風人日記 第十四章

暑さのとき、砂漠へ
  2005年7月1日〜9月30日


7月3日、自宅近くで採取した大ぶり八重クチナシ
私がベランダで育てた小ぶりクチナシより、だいぶ香りも強い






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



9月30日  大学あれこれ

 水・木と連続で学校へ行き、学生や同僚の顔を久々に見た。学生は皆元気だ。
 海外の旅をした者は今のところ意外に少ないが、それでも何人かはいて、チベットのみやげをくれたりした。韓国への留学下調べ報告に来た院生もいる。

 大人の方は教授会、大学院協議会、学科会議と3つ会議をこなした。教授会ではいつも斜め前あたりに座る某教授が病気療養中で後期はどうやら長欠。学部長以下役員・主任大幅交代で、今まで前の役員席にいた人が平場の教授席に座っていたり、逆有りで面白い。

 学科会議も進行の主任交代でだいぶ歯切れが変った。変化はいい。世代交代は淋しい面もあるが、やはり必要である。

 今日は所沢校舎。明日は勤続35周年の講師の方の慰労パーティー。明後日は日曜だが、AO入試の面接日だ。いわば水曜から5日続けての学校関係日である。一気に生活時間も生活感覚も変ってきた。



9月27日  ついに明日から授業

 2ヶ月ぶりの授業である。とうとう自由な時間も終りかの思いと、学生諸君、皆元気かなの思いが共存する。

 学生諸君の中には、夏休みは教師も自分たち同様休みと思いこんでいる者がいるが、授業が休みなだけで、教師は研究日創作日なのである。研究室を使う先生たちは、夏期中も大学へ通っていた人もいる。

 私はその間、自宅の書斎および旅で創作や取材活動をしていたわけだ。帰国後は旅の成果をさっそく素材に創作を開始しているから、取材創作一体である。

 とはいえ、その結果をお目にかけなければなにもなるまい。授業が始まると、その書くスピードがたぶん半減以下になるのがなんといっても残念で、悔しい。

 ともあれ、明日から出校である。



9月25日  お知らせ

 小生のメールアドレスが20日からついさっきまで不調で、送受信とも不能でした。その間に送信して下さった方々には「delivery」不能で戻ってしまったようです。どうも申し訳ありません。

 もう回復したので、お手数ですが、もう一度送信し直して頂けませんか。どうかよろしく。



9月24日  まだ痛い五十肩 来週から授業再開

 旅の終りころから按摩のせいもあってだいぶ好転していた右肩は、帰国後、肩にタオルをまくようになって更によくなっていた。鎮痛剤はまったく不要だし、湯上がりなどに塗り薬を塗るだけだった。

 が、今日、午に寿司を食べに出、雨に降られて肩が冷えたのか、急に痛さが再発。昼食後、バッファリンを2錠も飲んだ。まだまだ完治にはほど遠いと認識させられた。

 今日は半ドンのつもりが、朝、ノートンの新バージョンのインストール等に手間取り、思い切って休みにしたが、痛みのせいであまり休養をとれた感じがない。
 明日こそ肩を冷やさず、大人しく休養しよう。

 そうそう、大学からもう会議通知が来た。来週から授業再開である。



9月22日  長くなりそう

 50枚くらいのつもりで書きだした短篇が、4日でもう20数枚になってしまった。しかも場所はまだ旅の端緒のあたり。

 旅を書くと、私の場合、どうしても人生を書くことになってしまうのだ。書きながら思ったが、二十歳そこそこの青年期以来、私はほんとによく旅をしてきた。通算時間自体はさほどではないものの、人生の要所要所で旅をしている実感がある。

 今度の旅も当初はさほどの決意で始めたわけではなかったのに、いつしかかなりの節目になっている感がある。そして、それは書くこととともに更に深まる。

 人生は旅であり、それは書くことで二重に生きられる。
 こう書いてみて、それは師のひとりであった森敦さんが言っていたことと同じであるのに改めて気がつく。

 今年の夏は書く夏だった。秋もそうなりそうである。



9月19日  短篇書き出す

 旅まえに一旦書いた短篇がどうも不出来なので、どうするか考えた挙句、今度の旅をさっそく素材に新たな作を書く気になった。

 ホットな材料の場合、いい面と悪い面がある。内容もホットになる反面、熟成期間が足りない場合があり得るからだ。両刃の剣というわけだが、しかし、今回は臨場感と切実感の面でこの方が良さそうな気がする。

 蛮勇的要素を含めて、とにかくトライしてみようと思う。どうせ、今度の旅も蛮勇だった。その内実を書く。
 うまくいけよ。祈る気分である。



9月17日  洗濯完了、韃靼そばを食う。ウイグルのことなぞ思う。

 2日連続の洗濯物が暑さのせいできれいに乾き、ソファに山積みになった。
 せいせいしてそばを食べに出たら、韃靼そばというのがあったので注文した。中国製とかで黒い。

 韃靼はタタール人のこと、ただし、人種はたぶんモンゴル系。昔ゾロアスター教徒だったらしく、韃靼の火の踊りというのがある。東大寺3月堂のお水取りの時のたいまつを振っての踊りである。ただし、伝えた韃靼僧は仏僧だった。インド人だったという説もある。

 かくのごとく日本は古くから中央アジアと縁があるわけだが、ウイグルに関してはクチャ音楽などがおそらく日本にも来ている。楽器なぞ正倉院ものとそっくりだ。ただし、当時のクチャが今のウイグル人と同じだった保証はない。あのあたりは民族ごと追われたり、それが更に次の地で他の民族を追ったり、が繰り返され、流転が激しい。

