風人日記 第三十章
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涼しき夏
  2009年7月4日~9月29日

09年7月4日午後撮影。小諸の庭先。
前回の第29章の写真と比べてください。
手前に咲いていたピンクの花がかくも緑に繁り、
見えにくいけど直径3~4センチの緑の実が幾つもなっている。
桃か杏かはまだ確定できないが、たぶん桃の可能性大。
別にある杏の実はすでに黄色いのに、これは全く緑のままだから。
右手前の切り株は風雨にさらされ、早くもこんなに古びた。右端の方に1個増えたのは
上に水ガメを置こうとしたため。だが、不安定だったので、水ガメ(濃紺色)は右下においた。
中にはメダカが6匹いる。
花の向こうに見えていたコンポストは桑や桜の枝葉に半分おおわれ、
中では堆肥が着々出来つつある。その右手奥が畑で、茂っているのがトマト。
まだ黄色のプチトマトしか収穫していないが、その右にはナス、キウリ、両側に枝豆もあり、
枝豆以外はすでに収穫進行中。土色だった畑予定地もかくの如くすっかり草に覆われた。
草取りはシジフォスのごとき労働である。






このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

新刊を出しました! 

6月12日発売 3年ぶりです。

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事などがあります。御覧ください。


ウイグル独立運動を支持する

 昨日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチでウイグル人と中国武装警察との間に騒乱が起った。
 現在伝えられるところでは死者約150人、負傷者多数、被逮捕者数百人とのことだが、中国政府は例によって厳重な報道管制・ネット規制を敷いているので、実情は定かでない。

 だが、わずかに映し出される映像を見ていても、デモ隊側は半袖シャツなどの軽装に素手、武警側は重装備の上、時おり画面の背後から銃声が聞えるから、およその状態は察しがつく。去年のチベットの時と同じだ。
 

 
問題は今度のデモがどういう経過だったかより、根本として一番大きく、重く存在する民族自決問題である。人種はトルコ系、言語も文字も独自のウイグル語、宗教はイスラム、北京や上海よりはるかにカザフやウズベック、キルギス、アフガンに近い中央アジアの国を、漢族が大量移民の力で支配屈服させようというのが間違っている。

 背景は領内の石油資源・鉱物資源、そして中華思想に基づく大国主義にあることは明らかであろう。私は、ウイグル、チベット、内モンゴル、台湾の独立を強く支持する。

                                   2009年7月7日    


アウン・サン・スー・チーさんの有罪・軟禁継続に強く抗議する!

 昨日(8月11日)ミャンマー軍政はスー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。

これは来年予定の総選挙から彼女を一切排除するための専横措置であることは明らかである。

予想された措置ではあるがそれにしても暴虐が過ぎる。軍政に対し強く抗議し、彼らの権力が崩壊することを切実に望む。

                                  2009年8月12日



                         *(これより日記)

9月29日 雨、そして木

今日は朝から雨が降っている。最初は霧雨、やがてかなり降りだし、今はポツポツ程度。乾いていた土や植物類が濡れてしっとりする。文字通りおしめりである。

業者に来てもらい、庭の木を切る相談をした。桑やアカシアがひと夏でぐんぐん伸び、2階の屋根にまでかかり出したからだ。ほかに大半が枯れた桃の木、半分枯れたプラムの木もどうするか。

業者は枯れた部分は切ったほうが木のためにいいと言う。ひょっとして来春また新芽が出やしないかと迷う気もあるが、2,3日考えて決めよう。

門近くに目隠しを兼ねた常緑樹を1本ほしい気がしてそう言ったら、シマトネリコかソヨゴの名を出された。こちらは金木犀やイチイなどを考えていたから、初めて聞く名だ。

調べてみたら、シマトネリコは島トネリコ、沖縄に多いからついた名で、別名台湾シオジ、常緑樹または半落葉樹、葉が涼しげできれいという。沖縄好きの小生、台湾好きの連れ合いにもふさわしい気がし、葉や花の具合、形状も悪くないようで、だいぶ気持が傾いている。

業者の山に一度見せてもらいに行こうかとも思うが、すでに植えている方あったら意見を聞かせてください。



9月26日 東京はいろいろあるなあ

23日から東京界隈にいる。

24日が学校の後期開始、同時に新校舎初登校。早めに登校し、新研究室の配置調整と荷物整理で汗びっしょりになる。東京も結構涼しくはなっているが、労働すると汗がしたたって目に入り痛いほどである。

授業は、院生はきちんと現れたが、学部のゼミ3年は出席率50%、課題提出者ゼロ、夏休みの報告は間延びそのもの。嘆かわしい。が、思い返すと、自分の学生時代も似たものだった気もする。

