風人日記 第三十三章
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碌碌新新
  2010年4月2日〜6月28日







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、4月下旬刊行、発売中。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、上記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


昨年六月に新刊を出しました 

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


ウイグルとビルマ(ミャンマー)での人権尊重を求める

 昨年7月6日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチで起った騒乱は死者多数(200人以上といわれるが、はっきりしない)を出したが、それに対する中国司法による裁判結果は現在までで死刑30人余という過酷なものだった。うち多数がウイグル人である。執行猶予付きの死刑というものまであるそうだから、実態が把握しにくいが、ウイグル独立運動や中国政府への反発に対する見せしめ的刑罰であることは明らかである。

 また、昨年8月11日ミャンマー軍政は米人侵入事件を理由にアウン・サン・スー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。これは今年予定の総選挙から彼女を排除するための専横措置である。
 最近になって選挙直前に彼女を解放しNLD(国民民主連盟)の選挙参加も認めるかのような報道もなされているが、選挙直前とは一体いつなのか。従来の軍政のやり口から見て、実質的選挙の自由は認めぬ、形だけの姑息な手段であることはまず間違いなかろう。

 これらの行為は人間の本質的権利である自由・人権・民主への重大な侵害であり、
私は中国政府、ミャンマー軍事政権に対し強く抗議するとともに、ただちに事態を改善するよう求める。
                              
                     2010年1月1日
                           日本ペンクラブ獄中作家・人権委員 
                                                夫馬 基彦


                        *これより日記                      
6月28日 久々にうまく書けた

短いのにずいぶん時間がかかっていたけど、昨夜から夢の中で格闘した成果あって、今朝から4時間で見事に書き直せた。フシギなものだ。

というか、学生諸君にこう直せ、ここを入れ替えろ、とか言っていたことがそのままおのれに適用でき、うまくいったのだ。

つまりこれは日ごろの教え方が正しかった証左でもあり、二重の満足感がある。To teach is to learn。


6月27日 今度は腱鞘炎?

昨日、小諸に帰ってきて、敷地の草があまりに伸びているので両手で使う大ばさみで草刈りを始めた。最初はちょっとだけのつもりだったが、刈れば確かに目に見えてさっぱりするし、だんだんエスカレートしていった。

途中から右手首あたりがちょっと痛くなったので、止めようかと思いつつ、目の前の草が気になってキリがつくところまでとかなりの時間続けてしまった。

と、右手首が相当腫れており、あわてて作業を中止し、風呂に入ってマッサージしてもなお治らない。晩酌のビールのグラスも右手で持てなかった。

そういえば隣家のAさんが草刈りをしすぎて腱鞘炎みたいになり鍼をうちに行ったなと思い出し、自分自身3月に左親指のばね指をやったばかりなのになんと迂闊と大いに悔やんだ。

よほどくたびれたのか昨夜は9時に就寝、今朝は7時半までぐっすり寝込み、小諸での睡眠新記録を作った。

寝起きはよかったが、しかし右手首はまだボウーッとしている。少し痛いし、重い物を持てない。本能的にばね指の時ほど重症ではないと感じるものの(何しろあのときは1ヶ月半の重労働の結果だった)、当分安静は必要だろう。

まだ草刈り木の枝刈りは必要だし、草むしりは呆然とするほどたまっている。うーむ、どうすればいいものか。いっそ放っておくか……。



6月24日 居眠り

夏になると思わぬところで居眠りをしてしまうことがある。暑さのせいだが、空調との関係もある気がする。

空調がちょうどいい時、寒すぎるときはまず眠ったりしないが、寒すぎ感があってちょっとゆるめた時など、しばらくしてフッと居眠りしていたりする。あたたかくなったのと安心感と両方のせいかもしれない。

昨日ゼミの時間中に一瞬そういう時があって、いささか慌てた。ゼミは小部屋で自分で空調をいじれるため、そういうことが起こる。大部屋の授業のときは、空調が中央管理になっていたり、操作の場所が部屋の後部にあったりで自分でいじれないため、居眠りも生じようがない。代りに寒すぎたり、汗だくになったり、別の形で困る。

