風人日記 第十八章
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茫々無辺
  2006年7月1日〜9月30日


これは『按摩西遊記』の舞台、昨年9月歩いた天山南路からの風景。
右も天山、左も天山。山上、城壁ふうに見えるのは自然の風化物。
近くに高昌故城があるトルファン界隈は、摂氏40度以上だった。
火焔山も近い。夫馬撮影。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


「能楽ジャーナル」9月号(9月1日発行)にエッセイ

 「夢現の時間」:約30年前の私の第1創作集『夢現』と6月の浅見真州公演「求塚」のことを書いたもの。巻頭随筆。



「連句講座」を開催

 「日本大学秋期公開講座」の一環として11月に開きます。
 私と連句を楽しんで実践したい方、よかったら御参加下さい。初心者・既習者共に可。

 連句を楽しむ(全5回)  講師:夫馬 基彦
  第1回:11月8日(水) 第2回:11月15日(水) 第3回:11月22日(水)
  第4回:11月29日(水) 第5回:12月6日(水)
   いずれも 19:00〜20:30

  場所:日本大学総合生涯学習センター(水道橋3分、法学部図書館隣)
  受講料:一般12000円。日大生6000円。父兄・卒業生・教職員9600円。
  申し込みは、郵送またはFAX、HP、直接窓口で。

  問い合わせ:日本大学総合生涯学習センター
          電話03−5275−8888 (カタログ、申込書あり)
          〒101−0061 東京都千代田区三崎町2−2−3
          http://www.nihon-u.ac.jp/shougai/  



発売中:『按摩西遊記』(講談社、1800円)

                 

 大型書店中心の配本。アマゾンで送料無料なので、こっちが便利かも。
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062134470/249-5398224-6034725?v=glance&n=465392

 ベトナム戦争、911事件のニューヨーク、往昔の天山南路を素材の旅小説集。60歳前後や団塊世代から、戦争を知らない現代若者世代まで、誰もに面白い。



「季刊文科」(鳥影社。秋山駿、大河内昭爾、吉村昭編集)34号(1000円)

  連作短篇「南島シリーズ」その4 「聖俗島」 
  沖縄の二つの島を舞台に久々の神秘系。大手書店にあり。





9月30日 娘の生誕記念日

 今日ではないが、近い休日ということで、誕生会をした。
 といっても車で行く市内の鰻屋で、アルコール抜きで鰻重プラス鯉のあらいを食べただけだが、娘ももう29才である。

 ちょっと肉も付き、だんだん30女ふうになってきており、幼い頃のイメージが変じていく。当り前だが、不思議なもので、自分もこの年代の頃こうだったのかなとちょっと考えてみる。

 そういえば30歳の時、久しぶりに叔父叔母たちと会い、食後爪楊枝を使っていたら、叔母が「もっちゃんもそういう歳になったのねえ」とちょっと感慨深げに、かつ幾分さびしそうに言ったことを思い出した。

 確かに20代までは楊枝なぞ必要なかった。鰻なぞも一番量の多い特上を食べたものだが、今日は娘が特上、私は松、連れ合いは竹だった。

 帰途、車でほど近い難波田城址そばの小生命名「白鷺城」(白鷺青鷺数十羽の巣となっている竹藪池)に寄ったら、1羽もいず、竹は半ばが枯れ、池の水も涸れていた。

 ひょっとしたら竹の寿命だったのか、あるいは何らかの事情で水が涸れたため連鎖的にそういう結果になったのだろうが、かなり残念で、私と連れ合いはだいぶがっかりした。以前の様相はグワーグワーとうるさくはあったが、ほかでは見たことのないちょっとした奇観だった。

 それを誕生記念に娘に一見させてやろうと連れて行ったのに、たった半年で景観がガラリと変っていたわけだ。

 諸行常ならず、時は流れる。



9月26日 秋風秋雨、老骨に沁む

 彼岸が去ると一気に寒くなり、びしょびしょ秋雨が降ると共に体調もおかしくなった。

 まず1ヶ月前から腫れて痛い左中指第2関節が一層痛く、ついで2,3日前からちょっと痛かった左手首付近が本も持ちづらいくらい急に痛くなり、更に左肩肩胛骨付近までが相当痛い。

 明け方冷えたせいも加わってか、朝起きるなり「イタタ」となり、朝食後手首と背中に貼り薬をベタベタ貼った。何だか急に年寄りじみた風情が物悲しく、近所の医者2軒をはしごしたがさっぱり要領を得ず、医者は二人ともうつむき気味に「よく分りません。リウマチ・膠原病科のある病院か乾癬性関節炎の専門家に見てもらってください」となっただけである。

 いずれにせよ、病名が何であれ対症療法としてはとりあえず鎮痛消炎剤を使うだけらしいと分り、五十肩用に持っている鎮痛剤を飲んで、ネットであれこれ調べた。

 するとまあ、世の中にはその種の病院や専門医も確かに結構あるらしい、つまり私みたいなのはかなりいるにちがいない、と分って来、それだけで何となく安心した。

 練馬の順天堂練馬病院なるところに電話して専門医の診察日を確かめたところ、来週まではないと分り、じゃあ、とにかくそれまではしょうがないと諦めがついたというか、むしろ当面何もせずにすみそうでホッとした。