 日本は有史以来定着不変と思われているから、こうした感覚はなかなか正確には理解しがたい。

 ウイグルと日本との関わりの一つに「トフティー問題」がある。東大大学院歴史科へ留学中だったウイグル人のトフティーさんが、たぶん、日本で『ウイグルの歴史』の本を出そうとしたため、中国の図書館で参考文献をコピー中に逮捕され、国家転覆罪、公文書漏洩罪の疑いで懲役11年に処せられた件である。

 彼は現在もすでに7年くらいウルムチ刑務所で服役中のはずで、国際ペンクラブも日本ペンクラブ・獄中作家委員会も、一貫して中国政府に釈放要求をするなど支援活動をしてきた。理由は彼の逮捕が、要するにウイグル独立志向抑圧の一環であろうと思えるからだ。

 ウルムチにいた間、私はこのトフティーさんのことを何回も考えた。彼のいた東大大学院の教授たちは数年前、わざわざウルムチ刑務所まで面会に出かけている。
 
 が、私は結局、何もしなかった。うかつな行動をとって、自分の旅が出来なくなったり、トフティーさんや周辺に迷惑がかかってもいけない、と考えたし、現実に面会なぞ試みてもたぶん何の意味もないからだ。むろん、トフティーさんは私の名も知らない。ペン獄中作家委の活動が彼にどんな影響を及ばしているかも定かでない。

 ガイドのウイグル人女性Lさんにさりげなく聞いてみたが、彼女も何も知らないようだった。
 が、独立運動は、ウイグル人の比率が高い西部のカシュガルやホータン、北部のイーニンなどの地方では、やはりある程度あるそうだ。潜在的共感者はかなりいるかも、みたいな微妙な言い方だった。

 私はその匂いをかぎたくて、カシュガルのカスバのような旧市街をうろうろ歩き回ったが、ウイグル語の片鱗も出来ぬ一介の旅人には、何も感知できなかった。

 当然であろう。
 ただ、私は、ウイグル人たちの多くが貧しく、圧倒的に商売も権力も漢人たちに牛耳られているらしい様子だけは、よく分った。

 ウイグル人86%のカシュガルの人民広場前には巨大な毛沢東像が建っていたが、この意味もまた単純ではなさそうだった。ウイグル人の間でも毛沢東人気はかなりあるというのだ。その背景については、また今度。



9月16日  やっと落着く

 乾燥地帯の砂ぼこりまみれのさなかで、楽しみの一つは洗濯だった。
なにしろ、どこかジャリジャリするから着替えたくなるのだが、バスルームで洗い、そこらに干すと、3−4時間後にはもうカラカラに乾くから、洗濯がだんだん面白くなるのだ。

 で、右肩腕の痛さにもかかわらず、二日にあげず洗っていたが、さすがに最後はもう日本まで保ちそうだとなると、何もする気がしなくなった。
 
 それを昨日からラクな洗濯機で洗いだしたが、いやあ、あるねえ。1回では済まず、今日も2回目の予定。洗濯機の中はすでに満杯である。

 同行の通訳・奥さんは、成田からそのまま台南でのシンポジウム参加のため、台湾に向けて旅立ったから、私は当分ひとり者であり、洗濯も炊事も食事もみなひとりでやっている。
 そうすると、買物も、あれも食べよう、これも、酒はやっぱり大吟醸の「天巧」にするか、などと広がってゆく。

 今日夕方、初めて体重を量ってみたら、旅前に比べ2キロほど減っていた。中華やシシカバブーをずいぶん食べた気がしていたが、実際はだいぶセーブしていたというか、肌に合わなくて、あるいは体調を気にして、節食気味にしていたのだろう。

 今日、留守中の郵便物の整理も済み、連絡すべき懸案事項も一通りコンタクトが済み、やっと一段落した気がする。水欠、瀕死だったベランダの植物の手入れも一応済んだ。

 ただし、ゲラ直しが一つ、書下ろし短篇の抜本書き直しが一つ、部屋の掃除、引き延ばしてきた人間ドック申し込み、等となすべきことも急速に視野に入ってきた。
 うかうかしておれない。大学との連絡も早くも始まった。

 が、幸いというか、うかつというか、日本は明日から3連休らしい。いやあ、ホッとする。今日は外から6つも電話がかかり、こちらもそのくらいかけたが、連休中はたぶん静かになるだろう。休養し、そして、懸案の原稿にかかりたい。



9月15日  帰国しました!

 本日午後、ブジ帰宅。
 まだ頭がボーとしており、片づけがあるので、詳細は明日書きます。掲示板「大学欄」に多少書いたので、とりあえずはそちらを見て下さい。

 ああ、早く日本の刺身が食べたい。午後、サミットで買ってきた鰹のたたきと大吟醸が待っている。



8月21日  準備万端整う 行ってきます

 西域行きがいよいよ明日に迫った。荷造りも済み、さきほど空港宅配便に渡した。
 ゆうべから間際になって、ウイグル地方は一日の温度差が20度、最低は12,3度の場合もあると知って、カーディガンを入れたり出したり。

 9月も前半までだからと、結局カーディガンは入れなかった。寒かったら重ね着、それでもダメなら現地調達でしのぐつもり。右腕がきかぬこともあり、荷物は出来るだけ軽くしたいのだ。

 ぽつぽつ届く学生たちからのメール類も、チベットからだったり、屋久島からだったりで、旅の匂いに充ちている。私がいくらか煽る面もあるのだろう、教え子は旅をする者が多い。ゼミ生には海外の旅を宿題にもしている。

 尤も、メールには、実家で民宿の手伝いに追われているとか、司書資格獲得のため他大学で夏中スクーリングというのもあり、さまざまだ。毎日、寝転がっている者もむろんいるだろう。

