風人日記 第十五章

六十肩の秋
  2005年10月1日〜12月25日


9月4日、新彊ウイグル自治区でも最も熱いトルファン郊外、高昌故城。
かつてこの地に玄奘三蔵法師も至り、当時の王や市民に説法した。
正面が王宮跡といわれる。夫馬撮影。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ


第25回WiP(獄中作家)の日 12月2日(金)6時〜8時 東京外国語大学(府中)にて

  「ベトナムを知ってますか」
      ――東南アジアの文学と人権

 @ベトナム音楽演奏  小栗久美子
 Aシンポジウム     関川夏央(評論家)、西木正明(作家)、森 詠(作家)、司会:川口健一(外語大ベトナム科教授・WiP委員)

 場所 中央線武蔵境駅乗り換え西武多摩川線多磨駅下車徒歩5分
 入場無料 一般参加を求む

 毎年恒例のものです。私は会場係などでウロチョロしています。ぜひ参加を!
 (なお、小生、この11月からWiP(獄中作家)委員会副委員長になりました)



NHKラジオ第一放送・FM放送『ラジオ深夜便・こころの時代』

      「私の遊行期と家住期」(夫馬基彦vs鈴木健次)

 第1回 11月10日(木) AM4:00のニュース後〜4時50分
 第2回 11月11日(金)          同

 時間帯が早朝ですが、テープにでもとってお聞き下さればと思います。



〈訂正〉

「季刊文科」(鳥影社刊)の短篇連作“南島シリーズ”

     第3回、「喜界島」は、33号(冬号)掲載になりました。

 御了承下さい。



「Forbes」日本版 05年11月号(ぎょうせい刊・発売中)

       エッセイ「五十肩の悲哀」



12月25日  札幌の古書店「須雅屋」主人須賀章雅氏のこと

 私はこの人と今年春頃知り合いになった。といってもネットを通じてで面識は全くないが、ある日、彼が私の古い本およびわがHPに関するメールをくれたのがきっかけで、私も彼のHPを見るようになった。

 「須雅屋の古本暗黒世界」というタイトルのそれは中々面白く、主催者のユニークな生活ぶりと戯作ふう達者な文章に惹かれて、ほぼ毎日HPをチェックするのが日常になった。

 その彼から今度、「彷書月刊」(04年11月号)なる小雑誌が送られてきた。どうやら古本をテーマの雑誌らしいのだが、そこに「第4回古本小説大賞」が発表されており、何と受賞者が須賀氏だった。

 早速「ああ 狂おしの鳩ポッポ」という受賞作を読むと、これが実に面白い。御当人と思しき古本屋主人の、古本狂ぶり、根っからの本好き、文学好き、そして近来稀な赤貧ぶりが、ユーモラスにして悲惨に、闊達、諧謔味あふれる文体で進んでゆくのである。

 私は土曜日、自宅、次いで皮膚科の待合室で一気に読み、ニオイをかぎつけたうちの連れ合い(ノンフィクション作家田村志津枝)もどれと手に取るや、そのままクスクス笑いつつ一気に読了。「うまいね」と感心した。

 中に金欠でパソコンが買えないとあったので、賞金で買ったのかとメールを出すと、今朝開いた返事に「いえ、賞金の大半は某詩人の蔵書を買ってしまいました。パソコンは受賞祝いにある友人兼顧客が古物をくれました」そうだ。

 いやあ、今どきこういう人がいるんだなあ。ほんとに本好き、文学好きがネットの彼方から香りだってくる。お金はなくとも彼はいい財産と友人を持っている。いずれ彼の本が出そうな気がして楽しみだ。



12月23日  リュミエールの会

 ゆうべは日芸映画学科の教室を会場に、映画カメラ映写機創始者フランスのリュミエール兄弟を記念する会が開かれた。カメラや映画技術者団体が主催で、日芸映画科協力である。

 そこでリュミエール兄弟創始の機械「シネマトグラフ」の復元機(映画科八木先生制作)を使って、リュミエール撮影の「工場の出口」を上映するというので、私は連れ合いともども見せてもらいに行った。フィルムはやはり映画科の広澤教授が一コマづつ再生したものだ。

 私は青年時代から映画好きで、映画監督に憧れた時期もあったし、20代中期には杉並シネクラブという自主上映団体で事務局役をやったりしていた。

 連れ合いはドイツ・ニューシネマから始め台湾映画の日本紹介、字幕制作をずっとやり、映画に関する著作も3冊ある。『はじめに映画があった』(中央公論新社)は映画が初めて登場したのと日本の台湾植民地化が同じ1895年であり、映画が随分植民地政策に利用されたという内容である。

 「工場の出口」は有名で、断片は見たことがあったが全部は見てないし、ましてリュミエール創始機でというのは希有の機会だ。

 内容は工場から退勤時刻に次々出てくる人々を映しているだけで、3分、あっという間に終ってしまった。「えっ、もう」と思わず叫び、もう一度上映して貰うことになったが、登場する女性たちはみな帽子にロングドレス姿の正装で、とても工場労働者とは思えない。

 口々にそう言い合ったが、おそらく「映画というものを撮る」と言われ、皆よそゆきの正装をしたのではないか。

 連れ合いも映写機を手回しさせて貰い、満足していた。
 産地直送の生牡蠣を肴にワインを飲みながらの会は、皆根っからの映画好きばかりで、楽しかった。



12月21日  教え子とフランス料理

 昨日は今年卒業の教え子が、初ボーナスで何とフランス料理を奢ってくれた。フルコースでかなりの値段だから大丈夫かなと思い、ワインなぞは遠慮してビールにしておいたが、それでもかなりになったろう。

 若い女性と二人でフランス料理などというのは、一体いつ以来だろう。少し考えたが思い出せない。教え子と一杯やることはちょくちょくあるが、たいていは結局こちらが払ってやることになる。今回のようなことは初めてだ。

 願わくばこれが先例となって毎年続出することを望むが、必要条件はいい就職だろう。それが難しい。今年は4年ゼミを持っていないから心配せずにすむが、来年はまたやきもきするだろう。



12月18日  寒波襲来

 大寒波が日本列島を包んだそうだ。確かに寒い。その上、風が強い。最高気温が5−6度らしいから、体感気温は2度くらい低いだろう。

 午前は大風で土埃がもうもうと空を覆った。こういう時、関東の空っ風という語を思い浮べる。
 が、2時間ほどして一段落すると、以降は台風一過みたいに空が青く、遠くの山がよく見える。

