風人日記 第三十二章
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小諸の新年
  2010年1月1日〜


2010年1月1日午前7時40分撮影。昨年春・夏・秋の構図とほぼ同じ位置。
ちがうのは雪景色であるほかに、中央の桃の木が枝部分から先で幹ごと伐られていること、
左端近くに刈り取った柴が積み上げてあること、などであろう。
それぞれのページを見比べていただけば、季節はかくも変ることがよくわかる。





このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

昨年六月に新刊を出しました 

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、4月末刊行予定です。年間代表作18編のアンソロジー。

 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年7月刊)掲載作で、上記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


ウイグルとビルマ(ミャンマー)での人権尊重を求める

 昨年7月6日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチで起った騒乱は死者多数(200人以上といわれるが、はっきりしない)を出したが、それに対する中国司法による裁判結果は現在までで死刑30人余という過酷なものだった。うち多数がウイグル人である。執行猶予付きの死刑というものまであるそうだから、実態が把握しにくいが、ウイグル独立運動や中国政府への反発に対する見せしめ的刑罰であることは明らかである。

 また、昨年8月11日ミャンマー軍政は米人侵入事件を理由にアウン・サン・スー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。これは今年予定の総選挙から彼女を排除するための専横措置である。
 最近になって選挙直前に彼女を解放しNLD(国民民主連盟)の選挙参加も認めるかのような報道もなされているが、選挙直前とは一体いつなのか。従来の軍政のやり口から見て、実質的選挙の自由は認めぬ、形だけの姑息な手段であることはまず間違いなかろう。

 これらの行為は人間の本質的権利である自由・人権・民主への重大な侵害であり、
私は中国政府、ミャンマー軍事政権に対し強く抗議するとともに、ただちに事態を改善するよう求める。                              

                              2010年1月1日


演会「アジアの人権ービルマ(ミャンマー)、チベット、ウイグルなど」

 2月24日(水)午後2時〜3時半 埼玉県新座市市民会館(新座市野火止1-1-2)にて 

          講師:夫馬 基彦
          主催:新座市教育委員会生涯学習課  入場無料

          交通:東上線志木、朝霞台駅、西武池袋線ひばりヶ丘、東久留米、
          大泉学園駅、JR武蔵野線新座駅よりバス新座市役所前下車徒歩4分


                    *これより日記                      
3月31日 弥生尽

これは陰暦での言い方だから、今は三月尽と言うべきか。それでも本来は春の終りのニュアンスだから語感はだいぶ違うかもしれない。

しかし、日本では4月新年度制が学校も国や公共団体の予算も行きわたっているから、区切り時の実感は強い。

小諸では書斎の窓から、北西方向に白馬連峰が文字通り純白パノラマ状に美しく見える。冬でもこれだけ鮮やかなのは珍しい。手前の木々さえなければ西に続けて北アルプスが横長に見えるはずなのだが。

昨日は小諸で初めて飲み屋さん的場所に行った。連れて行ってくれたのは早稲田出身の市役所の課長で、驚いたことに店のママも早稲田出身だった。しかも文学部、世代もそう離れていない。へーえと話が弾んだ。

相客も一人は木工造形家兼建築家、もう一人は銀行マン出身の公募県立高校長で、早速紹介されて話すと面白かった。この店はサロンに丁度いいかもしれない。そば屋、喫茶店に続きだんだん行きつけの店が増えてくる。


3月29日 雪とチリと40年前の学生村

昨夕から降り出した雪は夜なかも断続的に降ったらしく、7時に起床したら積雪約6センチの純白世界だった。今年は一体いつまで雪が、と思う反面、やっぱりきれいだなあの実感も抜き難い。

一人で見るのは惜しいような気がしながら早速門前をちょっとだけ雪かきする。

書斎に入ってパソコンをあけたら、チリから連れ合いのメールが入っていた。向うは秋だろうな。東京と信州だけでもこんなに違うのだから、日本とチリではどれくらい違うのか。然りとも言えるし、案外違わない面もあったりだろう。

昨日は小諸来訪中の友人Tさんと一緒に、浅間山の傾斜にある糠地という集落に行った。ここは昔から学生村なるものをやっており、Tさんは高校2年か3年の時を皮切りに大学時代まで3〜4回夏を過ごしたそうだ。

現在57歳だから丸40年ぶり近い訪問だったのに、滞在先だったリンゴ農家はちゃんとあり、80何歳かの「おばさん」がだいぶ体調は悪そうだったがともあれ健在だった。

お茶、ミカン、饅頭類と山ほど出され歓待された。夫君は20年前に亡くなり、もう民宿もだいぶ前に廃業したとのことだったが、村にはかつて10数軒あった民宿のうち2軒は現在もやっており、昨日は大勢の若者が開墾合宿なるものに来ていたという。

お土産に自家製のリンゴをたくさんもらい、そのうち多数はわが家に頂戴することになった。今朝1個を食べてみたら、生産農家のものはさすがに保存がよくサクサクとうまかった。



3月27日 車に乗れた!