 そうそう、昨日は年1回の検診ドック日だったし、急に体調検査モードというわけだ。同世代の民主党小沢代表も検査入院したことだし、老骨に次第にガタが来始めたということだろう。さいわい私は彼ほど忙しくないから急に大事にはなるまいし、明日からは授業も始まるしで、まあ気も紛れよう。

 知らぬが仏、忘れるが薬、だ。



9月21日 彼岸

 私は彼岸という言葉が好きである。向こう岸、当然、対立概念はこちら岸で此岸(しがん)だ。あの世とこの世という言い方もあるが、彼岸ー此岸の方がずっといい気がする。

 岸の間には河があるわけだが、私の場合それはインドのゴアにあるマンドヴィー河だった。こちら側はフランシスコ・ザビエルの遺体安置の教会が立つ、旧ポルトガル領パナジの街で、向こう岸は椰子の木茂る小さな漁村が点在する浜辺の村々だ。

 私はそこを急性肝炎の黄疸症状で皮膚も爪も目も黄色、視界も黄色にゆらめく状態で、小さな渡し舟に乗り、ただ静かに寝ていられる場所を求めて渡っていったのだが、穏やかな波と舟のゆっくりした揺れと共に川面も対岸もすべてが金色(こんじき)にたゆたい、本当に彼岸に行く思いがした。

 その3日後から、私は1日1個の椰子の実以外は何も口に出来ず、死に近いという傾眠症状で1日の大半をうつらうつら夢うつつに半ば眠りつつ、5才以降くらいの記憶をこんなことまでと思うくらい次々に見続けた。比喩ではなくまさに「走馬燈のごとく」であった。

 さいわい私は大黄に似た土地の煎じ薬のおかげで、数日後から次第に回復していったが、その間もずっと彼岸にいるような心地だった。

 ベランダから見える小さな井戸を中心にした庭の花や植物、牛や豚やカラスや鳥たち生き物の、いわば自然の循環、椰子林の向うから聞えてくるアラビア海の寄せては返す潮鳴り、青い空ととろけるような、しかし湿気はないため不快ではない暑さ、静寂と光と闇、それらに包まれ、自分自身が周りの植物や生き物たちと全く同じだと感じつつ、息をしていた。

 丸1ヵ月後、私は同じ河をわたって街へ戻ったが、ああ、世俗の現世へ帰ってきたなとしかと実感した。

 以来ずっと、あの彼岸が懐かしい。35年間懐かしい。



9月17日 マイペース

 風邪の前駆症状なのか別の要因か、2,3日前から妙に肩・背中が凝り、今朝からはちょっと咳をしても背中に響いて痛い。ひとり暮しのさなかに熱でも出たら困る。

 で、マッサージに行こうかとも思ったが、熱めの温泉に入った方がいい気もして、午ごろ、近所のラドン温泉に出かけようとした。

 だが、風が寒い感があった上、銭湯的な情景とにおいを思うとどうも気が進まなくなり(そのためすでに2,3年殆ど行かなくなっていた)、川の土手から戻ってきてしまった。

 結局、自分で作った八丁味噌の濃いしじみ汁と暖かいごはんで昼食をとった後、ゲルマニウム入浴剤なるものを入れた風呂をたて、昼湯としゃれ込んだ。この入浴剤は以前娘に教わったもので、ゆっくり入ると汗がいっぱい出ていい気持というのだ。

 入ると本当にその通りだった。汗が次々に出、とろーんとなって湯から上がり、ヱビスの缶ビールを1本飲んだら眠くなってついさっきまで昼寝してしまった。肩背中の凝りは全部ではないがだいぶ良くなっている。

 よし、では、これからラジオ体操で更に体をほぐし、もう一度追い炊きした湯に入ろう。湯上がりはまたヱビスを飲みつつ大相撲を見よう。外国人選手の活躍ぶりと日本人大関陣のふがいなさぶりの対照が楽しみである。

 むかし、まだ外人力士が高見山だけだった頃、相撲は日本の国技だ、あれは胴長の日本人の体型でないとダメなのだ、なぞとプロもアマもしたり顔に、つまり全国民的に言い合ったものだが、あの言説は一体何だったのだろう。

 それからまた手作りの夕食を食べたあと、このところ読み続けている『ペンギンの憂鬱』というウクライナ作家の小説を読み、10時になったらまた熱くした自家温泉に入ってぬくぬく寝よう。



9月13日 AO入試作品審査終る、少し学校モードへ

 11日は久々に出校し、AO入試関係の仕事をした。1次合格者18名の提出作品を読み審査したのだが、なかには300枚以上のすでに単行本化されたものや、長編も多く、平均でも4、50枚の作が多かったから、中々大変である。