水曜はその大教室授業の後にゼミがあるため、体の管理が難しい。


6月20日 六月の花

梅花うつぎの香りが漂う。緑に白の配色は清楚で、かつ華やかだ。

東京江古田のそば屋「甲子」でも出会い、昨夜は小諸の小料理飲み屋「松籟」でも出会った。

実は隣の原っぱにその木が二本あり、以前もそして今日も花枝を何本も貰った。今はわが書斎で香っている。



6月17日 諸行無常

小諸では梅雨入りしてもひんやりしていたが、関東へ来るとじっとり蒸し暑い。昨日の所沢校舎では教室の冷房施設が不調で、上半身がほとんど汗にまみれた。

以前書いた柳瀬川対岸の工事は、何やら黒いものを埋め込んでいた場所はどうやら駐車場で、その向うの従来駐車場だったところが新病棟になるらしい。今はそっちを掘り返している。

駐車場は川からすぐ近くになったから、その分音や排ガスも近くなるわけだが、まあ出入りの多い時間帯はこっちも出かけていて留守だから、大した実害はないともいえる。

このごろだんだん色んなことがどうでもよくなってきた。というか世の中おのずと変わっていくわさ、その変化は見ているしか仕方のないもの、それに見ている楽しみもある、といった具合に考えるようになってきた。

かつてインドで学んだ諸行無常である。諸行無常とは日本では「無常観」とか「もの寂しい移ろい」みたいにとらえられるが、本来は「あらゆる物質・事象は常ならず(変転する)」の意である。発展的諸行無常もあれば、ただ変化する、ことでもある。

私も変化し、かつ過去を思い出しもする。


6月13日 梅雨はまだか

予報では今夕から降り始めるはずだったのにまだ降らない。朝から曇り続きで風はかなり激しくざわめくのに、降らない。

午前中原稿を書いたのち、待ちかねて午後早々木に水をやり、畑の整備をし、それから浅間山麓のイングリッシュガーデンの館を見学に行った。居間から小諸市が一望できるのが見事だった。天気次第では朝方富士山がきれいに見えるそうだ。

ついでに温泉に入ろうと菱野温泉に向ったが、駐車場の車が多すぎ、怖れをなして帰った。
家でミントを摘み、ミント湯にして入った。昨日のカモミール湯に続いて香り高くいい気分だった。今後毎夕ハーブ湯にするつもりだ。極楽極楽。



6月10日 夏

もとよりだいぶ前からすでに夏なのだが、東京界隈に来るとほんとに夏だと実感する。

昨日は所沢校舎で授業をし終えた後、胸ポケットに入れていたマイクの発信機を取り出したら、汗粒がびっしょりついていた。
今朝は7時前に起きるなり室温は27℃で、窓を開け放した。

今日の出校はもう上着は来たくない。が、こういう日に限って電車なぞが冷房ギンギンになっているだろうな。その温度差が体に悪い。いやな季節になってきた。


6月6日 顔見世興行

宇宙人内閣の時の顔ぶれはフランケン外相、デコ坊や国交相、悪代官官房長官と、わけの分らぬ大衆芝居を見ているみたいだった。

新内閣になって宇宙人の顔を見られなくなったのは、ある意味残念だ。
でも、悪代官の顔を見ずにすむのは有難い。代りに「うちのおじいちゃん」官房長官か。出来ればデコ坊や国交相の顔も見たくなかったなあ。

少子化担当相は児童会長から女子高の先輩になるらしいな。ちょっと淋しいが、いくらかお色気はあるかもしれん。



6月3日 ほんとに辞めちゃった!

前回この日記に「内閣交代」と書いたのが5月31日。そうしたら本当に鳩山氏は辞任表明してしまった。しかも2日前の時点でそうきめていたというから、あの表情はおとぼけだったのかとやられた気分だ。

言われてみれば小沢・輿石との第1回会談はたった5分だったから、何かおかしいとは思ったのだが。輿石・小沢が説得を試みたのならもっと時間がかかるはずだし、見抜けなかったのが悔やまれる。

しかし、政治のプロを自称する連中、マスコミも誰一人そう言わなかったのだから、あの手合いは本当に信用できない。だからボンボン首相にまでなめられる。

いや、ボンボンのあの得体のしれない宇宙人目玉を見直すべきか。



5月31日 内閣交代

もはや鳩山内閣は辞任する以外ない。現実的選択としては菅直人内閣ぐらいしかないだろう。

本当は小沢一郎内閣がいいのだが、彼だと反対者が続出し大混乱するにちがいない。惜しい人物である。



5月29日 鳩の目

普天間基地問題に関して、私はひょっとしたら鳩山氏は最後にウルトラCを出すのではないかとずっと思ってきた。すなわち、県外交渉も、沖縄県内交渉もあれこれ試みたがすべて強く断られた、ゆえにもうどうしようもないからアメリカさんよ、アメリカ国内で引き受けてくれ、と言うのではと。