先ほど食料買い出しのため、1カ月ぶりに車に乗ってみた。まだ指は100パーセント全治ではないのでおっかなびっくりだったが、どうにか運転できた。出来たあ、という感じである。

なにしろ地方では車なしではほんとに困るので、ホッとした。
指はまだ多少気になるが、92〜3%回復というところか。2度目の注射がそれなりに効いた気がする。

なにはあれ良かった。皆さん御心配ありがとうございました。



3月26日 只今帰諸、昨日のことなど

帰諸とは小諸へ帰ったというつもりだけど、一般的な言い方かどうかは知らない。

昨日はかかりつけの医院で2カ月検診を済ませた。血圧やや高し、血糖値は低く、尿蛋白がプラス1、コレステロール値なぞは1週間後。貼り薬を含め3種の薬品類の処方を出してもらう。本来なら咽喉科や整形外科で扱うものも年来の健康管理を任せている主治医となれば、薬品名・目的さえはっきりしていればたいてい出してくれるからいっぺんに解決し、助かる。

そのあとは2週間ぶりに出校し卒業式。今年は4年ゼミを持っていなかったので、直接送り出す実感はなかったが、1年ゼミで受け持った諸君が次々和服や黒スーツ姿で「先生」と合図してくるので、そうか、彼らがもう卒業だったのかと、改めて4年の歳月を思った。

こっちにとっては改めて感じることにすぎないが、若者にとっては人生の大きな時間だったろう。のびのびした4年間。しかもモラトリアム時代の最後で、4月からは社会人である。多くの諸君には人生最後の学校生活の終了であろう。

こちらはやあやあ、おめでとう、就職は決まった?、そうかそうか、なぞという程度だが、学生の中にはぐっと手を握ってきて「ありがとうございました!」なぞとまっすぐ目を見ていう者もおり、これからどんな人生になっていくのだろうと、それこそ改めて思う。

卒業生を送る会ののち、例年だとたいてい卒業生たちと飲み会となるのだが、今年はゼミがないせいもあって、相談ごとに訪れた4月からの新院生と食事する方を選んだ。 

教師とはもう新しい方のことを考えてもいる。ある意味では冷たい存在なのかもしれない。


3月24日 小諸厚生病院続報

昨日の第2回注射の際なんとなく感じていた疑問点が、一晩寝たらだいぶ解けてきたので、簡単に記しておく。

担当の整形外科・宮医師は第1回の時、ぼくが「畑の開墾をしたため」と言ったからか、どうやらぼくが農民だと思い込んでいたようだ。それで長年の労働の結果だから「しっかり腱鞘炎」と表現したと思え、手術が一番と決めてかかっていた節がある。第1回の時からやけに手術を勧めたし、選択肢は1、手術、2、注射、しかないという言い方で、3、のほっておく(自然治癒)、は一言も言及しないどころか「ほっておいたら絶対治らない」といった言い方をしたから。

昨日もあとから来た人を先にし、一番後回しにされたので変だなと思っていたら、注射の時、これも想定していなかったらしく看護師に「注射できる?」などと聞いていたし、その、看護婦たちが注射後後方で「手術はしないの?」「そうらしいわよ」なぞとワイワイ言っており、医師が「手術の話はしないで」とあわてて制止していたことも、あとから思えば思い当る。たぶん手術をする前提でいたのだろう。

保険証は私学共済で大学名も書いてあるし、初診の手順としての患者の職業・仕事の確認問診さえすれば、そんな誤解は防げるのに。

うかつに手術などせず、ほんとによかったと思っている。



3月23日 2回目の注射

今日、12日ぶりに病院に行った。指はだいぶ良くなっており、夜なか布団の中ではかなり自在に動くようになっているが、朝になるとまた指はぎくしゃく硬めになる状態が数日続いているので、対応を相談しようと思ってのことだ。

医師の言うことは単純で、「しっかりした腱鞘炎」(妙な表現だ)なので、選択肢は3つしかない。1、手術、2、注射、3、ほっておく。どれを選ぶかは当人次第。鍼なぞは、それで治るならほっておいても治ります、だそうだ。治るにしても早まるか遅いかの違いがあるだろうに。断定的な男だった。

前回もかなり勧めた手術は抜糸まで8日というし、1センチ切るというのもどうも嫌な気がし、その気はなしと宣言。

すると、2か3だが、どっちがいいかは結果を見なければ分らない、の一点張りなので、もう一度だけ試すつもりで注射を選んだ。これできかなければ少なくともこの医者にはもうかからない。今日は2時間待たされたが、ほっておいて治るなら待つ必要もなかろう。



3月22日 暑かったり寒かったり痛かったりシンとしたり

三寒四温という言い方があるが、このところの気候変化はすごい。一昨日は小諸ですらなんと20度くらいだったのに、昨日は朝零下となり、午後には霰が音たてて降ってあたりを白くし、夜はずっと零下だった。

今朝は9時ごろまで零下。新聞を取りに出たら寒くて、いつもはついでにする庭や畑の見まわりをつい省略した。ま、門脇の水仙のつぼみと、ばね指の原因となった開墾畑につい2日前に植えた金盞花、けしに似たナントカ花(名前を忘れた)などの根つき具合だけは別だが。

指の安静のためにももっぱら家に籠って、外を見ながら書見を続けるのが一番である。連れ合いがメキシコへシンポジウム出席に行くため、このところ一人暮らしでもあり、静寂が際立つ。

