風人日記 第三十四章
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林住期の夏
  2010年7月1日〜9月28日







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、4月下旬刊行、発売中。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、下記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


昨年六月に新刊を出しました 

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


ウイグルとビルマ(ミャンマー)での人権尊重を求める

 昨年7月6日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチで起った騒乱は死者多数(200人以上といわれるが、はっきりしない)を出したが、それに対する中国司法による裁判結果は現在までで死刑30人余という過酷なものだった。うち多数がウイグル人である。執行猶予付きの死刑というものまであるそうだから、実態が把握しにくいが、ウイグル独立運動や中国政府への反発に対する見せしめ的刑罰であることは明らかである。

 また、昨年8月11日ミャンマー軍政は米人侵入事件を理由にアウン・サン・スー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。これは今年予定の総選挙から彼女を排除するための専横措置である。
 最近になって選挙直前に彼女を解放しNLD(国民民主連盟)の選挙参加も認めるかのような報道もなされているが、選挙直前とは一体いつなのか。従来の軍政のやり口から見て、実質的選挙の自由は認めぬ、形だけの姑息な手段であることはまず間違いなかろう。

 これらの行為は人間の本質的権利である自由・人権・民主への重大な侵害であり、
私は中国政府、ミャンマー軍事政権に対し強く抗議するとともに、ただちに事態を改善するよう求める。
                              
                  2010年1月1日
                      日本ペンクラブ獄中作家・人権委員 
                                          夫馬 基彦


                        *これより日記                      
9月28日 映画「大いなる西部」再見

昨夜、たまたま見たテレビチャンネルで映画をやっていた。西部劇ふうだが違うとも言え、一目見るなり「あ、昔見た〈大いなる西部〉原題[The Big Country]だ」と英語の題まで思い出した。

初見は大学時代だったか、ひょっとしたら高校時代だったか。短いセリフが多く英語が非常に分り易かったため「West is so big」を字幕では「西部は広いのよ」と訳していたりするのがよく分り、なるほどそれで日本語タイトルも「大いなる西部」かと納得したので、よく覚えている。

グレゴリー・ペックとジーン・シモンズ、チャールトン・ヘストン、キャロル・ベーカーの主役、その他の脇役陣の顔も役柄もよく覚えており、ついつい最後まで見てしまった。監督は確か巨匠と言われたウイリアム・ワイラーだったか。

今見ると、さほど大した作ではないし、アメリカ映画というかかつてのアメリカ自体が実に単純だったなと感じてしまうくらいだが、しかし俳優陣の豪華さや金のかかった大作ぶりといい、映画の黄金時代だったなあとつくづく思った。

おかげで気づくと0時半になっており、大慌てで寝た。私は小諸ではおおむね9時半に就寝しており、まれに10時半か11時になることはあっても、0時をまわったのは引っ越し以来初めての気がする。

今朝の目覚めが8時であったのもむべなるかな。雨で薄暗かったせいもあって、朝がどこか遠い感じがした。

*追記:今調べたら初見は1958年、中学3年の時だった。西部劇大好き時代だった。


9月25日 関東平野のおのれ

通常なら土曜日の朝埼玉を立って小諸に帰るが、今回は明日の日曜日に学校でAO入試の面接があるので、珍しくのんびりマンションにいる。

そのマンション14階の書斎から北を見ると、ほぼ180度見はるかす限り関東平野である。早朝空が澄んでいるときは正面遠くに妙義山、やや右手に赤城山、さらに右には皇海連山から日光連山と遠望できるが、午後の今ごろは遠景は霞がかってあまり見えず、北西側にわずかに東秩父連山が低く見えるほかはまさに地平線まで一面の平らさだ。

平野といっても今では視界の70%が建物だから、野の趣はないけれど、それでもやはり広いものだ、平らなものだ、としばらく見とれる。小諸ではこんな平地は絶対になく、どこもが坂であり、ちょっと先が山である。川や沢、水の流れはいたるところにあり、水音もしょっちゅう聞こえるが、水鳥はまずいない。