夕方、かかりつけの医院へ。血圧はあまり変わらずだが、尿タンパクが出、尿酸値が高く、なにやら腎臓に問題がありそうとか。よって血圧、腎臓両方にきくという薬を再開することになり、1ヶ月後、再検査となる。

薬は1日たった1錠だが、毎日飲むということ自体が病人ぽくっていやなのだ。が、やむを得ない。

昨25日は、出がけに大急ぎでマンションの管理事務所へ用足しに行き、ついで市役所の出張所で介護保険料支払い。急いで出校後は授業2コマをやり、研究室のあちこちを雑巾でふき、夕6時から、急死した同僚教授の通夜に駆けつけた。キリスト教式だから前夜式というらしい。

直前に地味なネクタイを締め、黒っぽい夏上着は着たが、喪服ではない。大勢の会葬者は大半が喪服、ネクタイも黒だったからムムと思ったが、私としては入学式以来のネクタイだからまあ許していただきたい。

式は牧師の司式のもと全員で賛美歌を歌うやり方で、私としては実に久々に声を上げての合唱だった。ひょっとしたら30年ぶりくらいではないかしら。最初の賛美歌312番というのがよく知っているメロディーだったのが不思議であった。

死者は61歳、まだまだ若い。年下の知人が亡くなるとどうも気が沈む。世代が近いともっと気になる。

斎場を出たあと、待ち合わせの卒業生と会い、居酒屋へ行った。数年前のゼミ生で美人である。話があるというので会ったのだが、話は予想通り恋愛、結婚話、不調、人生の転機、そういったことだ。よくある話とも言えるし当人は苦悩の渦中なのだが、何となくわかることと分らぬことがある。男女の中と人生の行く末は結局誰にも分らない。

当人もそうだろうし、歳経たこちらにもそうだ。それでも相談されるのは、恩師たる教師だからか、作家だからか。たぶん両方だろう。親にも言えないことでも、確かにちょうどいい話し相手とは言えそうだ。
久々に遅く帰宅し、寝たのは12時近くだった。夏休み中の小諸ではおおむね9時半には寝ていた。

今日はまた皮膚科の医者に行く用もある。そしてあさっては日曜なのに、朝から学校でAO入試の面接である。

夏休みは完全に終ったと実感する。


9月20日 待望の新聞書評出る、本日の毎日新聞

『オキナワ 大神の声』の新聞書評がなかなか出ないのでやきもきしていたが、3か月以上たってやっと出た。

今日の毎日新聞(9月20日)の「今週の本棚」欄、評者は川本三郎氏。内容もいい。さすが同世代、よく読んでくれている、気持が通じている、とうれしくなった。皆さんも御一見ください。

  http://mainichi.jp/enta/book/news/20090920ddm015070019000c.html



9月20日 稲刈りと菊

崖の木の間隠れにこの頃次第に見えてきた下の稲田の色が黄色くなってきたので、つづら折りの崖道を降りて行ってみたら、稲田が実に美しかった。

黄金色という表現はあまり類型的すぎて正確ではないが、薄緑がかってはいるもののほぼ黄色で、しかも穂が実ってゆったり垂れている様はやはり充実感があって豊かな気分になる。

棚田ふうの田んぼ道を降りて行くと、1か所だけだが、すでに稲刈りが済んでいた。刈った稲は昔ふうの稲架に振り分けにして掛けてある。1枚の棚田はさほど大きくはないが、その稲架が2列ほど稲穂の重みを感じさせつつ並んでいる様はいいものだ。

あとの田も多分この連休中にはかなり刈り取られるのではないか。また見に来ようと思う。

稲田の合間には時折菊畑があって、赤紫や黄、赤の花や蕾が幾畝も続いている。鎌で刈られているのは蕾というか2分咲き位の花の茎だ。出荷先でちょうど花が開くのだろう。この界隈は菊の産地でもある。

実った稲田に香りのいい2分咲きの菊畑の対比がまたいい。つい2時間近くも歩いてしまった。


9月18日 180歳、帰る

きのう、2泊3日の滞在を終え、午後、母と叔母はまた列車に乗り、4時間余の帰途についた。しなの鉄道の列車とホームとの高低差が大きく、膝の悪い叔母は乗りこむこと自体が大変で、上から手を引っ張ってようやく乗れた。

降りるときどうかなと心配だったが、さいわい乗り換えの篠ノ井駅は来るとき何の問題もなかった、各ホームにエレベーターもあるというので、階段の心配もない。

それでも無事家に帰りつけるかと、送り出してからも気になり続け、夜になって着いたと電話があってやっと安心できた。

いやあ、こっちもだいぶ気疲れしたが、やっぱり180歳の当人たちはもっとくたびれただろう。2泊目はホテルに天然温泉もあるのに、浴場まで行くのがおっくうで、部屋のバスで済ませてしまったというし、母は1回目が手帳、2回目が切符、と2回も「ない、ない」とうろたえた。失せ物は私が調べるとちゃんとハンドバッグの中にあった。