 真っ白になった浅間山、雪が筋状になった赤城山、が特に目を惹く。浅間はうちの奥さんの故郷でもあるので、親しみも深い。高2の時、友人らと登ったこともある。もう40数年前のことだ。

 ベランダの菊を何茎か剪り、部屋で花瓶に挿した。剪りたては香りがいい。



12月16日  授業終る。さあ、書くぞ

 昨日で年内最後の授業が終った。今日からは卒試・補講期間だが、さいわい私はどちらも必要ない。

 まだ出校日は来週2日ほどあるが、予習も要らないし、人前で喋るわけでもないので、意識はあまり散らない。

 書きたいのは数年前の旅を素材にした4,50枚の短篇だが、果してうまく集中出来るか。その集中度がポイントだろう。この冬休みはほぼそれにかける。

 さあ、いこう。



12月14日  三つ目の入試

 昨日は付属推薦入試、編転入試験日だった。前者は北は札幌、南は長崎まで全国各地にある日大付属高校からの推薦者入学選抜で、10月のAO入試、11月の留学生・帰国生入試に次ぐ3回目の入試だ。

 この頃は入試も多様化した結果だが、付属生も編入希望者も多数集まり、こちらは嬉しい悲鳴だった。午前9時半から作文開始、面接、採点、合否判定と一通り終了したのは1時半を過ぎていた。

 編入志願者の中には46歳の、すでに専門学校等で講師をしている人までいて、驚かされた。2年編入だと、息子のような歳の若者たちと席を並べることになるし、授業の半分はいわゆる教養課程的内容になるが今更必要ですかといった話になったが、とにかくびっくりだ。

 そういう学生が、大教室ならともかく、10人前後のゼミの中に一人混じっていたら、教える方も微妙だろうなあ。



12月11日  雪冠る日光皇海(すかい)は二十五里  南斎

 今日早暁、書斎の窓から北を見ると、日光連山、皇海連山が真っ白に美しく見えた。初冠雪はもっと早かったが、今日は更に白さが増して何だかアルプスでも見ている感が少しした。

 むろん山の形が違うし、左にはなだらかな赤城山が繋がっているせいもあって、本物のアルプスとも日本アルプスともだいぶ違うが、大きな雪山が続くのはなんといっても雄大で、神秘感もある。

 しかし手前は一面広い関東平野だから、だいぶ遠くもある。一体どのくらいあるか、遥かな距離とも言えぬがと思いつつ、地図で測ってみると、丁度百キロメートルあった。

 なるほど百か、昔ふうなら二十五里だな、なぞと思っているうち上の句が出来た。少年時代、今頃いつも見ていた加賀白山や木曽御岳はどのくらいだったかと気になり、今測ってみたら約九十キロメートルだ。

 どうりで濃尾平野を思い出すわけだと、合理的納得がいった。



12月9日  お袋チーズ

 昨日、大学の帰りに志木の丸井に寄って、田舎の母親へ恒例のお歳暮を送った。夏冬毎年チーズと決めており、大きめの箱に一杯あれこれ見つくろって入れる。

 このごろは実にいろんな種類があるもので、昔少しだけいたパリの店より多いくらいだ。値段は割合高いが、味と管理状態も良く、老若男女誰にも喜ばれるのがいい。

 ただし、今年89歳の母は酒を飲まぬせいかブルー系はどうも苦手らしいので、カマンベール系やクリーム系を中心にする。干しぶどうと干しイチジクもまた入れた。地中海の味だ。これもフランス時代以来記憶のものだが、今年はシルクロード、ウイグル産の味を覚えた。

 チーズにはやはりワインと思うが、母はどうやって食べるのだろう。



12月6日  嬉しいメール

 今朝パソコンを開いたら嬉しいメールが来ていた。今年の卒業生が初ボーナスが出たので御馳走してくれるというのだ。

 文面も当人の日程都合など要領よく書かれ、礼儀も正しく、ああ、社会人になったなあ、という実感がある。

 早速、応諾およびこちらの都合を返事したが、大いに楽しみだ。教師をしていて一番いい時かもしれない。



12月3日  WiPの日ブジ終了

 昨夕、東京外大でペンクラブWiPの日集会が開かれた。

 第1部小栗久美子さんのベトナム音楽演奏がよかった。竹で出来た大型打楽器で、両端に頭の付いたバチ2本で3列の竹琴(真ん中の1列は5音階、あと2つは8音階)を打っていく。元来は中部ベトナム少数民族のものだそうだ。

 起源は田んぼや畑に鳥や獣が来るのを防ぐため、木から吊したりした竹を打ち鳴らしたことから始まったらしい。竹の柔らかな音が優しく響いた。小栗さんのアオザイ姿も清楚でとても美しかった。

 シンポジウムの方も3人の出演者とコーディネーター川口健一教授の話が、ベトナムおよび東南アジアから朝鮮半島、中国にまで及び、東アジア全体を概括しつつのベトナムを浮き上がらせた。

 先だって亡くなった本田美奈子が「ミス サイゴン」の取材で初めてベトナム入りしたとき、途中から取材禁止になったが、日本のマスコミはスポーツ紙を除いてどこも報道しなかった話や、北のハノイと南のホーチミン市では作家たちの姿勢・雰囲気にも随分違いがある、北はいわば党の代理人、南は若くて商業性もある、といった指摘も面白かった。

 会場は交通の便があまりよくない郊外で、開場時間はすでに真っ暗という条件もあり、賑やかとはいかなかったが、日大芸術学部の私の学生も2名来てくれ、嬉しかった。
 他に旧ベ平連の中心人物小中陽太郎さんも客席から発言してくれ、ベトナム主題の会らしくなった。

 終了後、多磨駅近くの居酒屋で打上げ会を開いた。ゲストを始めペン事務局員、川口研究室メンバーも加わり、賑やかで楽しい会になった。WiP委員会の忘年会兼用でもあった。

