演じているのも面白かったし、魅力的で、ラストシーンには学生時代の私は本当に呆然としてしまった。

 恋とはこういうものか、かくも人を無謀にし、なにもかもを捨てさせるものか、という驚きと、こんないい女をほうっておいてもなお部隊から離れず砂漠に行軍していく外人部隊兵とはなんとカッコイイものか、という夢のような思いが残った。

 むろんその後、私がパリに1年住んでいた前後には、仏領サハラだかの外人部隊にいたという日本人青年二人の話などが伝えられ、現実はこんなロマンチックなものではないどころか相当過酷なものだと知った。

 それから約40年、突然今度の外人部隊兵の話である。イラクでは警備会社員ということだが、要するに傭兵であり、経歴を見ていると彼斎藤昭彦氏の人生は、よく言えばボランティア兵士、客観的には傭兵の人生だ。

 そういう生き方が平和憲法下の日本から生れたのも曰く言い難い思いがするし、しかしどこか分る気もする。賛成は出来ないし、率直に言っていささか浅はか、ないし哀しい人生の印象は免れないが、若い時、あるいは中年にさしかかっても、人生のそれこそある時、透き間のような状態の中でふとそういう世界に飛び込んでしまう気持は、ほの分る。

 誰もが安定した人生や家庭生活を送れるわけではない。誰もがすばらしい恋を得られるわけではない。誰もが通常の平凡な日常生活をよしと思えるわけではない。冒険心もあろうし、孤独なロマンもあろう。偶然の積み重なりもあろう。

 斎藤氏の人生、内面がどういうものだったか、今のところ私は全く知らないが、彼自身、ふと気づいたら、今度の事態になっていた、ということかもしれない。

 だからといって、別に彼を擁護するわけではない。むしろ、今度の事態に関してはそれこそ「自己責任」であって、あまり同情する必要はないとも思う。こういうことがあり得るのはそれこそ外人部隊時代から、当人も覚悟していたはずである。

 私は、あの映画「モロッコ」のラストシーン以後はどうなったのだろうと、40年前と同じ想像をまためぐらせる。



5月11日  ヤーコンとは

 南米アンデス地方原産、キクイモ科の根菜。オリゴ糖多く、果物みたいな味、梨みたいにサクサクしているので、「果物みたいな芋」と呼ばれている。ナマ食可、野菜サラダに混ぜて食す。

 以上すべてネットで調べた。ネットって本当に便利だ。

 それで、早速、今日はサラダにして食べてみた。確かに梨ふうでなかなかうまかった。マヨネーズにも合う。
 食物繊維が多いので、健康、美容にいいという説もある。北海道、岡山、信州など各地で栽培が増えているようである。

 以上、御報告。自問自答ですな。



5月9日朝  連休、完全に終る ヤーコンとは何か?

 6日にもう授業は始まっていたが、まだ世間が何となく連休ムードで、7,8日はこちらも半分そんな気分だった。直していた短篇も仕上がったし、相棒の花粉症もやっと治まり、気分は初めて休み気分になったとも言える。

 短篇は33枚だったのがなんと57枚になり、直しというより実質改作、タイトルもがらりと換えての模様替えとなった。平屋のちっぽけな山小屋だったのが、小さいながらまあまあちゃんと住める家になった感じである。

 で、土曜日は折から新聞埼玉版に写真が載ったのを機に、江南町板井というところの藤を見に行った。個人の屋敷に500平米の藤棚が房もたわわに咲き誇っている。元来は秩父から移植したもので樹齢120年とのことだが、移植後はほんの20年だというのに、すぐうしろが広い山林になっているのを背景に見事なものだった。品種もいい。

 横には休耕田を利用しての満開のポピー畑も広がっているし、別に有名でもないから人も少なく、絶好の環境だ。藤には蜜蜂と熊ん蜂がブンブン音たてて飛び、ここで出来た蜂蜜はさぞ香りといい味といい上品でうまかろうと思えた。

