風人日記 第二十八章
                                  TOPページへ
CHANGE
  2009年1月1日〜3月31日

08年師走半ばに佐久平から撮った浅間山。
雲がかかっているのが残念だが、冠雪した全体像はよく分る。
埼玉の自宅マンション14階からは、だいぶ形の違った頂上部だけが
北秩父連峰の峰越しに見える。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

ビルマ(ミャンマー)における軍政の暴虐に抗議する 

 昨11月21日ミャンマー軍事政権の裁判所は、今年5月のサイクロン被災者に対し無許可の救援活動をしたとして拘束された人気コメディアンのザガナル氏に、禁固45年を言い渡した。

 また11月17日には「88年世代学生グループ」のミンコーナイン氏ら9人に、65年の禁固刑を宣告した。
 18日には全ビルマ僧侶連盟のガンビラ氏に禁固12年、20日にはヒップホップ歌手ゼカートー氏に禁固6年を宣告。

 ほかにもこれまで70人以上の民主化活動家を禁固刑に処している。

 65年とか45年の禁固とは一体いかなる刑なのか。想像もつかぬほどの暴虐であり、非人間的扱いであることは言を待たない。私の知る限り、歴史上にもこのような刑はなかったのではないか。
 私は表現と教育にたずさわる一個人として、このような暴政に強く憤りを感じ、ミャンマー軍事政権およびそれを支援する中国政府などに対し厳重に抗議する。

 ミャンマー軍政が倒れ、ビルマに民主的社会が出来ることを心から祈る。

                        2008年11月22日   夫馬 基彦

2009年1月16日追記:

  本日付朝日新聞6面外電欄に次の記事が出ていた。

ミャンマー裁判所
■活動家に禁固104年
 【バンコク=山本大輔】
ミャンマー(ビルマ)第2の都市マンダレーの裁判所が15日までに、20代の学生活動家の男性に対して禁固104年を言い渡したことが分かった。AFP通信が同日、伝えた。


驚愕、唖然、マジメなのかとさえ疑う。ミャンマー軍政よ、天罰が当るぞ!!



BurmaInfo & ビルマ民主の声

 http://www.burmainfo.org/weekly.htm(日本語)

 Democratic Voice of Burma ( ビルマ語、英語。ビデオ映像多し)


Tibet関係サイト

 http://www.geocities.jp/t_s_n_j/index.html
(日本語)

 http://www.tibetsites.com(英語。写真多し)

 
http://www.tibethouse.jp/日本語ダライラマ法王日本事務所

 http://www.amnesty.or.jp/

大紀元 (中国在外で発行されている反体制派のネット新聞。法輪功寄り)

 http://jp.epochtimes.com/jp/2008/03/html/d56609.html
 (日本語)

Tibet The Story of Tragedy (youtubeによる55分のチベット悲劇の物語)

  
http://www.youtube.com/watch?v=0VRneGYpaXc

 http://tsnj2001.blogspot.com/ (チベット支援ジャパン。日本の各種イベント等)



 「季刊文科」43号(鳥影社。1000円) 大手書店にあり。

    「旅路の果て―与那国島」(連作・南島シリーズの9)  

     http://www.choeisha.com/bunka.html



 発売中:『按摩西遊記』(講談社、1800円)  アマゾンで送料無料

                 
  http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062134470/249-5398224-6034725?v=glance&n=465392

                         (これより日記)


3月31日 五十肩の庭仕事

このところほぼ毎朝一時間半程度は庭仕事をする。
両手で動かす枝切り大鋏を使って、繁茂している笹や野バラ(らしきもの)、それに木々の若枝などを伐っていく。

庭というより、もともと自然の傾斜林だったのを長年まったく手入れせずほうってあった場所だけに、最初は枯れ枝の整理・清掃から始めているうち、だんだん若芽時の簡単剪定か枝打ちみたいになってきたのである。

ところが、私はミニ引っ越しでちょっと重いものを持ったり、直接的にはベッドの組み立て時にドライバーでねじくぎ締めをした際に右肩が「キエッ」としたのを機に、五十肩が再発してしまった。