 なお、私はこの日満62歳となった。



11月29日  12月2日WiPの日の打合せ

 きのう、ペン会館でいよいよ迫ってきたWiPの日の準備会議をした。
 上の「お知らせ」欄に書いたように(一部変更有り)、会場は府中市の東京外語大学、テーマは「ベトナム」なので、もっぱら同大の川口健一教授(ベトナム科)頼りである。

 が、当日配布のパンフやチラシ制作、タイム進行表作成、役割分担などそれなりに雑事はある。私も閉会挨拶をすることになった。他に自分の職場でのチラシ配布などパブリシティーもある。

 一番心配はなんといっても客の入りだ。場所が府中市、中央線武蔵境駅から西武多摩川線で2つ目の多磨駅下車5分というかなりの郊外なので、学生諸君以外は近所の人がパラパラぐらいではと思える。

 中央線沿線からは近いので、そっち方面の方、ぜひおいで頂きたい。開場6時10分、美女によるベトナム音楽演奏もあり。入場は無料。外語大の広い新キャンパスも楽しめます。



11月26日  紅葉

 紅葉が好きで、今頃はどこぞへ美しき紅葉を求めて出かけるが、あまり満足せず帰り、結局、うちの近くの方がずっときれいだということになる。

 訳は多分、ニュータウン敷地内は意図的に紅葉のきれいな木ばかり植えられているせいだろう。欅、銀杏、桜、櫨、どうだんつつじ、花水木、栃などが多い。

 栃並木の道はマロニエ通りと名付けられているが、あれは気どった誤用だろう。栃とマロニエは似ているが、夏出来る実が少し違う。今頃の煉瓦色の葉の色は似ていた気もするが、確信がない。

 欅は一本一本色が違ったりするが、黄色くきれいになる木と茶色でチリチリになる木に大別される。木の種類なのか、日当たりなど気象や排気ガス等諸条件のせいか、はっきりしない。道端のはどうもチリチリが多い気がする。

 がまあ、目にも鮮やかな、という紅葉は所詮、埼玉県南部では無理ではある。遠くへ出かけたいが、日帰りではこれも無理だろう。



11月23日  嫌な事件の続発

 このごろ、娘が親を薬の実験台にして殺そうとしたり、高校生が同期の女の子を50ヶ所も刺して殺したりの事件が続いたが、続いてマンションやビルの強度偽装、小1の女児を殺害し段ボール箱に入れて放置、と曰く言い難い事件が相次いでいる。

 共通して感じるのは、訳の分らぬイヤーな気分そのものであり、更に気持悪いのは、マンション強度偽造の建築士が一向悪いとも思っていないみたいな、イケシャーシャーとした表情をしていることである。

 あれは一体なんだろうか。

 世相やマスコミ絡みの事象について、あれこれ論評したがる向きの言説を私はあまり信じない方だが、しかし、このごろの世は、ひょっとして深いところで何か人間の感覚を奇妙に麻痺させたり、歪めたりしてはいまいか、という気はしている。

 学校で接する若者たちにも、鬱症や、引きこもり現象、理由の分らぬ怠惰さ、などが静かに蔓延している感がある。

 これも一体何なのだろうか。

 簡単に結びつけるには飛躍もあるが、しかし何か世に、今までなかったよく分らぬ新現象、新気分が、あたかも鳥インフルエンザか牛のBSEのごとく秘かに進行しつつあるのではないか。

 BSEは細菌やウイルスではなく、牛が牛骨粉を食べるという「共食い」ゆえに生じる細胞の萎縮現象だそうだが、それに似た不気味な現象ではないのか。

 今の日本人は、精神において何か奇妙な共食いをし、精神の萎縮現象を起しているのではないか。そんな不安を感じる。



11月21日  自分の声

 今日、過日のNHKラジオ深夜便のテープがやっと届き、聞いた。
 内容は前半の若いころ快調、後半、大人になってからのことはまだ時間が浅いせいか、生々しい面もあり、自分では考えることの方が多かった。

 全体を通じて一番面白かったのは、自分の声がこういうものかという意外感・新鮮感だ。
 自分の声は自分ではふだん聞けない。というか、当人の声は内部の別の共鳴・反響などの要素も混じるため、他人に届くようには聞えない。

 ゆえに自分の声・話し方は客観的には分らないわけだが、それが録音だと分るわけで、ヘーエ、オレの声ってこうか、と思えたりする。私の場合は、案外高音だなというのが第一、次にわりあい歯切れがいいなというのと、よく笑うな、が続く。

 ラジオを聞いた人の評に「早口だ」とか「大学教授ふう。喋り慣れてる」などがあったが、自分ではそう思わなかった。後半はやや早口かなと思ったが、前半は全く普通に感じたし、大学教授ふう云々ももともとこうだという印象の方が強い。

 内容は鈴木健次さんの好リードで、かなり手際よくわが人生を語っており、還暦過ぎの記録としては丁度いいかなという気がする。もし生きていれば80歳になったときこれを聞くと、自分でどう思うだろう、と考えるのがまた面白い。



11月19日  木枯らし散歩と自然薯麦とろ

 今日は娘が昼前にやってきた。一緒に土手でも散歩して昼ご飯を食べようという、1週間くらい前からの小プロジェクトである。

 ところが、日射しはいいものの風が強くて寒いので、行きはニュータウン内の道を通って隣接する新座団地へ行き、比較的最近できた店で麦とろを食べることになった。

 この麦とろが2種類あり、一つは大和芋で一つは自然薯製だという。値段はだいぶ違う。
 娘との散歩なぞ珍しいから自然薯にしようとなったが、これが旨かった。

 さすがに腰があり、微かな香りよろしく、元気が出そうな感じだ。寒さ払いに飲んだ麦焼酎の湯割りも上品でほの甘く、麦とろに合う気がした。

 そのあと、近くの魚屋と八百屋に寄ったら、魚屋では殻つき牡蠣が1個100円ほど、八百屋では大型椎茸やネギが激安で、娘によれば志木のマルイと比べたらひょっとしたら3分の1というので、ほいほい買ってしまった。

 いい気分で、帰りはやはり土手を歩こうとなったのだが、しかし風が強かった。桜などの木の葉は目の前で吹き飛ばされてゆくし、文字通り木枯らしの風情である。

 が、戻るのも癪でそのまま家まで来てしまったが、いやあ寒かった、寒かった。喉がちょっと引っかかる。冷えたせいか五十肩も痛くなり、慌ててカイロを肩に入れた。“年寄りの冷え肩”である。