 1週間くらい前から読み出し、学科専任10名全員が集まって集計・討議するわけだが、私が○をつけた8名のうち6名が2次合格となった。ほぼ予想通りというか妥当な結果だ。今まで自分の評価と全体の結論が大幅に違ったことは一度もない。おおむねの客観性というものは小説とか文芸創作の世界でもやはりあるということだろう。あるいは、日藝文芸科に関しては際だって価値観の違う者が少ないということだろうか(少しはいる)。

 会議後、研究課への個人書類作成やら研究情報更新やらを行い、半分は自宅へ持ち帰って翌日半日を費やして仕上げた。

 こういうことをしていると、だんだん新学期が近づく実感が生じてくる。授業自体にはまだ2週間近くあるのだが、雑事と秋風が吹いてくる。

 明日からは連れ合いが取材でまた台湾に行く。彼女は去年も今頃、天山南路の旅から帰って成田で1泊後そのまま台湾での会議に飛んだ。私よりよほど元気なわけだが、台湾はまだまだ猛暑の上、明日あたり台風も近づくらしいので、いささか心配である。



9月9日 世襲制度はいい加減にしてほしい

 このところ世襲の話題や顔ばかりが出てくる。

 昨日は自民党総裁選、実質次期首相選スタートとかで、3人の顔が新聞にもテレビにものべつ並んだが、リベラルを標榜するテレビ朝日の「報道ステーション」すら、冒頭の話題は、麻生氏は吉田茂元首相の孫で、立候補を目指していたが選対責任者にまわった鳩山邦夫氏も鳩山元首相の孫、安部氏は岸元首相の孫で……といった具合だった。谷垣氏も父は元文相だ。

 降りた、ないし断念した福田氏も元首相の息子、河野太郎氏は元自民党実力者の孫にして父は現衆院議長である。

 自民党を批判する民主党にしても、小沢代表は父が元防衛庁長官、幹事長鳩山氏はそもそも邦夫氏と兄弟で、住まいは昔から音羽御殿と言われている豪邸である。

 どう転んでも次期および次次期くらいまで首相は世襲政治家たちであろう。へたをしたら3,4代続きかねない。

 うんざりしているところへもう一つ、皇孫男児誕生、これでお世継ぎ安泰、皇室典範改定問題は雲散霧消、だ。キコサマ、キコサマ、マコサマ、カコサマ、ミライサマ、とまことに耳うるさい。

 天皇制とはいわば世襲制の総本家である。男系男子に限ろうが女系も可にしようが、要するに世襲、平たくいえば血筋尊重にかわりはない。

 世襲がちと蔓延しすぎてはいないか。そんなに血筋が大事か。
 それは根本的意味において民主主義とか平等、自由といったことに反するのではないか。

 私はかねがね天皇家は故郷たる奈良か京都に住んでいただき、相撲におけるかつての吉田司家(相撲の盛んな熊本に住み、谷風以降横綱の免状を授けてきた。第60代双羽黒以降は行っていない)のごとく、民族的伝統行事に関してのみ司祭的役割をすることにしたらどうかと思っている。

 政治については基本的に国民の意思を反映する民主的方法によって、出来るだけ清新で、平等な精神に富んだ人物たちによって運営されるべきだと考えている。

 それが実施出来ない社会、つまり昨今の日本は、何やら根本的停滞、落日化しかかっているのではないか。



9月5日 高原の空気

 昨日一昨日と裏磐梯の五色沼へ行って来た。秋というほどではないが、朝夕は随分涼しく、湿気も低くて爽やかそのものだった。

 夜は寒いほどで、露天風呂の外気が冷たい。部屋は、クーラーはもちろん入れず窓を閉め、布団をきちんと掛けて寝た。

 朝、気づくと、庭の桜の木が少し紅葉していた。食後、五色沼散策道(かなりの山道部分もある)を1時間20分歩いたが、汗は殆どかかない。軽い登りがあるし、場合によっては途中で引返そうと考えていたのに、全くその必要はなかった。

 温泉は無味無臭で少々物足りなかったが、高原の空気とコバルト色の五色沼の鮮やかさは実にいい気分である。
 磐越西線沿線の色づいた稲田と白く清楚な花盛りのそば畑も見飽きなかった。



9月1日 強弩(きょうど)の末

 1昨日届いた「能楽ジャーナル」誌上で、某能楽評論家がこの言葉を使っていた。ある能役者の三番能公演を指しての表現である。

 恥ずかしながら私はこの語の意味をすぐには分らなかった。昔の戦艦などをさして「超弩級」と形容したりしたから、「弩」あるいは「強弩」は高性能、ハイ攻撃力、強い弓といった意味だろうと類推したが、全体としてどういう意味なのか、ことが武事ではなく演劇としての能にまつわることだけに、ハテと首を捻った。

 使い方としては、"何年か前の五番能は彼の芸歴頂点の成果だったが、今回は強弩の末。"といったふうだ。

 で、辞書を引いてみると、「強弩の末、魯縞に入る能わず」は、強弩で射た矢も、ついには勢いが衰え、魯に産する薄絹をも貫くことが出来ない。初めは勢力のあったものも、衰えると何も出来なくなることにいう」とある(広辞苑)。ついでに「弩」も見ると、「大弓。いしゆみ」となっている。