 そんなことを言うと、持ち主は「いやあ、蜂は自然のもので…」と苦笑し、代りにこの藤とポピーの維持にいかに金がかかるかを話し始めた。まあ、それはそうなのだが、あたりはゆるい丘陵に森が点々と広がり、実に緑豊かな、いい土地柄だし、元来は農家らしい家屋敷(今はサラリーマンとのことだった)を見ても経済的に相当豊かと思えるから、そのくらいの出費我慢して下さい、いい人生、いい生活ではないですか、という気がした。

 実際、この界隈全体がそうで、ぶらぶら散歩しても、どの家も立派で、しばしば蔵があり、緑に包まれ、周りの田畑もまた上等そうだった。「いいとこだなあ」と言い合っては、地図で見つけた「出雲乃伊波比神社」を目指して歩いていくと、これがまた村社としては実に風情のある、牧歌的で、古代的で、豊かな印象のものだった。娘の名を祝ってくれているのもいい。

 また、近くには福祉法人が経営しているらしい「おにっこハウス」という手作り品販売所兼喫茶店があり、ここのシフォンケーキと紅茶もうまかった。販売品農産物の中に「ヤーコン」という初耳の、外観は薩摩芋ふう、触った感じは堅くて蓮根ふうの不思議なものがあったので、買ってみた。

 すっかり田園を堪能したいい気分で帰宅し、くだんのヤーコンをお奨め通りきんぴらふうにして食べてみた。味はサクサク、蓮根+牛蒡ふう、格別うまくもないが、まずくもなく、あまり個性なし、尾籠ながら後にかなりおならが出たと相棒は言っている。これ、一体なんでしょう?
ナニ語なのか、どこ産なのか、知っている方あったら教えて下さい。



5月6日  車谷長吉と秋山駿さんへの学生の反応

 今日、連休明け再開の授業、2年ゼミで、文学的エッセイの実例として車谷氏の「私の思想」(講談社のPR詩「本」05年4月号)と秋山さんの「金銭の感覚と私小説」(『批評の透き間』鳥影社05年1月刊所収)を読ませたら、面白い反応だった。

 前者は「私小説廃業宣言」以後初のエッセイだったと思しく、その補完的内容だったが、学生の中からは、“この文章は私小説は肉親や知人に迷惑をかけたからやめるといいながら、相変らず父親や日野啓三氏のことなど驚くような内容を実名をあげて書いている。やめたことにならないのではないか”とかの意見が出、廃業宣言のいきさつや氏の性癖などあれこれを説明すると、みな目を丸くしていた。

 秋山さんに関しては、5年に1回しか銀行に行ったことがないとか、原稿料として小切手を貰っても換金せず送り返したなぞというくだりに、まるで理解しがたいというようにキョトンとしていた。

 で、私が、文学の物書きというものはこういうものだったりする、並の人たちじゃないぞ、こういう世界にうかつに入ろうなぞと思わぬ方がいいぞ、と冗談半分おどすと、顔を見合わせ、本気で考え込んでいた。

 2年ゼミは「書きたい者だけ来られたし」という呼びかけに応じて集まった者たちだから、少々覚悟を求めておこうと思ってのことだが、ひょっとして「文学なぞやめる」と言いだしはせぬかと心配である。

 一方では、二人の名前を熱心にメモっている学生もいたから、読んでみる者も出るかもしれない。吉と出るか凶と出るか楽しみではある。まずはショック療法から、だ。



5月4日  五・四運動の日

 今日、中国で反日デモが行われなかったら、この前のものは官製だったか、少なくとも全く黙認下のものだったということだろう。

 1,中国に民主主義があり、2,民衆が自発的に反日行動が必要と思っているなら、どんどんデモをすればいい。起きなければ上の二項のどちらかまたは両方がNOということである。

 今日はそれを見極めるのが楽しみな日だ。さあ、どうなるかしら。



5月2日  連休中の一日

 勤め先の大学は4月30日と5月2日が全学休講扱いなので、私は7連休になるのだが、しかしどうも休む気になれない。昨日、東松山の箭弓稲荷神社ぼたん園へ、ぼたんと藤(実はこっちの方が好き)を見に行ったら、人が一杯で、気分がすっかり疲れた。