11月17日  留学生・帰国生・校友会入試

 今日は先月のAO入試に次いで、第2弾の入試日だった。
 文芸科への留学生は韓国から1名、帰国生はカナダとマレーシアからだった。

 帰国生は中2と小学校5年から海外生活だそうで、学校では英語、自宅では日本語の完全バイリンガル生活だったらしい。
 二人とも日本語での受け答えもしっかりしたものだったし、英語もかなり出来そうで頼もしい。

 ただ、マレーシア語は殆ど出来ないらしいのが、残念な気がした。せっかく長くアジアの国にいたのに、そこの言葉を学ぼうとせぬのはもったいないし、失礼だという気さえする。行った先がヨーロッパだったら、そういうことはまずないのではないか。

 校友会入試の方は、たいてい親に勧められてというのが面白い。校友は親なのだから当然といえば当然だが、自分の意志はどうなのかといささか物足りない。若者よ、自分の足で歩こう。



11月15日  ケチな私 

 今、郵便局でユニセフ宛「パキスタン地震見舞」を3000円送金してきたところである。パンフに「3千円で17人の子供が救かる」(数字はいま確信がない)といったふうに書かれていたから、とりあえずそうしたのだ。

 が、手続きをしながら、これでは少なすぎないか、どうせなら1万円くらいにしたらどうか、と迷いが生じた。パキスタン北部のあのあたりは、震源地界隈ではないがかなり近くを昔2度通ったことがあり、貧しさの度合はよく知っていた。

 インドもそうだが、あのあたりの貧しさというものは、日本なぞで言う貧しさとはケタが違う。本当に、食う、寝る、着るものが、生きる最低限ぎりぎりなのだ。それが赤ん坊からよぼよぼの老人まで家族全体を覆っていたりする。

 北パキスタンの場合、インドみたいに路上生活者はあまりいないが、寒さは厳しいから、この冬越しはまさに命がけになることは確実である。

 そう知っていながら、おまえはなぜそれっぽちしか出さぬのか、ちゃんと給料をもらっているではないか、そう聞えてくるのに、とうとう私は3千円のままにしてきてしまった。

 ケチだなあというのが、我ながらの苦い思いだ。背景には、今までこの種のものに送金しても、きちんと使用明細を知らされなかったり、中には途中や現地で一部の者に横取りされたらしい話があったり、ということがあったためもあるが、要するに太っ腹な互助精神に欠けるのではないか。

 母子家庭出身だし、若いころから長年貧乏だったからと、言い訳的自己分析もしてみるが、やはリ気になる。

 昔、インドで、「物乞いには絶対施さぬ」と決意実行した期間がかなりあったことを思い出す。それは、あの国では乞食が多すぎ、ひとり一円づつやっていくだけでこちらが破産する気がしたからだが、その決意はやがて揺らいだ。そんなことを言っても、今1食与えなければすぐ死ぬかもしれなさそうな人に出会うと、ちょっとした論理的思考など吹っ飛んでしまうからである。

 パキスタンは今、目の前に見えないから、こんなことを言っている。



11月12日  一日アクセス数517、「ラジオ深夜便」の威力

 ラジオ出演前篇の10日から、どんどんアクセス数が上がっていく。ちょっとメールを書いたりしてから覗くと、もう2,30動いていたりする。誰かがいたづらしているのかとも思ったが、書き込みも増えるからどうやらラジオのせいと分った。

 昨日の朝から計ってみたら、丁度今朝までの24時間でアクセス517だった。
 普段は一日4,50、四月の新学期時期で100くらいだから、過去最高、普段のざっと10倍である。

 あんな時間のラジオなぞ、果して聞いてくれる人があるのかしらと当初思っていたが、嬉しい誤算である。むしろ、静かにじっくり聞いてくれる人が多いらしいと知った。朝の早い高年齢の方が多そうなのに、パソコンを使える人の比率が高そうなのも新発見だった。

 私はかねがねパソコンやネット、メールは、高年齢層にこそ最も有益なメディアではと思っていたので、意を強くした。パソコンなら、外出困難、あるいは身体条件などでコミュニケーション流暢ならざる人、人と会うのが煩わしい人、等にとっても、経済的で、素早く、ラクである。

 それと深夜というか早朝番組との組合わせが、何事かを感じさせる。ここに人あり、見えないサークルあり、という感じだ。嬉しい出会いだった。
 今回お初の皆さん、今後もこの風人日記、ときおり覗いてやって下さい。



11月11日  ラジオの反応続々

 昨日今日と早朝のラジオ番組NHK「ラジオ深夜便」で、私へのインタビューが放送された。「私の遊行期、家住期」と題しての、いわばわが青春以来の人生遍歴を語る内容だ。

 私自身は午前4時にはとても起きれず、後で送って頂けるという録音テープ待ちで、つまりまだ聞いていないのだが(収録後、多少の編集があり得る)、聞いた方から予想外の多くの反応があった。

 未知の方からのこのHP掲示板への書き込み、直接のメールだけでもすでに計7人、他に知人からは直接電話も来たし、大学で教授会の前後に「お、ラジオ聞いたよ」といった反応も何人かあった。HPへのアクセス数にいたっては普段の数倍である。

 事前には、このHPでの「お知らせ」と、受け持ち学生たちのほんの一部に知らせただけだから、反応の多さに少々驚いている。

 私はテレビの方で、NHK衛星放送の「週刊ブックレビュー」に約12年間、通算30回近く出演したことがあるが、こんな反応はなかった。

 むろんテレビは他人の本の紹介批評、時間も20分程度、今度のラジオは私へのインタビューで、前・後篇おのおの50分づつ、と条件も違う。

 が、ひょっとしたら一番の要因は、番組が「こころの時代」と副題の付くいわば人生番組だったこと、そして午前4時にこういう番組を聞く方の特質、ということがありそうな気がする。

 事実、聞いて下さった方は、50代60代70代が多かったようだ。若い深夜族もあり得るかと思っていたが、今のところ極めて少ない。さすがに4時となると、起きてはいないのだろう。

