風人日記 第十七章

花から木へ
  2006年4月1日〜

4月1日、柳瀬川土手にて。夫馬撮影。
いかにも牧歌的である。自宅近くは花見客
 で土手も川原もあまりに混雑していたので、
10分ほど下流へ歩いた所で撮った。画素数
の少ないケータイで撮ったので、大きくできな
いのが残念。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ


「本」7月号(講談社、6月20日刊)にエッセイ「ちょっとヘンなタイトルだけど」を執筆

 内容は『按摩西遊記』をめぐるもので、私の意図や心情を書きました。
本」は一応定価80円となっていますが、半ば講談社のPR誌なので、各書店カウンターなどで尋ねればたいていタダでくれます。WEBでも見られます。「講談社BOOK倶楽部」
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0607/index02.html
 


6月10日発売:『按摩西遊記』(講談社、1800円)

                 

(都内大手では9日午後発売、地方では12日発売。アマゾンで受付中。送料無料。大都市大型書店中心の配本だそうなので、この方が便利かもしれません。
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062134470/249-5398224-6034725?v=glance&n=465392

 ベトナム戦争、9・11事件、往昔の玄奘・三蔵法師の道(今はウイグル独立運動の影がちらりと見えるタクラマカン砂漠周辺)の旅を素材にした短中編小説集。

 60歳前後あるいは団塊世代から、戦争を知らない現代若者世代まで、誰もに面白がってもらえる本を目指して書きました。半分以上が書下ろし。
 ぜひ一読してみて下さい。



「季刊文科」(鳥影社刊。秋山駿、大河内昭爾、吉村昭ら編集)34号発売中(5月20日〜、1000円)

  連作短篇「南島シリーズ」その4 「聖俗島」 掲載。

  今年正月の取材を元にした、沖縄の二つの島を舞台にしたもの。
  私としては久々の神秘系で、いい出来と思っています。大手書店にあります。



6月28日  毎日新聞の「注目の1冊」になる

 うかつにも今日になって知ったのだが、『按摩西遊記』が6月26日(月曜日)毎日新聞夕刊の、文芸時評内「注目の1冊」コーナーに取り上げられた。

 評者は川村湊氏で、「場所(土地)」と「私」との関係を描いた“土地(地元)小説”として興味深い、というとらえ方だ。

 前回の産経新聞中沢けい氏のとらえ方は、30年の“時代”を描いた小説、であったから、対比が面白い。

 評者というものはいろんな読み方をするものだと改めて思う。次には誰か、思っても見ない切り口でとらえてくれないかと期待する。

 今日、学校でサインを求めてきた学生も二人いたし、少しづつ浸透していっているようで嬉しい。とはいえ、高校や大学の同期生にメールを出しても、何の関心も示してくれない諸君も多く、世の中に本、それも純文学本を読んでみようなぞという人は、圧倒的に少ないことをまた知らされもする。

 分っていたことだが、今度ばかりはとつい期待してしまう己に苦笑する。



6月25日  産経新聞「文芸時評」に『按摩西遊記』登場!

 今朝の産経「読書」ページの連載時評今月分に、中沢けいさんが書いてくれた。本来の対象は雑誌掲載作中心なのだろうが、今月は特例的に単行本2作が取り上げられ、冒頭が私の本である。

 「イン・プリズン」から始まってベトナム、911のニューヨーク、西域の旅までの流れを、青年の貧乏世界旅行のハシリの時代からの30年として、うまく掴みだしてくれている。

 中沢さんはまだ40代半ばで私なぞよりはだいぶ若い世代だが、19才でデビュー、以後一貫して文壇や文芸ジャーナリズムで生き抜いてきた人だけに、年長者のことがよく分るようだ。歳は離れているのに、何だか同世代の人に拍手してもらったような感じがある。

 有難いことだ。これまでのところ、やはり同世代の作家・宮内勝典さんがいち早くHP「海亀通信」(私のHPからリンクあり)に書いてくれたのを初め、mixiのレビュー欄で翻訳家永島章雄さんが書いてくれた。

 みな同世代ないし疑似同世代(中沢さん)なのが特徴的だ。あの本はやはり世代の書なのかしら。
 WEBは以下。
http://www.sankei.co.jp/news/060625/boo008.htm 「Sankei Web」



6月23日  課題「父親の背中」

 今日、学校の1年ゼミ2年ゼミの2クラスで、表記のような題で1000字のエッセイを書くよう指示した。

 先だっての父の日の余韻を楽しんでいるところへ、一昨日から義母弟妹3人を放火死亡させた高校1年生の事件が生じたからである。まだ詳細は不明だが、だんだん伝えられるところでは父への憎しみが原因らしいのに、肝心の父が留守中にそれを承知で起した、という不可解さがある。

 今日、クラスで聞いてみたところ、1年は12人中約半数が父の日に何らかのプレゼントやお祝い電話(下宿生)をしている反面、「今まで内心チラとでも父親を殺してやりたいと思った人」と聞いたら4人が手を挙げた。うち2人が女子である。

 うーむ。それでこの課題を出した。表面的でなく、自分の中を深く見つめ、父親に見せるか否かもきちんと考えてスタンスを決めた上で書きなさいと指示した。

 さて、どんな文章が返ってくるか。楽しみといったら語弊があるが、教育人としても作家としても大いに興味がある。最近の相次ぐ不可解な事件理解への多少の糸口にならないかしらという気もある。



6月20日  父の日のこと

 一昨日の日曜は父の日だった。
 午少し前に寿司桶が二つ届き、まもなく娘が一升瓶と刺身、漬物等を持って現れた。小柄な娘にはいかにも重そうだ。

 どころか、ほかにチーズと蜂蜜瓶まであった。これではいくらなんでも重すぎる。それに私の昼食はふだん蕎麦やうどん一杯程度だから、こんなに食べきれるはずもない。

 うーむ、御馳走だなあといいながら一生懸命食べたが、やはりチーズ、蜂蜜は手つかずになった。代りに昨日、今朝と有難く頂いている。

 娘が『按摩西遊記』の話をしだしたので、読んだのかと思ったら、どうやら自分がモデルになって出てくる部分だけを読んだらしい。「ニューヨーク・ミュージアム・ピープル」における911事件直後の日本とのやりとり、「按摩西遊記」では中国・西安のガイドが娘そっくりだった、などの場面だ。

 後者では幼児以来の父娘の関係についても多少言及しているので、そこらが面白かったというか、当然気になったのだろう。

 フンフン、そうか、と頷いたが、それ以外はちゃんと読んでいないふうなので、少々がっかりもした。「持ち歩くには単行本は重すぎるのよ」と言う。混んだ電車内では確かに文庫本くらいしか読みたくないかもしれない。

 その他の時間は中々ない。会社ではむろん無理だし、残業で連日帰りは9時近くになる。土曜午前はぐったり寝、午後は掃除洗濯、買物、1週間分の料理。日曜はやっとホッとするが、今日みたいに用も結構あるし、となると何も言えない。

 買ってくれたり本がすでに手許にある人からの反応が中々ないのも、似た事情だろう。本屋へ行くこと自体が思うにまかせない人もいるだろう。勤めている人はやはり大変だ、自分の時間が本当にないなと、改めて思う。



6月17日  28年ぶりの「求塚」

 今日は午前11時から午後5時まで能にひたり続けた。
 千駄ヶ谷の国立能楽堂で開かれた浅見真州の独演三番能に行ったからだが、お目当ては2番目の能「求塚」だった。

 これは29年前、「宝塔湧出」という作品で中央公論新人賞をもらったあと、あと2本書けば本にするからとせかされ、しかし中々書けずやっと3作目を書いたのは2年後だった。