失せ物の件は私自身、似たことを時々やるから、さては遺伝かと思ったり、いや、要するに歳をとるというのはこういうことだろうと考えたりした。

ホテル以外の温泉にも一度くらいは連れて行きたかったが、当人たちももういいと言う。長門牧場は高原の風情、乳製品中心の食事、牛や山羊の様子等がえらく気に入ったらしく、叔母までがかなり歩き回った。

帰宅後の電話で、母が「楽しかったわあ」と言ってくれたのが本当に良かった。いい気分で一杯飲んでいると、連れ合いが「君がいないとき、お母さんはあたしに『基彦をよろしくお願いします。あの子はお酒を飲むからきっと先に死にますから』と深々と頭を下げたわよ」と言った。
ふうむ、酒を飲むと早死にするのか。さて私は何歳まで生きるのか。



9月16日 母と叔母来る、合せて180歳

昨日、93歳の母と87歳の叔母が、二人ではるばる愛知県の家からやってきた。まず名古屋へ、そこで中央線特急に乗り換え、篠ノ井駅でしなの鉄道に乗り換え、約4時間かけての旅程である。

合せて180歳、4か月前には転んで手首を骨折した母と、膝が悪くて座ったり歩いたりがつらい叔母としては、まさに大行軍であろう。母は「最後の旅行のつもり」と言い、連れ合いに形見と言って高価なネックレスをくれた。叔母も昔の着物で作った手製のクッションなどみやげ物を宅配便でいっぱい送ってくれた。

小諸駅の階段を上り下りするにも大変そうな二人は、我が家に来ると、外観の朱色、内装の青と黄色の壁なぞに驚き、ついでバリアフリー、エレベーターなどに「これはいい、これはいい」としきりにうなづいた。

こちらも60ン歳のロートル夫婦だから老後の車椅子生活までを考えての家だと説明すると、よく考えてあると感心してくれた。
夜、小諸で一番古く格式のある料亭「音羽」に案内すると、ここの風情と和室に椅子テーブルという設定にも満足してくれた。

まずまずの出足である。
今日は長和町の長門牧場に行き、チーズなど乳製品中心の昼食を供する予定だ。さいわい天気もいい。うまくいくことを祈る。


9月11日 ストーブをつけた

昨日今日と寒く、ついに昨日の朝と今朝、短時間だがストーブをつけた。今日は2階の書斎までそうした。

本日の気温、朝6時10度C、午後の最高気温予測19度なり。明日はさらに驚いたことに最高予測15度だそうだ。こうなると短時間のストーブでは済まないから、床下暖房が必要だろう。まさに秋冬体制である。

昨日は、数日後来る予定の93歳の母と87歳の叔母のための下見を兼ねて、東御市のチーズ屋へ昼食に行ったついでに、湯の丸峠から入って池の平、高峰高原、浅間チェリーラインと浅間連峰の尾根道を縦走してしまった。

池の平湿原のりんどうやあざみ、笹、それにまだ色づいてはいないけど古びてどっしり枝を張った低木風の風格ある落葉松が風情があった。
しかし、ここでも寒く、何の準備もせず薄着のまま行ってしまったわが夫婦は、車内にあった敷物なぞを肩から羽織って前で縛り、かなり無様な格好で歩いたが、それでも寒く、早々に車に引き上げた。

これでは、母たちに高地はムリだろうな。佐久方面の牧場のほうがいいかもしれない。



9月9日 東京は涼しかったような暑かったような……

昨日今日と東京および埼玉県南部に行っていた。
昨日は大学の新校舎完成に伴う研究室引越しのための荷づくりで、丸4時間肉体労働。おかげでせっかく着替えていったシャツまで汗臭くなった。

マンションへ帰って窓を開けたら意外に風が涼しい感がしたので開けっ放しにしていたが、しばらくするとやっぱり蒸し暑い。気温は26~7度。小諸ではずっと22~3度だったので、ク-ラーを入れ、しかし22,3度にするのは寒すぎるような気がして怖く、ドライ26度にし、ちょうどいい気がして夜もそのまま隣室で襖を開けて寝てしまった。

今朝目覚めるとどうも喉がいがらっぽいので首をひねりつつ隣室へ行くと、クーラーが稼働している。寒かったのかなと思いつつ窓を開けたら、外気のほうがよほど涼しかった(と感じた)。

あわててクーラーを消し、しばらくはちょうどいい温度に思え、朝食をとり、そとへ出て土手を散歩したら風が涼しくてよかった。河川敷にはキクイモの黄色い花が一面満開でなかなか豪華にして美しいし、好きな白鷺も3羽いる。。