 田園になら行きたいが、高速も一般道も混む。
 それに、私は長年のフリー生活の習慣から、世間並みの休日感覚があまりない。
 ゆえに、連休中なぞむしろ仕事どき、という思いの方が強い。

 よって、今日も一日パソコンに向って書き続けた。もう1ヶ月前に書いて「季刊文科」に送った短篇を直したくなったのだ。雑誌の方は毎回30枚の約束だからそれはそれでいいのだが、書いてみたら自分の中でテーマがだんだん膨らんできて、あと15枚ほどは書き足したくなったのである。

 とにかく、自分のためだけにも加筆しておきたい。今日は充実した気分で時間を使えた。



4月30日  ベトナム戦争終結30周年

 今朝の新聞を見て、そうか、もうそんなになったか、と驚いた。感慨無量というと一私民としては大げさの感もあろうが、しかし、私にはかなりの感慨がある。

 私はかつて戦争中のベトナムに行ったことがあるのだ。1968年旧正月(テト)休み中だった1月下旬から約1ヶ月。私は1年住んだフランスから陸路をずっとたどってギリシア、トルコ、イラン、アフガン、インド、カンボジアなどを経て、テト休戦中に限るという条件付きでベトナムに入り、サイゴンのアン・クワン寺というところに滞在した。

 アン・クワン寺はチ・クアン師という有名な指導者のいる反政府派仏教徒の拠点で、焼身自殺者が相次いだことでも知られていた。
 私はそこにフランス帰りの貧乏学生というだけの理由で、3食付きタダで泊めてもらっていたのだ。

 そして、途中ダラットという中部の町へ行き、帰ってきた翌日だったかに、解放戦線側のテト攻勢と呼ばれる攻撃が始まり、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館やチョロン地区など一部の街区が初めて、解放戦線側に進入あるいは占拠されたのだった。

 そのあおりで私のいたアン・クワン寺も(チョロン地区にある)、解放戦線側の拠点と見なされて政府軍の攻撃を受け、半分ほどが炎上したのである。私が寝ていたベッドも焼けこげになった。突入してきた兵士たちによって、若い女性が射殺されもした。

 私はその直前に、リュックを担いで道の軒下を伝うように走って逃げ、かろうじて日本大使館にたどり着いたのだったが、「なぜ、そんな場所にいた」と相当怪しまれた。以降、大使館指定の安宿に無理矢理泊まらされ、約半月後、空港再開第1便で香港に送り出されたのである。

 これらのいきさつについては、このHPにも載せてある小説「五十肩のベトナム戦争」に書いてあるからそれを読んで頂くとして、ともあれ私はわが世代としては珍しく、直接戦火を体験した数少ない身なのだ。

 それに学生時代からベトナム反戦は、当時の青年としては当然の最大テーマで、年に何回もデモを繰り返し、機動隊に殴られたものだった。全学連とかベ平連とか新左翼による反体制運動が広がったのも、いわばそのせいだった。

 世は移ろい、いつしかベトナム戦争のことも思い出すこと少なくなっていたが、もう三十周年、しかも、かつて反共南ベトナム政府の強硬派リーダーだったグエン・カオ・キ元副大統領が今はベトナムに帰国し、現政府と友好的にしているとの報道に、実に何とも感慨を持たざるをえない。

 ああ、ほんとに、時とは何だろう、時代とは何だろう。思想やイデオロギーとは虚しいものだ。



4月28日  夏日

 今日は暑かった。26−7度いったのではないか。夜のニュースでは秩父地方は30度を超えたなどといっている。

 出校に、明るい黄色のシャツに今年初めての薄手の夏上着を着ていったのだが、それでも暑く、授業時にはエアコンをドライに入れた。ドライというのは実は軽い冷房も入っているそうだから、つまりは冷やしたわけだ。

