風人日記 第二十三章
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ミャンマーと日本
  2007年10月3日〜


07年9月8日、ミャンマーの仏蹟地バガンでの早朝の托鉢風景。
ミャンマーでは16歳までと20歳までにすべての男子は仏門に入り、
半年から1年ほど僧として修行する。托鉢は毎朝6時半から8時頃まで、
民家をまわって抱えた大きな鉢にごはんや食物などを寄進してもらう。
寄進する方はそれによって功徳を得るとされる。
僧侶はそれを正午までに2回に分けて食べ、12時以降は翌日まで一切食べない。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


「季刊文科」39号(鳥影社。1000円)発売中

    「やんばる島」(連作・南島シリーズの7)

 大手書店にあり。  
     http://www.choeisha.com/kikanbunka.htm

 36号「植民島」、37号「植民島2」


ミャンマーのデモその後

 月刊「フォーブス」(ぎょうせい刊)2008年1月号(発売中)に短いエッセイを書きました。
 このHPエッセイ欄に掲載。



BurmaInfo & ビルマ民主の声

 この間のミャンマー情勢をめぐる情報のまとめが的確に出ています。

  http://www.burmainfo.org/politics/88GSG_200708.html

 その中に「川に捨てられた僧侶の写真」もあります。正視に耐えませんが、一つの現実です。
 合わせて 「Democratic Voice of Burma」 も御覧下さい。ミャンマー語サイトですが、映像(ビデオ映像)が豊富なので、実態がよく分ります。



ミャンマー政府による新たな言論弾圧、日本人ジャーナリストの殺害、僧侶、市民の拘束に抗議し、言論の自由の回復を求める声明

 われわれ日本ペンクラブは、平和を希求し、言論表現の自由と人権を守る立場から、国際ペン憲章にも反したミャンマー政府の長年にわたる言論の自由への弾圧に対し、獄中作家委員会の活動を通じて抗議し、アウン・サン・スーチー女史や政治犯の拘束を解くよう求めてきた。
 今日平和的な人々の意見表明の高まりのなかで、ミャンマー政府が新たな大規模な弾圧・暴力を引き起こし、兵士が、取材活動を行っていた日本のジャーナリストを殺害し、日本のメディアの現地関係者を連行・拘束するとともに、多くの僧侶・市民を連行・拘束したことに対し、日本ペンクラブは非常に強い憤りを感じる。
 日本ペンクラブは、ミャンマー政府に対して一刻も早く軍隊による現在の暴力状況を終わらせ、長年厳しく制限されている言論の自由を回復し、アウン・サン・スーチー女史や全ての政治犯の釈放を行うよう求める。
 日本ペンクラブは、武力ではなく建設的な対話により民主化にむかおうとしているミャンマーの人々に連帯を表明し、また日本政府を含む国際社会が、ミャンマー政府に対し、現在拘束されている人々の釈放と、言論の自由に基づく民主化の推進をするよう求めることを要望する。

 2007年10月9日
 社団法人 日本ペンクラブ



「江古田文学」59号(日藝文芸科8月初旬刊) 特集:谷崎潤一郎

   「大(おお)谷崎の中(ちゅう) (エッセイ43枚)
                           このHPのエッセイ欄に掲載しました。

 私にしては珍しい日本作家論。谷崎好きなのだ。他に秦恒平、宮内勝典、小嵐九八郎、尾高修也、山内淳、伊藤氏貴氏らが執筆。池袋などの大手書店で市販。



発売中:『按摩西遊記』(講談社、1800円)

                 

 大型書店中心の配本。アマゾンで送料無料なので、こっちが便利かも。
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062134470/249-5398224-6034725?v=glance&n=465392



12月26日 明日から宮古、八重山諸島

 年末年始は琉球弧列島で過すようになってからもう何年になるだろう。
 いや、最初は五島列島から始め、壱岐・対馬、次いで屋久島・種子島へと移動、そこから以降は奄美群島、沖縄となって、琉球弧列島を年に3ヵ島くらいづつと定まっていったのだった。

 小説に書き出したのも、その奄美からで、第1回は沖永良部島からだったが、いつのまにか8回となり、全体像も見えてきたので、今年の夏休みにはかなり書き直し、第1回を「鬼界島」(喜界島)とし、途中、「聖俗島」(渡嘉敷島・久高島)とか「植民島」(沖縄本島)といった意味語をタイトルにしたりもした。

 ちょうど今日あたりから発売の39号(お知らせ欄参照)には「やんばる島」のタイトルで書いた。むろん、こんな名の島はないが、沖縄本島の北半分は人口密度といい、生態系といい、中南部とはずいぶん違うので、自然中心の地域という意味でこういう命名にしてみたのである。

 あとは宮古島を舞台にした作と、最後に最果ての国境の島を舞台に描けば、ほぼシリーズも終わりだ。
 ゆえに最後は波照間島にし、作品名も「果てる間島」としようかと思っていたのだが、今回調べたら石垣から波照間への飛行機便は11月末をもって運航休止という。代わりの小さな飛行機が後を継ぐ予定というのだが、まだ具体化していない。

 よって、行く先をもう一つの最果ての島である与那国島に変更した。波照間は南の最果て、与那国は西の最果てで、隣国台湾は与那国の方が近い。どころか、与那国は日本領としては唯一、制空権は台湾にあるのだ。島民の国境意識も強く、人口1600人の島でありながら、台湾の中都市花蓮と姉妹都市であり、島を経済特区にし、関税フリーの自由港にせよといった運動もあったりする。

 もともと島民たちは中世以来、台湾やさらに南国(呂宋ルソンなど)などと自由に往き来・交易していたらしい。戦前から戦後の一時期まではつい隣の島という感覚でもあったようだ。