 学生の中には「ラジオってどうやって聞くんですか」とか、「ラジオなんて持ってません」という者もいたから、年長組とは感覚が違うのかもしれない。

 知らなかったことに少し触れた気がする。面白い体験だった。



11月8日  靖国軍国博物館

 今日、靖国神社の目の前に勤務している、高校時代の同級生と一緒に昼食をとってから、靖国神社の「遊就館」なるところを案内してもらった。

 名前からだけだと一向はっきりせぬが、ここは見て行くにつれ信じられぬような場所だった。零戦とか回天とかの、今風に言えば自爆特攻隊の武器実物が展示されているのを始め、日清・日露の戦争から太平洋戦争までの経過が、戦争の客観経過としてでなく「作戦経過」として展示されているのである。

 作戦経過とは、戦争の勝利を目指す行動経過ということだから、要するに平和の観点は欠落している。戦争が悪いという意識は皆無だった。

 2ヶ所ほどで上映されていた映像は、攻撃する日本軍の図が殆どであり、ナレーションやバック音楽はまさに勇壮果敢の、戦意昂揚調そのものだった。

 また、太平洋戦争中から日本軍によってアジア諸国独立の火が点けられ、やがて多くの国々が独立出来た、といった展示記述もあった。これはいくらなんでも我田引水、都合のいい解釈すぎる。そんなふうに言うなら、そのアジア諸国、近隣諸国に嫌われるようなA級戦犯の合祀はすべきでないだろう。

 見終わって一番率直な感想は、ここは軍国主義賛美の博物館であり、こういうもののある靖国神社は死者の鎮魂、平和祈願の場ではあり得ないということである。

 靖国神社はこの遊就館を早急に廃止または移転し、A級戦犯の合祀もやめるべきである。
 首相や閣僚はむろん、こういう場所に参拝なぞすべきではない。思慮のない、浅はかな行為そのものだ。
 


11月6日  教え子たちと続々会う

 昨日は学園祭最終日で、午前から午後1時までは進学相談担当をしたが、そのあと研究室や構内で次々と卒業生たちに会った。

 研究室まで土産をもって訪ねてくれる人、屋台通りとなって混雑するそこここで「先生」と声をかけてくる者。おおむね卒業2,3年以内の人が大半で、懐かしそうに学校を見に来ている。

 研究室へ来てくれた一組は、山形と新潟からバスで午前5時に着いた女性2人で、早朝、江古田への西武電車に乗りながら、「こんな時間に授業をちゃんととったりしていれば、だいぶ人生変ったろうなと思いながら来た」と言う。

 「3,4年の時、きちんと就職活動をしておけば良かったとつくづく思います。今、その報いを受けています」とも言う。

 二人とも田舎での現況がうまくいっていないらしく、辞めて再就職を出来れば東京でしたいみたいな口ぶりである。田舎の狭い人間関係、家族、親族間の憂鬱な諸事情、商売の不況、安い給料、などと聞いていると、事情は分るし、顔は笑いながらでも時に泣きそうな表情がかいま見え、可哀相でならない。

 だが、私にはどうしようも出来ない。同情しつつ、ただ聞くだけである。「だから、学生の時、もっと就活やら将来の方針をきちんと考えろと言ったじゃないか」と言いかけそうになるが、それも今更詮ない。うちの学生はたいていのんびり屋、自由気まま屋で、そこが良さでもあるのだ。

 交代で現れた二人は、一転、就職成功組で、日本大学に職員採用になった女性2人だ。一人はもう勤務1年目、もう一人は今年内定、あとは配属先決定待ち中の、一番楽しいときだ。

 この2人を引き合わせ、近所の寿司屋に移動して生牡蠣なぞを肴に一緒に飲んだ。二人とも元気で目が輝いており、こういう若い女性といるのは楽しい。4時過ぎからちょっとのつもりで飲み出したのがいつの間にか8時になってしまった。

 明暗二様、暗の方のOGがくれたコシヒカリとそば、漬物などたっぷりの土産品を提げて帰途につきながら、世の中はむつかしいものだと改めて思った。



11月3日  執筆時間

 このところ大学が学園祭期間に入ってきたので、授業がない。5日の土曜日は進学相談会担当で朝10時から出校義務があるが、ほかはまあどうしても行かなくてはならぬわけではない。

 おかげで、私は執筆時間をとれる。夏休みは旅行中を除いてずっと書いていられたのに、後期授業が始まってからは時間が大幅減少し、困っていた。

 大学教員は授業がない日は「研究日」という言い方をし、私なぞ創作系教員はいわば「創作日」になるわけだが、小説の執筆は授業日の合間に2日創作日が出来たからといってすぐ効率よくは書けない。半日は前の分の点検に取られてしまうし、時間が細切れになりすぎるのだ。

 ゆえに、1週間近く時間が継続出来る時は、本当に有難い。毎日書き続け、季候も丁度いいので、疲れると散歩に出る。柳瀬川河川敷には、もうすすきが銀色に波うっている。



10月31日  やや寒

 暑がり汗っかきの私だが、すっかり秋である。
 下着やパジャマ、木綿製のマフラーなど秋物衣類を用意し、古物は捨てた。

 ベランダの鉢も水仙の芽が早くも出、菊のつぼみが膨らんだ。3年ぶりのアロエの花のつぼみもだいぶ伸びてきた。

   やや寒の時宗の寺で人を待ち  南斎

 10数年前の古詠だが、自分でも好きな句である。時宗(じしゅう)の寺は数少ない上、宗祖が踊り念仏で知られる遊行上人一遍だったせいもあり、寺はひっそり質素で静かなのが特徴である。そこで人を待つ。

 今日は久々に東京の出版社へ出向き、人と会った。ある種の運を感じさせるいい出会いであった。晩酌がうまい。



10月29日  医者というのはどうしてこう不愉快なのだろう

 今日、五十肩の治療にもう3回目になる整形外科(地下鉄成増近く、和光市の富澤整形外科)へ行った。
 と、診察もないまま注射用の部屋に通された。あれ、診察はないのかと不審に思ったが(前回まではあった)、医師が来るには来るからその時何らかの話はあるだろうと待った。

 看護婦が注射器はもう準備して目の前に置くし、準備していてと言うからシャツも全部脱いで上半身裸になったが(毎回そうする)、医師はなかなか来ない。寒いのでバスタオルを求め肩にかけて待っていたが、医師はなお来ない。私は昨日からやや喉が詰まったり風邪気味だったからイライラしていると、やっと来た医者は何も診察とか経過の質問もせず、ただ注射をしてまた戻ろうとする。