 北側の書斎にいる時なぞ、この2,3日のうち暖房を少し入れることもあったから、暖房と冷房共用の時期という次第である。

 若い学生諸君のうちには半袖Tシャツの者もいるぐらいで、樹木もすっかり若葉の候となっているし、季節はもはや初夏の趣だ。

 目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹  素堂

 この句、青葉も時鳥もおおむね5月から6月の季感、初鰹は5月のものだが、そういえばもう魚屋には初鰹がしばらく前から並び、私もすでに2回ほど食べた。冷凍・運搬技術発達のせいでもあるが、季節感自体がだいぶ早まっている気もする。

 関係ないことだが、黄色のシャツに白っぽい薄手上着のせいか、今日、学生から「先生、なんだか小ジャレてますね。何かあったんですか」なぞと言われた。「なに、希望のシーズンだよ」そう答えておいた。



4月26日  早めの母の日プレゼント

 母の日は5月の第2日曜だが、今日、志木の街へ出たついでに、故郷の母宛にプレゼントを買って宅配にした。品はいつものごとくチーズの詰め合わせ。これは柔らかくて栄養があり、家族の老若誰もが好きで、一番評判がいいのだ。

 その詰め合わせを選ぶのに、店の若い女の子にアドバイスを頼んだら、「今、どきどきしてます」と言いながら、柔らかいのならこれがいい、干しぶどうもちょっと入れると楽しい、干しイチジクも、クラッカーも、なぞと一生懸命に、たぶんマニュアル通りみたいに勧める。

 「新人?」と聞くと、この4月に入社したばかりだという。どうやら専門学校時代にバイトで入り、卒業とともにそのまま社員になり、研修を終えて支店に配属されてきたばかりらしい。ひょっとしたら、かなりの量の詰め合わせ選択を担当したのは初めてだったのかも知れない。

 聞くと、会社の寮に住んでいるとか、店長には2年ほどでなる人もいるとか、あれこれ話してくれる。母の日の贈り物だと言うと、「あたしも祖母が80歳でいます。何か送らなきゃ」なぞと言う。「年寄りにはチーズが一番だよ、喜ぶよ」と言うと、嬉しそうに頷く。自分が選んだ職業が悪くないなと思ったふうだ。

 フレッシュマンはいいものだ。若さはいい。おかげで、つい彼女が勧めるまま、1050円のチーズスライサーまで買ってしまった。内心ムダかなとも思ったのだが、「お年寄りには包丁よりラクでいいですよ」と言うから、ま、若い孫娘の言を入れておこうと思ったのである。



4月24日  旧友ポン宅を訪問

 昨日、埼玉県北部の寄居町へ行った。すっかり山笑っている東秩父のそよ風に触れ、馴染みのかんぽの湯なぞに入ろうというわけだが、いい気分でそれらを済ませたあと、思い立ってポンにケータイ電話をしてみた。

 ポンはヒッピー時代の古い友人で、「部族」のちに「CCC(宇宙子供連邦)」のリーダーであり、もっと後には奄美大島に「無我利道場」という共同体を営んで、自然破壊の石油備蓄基地反対闘争を何年にもわたって続けた人物だ。

 その彼が数年前から秩父市はずれの山懐に住みだしたが、去年6月からは寄居に引っ越したのである。寄居といえば同じ東武東上線の終点地で、いわば同路線エリアの住人となっていたわけだが、行こう行こうと思いつつ、去年夏は私は旧満州行きとか長編執筆に忙しく、ついそのままになっていたのだった。

 車で訪ねてみると、ポンは元気だった。両鼻の穴に酸素ボンベからのビニール配管を差し込んだ姿は相変らずだったが、2年前ころは「このごろはちょっと風邪を引いただけでもすぐ入院だ」と言っていたのに、顔色も声もずいぶん力強く良くなっている。

 「このせいだよ」とコンピューター付きの酸素マスク機器を指して、「自然派が文明の電子機器の世話になるなぞ妙なもんだが、助かることは助かるなあ」と磊落に笑う。なんでも、寝ている間、そのマスクをつけておくと、翌日一日至極快調、旅行なぞで2日使わないと、その機械が恋しくなるそうだ。

 娘さんと2人暮しかと思っていたが、彼女が結婚したので今は週1回来るだけ、実質的にひとり暮しだという。ふーむと少し心配顔をしたら、「いや、ある意味では理想の状態よ」と本人は恬淡たるものだ。