もう四年前の夏にウイグル地方へ旅したとき痛み絶頂だったしろもので(おかげで「按摩西遊記」という小説が書けたけど)、去年後半ぐらいにはほぼ収まっていたのに、再発したのだ。

で、貼りカイロであたためたり、鎮痛消炎のロキソニンや貼り薬を使ってはなだめてきた。それぞれ相応の効果はあり、少し収まりかけるのだが、すると庭仕事をやりたくなり、のこぎりやハサミを使ったりして、とたんにまたぶり返す、の連続である。

昨日まで貼り薬を二枚も肩にべったり貼っていたのに、今朝は少し良くなったからホッカイロに変え、そのままおとなしくしていればいいものを、庭に出て気になっていたとげの多い野ばらの小枝を鋏で切りかけたらついエスカレートし、ほかの木までだいぶ伐り続けてしまった。

おかげで今、この日記を書くキーボードを打つのさえも痛いありさまだ。
いったい何をしているのかと自分でも呆れるけれど、たぶんそれだけ庭仕事を好きなのだろうと思う。

濃尾平野の農村地帯で育った少年時代から、私は庭いじりが好きで、草花はしょっちゅう植えていた。木は年に一、二回庭師が入るから「子供は触っちゃダメ」だったが、庭師の仕事を見ていて、やってみたくてしようがなかった。

それが六十歳を過ぎてやっとできる境遇になったから、うずうずと無分別になってしまうのである。六十のナントカというべきか何なのか、いずれにせよ浅はかなものだ。

ああ、痛い。ロキソニンでものみに下へ行こうか、我慢するか(鎮痛剤は胃によくないのだ)……。



3月26日 卒業式

毎年のことなのにやはり書きたくなってしまうのは、卒業式のインパクトがそれだけ強いからだろう。

理由の第1は女性たちの着物袴姿を中心とする盛装。これは日ごろざっくばらんな女子学生たちが実にはでやか、きらびやかになって現れ、かつ歩き方から挨拶の仕方まで急に気取ったりぎくしゃくするのが面白い。似合うなあ、こんなにいい女だったかと思えたりするのも楽しい。

それに引き換え、男どもはせいぜい黒っぽい服にネクタイ程度、中には汚れたジーパンやジャンパー姿のままもいたりして、なんとも冴えない。たまにピシっと三つ揃いに胸ハンケチなぞがいて、「これを買うためにバイトの貯金はたきました」などというのを聞くと、見込みのある奴だと感じたりする。

そういう自分は高校の卒業式はさぼり、大学は中退だから、卒業式は実に中学以来体験せずだ。よってずいぶん勝手な言い草ではあると我ながら思うけど、それが年齢というか、すっかり身についてきた教師感覚かもしれない。

夕方からゼミ飲みとなったが、ここでも教室のイメージとはまるで違う飲みっぷり、酔いっぷりを見せる女子学生、一方、全く飲めない男子学生なぞがいて、アレーと思ったりする意外性が面白い。
今年のゼミ生とはこれまでほとんど飲む機会がなかったが、最後に楽しく飲めてやはりよかった。

4月からゼミ生・元ゼミ生をはじめ教え子たちがどんな人生を踏み出していくか、就職未定者も何人かいるからかなり心配なのだが、しかし若さで何とか生きていくだろうと考えつつ雨の中彼らと別れた。


[*以下茶色の部分、本日3月24日一括して掲載しました]

3月20日 一転、また一転 


昨日一昨日と急に暖くなり、ぽかぽかと春か初夏のような気分でのんびりした。しつこい肩腕症候群の肩や首の痛みも減じて大助かりだったが、ただ浅間山の雪が大幅に解けたのは残念だった。せっかくの純白の山嶺が半ば赤茶色に変じてしまったのだ。

ところが、今朝になったら、明け方から雨が降り、9時ごろから晴れていったのち、10時半ごろふと見たら、浅間の頂上部がまた真っ白になっている。下界の雨は上では雪だったらしい。

やった!そうか、そういうことか、と山の天候と変化(へんげ)の具合をリアルタイムで初体験した。再び美しい浅間はいつまでもつかしら。こうなると、少々寒くてもいいから、山は純白でいてほしいと思いだしたから、寒がりの身としては大きな変化である。