だが、もはやそれはないだろう。沖縄の意思は尊重せず、連立与党の意思も尊重せず、アメリカとのみ勝手に合意し、それを押しつけることにしたわけだから。

となれば、選挙時以来つい最近まで一貫して言い続けた約束─最低でも県外、沖縄の意思尊重、与党3党合意尊重─をはっきり破ったわけだから、責任をとって鳩山首相は辞任すべきだろう。

アメリカとの合意を優先し今回の方針を進めざるを得ないというなら、それは次の内閣でやればいいことだ。選挙での公約、つまり国民との約束、沖縄との約束、与党間の約束を破って、そのまま続投とはいくらなんでも仁義にもとる。

それを誠実そうな顔をして「お詫び」ですませようとする昨日の記者会見の大写しになったあの鳩山氏の顔と目は、一体何なのか。何を見ているのか、どういう人間なのか、まるでわからない感があった。

彼はまさに宇宙人なのだろうか。



5月25日 アカシアのサラダを食べる

昨日、強風であちこちに落ちたアカシアの花をサラダにして食べた。今年初もの。花弁だけとって洗い、そのままほんのちょっとポン酢をかける。香りよく、サクサクと、ほのかに甘くうまい。

今日は湯がいて食べるつもり。てんぷらが一番と言うが、私は揚げ物をあまり食べないので、サラダ系がいい。

花はだんだん増えてきた。あと1週間で我が家はほのかに甘いにおいで包まれるだろう。今日は崖を降りた先にある千曲川のアカシア島にもぜひ行かずばなるまい。中の島であるここは全島アカシアだけの島である。



5月23日 アカシア林住期の始まり

1枝だけだが庭のアカシアに花がほころび始めた。
10数本ある木の中でも他はほとんど目につかないから(上の方はよく見えない)、まだ本格化は1週間ぐらい後だろう。

去年も白く甘酸っぱいにおいで満たされたのは6月だった記憶があるから、今年もおそらくそうだろう。葉は着々とまさに日ごとに薄緑色のマメ科植物のような丸い連葉を伸ばしており、わが書斎も西窓外をほぼ6割がたおおわれた。

きれいな緑である。朝起きてカーテンを開きこれらの緑に包まれつつある庭を見ると、私はわあと思わずひとりで声をあげ、ついで軽く酔ったような幻惑感にとらえられる。

先だってこの日記にも自分はひょっとして林住期に入りつつあるのではと書いたが、その林住期を私はアカシア林住期と名付けたい。素直な実感なのである。


5月20日 研究室からの眺めと電車の走る風景

大学の自室を研究室と呼ぶが、別にいつもそこで研究をしているわけではない。だいたい私は創作担当の教師だから、そもそも研究なぞしないと言ってもいい。

といって、いつ学生や事務員や誰かが入ってくるかもしれない部屋では、落ち着いて小説も書けない。だからせいぜい授業の予習をしたり、ちょっとしたレポートや書類を作ったり本を読んだりという程度の使い方である。

ときおり窓の外を眺めると、遠くには新宿副都心の高層ビルも見えるが、私は下の西武線の線路や電車を見ることが多い。こちらは5階だし、線路まではほんの4,50メートルだから、どちらもよく見える。

電車のなかはどのくらい人が乗っているかよく見えるが、顔までは見えない。男と女の区別ぐらいはついたりつかなかったりする。急行か鈍行かは音で区別がつく。今通った特急だとさらにはっきり区別がつく。

私の部屋は他に柳瀬川のマンション、小諸の家の書斎があるが、この研究室を含めみな電車が見える。マンションからは東武東上線が見え、小諸の書斎からはしなの鉄道が見える。しなの鉄道は昔は国鉄信越線だったが今は第3セクターの民営だから、いわば全部私鉄である。

信越線時代は蒸気機関車だったりジーゼルカーだったりしたらしいが、今は電気鉄道だから、3つとも電車である。

研究室からの線路が一番近く、次がマンションからでこれはたぶん3百メートルほどある。3百メートルというとかなりの距離だが、間は田んぼと川、道路だけで家も障害物もほとんどないから、よく見える。音も鉄橋を渡る音をふくめよく聞こえる。

小諸の書斎からのしなの鉄道はもっとだいぶ遠く、間に木々も多いので、切れ切れにしか見えない。

それぞれ風情が違うところがおもしろい。ひょっとしたら私は電車の走る風景が好きなのかもしれない。


5月17日 若木を3本買う。庭落ち着く。

昨日は近在の庭木屋で、山法師の赤と白、紫つつじの若木を買った。山法師は3メートルほどの大きさ。幹と枝が細かく分かれているタイプなので、庭に植えたら目隠しになって、実に落ち着く。

