風人日記 第三十一章
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寒い秋
  2009年10月4日〜


09年10月4日午後1時撮影。春・夏の構図から右奥によった位置。
つまり、切り株の向うに少し見えていた畑の周辺である。
右に一番よく見えているのがコスモス、その向うの薄青の花が朝顔、その左コスモスとソバ、
おしろいばなのいずれも白い花。畑は右から茄子(まだ生っている)、きうり、トマト、
春菊(黄色い花が咲いている)。塀の向こうは色づき始めた桂や桜など。
一番手前の黄色の花はレモンシア。ほんとにレモンみたいな強い芳香があるが、
食べられない。でも、これがあると虫よけになる。





このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

六月に新刊を出しました 

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


ウイグル独立運動を支持する

 昨日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチでウイグル人と中国武装警察との間に騒乱が起った。
 現在伝えられるところでは死者約150人、負傷者多数、被逮捕者数百人とのことだが、中国政府は例によって厳重な報道管制・ネット規制を敷いているので、実情は定かでない。

 だが、わずかに映し出される映像を見ていても、デモ隊側は半袖シャツなどの軽装に素手、武警側は重装備の上、時おり画面の背後から銃声が聞えるから、およその状態は察しがつく。去年のチベットの時と同じだ。
 

 
問題は今度のデモがどういう経過だったかより、根本として一番大きく、重く存在する民族自決問題である。人種はトルコ系、言語も文字も独自のウイグル語、宗教はイスラム、北京や上海よりはるかにカザフやウズベック、キルギス、アフガンに近い中央アジアの国を、漢族が大量移民の力で支配屈服させようというのが間違っている。

 背景は領内の石油資源・鉱物資源、そして中華思想に基づく大国主義にあることは明らかであろう。私は、ウイグル(東トルキスタン)、チベット、南モンゴル、台湾の独立を強く支持する。

                                   2009年7月7日    


アウン・サン・スー・チーさんの有罪・軟禁継続に強く抗議する!

 昨日(8月11日)ミャンマー軍政はスー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。

これは来年予定の総選挙から彼女を一切排除するための専横措置であることは明らかである。

予想された措置ではあるがそれにしても暴虐が過ぎる。軍政に対し強く抗議し、彼らの権力が崩壊することを切実に望む。

                                  2009年8月12日


**これより日記             *(これより日記)これより日記*                      
12月31日 大晦日の雪

午前8時ごろまでは晴れて暖かかったのに、つい5,6分前から雪が降り出し、今や横なぐり状態。道路ははや白くなった。これで予報通り今日はずっと雪となり、相当量積もるだろう。

正月の松飾りと予約した年越そばの受け取り、それに銀行の用が残っているが、ともあれ午後まで様子見である。なんといっても雪景色は楽しみだ。

ああ、早くも木々の枝やわずかに残る枯葉の上が白くなってきた。ななかまどの実だけが赤い。



12月28日 『文学2010』に選ばれる

先ごろ日本文芸家協会から、私の短篇「行きゆきて玄海灘」(季刊文科45号・鳥影社7月31日刊掲載)が今年1月号〜12月号に発表された短篇小説代表作の一つとして選ばれたと通知があった。

毎年恒例のものだが、今年は1月号の石原慎太郎、河野多恵子氏らの作品から始まる18篇のアンソロジー中に入ることになる。

私としては今年6月発刊した琉球弧の島めぐり連作集『オキナワ 大神の声』の番外篇というべき作で、玄海灘の対馬を訪ねた折のことを素材にしたものだ。タイトルの「行ききゆきて」は芭蕉の「奥の細道」の同伴者曽良の墓が何と壱岐にあることから付けた。