 私は長旅、特に夏のそれは、今年で最後かもしれないと思っている。体力に自信がなくなってきたし、何もこの暑さのなかを、という気がまさってきてしまうのである。61歳の齢のせいだろう。

 さりながら、行ってみたい地となると、北朝鮮、アフリカ、中南米、ビルマ、ラオス、雲南、それにアメリカの中西部・南部、そしてもし危険がなくなればアフガン、アラビア、イスラエル、等々と次々に浮んでくる。

 まだまだどうなるか分らぬ訳だが、しかし暑くないころに、せいぜい2週間程度、という気はする。やっぱり、五十肩の痛みや猛暑がこたえているのかもしれない。



8月19日  夏休み中の学校

 昨日は夏休み後初めて、江古田校舎を訪れた。
 守衛氏も見かけない若い人、文芸学科事務室も若手の副手や事務の人のみ。教室はもちろん無人で、静かなものだ。

 AO入試作文審査に関する書類をわたし、あとはたまっていた連絡文書類を整理した。訃報1,退職者の送別会1,その他。夫馬ゼミ2年の尾崎亮が日大文芸賞(賞金30万円)に選ばれていたのを知り、早速祝いのメールを送った。

 江古田の街へぶらっと出、ブックオフで本を見ていたら元ゼミ生の学生に出会った。帰郷もせず江古田でうろうろしているという。まあ、その方が面白いかもしれない。大学の休みは2ヶ月ほどもあるから、その間、田舎にただいてもさして意味がないことは、自分の学生時代から推しても分る。

 で、学生と近所の蕎麦屋「甲子」に入って、そばとビール、山芋揚げ、浜納豆で一杯やった。「甲子」の蔵造りの店内は、木と黄色電灯、花、の配置がいい、広い土間仕立てで、落着く。西武池袋線沿線では食通にも知られた指折りの蕎麦屋である。

 昼酒はきく。ビール大瓶1本、小瓶1本だけなのに真っ赤になり、ほろ酔い気分でそば講釈をひとしきりし、ぶらぶらと小竹向原駅まで歩いた。途中白粉花があちこちに咲いていた。

 今日はいよいよ荷造りである。
 肩は相変らず痛いが、もうこころは西域である。



8月17日  旅の準備

 昨夜ソウルから帰国した娘によると、8月15日も別に怖いこと・不愉快事はなかったそうだ。中国も結局はそうだろうと思う。

 その中国ウイグル地方への旅、いよいよ迫ってきた。片づけるべき仕事は終ったので、あとはいよいよ準備の雑事あれこれ。荷造りはまだ全く手つかずだが、今朝、旅行社への支払い、留守中の郵便・新聞の留め置き手配、空港宅配便の手配、などを済ませた。

 荷造りも今回は夏場の上、オフィシャルに会う人はないので、スーツ類不要だから、ラクだ。問題は向うの昼夜の寒暖の差だが、まあ、現地補充も可能だし、なんとかなるだろう。

 最大の問題はなんといっても五十肩ならぬ六十肩。右手は殆ど通常の用をなさないから、とにかく重いものは無理。衣類も前開きのものしかダメだ。うしろポケットに手も入らない。

 が、さいわい体もこの状態に慣れてきたようだし、微熱も引いてきたし、通訳同行者もいるし、薬は一通り揃えたし、何とかなるだろうと思っている。いざとなったら、ウルムチとかタクラマカン砂漠のオアシスで、出歩くのはやめて茫と寝転がっていればいいのだ。耳にはラクダとロバの声が聞えてくるだろう。



8月15日  蝉しぐれ 蝉穴多きに気づきけり  南斎

 今日は終戦記念日である。これまでは敗戦を終戦と言い換えるなど欺瞞だと思ってきたが、敗戦を記念するのも妙なものだから、終戦記念日でいいかと思うようになった。

 その8月15日の話は子供の時以来、学校でも家でも、その他いたる所で聞いてきたが、よく聞くことに、当日がいかに暑かったか、入道雲とかんかん照りであったか、いかに蝉が鳴いていたか、がある。

 どんな蝉かまではいちいち聞かなかったが、子供のころは当然油蝉だと思っていた。私の田舎ではそれが圧倒的に多かったからだ。
 が、その後、場所によって蝉にも色々あることを知った。

 今日、外へ出たら、ニュータウン内には油蝉とみんみん蝉、そして今日初めてつくつく法師の鳴き声を聞いた。
 それらが一斉に鳴く蝉時雨は、ひとしきり別世界に連れて行かれる心地がする。

 理由の一つは、あれは雄が雌を呼ぶ恋の呼び声だからで、蛙声の官能とも通じるからだが、蝉の場合は熱暑と俗世をひととき忘れさせる音のレースカーテン役を果たしているからではないのか。

 あー、音の林の中にいるなあ、そう思いつつふと下を見ると、地面にいっぱい小さな、深そうな穴があった。蝉穴である。
 こんな固い地面にどうやってこんな穴を掘ったのか、どうやってそこから這い出てきたのか、そして地上に出るや数日で死んでしまうのか、と日本的無常観にとらわれた。

 人間の一生は結構長い。有り難きか、辛きか。はたまた多くは無意味ならざるや。



8月13日  短篇小説、エッセイ上がる

 昨日までで、2つ目の短篇(季刊文科32号用)とエッセイ(月刊フォーブス9月刊)が上がった。ヤレヤレ、ホッ、である。

 この半月で短篇2本(計80枚)、エッセイ1本、の締切り3つというのは、10年ぶり以上だろう。歳の割、暑さの割にはよくやったと我ながら思う。

 途中、微熱、肩の痛み、結石の痛みとこれまた3つも重なってしまったが、重なるときは重なるものである。

 おかげで、この間ほんとにろくに外へ出なかった。花火も遠花火だけ。
 今日はこの界隈では一番大きいさいたま花火である。結局家のベランダから見るだけになると思うが、ゆっくり堪能しようと思う。