 だから、琉球弧最後の島として締めるには丁度いいかもしれない。続けるとしたら次は「美麗島」(台湾)になろう。

 その旅に行ってきます。帰宅は年が変っての1月2日。年賀メール等はその日に御返事しますので、御了解ください。



12月22日  土屋敦『なんたって豚の角煮』(だいわ文庫。07年11月刊)を読む

私にしてはずいぶん異色の本を取り上げるとお思いだろうが、事実その通りで、折からメタボ症候群で食事療法中でもある身としては「豚の角煮」はできれば避けて通りたいところなのだが、しかし書きたくなった。

わけは著者に対する関心である。この人、もとは大手出版社講談社の編集者であったのが、3年後退社、各国料理を取材ののち、6年前染織家の夫人ともども佐渡島の山深い田舎に移住し、以降、料理研究家兼書評家として活動している。

いや、書評家に関しては私の思い込みかもしれない。どうも正式の名乗りとして目にしないから、ご当人には違う定義がありそうだ。ひょっとしたら、自らの名乗りとしては「自給自足の料理研究家、自然生活者」あたりなのかもしれない。

面白いのはその移住の経過から定着のプロセスで、それが「豚の角煮」のあれこれ春夏秋冬10数種ものレシピとともに少しづつ語られるのである。

移住は6年前の冬のさなか12月中旬、折から何年振りかの寒波襲来で吹雪のまっただ中、車は雪にうずもれて進めず、通常なら30分のところを5時間かけてやっと着いたとか、その借りた家は古い民家で壁に穴があり、翌朝目覚めたら枕もとに雪が積もっていたとか、いや、面白いと言っては失礼だが何とも絵に描いたようにドラマチックだ。

それから少しづつ島と自然に慣れていくのだが、聞くだにそれがうらやましい。なにしろ山菜からはじまって季節季節の野菜、そして魚貝・海藻と海の幸までが新鮮わさわさ。しかも、それらはしばしば貰いもので、大根や白菜に至っては庭先に室を作って埋めておくほどある、というのだ。

実は自給自足ならぬ「他給自足」だとは途中御当人の言い替えだが、つまるところ人間関係もいいということだろう。

4年後からは自前で家も作り出し(あ、その前に赤ちゃんも作った)、まずは出来上がった1階に住み、今は2階を造作中だそうな。並行して連日豚の角煮を作っては工夫研究、ついにこの本まで作ってしまったというのだから、のんびりしているようで無駄がない。

うらやましさ半分、しかし田舎暮らしの表には出せぬ苦労もあるはずと思いつつ、土屋氏の家を覗いてみたい誘惑に駆られるのは、私自身、20代の終わりに1年ほど伊豆の山中のあばら家に住んだ経験があるからかもしれない。面白くもあったが、村との付き合い、自然農法の煩雑さ、現金収入の確保、と大変でもあった。

もう一つ、「あぶらものを避けよ」と言われている身だが、この本を読んでいると、次第に角煮を食べたくなってしまう。山椒との煮合わせ、ふっくらもちっとした自然薯の上に置いた角煮、なぞ、旨そうに照りの光った写真付きで見ていると、ああ、早くメタボ症候群よ去れ、と呟きたくなる。なんともおいしい本である。




12月19日 魔の吟醸原酒、無濾過無加水

月曜日、田舎の91歳になる母親に恒例のお歳暮「チーズの詰め合わせ」を送ろうと、志木のマルイに出かけたのが運のつきだった。

ふと出口近くの酒売り場に目がいき、「あ、おにいさん!」と向こうから飛び込んできたのが信州諏訪産の「麗人」なる酒の4合瓶。口上がまたニクイ。水は霧ヶ峰の伏流水、米は信州産の美山錦、絞る際もいっさいの濾過なく、加水のたぐいまたなし、まさに原酒そのものゆえアルコール度は17度(通常の日本酒は15〜6度)、瓶詰めは11月のほやほやまさに初しぼり、というのだ。

私は10月中旬に突然襲った例のメタボ症候群爆弾のせいで、食事減量、アルコール減量、週2日休肝日を決め実行して以来、原則としてアルコールはえびすビール350cc缶2本にワインか焼酎ほんの少々、しか飲まず、実に日本酒は少なくとも家ではほぼ1滴も口にせぬように心がけてきたのである。

家に日本酒の買い置きが全くなくなって久しいのも、隠れなき事実である。

その私は、ううむ、むむ、と心の中でうめき、そして気づいたらその4合瓶を宝物のごとく小脇に抱え、一路帰宅した、とまあ思し召せ。

しこうして私メは、年内授業も終わったし、今日はお袋に孝行もしたし、とあれこれ理屈を並べ、月曜は休肝日であるにもかかわらず、飲み始め、気づいたら瓶の4分の3を飲んでいたのであった。

私はむむっとおのれを叱り、そこで止め、しかれど日が変わると心また改まり、翌火曜日、残りを舐めるように飲んでいたと思いねえ。むろん、瓶は完全にカラとなり、瓶も身も心も実にさっぱりしたのである。

そして今日である。
気がつくと私は学校の帰路、またしてもマルイの店の前におり、2,3回まばたきして目をあけたら、我が家で新しい4合瓶からちびちび麗人を舐めるがごとくいつくしんでいたのである。

加上、さらにおまけがある。
先程、風呂から上がり、体重計に乗ったら、何と65キロ、3日前に比し1〜1、5キロ増えていたのだった。ざっと半月分逆戻りである。

浅はかと言うも愚かであろう。




12月15日 時はたつ、授業終わる


早いもので、昨日をもって今年年内の授業が終わった。
まだ来週も大学院関係の会議や博士論文の審査会などがあるが、とにかく授業は終わりとなると、かなりホッとする。

出勤の電車でご近所衆の評論家兼早稲田大教授加藤典洋氏と一緒になったので、その旨言うと、彼はうらやましそうに、早稲田は来週も授業やらにゃならんのですよ、英語での授業ですよ、とつくづく疲れたように言うのであった。