発刊は来年4月末、講談社からの予定。未読の方、是非お目通し下さい。


12月25日 市橋、自供か

謝罪したいとか言った後、弁護士から何に対する謝罪かはっきりしなきゃ分らないと言われ、自供を開始したとの新聞報道だ。

新聞はたいてい警察側のリーク中心だからさほど信用していないが、しかしまあ結局普通の展開になってきた。もう少し風変り、ないし個性的な男かと思っていたのだが。

尤も、被害者をレイプ後、居間に運んだ浴槽の中に手足を縛ったまま置き、一緒にビデオを見たり、10時間もいたというから、その居間の光景を想像すると何かフシギだ。トイレや食事はどうしたのか、そのままずっと一緒にいるつもりだったのか、など「?」な気分になる。事実とすればやはりどこかヘンな奴ではある。


12月23日 わがアカシア林住期

昨日、東京へ行き、教授会や若干の仕事を片付け、今朝マンションを念入りに戸締りして、すぐ列車に乗った。こまぎれで4回乗り換え小諸駅へ戻ってきたら、さあ帰ってきた、という実感がわいた。すっかりこちらが我が家という感覚が定着したのだろう。

これでいよいよ年末年始体制だ。学校と東京のことは忘れ、わがアカシア林住期に没入する。ひょっとしたら今年は年賀状も出さないかもしれない。冬枯れで樹々は全く葉がないけれど、代りに枝ぶりが面白く見え、その隙間に山や夕方以降になると遠いともしびや三日月がのぞく。

空気は冷たいが、ピリッと引き締まって快感がある。さあ、わが時だ。



12月19日 積雪7センチ

朝起きたら純白世界だった。きれいなものだ。
モーツアルトのピアノコンチェルトをバックミュージックに朝食をとった。実にいい気分であった。

目下零下7度。


12月18日 本日最高零下1度、最低零下6度

明日は最高零下3度最低零下8度だそうだ。最高も零下だと真冬日というそうなのも初めて知った。

こういう気温は思い出す限り記憶がない。若いころはスキーにも行ったし、雪の新潟やソ連にも行ったが、はてどうだったか。ソ連は寒いには寒かったが、9月だったからさほどではなかった気がする。

今日明日とも連れ合いは東京なので、ひとりで燗酒を飲むことにする。


12月15日 関東平野も冠雪景色

昨日から埼玉のマンションにやってきて、今朝、書斎から北を見たら、赤城、皇海、日光とすべて冠雪しているのに驚いた。昨日あたりからなのかもっと以前からか定かでないが、これじゃこちらも寒いわけである。

秩父越しの浅間はもちろん完全に真っ白だ。浅間から来りて浅間を眺む。これから出校である。



12月11日 懸案解決

ここ数日気重だった案件が本日、解決した。ほっとした。
代りに重かったカバンの肩ひもが壊れた。

授業も年内分すべてが終了した。あとは来週に付属入試・卒業試験、ついで諸会議が終れば24日から冬休みである。小諸での初の正月が楽しみだ。



12月8日 浅間冠雪、千曲川、柴刈





本日は午前6時零下4度、午後の最高温度4度だった。
だが、日は照ったし、ピリッとした空気だが、買物に出ても庭仕事をしても気分はよかった。



12月6日 昨日の秋山会、ペン獄中委員会副委員長のことなど。

昨夜の新宿における毎年恒例の秋山会出席者は、全部で19名。例年より少ないのは忘年会シーズンのただ中になってしまったせいらしい。

内訳は、
編集者7名、新聞記者3名、作家3名、評論家(秋山駿さん御当人)1名、古本屋店主1名、バーのママ1名、某事務所員1名、大学教員(兼職なし)1名だった。
これも例年とだいぶ違う。作家、評論家など常連の物書きがやけに少ない。みんなどうしたのだろう?