8月10日  弱り目にたたり目

 五十肩が痛く微熱ぎみであることはずっと書いてきたが、昨日夜、今度は尿路結石がまた起った。
 確か去年の秋、激痛から救急車を呼ぼうかと思ったほどのものだ。

 さいわい今回は去年の記憶からすぐそれと察知し、去年貰って残っていた坐薬を冷蔵庫から出して使い、合わせて下腹部をカイロで温めるなどして、何とか切り抜けた。

 それでも睡眠時間はだいぶ減ったし、何より気がかなり弱まった。旅先で五十肩に加え結石が起ったらどうしよう、坐薬は冷蔵しないと融けてしまうから、旅先へは持参出来ない。さて、どうする、と考え出すと、気が滅入る。

 ええい、ままよ、事前にとにかく病院で強力鎮痛剤と利尿剤を貰っておくしか手はあるまい、あとはなるようになるしかない、と要するにやけくそである。いっそ旅も解散してしまう手もあるが、そういうふうには気が動かない。

 とにかく行くぞ、そのためには書くぞ、というのがやけくその決意である。



8月8日  やけくそ解散、されど民意を問うはよし

 先ほど参議院で郵政民営化法案がかなりの差で否決された。それを受け、小泉首相は衆院を解散するそうだ。

 いいことだと思う。というか、筋はちゃんと通っている。参院の八つ当たりを衆院でするのはけしからんという意見があるが、そんなことはない。小泉氏は4年前の最初から郵政民営化を核にする行財政改革をスローガンにして自民党総裁選で勝利し、前回の総選挙でもそれを公約にして勝った。

 その総決算の場で、衆院ではやはり賛成多数で可決され、今回参議院で初めて否決された。否決は確かにどう考えても、小泉首相の方針および小泉内閣に対する不信任であろう。
そして、参議院は解散出来ない仕組みである。
 
 となれば、民意を問うには衆院を解散するしかない。だいたいこの問題に関しては、今まで国民はあまりちゃんと理解しているとは言いがたく、切実感もなかった。だが、立法・行政の場でここまで問題が詰まり、混乱した以上、最後には国民がしっかり考えて結論を出す以外ないだろう。

 そのため自民党が分裂選挙になるの、自民党が壊れるのと心配する声があるが、そんなことは結構なことでこそあれ、何ら悪いことではない。そも小泉首相自身、行財政改革への反対派・抵抗勢力が力を持つようなら、そんな自民党はぶっ壊す、とこれまた4年前はっきり公約、明言というより絶叫したのだから、その通りしようとして何ら不思議でない。

 むしろそうせず、反対が多いからと、なし崩し、曖昧な論理で今回引っ込んでしまうとしたら、それこそ膿が更にたまるだけである。

 衆院解散賛成、熱い選挙大いによし、政治家はそれくらい汗をかけ、郵政民営化はその結果通りに決すればよい。私は民営化是か非か、7月3日のこのページに書いたとおり、どちらがいいか本当に正直いまだに分らない、決めかねている。

 そして、8月22日よりシルクロードの旅に出かけてくる。選挙日はその間の9月11日になるそうだから、私は当然棄権となる。面白い見ものを見られないのはいささか残念だが、さっぱりしていいとも思っている。
 


8月6日  短篇53枚、一旦出来

 必死の甲斐あって、今日、ともあれ結末まで書いた。完成擱筆ではない。一旦おいて、次の作品30枚を来週から書き、それが出来たところで、見直しをする。

 いづれにしろ、ホッとした。肩の荷が半分下りた。
 体調さえ崩れなければ、次の作も書けそうな気がする。

 それにしても暑い日々だが、ほとんど外へ出ていない。ゴミ捨てに出るときもパジャマのままである。香港みたいだ。あの街では夜、市民がパジャマ姿でそぞろ歩きをしていた。最初、どうも慣れなかったが、今はあれはいい習慣だと思えてきた。

 日本の夏は暑い。35,6度の熱帯並だ。
 だが、ウイグルのトルファンは40度から最高47度だという。いったいどんなだろうか。正にボーっとしてほとんど意識がなくなるらしいが、さもありなん。

 旅がこわくなってきたが、今さらやめるわけにもいかない。もう旅行社には手配済みだ。



8月4日  脇目もふらず

 右の五十肩の痛みと、22日からのウイグル旅行に挟まれ、だんだん必死になってきた。その間に短篇2本、AO入試の応募作品審査(17,8本)をなさねばならぬからだ。

 五十肩は鎮痛剤と貼り付けカイロ温法、そして体操でなんとか宥めなだめ、今日はなんと12枚書いた。脇目をふりようもない状況の怪我の功名かもしれない。

 ああ、しかしまだ油断はならない。五十肩よ、どうか大人しくしてくれ。発熱などさせないでくれよ。



7月30日  遠花火 少年の日があったよな  南斎

 ゆうべ、夕食後、ボーンボーンと音がするので、探したら、遠くで花火が上がっていた。朝霞市か練馬区か、かなりの距離だ。しかも2カ所である。

 音と花火の間に時間がある上、距離差もあるから、だんだんどの音が今見えている花火のものか完全に分らなくなってくる。
 ドーン、ドン。そして音もなく開く花火。遠くて小さく、ずっと手前の近所で子供が上げているおもちゃ花火の方がよほど目立つ。