ふーむ、柳瀬川も悪くないなと思いつつ部屋へ戻ると、やっぱり少し汗ばむので、クーラーを入れドライ25度に設定。むろん窓も閉め、戸締り等をしたのち、今日は私学会館で「日大文芸賞」の授賞式なので、長袖シャツを着たうえ夏休み以降初の夏上着を着たが、さすがに暑い感があったのでネクタイはやめて出かけた。

外も電車内もまずまずだったが、授賞式会場では男でネクタイなしは私一人だった。大方は黒い背広にネクタイをきちんと締めていらっしゃる。

ふーむ、まずかったかなと思いつつ式と会食を済ませ外へ出ると、酒のせい(大した量ではない)もあってちょっと汗ばむ。タクシーに乗ると汗も引き、上野駅から長野新幹線に乗ると、上着のままでちょうどいい感じだった。

しかし、軽井沢駅に着くとひんやりとし、ローカル線で小諸駅まで来て降りると、小諸では初めてになる上着姿が心地よく(昨日出発するときは上着ではなく薄手の上掛けだった)、歩いても全く汗ばまない。桂の葉とななかまどの実がだいぶ色づいている。

帰宅すると室温は22度で、上着を脱ぎ、着替えると体がいかにもラクで、ああ、どうにか風邪をひかずに済んだとホッとした。



9月4日 やや寒の

秋です。夜中に寒くなり、あい布団を出したが、重ねると暑く、また仕舞った。

朝はいつものシャツでは寒く、かなり厚めの藍染シャツにした。藍を愛用するのはもともと好きなせいもあるが、ここらだと庭仕事時の蚊や虫よけにちょうどいいからでもある。

今年は梅雨以降ずっと涼しめで、曇り日が多く、全体に冷夏気味だったらしい。おかげで農作物の出来は良くなかったみたいだ。
我が家も5月に播いたゴーヤーが今週やっと2個収穫できたばかりである。

代ってキノコ類がぼつぼつ出ごろになるそうだ。ただし一雨来たらだが、と佐藤青果という小諸きって安い八百屋のおやじさんがそう言っている。ここらは松茸・栗茸などの産地という。
来週は松茸ごはんが食べられるかもしれない。


8月31日 ともあれ午前2時半にテレビをつけてしまった

世直しせい、民主党の諸君よ。そして官僚の中にもいるはずの心ある諸君、好機だぞ。

むかし夢想した革命なぞとはもうとっくに思わなくなっているが、政治はやはりワクワクさせる変革があってこそだろう。



8月29日 24日付日記の書評と紹介を公開

掲載誌の発売期間が過ぎたので、公開します。



 左が中沢けいさんの書評、右が小嵐九八郎さんの紹介コラム。


8月28日  秋風ぞ吹く

沖縄から帰ったら信州は涼しくていいと思ったが、もうこの頃はすっかり秋だ。

朝晩は小寒いし、庭仕事をしても汗ダラダラとはならない。シャツは濡れるが、メガネに汗が落ちて見えなくなることはないのである。故につい働きすぎて、昨日なぞは朝10時から昼食も忘れて午後1時近くまで草刈りをしてしまった。

その草も近頃は勢いを失って、抜いても抜いても数日後にはもう生えているといったふうではない。一時はまるで草取りシジフォスみたいな気分になったものなのに、先が見えてきた気がするから、自然の循環もある種ほどがよい。

朝顔、コスモス(いずれも秋の季語だ)盛況。薄が穂を出し、ななかまどや錦木が少し赤らんできた。

選挙が終れば自然とともに世の景色もだいぶ変るだろう。楽しみである。私は昔から変化、世変りが大好きだ。


8月24日 書評と紹介コラム

いま発売中の図書新聞に、中沢けいさんと小嵐九八郎さんの二人の小説家が、書評と紹介を書いてくれました。
中沢けいさんのは4面の書評トップ。
小嵐さんのは彼の連載コラム(同紙6面)での取り上げです。

どちらもよく読みこんでんでいて下さる実感があります。さすが小説家。同業者にほめられるとうれしいなあ。
お二人、どうもありがとう。

発売中のメディアだから、コピー掲載はいけないんだろうけど、うれしいし、まあ、小さい写真だけ載せちゃいます。

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8月23日 暑さの沖縄から帰る

20日夕に那覇に着き、3泊4日の仕事仕事の日々の後、本日夕小諸に帰り着いた。

20日は着くなりRBC(琉球放送)ラジオに22時から出演(15分)、
21日はFMとよみ(とよみは沖縄古語で「鳴り響く」意)に出た後、沖縄タイムス社で取材を受け、22日は午にFMレキオ(レキオは昔の「琉球」のポルトガル語)に出、3時からジュンク堂那覇店でのトークショー&サイン会を行い、イベントはすべて終了。