3月14日 だんだん整う

表題をこう書いてから、はたして「整う」というべきか否か、しばし考えた。
というのは、新しい家に今まで家具などもろくになかったところへ、このところリビングボード、テレビ、書斎のデスクトップ型パソコン、それに本日到着予定の机と抽斗セット等がそろってきたことを書こうとしたのだが、それが整うことか、特にテレビはと、ふと疑念を抱いたのである。

つまりここを使いだして以降かれこれ1ヶ月半になるが、その間テレビはなしだったのだ。だから何をしていても実に静かで、食事も外の木々のシルエットや鳥や遠景の山並を眺めながらだったし、夜は平均9時半、時に8時に寝てしまったりした。

それがえらく新鮮で、ベッドに入ってからの静寂感がかつてインドやネパールのひとり旅を思い出させたり、伊豆の山村で暮していた時間を蘇らせたりした。若返るというのでもないが、若き日の思考や関心に初老の自分がつながる感があり、何ごとかをリカバリーしている気分で悪くなかった。

が、一方で、どうも時間がもったいないような、情報不足のような気もしてきて、やっぱりテレビは買おうかとなったのである。
結果は、がらんとしていたリビングの落ち着きが良くなった気は確かにするし、だいぶ遠ざかっていた世の情報に接しある程度の情報はやはり必要かと思ったり、しかし夜などカーテンを閉めテレビを見ていると、従来の生活と同じみたいにも感じられる。

さて、うーむ、というところなのである。どうしたもんでしょうか。



3月9日 つらい決断

今日、小諸の家で樹を切る決断をした。
敷地内にあるニセアカシアの樹3幹と、合歓の木1本だ。

アカシアは雑木林ふう敷地内でも一、二に大きい木で、リビングや二階の書斎から一番枝振りよく見えるものだけに、完全に枯れている一幹だけは切るが残りの二幹はなんとか残そうと昨晩まで考えていた。が、今朝、見に来てくれた造園業者が、これは台風がくれば倒れる危険がある、そうなると建物や近所にも被害が及び、大ごとですよ、との話に泣く泣く決断した。
合歓の木もほぼ同様の話である。

敷地内の木は長い間に自然に生えたもので、その自然林的風情が気に入って出来るだけ残したいのだが、長年なんの手入れもなしに放ってあったためか傷みが激しい。根元が虫に食われ、樹皮がはがれたりしている。去年、そのうちの一本が台風で倒れて道路をふさぎ、撤去にかなりの手間と経費もかかった。

今度は塀や門扉も作るし、この際、事前に処理しておこうという訳なのだが、しかし、樹を切るのはつらいものだ。枯れ木はともかく、まだ生きているものはいかに病体老体であれ、やはり殺すことになる気がする。

と思って最後まで迷っていたら、職人さんが、早く伐れば切株からひこばえが生えてくる可能性もありますよ、と言うので、その一言で伐る決断をした。
ほかにも若木を植えるつもりだが、大きく伸びるまではこちらは生きていなかろうと思うと、やはり悲しい。 


3月4日 断末魔のドリアン

ドリアンを室内で育て始めてからもうどれだけになるかしら。
当初はわりあいすくすく伸びたが、ある段階から成長が止まり、このところ貝がら虫がついて葉が落ちだした。

原因は留守が多くなったため室温が下がったこと、水の補給が十分でないこと(少しづつは補給できるようにしている)、などだろう。
が、一番はなんといってもそもそも日本でドリアンは無理ということに違いない。

最初からわかっていたことではあるが、それでもやってみたかったので蛮勇をふるったわけだが、実験物になった2本のドリアンの若苗くんには気の毒なことだったかもしれない。

