風人日記 第二十二章
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伸びろドリアン
  2007年7月2日〜


7月2日付のドリアンの写真を載せてきたが、あれから約2ヶ月、
だいぶ大きくなったので、新しい写真に差し替えた。歯の裏はグミの葉に似ている。
20メートルの大樹に伸び、大きな実が生るのはいつの日かしら。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


BurmaInfo & ビルマ民主の声

 この間のミャンマー情勢をめぐる情報のまとめが的確に出ています。

  http://www.burmainfo.org/politics/88GSG_200708.html

 その中に「川に捨てられた僧侶の写真」もあります。正視に耐えませんが、一つの現実です。
 合わせて 「Democratic Voice of Burma」 も御覧下さい。ミャンマー語サイトですが、映像(ビデオ映像)が豊富なので、実態がよく分ります。



「江古田文学」59号(日藝文芸科8月初旬刊) 特集:谷崎潤一郎

   「大(おお)谷崎の中(ちゅう) (エッセイ43枚)

 私にしては珍しい日本作家論。谷崎好きなのだ。他に秦恒平、宮内勝典、小嵐九八郎、尾高修也、山内淳、伊藤氏貴氏らが執筆。池袋などの大手書店で市販。



「季刊文科」37号(鳥影社。1000円)

    「植民島2」(連作・南島シリーズの6)

 大手書店にあり。  http://www.choeisha.com/kikanbunka.htm

 34号聖俗島、36号「植民島」


発売中:『按摩西遊記』(講談社、1800円)

                 

 大型書店中心の配本。アマゾンで送料無料なので、こっちが便利かも。
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062134470/249-5398224-6034725?v=glance&n=465392





10月16日 信州の新そば

 昨日おとといと所用で信州に行っていた。上田から車で安曇野、大町へ。
 穂高温泉で一泊し、翌日は更埴、上田、小諸とまわって佐久から新幹線で帰った。

 所用関係を別にすれば、上田郊外で食べた新そばが抜群にうまくて印象に残った。
 実は前日、大町からかなり山の方に入った通称そばの里で新そばを食べようとしたのだが、そば屋はもちろんふだんの民宿までが軒並み「手打ち新そば」の旗を出しているものの、どこも客がずらりと並び3,40分待ちは軽そうなので、イライラして諦めたのだ。

 で、土地の人に教えられ、案内付きで畑の中の一軒家「かみしな」という店へ行ったのだが、「くるみそば」がまさに逸品だった。たっぷりの量の新そばがよく冷えてピッと腰があり、胡桃あんをタレに溶かして啜り込むと、一口ごとに嘆声を上げたくなるほどうまいのである。

 胡桃そばという食べ方自体が初めてだったので、そのせいもいくらかはあるが、基本的にはそばがいいのだ。前日以来、あちこちに「新そば」「新そば」と旗やビラがある理由がよく分った。この頃ブームでとみに増えた信州そばの獲りたてはたしかにうまい。

 おまけに横が林檎畑で、そこで採れたらしいりんごがデザートに出たのも嬉しかった。サクサクして、ああ、信州りんご、という感じ。そばとりんごは合いますね。

 連れ合いが足指を骨折しているなかでの、かなり忙しい旅だったが、腹くちれば文句なし、温泉の湯もよかったし、暑かったミャンマーとは違う日本の良さを改めて満喫した。



10月11日夜 ミャンマー問題に関するペンクラブ声明 

 だいぶ遅ればせになったが、今日午後になってペンクラブ事務局から以下のような声明を本日、内外の関連機関、報道関係に送信した旨連絡があった。
 文面ともども、いささか現実の方が先行している感がある上、果してどれほどの効用があろうかと虚しい気分も生じるが、しかし外つ国の物書きなぞはこれくらいしかできぬのかもしれない。
 ともあれ、和英両文をここにも記します。


「ミャンマー政府による新たな言論弾圧、日本人ジャーナリストの殺害、僧侶、市民の拘束に抗議し、言論の自由の回復を求める声明」

 われわれ日本ペンクラブは、平和を希求し、言論表現の自由と人権を守る立場から、国際ペン憲章にも反したミャンマー政府の長年にわたる言論の自由への弾圧に対し、獄中作家委員会の活動を通じて抗議し、アウン・サン・スーチー女史や政治犯の拘束を解くよう求めてきた。
 今日平和的な人々の意見表明の高まりのなかで、ミャンマー政府が新たな大規模な弾圧・暴力を引き起こし、兵士が、取材活動を行っていた日本のジャーナリストを殺害し、日本のメディアの現地関係者を連行・拘束するとともに、多くの僧侶・市民を連行・拘束したことに対し、日本ペンクラブは非常に強い憤りを感じる。
 日本ペンクラブは、ミャンマー政府に対して一刻も早く軍隊による現在の暴力状況を終わらせ、長年厳しく制限されている言論の自由を回復し、アウン・サン・スーチー女史や全ての政治犯の釈放を行うよう求める。
  日本ペンクラブは、武力ではなく建設的な対話により民主化にむかおうとしているミャンマーの人々に連帯を表明し、また日本政府を含む国際社会が、ミャンマー政府に対し、現在拘束されている人々の釈放と、言論の自由に基づく民主化の推進をするよう求めることを要望する。

2007年10月9日

社団法人 日本ペンクラブ
会長 阿刀田高

"Japan P.E.N.'s statement in protest of the suppression of monks and citizens by the government of Myanmar"

 Under the P.E.N. Charter which seeks to promote peace, protection of freedom of expression and defense of human rights, we, the Japan P.E.N. Club have continuously made protests to the Myanmar government through the activities of the Writers in Prison Committee concerning the suppression of free speech for many years, and we have requested an end to the restraint of Ms Aung San Suu Kyi and other political activists.