 で、私が「(五十肩用の通称アイロン)体操はした方がいいか」と質問をすると、医師はもう歩き出しながら「痛くなかったらすればいい、痛かったらしない方がいい」と素人でも言う内容を言っただけですぐ隣の仕切に引っ込んでしまい、もう次の患者に対しながら、仕切の向うから一言二言ちょっと付け加えただけだった。

 いつもは診察のさい言う薬の処方も何もない。困惑しながら服を着ていると看護婦さんが「あの、薬も要ります?」と聞く。
「ええ、そりゃあ」
「飲み薬ですか、貼り薬も?」
「両方。ただし、飲み薬は少しでいいです」
 あとは外で待ってろと言う。

 すると、まもなく待合所で受付嬢(もう少し歳はいってるかも)が、飲み薬はこれくらいでいいかと量を言う。私はそういうことを受付が決めるのかと思いつつ(医師の意志がどこか私の知らないところであったにせよ)怪訝な気分だったが、量的にはだいたいいい気もしたので何となく頷くと、すぐ(ほとんど間髪を入れず)処方箋と請求書が出てきて「はい、××円です」と言う。

 さすがに納得出来ず、「処方とかそういうことは医師が診断し、こちらと話してから決めることでしょう」と言うと、「こういうシステムになってますので」と言う。「そんなこと知らない。最低、診断はすべきでしょう」と言うと、「じゃ、院長に言って下さい」とうるさそうに答える。

 私はいい加減嫌になってきて、「次回からはちゃんと診察して欲しい」と言うと、「そういうことも院長に言って下さい」との答え。

 私は1時間待たされもう昼時で空腹だったし、そのまま帰った。帰り道、私が短気、あるいは神経質、あるいはいわゆる「うるさい客」なのだろうかと経過を振り返ってみたが、しかしどう考えても自分が悪いとはおもえなかった。

 結論は、もうこの医院には2度といきたくない、ということだけだった。喉の引っかかりが少し増大し、風邪が進行しないかとだいぶ気にしつつ早足で帰った。

 実名を挙げてのこの種のことは出来れば書きたくないと迷ったが、しかし、医院は個人のものであれ責任は公的なものだし、医師およびその従業員はいつも病者弱者に対しているため、どこか傲慢、一方的という印象を免れないので、あえて書くことにした。

 反論があるならもちろん聞くし、問題があるというならいつでも正面から受けて立つ。そのためにこの日記も今日の日付で書く。ネットの内容は書き換えも可能だが、キャッシュをとっておけば今日のものは残るはずだし、プリントもとっておける。



10月26日  久々のペンWiP(獄中作家)委員会

 昨日は兜町のペンクラブ会館へ行った。9月の例会は旅行中で欠席だったし、その前は7月だったか、だいぶ間があいている。

 出席は4名のみだったが、12月2日に「WiPの日」の催しを、今年は府中市の東京外国語大学で行うことになった。ベトナム科の川口健一教授(WiP委員)を中心に、「ベトナムおよび東南アジアの文学と人権」をテーマにする。人権委員会の関川夏央氏も加わってのシンポジウムと、ベトナム人留学生によるベトナム音楽演奏、という仕立てである。

 外語の学生諸君および一般参加の人たちがどの程度集まってくれるか心配だが、まずまずの内容にはなりそうだ。詳細は追って上の「お知らせ」欄にも書く予定。入場無料なので、ぜひ皆さんの参加をお願いする。

 なお、私はWiP委の副委員長を引き受けることになった。かねて懸案で、頼まれつつ逃げ腰でいたのだが、ついに断り切れなくなった。従来の副委員長が昨年来相次いで亡くなり(二人とも50代だった)、ずっと空席のままだったのである。

 新任副委員長は二人とも60代だから、若い新メンバーを補充し、会の若返り、活性化を図らねばならない。私はその中継ぎ役と思っている。



10月24日  ラジオ番組の収録でNHKへ

 今日は久々に渋谷のNHKセンターへ行った。「ラジオ深夜便・こころの時代」(上のお知らせ参照)に出演のためで、インタビューして下さる相手は鈴木健次さんである。

 鈴木さんとは17,8年前、トーハン発行の「新刊ニュース」誌上でやはり対談インタビューをして以来の再会だった。当時鈴木さんはNHK職員で、そのご大正大学の教授になられ、今年定年退職されたという。私は当時、専業作家で、9年前から大学教員になっている。

 当然ながら互いにずいぶん歳をとったわけだが、鈴木さんは昔通り背筋まっすぐ、発声明晰で、私のことも正確に覚えておられた。私の本もずいぶん読んでいて下さり、この日は重いのにそれらを持参して、サインを求められた。

 有り難いことである。対談も人生番組とのこともあり、もっぱら私の人生の生きざま、変転のこととなった。鈴木さんの好リードで、話は尽きず、私は本当に何年ぶりかでおのれについて気持よく語ることができた。

 ただ、さすがに記憶の曖昧なことや、今となっては判断の違うこと、話したくないこともあるのに、改めて気づきもした。20年、30年の時間の推移とは不思議なものだ。
 オフレコだが、20年前の私の芥川賞候補の時の、選考前夜の意外な事実も聞かされ、驚きもした。

 その選考で私は1票差で次点となったのだが、話はその選考に密接に影響する内容だった。帰宅して私はその時の文藝春秋の選評を読み返し、符合するものを感じた。
 今さらながら悔しく、床のなかでもあれこれいろんな思いが浮んだ。少し悲しくもあった。



10月21日  中国伝媒大学の先生たち

 2週間ほど前から、伝媒大学(元北京広播学院)の先生たちが、交換教授として日芸に来校されている。ニュースメディアの劉京林教授と日本文学の張育華教授である。そのお二人を囲んで、昨夜、江古田のレストランでこぢんまりしたパーティーがあった。

 いずれも女性で、張先生の方は専攻がら日本語もうまい。萩原朔太郎の研究者ともいう。
 私は2年前広播学院へ交換教授としていったので、いろんな意味で懐かしい。張さんとは直接会わなかったが、もう一人同姓の張彩先生には授業の通訳をして頂いた。