 ははあ、さすが能評論家ともなるとこういう文章の使い方をするのか、さぞや年齢的にも経歴的にも長老の方であろうとプロフィールを探してみると、何と1963年生まれの人であった。

 私はウームとしばらく言葉が出なかった。

 なぜなら、ここで、今や衰えきったカスみたいに言われた能役者は、この公演の日が満65才の誕生日当日、気力充実、円熟した名演と私には思えたし、何年か前はもちろん、約20年間ずっと見てきたが、この日の肩肘張らぬマイルドさは過去一番、初老にいたって明らかにヴェールを一枚脱いだと感じていたからだ。

 驚いて能通の友人にメールを出してみると、「評者は辛口がウリ、総じて評は読みづらい」と返事が来た。しかも、掲載誌の編集長自身(彼は文字通りの長老)はこの時の能を「素晴らしかった」と評していたともいう。

 若いからダメということはないけれど、43才という年齢はそれこそ強弩のさなかか、あるいはそれを目指して必死の頃ではないか。60をすぎ、肉体が踏ん張っても強弩となりえぬ時になってこそ知る芸境もあり得ることを、まだ身をもって感じられないのであろう。

 「風姿花伝」にある"真(まこと)の花"とは、はたして何歳頃のものと世阿弥は思っていたのだろう。



8月28日 夏休みの出校日

 今日は学校にちょっとした用が出来て、これから出校することにした。義務ではなくいわば個人的校務といったものだから、何時に行こうが勝手だし、気楽なものだ。

 日頃、出校は決して好きな方ではないが、今日はどことなくちょっと楽しみでもあるから、フシギだ。丸1ヶ月ぶり以上だし、何だか子供時代の「夏休み出校日」みたいな気になるのかもしれない。

 あれは小学校時代の8月半ば頃に1回あり、朝礼と教室で顔合わせだけがあった。無意味な気もしたが、いい加減休みに飽きている頃でもあったし、皆や先生の顔までがふだんとまるで違っているのが面白かったりした。

 日焼けの上、みんなどこかのんびりした表情なのだ。むろん、塾に行ってるものなぞ誰もいない時代だったし、濃尾の農村地帯のただ中だったから、やることはといえば魚捕りに昆虫とり、おばあちゃんちの訪問、プールなどだった。

 昆虫は蝶がもっぱらで、私の標本コレクションは小学生としては抜群のものだった。当時から珍しかったギフチョウを始め、アサギマダラ、ゴマダラチョウ、青筋アゲハ、麝香アゲハなどいっぱいだった。

 魚も小鮒の収穫は中々で、夕食のおかずにその佃煮ふう煮付けを食べたりした。
 
 ああいう日はいろんな意味でもう来ない。出校する学校は東京の街なかにある。



8月24日 短篇上がる 車に乗る

 締切りを控えて書き続けていた連作短篇がどうやら出来た。「季刊文科」連載の南島シリーズ・ナンバー5になる。

 場所が沖縄本島になったせいもあり、島めぐり紀行ふうから一歩踏み込んで、沖縄の抱える歴史や社会性にかかわる内容にした。タイトルは「植民島」。このタイトルは2,3としばらく続くかもしれない。

 作品を一通り見直したあと、車に乗ってほど近い秋ヶ瀬公園までドライブしてきた。車にもう丸1ヶ月乗っていないことに気づき、ひょっとしたらバッテリーが上がっていないか気になったからだ。

 このごろ車は所沢校舎への通勤以外殆ど使わなくなっているから、授業が休みに入って以降乗っていないのである。

 秋ヶ瀬は埼玉南部では珍しい大規模森林の残る自然公園で、スポーツ施設も多い。秋から春・初夏までは折々赴いては、森の中を歩きまわるが、さすがに真夏の昼間は暑くて車を降りる気になれない。森の匂いだけを感じて、車で一巡りし、戻ってきた。

 これからもう一度原稿を点検、メール送稿すれば、しばらくはのんびりだ。それとも勢いに乗って次の分まで書いてしまうか。いづれにせよ、急に余裕が出てきた。



8月20日 パジャマ姿で

 さっきパジャマ姿のままゴミを捨ててきた。私の部屋は14階だから、廊下を少し歩きエレベーターで1階へ、ついで駐車場を兼ねた構内道路を横切って公道に面したゴミ捨て場へとなる。

 つまり人目に触れる共有地をかなり歩くわけで、従来はともあれズボンにシャツぐらいに着替えてした。

 が、それが面倒くさい、というかいかにも無駄・無意味な気がして、エイ、やっちゃえ、とパジャマ姿で実行してしまったわけだ。

 むろん、暑さのせいである。プラス日曜日、プラス夏休みのせいである。こういう時、基本的には私有地である(ただし共有)住居地で、何も一々着替えることなんかないじゃないかと、自然感情が要するに都合よく動いたわけだ。

