風人日記 第二十章
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アロエの花
  2007年1月3日〜


1月4日朝撮影。昨年11月初めから咲き始め、何と数十センチ分も順に咲いていった。
はたしていつまで咲いてくれるかと思っていたが、もう終りだ。
よって、本日(2月24日)、思い切って根元から切った。
現在地に引越してきた時この鉢に植えて約15年、もう土も容量も限界だからだ。
よく育ってくれた。この棲みかでの私の数少ない同伴者だった。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


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    連作〈南島シリーズ〉5の「植民島」掲載。

 沖縄と戦争がテーマ。シリーズの中ではだいぶ異色になった。次作もまたちがう「植民」を書いてみようかと思っている。大手書店にあり。ネットからメール注文も可。
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 ベトナム戦争、911事件のニューヨーク、往昔の天山南路を素材の旅小説集。60歳前後や団塊世代から、戦争を知らない現代若者世代まで、誰もに面白い。





3月29日 花咲くや二十年の憂さ遠のきぬ 南斎

 今、下の柳瀬川土手を歩いてきた。空気も暖かく、風はなく、すっかり桜が咲いた。二、三分咲きだが、中には六、七分のものもある。

 屋台ももうだいぶ開き初め、お好み焼きやらかき氷屋が店を整えている。川原には早くも青いシートが何枚も拡げられ、場所取りが始まっている。例年、市が付けていた電飾球がないのは、財政悪化の影響だろうか。

 風雨さえなければそれでいい。おだやかな花がひかりも放つ。



3月26日 卒業式

 昨日は日藝の卒業式だった。
 今年はわがゼミから13人が卒業、ほかに過去に教えた学生もまあまあ多い年で、学位授与式でひとりひとり前に出てくる顔を見ているのが楽しかった。

 女性はおおむね着物に袴姿、男子はスーツ姿。女性が半分強なので、華やかなものだ。午前中土砂降りだったので、武道館での統一卒業式には行かず午後からの学部式のみ参加の子たちが多かったようだ。

 日頃馴染んでいるゼミ生もドレスアップしてくるとだいぶ印象が変るし、1年か2年で教えたきり何年ぶりみたいな子だと、見たことあるがと思いつつしばらく名前など浮んでこなかったりする。随分かわいくなっていたりする。

 講堂での簡易パーティーのあと、夕6時からは池袋のメトロポリタンホテルで学生主催の文芸科記念パーティーが開かれた。他の部屋では音楽学科や早稲田大のいくつかの教室のパーティーも開かれており、みな「謝恩会」と銘打たれていたが、うちだけは謝恩会ではない。

 ゆえに教師もちゃんと1万円の会費を払って胸に名札を付けられというスタイルだ。名札に関してはさすがに違和感があり、他の教師の中には「先生の名前も知らないのか。失礼だ」と付けぬ人もいたので、私も途中から外した。

 しかしまあ、会自体は楽しく進行した。女性たちは早くも洋装に着替えて現れ、まさに色直しで華やかなものだ。露出度がずいぶん高い子もいる。
 男はその点、つまらぬものだなあ。

 途中で「恩師」の福島泰樹さんが「ちゃんと静聴しろよ。おしゃべりするやつはあとで殴るぞ」とか言いながら、詩歌を朗読絶叫した。

 寺山修司がファイティング原田に贈ったという詩、ついで中原中也が19歳で作った「人生の椅子がなくなった」という詩。人生の椅子とは人生で自分が座るべき場所の意で、19歳にしてそれがなくなったという男の気持はどういうものか、君たちはこれから社会に出るがどういう椅子を見出すのか、と長年の絶叫で鍛えた歌人福島の太い声が続いた。

 会の終わり近く、私は新旧ゼミ生諸君に囲まれ壇上で何枚も写真を撮り、一番着物姿が素敵だった女子学生からちょっと息苦しいくらいにしっかり抱擁された。かくのごとき若い女性に抱擁されたのは近来、いや記憶の限りない気がする。

 いやあ、いい一日だった。



3月23日 春本番

 やっと春が本格化したようだ。
 昨日はコートなしで学校へ出かけたが、全く寒くなかったばかりか、そよ風が心地よかった。おかげで帰途、いつもはそそくさと通り過ぎるだけの地下鉄小竹向原駅周辺をつい暫く歩いてしまった。

 桜に似た花が何本か満開だったからだが、近寄ってみると「ベニスモモ」と表記されていた。そうか、李か。ということはいずれ紅い実がなるに違いない。

 そのついでに、近くに「アカシア」という喫茶店が開業していたことも初めて知った。これは駅の出口近くなのだが、今まで気づかなかったのだ。ガラス越しにちょっと中を覗き、表に出してあるメニュも見、今度入ってみようと思った。コーヒーの飲めない私は紅茶を試すことになる。

 今日はこれから柳瀬川の土手を歩いてみる。昨日は150本ほどのうちほんの2,3輪のみがほころんでいたが、今日はたぶんもっと増えているだろう。はたして開花宣言が出せるか否か。基準は一木に6輪の開花だそうだ。
 