 両張先生は山東省出身で、背が高い。張育華先生の方はひょっとしたら180センチ近いのではないか。張彩先生も175,6センチはあった。山東省は男は180センチ以上、190センチ台がごろごろしている。

 漢民族には小柄な人もいるし、バラエティーが大きい。総じて北方系は大きいというが、去年、東北へ行った経験ではさほど大きいとは感じなかった。この夏行った西安や敦煌では日本人並の人が多かった。

 同席していた日芸大学院への留学生、阿金(あじん)さんも大きかった。やはり170センチ台なのではないか。もちろん女性である。顔も大きく、張さんたちよりもはるかに大陸的風情なので、聞いてみると、モンゴル系のようだった。

 もう一人、途中からそばに来た青年もどこか大陸的顔立ちで大きく、中国語もうまい様子なので、不思議に思ったら、うちの事務局職員のM君で、母親が中国人、11歳まで上海育ちで日本語は一切出来なかったという。

 面白いものである。東洋人といっても色々あることが、目の前で分る。日本の間口も広がった。



10月19日  単純一郎氏、靖国参拝

 小泉首相が靖国神社を参拝したが、その時の顔つきが気になった。
 ぐっと力んで、大股に腕振り振り、大勢のボディーガードやお供を引き連れ歩いていく様が、権力者そのものに見えたのである。

 問題のなかでの行動だし、大勢の視線の的だし、緊張も意気込みも分るが、厳重警備で一般人をシャットアウトした上でのことだから、いくら一般人と同じ参拝といっても、言い訳に過ぎないし、むしろ衆目のなかで強引な行動を誇示しているごとく見えた。

 小泉氏は当初、ダンス教師ふうといわれ、音楽を口ずさんで見せたり、ミーハー的言動で、気ラクで単純な人と思えたが、首相在任期間が長くなり、先の総選挙で圧勝してからは、見るからに自信に満ちてきて、単純さに磨きがかかってきた。

 単純にして圧倒的権力者とは、すなわち独裁者に似ている。
 翌日、新人を含め101人もの国会議員がぞろぞろ靖国参拝をした図など、まさにその証明に見える。中に郵政民営化反対者たちも混じっていたのが、どこか怖ろしかった。



10月16日  カザフスタンのコリアン

 今夕、TBSテレビのニュース番組を見ていたら、カザフスタン在住の朝鮮人による金日成・正日北朝鮮王朝への反体制運動の存在を知らせていた。

 スターリン批判下モスクワでの北朝鮮留学生仲間で、今や70代、数も少なく、現実的影響力があまりあるとは思えなかったが、やはり細々とながらその種の動きはあったのかと、ホッともしたし、意を強くもした。

 そして、同時に知ったのはカザフには10万人の朝鮮人がおり、それはかつて沿海州に住んでいた彼らを日本の影響下に入らぬよう、スターリンが一気に5000キロも西の中央アジアに強制移住させたものという。

 私は34年前、カザフの南のウズベクスタン、サマルカンド郊外で一群の朝鮮人農民に出会って、いったい、この人たちはなぜこんな所にいるのかと不思議に思ったことがあったが、それも同じスターリン強制移民だったのだろう。

 また、ずいぶん前(20年ほど前?)、岩波ホールで見た『チェチェン』というドキュメンタリー映画が、同じくスターリンによってカスピ海沿岸のチェチェンからトルコ系チェチェン人らがシベリアへ強制移住させられる話であったことを思い出した。

 どちらもずいぶん勝手なことをしたものだが、チェチェン人はその後国に戻り、そしてその国はまたすでに10数年来、ロシア支配に抵抗して火を吹き続けている。

 各地に散ったままのコリアンたちは、北朝鮮独裁王朝に対して今後どうしていくだろう。金正日の後継がひょっとしたらまだ24歳の息子かも、なぞという報道に接すると、いったいなんたるアホさ加減、そも社会主義に王朝なぞあり得るのか、と正直侮蔑を感じざるを得ない。

 何年か前の建国パレードの際には、参加の戦車が正面閲兵台の金正日らを砲撃する計画があったというが、さもありなんと思える。今年は張り子みたいに脚を上げて歩く痩せた兵隊たちの姿ばかりであった。



10月14日  村上世彰はフジ三太郎に似てる

 このごろテレビに頻出する買い占めの村上世彰氏を見ていて、ずっと誰かに似ていると思い続けた。

 それが昨夜はっきり思い出した。私の若いころから中年期にかけてよく目にしたサトウサンペイのマンガ「夕日くん」や「フジ三太郎」にそっくりなのだ。

 特にあの目である。少し飛び出た、キョロッと丸くて愛嬌がある目玉。顔の輪郭や、若くて健康なサラリーマン的雰囲気も似ている。

 むろん、現実の村上氏は頭の良さそうな元通産官僚にしてマネー師(こんな言葉はないが、一番適切な感じがする。それとも「カネ転がし屋」がいいかしら)だから、夕日くんたちみたいに人がよくはないだろうし、サラリーマン的でもなかろう。

 だが、とにかくまだ若い、小柄な、明るい顔の男が、愛想よく次々と世情を騒がせていく様は、どこか愉快である。楽天の三木谷はあまり面白みを感じないが、ホリエモンとこの目玉クンは面白い。

 フジ三太郎ならぬTBS三太郎にならぬかしら。



10月12日  江古田文学賞選考委員会

 昨夕、日芸江古田校舎会議室にて、委員会を開いた。委員は文芸評論家の伊藤氏貴、斎藤礎英両氏と作家の私の3人である。

 1年ぶりの顔合わせだったが、二人とも元気だった。私は五十肩が相変らず痛かったが、朝呑んだ鎮痛剤がまだ効いていたのか、さほどではなく、順調に選考を進められた。

 応募者は締切りを8月末にしたせいか学生が極端に減り、90%が外部の社会人や専門学校生、高校生などとなった。

 うちの学生に言わせると、8月締切りだと夏休みになった途端にかからないと間に合わないし、休み気分になれない。学校へも行かないし、忘れてしまう。ということらしい。

 成程そうかもしれない。うちの学生らしい。
 おかげで候補作6遍中にも、68歳、58歳の人が入り、若く清新な作を送り出したいこちらとしては「うーむ」となった。

 ただ、残りのうち3遍はうちの学生であり、応募者13遍からの比率としてはずいぶん高い。わが文芸科生たちの筆力はなかなかというべきであろう。

 受賞作も文芸科3年生となった。若い雲水(禅僧)の内面に真っ向から取組んだ力作である。詳細および作品は〈江古田文学〉11月発刊号で発表となる。
 皆さん、ぜひ御覧になってみて下さい。