似た疑問は多くの人が感じたらしく、そういえば評論家のKさんは去年熱海の旅館の風呂で深夜、意識不明で浮んでいるところを従業員に発見され、救急車で運ばれ助かった、などといった話が出た。

ほかにも体調の話をする人が多く、まだ40代でこの会では圧倒的に若手に属する女性編集者までが何か病気をしたらしく、「体が一番大切だとつくづく感じました……」などとまるで幽霊のような暗い顔で語り、そのあと同じ社の55歳の編集者がつい1か月前ガンで亡くなった、といった話が周りで続けられた。

そういえばこの日家を出る直前にペンクラブからメールが来、私の属する獄中作家・人権委員会副委員長のTさんが今朝ガンで亡くなったと知らされた。私より1歳上なだけの人だ。
しかも同じ副委員長を私もこの6月までは務めていたうえ、私とTさんが副委員長になったのは私たちより歳下の前任副委員長2名が相次いで亡くなったためなのだ。

その時、獄中委員会の副委員長は早死にすると話題になったのだが、今度私が辞任して間もなく残った副委員長が3人目の死者となったとなると、これはもはや後釜になり手はないのではないか。辞めていなければ私が死ぬ番だったかもしれない。

あなおそろしや、あなありがたや、辞めてよかった、辞めた直接の理由は「小諸暮らしになったため出席率が下がりそうだから」だったのだから、あな小諸ありがたや。と、今私は4日ぶりの小諸で書いている。


12月1日 明日、66歳

77歳だと喜寿、88歳だと米寿、66歳だと碌々寿か。耄碌の碌、ろくすっぽの碌かと思ったら、碌碌には「安らかなさま、満足のいくさま」の意もあるそうだ。

うーむ。

昨日今日、強く認識したこと。小諸では冷蔵庫は冷蔵用ではなくむしろ保温用であること。外気は夕方5度、朝6時で0度、冷蔵庫内は10度に設定してあるからこっちのほうがよっぽど暖かい。わが家は床下暖房で全館暖かいが、食品庫は断熱壁の外に作ってあるから(ドア一つでキッチンとつながっている)、そこに置いておくとビールなど冷えすぎてしばらく飲めない。ゆえに冷蔵庫に入れておいてから飲むのである。

世の中も人生も常識通りにはいかない。日々発見あり。歳をとるとその幅も広がる。実際、意外なほどだ。



11月28日 卒業生ゼミ飲み午前0時10分前

昨日は3年前のゼミ卒業生たちと江古田校舎近くの居酒屋で飲んだ。
当初は皆忙しいので4人しか集まらないという話だったのに、いや、誰々も来ることになりました、誰それも遅れるが行くとさっき言って来ました、といった調子で、次々に人が増えた。

結局8人が来たのだが、うち二人は静岡県内から新幹線で、一人は茨城県の水戸近くから駆け付けた。また二人は10時、11時に文字どうり息を切らして走りこんで来、テレビ局でADの仕事中を抜けてきたという11時の方の男子はビールをグーッと飲むなり「おにぎり3っつ」と注文し、むしゃむしゃかぶりつくのだった。よっぽど空腹だったに違いない。

いやあ、みんなよく来てくれた。そして彼ら自身、互いのあいさつ後の第1声に「書いてる?」と言い合ったりする。自動車の組み立て工をしているという者もそうなのだ。最近、マンガ本を出版した者もいる。初版1万5千、早くも増刷し計2万部だそうだ。

おかげで、普段は9時半に寝る小生も11時過ぎてもとても帰る気にならず、杯を重ねては高声で語りあっているうち、気づいたら12時10分前だった。

さすがにあわてて帰ることにしたら、全員が店の外まで送りに出てくれ、女子学生、いやもう社会人の一人が、卒業式および去年の会同様ぐっと抱きしめてくれた。

いい気分だったなあ。楽しい会だった。


11月23日 貰いもの相次ぐ

昨日は散歩の途中、蕪と大根を、今日は庭で柴づくりをしていたら御近所さんから巨大白菜2個と辛み大根など8個ほどをいただいた。白菜は本当に大きく、両手にズシリと重かった。

新聞紙にくるんで食品庫にしまった。断熱材の外にある食品庫は外気温をほぼそのまま反映するので、こうしておけば長持ちする。ほかに直売所へ行くたび買うジャガイモなぞもだいぶ溜っているので、だんだん冬籠り支度をしている気分になってきた。