今さっき成田から電話があり、連れ合いは間もなく飛行機に乗るそうだ。チリへも行くと言っている。だいぶ長くなりそうだ。


3月19日 草萌えやばね指も忘れ移植ごて  南斎

すっかり春である。庭は雪の気配なぞほとんど消え去り(今朝一部にうっすらと名残の雪が降ったようだが)、緑が一斉に芽吹いている。水仙のつぼみはもう大きく、すみれと芝桜は2輪ほど咲き出した。

去年何がどう生え、どう伸びたかがだいたい分ったので、今年は伸ばすものとむしるものの判断が速くできそうだ。植えたばかりのわさびとすかし百合の苗も順調に育っている。

ばね指の方は痛みはほぼ引き、茶碗を持つとか歯磨きのチューブを押すとかの日常生活はだんだん出来るようになってきた。ただ、夜なかには布団の中で動く第1関節が日中は相変らず動かしづらいのと、ゆえに車の運転がまだできないのが困る。

よってマイミクMさんのアドバイスに従って、指を温める策─1手湯、2貼らないホカロンとサポーター、などを試すつもり。うまくいきますように。


3月16日 ばね指の不思議

痛い注射をしてから5日目。だいぶ動くようになったが、完全には動かず、一旦曲がるとそのままで右手で補助をしてやらないと元に戻らない。

ところが、どういうわけか夜なか布団の中では第1関節からちゃんと曲がったりする。第2関節からぐっと曲げても痛くない。ややッ、治ったか、と文字通り夢見心地に喜ぶ。が、朝、起きてみると、指はほぼ元通り。幾分よくなっている気もするが、時間がたつにつれいわば元の木阿弥だ。

布団の中はかなりの温度になるので、たぶん長時間あたたまると指の具合が良くなるということではと思うが、しかし布団から出れば元通りでは意味がない。はて、どうしたものか。

私の脳裏にはチラと「もう1回注射」の不吉な一言が浮ぶが、連れ合いは「これから暖かくなっていけばよくなるということよ」とのたまう。性格の違いだが、しかしその判断をいつどのようにすればいいのかが分らない。要するに治ってくれれば注射ぐらいもう1回するのだが……。アドバイスを乞う。


3月13日 ばね指続報

ステロイド注射を1昨日昼過ぎ打ち、2晩寝た今朝、痛みはほとんどなくなり第2関節はだいぶ曲がるようになったが、第1関節(指先に近い方)はまだ十分に動かない。ピンと伸び切りではないが、自分の意志ではきちんと曲がらず、無理に力を入れて曲げると痛く、ピンとばねのように戻る。

マイミクの注射経験者の話では、打った翌朝からもうほぼ普通に動いたとのことだから、やや心配。まあ、個人差はあるのだろうが、発症から10日余りもたついた遅れのせいかしら。

むろんそれも今更分らないから、安静にして待つしかないんでしょうね。せっかく春になってきたのに残った畑の整備が出来ないのはやむを得ないとして、車の運転がどうも不安なのが一番困る。

指一本なのに、親指というのはほんとに影響が大きい。


3月11日 ついにステロイド注射

今日、小諸の厚生病院(JA経営)へ行き、左手親指のバネ指治療のため、指の付け根に注射をした。何とかいうステロイド剤と麻酔薬の混合物だ。

これはマイミクの「やわらかなひかり」さんは「チクッとしただけ」と言い、「タマコ」さんは「思い出すだけで震えるほど痛い」と言った注射である。

そのはざまに立って小生はだいぶ迷い、自然治癒しないものかとマッサージや鎮痛消炎剤(ロキソニン)、貼り薬などで自己療法をしてきたが治らず、ついに病院整形外科行きとしたものだが、お二人の言うことどっちも正しかった。つまり相当痛かったが、始まってしまえばさほどのこともなく終り、麻酔剤のせいかしばらくするとボウっといささか陶然と気持よく、まあやってよかった気分になったからだ。

結果は明日以降1〜2週間しないとはっきりしないらしい。うまくいけばこれで一旦治癒、ダメなら2度目の注射、最高3度目、それでもダメなら手術だそうだ。

開墾労働や石の運搬が思わぬ手痛い結果(文字通りの表現だ)となったものだが、これも田舎での肉体労働、そして東京周辺に比べたら実に患者数の少なそうな地方病院の実態を知るためのいい勉強だったかもしれない。

何はあれ、さて明日以降、指は痛いのか、動くのか。



3月8日 続報

前々回書いた不快事のうち、バネ指の方は相変らずである。第1関節から先は少し動くようになったが、正常には曲がらず、かつ当初はさほど感じなかった痛みが案外根深いことに気付いた。

指1本でも親指となるとかなり影響は大きく、1、茶わんがちゃんと持てない、2、ボタンの掛け外しがうまくいかない、3、車の運転がためらわれる(ハンドルくらいはなんとかなりそうな気がするが、左手でギアチェンジのボタンを押す時かなり痛く、一瞬タイミングが狂う)などが生じる。

1,2は大したことではないが、そのつど痛いし、日常生活としては半ば片手生活みたいな気分になる。ひるがえって開墾、道路補修などでずいぶん石を掘りだしたり運んだりしたのは、左親指には相当の過重労働を強いていたんだなとまさに痛感した。

不快事の第2は、3月3日に重要事があったのち、2日後にもう一人の当事者が病死していた。死因は癌で、すでに車椅子生活だったらしいから、死自体は遅かれ早かれの類いだが、なんだかテレパシーでも働いたのかとかなり驚いた。こういうことってあるんだなと不思議な気分である。