 何しろ彼は、50代のころは飛騨高山の山中で6年も完全独居生活したりのつわもの、半ば行者かインドのサドゥーみたいな男なのだ。私とはいわばそのインドつながり、私がまだ30になりたてのころからの付合いである。ポンはその時36歳だったと思う。

 それが今は彼は67歳、鼻からパイプを吊しての身となった。私は長髪ひげ面の面影なぞどこへやら、頭の禿げた穏やかげな大学教授となっている。

 あれこれ昔の仲間の消息や、最近の彼の闘いぶりを聞いたりした。彼はある裁判闘争支援にひとり酸素ボンベを引きずってしょっちゅう大阪まで出向いたりしているというし、仲間の情報もよく知っている。

 まだまだ引退はしてないなというのがごく自然な感想で、私は楽しい気分になって夕闇迫る関越道を突っ走って帰った。私も昔は自然派で、排気ガスをまき散らす車なぞ減らせ、と主張したりしていたことを苦笑しつつ思い浮べながら。



4月21日  ヤフー売上高1177億円

 面白い時代になってきたものだ。工場も店舗も何も要らないインターネット企業が、ついにこれだけの売り上げになった。そりゃあ、トヨタとか新日鉄、ソニーなぞと比べればまだまだ一桁違うが、利益率に関しては51%でそれらより圧倒的に上だ。

 創業わずか9年、従業員の平均年齢32歳、と聞くと、ホリエモン同様、ふーむ清新だなあとどうしても思う。

 このごろはテレビニュースでスポーツを見る時も、ソフトバンクや楽天のいる野球のパ・リーグに関心がいく。巨人なぞどうでも良くなった。私は長年のアンチ巨人派で、ゆえにずっとセ・リーグにはるかに関心を持ってきたのに。

 株価もネット証券を通じての個人株主の売買数増加の影響顕著と聞くと、資本主義の根幹にネットが力を持ち出したのだと感じざるをえない。ホリエモンらが活躍するわけだ。
 いいぞ、若い衆ら、思い切ってどんどん行け。そして社会を変えろ。そう思う。どうなっていくかは未知数だが、ともかく見ている楽しみがある。



4月19日  とにかく風は吹いた ホリエモン風

 ライブドア・フジテレビ問題が決着した。どっちが勝ったのやら、誰が一番得なのか、よく分らない。当初、痛快な新風に見えた風も、結局売り抜け的収束にも見えるし、妥当な落とし所的にも見える。

 つまり、風は一陣吹いただけとも言えるし、いややはりかなりの強風だったとも言える。なんといっても32歳の若者ひとりに、日本の大会社経営陣やサラリーマンたち、それに政界まで大あわてになり、証券関係法や外資導入関係法などいくつか法律まで変るのだから、影響甚大である。

 こんなことが出来るなら資本主義の中心で生きるのも悪くないな、カネの魔術も面白い、と思った人も多いだろう。何より若者たちが元気づいているそうなのもいい。このごろの若い衆はどうも大人しすぎたから。

 衣装が公式の場でもTシャツにブルゾンふう上っ張りだけなぞというのも、よかった。いつも黒ネズミみたいな背広ユニフォームに、ゴルフ焼けだかなんだか渋紙色に黒ずんだ連中が、さも訳じりふうにまるで個性と語彙に乏しい発言しかしない日本風土にはつくづくうんざりしていた。

 ホリエモンがどんな人物かはまだまだ分らず、案外つまらぬ、あるいはイヤな奴であることもあり得るが、でも、今まで演じた役回りとしては、なかなか爽やかだった。今後を見守ろう。



4月16日  書斎に帰る

 こんなタイトルにすると、まるで今まで書くことや仕事から離れていたかのごとき印象を与えかねないが、そうではない。私の書斎は北向きなので冬の間寒くて、ずっとリビングにパソコンを持ち込んで仕事もしていたのだ。