 それが「夢現(むげん)」という作で、能の「求塚」を題材にしたものだった。当時住んでいた市川市内にある真間の手児奈堂とインド・ブダガヤの大塔前広場を重ね、夢幻能の時間の扱いと幻想性自体をテーマにしたものだ。タイトルは名手といわれた観世寿夫氏が「夢幻能は夢現能というべきだ」と言っておられたことに共感したためである。この『夢現』がわが処女本のタイトルにもなった。

 今回の演じ手浅見真州氏は寿夫氏と同じ銕仙会系で、「橋の会」で長年親しんだ人でもあるので、どんなふうに演じるか、また、28年ぶりに見るとどう見えるか、それが眼目だった。

 「求塚」はやはり面白かった。曲として見事に洗練・構成されているし、ことばも音楽性も舞台の美学もまったく完璧と言っていい。
 特に地謡は、私の知る能曲中、ひょっとしたら最高ではないか。格調高く、自在で、美しく、私は殆ど陶然と聞いた。

 若菜摘みの乙女たちの巫女ふうの赤と白の衣装、囃子方・地謡方の黒紋付きの対照もいい。白い小面(こおもて)から深い苦悩の霊女(りょうおんな)への面の変化もいい。私はその面に吸い込まれ、潮のような地謡に酔って、殆ど夢現の境にたゆたった。

 いい気分だった。35歳の時、自分なりに求塚に挑戦したのは間違っていなかった気がしたし、時間の扱いは今度の新作『按摩西遊記』も基本的に同じだと改めて認識した。

 若いころは無骨な印象すらあった浅見真州が渋みのある円熟の境を見せたのも嬉しかった。この日丁度65才になったという。2年違いの同世代だ。

 もう一つ、脇僧の宝生欣哉がよかった。確かめていないが、宝生閑の息子か兄弟なのだろうか。顔も声も節回し・風情までそっくりで笑い出したくなるほどだった。



6月14日  「蟻の兵隊」(池谷薫監督)を見る

 昨日、久々に京橋まで出て試写を見た。
 先の大戦で8月15日終戦後も、軍司令官命令で部隊のまま中国山西省に残留し、国共内戦の国民党軍側に属して数年闘った挙句抑留され、結局終戦から9年後にやっと帰国出来た皇国兵士のドキュメンタリーである。

 今や80才になり、ぽろぽろと死んで欠けていく仲間の中で殆ど唯一の生残りとなった奥村和一さんは、戦後補償(軍人恩給)を求めて最高裁まで裁判で闘い続けている。
 が、国は「勝手に残ったから国家に責任はない」として補償を拒否し続ける。

 けれど、山西省まで杖をひきつつ調査と贖罪の旅に出た奥村さんの目の前には、旧軍司令官が自らの戦犯逃れのために国民党系軍閥閻(えん)将軍と交した密約書が出てきた。それは要するに自分ひとりが偽名で逃げる引替えに部下の部隊2600名を閻将軍麾下に預けるという内容だった。

 残された將兵たちは、残留は皇国復興、天業(天皇の意図)実現のためと上官から言われ、八路軍(共産党軍)と闘い、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいったというのだ。

 あれは一体何だったのか、国家とは一体何なのか、下級将兵を騙すためのものなのか。というのが老いたる奥村さんの悲痛な叫びである。

 だが、奥村さんは変人でもなければ、日常的には極めて温厚、優しい目の知性ある存在だ。事実を追及する時の眼差しは強く、妥協を許さないが、言動は終始論理的、正確で、ナレーションは一言もないのに、事実関係と彼の気持がよく伝わる。

 映画はそれを冷静に描いてゆく。かつての「ゆきゆきて、神軍」(原一男監督)を少し思わせるところもある。奇しくも主人公の名前も同じ奥村だ。が、この奥村さんは遥かに穏やかであり、この映画はより現代的だ。

 なぜなら、これは奇人の物語ではなく、本来平々凡々たる庶民の話だからだ。その庶民がいかなる人生を余儀なくされ、今や80才に老いて死の目前なのに、日本国家は何もしてやらない。ばかりか、今や世は右傾化ブームであり、靖国神社には奇妙な輩が蝟集している。

 あのフィリピン・ルバング島残留29年の小野田寛郎さんは、その右派たちの英雄で、「あの戦争は侵略戦争ではない」と叫び、旧軍の軍服を着た連中が日の丸を先頭に「天皇陛下万歳!」と叫びながら、靖国神社内を行軍デモしている。

 こういう時期だからこそ、この映画は多くの人に見られるべきだろう。戦争を知らない若者たちも出来るだけ見るべきである。

 なお、この映画の上映運動にはわが日大芸術学部の学生諸君たちも、積極参加していることを嬉しく思う。この頃少なくなったこの種の行為に、若者はどんどん参加するといい。直接の利益はないが、必ず何かを得るだろう。

 7月下旬より、渋谷「イメージフォーラム」にてロードショー。前売券1300円。
 「蟻の兵隊」サイトもあり。
 http://www.arinoheitai.com/



6月11日  少し訂正

 下の記事を初め、「お知らせ」や「掲示板」類、mixiなどに10日一斉発売と書いたが、今日午後、志木の旭屋へ行ってみたら、まだ置いていなかった。

 たずねると、13日配本とのこと。ひょっとしたら14日朝日新聞に新聞広告が出るので、それに配本を合わせたのかもしれない。

 何はあれ、事前に聞いた通りには中々いかない。皆さん、ごめんなさい。



6月10日  本日一斉発売 もちろん『按摩西遊記』のことです

 一部ではすでに昨日夕から店頭に並んでいたらしいが、正式には今日から東京圏一斉発売である。地方は週明け月曜にずれ込みそうだが、いずれにしろ、これでいよいよ全国公開というわけだ。

 どうなるか、楽しみであり、心配でもある。自分の本の発売日は何度迎えてもそうだが、今回は特にだ。

 何しろ5年ぶりで間があき知名度が下がっているし、近年の純文学退潮傾向の中でこの種の本の扱い自体が、書店でも書評関係でも以前よりだいぶ引き気味である。

 それに、今度増刷にならなければもう次を出してもらえないのではという危惧が、実感的にある。物書きの友人知人の実態を見ていてもそうだし、前作以降今回に至るまでの私自身の体験的苦労度からいっても、まず間違いない。

 つまり、少なくとも商業出版の面では作家生命の危機がほの見える次第だ。
 小説を書くことは殆ど私の性(さが)だと思える。このまま書き続け、人に読んでもらいたい。
 ああ、2刷でいいから売れてくれないかしら。



6月6日  『按摩西遊記』見本刷出来!