さて、どうするか。思いきって切ってしまうか、せめて夏までもたせるか。維持するには薬剤散布が必要だが、室内ではどうもやりたくない。
腕組思案中である。

御存じだろうけれど、このHPのトップページには「ドリアンが伸びていく」の標語とともに写真まで載せているから、これもどうしようかというところです。



2月27日 東京の雪

今日、大学で文芸学科2次試験作文中に、雪が降り出した。
最初は霙模様だったからすぐ雨になるだろうと思っていたら、やがてかなり本格的な雪になった。

暖冬の今年、東京で私自身が実見した雪はこれが初めてである。ホウと思ってしばらく見とれた。受験生諸君は鉛筆を動かすのに必死でほとんど気づいていないから、百何十人いる中で見ているのは監督者の数人だけだ。声を上げるわけにもいかぬし、語りかけるわけにもいかない。それがちょっと独特の気分になって、東京の雪もたまには悪くないなと感じた。

小諸ではもう何回も見たが、背景は林や木々、下は地面や草なのに、東京で見る雪は新校舎建築中の鉄骨と青いビニールシートが背景、下もすべてコンクリートや人工物だから、風情はだいぶ違う。

どちらがいいとかではなく、なるほどここではこうなるかと違いに改めて気がつく実感がある。都会の雪にはそれなりの表情があり、無機的で、クールで、必ずしも美しくないが、しかしある種の吸引力がある。なにか哀しみのようなものさえある気がする。

美しく降れない哀しみ、汚れた大気の中で降らざるをえない哀しみ、大地に解けたり積もれない哀しみ、世界を純白におおえない哀しみ、……。

作文のあと面接、次いで作文の採点と続いてゆき、ふと気づいたらとっくに雪は雨に変っていた。



2月23日 二つの書斎 

今、これを書いているのは柳瀬川のマンションの書斎、つまりもう17年間使いなれた、体臭のしみついた部屋である。北側にあるのでエアコンの暖房と足温器を併用している。エアコンだけだと上半身から上はあたたかくても足が冷えるから、冬はこうしている。暖房をつけずに入ると相当寒いので、我が家では「北極」と呼んでいる。

それでも、こうして書いていると落ち着いた気分になる。必要なものは体か首をひねればたいがい取り出せるし、周りを見渡せば資料類もおおむねある。この書斎で何作もの小説を書いてきたし、仕事上の書類、日記、手紙も数知れず書いてきた。

今日の朝までいた小諸の新書斎は、紫系2色で統一された、きれいで広い、わが生涯最高の書斎である。相変らず北に半分向いているが、それは山を見るためで、北側の横広の窓からは全面に浅間山の雪景色が文字通り絵のように浮び上っている。

西側のやや狭い窓からは、晴れると北アルプスの雪峰が遠く屏風のように横に連なって見える。手前は自然林ふうの木々が、今は葉のない幹や枝をシルエットみたいに見せている。

ただし、ここにはまだ私のものはろくに運んでないので、机も間に合わせの古いパソコンラックで代用、本や資料類は何もないも同然で、VAIOの小型パソコンが1台、ちょこんとあるだけだ。

でも、気に入って、この部屋であさ起床後6時半から7時ごろの時間をまず過ごし、以降、まだあれこれ多い新居の整備とか買物、電気・ガスなど支払い関係の手続きいろいろ、まだ手つかずの塀や門扉・駐車場作りの打合わせ、火災保険の契約、ゴミ捨ての仕方、その他、の合間にはこの部屋に独り入り、書見をしたり、パソコンを開いたりする。

どちらもいい。今のところ、仕事、実用上はこちらの旧書斎の方がいいが、むこうの清新感、別世界感も格別だ。
一番希求しているのは、新書斎で新しい発想の作品を夢中になって書けることだが、それはまだ端緒が見えていない。

春休みかあるいは夏前までにもう一度ミニ引っ越しをせぬことには、それは動き出さないかもしれない。



2月17日 なんと入試監督責任者!