 部屋へ帰って何くわぬ顔をしていると、連れ合いがやがて気づいて笑いこけた。ホンコンみたいだと言うのである。

 そういえばホンコンではパジャマ姿が目についた。さすがに真っ昼間は記憶にないが、夕方以降くらいは裏街はもちろん繁華街でもいっぱいいた。おかみさんふうが買物したり、家族連れで屋台で食事したり。

 南国だなあと思うと同時に、確かにいささかしまりのなさも感じたものだが、日本も夏になるとあの光景が羨ましい。気温的には夏はホンコン並なのだから、いっそ夏だけパジャマ姿も可としたらどうかしら。



8月16日 騒がしかった一日

 きのう8月15日は妙に肌ざわりの悪い一日だった。
 早朝の小泉靖国参拝から始まって、夕方から夜にかけての加藤紘一氏邸焼き討ち事件まで、曰く言い難い不快感・暑苦しさがつきまとった。

 加藤氏邸焼き討ち事件は、すぐ昭和38年の河野一郎邸焼き討ち事件を思い出させたが、その時の焼き討ち実行者・野村秋介は事前に堂々と名乗り、糾弾状を手渡し、家族等は避難させた上での行為だった。

 今回はいまだに実行者の名前までが分らない。趣旨も分らない。居合わせた女性事務員は自分で逃げ出したようだから、事前警告もなかったのではないか。とすると、偶々散歩中だったという97才の加藤氏母堂は、もし自宅奥なぞに居合わせたら、危なかったと言える。

 割腹自決をはかった以上、相応の覚悟あってのことではあろうが、どこか卑劣・粗雑の気配がある。国士なぞという次元の行為ではない。

 私は今回の小泉の愚行はあほらしい限りだが、しかしおかげで靖国問題、日本の戦争責任問題、アジア近隣諸国との友好問題、等を国を挙げて考えることになった点は、逆説的功績だと思っている。

 皆考えればいいし、討議を深めればいいのである。意見の違いは多様に残り続けるだろうが、それを包容する度量や知恵もやがて生れるかもしれない。

 思考する能力の欠落した人間がこうした浅はかな行為を生み、それこそ人の心を傷つけ、世の気分を荒立たせる。

 8月15日はやはり静かに平和を思うべき日だったのに。



8月12日 神ありて

 図書新聞のコラムで作家小嵐九八郎氏は私を無神論者と呼んだけれど、それは学生運動時代の思いこみの強い氏の誤解で、私は神を信じる身である。

 今日も昼過ぎ、ソファに横になりつつ「アメリカ短篇文学選」を読んでいた折、一天にわかにかき曇り猛烈な雷雨となった。ピシッ、ズシッ、の腹の底に響く音と共に目をやると、次の稲妻が銀色の折れ釘ふうに天から地へと走る。

 私の住居は14階でほぼ180度の視界がきくだけに、壮大とも怖ろしげとも言える光景となる。私はその光景が昔から好きで、ある種厳粛な気持になり、起きあがってじっと見続ける。

 神鳴りである。あれは天で神が雄叫んでいるのであり、雷すなわち申(しん)を示しているのだ。申を示すものが「神」に他ならない(示す偏に申が神という字の組成だ)。

 私は唯物論的観念を半ば強引に信じようとした青年期の一時期を除いて、そういった自然の成立ちと人間の自然の情を信じなかったことはない。つまり私はどの宗教宗派といった次元なぞではなく、もっと本質的な意味で神や天の存在、あるいはそういう概念を生み出した人間の自然性を否定したことはない。

 無神論もある意味で正しい面があるが、唯物論や無神論でこの世は解析しきれないことも明らかである。雷は科学的に説明出来る自然現象だが、なぜそういう自然の中に人間が存在し、畏怖の念を感じる「私」がいるかは、誰も説明出来ない。

 神鳴りはそういったことどもを、俗事にまぎれている人間どもに時折思い出させるため、鳴る。



8月9日 国内時差ぼけ気分

今日、午ごろ1週間ぶりに帰りました。
台風かなと思っていたら、今や入道雲渦巻く快晴です。

北海道は涼しかった。昼間の日差しは強かったけど、木陰へ入るとひんやりとそよ風がここちよかったし、夕5時ともなると自ずと散歩したくなる爽やかさでした。

昨日は午後2時までモエレ沼公園を歩き回って、すっかり日焼けしました。

殆ど毎日、午後9時には就寝、熟睡状態だったので、体調は極めて良好、頭の中は空っぽの感じで、時差ぼけにでもあったみたいな気分。

明日ぐらいから日常が回復するでしょう。



8月2日 明日から秋田・北海道旅行

 下の30日付で書いたように、しばらく留守にします。折しもカッと晴れてきて暑そうですが、バテないよう、初老らしく、穏やかに歩いてきます。

 温泉にも入るつもりですが、一番の眼目は日頃見ない生活や風景・光景に触れることです。好奇心だけは相変らずやけに強いのです。

 なお、上のお知らせ欄最上部に、昨日知ったばかりの週刊SPAの書評紹介を載せました。佐渡に住むユニークな書評家土屋敦さんが書いてくれたもので、長からず短からず、易しく分りやすく、実に的確で嬉しいものでした。現物はカラーで写真も大きく、BOOK欄トップでした。
皆さんもぜひ御覧下さい。