 本日午後、著者分を受け取る。いやあ、いい気分。装幀の色合いもいいし、雰囲気もいい。字もやや大きめで、40字×16行詰め。ゆったりして、老眼にも読みやすい。

 発売は都内大手書店は9日午後、その他の都内は10日、地方や関西は週明け12日(月)だそうだ。

 明日写真をとって、ここにアップします。
 今日はこれから、ともあれ慈しんでひとり読み、楽しみます。委細明日。



6月3日  林檎の花

 を見に埼玉県北部の谷津の里まで行ったのだが、見れなかった。
 もう花の季節はとっくに終っており、代りに梅の実大の青い実が幾つもなっていた。

 三ツ四ツひとかたまりに生っていると、同行者が「これでは大きくならない」と言って、一つを除いてどんどん摘んでいってしまう。

 そのままでいいんじゃないのと言うと、絶対ダメ、あたしは林檎の木を育てていたんだから、と確信を持ってのたまう。彼女は信州小諸育ちである。私は林檎というと、甘酸っぱい実の旨さと、可憐そうな花の抒情的イメージしかない。ちがうものだ。



5月30日  米原万里さん死す

 すでに25日に亡くなっていたそうだ。享年56才。
 まだ若い。ピチピチと堅太りの元気屋さんだっただけに、あっけないなあという実感がある。

 ペンクラブWiP(獄中作家)委員会で一緒になったのが5年前、存在感のある人だった。御冥福を祈る。

 それにしても獄中作家委員会関係はこれで死者4人目だ。
 最初が鷺沢めぐみ(作家)、次が山田英幾(NHK外報部)、芝生瑞和(独立ジャーナリスト、パレスチナ問題)、そして米原さんだ。

 鷺沢さんは30代、あとの3人は50代の働き盛り。うーむという感じが覆いがたい。
 山田、芝生の両氏は獄中副委員長だっただけに、「副委員長は鬼門」説も流れたが、あとを継いだ私としては、こうなると副委員長であろうがなかろうが何だか本当にヤバイ気がする。

 うーむ。



5月28日  雨のバザール

 昨日は日芸・所沢校舎での春祭だった。
 雨で野外ステージ用演目は基本的に中止。いくつかは学食二階の平床でやったようだが、バンド関係は全部ヤメで、ずっと練習してきた学生諸君にはかわいそうだった。

 私がかねてメインイベントと推奨しているバクの会のダンスも、学食の平床では効果は半減だろう。どうしようか迷ったが、雨の中4時まで待つ気にもなれず、2時半頃帰った。車でサークル部室脇を通ったら、小雨の中バクの会と思しき諸君が数名練習していたのが、余計いじらしかった。

 今日は、書斎真向かい川向こうの恵愛病院駐車場に、赤と青のテントがずらりと並び人も集まっている。どうやらバザールである。

 赤ちゃん病院だから、もしかすると赤ちゃんや健康関係のものかも知れない。今思い出したが、そういえばこの病院は2,3年前の今頃出来たから、開業記念日なのだろう。

 何があるのか、雨がやんだらちょっと覗きに行ってみるか。無農薬野菜もあるのでは。
 今はまだ小雨で、色とりどりの傘が上から見えている。



5月25日  今日のゼミはひどかった

 ゼミ4年クラスが14人中なんと出席5名。課題提出ゼロ。そんな場合にと読んでおくように指示しておいた新テキスト持参者が2名、読んできた者ゼロ。

 あまりにひどい。理由は就活のただ中で課題が中々出来ないこと、どうやら先生もそれは容認しているふうなのでまあちょっとくらい遅れても構わないだろうと思ったこと、しかしまじめ派は手ぶらで顔を合わせるよりは休んでしまえとなったこと、新テキストの作品指定をした先週出席者はそのまじめ派が多かったこと、出てきた連中は2,3週間ぶりが多くテキストなぞまるで眼中になかったこと、などであろう。

 ああ、やんぬるかな。なめられたものである。ああ、情けない。

 が、代りに就職内定者が2名でていた。そうか、やっと出たか。じゃ、まあ、いいか。となりかけたが、うち一人の内定先はポルノ関係と知れた。うーむ。どう考えればいいのか……。



5月22日朝  小川町長選、残念!

 昨夜即日開票の結果、10時半頃結果が確定しました。

  渡辺勝夫さん 4700票
  笠原某氏(現職)9000票
  投票率 45%

 以上です。古くからの生糸や木材の町で、旧住民と新住民が拮抗する人口2万8千人。立候補が告示前日で出遅れ、知名度不足、低投票率、それにやや迫力不足、が敗因だろうと思えます。

 いやあ、それにしても残念。当選してりゃあ、いろいろ面白かったのに。



5月20日  「群像」元編集長渡辺かっちゃん、小川町長選に立候補奮闘す

 かっちゃんの愛称で知られる飄々たる民主主義者渡辺勝夫氏が、5日前、東武東上線終着駅の町、埼玉県北部の小川町町長選に立候補したという記事が、新聞の埼玉版に出た。

 アレと思っているうちまた今日、いよいよ明日投票日、選挙は2期目の現職と新顔元文芸誌編集長との一騎打ち、と顔写真入りの記事が出た。

 で、私は連れあいと2人、車で関越道をとばして見に行ったのである。何をって、純文学一途だったあのかっちゃんが67歳になってどんな顔で選挙演説をするか見るためだ。

 実際、青葉風吹く田園の道をのぼりを立てた車が「町長にはワタナベ、ワタナベを」と牧歌的に走りまわり、どこぞの辻で彼が小さな町の町政の停滞と発展についてどんなふうに弁を振うか、これは見ものであろう。

 それを偶然のような顔をし、「オーイ、渡辺さーん」などと手を振るのはさぞ愉快ではないか。というのが私の土曜日の楽しみとなった次第である。

 かっちゃんはやっていた。この暑いのにダブルの背広を着、小柄な体に白手袋・大きなタスキ姿で、満面笑みで車の助手席から手を振り、殆ど誰もいない路上に降りては「私が出なかったらそもそも選挙がなかったんですよ。8年間ただ同じ人に任せっぱなしになっちゃうんですよ」と、なつかしい「ですよ」ことばで訴えるのであった。

 かっちゃんは私を見ると、「お、演説やって、やってよ」と言いさしたが、私はただ拍手し握手してごまかした。

 が、面白いことに、そういうかっちゃんにそこここからチラホラ中年主婦なぞが現れ、かなり嬉しげに握手するのである。車にも運転手の他2人の女性がマイクとのぼりを持って付き従っているし、新住民の住宅街にある自宅選挙事務所には、奥さんはじめ自然食や太陽熱発電グループのかなりの人数が詰めかけており、中々盛り上がっている。

 この調子だとひょっとしたら当選するかも知れんぞ、そしたらあの飄々たる文人好きかっちゃん、どんな政治をするか。売れない純文学者をわんさと集めて田園文芸講座でも作ってくれないかしら。いや、せめて緑の丘の上で一杯飲ませてくれないかしら。

 投票は明日。即日開票で夜10時頃には結果判明だそうな。楽しみだなあ。



5月18日  U2とビートルズ

 5月13日付のこの欄に書いたイラクに関する文章に、ミクシー仲間の友人がコメントをくれて、U2の『The Joshua Tree』を聴きたくなったとあった。

 それで私も早速U2なるもののCDを買った。実はU2の名も初耳で、まるで見当がつかなかったが、かねて信頼する友人の言だし、タイトルが何やら旧約聖書ふうで興味を引かれたからだ。

 CDを買うなぞ最近の私には珍しいことだから、どうせロックを聴くならついでにビートルズもと心が動き、アンソロジー・ナンバー2(2枚組)も買ってしまった。

 帰宅後、「ヨシュアの木」を聴くと、少し面白い面もあったが宗教性は隠喩的に使われているだけで、全体としてはかなり騒々しくナマすぎる印象だった。

 ついでに買ったビートルズの方がやはり私には懐かしく、肌に合い、「サージャント・ペッパーズ」とか「丘の上の愚者」などに聞き惚れてしまった。

 ちょっと哀しいような感情が伴うのは、過ぎ去った青春への哀しみかも知れない。ビートルズはインドやネパールで親しみ、「丘の上の愚者」は文字通りカトマンドゥ郊外スワヤンブーの丘の上で各国からのヒッピー仲間と一緒に聴いたものだ。