3月18日 映画「太陽」が面白かった

 もう1週間前のことになるが、池袋の新文芸座でアレクサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」を見た。

 ロシア・イタリア・フランス・スイスの共同制作、主題は日本の昭和天皇、主演は日本人俳優イッセイ尾形で、これが実にうまかった。“子供のような人”(マッカーサー司令官)という昭和天皇を殆ど出ずっぱりで演じて、見事なくらいだった。

 口を震わせ、“ア、ソウ”を連発し、御前会議で意味不明の演説(託宣?)をして困惑させ、神だか人だか常人ならざる境界を、無垢な子供のごとく、ピエロのごとく表現して、絶妙である。

 私は近来、これほど一人の俳優の演技に感動したことはない。ひょっとしたらこの見事さはユーリ・アラボフの脚本のうまさかも知れない。

 彼の脚本は昭和天皇の居室での孤りの様子、敗戦の衝撃、人間回復の希望、占領軍マッカーサー元帥との会見の模様(この時先の“子供のよう”という感想が出る)、アメリカ人記者たちに“チャーリイ・チャップリンそっくり”と扱われるさま、別れ別れだった妻(つまり皇后)との久々の再会場面、など大仰ならざる個の小シーンをもっぱら積み上げていって、天皇ヒロヒトの個と孤独を浮び上がらせる。

 むろん、ここに浮び上がる天皇像は一つの側面であり、実際にはもっと権力者的であった側面、戦争責任、ひょっとしたらかなりの演技者、二面三面的人物であったかも知れぬ要素、などあれこれあろうが、しかし、人間でありながら現人神(あらひとがみ)とされ純粋培養されたひとりの人間の哀しさが実によく出ている。

 こういう映画は、外国人であり世代もだいぶ下の完全戦後世代だからこそ出来たとも言えるが、日本人にとってこそ必見の作である。



3月13日 東京鯱光会で講演

 昨日は高校の同窓会で講演をした。
 会は旧愛知1中、旧名古屋市立第3高女、そしてその二つの後進に当る愛知県立旭丘高校の合同同窓会東京支部で、鯱光というのは名古屋城のシンボル金の鯱(しゃちほこ)にちなんでの名だ。

 その例会に講演を頼まれ、「旅人生ー『按摩西遊記』をめぐって」という題で1時間話した。参会者は約50名、8割が同期生で、3年次のクラスからは10名も来てくれた。名古屋の学校だが、東京近辺在住者は3分の1強おり、その3分の2が来てくれた計算になる。

 当然ながらみな同い年で、還暦を過ぎて3年である。何人かがスピーチで「夫馬君は色白の美少年だった」と言ってくれたが、半分ほどは40年ぶりに会う同期生諸君も昔は紅顔の少年少女たちだった。今や、2,3の例外を除くと、どこから見ても古びたじいさんばあさんである。

 その還暦のことを頭にふって、私は24歳以降1昨年61歳までの5つの大きな旅を直接素材に書いた小説に触れつつ、それは同時に38年間の時間の旅であり、人生の旅であったことを語った。

 ベトナム戦争中にサイゴンでひょっとしたら殺されたかも知れないこと、その後のインドの旅では食べ物から来る流行性肝炎で死にかけ傾眠症状の中で自分の過去をすべて走馬燈のごとく見た話、そして50代になってからも、五十肩でりんご3個が持てない体でベトナム再訪や青年時に欠落した西遊記の旅を実行したことなど、話はどんどん進んだ。

 私のそうした経歴や、そもそも作家になっていたこと自体を知らない人たちも多く、みな驚いたような顔で熱心に聞いてくれた。小説というとスリラーか渡辺淳一くらいしか読まないなぞという人も多く、中には「今日は色っぽい話を聞けるかと思ってきました」などと言う者までいたが、私の話はかなりのインパクトを与えたようだ。

 先週はたまたまこれも20年ぶりくらいに大学の同期生二人と会う機会があったが、こちらはさすがに文学部仏文科出身者なので、基本的認識に違和感はなかった。高校は名門校で世間的には相当の高学歴、高職歴だが、それだけに文学部出身者は殆どいないためか、感覚や知識、知性の方向が随分違う。

 私が、10年前まではほとんど原稿料だけの生活で、半年間1日8時間かけて全力投球した長編がボツ、つまり半年の労働対価がゼロということがある世界だった、50をすぎて思いがけず大学教師になり、生まれて初めてボーナスを貰ったときは不労所得かと思った、夏休み1回も学校へ行かないのに本当に月給が貰えるのか心配だった、などと話すと、「ホウー」とも「ヘエー」ともつかぬ声が期せずして漏れたりした。

 2次会も各テーブルをまわって楽しく歓談したが、誰一人名刺を出す者もなかったのが、変ったなあと思わせた。壮年期は同窓会と言えばまず名刺を出し合って互いの肩書を確かめる者が大半だったからだ。自分から名刺を渡そうとしなかったのは私など肩書のない者くらいだった。今や大半が定年退職済み、あるいはいわゆる第2の人生をゆるゆる開始中というところだから、もはや名刺は不要になったわけである。