今日夜半過ぎにまた雪が降ったらしく、朝カーテンを引くと積雪が8センチほどに増えていた。ここらとしては近来かなりの深さだ。この春の雪も意想外であり、しかしきれいなものだと、20年ほど前の古(いにしえ)を思いながら(懐かしんだのではない)今ほど懐古園を一周してきたところである。



3月7日 春の雪

カーテンをあけた瞬間外は真っ白で、今も細かい粉雪が降り続いている。積雪すでに4〜5センチ。

昨日まで暖かく、心身が緩んだあとだけに、きれいだなと思う心と同時に、うーむ寒そうといささか引き心も起る。

今日は小諸の人形祭り最終日で、わらうまパレードなるものがあるはずだが、さてどうなるか。雪の中をひきまわされるのを見物するのも一興みたいな気もする半面、億劫でもある。

もと鍋蓋城という小諸で3番目かに古い城跡の屋敷がこの3日間だけ公開されているので、それを見たいからともかく出かけるだけは出かけよう。


3月5日 厄介仕事やっと終るも……

不快事はまだ二つほどある。

一つは親指ばね指の件だが、さいわい昨日朝から少し動きだしたので、楽観気分も生じてきた。第1関節がまだカクンカクンするが、湯飲みを持ったりちょっと物を抑えたりぐらいはできるようになった。痛みもほんの僅かになった。医者も注射も嫌いなので、しばらく様子を見ることにする。

もう一つは20年の不快に関わるもので、どうなるかはさておきかなりの段落地点になってきた。さて、一仕事するか。


3月2日 左手親指動かず

畑の開墾仕事をしすぎたせいか、左手親指が動かなくなった。第1関節がピンと伸びたきりで、無理に曲げようとすると、コキンと音がするように(実際音が出ているかどうかは確信がない)して曲がるが、すぐピンと伸びる。付け根の関節周辺がこころもち腫れた感じで、押えると裏側がやや痛い。

どうも腱鞘炎ないしバネ指らしいがはっきりしない。ともかくしばらく作業は中止する。消炎鎮痛剤の軟膏をすりこんでみたが効くかしら?
ロキソニンを飲むほど痛くはないし。

しかし年老いたものだ、あるいは長年肉体労働から遠ざかりすぎたのか。


3月1日 春弥生のCALTURE

不思議なもので、いかにも3月にふさわしく暖かく、やや春靄じみたものも漂い、風はなくておだやかな気配だ。

畑仕事日和と喜んで朝から3時間たっぷり開墾にいそしんだ。これで敷地の南面の花畑用が出来たので、これまでに出来た西面のハーブ畑用地、北西側の野菜用地と合せ、家の西側はほぼ予定終了である。

あとは東側で、こちらは午前の陽あたりがいいので、昨年からパセリ、ラディシュ、ほうれん草などをろくに耕しもせぬまま種を播き作ってきたが、さすがに成長は悪かった。

で、今度はそちらを深く耕し、石を除き、堆肥入れをして、ちゃんと畝を作ろうと思う。さすればネギや大根も少しくらいは可能だろう。
というわけで明日からは東側へ。

今日の午後は久々の書きものである。本業を忘れてはいけない。しかし書くこと、文化もculture(耕されたもの)である。


2月28日 昨日暑く、今日は雪

起きた時は小雨程度だったのに、ふと気づいたら雪に変わり、今や周りは真っ白。

まだまだ降り続いているから、何センチかは積もるだろう。春まだ遠し、か。



2月27日 小諸も暑い

今まで小諸は寒い話ばかり書いてきたが、昨日こちらへ帰ってきたら、レインコートを脱ぎたくなるほど暑かった。どころか、小諸よりさらに寒い軽井沢すら暑く、11月以降初めてマフラーなしでいられた。

代りに、雪は浅間山の南面(小諸側)はほとんど融け、平地はどこも影も形もない。正月以来北側には根雪化した雪が固くなっていたことを思えば、激変で、まるで春が来たような印象である。

連れ合いの話だと、まだまだ3月にはもう一度寒波が来る、雪も降る、というから、春気分は慎まねばなるまいが、しかしまあ体も気もゆるむ。

面倒事としては確定申告だけが残っているが、メドは付いている。やっぱり、さあ畑仕事だ。


2月25日 人権講演会無事終了

昨24日の新座市での講演会は、約60名が参加。教え子2名、昨年11月の柳瀬荘での連句講座の参加者1名まで来てくれたが、一番多かったのは新座市役所の職員約20名だったようだ。

議会が長引いていたので来れない人が沢山いたとのことだったが、小さな自治体でこれだけの参加者がいるということは、職掌がら何らかの影響がありうるわけで、今後に期待できる感がした。

内容的には、1時間半でビルマ、チベット、ウイグル、中国、と何カ国も取り上げるのは少し無理があり、だいぶはしよってしまった。北朝鮮にいたっては最後に一言触れたのみである。
今後やるとしたら、1回に2カ国程度にし、もっとじっくり話すべきだろう。