確かに英語での授業は疲れるだろう。学生の中には帰国生や留学生などずっと英語が達者な連中も多いとなればなおさらだ。

わが日芸へ行ったら、講師控室に読売の芥川さん、作家の小嵐さん、歌人の福島さん、図書新聞社長の井出さんらが打ち揃っていて、みな上機嫌に挨拶してくれた。要するに皆、授業終了がうれしく、自然に笑顔になるのである。

教師の本心見たり枯れ尾花。
考えてみれば、みな還暦過ぎか還暦近くで、いい加減くたびれてきているのだ。そのくたびれが授業終了のホッと笑顔に期せずして表れている。

5限の終了後は、そのうちの一人と「ビール一杯だけ」と言われ、近所で結局小瓶3本を飲み、そのあと私だけは卒業生とのゼミ飲みに向かった。

本年春の卒業生たちで、集ったのは6人。卒業時には行く先の決まっていなかった者も今はみな定まり、IT業界(プログラマー補)2名、介護ヘルパー1名、早稲田の大学院進学決定1名、映画学校生1名、それに1月から三菱系会社勤務が1名、である。

なかなか変化に富んでいて、話も面白かった。介護の実態も「うーむ」と腕組みさせられるし、IT業界は食事もせず夜10時11時まで、目は充血したりドライアイになったり、食事は夜だけ1日1食でドカンと大食いするからかえって太って、となんだかかわいそうになるような不健康な話である。

給料もあまりよくないが、しかし頑張る、仕事はおもしろいし、早く覚え、上昇したい、みたいなことも言う。頑張るしかないだろう。

メンバーの一人のバイト先というイタ飯屋での酒・食べ物はなかなかうまく、談論も盛り上がって気がつくと10時を過ぎていた。
一旦お開きにし、ロートルの私は帰路についたが、若い諸君はどうやらもう1軒はしごする様子だった。




12月9日  関東の涯てから見(まみ)ゆ白浅間
  南斎

今年もマンション14階から各地の山々が見える時節になった。澄んだ日には正面に赤城、右手に皇海(すかい)、日光、左手の北秩父越しに浅間山が見える。

浅間は冠雪した肩から上だけで小さいが、もうあそこは上州から信州かと思うと、相応の感慨がある。
その麓は連れ合いの出身地で、小学校の時から毎年少しづつ登った、1年の時は1,2合目、2年は3,4合目、そして5年くらいになると頂上までだったそうだ。

先々はひょっとしたら、私もその麓に住むことになるやと思うと、今から親しみが増す。自分はぼつぼつ関東平野に飽きてきたのである。




12月6日 HPを更新

新ソフトに慣れてきたので、このさい各ページをいくつか更新しました。

まず小説欄:作品自体はそのままですが、それぞれの現状、その後の新作との関わり、などをわかりやすく書き足しました。

エッセイ欄:谷崎論、ミャンマーのデモに関するエッセイ、能楽ジャーナルに書いた能エッセイ、の3つをUPし、古いものいくつかを削除。文字色なぞもちょっと工夫。

日芸情報(大学)欄:ちょっと早いけど、来年度(平成20年度)のシラバス概略を載せました。学生諸君は参考にしてください。

というわけで、乞う一見!



12月3日 誕生会


誕生会などというと、学生諸君や若い人みたいだが、昨夜は私の64歳のそれだった。
といっても誰かが設定してくれたわけではなく、私が言い出して娘夫婦を招待したのである。

宴はすき焼きにした。私の家では子供時代から何かの折にはすき焼きが定番だったから、自然にそうしたのだが、考えてみたらずいぶん久しぶりだった。この間、肉類をあまり食べないようにしていたせいもある。

結果は4人でずいぶん食べ、若い二人も「満腹、満腹」と満足そうだった。
減量中の私も同様で、おかげで今朝は早朝ウオーキングもする気にならず、朝食量も減らした。
なんだかちょっと浅はかな気もするが、まあ、たまのことだからいいだろう。

しかし、64歳とはどういう歳だろう。ちょうどマイミクの友人から「今は60代を働かせる時代。年長者への敬意はない風潮」というメールが来たが、その通りかもしれない。

でも、私は働いた方がいいし、ゆうべ若い二人に「これから何をするの」と聞かれ、「新しい小説を書く」と答えた。実行するつもりである。



11月28日 早朝ウオーキングその後


早朝のウオーキングを開始してから、もう1ヶ月半ほどになる。
だいたい朝6時半から7時半の間にしているが、時におっくうになって8時近くになることもある。

いや、どうしても起き出したくなくて、今日は日曜だからとか疲れているなどという理由をつけてさぼったことも2度ある。
でも、たった2度というのは上出来だろう。

週2日の休肝日の方も、今日は気持が高ぶっているから落ち着くためにビール1杯だけとか、あまりにのどが渇いているから、などといって350CC缶だけ飲んだり、ということはあるが、原則的には守っている。

おかげで体重はこの間に3、5キロ減、血圧もほぼ140代になってきた。血糖値は計ってないが、たぶん相応に減っていると思う。

健康作戦、まあ成功中というわけだ。
問題はこれから寒くなっていくとどうなるかで、何人かの先輩連によると、たいてい冬か夏かに頓挫するそうだから、心せねばなるまい。

しかし、冬とともに早朝の柳瀬川土手から見える富士山もいいし、川霧のなか飛び交う川鵜や白鷺、鴨の姿もいい。
私は何とか続けられるのではと今は思っている。




11月23日 ケータイ小説について

先週の授業で学生に「ケータイ小説について」のアンケートをとったところ、面白い結果が出た。学生は私の「文芸創作論」受講者中当日の出席者約80人、9割が文芸科生、残りが写真科、映画科、放送科、演劇科、美術科生など。全員1,2年生で平均19歳か20歳である。