 ああ、少年の日があったよなあ、とわけもなく思う。具体的になにかの情景を想い浮べたとか、少年時代の花火の記憶が蘇ったとかいうわけではない。ただ、「少年の日」という、映像にもならない、浮ぶような浮ばぬような、半ば抽象的なものが、しかし強く郷愁となってことばになったのだ。
 


7月28日  晴天 短篇執筆開始

 実は昨日までどうも体調がすぐれず、半ば寝ていた。肩凝りが激しく、微熱があり、喉が心なし引っかかるのだ。暑いのに、クーラーの風が来ると、足先が妙に寒かったりする。

 50肩のせいかと当初思っていたが、どうも違う気もするので、漢方の風邪薬を飲み、冷房は一切つけず風通しだけ良くして辛抱していたら、目立って体調が良くなった。一種の冷房病だったのかも知れない。

 で、どうにか熱もひいた今日から、懸案の短篇を書き始めた。書くべきものが二つあるが、順序を変え、今一番書きたいものから開始した。
 3−40枚の予定なので、順調にいけば1週間ちょっとで書けるはずだが、むろん体調その他事情はあれこれ生じるから、そううまくいくかどうか分らない。

 そして一つ終ったら、またもう一つというわけだ。その二つが終らないと、ウイグル旅行に行けない。頑張るしかない。体調よ、何とか悪化しないでくれ。50肩も、これ以上痛まないでくれよ。

 このところ、毎年、夏休みはちっとも休めない。
 仕方がないか。教師にとっての夏休みとは、本来の研究・創作期間なのだから。



7月26日  台風襲来

 昨夜あたりから風雨が強まり、今朝北側の書斎から見ると、柳瀬川が河川敷部分まで濁流におおわれ、川幅が普段の倍以上になっている。
 日頃見える鯉や白鷺、軽鴨などはどこに行っているのだろう。

 鳥は見当がつくが、魚類はどうするのか。脇水路や藻の陰などに潜むのか。濁流では酸素も欠乏して呼吸しにくいのではと思えるが、大丈夫なのかしら。
 それと、水がひいた後、必ず草や通路の上にかなりの量の小魚類が取り残されるが、可哀相なものである。

 私は散歩ついでにそれらを探しては水に返してやったりするが、しょせん量はまったく微々たるものだ。それにすでに干上がっていたりする。彼らにとってはちょっとの増水もノアの箱船的大事であろう。



7月24日  カルチャーセンターの教え子と会う

 もうやめて7,8年になろうか、池袋西武のコミュニティーカレッジというところで、数年間、小説教室を持っていたことがある。その折の教え子平君と、今日久々に会った。

 つい1週間前、沖永良部島であった弟さんの結婚式に出てきたという彼は、現在ご両親が在住の喜界島にも寄ってきたそうだ。そんな話が聞きたくてあれこれ話し込んだのだが、面白かったことの一つに言葉の問題がある。

 彼は今回、沖永良部島の言葉をまったく分らなかったというのだ。島生まれで中学まで育ったにもかかわらずだ。

 理由は当時学校で方言の使用は禁じられ、標準語ばかりで話したし、家では両親の出身地喜界島の言葉だったためという。

 では、喜界島言葉は出来るかというと、聞くのは半分ほど分るが、使いこなしは出来ないという。「中途半端になっちゃって」と当人も顔を曇らせたが、これはかなり大問題だろう。方言禁止などという施策の不当性はいうまでもないが、いわば当人は帰属する言語を持たない「ことばの根なし草」とも言えるからだ。

 小説の一つも書きたいと思った、つまりことばに関心大の人にしてみれば、相当哀しいことにちがいない。が、だからこそ、見えてくるものもありそうな気もする。ひとつの島人ではない、島出身のディアスポーラ。そんなものが浮き立ってくる。

 彼は高校は鹿児島、卒業後は東京。そしてはや東京暮し20年、仕事はコンピューター。
 なにか生れそうな、何かありそうな……。
 それを見てみたい。



7月22日  昨日、最終教授会

 といっても前期最後のという意味だが、何人かの方にとっては、そして別の意味では最終教授会であった。

 3人の方の定年退職挨拶があった。教授会は日常的には、率直なところかなり退屈なものだが、これがあるときは粛然とする。

 最初が体育学科の薗教授(70歳)で、挨拶によれば日大経済学部卒後、東京オリンピックのころリッカーミシンの陸上部に入られ、10年の選手生活の後、日芸に専任講師として赴任された。当初は運動場などまるでなく、教室棟の屋上や、金魚のすみかになっていた古プールを埋め立ててコートにし、体育実技授業をされたそうだ。所沢校舎開設によってグラウンドや体育館が出来たときは「夢のようだった」そうである。

 次の技術員・深井さん(65歳)は、放送学科の2期生。当時あった特別研究生、非常勤助手、新副手など計8年を経て技術員となり、以来36年弱とのことだった。研究生時代等を入れれば44年、更に学生時代を入れれば実に48年を日芸で過ごされたわけだ。まさに日芸が青春であり、人生であったと言える。

 私とは学内の碁の同好会で御一緒だった。箱根の保養所でヘボ碁を闘わせあったものだが、そういった際の幹事役を一手に引き受けて下さってもいた。こちらが後参加のうえ、同世代と思っていたので、特にお礼を申し上げることもなく過ごしてしまったが、3年余も先輩と知って申し訳ない気がした。静かに「技術員」の身分の後輩たちについても言及されるのが、胸にしみた。芸術学部における技術員は不安定で恵まれない立場なのである。

 3人目は一ノ瀬学部長自身だった。誕生日、つまり学部長任期まではまだ2ヶ月ほどあるが、教授会出席としてはこれが最後になる。
 一ノ瀬先生は放送学科の1期生。つまり先の深井さんと学校では1年違うだけの、文字通り青春以来の付合いである。