それに運賃が500円、穴を掘っての移植代が合わせて1000円だった。あまりの安さに感激し、手際よく植えてくれた気持のいい若い職人さんに「帰りにコーヒーでも飲んで行って」と1000円プラスした。

こんなことなら春前に桜もそうしておけばよかった。ホームセンターで買った苗は小さすぎて育つのに数年はかかりそうだからだ。3メートルくらいのにしておけば目隠し効果も大きい。

しかしまあ、こうやってだんだんいろんなことを知っていくということだろう。次は、アカシアが1本どういうわけか枯れた気配なので、代りにブナを植えたい。



5月16日 庭仕事三昧、ヘッセのこと、若き日のインド放浪

昨日の午後、今日の午前とずっと庭仕事畑仕事をつづけた。木や草が留守の間にすっかり初夏のよそいになり、手を入れざるをえないからだが、要するに好きだからでもあろう。

ある程度いじり、汗をかいたのでもういいかと部屋に入るが、お茶を飲みながら部屋からいじったあたりを眺めていると、あそこをちょっとなぞと気になり、また出ていってそのまま1時間やりつづけたりの繰り返しである。

ヘルマン・ヘッセの本(彼があちこちに書いたものを他の人が編纂したもの)に『庭仕事の愉しみ』(晶文社)があるが、なんだかそこに出てくるヘッセと考えることや日常が似てきた感さえする。

もちろんヘッセの庭は私のそれより何倍も大きそうだし、植生も土地の成り立ちもだいぶ違うけれど、スイスは高地の寒冷気候なので、案外長野県に似た点があるのかもしれない。アカシアや草花の名など出てくるものに知っているものが多く、親近感を感じるのだ。

物を書きながら庭仕事畑仕事をするから、考えることも似てくる面がある。インド体験や仏教・ヒンドゥ−教・老荘思想への関心も似ている。第一、私はかつて青年期インド放浪に出かけた際、リュックサックに入れていった本がシャカの『スッタニパータ』、古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』とともにヘッセの『シッダールタ』だったのだ。

そのインドで私は「四住期」という考え方に出会い、強く影響を受けた。それは人生を、@学生期、A家住期、B林住期、C遊行期、に分けるもので、放浪しながら死にかけたりした私は学生期からいきなり遊行期を先にやっている感があったが、日本に帰ったら家住期に入り、いずれは林住期を実践しようと思ったりした。

このごろ、ひょっとしたら自分はその林住期に入りつつあるのかもと、ごく自然に感じだしている。

このことについてはもっとじっくり考え、そして長篇エッセイかあるいは小説か、どちらかの形で最後のライフワークとして書いていきたいと考えている。今はあまり早く決めない方がいいとも思っているが、ゆっくり気持も生活も実感も熟成していくだろうことを少しづつ感じてはいる。みなさん、待っていてください。


5月13日 目の前に大建築が……

昨日マンションにやってきて書斎から外を見たら、川向うに何やら工事が進行している。もう2年近く前から田んぼを埋めたり、大量に盛り土したりまた削ったりを繰り返しており、一体何をするのかと思っていたが、ついに大きく掘り下げ、そこに黒色のたぶん鉄骨ブロックのようなものを一面に敷き詰めつつある。

よくは分らぬけれど、直観としては何か大きな建造物を作る基礎部分ではと思う。地続きが病院だから、その新棟である可能性が高い。

やっぱり始まったか、何階建てだろうと心配である。小さいながら川と河川敷を隔てているし、いきなり視界を遮られるわけではないものの、長年広々した田んぼや畑で緑いっぱいだったところが、コンクリートの大建築に変じるのは物悲しい。

自分自身もこのマンションには週3日ぐらいしかいなくなっているが、周辺もどんどん変っていく。移り変り、変遷といったことにはもう諦めを感じるようになっているから、今更じたばたもしないけれど、これでますます小諸は自然、柳瀬川はコンクリート建築、のイメージが自分の中で定着していきそうなのが淋しい。


5月11日 今日はおしめり

庭が生き生きしてきた。1日続くらしい。椎茸も伸びるだろう。

やや肌寒いが、まあ辛抱。周りはほとんどグリーンに覆われてきた。我が庭の主木と言うべき檪(くぬぎ)、アカシア、桑が芽吹きだした。高さ20メートル強の檪が一番早い。黄緑色の葉が空を背景に広がるのが美しい。