本日は第3回入試、写真学科、演劇学科の試験だったのだが、なんと私が一番大きな試験会場大ホールでの監督責任者だった。
勝手知った7人の監督者がついていてくれるから、さほど緊張することもないものの、だがやはりその他大勢組の時と違って気は締まる。

しかも午前9時20分から12時半までほぼ立ちっぱなしである。さいわい病人や大きな遅刻者等は出なかったから結果オーライだったが、机に突っ伏している受験生がいたりするとやはり心配になる。

私は注意事項以外に、待ち時間に緊張をほぐすため「深呼吸をしましょう」と2度「息を吸って、はいて」とやってみた。素直に従ってくれた人が多かったが、ただじっと見ていた受験生もいたから、よかったのか否か……。

静寂の中でさらさらと鉛筆の音を走らせる若い受験生諸君を見ながら、18歳の学生なら親は40代か、前半ならその親つまり祖父母は早ければ60代半ば、つまり私ぐらいもありうるか、などと考えた。
要するに孫たちが大学受験の年代になりかかっているということである。

いささかの感慨が去来し、自分の受験時代も思い浮ぶ。
世の中は変ったが、こういうことはあまり変っていない気もする。世代は交代するが、繰り返してもいる。

若者よ、今、諸君は幸福だろうか。希望に満ちているだろうか。
そう気楽ではあるまいが、やはり明るく、前向きに生きたほうが、人生はいいと思う。
さあ、みんな、元気で進めよ。



2月16日 腹がへこむ 

昨日、小諸からまた埼玉へ戻ってきたが、湯上りに体重を測ったら1キロ減っていた。今朝、こちらで使っていた普段着のズボンをはいたら、バンドが少しゆるい。

つまり、腹がへこんできたのである。

理由は二つあると思われる。
一つは家が2階建てになったため階段を日に何回も上り下りするせい。
これはなんでもないようだが、かなりの影響がある気がする。これまで使わなかった筋肉を相当使うし、運動量もかなりある。最初のうちは2,3回上り下りすると疲れ気味になったくらいだ。それが慣れるにつれ、だんだん足腰が軽くなってきた。

二つ目は小諸の地形のせいだ。
小諸はいわば浅間山の山麓にあるため、町じゅうが坂でできている。ちょっと買い物や散歩に出ても、いつの間にかかなりの坂を上り下りしている。
ましてや千曲川の方へ散策したりすれば、これはもう半分トレッキングだ。帰りはたいていフーフー息をついている。

埼玉では意識してウオーキングをしていたが、小諸ではそういう必要は全くない。普通に暮らしていれば運動量は十分になる。
実際、マンションに戻ってみると、屋内で歩く距離はせいぜい1回5メートルから多くて10メートル程度、天気が悪かったり仕事の具合によってはほぼ1日屋内にいたりするから、運動量もゼロに近かろう。

というわけで、この調子だとメタボ解消は時間の問題と思え、いい気分である。
問題は二重生活にかかわる煩わしさだが。これはおいおい生活のスタイルを模索していく以外になさそうだ。大学のスケジュールによることも勿論で、四月以降にならないと定型は決まらないだろう。



2月11日 大都市郊外は便利だなあ、ラクだなあ

9日に埼玉のマンションに帰ってきている。

10日は一人で朝食をとり、朝9時に出勤、修士制作と論文を午前中いっぱい読み、午後からはその面接のほか教授会等会議が4つあった。
さすがにかなり草臥れ、帰りの地下鉄の中で目がチラチラした。

今日は祝日のせいもあり、私も休日。午前中は留守中の郵便物に返事を書き、投函。ついでにすぐ目の前のサミットに寄り、100円ショップで鼻毛切りや吸盤式タオルかけ、はさみ、印肉、ブック立て、長い靴べら、その他まさに雑貨を計6千円ほど、ということは1個100円のものを60個買った。どれも実に些細なものばかりで、こういう買い物の仕方は過去絶対になかったと断言できる。

それから下のスーパーでリンゴ箱だった空きダンボールを貰い、帰宅してそこに先の雑貨やスリッパ、布類、鳥類図鑑、植物図鑑、ノートなどを詰め、ぎりぎり一杯にして宅急便の手配をした。

疲れたので自分で昼食を作る気にならず近所の蕎麦屋へ出て、なんと「田舎そば」という名の信州そばを食べて戻ったところである。

そして帰途、一番痛感したのは、ここは実に便利だ、ラクだという実感である。

通勤するのに駅へ行けば、5、6分も待てば電車が来る。帰宅時には駅前スーパーに寄れば刺身でもチーズでも冷凍高菜ごはんだろうがすぐ買え、徒歩3分で帰宅すれば、ほぼ10分後にはビールの晩酌ができる。