 The Japan P.E.N. Club expresses its very strong objection to the Myanmar   government with regard to the following: further large-scale crackdowns
using violence, the murder of a Japanese journalist by a government soldier
while covering the protests, and the detention by police of large numbers
of people including local employees of Japanese media companies, monks and
citizens during the recent orderly demonstration by peace-loving people.

 We call upon the government of Myanmar to halt the violence by the military, to restore freedom of expression, which has been restricted over many years, and to end the torture and ill treatment of political detainees, and release them immediately and unconditionally.

 The Japan P.E.N. Club declares its unity with the people of Myanmar who are working to democratize their country through constructive dialogue and not violence, and calls upon the International Community to take every possible means to support this movement to release people in detention, and even more importantly, to promote democracy based on freedom of expression in Myanmar.

Tokyo, October 9th, 2007

Takashi Atouda
President
The Japan P.E.N. Club
The Japanese Center of International P.E.N.



10月11日 ちょっとホッとした ミャンマーの良心

 今朝の朝日新聞7面外電欄に嬉しい記事が出ていた。

 「ミャンマー 弾圧拒否の兵400人拘束」
 内容は、一連の反政府デモ中、軍事政権のデモ弾圧の命令に指揮官5人が従わず、命令を拒否して部隊を展開しなかった。また、第2の都市マンダレー近くの部隊では、約400人が僧侶の前に銃を置き、許しを請うた、というのだ。

 しばらく前には、やはり命令拒否の陸軍少佐が息子を連れてタイへ亡命、という報道もあったし、昨日は、在イギリスのミャンマー大使館外交官が、軍事政権の僧侶デモ鎮圧ぶりに抗議して辞任、の記事もあった。

 やはり良心派は軍や政府側にもいた、の思いが強い。軍法会議や、亡命、職を賭す、というのはよほどの決意だろうし、そこまでは踏み切れないが似た思いの人はその数倍はいたろうと思える。

 ひょっとしたらそのうち軍内部、政府内部で亀裂が起り、タン・シュエ独裁軍事政権も崩壊の可能性ありの信号かもしれない。

 国連安保理の非難決議も結局中国ロシアの反対で不発に終りそうだし、ASEANなど近隣諸国は制裁せず路線らしいし、あの国では軍内部の分裂以外ことは好転しそうにないと思えるので、私はそれに強く期待する。



10月9日 沈黙こそが……

 ミャンマー情勢に関して、この頃は国連の動き、長井さんをめぐっての日本政府やマスコミの動きはかなりあるが、肝心のミャンマー市民やデモ側の動きは何も伝わらない。

 長井さんの死体や国外のビルマ人サイト等によるデモ僧侶の死体写真はしょっちゅう目にするが、あの何万人もいたデモ市民や僧侶、そしてその背後の何百万人たちの動向や考えはまるで分らない。

 中心層はみな刑務所やその種の施設に閉じこめられているのか、あるいはとにかく軍政による圧殺ぶりが恐くてひたすら沈黙しているのか。

 おそらくその双方なのだろう。そして息をこらしてわずかな隙間から国内情勢、諸外国のミャンマーへの動きを見つめているのだろう。

 国際的には国連安保理でミャンマー非難決議くらいは出そうな様子だが(今までは中国ロシアの反対でそれすら出来なかった)、それがどんな実効を持つかは分らない。アメリカなぞでも、制裁一本槍より援助と引き替えに少しづつ民主化影響力を強めた方が得策では、といった声も出始めているらしい。

 ミャンマー国民の生活は世界最貧国のそれだから、軍政を締め上げるための経済制裁等は即、国民の生活を締め上げることにもなるから、巧みな援助こそベターというのも一理あるが、しかし太陽政策が必ずしも成功するか否かは北朝鮮の例を見ていてもよく分らない。

 太るのが一握りの軍政関係者と御用商人だけではもとより意味をなさない。しかし、私のわずかな見聞でも、乾燥地バガン(世界三大仏蹟地)などでの日本のODAによる砂漠化抑止のための植林援助の好評ぶりなどを考えると、全く打ち切るより継続した方がいい面も感じざるを得ないし、だが、軍政はそれを自分たちの手柄、利益に結びつけるのも事実だ。

 矛盾は殆ど堂々めぐりで、どうすべきかの確信はたぶん誰にも持てまい。
 そして、こちらも沈黙しがちになり、ミャンマー人たちの沈黙が更に深まる。

 人間への苛立ちと、虚無感が忍び寄り、私なども、ええーい、何もかも忘れて温泉にでもつかりたい、なんぞ面白い小説を読みたい、と呟き出してしまう。

 だが、温泉につかっても多分ミャンマー人たちの顔がちらつくだろうし、小説といっても、戦時中に芦屋の優雅な女姉妹たちの暮らしぶりを悠然と描いた谷崎潤一郎の「細雪」みたいなものを読む気にはどうもなれない。では、いっそミャンマーの小説はどうだろうと思っても、今のところ日本で翻訳で読めるものには率直なところこれというものがない。

 9月27,8日頃からペンクラブで抗議文、声明文をと提案し、多少動き出したはずのことどもも、どういう訳かまだ形になっていない。間に色んな人が入るし、休日もあるし、国際情勢はどんどん動くしで、何ごともこんなふうになるのかもしれない。
 