5月9日 今年の苗はナニとナニ……

3月にばね指になる原因となった畑は、花、ハーブとだんだん苗を植えたり種をまいたりしていったが、残っていた野菜用の部分に今日、ついに苗を植えた。

4畝なので配分を考え、まず日当たりのいい場所にナスとトマト3本づつ、ついできうり、里芋の種いも、ピーマン、また里芋、周りで実生で芽の出ていた春菊を少々移植、といったところである。

東側の畑はばね指が心配できちんと耕していないが、連れ合いあたりが多少整備してくれたら、20日大根、辛味大根、にんじん、枝茶豆なぞを植えようかと思っている。すでにほうれん草は植えてあるから、ちょっとした日常野菜はこれでいい気がする。

野菜は買えばここらはずいぶん安くて新鮮だから、種や苗から汗を流して自分で育てるよりはるかに安上りで簡単なのだが、なんといっても作る楽しみ、自分で作ったものを食べる充足感がいいのである。

しかし、これで毎日の水やり・草むしりがまた一段と増えそうだ。なかなか本業の小説の方が進まない。


5月7日 クーラーと布団

今年初めてクーラーを入れた。大学では冷房、うちではドライ。
夜も風が強く窓が開けられなかったので、ドライ24℃にした。さすがに寝る前には消したが、夜なかに暑くて目が覚め、布団をはいで毛布だけにした。

すると間もなく今度は寒くて目が覚め、深夜ごそごそと薄手の布団を取り出して、かけた。

と間もなく目が覚め、パジャマがぐっしょり汗でぬれていたので、パジャマの上着だけ着替えた。

明け方また眼が覚め、新しいパジャマがまた汗でぬれていたので、乾いていた前のパジャマに着替え、また寝た。

くたびれた。



5月5日 連休最後、立夏の午後、暑い暑い夏日だった

小諸相生町に韓国料理の「春川」という店が新規開店したというので、昼食を食べに行ったらなんと連休中だというのに、休業していた。

やむなく代りにいつもの「刻(とき)そば」で北海道、茨城、八ヶ岳産の国産ブレンドそばを食べた。5月2日は待つ人がいるくらいだったが、今日もほぼ満席だった。だんだんファンが付いてきたようだ。

そのあと北国街道町屋館で5月人形を見たが、それより面白かったのは江戸時代の浅間山大噴火(浅間大焼というらしい)のシリーズ絵だった。当時の軽井沢町に赤い焼け石と同時に猪や鹿、狼など獣が山から逃げ込み、大騒ぎになっていたりする図がなんともユーモラスにしてリアルで面白い。

表へ出ると、あまりに暑く、昨日に次いで夏日、それもたぶん27,8度に達していることは確実に思えたので、「べにや」に寄り道して野草茶を飲んだ。1杯350円、いろんな野草の味が混じり軽いコーヒーみたいで、私は好きだ。

入る前、隣の空地にすみれが満開なのを見、マスターに一株ほしいと言ったら、「どうぞどうぞ」とわざわざ大きなスコップを出して掘ってくれた。ありがたし。こういうところが小さな町の馴染みの良さである。



5月3日 新しい似顔絵登場

教え子の漫画家への丸君がまた新しい絵を描いてくれたので、早速、mixiおよびツイッターのプロフィール表紙を替えました。

今度は私の注文に応じ、目玉が入りました。両手でポーズしなぜか走っているところは同じですが、背景がもみじと波濤になっているのは、もみじマークの歳になっても逆巻く荒波の中を走りぬいているけなげな私ということでしょう。全く同感です。

本日の気候はそれに比し温暖そのもの、20数度のポカポカ陽気に向うの桂が丸い葉を一気に伸ばし、裏隣のプラムの花が白くさわやかに咲きそろいました。

私は小説を書こう書こうと思いつつ、結局、石原慎太郎など他人の作品ばかりを読んで日が暮れました。



5月1日 『文学2010』に関する微妙な思い

 このページ上部「お知らせ」欄に書いたように、昨年度日本の短篇代表作アンソロジーである『文学2010』が講談社から先ほど発行された。石原慎太郎、河野多恵子、辻原登らによる18編が収録されており、小生の「行きゆきて玄海灘」も選ばれているが、何と私が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされている。

 川村氏は更に「2009年は(中略)旧い文学世代から新しい世代への画然とした転換がはっきりした年であったと、将来的には記憶されることになるのかもしれない」とも述べている。

 いったい私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか。私としては微妙な気分にならざるをえない。
 そういえばかつて第8次早稲田文学の編集委員を共にした三田誠広、高橋三千綱、立松和平、青野聰らのうち年下の立松が早くも鬼籍に入り、生きている者も作品発表はずいぶん減っている。ひょっとしたら川村湊が言うことは正しいのだろうか。
 うーむ、である。