 面白いものだ。これが40年の時の流れであり、人生の一つの相なのだろう。



3月10日 望郷の湯

 昨日は車で関越をすっ飛ばして温泉へ行って来た。
 久々の冬日で、書斎から赤城山や浅間、皇海連山などが雪白くきれいに見えたのと、このところ体の芯がどうも疲れていたからだ。

 こういうときは温泉に限る。それに春靄がかかると、凛とした雪山が見られなくなる。明日からは雨との天気予報でもある。暖冬の今年はひょっとしたら最後の機会かも知れない。そう思ったのだ。

 ウイークデイの高速道はトラックがやけに多かったが、群馬県に入ると一転、前後の車影もチラホラ程度になり、県境以降、視界前方には浅間、榛名、赤城、皇海などの山々が鮮やかに立ち浮び、目も心も本当に晴々とする。

 1時間半で着く赤城高原サービスエリア裏庭(ここは本当にオススメ場所だ)からは、純白の谷川岳、右手に武尊(ほたか)がたぶんぼくの知る限り一番美しい姿を見せている。

 ほど近い沼田インターを降りればロマンティック街道を10分で、「望郷の湯」である。
 公共の日帰り湯だが、施設・建物もふんだんに地元木材を使い実に豪華、レストランのそばやとろろ定食も味・値段ともほどよく、気持ちいい。全面ガラスの窓外には白い武尊がどっしり坐っている。

 湯がまたいい。無色透明無臭だが、ほんのちょっと熱めの中湯、ピンと頬が引き締まる露天湯と交互に入ると、心身がほんとにほぐれていく。眼前には光琳の紅白梅図そっくりの枝振りの老白梅が満開で、遠景は約200度ワイドにずーっと山、山、山である。

 湯を出て、100円の電動器械で全身マッサージをし、今度は別棟で農産物を見る。連れ合いはウドとか栃の実饅頭を、私は最近土を入れ替えたばかりのベランダの鉢用に「ショウジョウバカマ」なる花草を買う。

 崖や野に咲くもので、切れ長の葉が放射状に伸びた中央に白にやや紫の細い管状集合花が、一つだけ咲いている。花と葉、名の具合からたぶん「猩々袴」というのだろうと察した。花の印象が能や舞踊に出てくる猩々の頭(髪)に似ているのだ。

 帰って鉢植えすると、品よく上々の風情である。
 夜には嬉しいこともあったし、本当に久々のいい一日であった。



3月5日 春の日の徒労

 昨日は数日前から予定していた映画「太陽」(昭和天皇をモデルにしたもの)を見るつもりで、池袋の新文芸座へ出向いた。出不精、特に繁華街嫌いの私としては珍しい。が、先だって同じ館で見た「カポーティ」(作家トルーマン・カポーティがモデル)が面白かったせいもあって、かなり楽しみにして出た。

 ところが、猥雑な店やらよからぬ印象の人たちをぬって着いた映画館は、出し物が違っていた。「太陽」は1週間先だという。「えっ」と驚き連れ合いを見ると、「しまった、間違えたかあ」と言う。

 確認しなかったこちらも悪いが、しかし、まさか、だ。
 やむなく、北口へまわって、この頃中国人街化してきたというあたりを探し、「知音書店」を見つけて入った。

 1階入口前には中国人女性が中国語新聞を声を上げて売っており、二階は書店・CD屋と簡易食堂、4階は中国ものの食品スーパーだ。店内はどこも中国語ばかりである。

 なんだか、ニューヨークやロンドンの中国人街みたいな気分になり、4階で冷凍ドリアンはないかと探し回った。結局見つからず、代りに椰子ジュースやもろみ入り腐豆、高山茶、烏骨鶏のピータンなどを買った。

 荷は重くなったがまだ物足りなく、中国人街はもっとないかと界隈を歩きまわったが、だいぶ歩いても、以前、赤札堂界隈に確かあった中国ものスーパーが見つからない。知音食品が出来たためなくなってしまったのか、あるいは以前行ったのは夜だったため、街の印象が違って分らなかったのか。

 いずれにしてもすっかり草臥れ、徒労感だけが残った日曜日となった。
 ま、帰宅後、腐豆とピータン、買い置きの15年もの紹興酒での一杯、および入浴後の椰子ジュースはまずまず旨かったが。



2月28日 作家にとって無意味なことは何一つないか?