まず読んだことのあるケータイ小説については、「DeepLove」と「恋空」が圧倒的双璧で約70%を占める。ついで「青空」だったかいわば恋空シリーズやchakoの「天使をくれない」など「天くれ」シリーズが続き、あとはほんのパラパラ。

3作以上読んだという者はほとんどなく、1作もちゃんとは読めなかった人がずいぶんいるというか、大半のようだ。
中には3行読んでおしまいです、とかパラパラ見ているうちアホらしくなってきてやめました、というのも多かった。

「ケータイ小説は文学か」という問いには、多くが文学というほどのものではない、と答え、「今後の展望」としては、しかしケータイが普及していく限り軽い小説(マンガに近い)としては続いていくだろう、という意見が多数派だった。

私が某文学関係者への取材結果として、ケータイ小説の単行本化を担当しているさる編集者が「ケータイ小説(の単行本)が今のようにバカ売れブームであるのは、あと2,3年で終わるだろう。どれも中身がほとんど同じなことを皆が知ってきてしまったから」と言ったと伝えると、頷くものが多かった。

中には「年内でブームは終わると思う」という者までいた(編集者の発言を紹介以前にアンケートにそう書いた)。「このごろ読んでるのは小学生ですよ」という発言もあった。

要するに、ケータイ小説は、高校生程度の年齢の主人公の恋愛相手が不慮の事故や病気で死んだり不幸の極みに陥り、その悲しみに耐えつつ「愛」を改めて感じていく、といった内容ばかりなので、一度読んだらもういい、よって、今後は小学校高学年から中学生程度の女の子が、その時期に一度通る道になるだけだろう、というのがほぼ一致した結論だった。

私はホッともし、しかし、そういうケータイ小説作家が一説では数十万人次々と誕生しており、そのうち10数人は単行本化が何十万部という売り上げがあり(最高は100万部以上だそうだ)、ということは何千万円から時に億という印税が入る。彼らはだいたい22,3歳程度の、昨日まで全く無名の若者だが、彼らの人生は大きく変わりはしないか。いったいどうなるだろう。君たちがもしそういう立場になったらどうする、と聞いたら、皆、虚空に視線を泳がせ、妙に静まりかえった。



11月22日
 やっと新ホームページソフトに少し慣れる

 
どうにか軌道に乗り始めましたいい加減くたびれましたが、何とかやっていきますので、皆さんよろしく。
  topページとエッセイ爛をかなり改めましたので、ごらんください。




11月18日
 鎌倉のオドロキ

さる会があってずいぶん久しぶりに鎌倉をれることになった。
会は長谷の大仏近くの中華料亭で、午後3時から5時までという設定だった。

何とも中途半端な時間だし、それだけのために出かけるのは惜しい気がして、行ってみたかった大谷美術館へ先に行くことにした。

大谷美術館はホテルニューオータニ、およびオータニ美術館のオーナーだった故大谷氏邸を遺族が美術館とし、氏のコレクションを展示する場にしたものである。

折からブラマンク展をしている、しかもあの自画像があるというので、
躍午前11時過ぎに鎌倉駅へ降り立ち、2時間は過ごすつもりで行った。建物への関心もあった。

建物は確かに金
家の鎌倉の邸宅という風情で、坂の中腹に緑を背負って立ち、2階のロビーからは稲村ヶ崎や海が静かに見えて、さすがの風景だった。

絵は思ったほど数がない上、一番目当ての自画像が小さなエッティングだったので、少しがっかりしたが、「アルジャンタンの村」とか「秋の風景」「ポプラ並木」はいかにもブラマンク風の陰鬱な空が描かれ、満足できた。

自画像を好きなのは、あの気難しそうで、孤独そうな、そしてやや剣呑な気配もありそうなブラマンクの突っ張り精神と気概が気に入っていたのだ。今回、彼が小説も書く人だったと知って、あの面構えのゆえんもよくわかった気がしたし、なおさらの親近感も感じた。

後2作は制作年から押すと、ブラマンク70代の作となり、そんな歳までこんなエネルギーある作を描いたのかと刺激された。オレも70代になっても書かねばなるまい、そう思ったのだ。

2時間はとてもかからなかったので、私は駅近くで紅茶におにぎり一つの簡易昼食をとった後(何しろ3時から会食だからふつうに食べるわけにいかない)、江ノ電で長谷に向かった。

長谷も実に久々だから、あのひなびた大仏を眺めたり、観音堂前から海を静かに眺めて時間をつぶそうと思ったのだが、駅を降り立ったとたん仰天した。

なんと駅から大仏前まで5,6分の道が両側ともぎっしり人でつまり、土産物屋や観光ショップのたぐいも切れ間なく、かつてのひっそりしたおもむきはまるでなかったからだ。

いやあ、まったく驚いた。いったいいつ頃からこんな観光地になったのか。外国人やら若い女の子、一番はおばちゃんの団体、地方組団体等で、大仏前なぞ記念撮影場そのものである。

いったい、自分が以前ここへ来たのはいつだったか、そのとき大仏はもうじき朽ちおれそうな寂しげな風情だったし、確か近くのナントカ寺には中原中也の住んだ家なぞもあって、それも寂しげだったが、あれは何十年(?)前のことだったのか、時期はいつのウイークデイだったのか、としばし考え込んだ。