周りの林の樹はほぼ葉も落ち冬枯れてきたので、向うに浅間連峰が次第にくっきり見えてきた。右端の浅間本峰、黒斑山、赤ざれなどは早くも少し冠雪している。


11月22日 今朝マイナス3度、夜はみぞれとか

寒い。午後からどんどん冷える。
だが、ホームセンターへ行き、ほしかったブルーベリーの苗木3本と肥料を買い、庭の寝室前、秋までは朝顔のあったところへ植えた。

ブルーベリーを選んだのは、夏に実がなる上、今頃は紅葉するからだ。1本はすでに紅葉で真っ赤だが、あと2本はまだグリーンが多い苗にした。だんだん紅葉していくのを見たいからである。

そして来夏は濃いブルーの実を鳥と競って食べようと思う。


11月20日 市橋はまだ断食中らしい

いったい何日になるのだろう。栄養剤を打たれたりもしたらしいが、気分が悪くなったので今は拒否しているともいう。

警官に「黙秘のままだと死刑になるぞ」などと脅され、弁護士を通じて抗議したともいうから、かなり意識的な黙秘権行使なのだろう。警察の捜査は一向進んでいないようだし、つまり殺人か否かは自白がなければ分らないのであろう。

なかなかやるというか、やっぱりかなりしたたかなのかもしれない。整形医院などから通報があるまで2年数カ月も逮捕できなかった警察との闘争が今後面白い。


11月16日 市橋事件のフィーバーぶりは日本人の白人コンプレックスか白人憧れの表れか

市橋のニュースがここ数日来初めて新聞から消えたが、断食、黙秘はどうなっているのか、あの事件に関するフィーバーぶりはなぜなのか、やはり気になる。

市橋はキリスト教に関心を持っていたとか、整形後働いていた建設会社では偽名の苗字の前にジョージだかジェームスだか外国名前をつけたニックネームで呼ばれていたとか、真偽どのていどか定かならぬ断片が伝わってきたりする。

整形の仕方もやけに鼻の高さにこだわっているし、整形前の顔はヨーロッパなどで日本人の顔としてすぐ表現される「細くて釣り上ったいわゆるキツネ目」そのものでもあり、逃げるためとはいえ、もともと彼はその顔から脱したくてしかたがなかったのでは、とも思える。身長180センチはそれをプッシュする要因だったかもしれない。

あの事件の被害者がフィリピン人やタイ人、アジア人だったらもともとこんなに騒がれもしなかったし、懸賞金も1000万円なぞにはならなかった、彼もあんなに整形なぞしなかったかも、といった推測も確かに成り立つ。

そこに加えて両親が医師と歯科医師というのが新たに関心の増幅要因になっているのだろうが、私の場合、それらにさらに彼が千葉大学園芸学部卒であることにも興味がある。植物好き、庭仕事好きの私としては、いったい市橋の心はどう動いていったのだろうと考えてしまう。

黒人大統領オバマの来日、韓国での射撃場大量死とともに、日本のマスコミが彼の報道を途絶えさせたのはいささか因縁めいてはいないか。


11月14日 政治家の体力

昨日、オバマ大統領訪日関係の報道を見ていたら、午後4時少し前に羽田到着、7時前から鳩山首相と約1時間半首脳会談、そのあとすぐテレビ中継付き共同記者会見、ついで9時ごろから晩餐会、席上では重要政治課題についても話し合う、とのことだった。

ワシントンから羽田までの機中どう過ごしたのかは分らないが、到着後は実にハードスケジュールである。おまけに夕食が9時となると、その前の食事は一体何時だったのだろうと心配になる。まあ、途中で軽い腹ごしらえ程度は両首脳ともとっているのだろうが、食事中も重要問題を話し合わねばならないとなると、おちおち食べていられまいし、ましてゆっくり酒を味わう間なぞもあるまい。

食後の予定および就寝時間が何時になるのかは知らされなかったが、翌日はまた朝からいろんな用があろうし、さらに日本の後にはシンガポールでのAPEC,そして中国その他へ行ってほぼ同じことを繰り返さねばならない。実にくたびれるスケジュールだと痛感した。日本側の首相にしてもそうで、60代の初老なのに、果たして大丈夫なのかとさえ思う。