7月30日 真夏である カラッと晴れた

 やっと梅雨明けだ。
 待望していたが、晴れてみると暑い。途端に1昨日までの涼しさが恋しくなるから、勝手なものである。

 が、ともあれ、夏休みの旅の計画をこの2日がかりで詰めた。今年はやや疲れたのと、本出版の余波などで外国行きは久々にやめたので、せめて国内で涼しそうなところへというわけだ。

 秋田の大潟村から白神山地、海峡を渡って旧松前国の江差、そして私が折しも新人賞受賞の33歳の時爆発したせいか、えらく記憶に残っている有珠山、札幌郊外のイサム・ノグチ設計のモエレ沼公園、が今回の主たる目的地だ。

 理由はそれぞれに色々あるが、まだ必ずしも明確な言葉になっていない。国内だから気楽に行き当たりばったり歩くうち、だんだん言葉になってくるだろうと思っている。

 当初は最初の一日以外は宿も予約せず行くつもりだったが、念のため帰りの航空券だけでもと予約所に確かめたら、割引券なぞはもう早朝便以外は満席というし、大潟村の宿さえ満員に近いというので驚いた。

 慌てて全日程にわたって宿の予約手配を開始、半日ほど大わらわとなった。国内の旅もラクではない。旅は好きなのに、こういうことがだんだん億劫になってきた。



7月25日 mixi丸5ヶ月の総括

今日、mixiの日記に書いた文章は、当初、mixi内だけのつもりだったが、そもそも前回丸2ヶ月時の総括をこの風人日記に書いていたのだから、やはりこちらにも報告すべきだろうと考え、そのまま再録する。以下はその内容。


(mixi)開始が本年2月20日だから、ふと気づいたら丁度丸5ヶ月ほど経過である。
で、丸2ヶ月時の例に従って、若干の総括を試みる。

丸2ヶ月時:
 アクセス総数:3491
 一日平均:約58
 マイミク数:49

丸5ヶ月時:
 足跡数:7445
 一日平均:約50
 マイミク数:63

アクセス総数と足跡数は違うことに気づいたので、表記も少し変えた。

一日平均は微減、マイミク数はそれなりの増加。ただし、前回はこちらが随分あちこちに探索足跡を付けに行った「返し」がかなりあったが、最近そういうことは減っているから、日常的常連アクセスは実質少し増えているのだろう。

それがほぼマイミク数増に一致しているのかもしれない。
マイミクの人には相変らず面識のないままの人もある反面、ここをきっかけに数名の人とは実際に会った。悪くない出会いだった。

最近会ってはいないが、何十年ぶりかに付合い復活の人も複数ある。
中で、卒業生の消息が日常レベルで知れるのが一番数も多く、楽しい。年長組はもう30才をいくつかこしており、職業も居場所も国内外様々だ。

6月に『按摩西遊記』を刊行した時は、かなりの方に本を買って頂いたようだ。有難いことだった。マイミクの「ササヤン」さん関係には、総計すると20数冊買って頂いたのではと思える。力のこもったブックレビュー(レビュー欄参照)も書いてもらったし、本当に感謝に堪えない。

それが縁でリアルにお会いしたら、実に話題豊富、愉快で、文学性も広く、なるほどこういう人は自ずと人脈も人望もあろうと思えた。

ほかにもブックレビューを書いてくれた方々、有難う。私も読んで楽しかったし、読者の方にも役だったようだし、販売促進にも役だったのではと思う。

だが、全体としてマイナス面もある。
何だか訳の分らぬ人が入ってきたり、20才そこそこの若い人が妙になれなれしく対等みたいな口をきいたり、年齢にかかわらず極めて個人的な私情ばかり長々と述べ立てたり、その他あれこれある。

つい時間を使いすぎるマイナスもある。いやなら開かなければいい、見なければいいと思いながら、開くと私は、ついリアルの世界と同じように、通知された日記にはきちんと目を通し、足跡にはお返し訪問をしてきた。

けれど、この頃それに少し疲れたというか飽きてきた。また、相手は私が思うほどまじめや律儀とは限らないこともよく分ってきた。まじめや誠実であっても、こちらとは歯車や肌が合わない場合も多々ある。

当然といえば当然のことで、まあ、誰が悪いというより、この種のソーシャル・ネットワークやネットの世界自身が、いわばこの世で初めての体験なので、作法も使用法もみなが手探り中ということだろう。
この世界では年長の大人だからといって、初体験のことばかりでろくに何も分らぬのである。私自身、まずかったなと思うこともいくつかある。