沖縄在住の『オキナワ 大神の声』の取材協力をして下さったUさん、東京からわざわざ駆けつけてくれた友人のTさんもトークショーに来ていただき、なんとも有難かった。
むろん雰囲気のいい沖縄居酒屋で一献やったことは言うまでもない。

ほかに旧知の人や場所とも再会し、懐かしかった。入院中などで会えない人もあったが、新しい人にも多く出会え、沖縄での知人がさらに増えもした。考えてみると那覇の中心部だけに4日もおり、連日仕事で過ごしたのも8年間の沖縄通いの中でも初めてだ。

暑いことは今更逃れようもなく暑く暑く、朝、ちょっと小一時間散歩するだけで汗ぐっしょりとなり、早々にホテルへ戻りシャワーを浴びる、仕事の合間にはやはりホテルへ戻り昼寝をする、といった日々だったが、しかしまあ格別体も壊さず無事に帰れたのは65歳のロートルとしてはまずまずだったかもしれない。

ただし、流行のインフルエンザに罹患したか否かは、まだ潜伏期間を過ぎてみなければわからない。今、喉がいくらかゼーゼーするが、これは多分シングル部屋でクーラーをつけっ放しで寝たせいだろう(と思う)。

トークショーの集まりもまずまず、沖縄タイムズにも来週には記事が出るはず、ということで、暑中強行軍の成果ありといっていいだろう。

でも、やっぱりいささか疲れた。そして、今これを書きつつ、クーラーが全くいらないのが実にラクだ。喉のゼーゼーもだんだんひいてきた。今日は熟睡出来そうである。



8月18日 沖縄でラジオ出演3つ

沖縄での日程が固まりました。可能な方、ぜひお聞きください。

8月20日夜 RBC(琉球放送)ラジオ 22:00~「団塊花盛り」
  21日 FMとよみ 13:30~
  22日 FMレキオ 11:30~

なお、22日は那覇ジュンク堂にて15:00~「トークショー&サイン会」です。こちらもよろしく。ほかに沖縄タイムスの取材も受けます。

当初はのんびり旅行のつもりでしたが、だんだん忙しくなってきました。向うは暑いでしょうね。でも、台風さえ来なければ御の字です。



8月16日 盆終る蝉声さらに高くなり   南斎

連れ合いはすでに秋の気配があるというが、セミの鳴き声に関してはお盆以降のほうがよほどかしましい。夏を惜しんでいるのか、雨風の多かった夏の本来を取り戻そうとしているのか。

その蝉時雨に合せ、アカシアの黄色くなった葉がヒラヒラと落ちていく。

しかしまだ大半は緑そのものの世界である。


8月12日 沖縄へ行きます

8月22日(土)午後3時より那覇市の沖縄ジュンク堂にて「作家と旅」の題でトークショ-を行います。
可能な方、おいでください。

また、同日昼12時よりFMレキオン(ラジオ)にて少し話します

いずれも『オキナワ 大神の声』にかかわるプロモーションですが、お世話になった沖縄の方々にはちょうどいい御挨拶のつもりでいます。お目にかかれれば幸甚とも思っています。どうかよろしく。


8月11日 雨、大風、地震、そしてそば

8月に入ってもずっと雨が続く。それも小雨などではなくかなりの降りで、「沛然(はいぜん)と」という言葉を思わせるほどだ。

風もやけに吹く。昨日の台風ばかりではなく、そのだいぶ前からしばしば大風と呼びたくなる風がビュービューと吹く。おかげで門脇のプラムの大事な枝が1本折れてしまった。全体に枯れ気味の木の中でその枝だけが今年2個実をつけ、しかもなかなか美味だっただけに誠に残念至極である。

そこへ今朝明け方、大きな地震が来た。今の家で初めての大きな地震だったので、ベッド上で思わず耳をすませ、何か異変はないかと気配を探った。

幸い何もなさげだったし、朝食時に震源は静岡、震度6、ここは震度3と分った。震度3はかなりの揺れと衝撃があるものだと改めて感じながら、パソコンのネットを開こうとしたら、接続が切れている。

調べたら有線ルーターがどうやら機能していないので、コンセントをリセットし入れなおしたらつながった。原因は不明だが、地震のせいで何かが起きたと考えるのが妥当だ。

さっき少しだけ見えた青空と日もまた曇ってしまった。涼しいのはいいが、農作物はこれでは育たない。御近所も今年はトマトが赤くならないと言って畑から抜いてしまったりしたそうだ。我が家は幸いかなりの出来具合で毎日楽しんで新鮮野菜を食べているが、農家は困るだろう。