だが、思い出せない。そしてそんなに古いこととも思えない。しかしそれでは眼前の光景との懸隔がありすぎる、自分はひょっとしたらぼけ始めているのか、と何事かに化かされているかのような気さえしてきた。

そして思ったのは、二度と土曜日曜祝日等に鎌倉へ
はしないぞ、という思いだった。


11月13日 新パソコン 

新パソコンを使い出してともかく1週間たった。
HP作成ソフトだけはまだ使っていないが、今日、アマゾンからHPビルダーが届いた。明日からは出校日で忙しいし、土曜は所用があるしで、月曜にマイミクのITプロ(元教え子)に来てもらってセッティングしてもらうつもりである。

古いパソコンのリカバリーも済んだから、こっちへ元のHP制作ソフトをインストールして、以前通り使う手もあるが、新パソコンの方が画面が大きいし、元ソフトはもう制作会社自体が撤退したらしく連絡先一つないことが判明したから、このさい新パソコン新ソフトでリニューアルをはかった方が気分も良さそうだ。

リニューアルとか改編はこんな機会でもないとなかなか出来なくもある。いささかくたびれるが、くたびれ回避ばかり図っていては老化が進行するともいえる。

さあ、少しばかり若返ろう。
そうそう、HPの方もごらんになっている方、そういうわけで更新は来週になります。しばしお待ちください。


11月9日 山陰小旅行

 11月4日城崎温泉、5日天橋立、舞鶴港、6日綾部の大本教本部での開祖例大祭、と見てまわってきた。

 城崎は志賀直哉時代とまでは言わぬが、建物は高さ3階まで、木造、外湯中心と、古き良き温泉町の風情が巧みに残されていて、気分が良かった。
 直哉のほか、なぜか芭蕉の碑があり、去来、吉井勇などの碑もあって、文学散歩には絶好。

 天橋立は日本三景と言われながら未訪だったので、ともあれと訪れてみたところ、中々だった。股ぐらから覗くと本当に天に橋がかかったように見えるのが感動ものだった。芭蕉ら俳人連はどんな句を作ったのだったか。

 舞鶴港は、少年時代、ラジオから引き揚げニュースが流れるたび「舞鶴港、興安丸」の名を聞いた記憶が今も鮮やかにある。
 現在は西舞鶴港に北朝鮮やロシアの船が出入りしていると聞き、それを見たかったのだが、北朝鮮の船は例の経済制裁以来来ないという。

 それで残念に思っていたら、タクシーの運転手氏が東舞鶴港に行けば、自衛隊のイージス艦やインド洋での給油船がいることもある、というので、いささか遠かったが行ってもらった。

 残念ながら両艦ともいなかったが、大型の護衛艦やヘリ母艦が数隻いて、なるほど戦前以来の海軍基地だと実感した。
 アメリカのイージス艦も入港したりするというし、ということは核の秘かな持ち込みもあるのではと思えたが、運転手さん曰く「舞鶴の人間はみな慣れてしまって、誰も気にしませんね」。

 世の中は知らないことがいっぱいある。

 最後の綾部は、いかにも京都の地方都市という趣きで、木造格子窓や土蔵造りの商店・町屋が軒を連ね、静かな一昔前の街のたたずまいがあった。

 私はそこの町なかの古い宿「小西屋」に泊り、松茸御飯を頂き、翌日は歩いて数分の大本教神殿をおとづれた。6日は開祖出口なおの例大祭なのだ。

 私は無論、信徒でも何でもないけど、高橋和巳の『邪宗門』、富岡多恵子の『三千世界に梅の花』など小説作品を思い浮かべつつ、ぜひ一度訪ねてみたかったのである。

 また、昔若き日、山口県田布施の通称「踊る宗教」を訪ね、半月ほど滞在した経験も重なっていた。開祖が農村女性であること、腹に神が宿ったとされること、素朴な言葉によるお筆先や説法、神道系、など類似点が多いのだ。

 結果は……、いずれゆっくり語ることにして、今はとりあえずの報告まで。



10月31日 蚊取りブタ君の知恵

 防衛省の元次官守屋某の国会証人喚問をテレビで見ていたら、肝心なことは何も言わないのに、二つのことだけはごく滑らかに喋った。一つは、ゴルフ接待は何年も前から200回以上、日常的付合いだったこと、二つは、山田洋行専務との宴席に元防衛大臣(または長官)が複数同席したことがあること、だ。

 ヘンだなあと思っていたら、折から読んでいた元特捜検事・弁護士田中森一の『反転』にこんな文章が出てきた。
「贈収賄事件では、渡した賄賂の目的がはっきりしないと罪に問えないし、公判が維持出来ない。このケースでは、大西と国税局の連中のあいだで、あまりにも恒常的に接待や現金のやりとりがあったため、どの金をなんの目的で渡したのか、立件出来ない」

 これはかつての「大阪国税局汚職事件」のケースのことだが、今回の守屋事件とそっくりではないか。国会での守屋のうしろにはやはり元地検特捜部のいわゆるヤメ検弁護士がぴったり付いてしきりに入れ知恵していたから、接待が恒常的だったことを印象づけ、立件出来なくさせることを狙ったことは明らかだろう。

 また、政治家の関与を匂わせれば、自民党内に警戒心が生じ、今後の証人喚問に反対が出ることを目論んでいるのではと思える。言ってみれば、オレにあんまり喋らせると、困る人がいろいろ出てきますよ、という脅しだろう。