 小型ヴァイオ10,6インチは、そういう面では軽くて便利なせいもあった。ソファに座ったまま膝にパソコンを置いて、短篇小説なぞも書き上げた。このHPの更新もおおむねそうしてきたのである。

 が、新学年の授業も始まり、いかにも暖かくなってみて、土曜日の今日、ふと書斎に入ってみたら、寒さを感じなかった。代りに窓外の川面の水のきらめきや、土手の緑のまぶしさ、おまけに対岸の産科病院の駐車場には5月の鯉のぼりが4流れほども揺れていて、大いに新鮮だった。

 河川敷には黄色の菜の花、紫の花大根も咲き乱れ、そこここで柳や桑の木も葉を出している。もう若葉の季節なのだ。今年は随分寒かったが、春は短めで、あっという間に初夏に入りかけている風情だ。

 ゆえに書斎に戻ろう、丁度新しい仕事の予定も出来たから、という次第である。
 しかも、その仕事、このページの総合タイトル通り希望に満ちたものになりそうだ。再生、前進。さあ、やるかと、穏やかに上着を脱ぐ。



4月14日  顔見世興行

 今日から授業開始。ただし、最初は学生諸君たちがまだ登録先を求めてあちこち見て歩く時期なので、教師の側としてはいわば顔見世興行である。
 学生は教師の顔を見、話を聞いた上で、気に入れば申し込む。

 ゼミは申込者が定員16名以内なら、そのまま決定。つまり選択権は学生だけで、教師の側にはない。が、申し込み人数が定員を越えた場合は、教師に選抜権が出来る。
 ある意味ではこれでやっと対等になるわけだが(それまでは学生お客様で、優先である)、しかし、落すのはつらい。

 特に落す人数が今日の3年ゼミみたいにほんの少数になりそうな時は、なんだか可哀相な気がしていっそ全員入れてやりたくなったりするが、しかしやむを得ない。私のゼミは創作ゼミで「書く」ことが主体になるから、あまり人数が多くては手が回らないのだ。

 例えば20枚の短篇小説を課題に出した場合、16名で×20=320枚の原稿を読まねばならない。ゼミ生自体も全員が読んで合評するから、これだけでもしばしば時間が足らなくなる。本当は12,3名が適正規模なのだ。

 連句の授業も登録30数名、出席率7割で、常時出席23,4名というところが一番いい。ここ数年おおむねその線で来ていたが、さて、今年はどうなるか。多すぎそうだと、出席が少ないと落すとか、適性がないと当人がつらいぞ、なぞと半ば脅して減らしにかかるわけだが、これは多少の快感がある。

 こちらが優位で熱心な子を集められるからだが、ただし、熱心な子、必ずしも才能有りとも限らないから、むつかしい。
 結局、基本線は運と成り行き任せである。

 さて、明日は2年ゼミの顔見せである。どんな諸君が何人ほど来るか。楽しみであり、微妙な気分の時だ。



4月12日  花すぎて花の冷えある昨日けふ  占魚

 ずっと満開だった花が鮮やかな花吹雪を舞いかけさせたと思ったら、昨日の雨で半分は散り、今日はまた2日つづきの寒さで、いかにも花冷えである。

 この数年、年々花見客も増え、新聞埼玉版なぞには県内花名所として名前が出るまでになった柳瀬川土手も、いま覗いてみると、10軒ほども出ていた屋台店がすっかり消えている。

 ああ、今年も花の季節は終わりかけたかの思いが生じるが、しかしまだ12日と思うと、吉野の花はこれからだとも思う。

 私は30代のころ何年か、毎年4月15日には吉野へ行くと決めていた。初め下千本から咲き出す花が、15日頃中千本から上千本にかけて満開となるからだ。むろんその年の気候によっては花の中心は中から上、奥へと少しづつ移ろっているから、その違いをみるのも楽しみだった。

 15日と決めていたのは、年によっていつが見頃などと間近になって考えても迷うばかりだし、第一、宿がなかなか取りにくいからだ。曜日はおろか「雨が降っても槍が降っても4月15日は吉野」と決めてしまえば、その方が気持も安寧だからだ。