そうそう、そばの若芽のおひたしを初めて食したが、柔らかくて、淡白で、なかなかうまい。


8月7日 書評そろい踏み

わが『オキナワ 大神の声』の書評がいくつか出てきました。

最初は先だっての週刊朝日8月7日号掲載のもの。もう1週間以上たったのでコピー写真を載せます。ちょっと読みづらいかもしれませんが、何とか読んでください。

 

次は作家福本順次さんのブログ掲載のもの。
  http://www.ac.auone-net.jp/~yukiai/

以下に転載します。


 神秘に憑く心

 夫馬基彦氏の三年ぶりの作品集『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社)は、旅人である「私」が「深い森の中の、厚い音の帳(とばり)に包まれた、ひとりっきりの我が身」(「ヤンバルクイナ、自殺す」)を感じながらも、一方で、行く先々の島で多くの人と出逢い、その人となりを生き生きと描写していく。この十篇の連作に登場する、印象的な人物を数えてみると、二十二人に及んだ。光り輝く島人(しまんちゅ)列伝と形容したいくらいだった。

 たとえば、四十代後半の、機織り女で神女(しんにょ)でもあるおテルさんを「皮膚がつるつる金色に光って神々しく、しかも同時に神経の鋭敏さと質朴さの奥底の最も透明な本質の露出を感じさせる」(「ひかりの海」)と書けるのは、「私」=作者に、いまや神秘に憑く心があるからではないかと思った。

 事実、琉球弧(トカラ列島)を南下していく、この連作を読んでいると、一篇ごとに神秘性が深まっていく。あるときは、海の上に「光りの玉」が見えたり、またあるときは、森の奥から太鼓の音と「エーヘーホーイ」と叫ぶ祭りの男たちの声が聞こえて来たりするのである。
 それを、幻視であり、幻聴である、つまり虚構だと切り捨ててしまうことができないのは、底流に「イビ(生命を産む場所)のような懐かしさ」が漂っているからであろうか。
 日々の記憶に刻み込まれていく哀しみや悦びが、インド放浪から出発した「私」の人生に反照しながら、新たな時間を迎えるかのようでもあった。それが旅の余禄である以上に、人生の実相として浮かび上がってくるのであった。

 十編がひとつの「弧」をなして、人生の深遠をうがっていくと言ってもよいかも知れない。仮に「夢物語は継続したり再来しては、夢にならない。そんなことになれば現実の方が壊れる。現実とは案外危ういものだ」としても、この一節を含む「旅路の果て」と「大神の声」の二篇には、二十三人目の「私」と、さらには読者をも引きずり込むような現世への希望が託されている。
 遠く、鐘の音を聞くように、余情が漂う小説集である。
 


3番目はmixiレビュー欄に劇作家の「クラバート」さんが書いてくれました。

http://mixi.jp/list_review.pl?id=113229&item_id=1246416


4番目というか実はこれが一番早かったのですが、やはりmixiにマイミク中随一の健筆家論客「陽虎」さんが書いてくれた6月23日付「沖縄とは何か・下」です。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1205131184&owner_id=4541837

以上、皆さんそれぞれずいぶん違う視点での文章で、読み比べると面白いと思います。ぜひ読んでみてください。


8月2日 蝉の鳴く順序は果たしていかなるや?

私は長らく、まず油蝉、次いでみんみん蝉、そして秋近くになって蜩と思ってきたが、当地では違うようだ。
まず、蜩、次いでみんみん、そして油蝉である(ただし鳴く時間は蜩はやはり夕方以降、他は昼間なのは同じ)。

関東でも今年はもう蜩が鳴いているという話もあるから、これは本年だけの特例なのかどうか。御存じの方あったら御教示ください。


7月28日 週刊朝日8月7日号(本日発売)に小生の書評インタビュー出る

「週刊図書館」欄の冒頭に、私の写真入りで『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社)の書評インタビューが1ページ大で出ています。

書評家土屋敦さんが、私の青年期のインド放浪のことから入って、オキナワ琉球弧にいたる旅の連作小説について、とても的確に書いていてくれます。
ぜひ、どこかで手にしてみてください。

*コピー写真は新刊雑誌の場合、よくないかもしれないので今は載せません。


7月27日 浅間山荘

といえば、私などの世代にはすぐ「連合赤軍」と浮ぶ。連合赤軍が山荘を占拠、数千人の機動隊と対峙し銃撃戦までした1972年の事件である。数えればもう37年前のことだ。

その浅間山荘へ昨日私は出掛けた。つもりだった。
直接の目的は小諸市内の浅間山5,6合目あたりにあるそこには「天狗湯」と呼ばれる真っ赤な温泉があり、地域の温泉通の間でも好評なので、一度試そうという次第だったが、頭には先日あった子熊騒動(子熊が現れたと市の有線放送が緊急放送をした)ともう一つかつての連合赤軍事件があった。