というわけで、私はこの頃、以前のように日記にも全部は目を通さぬし、足跡にもお返しを次第にしないようになってきた。

ぼつぼつ、自分本来の仕事に集中したい時期になってきたし、mixiとかネットの世界はそう早くルールや功罪やら諸々が確立しはすまいと思えるからだ。

でも、やめもしない。
ペースダウンしてゆっくり続けていこうとは思っている。
ゆえに、これからは触れ合う度合・頻度等はやや減るかもしれぬことを御寛恕願いたい。

以上、現段階での総括である。また、数ヶ月後にはどう思うか、自分自身のこととしても、社会でのこの種のものの役割としても、大いに関心を持っている。



7月23日 ああ、うなぎ

 今日は土用丑の日らしい。うなぎが当然念頭に浮ぶが、しかしさあ、食べに行こう、という気にならない。去年まではともあれ丑の日前後にはどこぞ旨そうな店へ行っていた。この2,3年は志木から浦和へ抜ける宿(しゅく)街道沿いの「鯉清」だった。

 私は昔からうなぎ好きで、夏の土用以外も何かといえばうなぎを食べていた。どこかにうなぎの旨い店があると聞くと必ず行ったし、埼玉県に越してきてからは、浦和を初め川越、熊谷、川越街道筋、小川町などだいぶ行った。

 海のない内陸県だから昔から川魚料理が発達しており、いきおいうなぎ屋も多い。大きな店や名代の店も多い。

 おかげで、ひとしきり外出といえばうなぎ屋探しを兼ねたものだが、近頃とんとしなくなった。一通り知ってしまったせいもあるが、要するに年齢のせいであまり濃厚なものを食べたくなくなったせいではと思える。

 若いころ、年寄りはしょぼしょぼとものを喰うなあと思ったものだが、だんだん己がそうなってきているのかもしれない。いかん、いかん、やっぱり今日あたりうなぎを食いに行くか。



7月20日 10何年ぶりの新宿ゴールデン街

 ゆうべ、教え子のS君と新宿で落ち合い、中村屋でインドカリーを食べたあと、ゴールデン街へ行った。

 ここで教え子でありSの同期生、歌手の永山マキが「黒猫船」という店をやっているからである。

 ゴールデン街は若いころよく来たが、一番直近に来たのは確か12,3年前、作家の森詠に連れられ韓国作家の金源佑(キム・ウオンウ)と一緒だった。どの店だったか、映画評論家の松田政男や物書きの誰かがいたが、酔ってはしごの途中だったので、詳細は憶えていない。

 その前は昭和天皇が亡くなった日だったから18年前になる。このときは朝日新聞出版局の故小川特明さんに連れられ、彼の馴染みの店に入った。その時のことは印象が強く、短篇小説にした。天皇死去の日を描いた「その日のこと」である。

 その前は高校の後輩「おりゅうさん」こと、後に社会党のマドンナ国会議員になったベレー帽の長谷百合がやっていた「ひしょう」で、かれこれ20年前になろうか。

 一番よく来たのは学生時代で、フラメンコ酒場「ナナ」では、改装の際、壁や天井絵を塗るのを画家故松江カクさんの指揮で少し手伝ったりまでした。

 つまり、相当久しぶりだったわけだが、ゴールデン街はあまり昔と変っていなかった。小さい店がぎっしり並び、「ナナ」とか「ひしょう」、「なべさん」「ハングリー・ハンフリー」など昔のままの名前もいくつかあった。「もっさん」や「まえだ」はない。

 懐かしいのでぐるりとまわってみ、よほど中まで覗いてみようかと思ったが、ママやマスターは当然代替わりしているだろうと思い、目的の「黒猫船」に入った。

 マキ君は私の水曜日の連句の授業あたりをとっていたらしく、名前は覚えているのだが、顔は正直よく憶えていない。mixiで出会い、マイミクという仲間関係になったが、表紙の写真が長い髪の横顔のせいもあり、私の中では顔だけモヤがかかっていた。

 だが、やがて現れた彼女は私を見るなり「あらぁ、先生!」と言い、私もその笑顔を見たらすぐ思い出した。確かに教え子である。ただし、声は歌手らしい鍛錬を思わせる太い声になっており、髪は随分長くきれいになっている。

 満員の一座にS君ともども紹介され、若いコミュニティーのような常連客の皆さんと少しだけ言葉を交した。演劇青年や音楽ファン、フリーライターといった諸君で、一挙に3,40年前に戻る気がした。

 1時間ほどで外に出たが、懐かしい気分がつのり、区役所前からこれまた2,30年ぶりの歌舞伎町界隈を歩き、更に余勢を駆って新大久保まで歩いてしまった。途中は今や外国人街、ことに韓国街になっており、あふれるハングルを韓国留学中(一時帰国)のS君が次々訳してくれた。

 出不精で、ことに繁華街にはめったに足を向けない私には、珍しい宵だった。雨上がりの空気が涼しく爽やかでもあった。



7月14日 ジダンはカビール族

 ジダンの頭突きに関して独立ジャーナリストの永島章雄氏(yuki1789)がmixiの日記であれこれ興味深いことを書いている。

 その一つにジダンの出自がマルセイユの貧しい移民の多い公共住宅であり、父母はアルジェリア出身のカビール族だったことがある。父親はフランス語をろくに出来なかったというし、一家はフランス社会からかなりの差別を受けたらしい。