 うーむ、秋風ばかりが急速に身にしむようになった……。



10月4日 皆さん、BurmaInfoを御覧下さい

 この間のミャンマー情勢をめぐる情報のまとめが的確に出ています。

  http://www.burmainfo.org/politics/88GSG_200708.html

 その中に「川に捨てられた僧侶の写真」もあります。正視に耐えませんが、一つの現実です。
 合わせて「Democratic Voice of Burma」も御覧下さい。ミャンマー語サイトですが、映像(ビデオ映像)が豊富なので、実態がよく分ります。長井さんが撃たれるシーン、私服警官(特務兵士?)が市民を暴力的に逮捕していくシーンなどがあります。



10月3日 虚しく、諦めが、しかし、……

 ミャンマー情勢は、国連事務総長特使、日本外務省特使、ASEANの動き、欧米各国の非難と相次ぎ、いずれも「武力行使をやめること、逮捕者・政治犯の釈放」をミャンマー軍事政権、独裁者タン・シュエに要求したが、具体的成果はない。

 武力行使はやめるも何も、すでに完全鎮圧されてデモの影もないし、逮捕者・政治犯は釈放どころか、伝えられるところでは、僧侶4000人が僧衣を脱がされ北部国境近くの刑務所に移送されるかされたという話だし、一部はヤンゴン市内の刑務所に収監され、早くも「懲役6年」の刑が宣告されたという。

 一体どういうことか。ちゃんとした裁判なぞ全くないということであり、敬虔な仏教国、僧に対する尊敬といったこともまるで感じられない。
 タン・シュエは国連のガンバリ特使に対してすらすぐには会わず、一日待たせヤンゴンと2往復させてやっと会ったようだし、「事態はすでに終っている。平穏である」という軍事政権の見解はある意味ではその通りだ。手も足も出ないのである。

 私はせめてもと思って、ペンクラブで抗議文や要請文を出すよう働きかけてきたが、何もせぬうちに勝負はあった感じだ。国連等は素早かったし、力もあるはずだが、それでも何ともならないし、日本政府も珍しくかなり積極的な言動をしているが、しかしそれも日本人ジャーナリストの死に対してだけで、ミャンマー人逮捕者や政治犯への行動は殆どない。

 ミャンマーへの旅や在日ビルマ人からの話などで少し知った実態は、あの国が恐るべき密告・スパイ社会であり、逮捕・拘束者には、思うだに辛くなる拷問や過酷・劣悪な収容所暮しがあるという。

 私はわずかな知り合いの顔を浮べては、彼らがそういう目に遭わないよう祈るばかりだ。連絡もメール等が遮断されているらしくままならぬし、出来たとしてうっかり外国人からメールがいったりすればどんな悪影響が出るやもしれぬと思うと、何も出来ない。

 息をこらして色んな報道・情報に注意し、何か良策はないものかと思いあぐねる……。

 昨夜見たテレビ番組では、ミャンマー東部国境のカレン族地帯の窮状も目を覆った。10数万人がミャンマー軍事政府軍に家を焼かれ、集落ごと潰され、地雷の埋められた山野をさまよっているのである。

 カレン解放戦線がいまだに根強く闘い続けている理由もよく分った。
 日本政府はせめても、あの国からの政治難民を間口を拡げて受け容れるべきだろう。そして、国民や仏教団体は物心両面の積極支援を民主化運動側に与えるべきである。



9月29日 すでに一斉射撃、死者は200人以上か

 下の昨日の記述に、死者は公式で10名、たぶん実数は数倍、一斉射撃はまだしていない模様、と書いたが、どうやら違っていた。

 世界中にネット網を張っている在外ビルマ人団体の信頼すべき情報によると、軍隊は少数民族との戦闘に従事してきた精鋭部隊が投入され、市民に見えにくい形で一斉射撃も行った。

 また、各地で僧院を夜中から早朝に襲撃、僧侶の一部は投石等で抵抗、相当の流血があり、死者も一部で出た可能性あり。

 これらによる死者は市民を中心に200名以上、拘束者市民約700名、僧侶約700名、とのことだ。在ミャンマーオーストラリア大使の情報でも、死者は公式発表の少なくとも5倍、というから、いずれにしても相当量である。

 もう、危惧の段階からはっきり抗議の段階であろう。私も昨日、属するペンクラブ獄中作家・人権委員会に抗議文を出す提案をしたし、今日となってはもっと上の段階、つまり日本ペンクラブ総体としてミャンマー政府への抗議・謝罪要求をすべきではと考えている(問題は今日から土曜日曜なのでスムーズに事を進めにくい点があるが)。

 もとより一ボランティア団体の一片の抗議が、あの輩に有効性を持つ可能性は極めて低いが、しかし他に手だてもないのが事実である。一番はなんといっても日本政府、各国政府(特に中国政府)が、援助を差し止める、国連やASEANで譴責、場合によっては資格停止にする、などの具体的制裁をすることだ。それらへの要請文も合わせて送るべきかもしれない。



9月28日 ミャンマーは一体どうなるのか……

 悲しく辛くて、ろくにことばが出てこない。わずかな期間だったが、私が直前に訪れたあの国の印象は、実に穏やかで優しい人たちで、場慣れた市場の商人たちですら、値段交渉をすると、最後にはたいてい向うが引いてしまう感じだった。

 軍事政権に対する不満は相当鬱積していたが、といって体を張って行動するとはとても思えない、今年73歳のタン・シュエ議長が早く歳をとって自然引退してくれないか、といった雰囲気の方が強かった。坊さんたちはただ黙々と托鉢し、ごはんを鉢いっぱい食べている印象だった。