ところが山道をほんの30分、かなりのカーブ続きではあれさして難路でもなくごく穏やかに着いたそこは、大きめの山小屋といった建物の風情もバンガローや馬の飼育場が並ぶ風景もかつてテレビ画面で繰り返し見た印象とはだいぶ違う。

むろんずいぶん時間がたっているし、建物はあの時破壊されたから当然建て替えられていようし、違って当たり前なのだが、しかし地形とか雰囲気などどこかに残るはずの印象が全くない。

で、中の帳場で入湯料を払う折、20歳ほどと思しき女性係員に「あのう、ここはむかし赤軍派が立て籠もったあの場所では……」と恐る恐る尋ねてみた。
相手はしばらくキョトンとし、次いで「あの、浅間山荘事件のことですか?」とにこやかに尋ね、そして言った。

「あれは軽井沢側の浅間山荘です。浅間山荘は二つあるんです」

私は「あ、そう、そうでしたか。どうも違うと思った、ははは」などと照れ笑いして風呂に急いだ。
その風呂は真っ赤な湯で満たされ、水面から1センチも入ればもう何も見えないほどなのだった。私はやっぱり赤軍ゆかりの地ではないかと感じ、天狗湯より「赤軍湯」と命名できればよかったのにと昔を思いつつ、ゆっくり赤い湯につかった。湯加減はよろしかった。


7月22日 シカを見た!

今朝、食事中ふと庭の向こうの空き地を見たら、茶色のかなり背の高い、犬よりはだいぶ大きい獣が草を食べていた。「あっ、鹿だ」、瞬間的にそう叫び、目は外さず連れ合いに右手で指差した。

彼女は窓ぎわに寄って見続けた。我が家は壁厚の「無暖房住宅」(冬でも暖房が要らない住宅の意)なので、防音もほぼ完璧のため、窓を開けておかない限り音はほとんど聞えない。で、「あ、耳を立てた」「角がないからメスかしら」などと話しながら見たのだが、気のせいか話すたびシカはピンと耳を立てる気がする。

前兆は前々日からあった。お隣の畑の枝豆が上部をきれいに食べられていたのだ。以前から糞が落ちていたとか足跡があるといった話はあったが、実際にちゃんと見た人は誰もいなかった(以前見たというお隣夫人のはどうやらキツネだった)。つまり、我が夫婦が名誉ある実見者第1号となったわけである。

いやあ、いい気分だった。まさかシカを見ながら朝食ができるとは思っていなかった。今度はキツネだ。こっちは夜行性らしいから、夕食時に目の緑色の光を見ることになるかしら。


7月21日 朝(あした)にアジサイを見、夕べにカナカナを聞く

かつて連れ合いがアジサイは真夏の花だと主張したことがあり、何を言っているのかと思ったが、小諸へ来たらそれは正解だった。アジサイは7月初めに咲き出し、今盛りである。赤から青、紫と変化し、蒸し暑さのない気候のなか爽やかな豊穣感を見せている。

そして夕方近くになると、森から「カナカナ、カナカナ」という涼しげな声が聞えてくる。
カナカナは関東平野なぞでは秋口近くのものだから、まだ鳴くはずがない、こういう虫がいるのかとしばらく考えたが、どうもカナカナらしい。

つまり、どちらもここの気温が関東より数度低いせいなのであろう。アジサイは真夏に咲き、カナカナは7月から鳴くのである。

となると、8月半ばからはたぶん秋のよそおいとなるのだろう。桑の葉などはもう大きな黄色い葉を時々落している。さすがに紅葉というよりは病葉(わくらば)に近いものだろうが、東京やわが故郷濃尾平野などとはだいぶ違う。その違いが面白い。昔1年だけいたパリの気候に近い気さえする。


7月13日 初めての朝寝坊

今朝、目覚めると、なんと8時を過ぎていた。
小諸へ来てから朝の起床時間は大体6時前後、遅くとも7時だったことを思えば、思わず「えっ」となった。

理由はこの2日間、祭だったからだ。11日土曜が市民まつり、昨12日が伝統の祇園祭だった。
祇園祭は平安時代から伝わるもので、神仏混淆時代の産なのであろう、仏教にまつわる祇園精舎の名と神道の社が合して「祇園の宮」となったものが、明治の神仏分離令以降「健速(たてはや)神社」となり、その例大祭の呼び名となったようである。

もう一つ、御近所の小さな社「天王社」と2か所で同時開催である。水掛け神事があること、時期がちょうど梅雨明け前後であることから、雨乞い要素も兼ねているらしく、一日中約10時間御輿を練り歩く威勢のいいものだ。