ひるがえって私は、夕5時過ぎにはほぼ毎日晩酌を開始し、9時半ごろには就寝、だいたい9時間は寝ている。今日は朝食後間もなく家を出、列車を乗り継いで約3時間かけ長野県へ移動してきたが、大したことじゃないのは明らかだ。

私は若いころから政治への関心は強く、場合によっては政治家になってもいい気が少しあったのだけれど、ああ、ならなくてよかった、あるいはとてもなれはしなかった、とつくづく思う次第である。


11月10日 市橋の心理

この数日来あれこれ考えているが、むろん確かなことは分らない。気味の悪い感じもするし、哀れでもあるし、発覚の原因はもう少しだけ鼻の高さを上げようと2度目の隆鼻術をしたためとなると、今の心情は一体……。


11月8日 恐るべき霜枯れ

昨日小諸に帰ってきてみたら、入口近くの台湾バンショウ、ブーゲンビリア(これらは今までなぜかくも育つのかが分らなかった)は言うに及ばず、いちじくの葉、畑の茄子、トマト、コスモス、おしろい花などがぐったり枯れしぼみ、全滅していた。

霜害である。今朝起きたら、車が屋根も窓も霜で真っ白だったから、夜なかには草木の葉っぱも同じ寒さを受けるに違いない。さもあらんと思いつつ、しかし見るも無残な有様ではある。げに、自然は恐ろしい。

やむなく、というかどのみちぼつぼつその時期とは思っていたのに、青トマトもうまいしナスはまだなっているしで、抜くのを引き延ばしていたのに決着をつける気分で、全部抜いた。支柱の紐をほどくのが少し手間だったが、育てるときに比べればあっという間の作業だった。

最後の収穫は青トマト4個、小ぶりの茄子4個である。ううむ、1個づついつくしんで食べよう。

今日は落葉枯枝を焼こう。焚き火ふうにするか、簡易焼却炉のようなもの(ドラム罐でもいい)を準備するか、これから考えねばならない。



11月4日 柳瀬荘連句会

今日は日大芸術学部と東京国立博物館主催の「柳瀬荘アート・教育プロジェクト」の一環として、文芸学科ワークショップ「連句創作」をおこなった。

柳瀬荘はかつて「電力の鬼」と呼ばれた故松永安左エ門氏の別荘で、所沢市東部にある。江戸・天保期の民家である黄林閣(重要文化財)、茶室の久木庵などがあり、武蔵野の面影ある雑木林の中に建っており、現在は東京博物館に寄贈されている。

その黄林閣の座敷を使って連句の実践を行おうというもので、一般申込みの参加者と日芸の私の連句講座の学生も交えての試みだ。

昨日からの寒さのせいもあって当日欠席者が数名出たが、50代、60代、70代の方々と20代の学生が参加して、午後1時半より4時10分まで実践した。初心者も多かったし、時間の制約から発句より4句目までしか出来なかったが、そのつどの投句数は多く、予想以上に活発な展開となった。

会場は和風の座敷なのに、日芸美術科の教員や学生による木彫り彫刻、屋外には石や鉄による彫刻造形なども並ぶ面白い雰囲気の中でのワークで、和服姿の多い年配女性らも多分に若返っておられたようである。

以下、その結果の作を御紹介する。

 
 発句 鬼棲みし柳瀬の荘や柿紅葉   夫馬 南斎
  脇   月を求めて書院の笹影     水落好未知(こみち)
 第三 秋終へて今より学ぶ恥もなし   大小治(おさじ)悦夫
   4   男の料理どこも満員       松本 杏花


最初、連句の経験ある方との問いへの答えはゼロだったのに、やっているうちだんだん経験者ありと分ってくるのが面白かった。


11月2日 10−1

本日の最高ー最低気温である(最低は夜9時の予想値)。
あすの予報値は5−マイナス2だ。この通りになれば今日夜半過ぎからついに零下入りというわけである。

屋外水道栓を凍結防止措置に、風呂も同様にしなければならない。庭にもぼつぼつ霜柱が立つかもしれないし、車のタイヤを近々スノウ用に交換することも視野に入れねばならない。