 それが、坊さんたちが先頭に立ち、市民何万人もが街頭に繰り出す。
 瞠目し、しかし、大丈夫かな、特権と武器・組織を持ち、権力意識の強そうな、どこか陰気な軍が黙っているはずがない、武力行使となったらひとたまりもあるまい、と危惧していたが、ほぼその通りになってきた。

 昨日現在伝えられる死者数は10名前後だが、おそらく実態はもっとずっと多いのではないか。1988年の際の公式発表(そもそもなかった?)と実数の違いなどは3倍から5倍あったと言われている。

 テレビ画面から推測すると、まだ一斉射撃とまではいっていないようだから、いくらか希望的観測を持ちうるが、しかしどのみち何ごとも明らかにせず、秘密裏に運ぶ軍政の体質だ。死者はさほどでなくても、拘束した僧や市民たちには過酷な拷問が待っているのではと心配である。

 かくなる上は国連を先頭に国際的圧力しかあるまい。このことに関してだけはブッシュにすら頑張ってもらいたい。日本政府はかねがねミャンマーへ多額のODA援助をしてきたのだから、それを背景に「暴虐はやめよ、市民に歩み寄れ」と強く申し入れるべきだろう。金を出すなら口も出すべきだ。日本人は金だけ出して現体制維持、長いものに巻かれろ、的な悪い癖がある。福田政権はきちんとものを言え。

 さなくば、追いつめられた僧、市民の側から、更なる悲しい行動が起きるかもしれない。
 僧による焼身自殺、市民によるナニカ……。
 そのナニカが何であるかは分らないが、ただ、ひどく悲しいことのような気がする……。



9月24日 田村志津枝『李香蘭の恋人 キネマと戦争』(筑摩書房 9月25日発売)

 わが連れ合いの新刊書である。
 長年、台湾関係の本を書いてきた当人が、前回は『若山牧水 さびしかなし』(晶文社)という純粋日本の書を出しノンフィクション作家としての間口を拡げたが、今回は台湾から満州・上海へと舞台と時代を大きく拡げた。

 李香蘭とは言わずとしれた旧満映の看板スター、いや、満映のみならず日本の東宝、上海の中華電影公司のスター女優でもあり、戦前戦中の日本、中国、台湾などで広く知られた存在だ。
 日本語の出来る中国人美女、歌もうまく、日中というかいわゆる大東亜共栄圏の象徴的歌姫、というイメージでもあった。

 だから、敗戦時、上海でいわゆる〈漢奸〉(中国を裏切った者)として裁判にかけられかけたが、日本の戸籍謄本が見つかってやっと釈放・帰国出来た。以降は日本人「山口淑子」である。

 その後はアメリカにわたり彫刻家イサム・ノグチと結婚、その後日本の外交官と再婚して大鷹淑子となり、やがて参議院議員となった波乱の人生の人だ。

 その李香蘭が上海時代、ひょっとしたら「恋人」だったかもしれないと匂わせた人物が川喜多長政らの中華電影公司の中心人物の一人、台湾人映画監督兼脚本家の劉吶鴎(りゅう とつおう)だった。彼は1940年9月3日、上海の共同租界で中国国民党特務と思しき相手に対日協力者として暗殺されたのだが、李香蘭はなんとその日その時間に劉吶鴎と秘かに会う予定だった、というのである。

 ということは二人の関係は? しかしどうも符合せぬことも多い、いったい真実は、というのがこの本のミステリアスな眼目で、結局、全体として浮び上がるのは、当時、国際陰謀都市といわれた上海での、日中、そして当時は日本国籍であった台湾人や朝鮮人映画人たちの、巨大な戦争宣伝メディアとしての映画(ヨーロッパではナチスドイツが盛んに用いていた)との関わりそのものである。

 著者はそれを緻密な調査と考証によって次第に浮び上がらせ、やがてその謎の「逢い引き?」と死の像を現出させる。
 引き込まれて読み終わると、強い残像として残るのは、デビュー以来日本人でありながら中国人として嘘と共に生きねばならなかったスターの虚実と悲哀、植民地下で生まれたがゆえに日本人なのか中国人なのかはたまた「台湾人」と呼ぶべきなのか、自分でも翻弄され続けた才能ある映画人の悲劇、である。

 最初、3分の1くらい、そういった複雑な時代背景、主人公たちの二面的背景を理解するのに多少の時間がかかるが、理解するにつれ話はどんどん面白くなっていく。まだ存命の山口淑子氏がこの件に関して詳細を頑なに沈黙していることと合わせ、真実への興味が尽きない。本書のあとがきの最後は、もはやほぼ唯一の証言者たる山口淑子氏への、著者からの質問の手紙になっている。読者としても答を聞きたいものだ。



9月23日 ミャンマー、いよいよ正念場か

 今朝の新聞報道によれば、昨22日、ヤンゴンでは5日連続となる僧侶のデモがあり、約2千人が市街を行進、うち約半数が軟禁中のアウンサン・スーチーさん自宅前を訪れ、祈りを捧げたそうだ。
 スーチーさんも雨のなか門近くまで現れ、涙を流しながら僧侶らに合掌したという。

 第2の都市マンダレーでも同日、数千人の僧侶がデモ行進したという。

 数千人は大きいし、僧侶とスーチーさん、つまりNLD(国民民主連盟)がはっきり結びついた点も大きい。

 問題は軍事独裁政権がどんな対応をするかだが、一気に1988年の民主革命直前状況に似た形になるか、ということはあの時同様、またしても軍が前面に出ての強権弾圧になる可能性もあろう。