 このところ、年に1回とか3年ぶりのこととか雑事が相次いでいる。
 前者は確定申告、後者は車の車検更新、保険契約だ。

 確定申告は単純作業だが、なにしろ年に1回しかやらないから、パソコンを使っての領収書の集計自体にぎくしゃくと丸1日かかる。終ると妙に頭が疲れていてバタンと寝るが、熟睡は出来ず頭の中で相変らず計算が続いているごとき気分になるのは、つまるところ日頃と全く違う頭の使い方をしたからだろう。

 慣れぬ肉体労働をしたような、というと話は違うが、なんだか頭の肉体労働をした気分である。翌日午前、申告書を書き上げやっと終了すると、本当にホッとする。

 車検の方はさいわい車屋さんがとりに来、夕方(夜というべきか)届けてくれるので助かるが、付随して保険の更新話が出、これがわりあい厄介だ。相手が置いていった見積書とネットでちょっと見積もり試算をした値とが相当違うのである。

 わけは相応にあるのだろうが、そのディテールを考えたりしていると、これも日頃、というより今回は3年ぶりのことだから、また頭が妙に疲れる。

 要するに金にまつわることで、そう大した額でもないのだが、ちゃんと頭を働かせれば2年3年で何万かは違ってくるとなると、人の言いなりになったり怠けたりするのはやはり気分が悪い。で、今日はネットの見積もり試算をあれこれやり直したりしているうち、ちょっとしたミスやそのつど新しく気づくことが生じて、結局5時間ほどかかってしまった。慣れるとどうということはないことで、保険屋さんとか代理店の人なら30分もあれば済むことだろう。

 結局思うのは、自分が普段いかに計数というか経済的事柄にノータッチか、1年の大半を考えて過ごしている「いかにいい文章を書くか」「何か面白い小説のアイデアはないか」「近頃の世界と日本の不愉快さと怒り」の類はなんと非生産的なことどもか、という点だ。

 にもかかわらず、確定申告の最大難事は小説を生産する上での必要経費はどう計算するかであったのだから、問題は考えづらく草臥れる。

 かつて作家武田泰淳は「作家にとって無意味なことは何一つない」と言い、私も長らくそれを肯定してきたが、はたして必要経費の数値化や自動車保険の有効計算、それに要する労力や疲労感はどういう意味があるのだろうか?



2月23日 孤独を感じる割合

 もう10日ほど前のことになるが、読売新聞がユニセフ発表の「先進国に住む子供たちの幸福度」報告を載せていた。

 その中に、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合は、OECD加盟25カ国中29・8%とずば抜けてトップというのがあった。2位アイスランド10・3%、3位ポーランド8・4%だそうだ。

 また、「30歳になったとき、どんな仕事に就いているか」との問いには「非熟練労働への従事」と答えた日本の15歳はなんと50・3%で、やはりダントツ1位だったそうである。

 私はこれを読んでしばらくウーンと考え込んだ。「孤独」に関しては、自分も15歳ころ感じていた気がするし、あの年代としては3分の1がそう感じるのは当然ではと思う反面、しかし2位以下を3倍も引き離して圧倒的1位と言われると、日本の現状はどこかおかしいのではとも思う。

 30歳の職業予想が半分以上「非熟練労働」というのと合わせて考えると、今は食うに困らぬなかで、何やら薄曇り状ないし薄明かり状にベターっと続く、現代日本の曰く言い難い閉塞状況を示しているような気がする。

 実際多くの15歳にとって、自分の未来は一応大学に行くにせよ行かぬにせよどうせ大したことにはならず、もしかしたらニートかフリーターのまま30歳、これじゃ気のきいた恋人も結婚も出来そうになく、高校・大学の青春だって形だけだ。そんな思いが潜在的にあるのではないか。

 優秀組にしたって、まずまずの大学を出たってまずまずとされる定型的先行きがほぼ見えており、別に面白くも哀しくもない、怒りもなければ大きな楽しみもない。といったところなのだろうか。

 孤独はよほどの楽天家か恵まれた人以外は人間たいていあるし、まして多感な少年期はあってしかるべき、むしろそこからこそ思索も表現欲も社会への関心も生じるはずだ。なのに、孤独の先が「30歳で非熟練労働」となると、やはり哀しい。

 日本社会は、何か極めて根本的に大きな問題を生じさせているのではなかろうか。
 それがどういうものなのか、まだ明確な言葉になっていないところが歯がゆいし、むつかしい。



2月18日 三八市

 このところこの日記の更新日が三の日と八の日になっている。
 しばらく前から気がついていたのだが、意識的にそうしていたわけではないので、そのうちまた変ると思っていた。

 しかしまだ変らないので、何かの縁かと思い始めた。というのは、私の生まれ育った町愛知県一宮市には三八市というものがずっとあったからである。

 一宮はその名の通り尾張一宮のことで、市の中心に真清田神社がデンとあり、その参道をなす本町通りが最大の繁華街なのだが、そこに三の日と八の日に市が立ったそうだ。

 「そうだ」というのは、私が物心ついた頃には市は三八の日に限らず土日は毎週立っていたからだ。まだ戦後の匂いの残るいわゆる「ガチャ万時代」で、毛織や木綿織の小工場が市内いたるところ、それこそ農村地帯にも一目数軒は必ずある状態だった。その工場で豊田式織機を「ガチャ」と一度動かせば「1万円」儲かったというのだ。大卒の初任給が1万円いかない時代のことである。