4月29日 さあ、連休だ、小説を書く

3月の春休みから考えていた短篇をほんの5行書いたまま、間もなく4月も終りである。今年は3月以降何度も雪が降った上、ばね指騒動、新学年、と体も頭もばたついて、肝心の仕事がおざなりになっていた。

いや、だんだん物忘れが多くなってきたとか、心が別世界に飛ぶ時間が増えてきたせいもあろうか。現世のわざが少しづつどうでもよくなってきているのだ。

連休はそれを取り戻す数少ない時間だ。世間が浮かれて別世界でいる間が、私にとってはじっくり仕事が出来る自分の時間なのである。
さて、ぼつぼつかかろう。



4月27日 雪柳と山吹

昨年近所で採集した小さな一茎が、昨日ふと気づいたら雑草の中にうもれて咲いていた。草の方がずっと大きかったので、これまで目に入らなかったのだ。

椿なぞはまったく蕾も付けなかったので、植えて1年目はダメかと思っていたのだが、さすがに野性的なものは強い。ほかに楓、無花果、柿、姫りんご、かりんなぞも順調に芽を出している。

草花の方も同様で、何だったか名前がはっきり特定できないまま、確かに去年生やしていた場のあたりに次々と芽吹いてくる。これらが何だったか、どんな花だったかと推量しつつ、毎日眺めるのが楽しい。

草むしりはだいぶしているが、左手の元ばね指が心配でつつしんでいた畑起しをまた再開しようかと考え始めた。もう大丈夫なような気もするし、まだそっとしといた方がいいかなと迷ったり、確信がない。

経験者の方、どんなもんでしょう?


4月25日 やっとスタッドレスタイヤを履き替えた

去年は4月上旬にスタッドレスタイヤを通常のものに履き替えたが、今年はそのご雪が2度だったか降ったりで、ついに今日までスタッドレスのままだった。

それを車の12カ月点検を機にやっと履き替えたのだが、点検でどうせタイヤを外すからといって履き替え料はいらなかった。思わぬ得をしたわけだ。

オイルも変えたせいもあろうが、おかげで車が軽く感じる。天気もいいし、すっかり気分がよくなって小諸郊外の押出(おったし)という所へ行って花見散歩をした。ここは昔(戦前)あった布引鉄道なる軽便鉄道の線路跡で、細い道の両側が桜並木になっているのである。

見事な古木の桜に、しかもここが肝心なのだが人っ子ひとりいない静けさ。周りは浅間山の往昔の火山溶岩流の跡に出来た落葉松やアカシアの半自然林だ。耳には千曲川の流れと鶯の声。

まあ絶品の花見である。
自宅そばの、観光客で早朝からいっぱいの懐古園になぞ行く気にもなれない。行くとしたらウイークデイの朝か夜にする。

旨いイタ飯屋で中食を取り、帰宅して好きなしそジュースを飲む。これがかすかにクエン酸の味がしてまたうまい。いい日曜日になった。



4月23日 やっと終了、くたびれた

今回の埼玉東京界隈生活は本当にくたびれた。
気温が毎日激変したうえ、寒いわ寒いわ。おまけに今朝は東上線人身事故の影響で、9時に家を出、学校に着いたのは11時5分だった。

こちらの判断も悪かった。和光市でいつものように有楽町線に乗ればよかったのに、電車もホームも人であふれていたため、たまたま座れていた東上線でそのまま池袋へ行き西武線に乗った方が早い気がしたのだ。

が、この日は和光市からも全線各駅停車になっていた上、一駅行っては止まりのノロノロ運転で、池袋に着いた時は10時半、さらに西武線までが遅れており、つごう家から学校まで2時間かかった次第だ。正常なら45分か50分の距離だから、倍以上かかったことになる。

おかげで、待たせていた院生らの教室にレインコート姿のまま駆け込んだ時は、正直くたびれていた。いやはや、こういうことは長い江古田通いでも初めてである。

というわけで、3日間の授業や校務を終えて帰宅した今はぐったりしている。今日はぐっすり寝て、明日はどうやら満開になったらしい小諸懐古園の桜をゆっくり眺めたい。


4月21日 10℃→24℃→9℃

今朝、信州小諸を出てくるときの気温は10℃だった。12時少し前所沢校舎に着いたころの気温が24℃だった。もう少しで夏日という暑さで、文芸棟前の八重桜が厚ぼったくいかにも暖かげにふさふさ咲き誇っていた。隣では緑色の桜御衣更も満開である。まさに衣更え時なのであろう。私はコール天のズボンの下の股引を脱ぎたくてたまらなかったが、そうもいかぬ。