 後者の場合はまた多くの血が流れるだろうし、といってもうこれ以上の泣き寝入りはいくらなんでも悲しいし、とにかく息詰まる思いだ。

 なんとか世俗の知恵と仏教の般若智というべきものが合体して、流血少なく、世の民主改革がならぬものか。
 ちょうど今日は、ミャンマーの雨安居明けのまつり「ディデンチュ」の日だ。よき祈りが結実することを心から期待する。

 なお、ミャンマーの表記をビルマとすべきか否かを迷っている。現「ミャンマー」は軍事政権が勝手にそう変えただけで、民主勢力側は以前同様「ビルマ」を使っているからだ。
 が、日本ではマスコミも外務省関係もミャンマーにほぼ統一してしまっているし、もともと彼の国の国内での国名はミャンマーであり、「ビルマ」も英語表記の場合の使い方だった面もある。

 私の場合は1,2年前まではビルマと呼んでいたが、先だって渡航するためにビザや旅行関係の手配の都合でミャンマーと次第に呼び始め、すっかりそれに慣れてしまったという事情がある。さて、どうしたものか。



9月19日 ミャンマー各地でデモ

 9月5日中部パコクでガソリン類大幅値上げに抗議して仏僧300人がデモ、兵士が空に向け発砲、竹の棒で僧侶や市民を殴り解散させる。
 翌6日、僧院を訪れた地元当局者ら10数人を僧侶らが院内に閉じこめ、乗ってきた車4台を焼いて抗議。

 12日、軍事政権はアウンサン・スーチーのNLD本部の電話回線、幹部らの携帯電話を遮断。
 17日、マンダレー管区のチョウパウダンで僧侶400人がデモ。

 18日ヤンゴンなど5ヶ所で僧侶らがデモ。シットウのデモには僧侶のほか市民ら計1000人が参加、催涙ガスが放たれ、数人の僧侶が拘束される。ヤンゴンでは僧侶400人あまりが歩き、デモ隊は一時1000人近くに。

 デモはそもそも半月前からあったようだが、私がミャンマーを訪れたころから急に増えた。私が行くところには何かが起るというジンクスがまたしても実証されかかっているようで、我ながら不思議な気分だが、しかし多少なりとも背景・実情を知った身としては、このさい僧侶・市民側頑張れと遠くから声援したい。

 ただし、あの国の軍事強権体制は隅々までスパイ網が張り巡らされ、腕力ではかないっこない形になっているので、市民側が心配である。僧院という別種の特権組織が何とかうまく機能してくれぬかと願うばかりだ。

 市民たちが一様に言っていたのは、タウン・シエをはじめとする軍事政権の現実力者たちがかなりの高齢になっているので、彼らが自然に現世から退場してくれるのが一番、ということだったが、私もそれを望む。なんでも占い好きのミャンマー国内の占い師の多くが、まもなくそうなる、と予言してもいるそうだ。

 実際、あんな強権ファシストのために、心優しい、穏やかなミャンマー人たちの多くが殺されたり、怪我をしたり、拷問されたりするのは、どうにもつらすぎる。神仏よ、どうか頼みますよ、民を救われたし。



9月17日 咳が止らないので、スーチーさんのことだけ少し

風邪薬を飲んで寝ることにします。

それにしても、帰国後連日新聞(朝日)外電欄にミャンマーの記事が出るので、日本の方がよほど全体像が分ります。

現地では、「軍事政権も坊さんには手が出せない」とか「いや、ひとり殺され、逮捕者も出た」など情報が人によって違っていました。NLD(民主化連盟)のことなぞは一言も出ませんでした。

スーチーさんのことは極めて関心は高かったけれど、直接名を出して話す人は少なかった。
彼女の家の前を通ってくれと頼むと、旅行社手配の車(一日チャーター)は運転手が「恐いから」と拒否、何でも写真をとられ、ナンバーなぞ控えられるというのです。

が、2度目に街の普通のタクシーに頼むと、中年の運転手がしばらく考えた末、「外国人らしい鞄類は隠してくれ、女性はピアスをとりミャンマー人みたいな顔をしていてくれ。キョロキョロしないでくれ」などを条件に、むしろ張り切って行ってくれました。

家はアメリカ大使館の1軒おいた隣の湖畔地帯の豪邸で、塀に沿って赤いNLD旗が何本も並べられており、「アレ、隠されているわけではないのか」とちょっとアンバランスな感がしました。

が、彼女は家族誰とも会えず、夫の死にめにもあえず、近親者や支持者にも会えず、電話も切断され、新聞も情報も遮断され、政府の人間とされる執事役に監視され、全く孤絶の日々だそうです。

そのひっそりした雰囲気だけが伝わりました。



9月16日 帰ってきました

 今朝早く成田に辿り着きました。
時差ぼけ、暑さぼけ、睡眠時間が定かならず、それにややかぜ気味で、文字通り頭がボーっとしていて、思考力なし。

安倍シンドーさんのように胃は痛くないけど、それにしても何でまた首相が替ることになったのか、訳が分らず、「?!」という感じ。たった10日あまりで視界は変るものですねえ。世界最貧国ミャンマーと日本も違うし、日本も行く前とあとでは少なくともニュース画面ががらりと違う。

 しばらく寝ます。



9月4日 明日いよいよミャンマーへ

 今日は出校し、久々に学務がある。AO入試の2次審査である。

 それが終ると、懸案のミャンマー行きだ。ミャンマー行きは思い立った当初は懸案でも何でもなく、時間が止ったような静かな仏教国へちょっと身を置いてみる、程度のつもりだったが、いざ決めてからいろいろ知って行くにつれ、どうもかなり大変な気もしてきた。