 当時、「織物の町一宮」は人口7万人ながら経済力では全国10位以内とかで、市商工会議所会頭の豊島氏は全国高額所得者の7位だったりした。町を流れる大江川は染色の色で赤や青に染まって妙にきれいだったし、農村部も夜通し静寂というものはなかった。3交代制で15,6歳の女工さんたちが24時間操業したりしていたからだ。

 三八市も、戦中までは近在農民が野菜や農産品を売りに来る牧歌的な市だったらしいが、戦後のどさくさに一気に繊維製品の闇市化し、狭い本町の両側歩道に布を積み上げたテント露店がぎっしり連なり、道を歩くのも難しいほどだった。それでも通称は三八市のままだった。

 呼び込み、値切り合戦が名古屋弁で飛び交い、一宮人は俗称「一宮ガラス」と呼ばれ、小学生の子供でも修学旅行先のみやげ物屋で値切る、と言われたものだ。大人たちの挨拶言葉は「儲かっとりゃすかあ」だった。

 面白くもあったが、長じるにつれだんだん嫌悪感も増し、私は早くこの町を出たい、文化がない、なぞと思い始め(むろん理由はこのことだけではないが)、高校は名古屋へ出、高校卒と同時に上京、以後、盆暮れ以外はあまり帰郷しなくなって久しい。

 その幼少年時代の記憶が、わが日記の日付から蘇った。殆ど50年たっている。うーむ。



2月13日 入試第2回目 学事さまざま

 私立大の場合、2月は入試シーズンである。わが日芸も今日が映画学科の入試だった。先週は美術・音楽・放送学科であり、来週は写真・演劇、そして2週間後の27日が文芸とデザイン学科である。

 普段よりだいぶ早い時間から試験監督等にかり出されるし、全員が出校するチャンスにあれこれ会議も設定される。今日も学科会議、修士論文(制作)口頭試問、教授会、大学院分科会、研究委員会、と目白押しだった。

 それぞれはそんなに長くないのだが、4時頃全部が終ったときにはさすがに草臥れていた。しかし、中にはまだ会議があるという人もいたし、映画学科の先生たちはまだ採点等をしていたかもしれないから、私なぞましな方かもしれない。

 そうそう、明後日は大学院入試の日である。これも受験者数からいって時間的にはそう大したことではないのだが、気骨は折れる。

 早く春休みが来ぬか。心を集中させて小説を書きたい。



2月8日 梅に昼酒

 今日は所用で大泉学園駅へ行ったついでに、石神井公園へ寄った。
 30前後のころ数年間練馬に住んでいた当時、よく石神井公園を散歩したのが懐かしかったからだ。

 ぶらぶら歩いていくと、陽のあたる側はぽかぽかとまことに気持よく、梅がほぼ満開である。紅梅も多いし、白梅もかぐわしい。池には釣り人が静かに糸を垂れている。

 奥の三宝寺池に行くと、鳥が多く、人間は今度はバード・ウオッチャーになる。何鳥なのか赤みを帯びた小鳥が来ると、一斉にサッと砲列のごとくカメラを構え、飛び去ると吐息と共に砲列が崩れる。

 私は近くに在住のはずの同僚Y教授を電話で呼び出し、池脇の東屋で一杯飲むことにした。陽当たりのいい屋外でおでんにビールで始めると、実にいい気分だ。おでんは特にうまいわけではないが、額が汗ばむほどの暖かさのせいでビールがうまい。

 1本のつもりがつい2本、3本となり、つまみも団子に柿の種と広がり、飲み物はいつしか燗酒へと進む。間に二人ともトイレへしばしば通ったのは、ビールのせいの他、やはり屋外ゆえの冷えは相応にあったのかもしれない。

 気がつくと3時半で、さすがに空気が冷たくなった。暖かい時間というのは案外短いものだ。切り上げ、Y教授の案内で石神井城址と氷川神社へ行く。氷川神社が摂社が多く中々いい。

 主殿に向って左側は北野神社、伏見神社など関西の神社ばかり4社で、右側は浅間神社、御岳神社など山岳系ばかり4社だ。なぜだろう。

 ここにも梅の古木が、きれいに、枝振りもよく咲いているのに、天神様がないのがフシギだった。梅はやはり天神さんじゃないかしら。

 とこう昨夜書き、今朝ふと気づいた。北野神社とはたしかもとは北野天満宮、つまり天神様の京都本舗ではないかと。いやあ、情けなし。私は太宰府天満宮とか、湯島天神とかばかりを思っていた。



2月3日 卒論面接終る

 昨日は午後4時間をかけて口頭試問(面接)が全部終った。
 えらく緊張して大声で喋る者、どういうわけかドレスアップして現れる者、帽子をかぶったままの者などいろいろだ。

 中で一番驚いたのは最後の者がいつまでたっても現れず、事務から電話で探してもらったところ、あと20分で着くと言っているというのだった。
 結局、計30分遅れで真っ青になってやって来た当人曰く、「忘れてました!」。