市民まつりは、祇園祭が一部の町内と氏子だけのものなので、新しい市部を含めて全市から各町内・任意団体・会社など多数の神輿が自由に出せるようにしたもので、参加者は神輿・見物衆ともはるかに多い。子供みこしから始まり、こちらもほぼ一日中中心街は「オイ、ヨイ」の掛け声で満ちる。

この夏祭を見たくて土曜にこちらに帰った私とつれあいは、土曜は食事も繁華街でとり、遅くまで街にいた。日ごろは7時を過ぎれば深閑としてしまう街だから、夜、出歩いたこともなかったのだが、街は屋台がずらりと並んでゆかた姿などでにぎわった。若い子が多いし、インドネシアの「研修生」やフィリピンなどアジア諸国からの出稼ぎ者も目立つ。地方の小さな町の伝統と実情が鮮やかに浮き立ってくる。

その疲れが抜けないまま、12日は朝6時半から町内清掃で草刈りをし、また午前10時半の天王社神輿出し神事からはじめ、昼の4時間を除き夕方以降9時半までずっと祭につきあってしまった。

夜には小諸商業の学園祭の花火も上がったし、連れ合いの古い御近所衆から「飲んで行け、飲んで行け」と呼び込まれ、ビールや焼酎をいただいたりもした。旧北国街道筋の家々はこの夜は道際の戸や格子を開け放し、振る舞い酒をする風習があるのだった。

というわけで、こっちもすっかり浮かれ気分になり、2日間でかなりの時間を歩きまわったり立ったまま見物し続けた次第で、その疲れが寝坊になったのであろう。

今(午前10時半)、雨が少し降ってきた。昨日までの2日間は雨はほとんどなかったから、雨乞いのせいかもしれない。そして、昨晩の空の色、きょう以降の天気予報からいって、雨はまもなくやみ、いよいよ梅雨明けとなる予感がする。


7月7日 ホタル3回

先週、上田市にある有名なホタルの名所「狐塚」を見に行ったのを皮切りに、この土曜には小諸のすぐ御近所でホタルを発見。次いで、昨夜は小諸のちょっと遠方までホタルを訪ねて、慣れぬ夜間運転で行ってきた。

狐塚はその名の通り、幻想的というかちょっと妖しい雰囲気。なんだか化かされそうな風景だった。

御近所はホタルの数は少なかったが、何といっても近いのがいい。

昨夜のは一番の圧巻。川と山、田んぼをバックグラウンドに、おまけに雨の心配が全くないさわやかな気温のなか、フワフワ点いては消え、いつしか身の周りをスーッとよぎっていったり、それが何十メートルも続くのは、近来稀というより、もしかしたら何十年ぶりかの気がした。
少年時代、愛知県の故郷の町が、岐阜県美濃のホタルの村へ町内会仕立てのバスで見に行った時以来ではなかったろうか。

とにかくその少年時代のことをずうっと思いだしていたから、闇の中の蛍の光がそういう時間にいざなってくれたわけである。あー、いい時間だった。



7月4日 7月だ、緑が濃くなった

 
いつも長野新幹線で群馬側からトンネルをすぎ長野側に入ると、緑の色もだいぶ変わる。群馬やその前の関東平野はもう濃緑がかり、まさに夏そのものの気配だが、軽井沢あたりから急に色が薄らぐ。

アカシアだってところによっては6月中旬過ぎまで咲いていたし、木々や草の緑も初夏の青葉色に近い。畑のキャベツもどこか白っぽくて若々しいし、田んぼもまだ薄緑で水が覗ける。

我が家の周辺もアジサイがやっと咲いたところだし、だいぶ前に蒔き育てた朝顔がやっと小ぶりの花を日に1.2輪咲かせだしたばかりだ。柳瀬川のマンションでは葉っぱや蔓が猛々しく、花ももう3週間前から咲き誇っていたことを思えば、相当おくてである。

それだけ気温が低く、実感として1カ月弱関東平野より遅い感がある。そのぶん涼しく、汗っかきの私には実にありがたい。昨日までの東京界隈では、午前に家を出しばらくすると汗で縮緬シャツは半ば湿り、しかし電車に乗れば冷房で上着なしではいられず、降りて歩けば学校到着時にはシャツはもうぐっしょり、そしてまた教室の冷房で冷やされとなり、喉の弱い私はしょっちゅう空咳をし、暑かったり寒かったりで、夏は苦行の季節そのものなのだが、信州へ来ると本当に助かる。

実は、だからこそ二重生活の煩をおして小諸へ来た次第だが、今日もひんやりした家へ入ると、本当にほっとした。そしてすぐ畑へ出て、トマトとナス、それに落ち杏を収穫したが、同時にキウリはすっかりうどんこ病に侵されていることにも出会い、殺虫剤をと思ったが、化学薬品は何も買っておらず、さて木酢液か牛乳薄め液で効くものかどうかと(アブラムシには効いた)腕組み思案中である。