 一つは軍事政権下の重苦しそうな状況。これは短期の観光客にはあまり関係ないとも言えるが、しかし気鬱なことではある。知らぬが仏だったらよかったのに、最近ではデモまで起っている。

 二つは暑さと雨だ。最初月別平均気温を調べた時、さほどでない気がしたのと、9月の平均雨量は8月より相当少ないので大丈夫そうに思ったのだが、なあに、まだまだ殆ど毎日雨が降り、湿気は80何%とかすごいらしい。

 尤も雨のおかげで気温はかんかん照りよりだいぶ低いらしいのが救いだが、しかし30度くらいで湿気80何%となれば、黙っていても汗だくだろう。暑さと汗に弱い身には半ば恐怖だ。

 計画がちょっとずさんだったかなあとも思うが、しかしこの時期か正月休みくらいしか休みが取れないのだから、半分はやむをえない。

 まあ、若い時から何度も東南アジア南アジアに行きながら、全く雨季には遭遇しなかったため、一度くらいはどんなものか見てみたい気もしていたから、よしとしようか。モームの「雨」などは最近も読んで、状景をあれこれ想い浮べたものである。

 とにかく、もう若くないから体第一でやってこようと思う。皆さん、無事を祈っていて下さい。



8月31日 涼しくなった、そして8月の終り

 昨夜は初めてエアコンを入れずに眠った。夜中にも起きなかったし、体がラクな感じがする。やっと秋の入口になってきたということだろう。そして気がつくと、今日で8月も終りである。

 気分はいよいよミャンマー行きの準備だ。昨日あたりから持参する衣類や薬類のチェック、履き物の選定を始めた。今日はドルの準備をしようかと思っている(レート次第だが)。彼の地はクレジットカード類が殆ど使えないらしいのだ。

 田舎から母が電話をしてきた。先だって91歳になったという。誕生日を忘れていたわけではないが、やはり忘れていたのだろう。言われて、あっそうだった、と慌てて思った。結婚した孫が子供を連れてまた来ているという。2歳丁度の曾孫だ。

 母親の方は私の姪だが、姪の子供は何と呼ぶのだろう。向うからすれば大叔父となるのか。会ったことがないせいもあるが、どうももう肉親といった実感は生じない。こちらは枯れていく葉っぱだ。黄葉か紅葉ならまだ賑わいもあるが、はてさて2歳児からはどう見えるのか。



8月26日 その後のドリアン

 このページ表紙写真を、7月2日付ドリアンの芽から現在の緑葉ふさふさに変えた。
 だいぶ大きくなったわけです。

 それにしても樹高20メートル、一本の樹に人間の頭大の実がごろごろ生るのはいつごろだろうか。

*なお、mixiには4枚のアルバムを載せてあります。



8月21日 ミャンマーの方が涼しい?

 この8月はとにかく暑い。先週の土曜日、久々にひんやりしたので、さあ、これで収まるかと思ったら、またぶり返した。

 これでは体力が休まるひまがない。それで9月にすぐミャンマーでは夏ばてするぞと心配になり、そちらの気温は如何と問い合わせてみたら、何とヤンゴンは最高30度くらい、バガンは31,2度、マンダレーが33度、インレー湖は25度というからいささか驚いた。

 インレー湖の涼しさは有名だからまあ特別として、ヤンゴンがそんな温度とは意外だ。30度なら今の関東地方の温度に比すと涼しく感じるほどではないか。
 尤も雨季なので湿度は相当なものらしいけど。

 夏ばて恐怖で腰が引けかけていたのが、これなら何とかなりそうだと希望が出た。ま、あんまり暑かったり湿度が高ければ、クーラーの効いたホテルでもっぱらイラワジ川を眺めたり、雨の街頭風景を観察するだけでもいいのではと、年寄りっぽく考えている。

 それにしても、出かける前に夏ばてになってしまわないかしら。ゆうべからは持病の尿路結石が何やら少し蠢きだした感がする。これは体力が落ちた時やストレスが溜ると出やすいのである。



8月16日 素晴らしい追悼の辞

 昨日、全国戦没者追悼式において、河野洋平衆議院議長が実に素晴らしい追悼の辞を読んだことが分ったので、あえて全文をここに再録します。公開の場で国民に向ってなされたものなので、より大勢が知るべきものと考えてのことです。

 ☆ 河野洋平衆議院議長の追悼の辞全文。 (原文のまま)
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式が挙行されるにあたり、謹んで追悼の辞を申し述べます。
 終戦のご詔勅のあの日から62年の歳月が流れました。国策により送られた戦場に斃(たお)れ、あるいは国内で戦火に焼かれた内外全ての戦没者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げます。
 今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれたものであり、私たちは日本人として、これを決して忘れてはならないと思います。三百万余の犠牲は、その一人一人が、一家の大黒柱であり、あるいは前途に夢を持ち、将来を嘱望された青年男女でありました。残されたご遺族の悲しみを思います時、私は失ったものの大きさに胸が潰(つぶ)れる思いであります。
 そしてそれは、わが国の軍靴に踏みにじられ、戦火に巻き込まれたアジア近隣諸国の方々にとっても、あるいは真珠湾攻撃以降、わが国と戦って生命を落とされた連合国軍将兵のご遺族にとっても同じ悲しみであることを私たちは胸に刻まなければなりません。また私は、日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います。
 私たち日本国民が、62年前のあまりに大きな犠牲を前にして誓ったのは「決して過ちを繰り返さない」ということでありました。そのために、私たちは一人一人が自らの生き方を自由に決められるような社会を目ざし、また、海外での武力行使を自ら禁じた、「日本国憲法」に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んで参りました。
 今日の世界においても紛争は絶えることなく、いまも女性や子どもを含む多くの人々が戦火にさらされ苦しんでいます。核軍縮の停滞がもたらした核拡散の危機は、テロリズムと結びついて私たちの生存を脅かそうとさえしています。私たちは、今こそ62年前の決意を新たにし、戦争の廃絶に向け着実な歩みを進めなければなりません。その努力を続けることこそ、戦没者の御霊を安んずる唯一の方法であると考えます。
 私は、国際紛争解決の手段としての戦争の放棄を宣言する日本国憲法の理念を胸に、戦争のない世界、核兵器のない世界、報復や脅迫の論理ではなく、国際協調によって運営され、法の支配の下で全ての人の自由・人権が尊重される世界の実現を目ざして微力を尽くして参りますことを全戦没
者の御霊を前にお誓いし、私の追悼の詞(ことば)といたします。
  平成十九年八月十五日      日本国衆議院議長  河野 洋平