それにしても企画してくれた教え子の新座市職員斉藤君、どうもありがとう。ご苦労様。このごろすっかり日芸の教え子たちに支えられている。



2月23日 講演会へどうぞ

このすぐ上のお知らせ欄にある講演会がいよいよ明日になりました。
関心のある方ぜひどうぞ。



2月22日 ツイッターの効用、小諸義塾のこと

しばらく前からツイッターを始めてみた。まだほんの試用段階だが、いい面もある。プロフィールに小諸市在と書いたせいか、小諸の関係者や市役所、地域団体などが早速フォローしてきてくれ、行事などの情報があれこれ入るのである。

その一つ、「北国街道人形めぐり」が20日から始まったので、土曜に見に行った。古い各家が所有のひな人形類を土間や土蔵の中、店先などに展示するもので、人形もさることながら、普段は入れない旧家の中まで入り家の人とあれこれ話すのが面白い。

「柳良」という荒物屋さんの土蔵には島崎藤村、木村熊二(クリスチャン。小諸義塾創立者。藤村を小諸に呼んだ人)、丸山晩霞(画家)の古い写真が3人並んで展示されてあり、連れ合いと顔を見合せた。なぜなら、晩霞は藤村の小説のモデルにされ、名誉棄損で裁判にまでなった間柄だからである。

その柳良さんの数軒手前が連れ合いの実家であり、小諸義塾の建物は彼女の祖父が買い取り、長らく敷地内にあったが、今は市が懐古園近くに移築し、一般公開している。


2月21日 零度の労働

今日は好天、青空。が、ヤフーの天気予報では12時零下1度、午後3時0度である。しばらく迷ったが、午後1時半ごろ、24日の講演会の資料とレジュメが一通り出来たのを機に、まだ零下の様子だったが表へ出て、久々に畑仕事というか開墾を開始した。

最初はダウンの上着と毛糸の帽子をつけたままだったが、やがて体が暑くなってきたので、それらを脱ぎ、もう少したつとカーディガンも脱いでしまった。

さらに時間がたつと、体中汗ばみ、額からはぽたぽた汗が落ちて、眼鏡が曇る。視界は半分ぐらい見えないが、かえって道を行く人に気を取られずにすむので、そのまま開墾を続けた。相変らず片手でやっと持てるほどの大きな石がごろごろ出る。小石はまさに無数としか言いようがない。

その大きな石を掘りだすのが難物で、スコップで四方から攻めグッと梃子をきかせて浮き上がらせる。そのつど汗が滴る。それが気持がいい。労働の喜びというやつかしら。

掘った溝にコンポストから自家製の堆肥を運んで埋め、そこに土をまたかぶせていく。という順序でほんの一畝作っただけだが、上半身は汗だく、目がややかすみ気味で、まあ今日はここまでかとやめておく。

午後3時半である。顔を洗い汗を乾かし、一杯飲む茶がうまい。



2月19日 あぐりの湯

あぐりとは女の子の名前ではなく、agriculture農業の略語である。つまり小諸市がJAと共同して農業関連施設として作った温泉の名だ。

というと、なにか質朴な共同湯かなにかと思われがちだが、なんのなんの近頃の農業関係組織はJAにしろその他にしろ大組織だし、資金力も力も強い。よって、その温泉施設も、、対岸に浅間連峰8峰が見事に見晴らせる山の中腹にある大型建築で、1階だけだが広々とし、浴槽は3種プラス露天風呂・サウナ・打たせ湯付き、さらに安くて新鮮な農業産品の直売所付き、という至れり尽くせりの場所なのである。

風呂代は1回大人1人500円、回数券使用なら1回あたり450円。

4日ぶりに東京方面から帰ってきて、そこへ行きたくてしようがない。東京はあれこれあって疲れたのである。

さあ、行くぞ。車で10分だ。


2月17日 大学院修士在学生関係一段落

昨日は修士論文・制作の審査をした。人数は少ないが2年間のまとめだからホッとする。

そのあと教授会、大学院会議、研究委員会と延々と会議が続き、1年院生との飲み会集合が10分遅れとなった。

そうして近所の居酒屋でやっと始まった飲み会は、一人(30代男)が全く飲めないというので驚く。逆に23歳女性のほうはビールのジョッキも日本酒の冷酒もぐいぐいという感じ。全くこのごろの若い衆との飲み会は意表を突かれる。

が、1年院生との会は今年度初めてだから、話は中身があった。やはり学部生とはだいぶ違う。
そしてこれで今年度の院関係は諸事ひととおり終了である。

明日は新年度の院外部一般入試となる。どんな修士新1年生が入ってくるか。ホッとのあとの新しい期待が生じる。

そうそう、院生の女性から今年唯一のバレンタインチョコを貰った。今年はバレンタインデーが日曜だったこと、小諸にいたことなどのせいか、あるいはもっと端的に歳のせいか、バレンタイン当日にはなんの沙汰もなく、いささかさびしい思いをしていた折だったので、嬉しかった。帰宅して、夜一人でチョコをかじりながら大吟醸を一グラス飲んだ。


2月15日 目下零下4度、雪

もう珍しくもないのだけど、書斎から薄暗い窓外を眺めていると、また雪のことを書いてしまう。遠景の浅間山が見えないし、鳥もあまり飛ばないから、意識がつい雪に向ってしまうのかもしれない。

きのうリサイクルショップで買ってきた一見古代中国の青銅ふう、実は銅に緑青色を塗っただけらしい高さ30センチほどの細みの花瓶を窓際に置いたら、予想外に似合う。形と色が窓外の雪中の常緑樹の色やカーテンの青色と合うのだ。