郵便ポストも郵便局も徒歩3分、銀行も市役所の出張所も同じ、商店街も3分、図書館はちょっと遠いがそれでも徒歩5分のニュータウン内である。

マンションは、高層階のせいもあって鍵一つかけておけば治安は全く安全。郵便ボックスも鍵付きだからまず安全だ。
15分も行けば街道沿いに大型電気量販店や安売り酒店があるし、医療機関も内科、歯科、整形外科、指圧マッサージ、その他一通り徒歩の範囲内にあり、一駅乗れば総合病院も丸井もダイエーもある。

つまりたいていのことが数分から10数分の距離で間に合ってしまう。

小諸では万事こうはいかない。一番近いスーパーでも坂道を15分以上は歩かなければならぬし、駅までは12,3分だが、列車は1時間に1本くらいしかない。ドラッグストアには15分、お医者はどこがいいか確証がない上、どこもかなりの距離である。おまけにまだ保険証がない。連れ合い用に仮保険証というのを学校で出してもらったが、当地の歯科医院はそんなもの見たことない、知らない、とおっしゃる。

おまけにさらに重要なのは、商品類の多くが埼玉の方がずっと安いのである。100円ショップに行ったのはたいていの小物がここで実に安く揃うからで、それらの多くは小諸で個人商店に行ったりすれば、ないか、あっても5割から倍くらい高かったりする。

むろん、ある種の野菜や果物、乳製品など小諸の方が安いものもあるが、総合的に言って物価は埼玉の方がだいぶ安くて品揃えがはるかに良い。

つまり今の日本では、物価は大都市、あるいは大都市の郊外が一番安く、物資も利便も集中している。ひょっとしたら物価も物流も経済の根本もそれらを基軸とした構造になっているのかもしれない。

昨今の新自由主義的資本主義原則に照らせば、当然のことかもしれぬが、もともと農村社会出身の身から見れば日本社会の実情は大幅に変わった。いやになるほど変わった。

これでは田舎はますますさびれ、シャッター街が広がり、物価や物流の格差が増大し、人間がさびしそうな顔になっていくだろう。
かなしいことだ。

だが、それにも増して得難いものが田舎にはある。
それについて次回以降、おいおい語っていきたい。



2月9日 浅間のけむり

信州小諸に拠点が出来、このところ毎週行き来している。
二重生活なのでしんどい面もあるが、何といってもかの地のすがすがしさ、ピリリとした冷気、美しいとしか言いようがない山々や木立、そして新しい家の香りにひかれてしまうのだ。

そして毎朝起きると、まず浅間山の噴煙の具合を見る癖がついた。2階の書斎からが一番眺望がいいので、階段を上るのだが、この途中で踊り場あたりの窓から早くも見える。

煙は本日は白くほぼ横向きに群馬側へ流れている。もくもくと湧いているが、まがまがしくはない。むしろ青空に白色が牧歌的である。

空は本当に青い。夜は星が降るように銀色の点を散らばらせる。

昨日は車で15分ほどの布引温泉へ行って来た。当初は「あぐりの湯」とかいう別の温泉を目指したのだが、途中健康保健関係の施設なるものがあり、そこからぽかぽか顔をしたおばあさんが二人のんびり出てくるのに出会い、聞いたら「こぢんまりしてるけど、ここの方がいい。いい温泉だよ」とのことなので、そこに入った。

入湯料400円、こぢんまりといっても相当広々とし、しかも眼前一面が浅間連峰で驚くほど見事である。「ほうほう」と声を上げ、近在の老人連と昼湯にゆったり浸かった。極楽である。

ほかにも界隈には5から6個のこの種の温泉があることも判明。いよいよ楽しみが増した。毎週1回は温泉めぐりが出来そうだ。ただし、車が必需なので、湯上がりに一杯やれないのが残念だが。



1月31日 本日大雨、そして卒制面接

しばらく信州へ行って来て戻ったら、こちらは昨日からずっと雨である。書斎側の柳瀬川は濁流で河川敷部分までいっぱいに浸されているから、かなりの大雨といっていいだろう。おかげでいつも見える水鳥たちが1羽も見当たらない。