が、明日、大学祭に出校すれば、向うの気温は14−7度だそうだ。9度違うと、家を出るとき何を着ていったらいいかとつくづく迷う。


10月30日 ひとり寝の快楽

柳瀬川のマンションに来てひとり寝をしていると、心地よく感じるようになった。暖かいし、玄関の鍵さえかけておけば安全でかつ外界とは全く孤絶していられるし、といって窓の外には近隣も人も街もつながっているのは確実だし、その種の音もそれなりにある。しかもそれらの世界は長年見知ってきたほぼ同質のものであって、違和感はない。

孤でいながら自分を消せる感じがある。

それに独りだとものを考えるのも、夢を見るのさえも自由な実感がある。そばに人がいると、たとえ連れ合いであっても完全に自由ではない面がある。

そのせいか否か、昨夜来は、こんなことを覚えていたかというような青年時代や幼年時代のちょっとした断片を思い出したりした。発見もあった。

今朝、朝食を作りながら思わず口笛を吹いていたのは、ひょっとしたら10数年ぶりのことではないか。そう気づき、しばし紅茶を入れる手を止めて、思わず笑みをもらした。



10月27日 昨日は一日雨、おかげで

寒く、今日は明け方から喉が少々痛かった。ちょっと熱っぽい感もあり、大事をとって陽あたりで暖かくしていたら、どうにか乗り切れたようだ。

ちょうどBOSEのコンパクトで音がいいラジカセふうCD再生機が届いたのも役立った。これでモーツアルトついでモンゴルの草原の唄をずっと聴きながら村上春樹を読んでいたら、至極気分がよかったのである。



10月25日 いやあ、寒い

今日は小諸の最高気温予測11度だ。最低は7度。昨日までいた志木市は最低が13度だから、向うの最低よりこっちの最高のほうが低い。体がびっくりしている。

5月から育ててきたゴーヤーをさっき撤去した。さすがに枯れてきたし、実も育たなくなったから。おかげで西側の窓外がサッパリした。アカシアや向うの桂など黄葉もだいぶ散り、庭も空も広くなった。


10月23日 深夜の音

マンションで眠っていると、深夜に2,3度目覚める。
一昨夜の場合は消防車の音で、まずサイレンが鳴り響き、だんだん近づき、鐘も交じり、少しマイクの呼びかけのような音も混じった。

時間は定かでないが、それが3時間ほどおいて2度あった。私はそのつど目覚め、どうしようかなとしばし迷いつつ結局立ち上がってカーテンを開け外を覗いてみる。2度とも近所かなと思ったがさほどでもなさそうなうえ、180度ぐるっと見回しても火も煙もない。なんだ、人を起しといて、と不謹慎に腹立たせながら、また眠る。

昨夜というか今朝早暁は、電車の音で目覚めた。一番電車なのか、普段はほとんど気付かない音が少年時代の遠い列車音みたいに伝わってくる。それが通り過ぎると、今度は車の音だ。何か商売関係なのか、通勤なのか、その他なのか全くわからないが、意外に多くの車が早くも動き始めている。いや、車は夜中も午前2時ごろまではかなり音がしているから、けっきょく静寂は間のほんの3時間くらいしかない。

ここは東京の典型的近郊地帯だからそのせいなのか、あるいは平地のせいなのかとも思う。小諸だとそもそも人口が少ない上、周りを山に囲まれているから、風など自然のもの以外音がほとんどない。夕方5時以降から明け方までは静寂そのものだ。昼間でも門扉をカチッと開けたてすると、10数メートル先の人が振り向いたりする。