金ンン円也。なんとも安い買物である。



2月11日 続 雨氷

今、懐古園とか近所を1周してきたが、どこも木々はすべて雨氷だった。枯れ木に銀色の花が咲いたようで、見事な光景だった。

小諸へ来てから丸1年になるが、初めての景色である。


2月11日 雨氷



今朝、カーテンをあけたら敷地内の木々に雨滴が付いている気がした。ああ、雨かと思ったが、目を凝らしても雨は降っていない。

で、眼鏡をかけよく見たら、雨滴と見えたのは氷か小さな氷柱で、つまり雨が降ったあとの滴が凍ったものらしい。それがどの木にも一面に着き、枝が細かいものほど美しい。

「樹氷かしら」と言うと、連れ合いが「こういうのはそう言わないはず」と言うので、あれこれ調べたらどうも「雨氷」と言うらしい。ほかに霧氷、樹霜、粗氷などいろいろあるらしい。

写真に撮ってみたが、肉眼とは微妙に違って、美しさがよくでない感がするが、ともかく御披露まで。


2月9日 立松和平が死んだそうだ

まだ聞いたばかりだが、亡くなったらしい。癌だったらしいとも聞く。

4歳ほど年下だったが、むかし早稲田文学の編集委員を何年か一緒にやったので、何となく同世代感覚がある。ついにあのころの仲間も欠けていく歳になったか、の感慨がある。

祈る冥福。



2月5日 小沢一郎と朝青龍

小沢一郎が不起訴になってホッとした。これで先の総選挙以来の新政権による改革機運が何とか保てそうな気がする。今は何はあれそこにエネルギーを集中すべき時であり、視野の狭いきれいごと主義、何か胡散臭い権力意識を感じさせることはすべきではない。
検察とマスメディアはこの間の騒ぎぶりを自己反省すべきであろう。

朝青龍は似た類のきれいごと主義者たちに詰め腹を切らされた感が強い。

そりゃあ、暴力はいかん、プロの格闘技選手のこぶしは凶器だ、という言い方に反論はできない。それに朝青龍の対応も悪かったし、日ごろから彼は確かにやんちゃで、時々苦笑する面もある。

だが、非難する人がしばしば言挙げするあのガッツポーズがはたしてそれほどいけないのか、と私なぞは不思議に思う。あれがいけないのなら取組時間直前の闘志あふれる横まわし叩きと睨みつけはどうなのかと思うし、高見盛はどうだとならないか。相撲ファンの多くはそれらに喝采をおくってきたのであり、あの勝負前と勝負後の行為はいわばコレスポンダンス(照応)するものであろう。

国技だからという言い方もおかしい。今や相撲は国際競技であり、上位はほとんど外国人ではないか。それゆえに変化に富んで面白くなっているのであり、「ナニナニ県出身、ナントカ部屋」の国内版だけでは退屈きわまりなかろう。

朝青龍の処分に関しては「謝罪したうえで二場所連続優勝を課する。出来なかった場合は引退する」という案を提案していた人もいる。相撲は盛り上がるし、ファンも喜ぶし、洒落た大岡裁きではなかろうか。


2月4日 小諸も雪だ、立春だ

昨日こっちに帰ってきた。軽井沢以降は全くの雪景色である。

軽井沢から信濃追分までは毎度のことだが(この辺りが長野県で一番寒い。長野市なぞよりはるかに温度が低い)、いつもならだんだん雪がなくなっていく御代田から先になっても雪は薄くなれども消えず、小諸に着いてもそのままだった。

水曜無料の懐古園を抜けて自宅に着いても、どこもかしこも雪、裏庭はまるで降ったばかりのようにふわふわ処女地の印象である。

きれいだなあという思いと、ピリッと突き刺す寒さに、やや複雑な気分だ。きれいだから外を歩き回りたいけれど、寒くて血圧に悪いし、道は滑り気味でとてもすたすたとは歩けないからである。夕方以降は凍るからもっと危ない。
結局、早めに鍋の支度をし紹興酒の燗でいっぱい始めてしまった。

そうそう、今日は立春だ。実感は全くわかない。


2月2日 東京も雪だ

昨日、小諸から雪だという電話が来たばかりだが、今朝起きたら埼玉も真っ白だ。東京もそうらしい。
今年は寒いということだろうな。

今日から入試だから交通機関への影響が一番気になったが、さいわいJR山手線も西武線も大丈夫らしい。ホッとする。
これから試験監督に出校である。


1月30日 今夜はブルームーン

小諸では先ほどやや薄雲模様に透けて、なんだか本当にブルーっぽく、実に美しかった。2年半に1度だそうである。


1月30日 久々のペンクラブ

昨年委員長交代後、初の獄中作家・人権委員会だった。
が、まだ副委員長は決まらず。なにしろ副委員長が3人連続死亡したため、やりてがいないのである。私は去年副委員長を辞任したため生き残っているが、辞めていなかったら私も死んでいたかもしれない。

というわけで、新委員を増やし、黙ってそのなかから新副委員長を選ぼうとか、副委員長名を廃止し幹事としようとか意見が出たが、はてどうなるか。結局未定のまままた継続審議となった。