 卒論面接は今年で15回目の体験だが、こういうことは初めてである。書いた自称「論文」も、基本ルールとして条件付けられている目次もなければノンブルもなし、引用文献参考文献の明示もなし、内容も明らかにどこかの本から引き写してきただけみたいなものだ。

 どうしようか、副査の小嵐九八郎さんと顔を見合わせたが、学生当人は蒼白な顔で「申し訳ありません、申し訳ありません」と頭を机に打ちつけんばかりである。小説で出すつもりだったがどうしてもうまく書けず、間近になって論文に切替えたためという。

 日頃から人柄は悪くない学生だし、就職も決まっている。うーむ、どうするか……。

 溜息半分、とにかく何とか終えはした。
 そして、これで在学生用の日程は卒業式を除いて全部終りではある。ホッとして熟睡した。



1月28日 新彊ウイグル自治区での虐殺に抗議する

 昨日今日と朝日新聞に気になる記事が出た。昨1月27日(土)夕刊には「ウイグル独立願う」世界ウイグル会議事務局長ドルクン・エイサさん来日、の記事。今日28日(日)は外電欄下の方のコラムに「イスラムに配慮、豚のCMを禁止」記事内に、下記のような一項があった。

 ──新彊ウイグル自治区では、中国からの独立を目指すイスラム系グループが活動。中国当局は今年初めにグループの拠点を襲撃しメンバー18人を射殺するなど対決姿勢を強めている。

 驚いてネットで調べてみると、すでに1月8日に朝日で報道されていたようで、ウイグル自治区の首都ウルムチで1月5日中国公安(警察)が「東トルキスタン独立運動」基地を襲撃、18名を殺害、17名を逮捕、手投げ弾多数を押収。公安側も1名死亡、1名負傷、ということだった。

 このやり方だと、おそらくスパイ等による事前情報に基づき、明らかに武装部隊がウムをいわさず撃ちまくって虐殺、した気配が読みとれる。

 ウーン、やっぱりか、という思いがつのる。
 私は1昨年訪れた新彊ウイグル地区への旅を素材に昨年出した小説集『按摩西遊記』で、「ウイグル、独立(ドゥーリー)」にまつわるエピソードを少しだけ書いたが、実際はこの旅の間も終始気になっていたことがあった。

 それは私が副委員長をしているペンクラブWiP(獄中作家)委員会でずっと前から扱ってきたいわゆる「トフティー問題」である。

 これは東大史学科への留学生であったウイグル人研究者トフティーさんが、9年前だったか、一時帰国中の北京の図書館で東トルキスタン国(かつて一時期成立したことがある)に関する歴史資料をコピーしていたところを逮捕され、日本において東トルキスタン民族史を出版しようと図ったとして、国家叛逆罪、機密漏洩罪などの罪状で懲役11年を宣告された件である。

 これには東大当局やペンクラブWiP委が抗議、釈放要求をするなどしてきたが、事態は改善せず、トフティーさんはそのままウルムチの刑務所にずっと収監されたままだった(昨年段階ですでに9年)。

 私がウイグル自治区やウルムチを訪れたときも当然彼はウルムチの刑務所にいたわけで、東大の先生たちはかつて遠路、刑務所まで面会や差し入れに行っていたこともあり、私も気にはなり続けたが、何か具体的行動をしたら以後ずっと行動を監視されたり、行動の自由を奪われたりしかねない心配があった。

 この時の旅はあくまで私にとって青年期以来の願望を果たす個人的なものであったから、私はそれを阻害するようなことは出来るだけ避けることにしたのだった。

 ところが、今回来日していた(正確には実は昨年11月である。今年になって今回記事になったのは、虐殺事件が起きたため改めて焦点が当ったと思われる)エイサさんは、かつて大学を除籍処分後、北京で「民族史を地下出版した」として96年に亡命を余儀なくされた、というのである。

 96年といえばトフティーさん事件と極めて近接しているし、民族史関係の出版というのも同じだ。

 エイサさんは亡命し、その後ドイツを拠点に平和裡に独立運動を続けているわけだが、今度の虐殺がそういう活動への中国政府の反応だとするなら、過剰にして暴力的弾圧と言わざるを得ない。

 私たち委員会は、昨年トフティーさん問題を少し検討したとき、刑期11年中すでに9年たったのだからぼつぼつ保釈の時期ではないか、とするなら下手に動いてかえって釈放が遠のいては当人に申し訳ない、しばらくは静観しよう、となったのだったが、今回の荒っぽいやり方を思うにつけ、彼の身が心配になる。

 何か行動すべきか、それともやはり静観すべきか。何より判断材料が殆どないのが一番困る。

 中国がかくもウイグル独立を警戒するのは、一つは中華帝国主義的大国志向、もう一つは石油のゆえであろう。ウイグル自治区は石油産出量が増大しており、埋蔵量は今後の中国経済を支える最重要資源といわれている。

 1昨年の旅で、私はタリム盆地周辺の石油基地とたいていそのほど近くにある軍の基地を見るたび、これじゃ中国は絶対ウイグルを手放すまい、独立は殆ど不可能、と感じたが、それにしても今度のやり口は強圧的に過ぎないか。怒りを禁じ得ない。