しかし、こちら埼玉眼下の柳瀬川には白鷺や川鵜が悠然と飛び、水中にはざっと見て4,50尾の鯉のたゆたう姿が覗ける。千曲川だと鴨が数羽ぐらいいるものの他の鳥やまして魚はまず見えない。釣師はいるから魚もいるのだろうに、姿は渓流に隠れている。

山国の林に囲まれた家を私は好きだが、関東平野の高層からの眺めも久しぶりに見渡すとまたいい。こんな日本語はないかもしれぬが「広々さ」といった語が浮び、中原という漢語も浮ぶ。

人口の集中と経済的活力が文字通り目の前に歴然と見える。首都を支える後背地という実感も明らかだ。10両編成の電車が数分おきに音立てて走り、道路は車で充ち、大きなビルが造られつつある。

列車は1時間に3両編成の小型車両が1本、古い空き家が目立ち、ひっそり静かな、山間の町とはまことに違う。そんなことは明らかで、わけも先刻承知なのに、ふと、それにしてもなぜこうも違うのか、自分はなぜここにいるのかと、目くらましにあったような幻惑感さえ覚える。

そして、この眼下の平野の光景も10年前、18年前はがらりと違っていたのである。18年前ここへ引っ越してきた時、ここからの視界の80%は田や畑、斜面林、森などのまさに野であったのだ。

時間も空間もおそろしいものだ。これから10年後、20年後、視界は一体どうなっていくのか。そしてそもその視界を持つおのれはいるのかいないのか。


9月23日 やっと秋が来たぞ

予報通り今朝は涼しい。曇天でいささかさびしくもあるが、暑くないのが何よりだ。

柳瀬川対岸の増築中の病院は4階部分まで骨格ができている。もっと伸びるのか否かは目下不明。川は少し上流側で流れがだいぶ変わって従来のコンクリート岸が水中に砂州の如く取り残され、こちら岸からの砂浜とドッキングし始めている。

下流側向う岸の木が枯れ木になっているみたい。まだ落葉の時期ではないから、日照りによる立ち枯れかもしれない。ベランダの植木類はほとんど枯れたが、先週大量に水を補給しておいたせいか、代って朝顔の新芽が無数に生えてきた。アロエも太茎に新芽が4,5本出てきている。新陳代謝というか、循環というか、自然はやはり偉大なり。

柳瀬川畔をこれから散歩するつもりだが、たぶん彼岸花は咲いていないだろう。ここへ越して以来過去18年感心するほど毎年彼岸には必ず真っ赤な花を咲かせてきたが、この100年最高の、ということはたぶん史上最高の暑さだった今年ばかりは自然のカレンダーも狂うだろう。

曇天の秋の涼しい一日をのんびり過ごそうと思う。今日は休日である。


9月20日 小雨の朝

朝起きて雨が降っているとうれしい。涼しいし、木や草が生き生きして美しい。景色は霧がかかってきれいな時もあれば、曇ってやや暗い時もある。

1週間前の民主党代表選の熱気も100年で1番の猛暑ももうすっかりどこかに消え去り、世界は静かなものである。

今日は何を読もう。畑をどう整えよう。



9月18日 睡眠11時間

昨夜は9時45分ごろ寝たのに今朝は7時15分まで寝ていた。昨日は午後昼寝を1時間したし、夕食後30分ほど居眠りをしたから、通算するとこの24時間内に11時間寝たことになる。よく寝る体質だが、さすがにこれは多い。連れ合いも9時間は寝たと首をひねっている。

結論はすっかり秋になって涼しいせいだろうとなった。暑かった夏が長く、体が疲れていたのではと思える。
それにしても一挙に温度が最高23度ー最低13度となったから、この1週間でずいぶん変ったものだ。


9月15日 教え子大活躍ー日大文芸賞

昨日はアルカディア市ヶ谷で日大文芸賞の授賞式だった。

今年の受賞者は文芸賞(賞金30万円)、優秀賞(10万円)、佳作(5万円)の計5名を選んだが、うち文芸賞の築城厚三君(33歳、大学院文芸専攻2年)、優秀賞の小黒貴之君(30歳、文芸学科4年)、佳作の原仁美君(31歳、平成14年文芸学科卒)の3人が私の教え子だった。