 それで7,8年は続けたか。やめてしまったのは私事に重大異変があり、ひとり暮しになってしまったからだ。西行を想えばその方がぴったり来るではないかとも言えるが、一日西行になる気にはなれなかったのだろう、といま思う。

  花冷えが胸のいたみとなってくる  斌雄



4月10日朝  新入生ガイダンスと教職員パーティー

 このところ、学校でいよいよ4月新学年度の諸行事が続いている。8日が入学式、9日が新1年生ガイダンス、そして夜が文芸学科講師懇談会という名の学科内の教職員・スタッフ顔合わせ会である。

 新入生は今年128名、みな、希望に満ちた、ちょっと不安そうな、18,9歳の若者たちだ。
 私のゼミは8名で、北海道、九州、新潟からが各1名、あとは東京や神奈川、千葉など近場の人が多い。日芸は出身地域的には、従来から東高西低の全国型だが、このごろ関西に芸術大学が増えたせいで、西低の度合がだいぶ強まっている。

 地方出身組は、大学も初めてなら、住む場所、ひとり暮し自体が初体験なので、生活すべてが激変することになる。おおむね、所沢校舎に近い所沢周辺に住むので、何かのときには互いに助け合え、自転車ですぐ駆けつけられるようにせよ、なぞとアドバイスすることになる。

 教職員の方は、今年は出入りが多かった。講師で新任の先生が4名、退職者3名。
 新任は、作家の森詠(坪田譲治賞、直木賞候補)、小嵐九八郎(吉川英治新人賞、直木賞候補4回)、編集者出身の岡崎正隆(元文藝春秋社直木賞担当)氏らで、従来純文学中心だった教師陣にいわば直木賞シフトをしいて、新風を吹き込もうというわけである。

 スタッフは副手の女性2人が4年の任期満了で退職し、代って学部新卒22歳のフレッシュウーマン2人が入った。ほかに大学院生のアルバイトでティーチングアシスタント(略称TA)というものもあり、これも6名中2名が新人となった。

 授業は来週からだが、新任の先生はだいぶ張り切っているみたいだし、どう新風が広まっていくか楽しみなことである。



4月7日 「季刊文科」30号出る、短篇連作「南島シリーズ」開始

 昨日「季刊文科」(鳥影社発行・市販)が発売元から届いた。この雑誌は秋山駿、大河内昭爾、勝又浩、松本徹、松本道助、吉村昭の6氏が編集委員をやっている、今や数少ない純文芸誌で、文学好きの間では知る人ぞ知るものである。

 そこに今度私は小説を書いた。秋山駿、大河内昭爾両先輩のご厚意によるもので、「沖永良部」という30枚の短篇である。内容は奄美群島の中のあの島自体を描いた作のつもりだ。

 これはこの数年来、南西諸島から始めて毎年2,3島づつ歩いては次第に南下していく旅を続けてきたのを素材に(島巡りは実はそのまた2,3年前の五島列島、対馬などから始めていたのだが)、シリーズ化して書こうと思い立ったものだ。

 このあたりにはヒッピー時代の若き日からいろんな関わり・因縁もあり、遠くはひょっとしたら補陀落から天竺まで通じる海上の道があるやもしれず、かつてインド体験を文学的出発点としてきた自分にはタネは尽きない。

 また、媒体は小さいが、私にとって小説を世にオープンに発表すること自体ひさびさであり、うれしく、楽しい気分である。次の31号用の作「与論」(与論島のこと)もすでに書いてゲラになっており、その次の構想ももう頭で動きだしつつある。本当に楽しく浮んでくるのである。

 こういうことは私には珍しい。というか、ほとんど初めてのことだ。かつて小説を書くのにこんな軽やかさで楽しいと思えたことは、本当になかったのである。小説を書くのは苦しいこと、半ば苦行だった。

 それでもやったのは苦行の中にも快楽があったからだが、しかし、釈迦も苦行の果てに結局「苦行は必要ない」と述べているように、あるいは芭蕉が「この道一筋に」風雅の道を追求した挙句、軽みに到達したように、私もまた「軽やかに書ける」境地に到達したのならうれしいものだ。