8月15日 8月15日前後

 このところ毎日、テレビで終戦特集的な番組ばかり見ている。
 ニュルンベルグ裁判、東京裁判、パール判事、城山三郎回顧、等である。

 これまでこの種の番組は「またか」と思い、あまり熱心に見なかったのに、今年はどういう訳か熱心に見入ってしまう自分を発見している。一番感じるのは戦後20年、30年、更には50年、60年経っても当時を忘れきれず、記憶を反芻しては考え続けて生きている人たちの思いだ。

 かつては、過去を見るより現在と未来を見よ、といった意識が強かったが、今は、そうは言ってもやはり過去は消しがたい、過去をよく知らずして今を認識せざらん、という気がしている。

 実際、東京裁判で絞首刑になった広田弘毅やそれを書いた作家城山三郎らの経過を知ると、世には偉い人がいるな、自分はこういう気骨ある生き方は為し得てこなかった、と忸怩たるものがある。

 私個人としても過去への思いは色々あるが、胸を張りうることは少ない。夜、夢の中で鬱々と悔むことの方が多い。

 いいことを数えればそれなりにある気もするが、この頃の暑苦しさの中では負の部分ばかりが出てくるのである。



8月10日 ホヤの塩辛

 これはペンクラブの2次会でいつも行く店にて発見、以来やみつきになった。味、色、風あいともに絶妙で、生のホヤとはまたひと味違った趣がある。

 獄中作家・人権委の同僚副会長千葉昭さんも大のファンで、いつも二人で競って注文するのだが、その千葉さんから池袋西武の地下で同名のものを売っている、ただし味は少し違うが、と聞き、昨夜、池袋へ出たついでに買ってみた。

 今晩味見をするつもり、楽しみである。



8月5日 ミャンマーは危険地域指定

 つい3日前になって外務省がそう指定していることを知った。何でもこの数年、ヤンゴンや近郊などでたびたび爆発事件があり、数年前にはかなりの死傷者が出ている。近年は死者はいないが、ヤンゴンのマーケットやトレーダーズホテル前でも爆発があったというのだ。

 すでにチケットは入手、現地の手配も一通り済んだ時だったので、エッと驚いた。トレーダーズホテルは宿泊予定場所でもある。が、今更やめる気にもならず腕組中というところである。

 正直またかの気もある。私はかつて旅先でキプロス戦争、カルカッタの大暴動、ベトナム戦争のテト攻勢、ニューヨーク911事件に遭遇してきているからだ。

 その意味では驚かないし、それに今度は危険の可能性があるというだけで、常識的には世情はかなり安定、危険遭遇の比率は相当低い。現地旅行社も「もうすっかり平和なものです」と、まあ商売柄当然とはいえ穏やかな返事である。

 爆発地域は東部国境に近い少数民族がらみと思えるし、ヤンゴンに関してはロンドンよりましだろうとも思える。

 今回の旅は東南アジアでも最も静かで非近代的な仏教国に身を置いてみるのが目的だったのに、何の因果かまたしてもと思いつつ、やっぱり私は出かけるだろう。



8月1日 やっと夏休み

 なぞと言うと、普通の人からは「えっ、もう」と目をむかれそうだが、大学関係としてはだいぶ遅い。今年は5月のハシカ休みのせいでずれ込んだのだ。

 昨日はちょっとした用で出校したあと、某教授と落ち合って江古田の行きつけの店でいっぱいやった。休み前最後の日と思うと解放的気分で、ふだんよりだいぶ酒量も進み、話も弾んだ。

 これで意識はいよいよ9月のミャンマー行と、8月中に上げるべき短篇改作2篇に完全に移る。さあ、自分の時間だ。



7月28日 選挙

 今回の参院選挙は、とにかく現政権に打撃を与えたいと思っているが、しかしこの人にこそ入れたいという具体的人物は選挙区比例区ともにいない。

 よって政党本位に考えるしかないので、選挙区はまあ野党第1党に投票を集中させる、比例区は憲法9条を守る党に、と思っている。小学校の児童会長みたいな党首がいる党がけなげな感がするので、そこにしようかと思っている。

 一番望むのは選挙後に政権および政界全体に大きな変動が起り、意外な政界再編が行われることだ。現在の枠組みは与野党ともしょせん同じ穴のムジナで、本質的な新鮮さがない。