2次会はその故副委員長を偲ぶ会となった。喉頭癌と分ってからわずか2カ月での死であった。



1月26日 独房の三大恐怖

1、ドアのノブがないこと、
2、鏡がないこと、
3、時計がないこと

だそうだ(順序は定かでない)。
ビデオニュース・ドット・コムでホリエモン(堀江貴文)の体験談を聞いていたら、そう言っていた。理由は細かく言わずただ「すごいプレッシャーです」みたいな言い方だけだったが、なるほどと印象に残った。

私なりに考えてみると、1、のドアのノブは外側からしか開けられないようにそうなっているのだろうが、言いかえれば中からは四面すべて壁みたいなもので、自分の意志では決して部屋から出られないことを痛感させるのだろう。

鏡は、ハテといろいろ考えてみたが、自分の顔を長い間見られないと、自分がどういう人間だったか、どんな顔・表情・やつれ具合・目色だか分らず、ひいては己の客観性を把握できなくなるのではと思える。

時計は、時間が分らなくなるということの迷路性、空間的閉塞感と逆に時間の境界・区分がなくなることによる自己統御性の喪失、得体のしれない無限の中に放り出されしかも他人に勝手に動かされているかもしれぬ恐怖感、を感じるのではないだろうか。

考えればもっといろいろありそうだが、確かにそういう状態が何十日も続くのは、相当怖いことに違いない。
検察というところは、そういうことをただ「証拠隠滅、逃亡のおそれあり」という勝手な理由だけで、ほとんど無制限に強制できる機関なのである。恐ろしいものだ。


1月24日 長靴を履くと落ち着く

昨日3日半ぶりに小諸に帰ると、溜っていた郵便物の返事を出しにポストへ行く際、無意識に長靴を履いていた。それも農作業用の上部が閉まるものだ。そしてグツグツ音を立てながら歩き出すと、えらく気分が落ち着いた。ああ帰ってきたなあという実感がある。

音のグツグツはほんとで、もう一つある埼玉でも使っていた普通の長靴だとドサドサないしダブダブと音がする。上が閉まらないし中もどこか空間があるせいだろう。

ポストは舗装道路を通るからそんな長靴など全く必要ないのだが、気分がいい。で、帰宅するとすぐそのまま、スコップを取り出し畑作りに取り掛かった。

むろんまだ種まきなぞするわけではなく、春を前の準備作業だ。というかまだ畑でない硬い地を掘り起し、石を除き畝を作るいわば開墾に近い作業である。小石は無数に出るし、時々は片手で持てないほどの石も出る。ここらは浅間山の火山弾地帯だから、どこもそんな土地柄なのだ。

おまけに元来自然林だった所で大きな木がいっぱい根を張っているから、しばしば根の分枝にも出くわす。切ればかわいそうだし、木に悪影響を与えないかと気になるが、ほっておくと根はますます広がり、畑や草花を植えられなくなるおそれもあるので、やむなく小型鋸で切る。

ひと畝ぶん溝を掘ると、汗が出、石と切った根がたまる。小さな開墾をした気分になる。

それが満足だ。それがほしくて長靴を履くのである。



1月22日 授業終了!

今日で本年度授業が終了である。あとは年度末試験、4年卒論卒制審査、そして2月に入ると入試、と進行していく。大学としては大事な時であり、専任教員としてもかなり気ぜわしいが、出校時間や時間的拘束はだいぶ減る。

授業はミニ講演会みたいなところもあり、要するにそれなりの人数の前に出、90分づつ人の視線を浴び続けねばならないし、間違ったことを言ってはいけないから、慣れた学生の前でもそれなりの緊張がある。それがなくなるから、ホッとする。

うまい具合に今日は、卒業生との飲み会も設定されており、丁度いい。27歳と30歳のチャーミングな独身女性だ。両手に花とはいかぬが多分二人を面前において、あれこれ恋愛話なぞを聞くことになろう。楽しみである。


1月16日 いよいよ面白くなってきた、指揮権発動も

検察対小沢のバトル、いよいよ正面切ったものになってきた。
検察という逮捕拘禁権を持つ直接的権力と、政治的権力の頂点にある者との対決という構図は、なんとも見ものである。

成り立ちとしては一官僚機構にすぎない、それでいて妙に独立権力みたいにふるまう検察とは不思議なものだとかねがね考えていた。また、国会という立法府を制すれば、事実上、行政の最高権力も握ることができる三権分立ならぬ二権、いや、司法は判例と役人的ことなかれ主義に流されるばかりで独立なぞ実質的にないことを思えば、二権ともいえぬ曖昧なだらだら統治体制が日本だと、かねがね感じていた。

それが今回真っ向から四つ相撲というわけだ。
被逮捕者たち、屈するな。間違っても自殺したりするな。佐藤優や鈴木宗男に学べ。小沢はいざとなったら指揮権を発動させよ。そこまで出来たら、そもそも現在の疑似三権分立体制の是非がはっきりする。

それをじっと見ていよう。


1月15日 東京も寒い

何年ぶりかの寒波だそうだ。世界が大変みたいである。南半球は猛暑だというし、何か地球に異変かとも思うが、地球の立場からすればこのくらいの気温変化はちょっと寒気がした程度かもしれない。

問題は家の中の寒さである。南側は日が照れば25,6度の暖かさになるのに、北側の書斎は北極みたいだ。洗面室や玄関、クローゼットなども寒い。屋内で移動するたびに温度変化が激しく、寒いところにちょっと長くいると、のどが引っかかってくる。血圧にもよくない。