 ビートルズの他にはピンクフロイドが好きだった。「エコーズ」など今でも耳に聞えてくる。



5月16日緊急補遣  共謀罪のこと

 以下は昨日、ペンクラブが記者会見で発表した声明です。言論表現委員の秦恒平さんから、出来るだけ多くの人にHPやメールで知らせてほしいと要請がありました。これを御覧になり賛意をお持ちの方は、ぜひそれぞれの方法で周辺の方にお伝え下さい。

* 「共謀罪新設法案に反対し、与党による強行採決の自制を求める」 
                         社団法人 日本ペンクラブ会長 井上ひさし
 二〇〇六年五月十五日

 いままさに日本の法体系に、さらにこの国の民主主義に、共謀罪という黒い影が覆いかぶさろうとしている。自民・公明の両与党は衆議院法務委員会において、一両日中にも共謀罪導入のための法案の強行採決を行なうつもりだという。
 私たち日本ペンクラブは、文筆活動を通じ、人間の内奥の不可思議と、それらを抱え持つ個々人によって成り立つ世の中の来し方行く末を描くことに携わつてきた者として、この事態に対して、深い憂慮と強い反対の意思を表明するものである。
 いま審議されている共謀罪法案は、与党が準備中と伝えられるその修正案も含めて、どのような 「団体」 であれ、また実際に犯罪行為をなしたか否かにかかわりなく、その構成員がある犯罪に 「資する行為」 があったとされるだけで逮捕拘禁し、厳罰を科すと定めている。法案の 「団体」 の限定はまったく不十分であり、また 「資する行為」 が何を指すのかの定義も曖昧であり、時の権力によっていくらでも恣意的に運用できるようになっている。
 このような共謀罪の導入がこの世の中と、そこで暮らす一人ひとりの人間に何をもたらすかは、あらためて指摘するまでもない。民主主義社会における思想・信条・結社の自由を侵すことはもちろんのこと、人間が人間であるがゆえにめぐらす数々の心象や想念にまで介入し、また他者との関係のなかで生きる人間が本来的に持つ共同性への意思それ自体を寸断するものとなるだろう。
 この国の戦前戦中の歴史は、人間の心象や意思や思想を罪過とする法律が、いかに悲惨な現実と結末を現出させるかを具体的に教えている。私たちはこのことを忘れてはいないし、また忘れるべきでもない。
 そもそも今回の共謀罪法案は、国連総会で採択された 「国連越境組織犯罪防止条約」 に基づいて国内法を整備する必要から制定されるというものであるが、条約の趣旨からいって、人間の内心の自由や市民的活動に法網をかぶせるなど、あってはならないことである。にもかかわらず、法案は六百にもおよぶ法律にかかわり、この時代、この社会に暮らすすべての人間を捕捉し、その自由を束縛し、個々人の内心に土足で踏み込むような内容となっている。
 このような法案に対しては、本来、自由と民主を言明し、公明を唱える政党・政治家こそが率先して反対すべきである。だが、与党各党はそれどころか、共謀罪の詳細が広く知れ渡ることを恐れるかのように、そそくさとおざなりな議論をしただけで、強行採決に持ち込もうとしている。こうした政治手法が政治それ自体への信頼を失わせ、この社会の劣化を招くことに、政治家たる者は気がつかなければならない。
 私たちは、いま審議されている共謀罪に強く反対する。
 私たちは、与党各党が行なおうとしている共謀罪強行採決を強く批判し、猛省を求める。



5月16日  共謀罪の情けなさ

 前回(5月13日)、ああいうことを言ったばかりだけど、これには一言言わざるを得ない。

 いろいろ細部もあるが、要するに頭で思っただけ、会合に出席していただけ、誰も実行行為はしなかった、だけで逮捕・有罪なぞ、むちゃくちゃすぎる。

 私のHPを精査すると、私なぞ即アルカイダの仲間にだってされかねないだろう。さすがにすぐ共謀とはならないにせよ、秘かにつけまわされ共謀のネタ探しでもされたらたまらない。



5月13日  イラクの虚しさ、哀しみ

 今朝の朝日新聞によると、バクダッドで見つかる身元不明の遺体が、2月末以降、1日平均50体近く、総数3863体、4月だけで1550体だという。大半が路上やゴミ捨て場、砂漠で見つかったそうだ。

 これは身元不明者数だから、身元判明者を入れればもっと数は増えよう。シーア派とスンニー派の抗争の結果らしい。
 この結果、国内難民が10万人以上とのことである。

 何という哀しい、おぞましい事態だろう。だいぶ以前から内戦の懸念が言われていたが、もはや内戦そのもの、それも最も陰湿な闇の内戦だ。新内閣は、首相以外閣僚を全く決めることも出来ない。

 一体あの戦争、アメリカやイギリスによる侵攻は何のためだったのか。フセインは確かに悪の部分もあったが、現在の事態は遥かに悪い。やはり、そも外国が勝手な裁断で他国に武力進入なぞすべきではなかったのだ。

 ブッシュとブレアはどう責任をとるのか。そんな戦争を支持し、ろくな国民的合意もなく自衛隊を送り込んだ日本政府はどう思っているのか。

 哀しみを通り越してただ虚しい。
 人間というのは何という愚かな存在であり、この世とはいつまでたっても苛立たしいことか。

 私はだんだん諦めだした。変革とか世への提言、発言、討議、僅かながらのボランティア的活動、更には個人的悲憤慷慨、ぶつぶつ文句、愚痴に至るまで、もうやめようかと思い出している。

 個人の努力で済むこと、日常生活をどうにか円滑に過ごしていくこと、いささかの楽しみ、そんなものをもっぱら考えて、なるべく平和に生きていく。そんな気分になりかかっている。もう若くないし。



5月11日  久しぶりに大学の話

 昨日今日と学生諸君に接していたら、やはり若い「気」が移ってきた。大人と接していると、こうはいかない。

 連句の授業で暦を教え、立夏はいつだったか、今の季節はなんと呼ぶか、夏至には太陽は地球上のどの位置の上に来ているか、なぞと聞くと、正解はなかなか出てこない。しかし無縁なことではないから真剣に考え、だんだんたどり着いてくる。

 ちなみに今年の立夏は5月6日、季節は初夏、夏至には北回帰線上にあり、である。分ってくると、学生諸君も面白そうな顔をする。節分は「季節を分ける日」であり、翌日が立春と教えると、そうだったのかあといった表情をする。

 今日の4年ゼミでは、就活の進行状況を聞いてみた。おおむね、1週間以内に面接を抱えており、中には初の社長面接ですとか、今度は静岡や福島に行きます、などの答えもあり、それなりに進行しているようすだ。

 就活は3年の12月頃から始まり、2,3,4月が一つのヤマ場で、5,6月でほぼメインラウンド終了だ。それまでに決まらないと、さらに秋まで持ち越し、そのあとは来年の2,3月に新聞募集などに応募、となっていくから、ここはしんどくても頑張っておくしかない。