 「つい昨日も大学院の授業を深井さんと二人でしました」と話される学部長も、感慨無量の様子だった。教員は定年になっても後を非常勤講師として授業を続けることになるが、深井さんにとっては文字通り最後の授業だったのではないか。

 一ノ瀬先生の方も、このあと真夏の盛りにまだまだ重要会議類がいくつかあるという。私などもう暑さでぐったりしている身は、70歳の年齢としては激職であったろうとつくづく思う。

 お三方とも本当に長年ご苦労様でした。



7月20日  7年ぶりの50肩治療

 今日、右肩50肩の診察を受けに病院へ行った。左肩のときの治療の印象が良かった病院だが(悪かった別の医院もある)、行ってみたらカルテがもうない。保存は5年までなので初診扱いですとなり、整形外科へ行ってからも、かつての治療経過をこっちが説明することになった。

 医師によればまだ軽症、かつてのように関節注射をする必要はない、軟膏と体操でOKとのことに半ば安心もしたが、来月砂漠への長旅で重い荷物を持つことになるが大丈夫だろうかとの問いには、ウームとしばし沈黙、結局、あと1ヶ月あるから様子を見よう、悪そうなら注射も考えようみたいな話になる。

 確かに医師にも分るまい。暖かい所は寒い所よりいいとの話だったが、摂氏40度以上となったらいいのか悪いのか。ボーっと麻痺し、痛みを感じないまま重いものを持ってしまい、かえって悪化ということもあり得るのではと、心配になった。

 だが、何の対策も立たない。詮方ないことではある。



7月18日  いやあ、暑い!

 この1ヶ月近く取組んでいた原稿の直しを昨日やっと終了、プリントも終えたので、今日はさあ休日にしようと思ったが、暑いこと暑いこと。梅雨はもう明けたのだろう。

 となれば、夏は暑いに決まっているので、あまり暑い暑いと言う人は嫌いなのだが、やはり暑い。溜まっているちょっとした買物もあるのだが、出る気にならない。午前中はパジャマのままはや過ぎてしまった。

 やっと着替えたところだが、さて、どうするか。



7月16日  久々のペンクラブ獄中作家委員会

 一昨14日は大学で研究委員会終了後、兜町のペン会館に駆けつけた。去年以来長い間、欠席つづきだったので、今日こそはというわけだった。今回欠席すると、また西域旅行のせいもあって9月か10月まで出られない可能性がある。

 出席者は今野敏委員長(作家)、藤井省三(中国語文学)、茅野祐希子(作家)、田村さと子(ラテンアメリカ文学・詩人)、千葉昭(編集者OB)、川口健一(ベトナム文学)、それに新委員の永島章雄(翻訳家)、それに夫馬基彦と事務局員の安西さんである。

 二人いた副委員長がいずれも亡くなってしまったので、人数が少ない。こうなってみると、山田英幾(NHK)、芝生瑞和(国際ジャーナリスト)の両副委員長が貴重な存在だったことが改めて知れる。山田さんは英語、芝生さんは英語フランス語スペイン語に堪能で、国際会議など一手に引き受けてくれていたのだった。

 今回は彼らに代ってスロベニアの国際ペン大会および獄中作家会議(WiPC)に出席した藤井省三さんの報告から始まった。外国の代表はかなり政治的であることや、北欧などはペンクラブが政府から潤沢な補助金を受けているためロビー活動なども活発有利なことなど、いろいろ裏話もあり、ペンだからといって理念や純粋性だけで動いているわけでないことがよく分った。

 アジア関係でも、中国ペンは天安門事件後、ほとんど中国政府の言いなりで(というより政府傘下機関みたいなものらしい)、国内での作家やジャーナリスト弾圧にも何も機能せず、といってアメリカで出来た独立中国語ペンクラブ(作家・鄭義ら200人)も、リベラルではあるが、資金はアメリカの右派財団などから得ている現実もあって、微妙らしい。

 そういえば故芝生さんもかつてメキシコ大会から帰国した直後、
「外国のペンはダメよ。日本のが一番いいくらい」
 と言っていたことを思い出した。人権・平和・平等・反弾圧を憲章とする伝統あるペンですらこうだから、むつかしいものだ。

 今年の獄中作家(WiP)の日の催しは、ユダヤ系アルゼンチンの詩人(メキシコ亡命中)ファン・ヘルマン氏を招いて、井上ひさし日本ペン会長との公開対談会を行うことに決定した。一昨年の「鄭義・大江健三郎対談」同様の成功が期待される。

 私たち委員には当分その下働きが待ちかまえている。ただし、一番忙しいのはなんといってもコーディネーター役を一手に引き受けている田村さと子さんだが。彼女のラテン的おおらかさと体力が頼みだ。



7月13日  50肩再発か

 このごろ、右肩やその周辺、右腕部が痛い。最初は腕立て伏せのやり過ぎかとか、クローゼットに物をしまったとき無理をしたせいか、などとも疑ったが、要するに50肩のようだ。だいぶ以前、左肩の50肩になったから、ほぼ見当がつく。

 左肩のときは極めて重症で、発熱、眠れず、車に揺られるだけでも痛く、最後は確か肩の関節に鶏の関節から採取した潤滑質の液体を注射した気がする。気がするとは曖昧な話だが、当時は激痛にさいなまれていた上、かなりの恐怖心があったので、目に見えて治った途端、ころりと忘れたらしい。たぶん、体か意識がそうさせることにしたのだろう。