 本来なら証人喚問は衆院でも次には参院でも更に続くはずだが、さてどうなるか。見ものである。

*そうそう、「蚊取りブタ」というのは蚊取り線香を焚く陶器製の豚型容器のこと。守屋某にそっくりなので、我が家ではこう呼んでいる。



10月26日 健康問題いろいろふーむ

 昨日、2ヶ月ぶりに皮膚科に行き、今月初めの人間ドックの結果表を見せたところ、意外な反応が返った。私は血圧の上昇に注目し、それとこの1年間飲んできたプレドニゾロンという内服ステロイド剤との関係が気になっていたのだが、医師(私は彼をかなり信頼している)は血圧より糖尿の欄に注目し、血糖値の増大はプレドニゾロンのせいである可能性がある、むろん断定は出来ないがかなり可能性は高い、と言ったのだ。ふーむ。

 ただし、腎臓の欄は数値が正常だし、プレドニゾロンの使用量は相当少ないから、違うかもしれないが、との付言もついた。ふーむ。

 私が血圧のことをいうと(副作用に血圧上昇があり得ることは前から知っていた)、血圧の数値は変動が大きいし、ちょっとした条件で随分違ったりするから、1度や2度では信じられない、とあまり問題にしない。

 私は手首型の血圧計を買ってすでに10日以上毎日計測しているから、1度や2度ではないのだが、ただ確かにかなり変動することは事実だ。ふーむ。

 昨日朝、土手のウオーキング中に近所に住む高校の同期生にばったりあった。彼はスポーツ関係の雑誌編集長を長く務め、自身もスポーツクラブに熱心に通うなど、健康関係の知識が豊富な人だ。彼もまた今月からほぼ同じコースでウオーキングを始めたという。
 彼曰く。血圧は、我々は学校時代「年齢プラス90」と習ったろう、ということは、俺たちは63プラス90で153か154で正常ということだ。

それから、この頃高血圧値は140以上とされているが、しばらく前までは160以上だった。140への変更は医者が患者を増やして儲けるためという説もある。現にあの変更によって日本の高血圧者は一挙に2000万人ということになった。2000万ということは日本人の赤ん坊まで含め6人に1人が高血圧ということになる。
きみはいったい数値はいくつなのだ?

 私の「高血圧」診断数値は150代から160代である。つまり、しばらく前までは高血圧と見なされなかったかもということになる。ふーむ。

 昨日、大学へ行ったら、博士論文を出したばかりという院生が、私の顔を見るなり言った。「先生痩せましたね。あ、腹もへこんでる」

 いやあ、嬉しかったなあ。実際、ウオーキング、週2日の休肝日、夕食量の減らし、を実践し始めてからまだたった10日なのに、ズボンのベルトの穴が一つ移動したのである。早すぎる気もするが、連れ合い曰く、「それだけ贅肉がだぶついていたのよ」。ふーむ。

 明日は、朝食抜きで2時間に4回血液検査という血糖値精密検査である。どうなりますことやら。



10月21日 早朝ウオーキング

 早朝といっても6時半ごろから時に7時半開始となったりするのだが、この1週間毎日続けている。

 理由は今月初めの人間ドックの結果が先だって届き、ギョッとしたからだ。
 高血圧、糖尿病、高脂血症、高コレステロール、脂肪肝……と並ぶは並ぶは。
 多くは前々から要注意、境界型などと言われていたのだが、高血圧だけは全く今年初めてである。

 なぜ、突然そうなったのか。他の治療のためこの1年飲んだ薬のせいも少し考えられるが、総合的に考えると、たぶん糖尿病、高脂血症などと一体になったいわゆるメタボリック症候群であろうと思える。

 要するに成人病、近頃の用語では生活習慣病で、運動不足、食べ過ぎ、ストレス、それにつまりは歳をとってきたせいだろう。

 念のため、明日あたり近所でその種のメタ症候群を扱っている医者へ行こうと思っているが、たぶん具体策としては毎日の運動、食事療法、アルコールの減量、になろうと思える。

 で、それを先取りして、一日40−60分のウオーキング、塩分・甘いもの減量、アルコールを減量し週2日休肝日とする、夕食量を少し減らし朝食を少し増やす、などを実践しだしたというわけだ。

 実は過去にも2度ほど似たことに挑戦したのだが、すぐうやむやになってしまった。今度はもういい加減には出来ない。数値ははっきり境界を越して「病気」といっているのだから。

 ああ、もの悲しい。でも、土手の朝のウオーキングは空気さわやか、鳥や草木に関するちょっとした発見、それに随分沢山の同年配人たちのウオーカーの存在、などと新たに気づくことも多く、気持もいい。

 今朝の連れあいの話では、「少しお腹がへっこんで来たわよ」。
 事実とすればまことに嬉しい。腹囲を減らし、肥満解消が一番いいらしいのだから。



10月16日 信州の新そば

 昨日おとといと所用で信州に行っていた。上田から車で安曇野、大町へ。
 穂高温泉で一泊し、翌日は更埴、上田、小諸とまわって佐久から新幹線で帰った。

 所用関係を別にすれば、上田郊外で食べた新そばが抜群にうまくて印象に残った。
 実は前日、大町からかなり山の方に入った通称そばの里で新そばを食べようとしたのだが、そば屋はもちろんふだんの民宿までが軒並み「手打ち新そば」の旗を出しているものの、どこも客がずらりと並び3,40分待ちは軽そうなので、イライラして諦めたのだ。

 で、土地の人に教えられ、案内付きで畑の中の一軒家「かみしな」という店へ行ったのだが、「くるみそば」がまさに逸品だった。たっぷりの量の新そばがよく冷えてピッと腰があり、胡桃あんをタレに溶かして啜り込むと、一口ごとに嘆声を上げたくなるほどうまいのである。

 胡桃そばという食べ方自体が初めてだったので、そのせいもいくらかはあるが、基本的にはそばがいいのだ。前日以来、あちこちに「新そば」「新そば」と旗やビラがある理由がよく分った。この頃ブームでとみに増えた信州そばの獲りたてはたしかにうまい。