1月23日 書く楽しみ

 このところ時間を盗んで、「季刊文科」に連作中の〈南島シリーズ〉6を書いている。
 昨年は編集長格の大河内昭爾さんがかなりの大手術をされ、雑誌の先行きも危ぶまれたが、術後がまずまずらしく、こちらにも次作の締切り通知が来たのだ。

 ふつう、締切りは憂鬱なもので、なければいいと思ったり、締切りがいよいよ近づかないと中々書く気にならないものだが、今回のような事情だとなんだか嬉しいことに思えてくるからフシギだ。

 読まなければならぬ学校の卒論・卒制が大量にあるため、どうせ今日で中断せざるをえないのだが、だからこそ方向性のメドだけはつけておこうと書き出した。

 他人のものを読むのと違って、自分のものを書くのはやはり充実感がある。緊張し、疲れ、苛立ちもあるのだが、しかしこれぞ本業だという満足感に、近頃では楽しさも少し加わってきた。

 以前は、書くことはもっぱら苦しみが殆ど、まあ充実感だけはあるが、という感じだったのに、「楽しい」と感じだしたのは大変化だ。書く場所があまりないからとか、不愉快なチェックや校閲がないシステムだから、枚数が少なく所詮さほど疲れないからなど、いくつか理由があるが、ひょっとしたらそれに歳をとったことも付け加わるかもしれない。

 もう原稿料がどう、人や世の反応がどうなぞはろくに気にならず、マイペースで書いていけさえすればいい、あと何年それが出来るかな、といった気持の方が強いのである。

 なぞと書くと、我ながら何やら爺むさく見えるが、そう歳とったという意味でもない。この頃は体調もよく、結構若い気分なのだが、しかしまあ世の情勢と己の能力、客観的時間、それらを見ると、冷静に今を感じておこうという次第なのだ。

 昔、ヒッピー時代標語にしていた「Be,Here,Now」という言葉を思い出す。



1月18日 卒論・卒制1300枚

 先週木曜が4年生の卒論提出日で、2日後、宅配便でドサッと私のゼミ分が送られてきた。

 ざっと表紙だけ見てみると、8割が卒制(卒業制作)、2割が卒論。卒制はほぼ全部が小説で(ルールとしてはノンフィクションや長編エッセイ、戯曲等も可)、副論30枚がつく。

 最短規定50枚ぎりぎりのものから中には300枚の大作まである。結局、副論込みで平均一人100枚といったところか。ほぼ例年通りだが、提出者は13人いるから総計1300枚となり、書斎に置くとちょっとした小山になる。

 これを2月2日の面接(口頭試問)までに読み、講評を書くわけである。新人賞の選考とかなら、ダメなものといいものを振り分けさえすればいいわけだから、場合によっては5,6枚読んでポイと捨てることも可能だが、卒制はそうはいかない。どんな出来の悪いものでもとにかく最後まで読み、細部をチェックし、面接で糺し、あとあとまで残る講評を書かねばならない。

 卒論・卒制は建前としては永久保存であり、近頃はめったにないが結婚や就職の際の調査対象にもなりうるから、評価・講評もいい加減にはできない。

 で、1300枚の山を片目に何となく気鬱なわけだが、しかし毎年のことでもあるので、面接1週間前に照準を合わせてまずはゆるゆる開始となる。むろん、2年間受持った誰がどんなものを書いたか、出来はどうか、という楽しみもある。

 私のゼミからはこれまで10数年、毎回学部長賞(上位数名)を出してきたが、さて今年はどうなるか。



1月13日 バラバラ死体

 このところ異様な事件が頻発している。
 一つは浪人生の兄による妹殺し、もう一つは若い妻による夫殺し。

 異様なバラバラ死体はかつての酒鬼薔薇聖斗事件以来かなりあったし、親が子を殺すとか子が親を殺す事件の類もかなりあって、もうこの頃では珍しくもなくなったが、今回の二つは初報道以来、「なぜ」「何があったのか」の疑問や謎がつきまとった。

 私は猟奇事件だのミステリー的謎には殆ど関心が湧かぬ方だが、今回はそういうものとはちがう何か、を感じるからだ。

 前者は3浪もしている鬱屈した兄が、ある意味ではちゃらちゃらして見える派手やかな妹に感じた憎しみ、は理解出来る気もする。また後者も、最初に被害者の顔写真がテレビにアップで映し出されたとき、冷たい目だな、どこか酷薄な顔だなと感じたことから、その後、妻の方が相当のドメスティック・バイオレンスを受けていたことが分るにつれ、彼女の憎しみも分る気がする。

 しかし、だからといって、それがああいう行為にはすぐ結びつかない。乳房や性器部分を切り取った行為は、痴情関係ならともあれ兄妹の間ではかなり不可思議だし、後者の妻がバラバラ死体をわざと発見されやすい街なかに捨てたことも不可思議だ。