 と、だんだん思い出してきたが、痛さの度合は前に比べればだいぶ軽い気がする。だから、まだ注射とかは考えないが、今朝はついに鎮痛剤を飲んだ。一昨日なかなか寝られなかったのも、つまりはこのせいだったのだろう。昨日はそれに気づかず、お茶のせいかなぞと考えたりした。

 予断は許さないが、今のところの実感としては前のときほどではない気がする。歳も60を過ぎているし、60肩という言い方がない以上、50代のときよりは軽いに違いないと希望的に思っている。

 さいわい、前のときの鎮痛剤がまだかなり残っているので、これでなんとか乗り切りたいものだ。
 それにしても旅に出る予定のときに限って何かが起る。左肩のときはベトナム旅行があったし、その前、パリ旅行のときは直前に猛烈なぎっくり腰になった。旅の神よ、お手柔らかに。



7月11日  ロンドンのテロ

 このところ毎日、テレビであのテロ事件のニュース関係になるたび、目をこらしている。事件そのものの真相、背景、影響ももちろん関心大だが、私にはもう一つ個人的関心事があるのだ。

 それはあのバスが爆発した場所が、私が2年前、半月以上泊まったタビストックホテルのすぐ前か、タビストックスクエアの横手なのかを特定出来そうで未だに出来ないからだ。
 爆破されたバスの映像を見ているとすぐ前の気もするが、ちがう映像を見ると、あれ、横手かな、とも思うのである。

 地下鉄ラッセルスクエア駅は一番最寄りで、殆ど毎日使った駅だった。キングスクロス駅も近く、隣の図書館とあわせよく覚えている。界隈一帯は毎日の散歩コースでもあり、地下鉄爆発現場は丁度その真下あたりのようだ。

 私は2001年のニューヨーク9.11事件のときも、現場から地下鉄で3駅目近くのエジプト人経営ホテルに長期滞在中だった。界隈はまもなく行動制限区域内となり、降ってくる灰や塵埃防止のためマスクが必要になったほどだった。

 ロンドンは3年のタイムラグがあるが、なんだか見知ったところばかりやられるなという実感がある。私はイスラム街なぞも大いに興味があって、ロンドン東部、北部のそれらを何度か歩き回ったが、だいぶ前にそのあたりが過激派の棲みかと報じられたこともあり、ひょっとしたら近々ニュースにまたあのあたりが頻出するのではとも感じている。

 私はかつてベトナム戦争中にテト攻勢に遭遇しているし、インドではカルカッタ大暴動、ギリシアではキプロス戦争勃発にも遭遇している。
 娘に言わせると、「パパはわざと危ないところに行く人」である。

 今度なぞ、全く出くわしたわけでも何でもないが、しかし確かに何やら御縁があるなとは感じている。

 来月から中国領シルクロード、つまり最近きな臭いキルギスやウズベキスタンに隣接したウイグル地方に行く。このあたりにもイスラム過激派の地下活動があるそうだが、はて、また何か起るかしらん。



7月9日  夏休みの宿題

 昨日で前期一通りの授業を終えた。
 1年、2年、3年のゼミでは、恒例通りの宿題を出した。大学に夏休みの宿題なんてあるの、という向きもあろうが、何しろ実質2ヶ月半の夏休みだから、充実した内容にさせたい思いからである。

 内容は、

@本を5冊(半分は文学書)を読むこと。

A芝居または映画を5本見ること。うちそれぞれ1回は劇場・映画館で見ること。

Bその他のアートー美術展、写真展、音楽コンサート、ダンス等を5つ見ること。コンサートはライブを原則とする。旅先で美術館なぞがあったらとにかく入ってみる。

C旅ー海外1週間以上、を手作りですること。海外の解釈は任せる。出来ればアジアの近隣諸国ー韓国、台湾、中国、フィリピン、ヴェトナム、東南アジアなどを歩いてみる。

 経費はバイトで稼ぐなり、親やおじいちゃんおばあちゃんの肩を揉むなりしてなんとかひねり出す。
 国内の場合は、北海道自転車1週とか、四国徒歩お遍路、沖縄島巡り、など創意に富んだ旅を作ること。

 以上を、休み明けに一人づつ報告してもらう。

 毎年同じ宿題を出しているが、去年の1年生はクラスの女子うち揃ってソウル1週間の旅をしてきたし、モンゴルをバイオリンを持って現地音楽と交流しつつ歩いてきた者、沖縄をユースに泊まりつつ一人歩きしてきた者などバラエティーに富み、その報告を全員がゼミ雑誌に載せたのも充実していた。

 さあ、今年はどうなるか。芸術学部の学生なんだから、そして青春の得難い時期の長い夏休みなのだから、思いきったことをしてくれるといい。
 元気で、頑張ってこられたし。ただし、健康と安全にだけは気をつけて。 Bon Voyage!
 


7月6日  ぼつぼつ夏休み前最終授業  季刊文科31号出る

 学校自体の夏休みはまだ2週間ほど先だが、大学院と連句の私の持ち時間が今日で最終になった。明日、明後日もそんな授業が続く。

 連句はいささか遅れ気味だったので、ややペースを速めて進めた。夏休み明けも同様の早さで進めることになろう。
 院生諸君は1年生はもっぱらバイト、2年生は修論の準備と就活だそうだ。

 教師の方は来週から早くもAO入試の1次が始まる。お互いそんなにラクではない訳だ。私はその合間をぬって小説を書き、旅の準備をする。

 そうそう、今日、「季刊文科」(鳥影社)の31号が届いた。南島シリーズの短篇連作第2作「与論」が載っている。市販されているので、興味おありの方は是非覗いてみて下さい。