専攻は応募者の名前を伏せて行うし、選考委員は黒井千次、増田みず子、紅野謙介、夫馬基彦の4名だからごく公正である。むしろ自分の関係者らしいと感じた場合は、出来るだけ客観的にと厳しくした面さえある。その結果だから、私としても胸を張れるものだった。

築城君は去年、院の創作授業で私が1年教えた。もっぱら書く授業で、隔週に20枚程度の作品提出、合評・講評指導という授業だったが、彼は毎週30枚から最大50枚の作品を出し続けた。こっちも読むのが大変だから、隔週でいいんだよと言うのだが、彼は「いえ、出します」と出し続ける。普通は隔週提出もなかなか守れず1カ月1回くらいになる者もあるなかで、過去初めての例である。

他大学の学部を二つ経て、某大学での教員経験もした上での高年齢入学だったせいか、実に熱心だったし、それだけ書きたいことも一杯だったのだろう。受賞作も授業提出作にさらに手を入れ、おのれの辛い過去を初めてあえて吐露している切実なものだ。

小黒君は学部生だが、これも26歳で1年に入学してきた。動機は高卒後、図書館でずっとバイト勤務をしていたが、膨大な蔵書の中に自分の著書がないのがどうにも気に入らなくなり、「絶対自分の本を出してやる」と思ってのことと言うから、やはり根性が違う。1年で私のゼミにたまたま入り、以後3年4年と計3年夫馬ゼミ生だ。

26歳で18、9歳の年下連中に「君」づけされても平然とし、同人誌サークルで部長を務めるなど若い友人も多く作り、楽しそうに学生生活を送っている。見上げた男だと私は思っていた。日常生活も稀代の蛙マニアで、部屋の3方に置いた10数匹の蛙とともに暮している変り者である。

受賞作も蛙マニアが密輸入の貴重種を盗みに入ったらとんでもない珍事が起り……、というなんとも人を食った愉快なもので、純文学を目指しつつ読者には娯楽作品という2重性がある。

原君は昨日の授賞式で実に10年ぶりに再会した。卒業後すぐ就職し、某高校で寮監勤務中だ。学生時代は確か2年3年4年と3年間私のゼミにいた。九州の福江島出身で、私はかつて隠れキリシタンの教会跡なぞを現地で彼女に案内してもらったことがある。

卒業後もカルチャーセンターの創作教室に通ったりしつつ書き続けていたらしい。受賞作は少女期に島の海で溺れかけた体験と長崎の被爆者の叔父を絡ませた素直な筆致の小品である。

日芸の文芸科生は入学時、4割くらいが「作家になりたい」と言い、学生時代はある程度書くが、卒業後はあまり書かなくなるので、私は卒業時に「いろいろ社会体験・人生経験をしたうえで、30歳になったらもう一度書いてみなさい」と言って送り出すのを例としているが、彼女はそれを形にしてくれたわけで、嬉しかった。

私は授賞式後喫茶室でレモンスカッシュを3人と一緒に飲んだが、3人とも今後とも書いていくと力強く語ってくれたし、丁度30代の同世代同士だから今後は作品を見せ合ってゆくとも言ってくれ、実にいい気分だった。

なお、築城君の作は来週発行の日大新聞に全文掲載される。関心のある方、ぜひ読んでください。



9月13日 1か月ぶりの埼玉

昨日は夕方着いたためさほど暑く感じなかったが、マンションに入ったら室温は32℃だった。大慌てでクーラーを入れ、窓を開けて空気を入れ替えたが、クーラーのない玄関部分を通ると2時間後もボウとするほど暑かった。

最上階のせいもあろうが、それにしても凄い。ベランダの鉢植え類はアロエを除いて全滅。みんなカラカラの茶色になっている。実生から何年も育てた南天やくちなしが惜しい。

今朝は今のところさほど暑くない。ベランダも昨夜多量の水をまいておいたせいか多少の涼感がある。窓外の柳瀬川畔の草はちょっと色づき乾いた感じだから、日照りのせいか秋めいているのか、両方かもしれない。