10月9日  注射の結果報告

 あまり書きたくもないが、黙っているのもどうにも業腹なので、簡単に書く。
 7日の注射はその後時間を追うにつれ、上腕部・肩の筋肉が緊張、痛みが増し、それまでは出来ていた車の運転に支障が出るほどだった。

 一晩寝れば好転するかと思ったが、まったくその気配なく、持っていた内服の鎮痛剤を飲んでどうにかやわらいだ。以降、今に至るまでずっと鎮痛剤を飲んでいる。
 つまり、鎮痛剤を打ってかえって痛くなり、別の鎮痛剤でそれを治したわけだ。

 これはどう考えても医者の責任だろう。何かミスがあったのか。あるいは仮に薬が合わなくて逆効果になる場合があり得るとしても、ならばそういうことを医者は事前に説明する責任があるのではないか。事前にも事後にも一切説明はなかったのである。

 あまりに腹立たしいので、その医者のことを明記しておく。朝霞市村山病院、整形外科、金・土曜担当 S医師 である。皆さん、この男にはかからぬ方が無難です。



10月7日  ついに注射

 今日、五十肩の痛みにくたびれて、7年前によく効いたナントカ酸という、鶏の関節にある潤滑油的成分に類したものの注射を頼みに整形外科へ行った。

 以前してもらったのは隣駅の病院だが、同じ注射はすぐ近所の開業医でもすると言っていたから、出校日の忙しいときでもあり、そこへ行った。と、そこはだいぶ前に廃業したとかで、ちがう名のクリニックになっていた。今度は整形外科と心療内科兼業という。

 首をひねって隣駅の病院まで足を伸ばした。が、ここも以前してくれた医師はどうもいないようだし、カルテも古いのはもうないという。
 旅行前の7月に来たとき、あの注射は必ずしも効くとは限らない、今はやめておきましょう、と言った年配の医師は火曜日しか来ないという。

 今日の若い医師(30代後半くらい。おそらく四十肩、五十肩の体験はあるまい))は肩の前面をざっと触診しただけで「ああ、いいですよ、注射しましょう」とえらく簡単に言う。気になって、その注射の成分を聞くと、要するに鎮痛消炎剤だという。それでは私の意図するものと違うから、その旨言うと、「では、それと2本打つことになります」と言う。

 前のときの注射はかなり太く、医者自身「痛いですよ」というものだったし、7月の慎重派医師も「痛い思いして効かなかったらつまらないから」という言い方だった。

 ゆえに、こちらはそんな痛い注射を2本も打つ、しかもナントカ酸の方は関節のかなり奥への注入なのに、この医師はその部分については触診さえしていない。

 こんな医師に任せていいかと迷っていると、「納得いかないみたいですね。あちらで考えて下さい」と言って、次の患者を入れたそうにする。納得する材料は何も与えていないことに気づいていないらしい。十分な説明がない。

 私は廊下で考えたが、すでに1時間半待った上で何もせず帰るのも癪だったし、といってこの若い医師にベテラン医師たちでもあまり打ちたがらない注射(7年前のとき打ってくれた医師もなかなか打ちたがらなかったし、1年目にやっと打ってくれたときも、慎重に打ち終ると、当人自身ホッとしたように「うまくいきましたよ」とわざわざ言ったほどだった)を、してもらう勇気も出ない。

 で、結局私は鎮痛剤だけ打ってもらった。それは細い針で、ちょっと刺すだけだった。そういえば、彼は私の前の患者たちにもいとも簡単に注射していた。

 結果は午後からだんだん肩および上腕部が固く緊張する感じになっていき、肩は明らかに打つ前より痛い。腕もより上がらない。

 注射というものは、ときに打った日は痛かったりするものでもあるから、その類かなとまだ判断は保留しているが、それにしても妙な注射行とはなった。
 私はどうも医者というものは嫌いだ。この医師の出身大と経歴を調べてみたい誘惑に駆られる。

 どなたか五十肩に関するいい医師か治療法をご存じないだろうか。



10月4日  ミドリマツムシ

 2日の日曜はやけに暑く、真夏日に逆戻りだったが、昨日今日は曇り気味で涼しい。
 そして、夜になると、ミドリマツムシのすだきが一斉に聞えてくる。

 ミドリマツムシはたぶん「緑松虫」と書くのだろう、一度見たことがあるが、本当に緑色で、ちょっと亀虫に似た形の虫だった気がする。どういうわけか樹上に棲息し、従って並木道などを歩いていると、上や真横あたりから聞えてくる。

 カナダあたりからの外来種らしい。障害物や天敵が少ない分、音が、より聞えやすい気もする。今ではすっかり日本の秋に根付いたようだ。

 土手を歩くと、曼珠沙華ももう色あせ始め、草木がわずかに色づき始めていて、すっかり秋である。

 このホームページも章を更えました。背景色は秋の色にしたつもりです。御愛読下さい。



10月1日  藤井正広さん、勤続35周年パーティー

 今夕、新宿のホテルで日芸非常勤講師藤井さんのパーティーが開かれた。
 藤井さんは読売新聞出版局の編集者のかたわら、39歳の時から日芸で編集演習、編集実習の講座を受持たれて来、今年で35年になったのである。

 年齢74,定年までにはもう1年あるが、35年とはなんといっても長い。で、その35年前の1期生を始め現在の現役学生まで多数が集まって祝賀会となったものだ。

 1期生がもう56歳、教え子の中に教授、講師がざらざら、というわけで、昔話が飛び交った。1期生時代は70年頃の日大闘争の直後で、学生の中には巣鴨の拘置所へ仲間の差し入れに通っている学生もまだいた、などと聞くと、今昔の感に堪えない。

 私はこの日、中年以降の同僚として、当初中締めをする役だったが、60肩が痛くて出来ず、挨拶だけの役と交代してもらった。ほんとに肩に響いて手なぞ打てないのである。情けないものだ。

 私が74歳の時はどうなっているだろうと、ちょっと考えた。