 などというのは、思い上がりか。が、何はあれ、楽しくなってきた日々である。



4月5日  J.M.クッツェー『恥辱』を読み終える

 この間ずっと読んできたこの本は、初めイギリスのブッカー賞を2度ももらった作家の、その2度目の受賞作ということで手を出したのだが、面白く、かつ時間がかかった。

 面白い由縁は、初めのうち知的で諧謔的にも思える文体のせいと、主人公が世代の近い大学教授のゆえだったが、だんだん話はシリアスそのもの、性欲と、動物としての生命と、そして南アフリカでの人種問題、という人類として根源的問題に、作家としては実に真っ正面から、主人公の人物像としては不器用そのものに、描いていくのに、途中たじろいで、つい中断してしまうからである。

 心が毛羽立って、む、こんな作品読みたくない、という気分が生じてきたり、しかし投げ出す気にもなれず、1日おいてまた少し読んだりで、特に厚いわけではない本に2週間以上もかかってしまった。

 そうして読み終わった結論は、人間の何事かを深く考えさせてくれた、大した小説、ということだ。ふーむ、と腕組する気分で、ネットでクッツェーのことを調べていたら、2003年だかに彼はこの本でノーベル賞をもらっていることも分った(私は図書館で借りたので、そういう帯なぞは付いていなかった)。南アフリカ作家のノーベル賞というと、ナディン・ゴーディマの名ぐらいしか知らず、しかもアパルトヘイト問題に関してはどうも馴染みがなく、いい読者たり得ていなかったのだった。

 自分および日本の作家にはこういう作品は書けないなあ、と思いつつ、しかし、なんとか取組む方法はないものかと、ゆうべから今日明け方にかけ、布団の中で朦朧と考え続けた。作品の刺激が強くて、安眠できなかったのである。



4月3日  このページ表紙の写真は好評

 掲示板大学欄を見た人は知っていると思いますが、写真に関していささか意見が飛び交いました。
 が、ほぼ落着いたようです。若くチャーミングな女性複数がかっこいいと表明してくれたので、差し替えせず、このままいきます。

 今日は娘と隣の駅近くのレストランで昼食。彼女の引越し後初で、婿殿は日曜勤務中のため、親子水入らず。住民登録はもう済ませたみたいだから、わが町志木についてあれこれ郷土学的知識を解説しておく。だんだん散歩がてら歩いてみると楽しいだろう。

 そのあと「ちょっと覗いてみる?」と言うので行ってみると、マンションはまだ全く片づいておらず、全室納戸、という感じ。でも、景色はいい。目の下の桜がチラホラ、新芽が黄緑や赤みがかって芽吹いており、さぞ若葉どきが鮮やかだろうと思える。

 彼女も、土曜は勤務だった、今日だけ休み、と言うので、「せいぜい片づけてちょうだい」と言い置いて、早々に退散した。
 が、何はあれ、ぶらりと行けるところに娘が来たのはいいもんだ、という実感も初めて生じた。

 帰ると、下の土手は10軒の屋台が出、川原にはブルーのシーツを敷いた花見客がにぎわっていた。花見と言うより、「野遊」の感じだが。
 とにかく春だ。



4月1日  さあ4月だ 桜も咲いた

今、表を歩いてきたら、昨日開花の柳瀬川土手の桜が、更に数を増して咲きはじめていた。屋台の店も5,6軒が開店準備中で、「たこ焼き」「串焼き」「お好み焼き」などと幟がはためいている。ちょっと風があるが、日差しはいいから今日のうちに1分咲きくらいにはいくのではないか。満開は1週間後だろう。

 昨日はほかにもいいことがあった。旧友の谷章さんからいいメールが来たのだ。私信だから公開はしないが、友情と幸運を感じた。近々会えそうなので、楽しみ至極である。

 今、台湾に行っている相棒からも、仕事きわめて順調、とメールが来た。帰宅は木曜だから、丁度花の満開に間に合いそうだ。これもタイミング良し。

 というわけで、この日記のページ代りのタイトルを表記のようにした。添えた写真も元気そうでいいでしょう。