 おまけに横が林檎畑で、そこで採れたらしいりんごがデザートに出たのも嬉しかった。サクサクして、ああ、信州りんご、という感じ。そばとりんごは合いますね。

 連れ合いが足指を骨折しているなかでの、かなり忙しい旅だったが、腹くちれば文句なし、温泉の湯もよかったし、暑かったミャンマーとは違う日本の良さを改めて満喫した。



10月11日夜 ミャンマー問題に関するペンクラブ声明 

 だいぶ遅ればせになったが、今日午後になってペンクラブ事務局から以下のような声明を本日、内外の関連機関、報道関係に送信した旨連絡があった。
 文面ともども、いささか現実の方が先行している感がある上、果してどれほどの効用があろうかと虚しい気分も生じるが、しかし外つ国の物書きなぞはこれくらいしかできぬのかもしれない。
 ともあれ、和英両文をここにも記します。


「ミャンマー政府による新たな言論弾圧、日本人ジャーナリストの殺害、僧侶、市民の拘束に抗議し、言論の自由の回復を求める声明」

 われわれ日本ペンクラブは、平和を希求し、言論表現の自由と人権を守る立場から、国際ペン憲章にも反したミャンマー政府の長年にわたる言論の自由への弾圧に対し、獄中作家委員会の活動を通じて抗議し、アウン・サン・スーチー女史や政治犯の拘束を解くよう求めてきた。
 今日平和的な人々の意見表明の高まりのなかで、ミャンマー政府が新たな大規模な弾圧・暴力を引き起こし、兵士が、取材活動を行っていた日本のジャーナリストを殺害し、日本のメディアの現地関係者を連行・拘束するとともに、多くの僧侶・市民を連行・拘束したことに対し、日本ペンクラブは非常に強い憤りを感じる。
 日本ペンクラブは、ミャンマー政府に対して一刻も早く軍隊による現在の暴力状況を終わらせ、長年厳しく制限されている言論の自由を回復し、アウン・サン・スーチー女史や全ての政治犯の釈放を行うよう求める。
  日本ペンクラブは、武力ではなく建設的な対話により民主化にむかおうとしているミャンマーの人々に連帯を表明し、また日本政府を含む国際社会が、ミャンマー政府に対し、現在拘束されている人々の釈放と、言論の自由に基づく民主化の推進をするよう求めることを要望する。

2007年10月9日

社団法人 日本ペンクラブ
会長 阿刀田高

"Japan P.E.N.'s statement in protest of the suppression of monks and citizens by the government of Myanmar"

 Under the P.E.N. Charter which seeks to promote peace, protection of freedom of expression and defense of human rights, we, the Japan P.E.N. Club have continuously made protests to the Myanmar government through the activities of the Writers in Prison Committee concerning the suppression of free speech for many years, and we have requested an end to the restraint of Ms Aung San Suu Kyi and other political activists.

 The Japan P.E.N. Club expresses its very strong objection to the Myanmar   government with regard to the following: further large-scale crackdowns
using violence, the murder of a Japanese journalist by a government soldier
while covering the protests, and the detention by police of large numbers
of people including local employees of Japanese media companies, monks and
citizens during the recent orderly demonstration by peace-loving people.

 We call upon the government of Myanmar to halt the violence by the military, to restore freedom of expression, which has been restricted over many years, and to end the torture and ill treatment of political detainees, and release them immediately and unconditionally.

 The Japan P.E.N. Club declares its unity with the people of Myanmar who are working to democratize their country through constructive dialogue and not violence, and calls upon the International Community to take every possible means to support this movement to release people in detention, and even more importantly, to promote democracy based on freedom of expression in Myanmar.

Tokyo, October 9th, 2007

Takashi Atouda
President
The Japan P.E.N. Club
The Japanese Center of International P.E.N.



10月11日 ちょっとホッとした ミャンマーの良心

 今朝の朝日新聞7面外電欄に嬉しい記事が出ていた。

 「ミャンマー 弾圧拒否の兵400人拘束」
 内容は、一連の反政府デモ中、軍事政権のデモ弾圧の命令に指揮官5人が従わず、命令を拒否して部隊を展開しなかった。また、第2の都市マンダレー近くの部隊では、約400人が僧侶の前に銃を置き、許しを請うた、というのだ。

 しばらく前には、やはり命令拒否の陸軍少佐が息子を連れてタイへ亡命、という報道もあったし、昨日は、在イギリスのミャンマー大使館外交官が、軍事政権の僧侶デモ鎮圧ぶりに抗議して辞任、の記事もあった。

 やはり良心派は軍や政府側にもいた、の思いが強い。軍法会議や、亡命、職を賭す、というのはよほどの決意だろうし、そこまでは踏み切れないが似た思いの人はその数倍はいたろうと思える。

 ひょっとしたらそのうち軍内部、政府内部で亀裂が起り、タン・シュエ独裁軍事政権も崩壊の可能性ありの信号かもしれない。

 国連安保理の非難決議も結局中国ロシアの反対で不発に終りそうだし、ASEANなど近隣諸国は制裁せず路線らしいし、あの国では軍内部の分裂以外ことは好転しそうにないと思えるので、私はそれに強く期待する。



10月9日 沈黙こそが……

 ミャンマー情勢に関して、この頃は国連の動き、長井さんをめぐっての日本政府やマスコミの動きはかなりあるが、肝心のミャンマー市民やデモ側の動きは何も伝わらない。

 長井さんの死体や国外のビルマ人サイト等によるデモ僧侶の死体写真はしょっちゅう目にするが、あの何万人もいたデモ市民や僧侶、そしてその背後の何百万人たちの動向や考えはまるで分らない。