 カビール族は北アフリカに広く散在するベルベル人のアルジェリア支族的存在で、北東部カビリア山地や西部オラン界隈などに住む遊牧系民族である。

 私は昔、モロッコで同系部族に出会ったことがあるが、目が薄青く、音楽好きの山地というか荒野の民といった印象だった。

 アルジェリアでは旧宗主国フランスに対し最も果敢に反抗した民族ともいわれるが、アラブ人に対し国内人口比20%の少数派のため、だいぶ差別されているそうだ。オランでは近年、反政府の大規模デモを起している。

 つまり、ジダン一家は故郷アルジェリアでも差別され、移民先フランスでも差別されてきた少数派の中の少数派だ。

 そういえば目が薄青く、俊敏でどこか孤高の印象のあるジダンの風姿を想うと、なるほどという気もする。

 モロッコのベルベル人はかつて、スペイン内戦に「フランコはイスラムに改宗する」という嘘の密約を信じてフランコ側に義勇兵を送ったとも言われるし、古来、闘いに関しては勇猛だったようだ。

 ジダンはそもそも今度のW杯を「反差別の闘い」と位置づけていたというし、引退前にこの点だけは強く世界にアピールしておきたいと考えていたのかもしれない。そう思うと、あの頭突き一発のシーンも見え方がちがってくる。



7月10日 ジョッギング

 5月半ば頃、真向法のやり過ぎで脊椎の第5腰椎付近を痛めた。6月初旬、整形外科医に診てもらったところ、肥満解消にはストレッチくらいじゃダメ、カロリー消費量の高い水泳かジョギングがいい、と言われた。

 以来、自宅にいる日は、近所の公園の周囲を5周ゆっくり走ることにしている。最初は3周でフーフー、どうにか5周になった今も膝はろくに上がらず引きずるような走り方だが、それでも終る頃には汗だくになっている。

 体重は今のところ1キロ減。代りに膝から下がいつもだるく、どちらがいいのかはっきりしないが、まあ当分は続けてみるつもりだ。あと3キロは落さなきゃ。



7月7日 前期授業終了、ゼミ飲み相次ぐ

 今週で前期授業が一通り終了した。会議やAO入試の1次審査、オープンキャンパスでの公開講座等はまだまだあるから、即夏休みというわけではないが、やはりホッとはする。

 それに連動し、5日は院生との飲み会、6日は3年旧夫馬ゼミ生(2年1年次)との飲み会、と続いた。2週間後には4年ゼミ飲み会もある。

 3年飲み会には2年ぶりに会う女子学生までやって来た。学内にいるのに出校日がずれているため今まで顔が合わなかったのだ。

 彼女は手みやげを持ってきてくれた上、なんと私の本を新刊のほか5年前刊行の本まで買って持参した。池袋のジュンク堂へ行ったら文芸書売り場に私の名札があり、『按摩西遊記』のほかに『籠抜け 天の電話』まであったから、両方買っちゃったというのだ。

 学生にとって1800円の本を2冊というのは決して安くない。それだけにむろん私は大うれしなわけで、いい気分でサインし、彼女と久闊を叙し合った。この年頃の女性は2年ぶりともなると相当変化しているもので、化粧もうまくだいぶ大人びていた。

 メンバーの中にはmixi仲間も二人おり、ひとしきりその話題で盛上がり、私は小説「mixi」を書こうかという話にまでなった。
 むろん酒の上の話段階だが、案外面白いかもという気も少ししている。



7月3日 緑田(みどりた)の脇でひっそり遅田植え  南斎

 遅田植えという言葉があるかどうか知らぬのだが、つい一昨日川向こうの田で一枚の半分だけ田植えがなされた。周りはすでに一ヶ月以上前に終っているのだから、いったい何やらんと不思議な気分だ。

 しかも半分やって、あとは水だけ打って放棄してある。田の主に何か訳はあるのだろうが、びっしり緑が覆った周辺の中で妙な印象ではある。

 しかし、水の打たれた田を私は好きだ。熱帯の東南アジアを想い、幼年時代の濃尾平野を想う。夕になると蛙も鳴く。恍惚朦朧の彼方に引き込まれる。



7月1日 課題「父の背中」続編

 6月23日付け日記に書いた課題が、昨日の授業で出てきた。
 といっても2年2作、1年1作のみだったが、うち2作が父親を亡くした学生のものだった。

 二人とも癌で、中学生、小学生のとき父が死亡したという。さすがにシンと気持のこもったいい文章で、技術的にも添削するところが殆どない。

 合評する学生諸君も、日頃はもっと闊達に、少しからかったりしつつ話すのに、この日ばかりは静まりかえった。

 18,9才の20人ほどのうちに2人もこういう子がいるとは、癌死の比率は相当高いというべきだろう。私も幼時に父を亡くしており、小学校以降のクラスにはたいてい母子家庭者が5−6人いたが、みな戦争によるものだった。

 なお、今日から7月になったのに伴い、新ページとした。また、よろしくお付き合い下さい。