今日は大学だが、そのあと内科医院へ3ヶ月検診に行くべきか迷っている。昨夜やけにのどが渇き、りんごジュースなどを多量に飲んでしまったから血糖値が高くなっていないか、それにどこか疲れてもいるのが心配なのだ。

まあ、午後になって考えよう。来週からは毎週こっちへ来るからあわてる必要はないのである。



9月10日 秋山駿〈「生」の日ばかり〉(群像連載中)の衝迫

今月号で19回を迎える秋山さんの表記の連載は、近来まれにみる衝迫のエッセイである。

今までのすべてがというわけではないがこの何回か書き継がれている秋山夫人の病気に関する文章は、深く心を打ってしばし言葉を失わせしめる。

夫人は帯状疱疹にかかわる症状が体の内側(皮膚ではない意)に出、その痛みが激烈を極めるが治癒に向う治療法はないという難病にすでに4年半罹っている。

その経過・状態等についてはこれまで何回も書かれてきたが、今回の群像10月号の連載冒頭部にはこう書かれている。

〈あちらを向いても痛い、こちらを向いても痛い(ベッドに寝ながら)。起っても痛い、坐っても痛い。つまり、一日中痛い。
 痛みの中心が身体内で動き、心臓の傍あたりになると、声を出しても響くので、一、二行の話しか、しなくなる。そういう時には、生きるためには必要だと思って、手の指一本分の何かを食べ、猪口二杯分くらいの水を飲んでも、やがて吐いてしまう。
 四年半前に始まり、それから病院・診療所を歴訪、十数箇処以上で新しい治療を受けたが、好転せず、今年になってから、痛みがことに強烈になり、しばしば、こんな状態に陥ってしまう。(後略)〉

想像するだに痛くなるような状態だが、長年夫婦二人だけで生きてきた秋山さんは毎日そのさまを眼前にしなければならない。そして秋山さんはこう文章を振り絞る。

〈こういう者(苦しんでいる者)に、それでもなお、痛み(無意味な苦痛)に耐えて生きるのがよいことだ、と、こちらが言い、相手が聴き容れる、そんな言葉が、どこかに何か在るであろうか。
       (1行分アキ)
 これまで読んできた文学の言葉を振り返ってみたが、うまく見当らぬ。というより、ほとんど見当らぬ。〉
 
この後、秋山さんは旧約聖書のヨブ記のこと、つまり宗教、ついでモルヒネに言及するが、文学に関しては、そのような言葉は、

〈……見当らぬ。いったい文学とは、何だったのか〉

と呟く。今年八十歳、著書あまた、現役の文芸評論家としては多分トップ的存在の、生涯、文学に身を挺してきた人がそう呟く。

が、秋山さんはこのあと正岡子規の『病牀六尺』を思い出し、その一部を引用し、その言葉はほとんど法子(秋山夫人)の言葉だと述べていく。その過程でまた、いわゆる家族の請託殺人のこと、夫人が死にたい、殺してくれと暗示するかのようなことも書かれる。

私はこのあたりから、秋山さんと過去十数年毎年酒を酌み交わしてきた者として、言葉がなくなる。私も文学者のはしくれだが、秋山さんの言う通り、文学はそのような言葉を持ち得ないのか、と深く沈黙せざるを得ない。おのれの中に何の言葉も浮ばない。

宗教を持たぬ日本人、宗教ではない文学者は、どうすればいいのか。

現在、夫人は十数箇所目の病院から入院も治療も断られているという。私は一年ほど前に秋山さんと極めて親しい人から聞いた秋山さんのシンとするような言をいま思い浮べているが、それはここではとても言えない。



9月8日 肌寒し

夜なかからずっと雨が降っている。寒いくらい。予報では本日の最高気温22度。でも、平年並かも。

これでスムーズに秋に移行していってくれるといいんだが。


9月6日 そばの縁、うその口

あと1週間で夏休みが終りと思うと、心身が落ち着かなくなり、どこかへ出かけたくなった。

こういうときは知らない町を探索するのが面白い。といっても何の縁もない地もつまらない。よって選んだ先が佐久市からさらに先の佐久穂町である。小海線でいえば八千穂駅のある界隈。