小諸だと、屋内はどこも均質な温度になる建物になっているから、外気が零下でも寒いとは感じない。ゆえに向うでは暖かく、こちらでは寒いなあ寒いなあと言うことになる。妙なものだ。


1月10日 八小山

小諸には七小山といわれる小山姓の人々がいる。小山姓が多いうえ七系列あるらしくそう呼ばれるのだが、造り酒屋(山謙酒造)、味噌屋(山吹味噌)、画家(小山敬三)、元市長、中日新聞初代社長(小山松濤)、高浜虚子庵の家主である豪邸小山家など有名小山家が多い。

そこへ昨日もう一人小山氏がやってきた。
わが家の客小山晃一氏で、昨年私の本『オキナワ 大神の声』を出してくれた編集者である。

彼は元来京都出身だから、むろん小諸の小山家とは何の関係もない。が、去年からほぼ小諸住まいになった私は、すぐ隣が小山敬三美術館、その前の火山岩庭園にある銅像二つが元市長の小山邦太郎氏と中日新聞初代社長の小山氏であることにいささか驚いていた。なにしろ愛知県出身の私は、少年時代から新聞は中日、ラジオテレビはCBC-中日放送、野球は中日ドラゴンズだったから、中日という名は極めて親しく懐かしいのである。その初代社長が小諸出身だったのかというのは思わずヘーエと声が漏れたほどだ。

おまけにその火山庭園には、従来からのわが住居地埼玉県志木市のシンボルであるカッパの石像まであった。自分が寄付した覚えもないがと驚きつつ見ると、脇に「小諸市志木市ロータリークラブ姉妹クラブ記念」という標柱がある。私はそんなことは全く知らずに引っ越してきたのだ。それと関係あるのかどうか、だいぶ以前の志木市長も確か小山姓だった。

つまり連れ合いの出身地である以外自分とは直接何の縁もない地のはずが、意外にも妙につながっているのだった。

そして、これが極め付きだが、ひさびさのわが本の出版のために二肌も三肌も脱いでくれた同年同窓の編集者が小山姓だったわけだ。いわば八番目の小山である。付け加えればその出版直後に、小諸で知り合った知人(彼にも本を贈呈した)に連れられ初めて行った、雰囲気といいカクテルの腕といい田舎にこんな見事な店があるのかというぐらいいかすバーのマスターが、丁寧に出してくれた名刺の名前が「小山こう一」(こうのみ異字)だった。

この時も思わず笑い出してしまったが、昨日も、小諸は初めてという小山さんを連れて市内の北国街道あたりを案内していると、ほんとにここも小山、あそこも小山で、彼も私も笑ってしまった。不動産屋やら毛糸屋やら、あちこちに「小山」の看板があったりするのだ。

今日はあいにく朝から雪で寒そうなのでまだ出歩いていないが、さて、またいかなる小山に出会うだろうか。


1月7日 天気情報の精度は……

ネットの地域指定天気予報で、今日はわが住所は午前6時以降ほぼ全日雪になっており、かつ6時30分発表になっているのに、雪の気配はその時間はもとより今もどこにもなく、快晴といってもいい天気だ。気温もこの頃としては暖かそうで、霜柱もあまり立っていない。

いったいこれは何なんだろう? YAHOOの「天気情報」なんだけど。


1月5日 辛夷の芽と赤げら

カーテンをあけたらまた雪景色で、しばし見とれるのにも慣れた。
朝食後、書斎の模様替えを少しし、窓外を眺めると辛夷の芽がまた膨らんできたように思える。

辛夷は桜より前に春第一に開花する印象がある。蕾の形成も早い。雪のさなかに目に見えて育っていくさまを見るのは気持がいい。どんなに寒くとも春はやはりやってくるのだという思いが如実にするからだ。

枯れ木に見える木々には鳥が目立つ。たぶん葉のあった時期からそれなりにいたはずなのだが、葉がなくなるとよく見えるし、声も通る。いまはげら類が多く、赤げら、小げらがよく姿を見せる。赤げらは大きく、しかも樹にまっすぐ縦にスルスルと登るから、一瞬リスが来たかと錯覚したりする。幹をつつきだすとかすかに音がするように思えるが、気のせいかもしれない。うちは窓が厚めなので、屋外の音は小さくしか聞えないのがやや残念である。



1月3日 今日も雪、おかげで喉が……

元日雪、2日は青空、されど空気は寒く、今日3日は明け方からずっと雪。景色はきれいだが、どうも昨日から喉がひっかかりだした。

風邪というほどではないけれど、朝鮮人参茶を飲み、足裏にカイロを張った。

予報では正月7日じゅう雪模様らしい。どこまで降るか、どんどん降れ。


1月1日 明けましておめでとうございます

小諸にて雪景色の元旦を迎えました。去年はこの家の新築、新本の出版、新しい生活体制開始と、近来になく充実した年でした。

今年は心落ちつけて新しい仕事に取り組みたいと思っています。信州を舞台にしたエッセイや小説を書けたらとアイデアを練りつつあります。

上のページ冒頭写真は今朝撮ったものです。これで昨年来から一年の各季節の変化が一通り記録できました。過去三か月ごとのページ冒頭にそれぞれの季節の写真を出していますので、見比べていただければと思います。