 後者の場合、どこか山中かせめてどこぞの空地の茂みにでも隠せば中々見つからなかったろうし、大きな社会的関心から大捜査陣がしかれることもなかったのではないか。

 それをタクシーで行きポイと捨てたというところが、言葉を失う。前者も娘のバラバラ死体から腐臭が漂っているのに、家族が気がつきもしなかったのがやはりフシギだ。

 そして、共通していること。前者の歯科医の家の立派さ(鉄筋4階建てくらいか)、ほんとかどうか一部報道されている後者被害者の年収の多さ(30そこそこで数千万とかそれ以上とか)。

 12月の日記「市場原理主義への疑問」で私は、要するに貧富の差が増大し、牧歌的共同社会がなくなってきたことを書いたが、今回は市場原理主義問題はともかくとして、何やら軽佻な金持ぶりの背後に潜む心の浅さ・寒さを感じざるを得ない。

 あの歯科医一家の価値観、あのニューリッチ夫婦の価値観をこそ、マスコミはきちんと調べ、掘り下げ、社会全体に提示してほしい。



1月8日 娘夫妻来る

 昨夕、娘が年賀と私の誕生祝いを兼ねてと称してやって来た。誕生日はもう1ヶ月以上前だし、年賀も松の内明けとはかなり遅い。

 が、まあ、久しぶりだからとにかく嬉しい。婿殿には、不分明な記憶ではひょっとしたら1年ぶり近い。すぐ隣の駅に済んでいるのに、通常の休日態勢とはちがう勤務の忙しい仕事のせいだ。

 二人とも元気で、私が3時に買い出しに行き、準備したすき焼きを5時過ぎから食べ始め、ぺろりとたいらげた。丁度買い置きしてあった「越乃寒梅」もグラス1杯づつ大事そうに飲み、婿殿は早くも酔って食後居眠りとなった。彼はまったく飲めない体質なのだ。

 娘は少しは飲める、というか体質的には私に似てかなり飲めるはずだが、夫と一緒にはめったに飲まないらしい。もっぱら食べた。

 彼女は毎週日曜に韓国語を習っているそうで、いずれ韓国駐在にでもなりたいらしい。勤務先が韓国に支店を出すし、婿殿の方が先々韓国勤務になる可能性もいくらかあるみたいだ。

 後者の場合、自分の仕事はどうするのだと聞くと、そりゃ辞める、そうだ。もっと執着があるのかと思っていたから、少々意外である。6年前の大学卒業時、私がその就職先をあまり気に入らないと言うと、不満そうな顔をしていたのが思い出される。

 子供の時から親がインドなど外国の話をよくするので、やがては自分もと思い続けていたのかもしれない。大学ではESSにおり、英語はかなりうまい。
 韓国でもいいし、東南アジアのどこかでもいいのではないか。



2007年1月3日 今年もよろしく 沖縄報告を少し

 恒例の南島旅行から昨夕帰ってきました。皆さん、新年おめでとうございます。

 今回は久米島、座間味島に2泊づつ、そして前後に沖縄本島の那覇に泊った。

 久米島は30代の頃何年も飲んだ好きな泡盛「久米仙」の生産地であり、琉球では大きい島だが、今回はそれより元中国人街として知られる那覇市久米と何か縁はないかとの興味が一番あった。

 レンタカーで神社やお堂、歴史記念物の類を軒並み見てまわり、土地の人にもあれこれ話を聞いたところ、中国からの冊封使の中継地であり「天后宮」があるなど、縁は確かに深いが、中国人が多く住んだ痕跡には巡り会わなかった。

 それよりこんな島にも戦時中、空襲があり、かなりの家が焼けた話の方が意外だった。

 座間味島は去年訪れた隣の渡嘉敷島と並んで、人も知る集団自決の島だ。1945年3月26日、一斉に上陸してきた米軍と民間人たる島民も死力を尽くして戦い、衆寡かなわず、いくつかの壕に逃げ込んだ末、「生きて虜囚の辱めを受けぬ」ためカミソリや棍棒などで家族同士殺し合い、多数が自決したのである。

 当時14才の少年軍属だったという人から話を聞いたが、いまだに生々しく言葉を失う内容だった。

 那覇に戻っての最後の日、旧海軍司令部壕を訪ねたが、ここでもまた4千人余が自決を含め全滅、前後3ヶ月の沖縄戦では軍人民間人合わせ結局20万人余が死んだのである。ひんやりする地下壕を経巡っていると、その怨霊がこもっているようで、涙が出てくる。

 そのせいかどうか、私は壕から出てしばらくどうも目の具合がおかしく、確かめたら左目にものもらいが出来ていた。偶然なのだろうが、ひょっとしたら簡単には忘れるなよとの怨霊の意志かもしれぬ。

 沖縄はいつ行っても海がきれいで、ことに離島のビーチは地上で最も美しい光景の一つと思えるが、そういう地に限ってこんな歴史が重なるのが何とも言えない。
 この世と人間とは妙なものだ。