ここは小諸で行きつけの「刻(とき)そば」のマスターの住む地で、ときどき話を聞くので一度行ってみたかったのだ。ことに彼のいる集落名が「うその口」というと聞いたときから、大いに興味をそそられた。

今では平仮名表記になっているそうだから「うそ」と聞くとすぐ「嘘」を連想してしまうが、「うそ」とは鳥の鷽(うそ)のことだ。字が難しいというか読めない人が多いので、いつしかそうなってしまったらしい。

村は八千穂の町からもさらに八ヶ岳寄りの山へ車で10数分入った山間にあり、戸数30戸ほどの村は道路際をきれいな水が音たてて流れる静かな谷あいだった。家々の前には四角い水引き場があって、野菜を洗ったりたぶん昔は洗濯をしたりする場所になっている。

車を公民館前に停め散歩しているうち、やはりマスターの家を見てみたくなり、村の人に聞いてぶらぶら歩いてゆくと、庭先に丁度人がいてじっとこちらを見ている。めったに訪れるよそ者なぞいそうにない里だから、自分の家の方に向ってくる私たちにいかにも怪訝な表情だ。

で、引っ込みがつかなくなり、あいさつすると、「へーえ、息子のお知り合いですか」となり、間もなくお母さんも出ていらしてあれこれお喋りをした。

一番面白かったのは「鷽」のことで、それは春から夏にかけて明け方まだ暗いうちに「ホウ、ホウ」ととても寂しく鳴く、嫁に来たころは何だか恐ろしい気がした、という話だ。

私も連れ合いもその鳴き声と情景を思い浮べ、聞いてみたくなったが、最近はあまり出ないそうなのが残念だった。

去年たくさん播いたと聞いていたそば畑は、今年は作らなかったそうだったのも残念だった。秋そばは今頃満開できれいなはずなのだ。

ただし、我が家の庭には去年彼から貰った種から生えたそばの次世代の花が、あちこちに実生で白く咲いている。私は脱穀なぞ出来ないから花を観賞しそのまま放っておくだけだから、来年もそのまた翌年もきっとずっと咲き続けるだろう。

面白い縁である。



9月5日 夏休みもあと1週間

来週の月曜日13日は学校でAO入試1次審査、火曜日は市ヶ谷で日大文芸賞授賞式があるので、もう今日からの週で夏休み終了である。

休みというのは授業や校務がないという意味で、個人としての研究や創作時間としては別に休みではないが、しかし涼しい信州にいて好きなことをしていられるという点では、一番長く心地いい時間だった。

それがあと1週間となると、もの淋しい。ことに今年はまだまだ猛暑が続くそうなので、東京埼玉界隈に行ったらぐったりばててしまうのではと、恐怖感さえある。私は人並より相当の汗っかきで暑さに弱い体質なのだ。

ああ、早く暑さが去ってほしい。せめて夜ぐらいはクーラーなしで寝られるようにならないものか。天に祈る。



9月3日 富士さんがはっきり

本日は浅間連峰の高峰山と黒斑山の間にある高峰高原へ行ってきた。

高原ホテルで昼食にこわめし弁当を食べたのち、黒斑山方面に向って登山道を少し歩いたが、連れ合い推奨の草すべりは相当遠そうだったので、引き返し、ホテルの展望風呂に入った。

夏なのに富士山がはっきり遠望出来、空気はさすがに涼しく、帰路の下り道も景色がきれいで快適だった。小諸市街まで40分弱。こんなに近いなら夏の間にもっと来ればよかったと悔んだ次第。



9月1日 民主党、派手派手しく揉み合え

やっと方向が定まってきた。この上は、普天間見直し、脱官僚制、米軍への思いやり予算削減、消費税増税等に議論を尽くすべし。

3番目の米軍への思いやり予算削減についてはどこでも争点になっていないが、財政健全化のためにも必須の仕分け対象であろう。小沢、菅ともきちんと俎上に乗せるべきである。

世に「分裂の危機」なぞとわけもなく深刻がる輩がいるが、代表を争うことがなぜ分裂の危機なのか。そういう思考の短絡さこそが問題だし、もし本当にそれで分裂するのならそんな政党は分裂すればいいではないか。

人間は何でも仲良くする必要などない。争いは公正オープンであれば花だ。


8月31日 鳩山は引退するんじゃなかったのか?