 といった話をすると、もう学生たち自身が分っており、うなづき、気を引き締める様子が、少しいじらしい。



5月9日  小雨の初夏

 小雨が降ったりやんだりだ。だが、緑がきれいなので、上着を羽織って散歩に出ると、本当に気持がいい。

 あと1ヶ月もすれば緑はもっと猛々しくむんむんとさえしてくるものだが、今頃は色がうすく柔らかく、初々しい。葉も柔らかく、ちょっと触れても痛くない。

 花も多い。草花はもちろんだが、栃の花やどうだんつつじ、小手毬、大手鞠、などが咲き競って、この先の変化を思うと楽しい。

 さて、明日からはまた学校である。雑事が気鬱だが、学生諸君の顔を見るのが楽しみでもある。彼らも人間の若葉だ。まだ初々しく、色柔らかいのがいい。



5月6日付記

 下の文章を書いてしばらくし、mixiの小生日記欄にコメントがあり、慈恩寺のHPに玄奘のお骨にまつわる説明記述があることが分った。かなり詳しい内容なので、関心のある方はそれを参照して頂きたい。

 それによると、昭和17年南京駐屯中の日本軍が、中華門外に稲荷神社を建立しようとした際、石棺を発見、中に骨があったとのことである。

 私の判断では、玄奘の骨であることはほぼ間違いないが、それがいかなる形で日本側に分骨されたかについては、そもそも軍の手中にあったものだから、やはり軍の意志が強く働いたことは間違いないと思う。戦後になって蒋介石に「返還」を打診したというのも、そうした事情を伺わせる。

 また、そも話が事実であれば、その場所は確実にお寺か塔があったはずであり、それを壊して神社を造るなぞ随分勝手な行為だったのではないか。真実はやはり微妙、不明であろう。



5月6日  玄奘祭へお礼参りに

 昨日5月5日は、旧岩槻市(現さいたま市岩槻区)の慈恩寺へ行った。
 この名は中国西安(旧長安の都)にある玄奘・三蔵法師の大慈恩寺と同じであり、どういう訳かここに玄奘の骨があるというからだ。

 いったいなぜ、時空遥かな玄奘の骨がこんな埼玉の片田舎にあるのか、不思議でたまらない。去年、西安から玄奘と同じ西遊記の道筋を辿る旅をする時、出発前、道中安全祈願をかねて参拝しようと思ったのだが、右肩の五十肩が痛くてそれどころではなかった。

 で、それなら帰国後に、玄奘祭に行こう、ひょっとしたらお骨の開帳もあるかも知れない、と考えていたのだ。御開帳は残念ながらなかったが、田んぼの中の小さな雁塔前での法要や孫悟空の格好をした稚児行列を見、牧歌的な気分になった。

 可笑しかったのは、副住職という人の説明が「玄奘さんのお骨は戦時中、関東軍が南京の近くで掘り出し発見し、分骨して貰ってきたもの」との言い方だったことだ。関東軍は満州のものだし、南京のどこなのか、どういう事情だったかさっぱり分らない。

 分骨と言うが軍が介在してのこととなれば、実質ぶんどってきたのではと思えるし、そのあと現れた住職氏までが「私も当時のことは詳しくは知らない」という言い方の背後には、当時からつまびらかにしにくい事情があったのではと思わせる。

 よって、ことの真実・経過は分らぬままだったが、私としては折から去年の旅を素材に書いた書下ろし小説「按摩西遊記」を中心にした作品集の著者校を、前日し終えたばかりだったので、文字通りお礼参りのつもりで、雁塔前と田んぼを隔てた慈恩寺本堂の双方へお賽銭を入れ、1ヶ月後くらい発売の『按摩西遊記』(講談社)の売れ行き促進を祈願したのであった。

 いやあ、ほんとに売れるといいなあ。何しろ5年ぶりの本なので、今度売れなければわが作家生命が危うくなる。玄奘さん、頼んまっせ。わざわざ本家と分家両方にお参りしたのだし、五十肩の熱と痛みのなか、砂漠地帯の旅は本当に大変だったのです。

 このあと、最初にこの寺のことを教えてくれ、この日もずっと案内してくれた画家和田賢一さんのアトリエで昼酒を御馳走になった。暑い夏日のビールがうまく、かつ庭裏の竹藪でとれたばかりの筍や肴がうまかった。

 和田賢一、伊藤真理の夫妻はそろって画家で、慈恩寺近くの無住寺だった長命寺に住んで画業に専心している。和田さんはアクリルを使った抽象画と中世キリスト教画の模写、真理さんは本堂をアトリエに、襖絵や壁絵などの日本画を描くクリスチャン、という取り合わせがなんとも面白い。宗教は一つ、芸術も心も一つである。



5月2日  目がチラチラ

 朝から先ほど4時まで校正を続ける。やり出すとつい力も入るし、さすがに疲れる。
 外はシトシト寒そうな雨で、昨日とうってかわった雰囲気だ。

 おかげで散歩に出られない。というか出る気にならないが、こういう日を嫌いではない。むしろ暑い日より好きである。どこか内面的になり、過去を思い、文学と己の能力を思う気分も、雨の音の底に何事かを見る気がして悪くない。

 さて、散歩の代りに真向法をしよう。ストレッチが精神も伸ばしてくれる。



4月30日  ワーイ、連休だァ!

 私の仕事なぞ通常のサラリーマン諸氏に比べれば、随分ラクなものだが、それでも連休は嬉しい。学校へ行かずに済むし、世間は休みだから仕事関係の電話やメールもない。

 が、しかし、仕事がないわけではない。上のお知らせ欄にも書いたが、懸案の単行本の再校(最後の著者校)が連休明け締切りである。命じた編集者も多分印刷所も連休は休みだと思うが、物書きは世間の休みに働くものと当然のごとく思われている。

 でも、私はそれでいい。混雑し物価も上がる連休中に出かけようとは思わないし、世間が休みだと物静かで(ほんとにそうなのだ)、集中力が高まる。昼間から散歩しても胡散臭そうな顔や“ああ、リタイア組か”といった顔で見られることもない。

 さあ、やるぞ。
 というわけです。



4月28日  ホリエモン釈放さる

 昨日夜、8キロ痩せたという彼が、昔のオタク時代みたいな長髪、照れくさそうな顔で拘置所から出てきた。

 95日ぶりだそうだが、この釈放は極めて異例である。通常、容疑を否認し続けた者は、懲らしめのため難クセをつけてもっと長く拘留されるものだからだ。かの鈴木宗男氏や佐藤優氏はどちらも500日以上(実に1年半近い)監獄の中だった。

 にもかかわらず釈放されたのは、これ以上調べることがなくなった、起訴内容としても他には作れそうにない、ということだろう。これでまもなく裁判が始まるし、当分彼の社会復帰もなかろう、罰は終った、の意味でもあろう。

 まあ、よく頑張った。私はホリエモンは罰せられる要素もあると思うが、しかしたった一人、権力に屈せず否認を貫いたのはえらいと思っている。半ばはホリエモンの勝利だ。更に頑張って、裁判で権力と戦い抜くことを期待する。恬淡と、明るく、健康にやり抜けばいい。

 獄中で200冊の本を差し入れてもらい読書し続けたというのも、いいことだ。昔から獄は最高の大学だと言う。どんなことを考えたか、期待しているゾ。



4月26日  mixi2ヶ月の総括

 2,3日遅れたが、ほぼ丸2ヶ月を経過したので、概略のデータをみてみる。

 アクセス総数:3491
 1日平均:約58
 マイミクシー数:49

 データ的には以上だが、連動してこのHPのアクセス数が1日平均10〜15上がった気がする。

 どう解析すべきか特に思いもないし、多いのか少ないのかもよく分らない。学生や若い人に比べればさしたる数字じゃない気もするし、中高年の大人だと一部のネット・マニアを除けばまあまあ活況のうちかも知れない。