冷たい水を飲み飲み、まだ新年度2回目ゆえ方針説明などを喋りつづけねばならぬ授業をなんとか終え、日差しと満員の18、9の若者たちの人いきれでむんむんするバスに本当に汗だくになって、やっとマンションに帰りつき、ビールをかぶりつくように飲み、ニュース前の明日の天気予報を見たら、なんと日中で9℃だという。小諸ではない、東京のことである。

これは一体なんだ! 地球ばかりか人間みんな体をこわせという天意なのか。いやはや参ったぜよ、くそったれ。


4月19日 あったかくなったなあ

昨日は花見客でいっぱいの懐古園の人ごみを避け、裏の崖を下りて桜並木を通り千曲川畔まで行き、ダム上の道を渡って(高所恐怖症の小生は相当怖いのだが、連れ合いに無理やり引っ張られ)対岸の千曲小学校の桜を愛で、大杭という集落を抜け、戻り橋を渡って文字通り此岸に戻り、のんびりした山村風景の中を貯水池まで登り、市街地を通って懐古園前まで帰った。

計2時間、だいぶ歩いたが、観光客には一切会わず、静かで牧歌的な実に気分のいい花見散歩だった。

途中でちょっと道端から頂いたすみれと苔を、早速庭に場所を選んで植えた。こうしてだんだん庭の草花類が増えていく。今年は染井吉野も2本植えたから、来年からは自宅で花を楽しめるかもしれない。今年は小さな山桜以外は、向うの火山園や御近所のいろんな種類の桜をもっぱら借景的に鑑賞している。

これもまた楽しからずや。



4月17日 真っ白

今朝は埼玉界隈も早朝はほぼ白かったが、外へ出るころにはもう雨で溶けていた。が、午ごろ小諸に帰ってきたら、視界は真っ白そのもの。おまけに会う人ごとに、今日は今年一の大雪だった、2,30センチ積もった、などと彼ら自身驚いた口調で言う。

馴染みの「刻そば」のマスターは、「車のタイヤをもう履き替えてしまったので、しょうがないから今日は小海線で来ました。久しぶりに高校生と一緒の電車に乗りましたよ」とのたまう。

寒冷地でもみんなが驚く四月の雪、である。

でも、桜は予想外に咲いていた。木によってずいぶん違うが、ところどころ満開に近い木もある。枝垂れや山桜、日当たりのいい木は早い。ほかに杏はもう散り始め、桃がほころび、白木蓮、椿、ヒヤシンス、ルピナス、水仙、タンポポなどが咲き乱れている。

やはり春である。わが家では山桜が咲いている。



4月16日 寒い、コートがない

4月中旬だというのに、ほんとに今年はどういう天候だろう。あちこちで地震やら火山爆発も起っているし、地球が妙にざわめいている感がする。

真冬並の寒さだから当然冬物コートがほしいが、その種のものはみな小諸に置いてきてしまったので、やむなくスプリングコートに裏を付けて出かけることにする。マフラ−だけは持ってきた。

今日で東京界隈9日目、ぼつぼつ小諸に帰りたいが、向うは昨日から雪らしい。「四月の雪」である。こんな言葉あったかしら。



4月13日 妻帰る

メキシコからチり、アルゼンチン、そして最後はニューヨークへ行っていた連れ合いが昨日、約20日ぶりに帰ってきた。あまり日焼けもせず、案外元気だ。

でも、ニューヨークからは乗機時間だけで13時間、飛行場への時間、待ち時間、成田からの時間を入れると17,8時間かかっているし、昨日は寒くて気温差がまたすごい。

早寝したが、夜中、明け方とひとりで起きて、パソコンを開いたりしていた。朝食後は時差ボケでぼーっとしていると言い、細かいことへの判断力は停止状態。

昨夜は鰹といかの刺身をパクパク食べ、今日は野菜を食べたい、野菜を、と言っている。

今、荷物が着いたので、荷解き中。チリ製のナントカいう木の中に木のとげを大量に入れた筒状のものが面白い。木を傾け中身を動かすと、雨音になったり、せせらぎになったり、大雨になったりするのである。擬音器とでも言うのかしら。しかし放送局などのものではなく、民俗品だという。