 中心層はみな刑務所やその種の施設に閉じこめられているのか、あるいはとにかく軍政による圧殺ぶりが恐くてひたすら沈黙しているのか。

 おそらくその双方なのだろう。そして息をこらしてわずかな隙間から国内情勢、諸外国のミャンマーへの動きを見つめているのだろう。

 国際的には国連安保理でミャンマー非難決議くらいは出そうな様子だが(今までは中国ロシアの反対でそれすら出来なかった)、それがどんな実効を持つかは分らない。アメリカなぞでも、制裁一本槍より援助と引き替えに少しづつ民主化影響力を強めた方が得策では、といった声も出始めているらしい。

 ミャンマー国民の生活は世界最貧国のそれだから、軍政を締め上げるための経済制裁等は即、国民の生活を締め上げることにもなるから、巧みな援助こそベターというのも一理あるが、しかし太陽政策が必ずしも成功するか否かは北朝鮮の例を見ていてもよく分らない。

 太るのが一握りの軍政関係者と御用商人だけではもとより意味をなさない。しかし、私のわずかな見聞でも、乾燥地バガン(世界三大仏蹟地)などでの日本のODAによる砂漠化抑止のための植林援助の好評ぶりなどを考えると、全く打ち切るより継続した方がいい面も感じざるを得ないし、だが、軍政はそれを自分たちの手柄、利益に結びつけるのも事実だ。

 矛盾は殆ど堂々めぐりで、どうすべきかの確信はたぶん誰にも持てまい。
 そして、こちらも沈黙しがちになり、ミャンマー人たちの沈黙が更に深まる。

 人間への苛立ちと、虚無感が忍び寄り、私なども、ええーい、何もかも忘れて温泉にでもつかりたい、なんぞ面白い小説を読みたい、と呟き出してしまう。

 だが、温泉につかっても多分ミャンマー人たちの顔がちらつくだろうし、小説といっても、戦時中に芦屋の優雅な女姉妹たちの暮らしぶりを悠然と描いた谷崎潤一郎の「細雪」みたいなものを読む気にはどうもなれない。では、いっそミャンマーの小説はどうだろうと思っても、今のところ日本で翻訳で読めるものには率直なところこれというものがない。

 9月27,8日頃からペンクラブで抗議文、声明文をと提案し、多少動き出したはずのことどもも、どういう訳かまだ形になっていない。間に色んな人が入るし、休日もあるし、国際情勢はどんどん動くしで、何ごともこんなふうになるのかもしれない。
 
 うーむ、秋風ばかりが急速に身にしむようになった……。



10月4日 皆さん、BurmaInfoを御覧下さい

 この間のミャンマー情勢をめぐる情報のまとめが的確に出ています。

  http://www.burmainfo.org/politics/88GSG_200708.html

 その中に「川に捨てられた僧侶の写真」もあります。正視に耐えませんが、一つの現実です。
 合わせて「Democratic Voice of Burma」も御覧下さい。ミャンマー語サイトですが、映像(ビデオ映像)が豊富なので、実態がよく分ります。長井さんが撃たれるシーン、私服警官(特務兵士?)が市民を暴力的に逮捕していくシーンなどがあります。



10月3日 虚しく、諦めが、しかし、……

 ミャンマー情勢は、国連事務総長特使、日本外務省特使、ASEANの動き、欧米各国の非難と相次ぎ、いずれも「武力行使をやめること、逮捕者・政治犯の釈放」をミャンマー軍事政権、独裁者タン・シュエに要求したが、具体的成果はない。

 武力行使はやめるも何も、すでに完全鎮圧されてデモの影もないし、逮捕者・政治犯は釈放どころか、伝えられるところでは、僧侶4000人が僧衣を脱がされ北部国境近くの刑務所に移送されるかされたという話だし、一部はヤンゴン市内の刑務所に収監され、早くも「懲役6年」の刑が宣告されたという。

 一体どういうことか。ちゃんとした裁判なぞ全くないということであり、敬虔な仏教国、僧に対する尊敬といったこともまるで感じられない。
 タン・シュエは国連のガンバリ特使に対してすらすぐには会わず、一日待たせヤンゴンと2往復させてやっと会ったようだし、「事態はすでに終っている。平穏である」という軍事政権の見解はある意味ではその通りだ。手も足も出ないのである。

 私はせめてもと思って、ペンクラブで抗議文や要請文を出すよう働きかけてきたが、何もせぬうちに勝負はあった感じだ。国連等は素早かったし、力もあるはずだが、それでも何ともならないし、日本政府も珍しくかなり積極的な言動をしているが、しかしそれも日本人ジャーナリストの死に対してだけで、ミャンマー人逮捕者や政治犯への行動は殆どない。

 ミャンマーへの旅や在日ビルマ人からの話などで少し知った実態は、あの国が恐るべき密告・スパイ社会であり、逮捕・拘束者には、思うだに辛くなる拷問や過酷・劣悪な収容所暮しがあるという。

 私はわずかな知り合いの顔を浮べては、彼らがそういう目に遭わないよう祈るばかりだ。連絡もメール等が遮断されているらしくままならぬし、出来たとしてうっかり外国人からメールがいったりすればどんな悪影響が出るやもしれぬと思うと、何も出来ない。

 息をこらして色んな報道・情報に注意し、何か良策はないものかと思いあぐねる……。

 昨夜見たテレビ番組では、ミャンマー東部国境のカレン族地帯の窮状も目を覆った。10数万人がミャンマー軍事政府軍に家を焼かれ、集落ごと潰され、地雷の埋められた山野をさまよっているのである。

 カレン解放戦線がいまだに根強く闘い続けている理由もよく分った。
 日本政府はせめても、あの国からの政治難民を間口を拡げて受け容れるべきだろう。そして、国民や仏教団体は物心両面の積極支援を民主化運動側に与えるべきである。