 自分としても一時はかなり面白がって、取材気分半分あちこち足跡を付けてまわったが、この頃はさほどしなくなった。だんだん常連中心の落着いたものになってきた。

 全体としてまずは面白かったし、知らない世界や忘れていた世界の日常が見えてきたのは確かで、出不精の自分には得難い世間との窓口である。
 今後も続けていくし、これを機会に新たなマイミクシー希望者があれば、出来るだけ受け容れようと思っている。



4月24日  結石出づ空晴々と里若葉  南斎

  昨日朝、ポトンと結石が出た。米粒大よりやや大きめ、前回のものに比べると倍以上だった。

 いやあ、さばさばした。で、とにかく遠出したくなり、関越高速道をとばして滑川町の森林公園近くの里山に行った。

 森の中に馴染みのレストランがあるのだが、行ってみると、自然林がずいぶん整備され、「谷津の里」なる一種の自然公園になっていた。

 考えてみると、去年6月から五十肩が痛く、車の遠出は出来るだけ抑制していたので、ここへ来るのはほぼ1年ぶりだった。

 ううむ、変ったなあ、以前は確かに山林が荒れすぎてはいたけれど、と賛否両方の思いをしながら、しかし鶯の鳴き声、目に一杯の若葉に包まれ、静かな沼々を経巡るのは心地よいものだった。



4月23日  久々の休日

 というのは、昨日は土曜なのに、江古田文学の常任幹事会と総会があったので出校。水曜から4日続けての学校デーとなったからだ。

 その前は日曜の夜中から結石で苦しみ、それがずーっと尾を引きで、この1週間はとにかく落着かなかった。

 尤も、昨日も今朝もまだ何がなし右脇腹が痛く、つい薬に手が出てしまうから、完全な安寧はない。アンニョンよろしからずだ。



4月21日  忙しい一日、プラス結石・頻尿

 昨日は午前10時半に池袋で編集者と会って短篇集の打ち合わせ。午すぎ表へ出たら突風と大雨の嵐模様だったので、避難を兼ね蕎麦屋であわただしく蕎麦をかきこみ、池袋から江古田へ。どういう訳か車内放送が「先ほど人身事故が…」と言っている。朝、池袋へ向う時もそうだったのだ。ということは2回事故があったのか?

 1時5分前に学校へ駆け込み、1時から4年ゼミ。就活、卒論・卒制のことなど気分引き締め話を8分延長して喋り、書類整理。3時半から教授会、次いで大学院分科会。

 もう一つ委員会があったが、それはやむなく失礼して兜町のペンクラブへ駆けつける。6月はじめに総会があるし、WiP(獄中作家)委員会としても年間の方針を確認しておかねばならない。1ヶ月前から決まっていた日程なので、こちらが優先だ。

 ぼくを含め大学教授組は4人中3人までが遅れる。どの大学もたいてい木曜日は忙しいのである。
 が、2次会には全員が揃い、楽しく飲む。新任の事務局長も同席、サントリーの元広報部長とかで、故開高健との交友をあれこれ語ってくれる。

 と、忙しく順調に進んだわけだが、実はこの間、私はずっと下腹部が痛く、頻尿感に悩まされていた。17日から持病の結石が生じ、どうやら石が1個だけではなく複数個あったらしく、治りかけてはまた痛し、を繰り返していたのだ。

 おかげで、行く先々で切れ目切れ目にトイレへ通い、兜町では公園のトイレにまで入った。
前夜、痛みで夜中に2度起きたせいもあり、眠気も終日つきまとい、帰りの地下鉄は乗り過ごして西武練馬まで行ってしまう始末だった。

 帰宅は11時半。バイク便で装幀原稿が届いていたのでそれを見、風呂に入ったら瞼がくっつきそうだった。鎮痛剤を飲んで早々に床へ。

 おかげで熟睡、若者ふうに言えば爆睡。ということは痛みで夜中に起きることもなかったわけで、今朝は爽やかだ。どうやら結石も片づいたらしい。ホッとした。



4月17日  『悪魔の飽食』(森村誠一)に胃が痛い

 一昨日から、ふとしたことで上記本を読み始めた。副題が〈「関東軍細菌部隊」恐怖の全貌〉で、昭和56年光文社〈カッパブックス〉から出たものである。

 当時、僅か1年ほどで200万部近い大ベストセラー、すぐ映画化も決定、という話題の書だった。その後、改訂版が角川文庫から3部作として出ている。

 著者は社会派小説家だが、これはあくまで全編取材に基づくドキュメントであり、取材対象者は満州第731部隊の元隊員ら関係者だ。

 詳述すること自体が辛いので簡略にいうと、満州ハルピン近郊に作られた日本陸軍第731部隊で、どんなふうにコレラやペストなど多種類の細菌が大量に作られたか。それらの効能を試すため約3000人のロシア人、中国人、モンゴル人が生体実験材料とされ殺されたか、が内容である。

 彼らは「丸太」と呼ばれ、姓名・経歴等は一切抹殺され、番号の付いた材料としてだけ扱われた。経歴は学校教師、赤軍兵士、八路軍兵士、満州人市民など抗日的存在が多く、憲兵隊によって逮捕・拷問されたあげく、秘密裏に731部隊に送り込まれ、細菌を植え付けられたり、生体解剖などされた上、焼却され、記録一つ残されなかった、というのである。

 中には夫が憲兵隊に捕まったため、面会に訪れた妻と子供がそのまま逮捕・731送りにされたり(子供も当然生体実験材料にされた)、抗日運動などと何の関係もない12,3歳の満州人少年が拉致され、そのまま内臓のすべて、脳のすべてを取り出されたりという例もあったという(健康な少年の肉体反応を知りたかったという理由)。

 虐殺被害者3000人はまだ控えめで、実際はそれ以上との証言も多いそうだ。

 私は1昨年夏、沖縄大学又吉教授主宰の満州ツアーに参加し、この731部隊の跡地も訪ねた。ボイラー・発電室や一部しか残っていなかったが、敷地ははっきり残っており、かなりの資料類や展示物があった。

 そしてその時一番驚いたのは、この731部隊の関係者が当時もその後も日本の医学界では有名教授や重鎮とされた医師たちであり(多くが東大や京大医学部出身者)、戦後も咎められることなくむしろ栄華を極めたという事実である。

 しかも、悪魔の731部隊長石井四郎軍医中将(京大出身)はじめ関係者は、敗戦直後アメリカGHQとの取引により細菌情報の米軍への提供と引替えに免責となって一切罪を問われず、側近だった内藤良一は製薬会社日本ブラッドバンク(のちミドリ十字)を創始、元部隊長の一人北野成次は顧問になった。

 この辺は直接この本には書いてないが(少なくとも今まで読んだところには)、ミドリ十字とは、あの薬害エイズの原因となった血液製剤の製造元である。
 また、この時得た細菌情報で米軍は同様の部隊を作り、朝鮮戦争の際使用、その後も2001年911事件前後に問題となった炭疽菌の出もともこうした軍機関との説もある。

 まさに悪魔の系譜である。人間とは凄まじいことをするものであり、今きれい顔をしている日本の医学界や製薬会社の隠された過去も凄い。

 というわけで、今3分の1強を読んだところだが、読むほどに胃が痛くなり、先を読むのが辛くなっている。ウーン、どうしたものか。



4月15日  ホリエモン、頑張れ

 今日の報道によると、ライブドア事件の裁判が来月から始まるらしい。宮内某らホリエモン以外の4人とホリエモンは切り離され、ホリエモンだけは単独で早期決着型の裁判となるらしい。