小沢、取りやめるんじゃないぞ。だらだらとナンバー2でいても、思い切った改革は出来ない。そのうち賞味期限が切れる。

トロなら中トロ、イカは新鮮なヤリイカの刺身が好きだ。トロイカなどというものは想像するだけで気持が悪い。



8月30日 投げ込み花

昨日、留守中の庭先にジャーマンアイリスの苗をドサッと置いて行ってくれた人がいて、二人がかりで植え付けに大わらわとなった。来年は庭じゅうに大ぶりなアイリスが咲きほこると想像している。



8月29日 蚊逃げ草

ホームセンターでこういう名の苗を見つけ、1本50円という安さのせいもあって2本買った。格別におうわけでもないのだが、なにか除虫菊的効能があるかと期待してのことだ。

除虫菊と違うのは生えている間に、そのまわりから蚊が逃げ出すというのが名前の由来だそうから、日ごろ草むしりや畑仕事のたび蚊に食われ放題の身としては願ったりもないからである。

わが庭には他にもレモンシアとかマリーゴールド、ミントなど匂いが強く虫よけになるといわれるものを多く栽培しているが、蚊逃げ草みたいに直接的名前じゃないし、実効性もいまいちだ(レモンシアはいくらかありそう)。

さて、どんなものか、楽しみである。


8月26日 野中広務・辛淑玉『差別と日本人』(角川書店)を読んで

私はかつて野中広務が自治大臣として登場してきたとき、この当選回数も少なく知名度も学歴も低い人物の毅然とした物言いと腰の据わった鋭い眼差しに、はてこの男何者、普通の政治家や自民党の凡百大臣とは何かが違う、と感じ関心を持った。

以後、彼の談合屋的裏ワザ辣腕ぶり(いわゆる加藤の乱の時、ボンボンの加藤紘一なぞ赤児のようにひねられた)と人相の悪さ、しかれども一方で戦争や戦後処理問題へのこれが自民党議員かと思うほど実に筋の通った言動を見るにつけ、清濁併せ持つ相当有能な人物と注目した。

そして一時は次の総理かとまで声が上がり、しかしと同時に麻生太郎の「あんな出自の男に総理なぞとんでもない」発言などもあって総理の話は理由不確かなまま立ち消えになった経過などから、彼がいわゆる被差別部落出身者であることが広く世に伝わった。

その後、魚住昭の『野中広務・差別と権力』を読み、権力に最も近づいた被差別部落出身者としての経歴や人物像を一通り知ったが、その頃彼は政界をあっさり引退してしまいもした。

私はだいぶ残念だったが、しかしその後もあちこちでちょくちょく彼の名と顔が出てくる。どうしているのか、何を考えているのかと知りたい気があった。

一方の辛淑玉は、テレビなどで見ると、雅楽の舞でも似合いそうなキリリとした顔立ちで、青眼正論真っ向のコワいお姐さんという感じの在日論客である。

この本はその二人が部落差別、在日差別、その他差別の本質について、具体的事例、それぞれの関わりをあげつつ、対談と辛の解説を並行させつつ語るもので、面白い。

当事者、それも最もよく闘ってきた者同士が腹をわって語る内容はなるほどと深く肯かせ、しかしにもかかわらず結局は「わたしの人生は何だったのだろう」と二人とも涙ぐみながら対談を終えたらしい様子に胸を打たれる。

私はペンクラブで人権関係の委員なぞも少しはしてきたものの、具体的に役に立ったことなど一度もなく、身を挺したこともないだけに、この最後の様と二人のあとがきを読んで、目下シンとしている。