7月3日  郵政民営化問題は未だによく分らない 小泉も猪瀬も見ていてやるぞ

 郵政民営化は3,4年前から問題提起され、政治日程としてはいよいよ煮詰まってきた。
 だが、私はこの問題について未だにはっきりした意見を持ち得ていない。政治にしても社会問題その他にしても、わりあいはっきり意見を持つことが多い私としては、珍しいことだ。

 理由は考えるほどに是非を決めがたくなるからである。
 事柄だけを簡単に言えば、私は郵便事業は国営の方がいいと思い、貯金・保険事業は少なくとも現状はまずいと思う。

 郵便は日本国中津々浦々、どんな山奥の村にも50円なり80円で郵便が届く制度は、実にいいし、これは国営ででもなければ維持出来まいと思うからだ。民営になれば当初はともかく、やがて採算がとれない地域では必ず配達不可ないし大幅値上げとなるに違いない。

 民営化はかつての国鉄の場合もそうだったが、要するに弱者・少数者の切り捨てによる合理化となるに決まっている。現在、宅配便はかなりの津々浦々まで行っているではないかと言っても、50円のはがき1枚となったらそうはいくまい。しばらく前、名古屋で宅配便の下請け業者が、過重な労働と投資にもかかわらずなかなか十分な対価を支払ってくれない営業所にガソリンをまいて、所長を巻き込み抗議の無理心中をした事件に象徴されるように、宅配便の実態は末端下請け業者へのしわ寄せによって成立しているとも言える。

 合理化・リストラ・高サービスとは、たいていそういう形で成立している。我が家でも昨日、午後10時を過ぎて本の宅配があった。「こんなに遅く」と一瞬ムッとなったが、ドアを開け相手が中年のくたびれ顔そのものであることを見た途端、事情がいっぺんに分り、気の毒になった。

 貯金事業に関しては、巨大な額の郵便貯金が財政投融資という名の第二の国家予算化しており、しかも通常の税金のように使途への国民の監視がなく、いい加減に使われているために、道路公団、住宅整備公団、その他の公共事業のルーズさ・利権化につながっているのは間違いない。

 ゆえに、それは糺し、正されねばならない。そして民営化に一定の効用はあろう。
 が、民営化されれば本当にうまく正されるかとなると、それも怪しい。民営の金融機関といえば銀行や信組・信金、保険、証券会社等だが、それらのいくつかは潰れたし、残った大銀行なぞも要するに税金の大量投入によって救われたのではないか。

 地上げなどでさんざん地価高騰を招来し、バブルを誘発し、不況になったら一転、国家の救援を求め、結局、税金によって延命しているのがそれらである。資本主義の自由競争とか民営といっても、基幹産業の場合、要するにその存続は国家と一体だ。

 また、民営化によって道路公団等の腐敗・頽廃を正せるという猪瀬直樹などの議論があるが、公団等の改革は本来政治と公権力によってこそ正されるべきではないのか。金の出入り形態を変えることによって正せることなら、公団の制度、人事、監査等を抜本改革すれば、当然、金の使い方も正せるのではないか。早い話、天下りを全面禁止すれば、問題はずいぶん是正されるのではないか。なのに、道路公団改革のために即郵政民営化、というのは短絡過ぎる。

 などと考えていくと、貯金だって民営化がいいとは言えなくなる。国営のままでも、要するに金の使い方が良くなればいいことでもある。民営の金融関係者、経済関係者なぞがろくに信用出来ないことは、この10数年のバブル、その崩壊、大不況の一連の経過で明らかだ。

 また、かつての国鉄にしろ、民営化によってサービス向上した面はあるが、代りに安全対策、従業員教育等の実態は、先だってのJR西日本の事例に明らかである。JR北日本などの運賃は国鉄時代の何倍かのところもあるはずだ。

 同時に、では、郵便事業にせよ、国営が絶対いいかというと、そうとも言えない。国営でも過疎化が激しく、採算が悪化するにつれ、郵便局の統廃合は進められるだろうし、料金の地域ランク制みたいなことは生じるかも知れない。

 だいたい郵便制度自体、今の形は電話すらろくになかった明治初期に出来たものであり、今や田舎でもケータイは普及し、メールで即座にはがきなどよりはるかに安く通信が出来る時代になってみれば、それこそたった50円で山の坂道の奥の一軒家にいちいちはがき1枚を配達するなぞ愚かなことかも知れない。いずれにしろ、時代に合わせてかなりの改革は必要なのである。

 等々々、まだ言い足りぬ多くの要素で、私は未だに郵政民営化についてはいいのか悪いのか、はっきりした意見を持ち得ないでいる。
 今回の政治情勢に関しては、賛成反対両者側ともを、黙って、じっくり、奥深く、本当のところを見ていてやろうと思う次第だ。



7月1日  一連の選挙終る

 6月20日付で、いろんな選挙が集中していることを書いたが、市長選に次いで、学内の総長選、学部長選も昨日をもって実質的に終った。

 総長選は理工学部長と生物資源科学部長の一騎打ちだったが、理工学部長がダブルスコアの大差で勝った。票差は出身大学の違いだろうといわれている。

 学部長選は予備選で「候補人」が決定しただけだから、正式には来週の本選待ちだが、予備選で3分の2の多数得票のため候補は一人に絞られるので、あとは承認手続きを踏むだけである。つまり、99%決定というわけ。

 これもしばらく前まではここまで大差になるとは予想されていなかったのだが、間近になって一気にそういう形になっていった。面白いものである。

 どちらの選挙も私なりに意見はあったが、まあ肯ける結果と言うべきだろう。何はあれ、これらの経過を通じて学校の現状がよく分った。こういう機会でもないと、全体がどういうふうなのか、人はどんなことを考えているのか、なかなか分らないものである。