いや、間違い。今見渡したら、濁流の端を大小3羽だけ泳いでいる。親子だろうか。

今日は学校で卒論卒制面接日である。学生にとっても2年間担当してきたゼミ教師にとっても重要な日だ。学生諸君、どんな面持ちでやってくるか。さあ、最後の点検をする。


1月21日 スタッドレスを履く

今日、スタッドレスタイヤというものを初めて履いた。雪や氷用のタイヤだが、「履く」という言葉を使うのも面白かったし、スタッドレスの意味も面白かった。
スタッド=鋲だそうで、つまり鋲なしタイヤ。一昔前あったスノウタイヤは鋲付きで、ゆえに路面が削れ、乾いた後など粉塵がもうもうとたって新たな公害ものだったが、それが改善されたということらしい。

私はこのごろ5本指式の靴下を履いているが、これだと従来の普通のものよりあたたかくかつ踏ん張りが利いて足裏の運動にもなる。さらにその裏に滑り止めのザラザラがついたものもあり、これだとつるつるした床を歩いても全く滑らず安心である。

昔、小学校時代、私は足袋に下駄を履いて通学したが、下駄を履いているとおのずと足指全体に力が入り、走る時なぞ指裏に更にぐっと力がこもり、関節が盛上がる。下駄はいつの間にか親指や人差し指のあたる部分に凹みが出来たりした。

それと関係あるのかどうか私はがに股で、しかし50メートル疾走はクラス一早かった。中学時代以降、通常の靴下と靴になって、ラクになったし、走りやすくもなったが、慣れるにつれいつしか足の力が衰えていった気がする。

雪も降らなくなり、二の字ニの字の下駄の痕もつかなくなり、下駄自体も足袋も履かなくなった。代りにスタッドレスを履く。そして高速を走る。



1月16日 これは一体なんだ! 

今朝の朝日新聞6面外電欄に次の記事が出ていた。

ミャンマー裁判所
■活動家に禁固104年
 【バンコク=山本大輔】
ミャンマー(ビルマ)第2の都市マンダレーの裁判所が15日までに、20代の学生活動家の男性に対して禁固104年を言い渡したことが分かった。AFP通信が同日、伝えた。

驚愕、唖然、マジメなのかとさえ疑う。ミャンマー軍政よ、天罰が当るぞ!!



1月11日 のどゼエゼエ

風邪をひいたわけじゃないんだけど、この金曜日に3週間ぶりの授業で連続3時限喋りつづけたら、すっかり声がかれた。
そこへ今冬一の寒さとかの雨の中を歩いたら、喉がゼエゼエ言い出し、昨日まで声がガラガラになった。

今日はだいぶ良くなったが、でもまだ少し喉がひっかかる。風邪に発展せぬよう、大事を取りたかったが、家族の用で半日買い物に付き合い、マスク姿で寒かったり(外)暑かったり(屋内)する街をうろうろした。ああ疲れた。



1月6日 イスラエル人(びと)よ、汝をかえりみよ

正月以降、最大の問題の一つはイスラエルのガザ攻撃と侵攻である。
またか、なぜ今、から始めてあれこれ考えざるを得ないが、結局残る最初にして最終的な問いは、かつてポグロム、ナチスの虐殺を体験してきたユダヤ人たちが、イスラエル建国に熱情を燃やした気持は分るが、そのためにパレスチナ人たちに同じような悲惨をなぜ強いるのか、ということである。

まったく、あれななぜなのか。なぜ自分たちのためにパレスチナ人から安住の地を奪っていいのか。人間とは結局そういうものなのか。それをつくづく考えざるを得ない。

論より証拠。以下の写真をご覧いただきたい。

http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col13033.htm


1月1日  皆さん、新年おめでとうございます。 

 今年はアメリカも変るでしょうし、たぶん日本も変る。どういう変化かは定かでないが、かなりの変化は間違いない。

 さて、今年は何をするか。すでにやりたいことはおぼろにあるが、明確なことばにはなっていない。それをだんだんことばと形にしていくのが当面の目標です。
 さあ、BON VOYAGE!