 明日の夜今頃は、その気配をせめても感じとりたいものである。



7月24日 歯の治療終る 新パスポート入手

 昨日で1ヶ月半ぶりに歯の治療が終った。当初、歯科医が“すぐにも終る”みたいな口ぶりだった歯はさんざん痛んだ末、殺菌だけで1ヶ月もかかってやっと終了というわけだ。これまではせいぜい2,3回通えばすんでいたし、小学校以来、歯の健康優良児だった私としては、まさに初体験だった。

 今日は新パスポートを入手してきた。前のは、夏休みの旅の計画中ふと気づいたら、期限が切れていたのだ。10年間あって当然だったから、すっかり無意識になっていた。

 大慌てで申請、いわば新調となった次第だ。これでまた10年は大丈夫と数えてみると、次は70ウン歳である。ひょっとしたら生きていないかも知れないと思うと、いささか感慨がある。初めてパスポートを持ったのは22歳の時だったから、何冊目になるだろうか。

 9月にはこのパスポートを使ってミャンマーへ行くつもりである。
 かつて両隣のインドおよびタイへは3回づつ行っているのに、間のミャンマーだけは足を踏み入れていない。最初のインド行のころ、ミャンマーはまだ一種の鎖国状態で、ビルマ航空のチケットを買った場合のみラングーンに1日トランジット宿泊出来るだけという状況だった。

 その後は軍事政権時代が続き、だいぶ距離感も出来た。そしてずいぶん時間がたった。
 今ではむしろ、東南アジアでもラオスと並んで近代化から身を避けた、ひっそりと古風な国、との印象が関心をそそる。暑さの中の静寂、はてどんなか、体感してみたい。

 暑さに弱い身としては、熱帯への旅はひょっとしたらこれが最後になるかも知れないのだが。



7月19日 いやあ、痛飲した

 昨日は東京外国語大で「私の文学と旅」という講演をした。
 授業のない日の夜の会だったので、人数はさほどでなかったが、ベトナム語科の院生をはじめ各科の学生、留学生、先生方、それに日藝のわがゼミ生まで特別参加してくれ、ざっくばらんに楽しく話せた。

 ベトナム戦争時のテト攻勢、30年後の再訪、2001年9月11日のニューヨークのWTCビル崩壊の際の目撃話など、まあ、たぶん誰が聞いても面白い話のはずで、反応は上々だった。

 終って、近くの沖縄料理屋で慰労会なるものとなり、ゴーヤーをつまみに飲む黒糖酒の水割りがさわやかでうまく、ついつい杯を重ねた。5,6杯は飲んだ気がする。

 10時半にお開きになり、呼んでくれたベトナム科の川口健一教授と途中まで一緒に帰ったが、川口さんは茨城県の自宅まで2時間以上かかるという。おまけに月曜から金曜まで毎日出勤だともいう。

 国立から独立行政法人になってからの諸般の事情によるそうだが、大学教師としてはまれに見るハードスケジュールであろう。私など週3日出校の者から見ると、溜息が出る。むろんマイナスの溜息だ。

 痛飲のおかげで、昨夜はとうとう夜中に一度も目が覚めることなく熟睡出来た。久々のことである。川口さん、ありがとう。



7月13日 夏休みの宿題

 ぼつぼつ夏休みの話が出る時期となった。
 学校で、私は毎年、夏休みの宿題をあれこれ出す。

 1,本を5冊読め、2,映画を5本、3,コンサートと芝居計5つ、4,美術・写真展を5つ見よ、などだが、その5番目は、旅をせよ、だ。

 条件として、1,1週間以上、2,手づくり、3、出来れば外国(特に近隣諸国または東南アジア)、4、国内なら沖縄で島めぐりをするとか、四国お遍路を自転車でまわる、おくのほそ道を青春18切符でまわる、など工夫ある旅をすること、などと挙げる。

 もう15年間言い続けたので少々倦んでも来ているが、それでも今頃になるとやっぱり言ってしまうのは、今の若者は随分恵まれた状況にあるのに、案外行動しないからだ。

 2ヶ月近い夏休みがある環境など人生に結局学生時代の4年、それも4年時は就活・卒論準備などでそう自由ではないから、ひょっとしたら3年間だけだぞ、特に3年生は今年が人生最後の長い夏休みかもしれん、社会人になったら夏休みは平均1週間だ、と言うと、半分くらい頷いたりするが、どうもまだ実感はないようだ。

 先生、お金は……なぞとたいてい言い出すから、バイトせい、バイト、前半は汗を流して稼ぎ、9月になって飛行機や宿代が安くなったころに出かけろ、と答えるが、ウームとむつかしげな顔をする者が多い。

 それでも今年は一人がベトナム、もう一人はタイへの旅を検討中という。四国自転車お遍路を考えてみるという者もいる。脈ありだ。

 みんなが何がなし新しい世界に触れ、発見をしてくれるといい。若者よ、本当にもう少し元気になれ。



7月7日 七夕の曇り川

 東京では今日が七夕だそうな。本来は陰暦7月7日のことだから、おおむね1ヶ月遅れの8月7日頃であろう。

 第一、今頃じゃ梅雨時のさなかで空も天の川どころではない。現に今晩も今にも降りそうな曇り空である。七夕は初秋の季語だし、なぜ東京では陽暦7月7日となったのか。解せぬことだ。

 新聞やネットにも七夕の話題が出ているので、一言異議を唱えたくなった。



7月2日 ついに7月だ

 例年ならカレンダーの7月には、「夏休み入り」の文字が書き込まれるのに、今年は5月のハシカ休みの影響で、その字は8月1日にずれた。

 よって前半はびっしり授業スケジュールなど、後半は補講や試験日程などが並ぶ。外気もカレンダーも共に暑苦しい。