 早期決着型がどういうものかよく分らないが、他の4人との切り離しは罪状認否のあるなしによる区分であろう。簡単に言えば、罪を認めた者たちはまとめて、まあまあ和やかに裁判し、判決も執行猶予前提というわけだろう。

 ホリエモンに関しては頑固に罪を否定し続けている罰として、一人だけ締め上げ、見せしめに早々と実刑判決を出す。ほかのメンバーは自宅から裁判に通い、裁判中も後も要するに通常の日常生活をすごせるのに、ホリエモン一人は監獄に入れっぱなしということだ。

 やむを得ないとも言えるが、あからさまな報復でもある。権力というか多数派秩序の側は、あくまで抵抗する人間、頭を下げない人間にはこう対するわけである。

 私はかねてホリエモンに、世の中の掌を返すような扱い・風潮に簡単に屈するな、孤独になっても筋を通せ、と言い続けた。といっても、このHP上で何回か書いたほかは身のまわりのごく少数者にその種の言説をしてきただけで、何の役にもたちはしないが、しかし世間全体がかつてのちやほやぶりからますます遠ざかって、だんだん関心自体を失っていくごとき感じの中で、ホリエモン、さすがによく頑張っていると思う。

 獄中にいる間に彼は、かつての会社のほぼすべてを失い、部下も失い、カネも10分の一くらいになったろう。有為転変の激しさはまさに劇画なみだし、世の中って凄いものだと改めて思うが、しかし簡単に非を認めて権力側に身を同化させてしまう者が多いなかで、一人でも闘い続ける人間がいるのは、闘いの当否は別問題として、「世の中、全員がコロコロ変る訳じゃない。損をしても筋を通す者がいる」と何かホッとさせる。

 私はいまだにホリエモンがどこか好きだ。調子に乗りやすい軽佻なところもあるが、率直で面白い、かなり有能な人物と思える。今度の件の決着がついたら、今後どんな人生を送っていくか、それを見たい気がしている。頑張れよ。



4月13日  真向法開始

 つい10日ほど前から始めた。
 名前はかねがね聞いており、ずいぶん以前に東京都知事の鈴木俊一氏が選挙運動中の演説会場壇上でやって見せたのを、テレビで見たことがある。

 氏は当時70代後半だったにもかかわらず、両脚を開いた中に上半身をぴったり折り曲げて見せ、その体の柔らかさに感嘆した。

 今回は連れ合いがその本を買って来、パラパラ見ていたら80歳前後の井上靖さんが同様に実行している写真があり、やる気になった。

 内容は要するに東洋風ストレッチというか、床の上で脚を開いたり伸ばしたりし、上体を出来るだけ伸ばして床や脚につけるだけだ。朝晩5分づつでいいという惹句もほぼその通りで、手軽だからこれなら自分にも出来そうと思える。

 やってみると気分がいいし、僅かだが進歩していくし、ほんとに5−6分で済むしで、飽きやすい私も珍しく毎日続けている。
 これまでウオーキングは天候具合で結局毎日とは行かず中断気味だったし、腕立て伏せと自己流空手体操は急にやって五十肩を発症、去年から1年間痛み続けた。

 「年寄りの冷や水」ということばを痛感していた折でもあり、丁度いいものに出会った思いがしている。連れ合いと一緒に出来るから、声を掛け合ってさぼらずにも済む。

 終ったあと、脚の付け根あたりが少し痛いような感じも、いかにも運動をした実感があって高校時代の部活の後みたいで気分がいい。皆さんもどうかしら。



4月11日  二つの顔合わせ

 時節がら学校関係がどうしても続く。昨日はまず1年生ガイダンスがあった。
 文芸学科の新1年は155名。うち11名が私のゼミ生となった。

 全学生1年からゼミ制度のもとでは、ゼミがいわばホームルーム代りでもある。特に1年は地方から上京し初めてひとり暮しになったりもするから、生活上のアドバイスや友達作りの指導もいる。

 で、そんなことも含め、ともあれ互いが馴染むように、緊張をほぐすように話す。メンバーの名前を覚えるよう慫慂し、約1時間半後研究室でのガイダンスを終えて解散した。と思いきや、しばらくしてドアを開けたら、ドア前にそっくり全員が円陣になって話し合いをしていた。

 さっそく交歓会の相談か、メアド等の交換か、そんな雰囲気だ。このクラスはうまくいきそうだなと予感がする。

 もう一つは夜の講師懇談会だ。こちらは池袋のホテルでの立食パーティー形式。
 今年は小説家の宮内勝典、シナリオライター兼映画監督の荒井晴彦氏ら4人の新講師が来てくれた。

 宮内さんとは全く同世代、インド放浪などの経歴も似ているし、小説家デビューもほぼ同時期で、当時は青野聰と3人で「放浪派」と呼ばれたりした。

 私は人付き合い下手なので、ずっと密接だったわけではないが、要所要所で接点はあったし、互いに存在を意識してきた気がする。HPにも熱心で、ネット上ではほぼ毎日お互いの「通信」を見てきた。mixiに入ったらそこにも彼がいたので驚きもした。

 彼のHPは「海亀通信」、私のは「風人通信」。じつは私のHPは作成時、彼のものをかなり参考にさせて貰った。「通信」という呼び方や目次欄の作り方なぞ、ほぼ借用である。

 会にはほかに昨年からのメンバー小嵐九八郎、森詠、岡崎正隆の3人を含め、約50人が集い、賑やかだった。ホテルのバーでの2次会も楽しかった。
 


4月9日  実感のない入学式

 昨日は日芸の入学式だった。私が年に数回だけネクタイをつける数少ない日である。
 私は長年気ままに生きてきた自由人と言っていいと思うが、当該学生諸君にとっては人生の記念すべき日だと思うので、毎年かなり威儀を正して出席している。

 今年もダブルの背広を着て出かけたのだが、何だか妙な具合だった。
 大講堂が満員とかで小講堂へ導かれたのだ。正面にはあまり大きくないスクリーンがあるだけで、他は何もない。

 教職員はうしろで立てとまで言われたが、いくらなんでも60歳以上はいいだろうと多少空いていた席に座ったが、会場は入学生や父母でとにかく満員に近い。

 例年は大講堂でみんな収まっていたのに、一体なぜと考えると、要するに今年は土曜日に当ったためらしい。入学生数は昨年並だからつまり父母の出席が増えたとしかおもえない。

 それは慶賀すべきだが、始まった式は、学部長や来賓挨拶はもとより、音楽学科の合唱や演奏、確かカナダから入手したかなり由緒あるパイプオルガンの演奏、演劇学科講師による日舞など、例年楽しみにしてきたアトラクション類まですべてスクリーンで見るだけである。

 初めての体験で気づいたが、それらはナマで新入生諸君の初々しい反応などを見つつ眺めるからこそよかったのだ。ただ映像だけ見せられてもいっかな面白くない。学生の合唱や演奏は正直、大した技量じゃないし、顔が次々アップにされてもどこかばかばかしい。

 新入生諸君も「フーン」といった体で、挨拶に対してもアトラクションに対しても殆ど拍手が起らない。私はだんだんしらけ、これじゃ普段着で来てもよかったなと思いつつうしろを見ると、私より年長者を含め教員の半数以上は本当に立ったままである。