暖かい関東の秋は体がラクだが、夜もにぎやかである。



10月19日 木を伐る

昨日は業者に来てもらい、2階の屋根に接触している桑の木の枝、アカシア、それに懸案だった桃とプラムの枯れ枝部分、などを伐採してもらった。

クレーン車も使用するのでかなり大掛かりになったが、まずは順調に終了。これで台風や大風の心配、そして2階の書斎が葉で覆われ昼間も薄暗かったことが解消、さっぱりした。

今日、いい気分で1回窓際で書見をしていたら、樹々の向うに美術館隣接の火山庭園の真っ赤な紅葉がうす見えているのに気付き、先日買った高枝切り鋏・鋸を持ち出し、午前中かかって邪魔な枝を汗だくになりつつだいぶ切った。

午後、日を浴びて真っ赤に映える紅葉を見て満悦していたら、もう少し右手にさらに紅葉があることが透けて見え出し、どうせならこれもやるかと3.5メートルの高ばさみをまた汗だくになって操作、多少紅葉を見えるようにして終えた。

夕方、懐古園を散歩したら馬場に菊のテントがずらりと並んでいた。半ば閉じたテントの中には5重の塔を中心に見事な船形などの菊がいっぱいで、匂いがむせるほどだった。



10月16日 新研究室と新宿副都心

大学江古田校舎の今度移った新築棟にあるわが研究室は、5階なので見晴らしがいい。西向きのため午後は西日が暑くカーテンを閉めてしまうが、午前中は開け放しておくと、気持がいい。

すぐ近くを西武線が通るのも新鮮だし、界隈に障害物は全くないので、180度にわたって遠景まで見える。一番の景物は新宿副都心で、なるほど東京だなあと毎日1、2回は眺める。

これまでの研究室は3階ですぐ向うが商店街だったから雑居ビルや商店、マンション程度しか見えなかったし、7,8年前の研究室は2階で大学の内庭向きだったので、教室棟しか見えなかった。柳瀬川のマンションも、14階だから眺望はいいが、東京の大ビル群はほとんど見えない(池袋のサンシャインシティーの一部がちらと見えたりすることはある)。まして信州の家では、そもそもこういうもの自体が存在しない。

私は生まれつき風景好きというか視覚型人間とでもいうのか、景色や眺望を見るのが好きで、広々したところやきれいなもの、関心をひくものがあると、見あきない。

新宿副都心はたぶん日本最大最高の高層ビル群だろうし、それをじっと見られる環境は初めてだから、これから数年はウオッチし続けることになろう。楽しみである。



10月13日 栗ごはんを炊く

崖道を下りる途中に山栗があり、昨日これを両手いっぱいに拾った。小粒だがうまいというので、半分は煎って、あと半分は栗ごはんにしてみた。いま連れ合いは締め切りを控えマンションでかんづめ中なので、すべて私ひとりでやった。

皮をむくのがなかなか大変だったが、煎ったところ甘皮(渋皮?)は半分つけたままでも気にならなかった。身は勝栗ふうに硬く、ギュッとしまって確かにうまかった。

ごはんもその状態で炊いたところ、上々の仕上がり、昼、夜と2食続けて満喫した。まだ残っているので、今日も食べ続けるだろう。興に乗って、昨日はゴーヤーの醤油漬けも試みた。ゴーヤーは初夏に播いたものが秋になってやっと収穫出来だしたのだが、この頃はさすがに終りが近づいたようだ。これを食べるとオキナワを思い出すし、気のせいか胃の具合がいい。

リンゴもいろいろある中で佐藤青果のおやじさんが一番うまいという信濃スイートなる品種が旬になった。さっそく母や伯母、お世話になった方々に送った。相当大粒なのが箱一杯なので、食べ終るのに時間がかかるだろう。もう寒い信州と違って、愛知や東京はまだまだ気温が高いので、保存が難しいかなと少し心配である。



10月9日 台風一過、胡桃を思う

昨日は埼玉=池袋の東上線までが止まり、学校の会議に行けなかった。行けないと電話連絡して30分後には再開したらしいが、その時はもう会議には間に合わず、しかもその後また止まってしまったらしいから、気持ばかり振り回されの一日だった。