いい音だ。南米の音である。



4月11日 身長2メートル30センチ

今日はいささか必要あって富岡八幡宮に行き、巨大力士身長碑および手形足形を見てきた。

最高身長は江戸末期の生月鯨太左エ門7尺6寸2メートル30センチ、2番が釈迦ヶ嶽雲右エ門7尺4寸8分2メートル26センチ。琴欧州は2メートル3センチだからだいぶ違う。

生月の足形に私の足を当ててみたが、実感として倍はある感じがした。身長の方はいくらなんでも倍もあるわけはないが、しかし石碑のその高さを見上げると、なんだか倍近いような気がした。

問題はこの二人、生月は24歳で、釈迦ヶ嶽は26歳で死んでいること。大男総身に命がまわりかねたのか、何だったのか。そこのところを知りたい。御存じの方あったら教えてください。


4月10日 2年ぶりの近代美術館

小野竹喬展、みごとだった。日本画と西洋画の枠を超えている。小山敬三と少し似た絵もある。自然への関心と愛に充ちている。一番多い冬の枯れ木の絵がいい。

明日まで。皆さん是非一見されたし。



4月9日 フレッシュメンの顔を見に

これから学校へ。午後、新1年生のガイダンスで、初めて文芸科新入生の顔を一堂のもとで間近に見ることになる。

毎年のことだが、やはりというか、年々歳をとるにつれ楽しみになってきた。個人生活や他では18、9の若者たちと身近に接することなぞまずないので、いわば木々や草々の若芽を見る喜びと似たものを感じるのかもしれない。

こっちが男のせいか、やはり女性たちが特に生き生きと見える。いや、ひょっとしたら客観的な事実かもしれない。この7〜8年は世の中全体も大学も、女の子の方が明らかに元気である。

日本社会全体が停滞疲弊化下降傾向の中で、男社会であることも下降劣化してきたのかもしれない。年功序列や生涯就職性、それによる一種の男女身分化・階層化が崩れつつあるのだろう。

女性たち、頑張れ。男ども、元気を出せ。今までの価値観にとらわれるな。



4月6日 ばね指のその後ご報告

皆さん、すでにこれまでの日記でだいたい御存じと思いますが、本日で第2回注射後丁度2週間になります。医者の話だとそのへんで再発揺り戻しもあり得るとのことでしたが、今のところなにもなし。実感としてもまずまずこのまま治って行きそうに思います。

もう車の運転もしていますし、畑も片手で文字通り片手間にやっております。
皆さん、いろいろアドバイス等、ありがとうございました。



4月5日 一カ月遅れの芽吹きどき

小雨。
水仙、杏が開花。木々も芽吹き多し。

信州の俳人一茶の句、

    木々おのおの名乗り出たる木の芽哉

を思い出す。信州の季節感にぴったり、その通りである。



4月2日 柳瀬川の休日

昨日が第1回教授会、明日が新校舎竣工式で、今日一日ぽっかり空いてしまった。おかげで、朝は久々に8時半まで寝坊。朝食前にベランダの鉢類の手入れをし、遅い朝食をとった。

それから学校関係のちょっとした書類2種類を書き、パソコンのメールやメッセージ、いつものサイトなどをゆっくりチェックしたらもう午近かった。
小雨だったが、下の柳瀬川畔の桜が満開なので、透明なビニール傘をさして土手を散歩した。花は夜来の大風(ほんとにすごかった。風速20メートルはあったのではないか。音で目が覚め、1時間ほど寝付けなかった)で花輪ごと落ちたりしているものの、まだまだ若々しい満開ぶりで、しかし花見びとは私くらいしかいない。風も少し寒い。

商店街へもどり、バングラ料理店でカリーにナンの昼食をとり、サミットへ行って食料の買い物をした。昨夕は疲れて帰りすぐビールを飲もうとしたらなく、やむなく紹興酒のオンザロックでお茶ならぬ酒を濁したのだった。

でまあ、真っ先にビール、次いでアロエヨーグルトなど若干の慣れた食料を買い、今夕・明朝に備えた次第。明日の午後にはもう小諸へ帰るつもりなので沢山は要らないのである。連れ合いは今ごろブエノスアイレス辺りに着いているはずだ。

そして今はもう、何もすることがなくなった。この1年ほどこちらへ来る時は仕事や雑事がたいていぎっしりでせわしなかったことを思うと、ちょっと不思議なエポックみたいな午後になった。小諸ではこういう時はすぐ庭仕事か書見、そして書く構想つくりとなるが、こちらでは時間が所詮小さいせいもあってそうはならない。

それがかえって新鮮な気分だ。ぼんやり、無心でいるのが何か懐かしい。