 1時間半近い式が終っても拍手は殆どないままだった。いやあ、参ったというか、妙な気分だった。



4月7日  新年度第1回教授会

 溜っていた書類の整理に追われ、ぎりぎりの時間に大会議室へ駆けつけたら、いつもの席に新人が座っていた。ほかもだいぶ違う面々がいる。

 やむなく隣の列最後尾席に座り、改めて眺め渡してみたら、先月まで大体決まっていた席がずいぶんばらけており、私の周辺なぞ殆ど空中分解である。

 思い当るちょっとした事情もあるし、もう一つはなんといっても新年度のせいだ。新採用の教授、助教授から昇格した教授、3人の助教授代表、と新メンバーがいるうえ、春休み旅行中で欠席者も目立つから、昨年度までの暗黙の秩序が崩れたのである。

 ほんのちょっとの移動にすぎないのに、新しい席からは見え方がだいぶ変る。前は見えなかった顔が見え、何年も見続けていた顔が見えない。執行部席への角度も違う。学部長が見えなくなり、他の役員と視線があったりする。

 いつも斜め前だった人と隣り合わせたら、小声でごく気軽に会話が出来、つい飲む約束にまで発展もした。
 面白いものだ。位置取り、ちょっとした変化でこうも変る。時々は試みてみるべきである。



4月5日  新社会人の緊張と気張り

 このところ、若い人から相次いで4月新入社、配属先決定などの報告が届く。不安と期待が交錯し、とにかく緊張感が伝わってくる。

 なにしろ4,5歳の幼稚園くらいから始まって、たいてい18,9年は要するに学校生活だった人が殆どだ。その長いモラトリアム時代が終って、いよいよ社会への第1歩となれば当然だろう。

 自前で暮すこと、自前で稼ぐこと、毎日の多数時間をいわば他者に提供し管理されること。それは満員電車での通勤を含め面白かろう筈はない。が、世の中の多数がそうやって生きているのも事実であり、その内実を知らずして社会人とは言えない。

 でまあ、私は己の若き日の経歴(大学中退、サラリーマン生活3ヶ月のみ、ボーナスなど一度も体験なし)にもかかわらず、というか却ってそれゆえ学生諸君には就職を勧めてきた。小説家志望者にすらそうだ。

 慌てて書く必要はない。じっくりネタを仕込め。社会のありようを裏表知れ。苦痛に耐えよ。それが小説の肥やしであり、素材になる。そういうつもりからである。

 それらは小説家志望以外でも、結局同じであろう。人間は社会なしでの生存は有り得ないし、金銭なしでも生きられない。皆平等ではないし、能力も違う。世には善人ばかりではなく、明らかに悪人もいる。

 昨日善人だった人が、ある日悪人になることもある。逆もむろんある。君自身の運命も分らない。ならば一通りこの世で生き、それらを知る必要がある。

 その上でどうしても嫌になったら、辞職すればいい。出家遁世するもよし、旅に出るもよし、山中で自給自足生活を試みるもよし。ホームレスになるもよし。この世はまさに自由そのものである。

 と思いつつ、思い通りに行かなかった挫折感や進級出来ない哀しみなどが届くと、そこまでは言えない。ウムとこちらも己の苦労多かった来し方を思い、とにかくしばらく辛抱し、次に備えろ、みたいな平凡なことしか言えない。

 悲しむべきか、それが大人の役割とほぞを固めるべきか。



4月3日  柳瀬川で花見を

 昨日はmixi仲間の福本順次さんと、柳瀬川で花見をした。

福本さんは以前「海燕」に書いていた作家で、勤め先が志木市なので、いわば御近所さん。以前からネット上で交流があり、パソコン不調の折や五十肩のことなどすぐアドバイスを下さった。

で、まあ、初の顔合わせとなったわけだが、うちの連れ合いが「オフ会だなあ」と言ったので、そうか、確かにそうだ、と思った。前回書いた和田賢一さんもMIXI仲間だし、いわばオフの付合いが増えてきたわけだ。

話してみると、やって来たことや年齢が近いせいか、共通の知人も多く、話は闊達に進んだ。川原に敷物を敷いての花見も、私はこの14年間でたった2回目にすぎないのだが、こういう形なら悪くないなと感じた。



4月1日  和田賢一展 20年。

 水天宮三愛ビル内SAN-AI画廊での個展に行った。寒い日だったが、最終日なのでとにかくと思ってのことだ。

 行く道々思ったが、このところすっかり個展類から御無沙汰している。私は美術好きで美術紀行『美術館のある町へ』とか美術家列伝小説『美しき月曜日の人々』といった本も出している。

 後者のタイトルの意味は、美術家の個展オープニングパーティーがたいてい月曜日であることからつけたものだ。

 40代の頃は月曜の夕といえば、しばしば銀座日本橋界隈のどこか画廊で飲んでいた。絵描きや彫刻家など美術関係の友達知人は多く、文学関係より数も遥かに上だったし、会うのが楽しかった。

 それがすっかりに近いほどなくなったのは、要するにみんな歳をとったからだ。一番好きだった平賀敬は癌で死んじゃったし、賑やかで愉快な秋山祐徳太子はもう70になってしまった。美人で絵も迫力のあった上條陽子さんも言いにくいがおばあちゃんになり、谷川晃一は伊豆に引っ込んで翁ふうになったうえ酒が飲めない。一番私と歳が近い二つ年長の吉野辰海でさえこの頃は個展案内をろくによこさない。

 そこへいくと和田君は若い。かつて東西線原木中山の原っぱで出会った頃はまだ30前後だったし、二人とも埼玉県に引越し再会した時も彼はまだ30代だった。

 それが昨日会ったら、「ぼくももう50ですよ。芸大の恩師は52で死んだし、父も57で死にました。ぼくだってもう時間ないですよ。いつまで絵を描いてられるかなと思ったら、ほかごとやってる気になれなくて大学の講師など全部辞めました。今は絵だけです」と言うのだった。

 常識的に言えば平均余命はあと30年あるし、ちと思いこみすぎではとも思うが、しかし私もかつて桜に憑かれた30代後半頃、父親の死んだ年齢(37歳)を思い、死ぬまでにあと何回見れるかしれないからと吉野山へ毎年4月15日には必ず行くと決め、数年間実践したことを思い出した。

 和田君のアクリルを使った抽象の絵は印象としてほぼ昔通りだったが、今回は初めて、彼のイタリア中世聖画の模写を見た。彼はその方面の日本では数少ない専門家でもある。

 知ってはいたが、彼はそれを今まで見せようとはしなかったのだ。本業はあくまで創作絵、の意識が強かったからだろう。

 模写は素晴らしかった。全部で5枚、画家もフラ・アンジェリコ、ボッティチェリなど4人のものがあったが、アンジェリコのものなぞ見ているだけで清らかさ、澄明感が伝わってきた。クリスチャンだったら思わず手を合わせるなり十字を切りたくなるのではないか。和田君もこれを描いてる時は敬虔な気持になると言う。

 私は、これは売れると思った。そう言うと、現に今回も2枚売れた、が、これを描くには1枚1ヶ月かかる、時間給的に考えると割が合わない、と答が返った。

 うーむ、難しいものだ。が、芸術家が自立して生きていくためにはやはり金もいるし、「売れる」ことの意味もそれなりにある。年に何作か定例的に描いたらどうだろうと思うし、これだけの具象技量があるなら本業も具象を取り入れた方向に向けたらどうだろうと、つい言ってしまった。

 実はそれは20年前初対面の時も、その後も2,3度言ったことだった。当時、和田君はムッとしたような顔で「ぼくは抽象が好きです」と突っぱねたが、今回は「そうですね。先行きは分りません。もともと出発は具象でしたから、そこへ回帰するかもしれません」と答えた。

 ここでも20年の時間がたった。