ああ、こんな時こそ小諸でクルミを拾いたかったなあ。なんでも大風のあとは地面がびっしり埋まるほど実が落ちるものだそうで、みな夢中になって拾うらしい。それを割って食べる生クルミは最高の味なのである。

埼玉の柳瀬川の方は、昨日は川幅が3倍にまで広がり泥の大河と化したが、今は水も引いてススキがそよいでいる。台風のせいではないのだが、いつの間にか川の流れの形がずいぶん変っていて、あるところは流れ幅がうんと縮まって石の川原が広がり、またある場所は岸がえぐられ、河川敷幅が半分になったりしている。従来はほぼ横一線の単調な川だったから、変化が出てきていいのだが、しかし川もどんどん変化していくものだとつくづく思う。

そして、期待が膨らんだ頃に、また建設省(今は国交省?)河川事務所なるところが大型機械でザザーッと川床浚いを始め、再び無粋な一直線にしてしまうだろう。そういうための税金を我々は払わされている。虚しいことだ。新政権よ、心せよよ。



10月6日 中川昭一の死

どうやら病死だったらしいが、それにしても父親一郎の自殺(57歳)、その原因とされた元秘書鈴木宗男の長期にわたる拘置所暮し(55歳)、そして今度の昭一の死(56歳)と並べると、なにごとかを感じる。

それが何であるかは人によって、また知りうる情報によって違うだろうが、ある種「運命」といったものを感じるのも確かである。宗男と昭一は国会界隈で顔を合わせたとき、どんな顔でどんな言葉を交わしていたのだろうか。


10月4日 石井光太講演会

『絶対貧困』(光文社)『神の棄てた裸体』(新潮社)などでいま旬のノンフィクション作家石井光太君が、10月2日、日芸文芸科へやって来た。

彼は9年前の夫馬ゼミ卒業生で、4年前、27歳で出した処女作『物乞う仏陀』(文芸春秋社)でいきなり大宅壮一ノンフィクション賞候補になって以来、バイタリティーあふれる行動派若手俊秀としてずっと注目されてきた存在だ。

扱う素材がインドや東南アジア、中近東、アフリカなどのスラム街や路上生活者、娼婦街、エイズ、被差別者などで、そういった場所へ長期にわたって住みこんだりしての体当たり取材と、主観や感情を交えての生き生きした切りこみが持ち味である。

会ったのは卒業以来で、実に懐かしかった。なにしろ彼は学生時代から柔道2段・骨格がっちりの腕力派だったうえ、同人誌サークル「ブライ」(無頼の意)の創設者で学生たちのボス格、おまけに学生としては群を抜いた読書家であり、さらにここが肝心なのだが極めてナマイキな反抗精神の持ち主だった。当然、教師としては扱いにくい、骨の折れる生徒だったわけだが、だからこそ記憶も思い出もインパクトが強いのである。

現役学生6,70人を前にした教室での彼の話は、学生時代に初めて行ったパキスタンやアフガニスタンでの体験から始め、性的逸話を散りばめつつの内容濃いもので、学生たちに大人気だった。

講演が終ってからもゼミ室などで学生連が彼を囲んで離さず、けっきょく彼は1時から6時過ぎまで話しずめだったらしい。

そして、そのあとは私やかつての同級生・後輩らと居酒屋に席を移して、また喋りまくった。なんとも若々しく、かついま仕事が面白くてしようがない売れっ子らしいエネルギーが体から発散している。つられて私もビール、日本酒、サワーと飲み続け、近来になく喋りまくり、気がついたら夜12時近かった。

教え子から初めて出たプロの物書きだけに、出版界の現状、フリーの物書きとしての苦労(私も53歳までは一貫してフリーだった)などを語り合うのは、なんとも言えず愉快で、満足感があった。

いやあ、数年ぶりの痛飲だったなあ。帰宅したら私も喉が嗄れ気味だったが、石井光太のほうはなんと研究室へ現れた午後12時半から深夜零時までほぼ12時間喋りつづけたことになる。おつかれさんである。