8月25日 雨、雷、停電、しかれども

涼しくなり、かつ緑や土がみずみずしくなった。昨日は多少のおしめりだったが、今夕は土砂降りでたっぷりの感じ。

明日の畑仕事が増えたけど。



8月23日 新作「平戸、行き着き島」

季刊文科(鳥影社刊)49号に久々の小説を発表した。

昨年45号に書いた「行きゆきて玄海灘」(その後、文芸家協会編『文学2010』講談社刊に転載)につながる紀行小説で、平戸島、生月島を舞台にしたもの。

往昔、平戸で「王」を名乗った中国人王直や、生月島出身の日本史上最長身の相撲取り生月鯨太左衛門のことなどを素材に、平戸のフシギなもの優しい気配を書いた。

40枚ちょっとの短篇なので気軽に読めると思います。皆さん、よかったらどうぞ。


8月21日 別れのあいさつ

昨日、九州に住む学生時代の友人が小諸までやってきた。温泉もあるし近くのホテルで1泊ぐらいと勧めたのに、東京の娘宅から日帰りするという。

東京に所要あって来たついでだというし、仕事で忙しいのか、あるいは他に理由でもあるのかと思っていたら、駅プラットホームの階段を下車客の一番最後にゆっくり下りてくるのを一見するや驚いた。

ずいぶん痩せて老けこみ杖をついていたからだ。私と半年しか生れがちがわないのに、まるで10歳以上年長に見える。瞬間、大病をしたな、会えるうちに会っておこうと思って来たな、と分った。

糖尿病だそうだった。10数年前から発病、6年前には壊疽になり左足指4本を切除したという。

言葉もなかった。ちょうど昼時だったので小諸で一番うまい馴染みのそば屋に案内し、酒は飲めるかと聞くと、ビール程度ならと言う。乾杯し事情を聞き、この前会ったのはいつだったかなどと話が進んだ。

約20年ぶりだった。お互いずいぶんありようが変っていた。二人とも住まいが変っていたし、彼は当時やっていた仕事もすっかりやめていた。私も貧乏作家業一本だったのに、このごろではで大学教師業で安定給料生活者になっている。

似たことと言えば、それぞれの娘がだいぶ前から親とは離れ、今や30代になってごく安定した生活をしていることぐらいだ。

昔は二人とも学生運動のかなりの過激派であり、学校後も杉並シネクラブという映画運動などをずっと一緒にやっていた。佐々木基一さんや野田真吉さんなどと知り合ったのも彼が紹介者だった。

ふーむ、なあ、とうなずき合い、彼が「ビールもう1本!」と声を上げた。あとで聞くと、自宅では長年酒類は一滴も飲んでいないという。外でもビール以外はまず飲まないそうだ。そのあと連れ合い運転の車で私の家へ移動したが、前日私が買い出しに行っておいた地元産の極上吟醸生酒も出すに出せない。

信州の桃を冷やしてあるがと言っても、頬笑んで首を振る。家を一通り見、リビングに座り「静かだなあ」と呟き、「おれもまた東京に住もうかと思っている。娘が二人とも東京界隈だし、両親もとっくに死んで向うにいる必要性は何もないし.。庭付きの静かな家がいい、向うは街なかで案外うるさいんだ」と窓外の木々を眺めながら言う。

私は肯き、「それがいい」と答えた。連れ合いはあとで、あれは奥さんのためを考えてのことよね、と言った。奥さんは本来九州とは全く関係ない人だったから、もし彼がいなくなったら彼以上に向うにいる必要性は何もない。それは私もよく分った。

二人は庭に出、切り株椅子に腰を下ろして、蝉の声を聞きながら風に吹かれた。彼は煙草を吸った。「いいのか?」「ああ、これだけは医者と論争して、おれの勝手だろと押し切った。ただし、1日5本以下だけどな」。彼は25歳のとき肺気腫もやったことがあるヘビースモーカーだった。

「ここはいいとこだなあ」、彼は2度ほど呟き、一人でたばこをしばらく吸っていた。
帰りに駅のプラットホームまで見送ると、彼は私たち夫婦がホームにいる間、答礼のつもりだろう車内の席前に立ったままこちらを向いていたので、このままでは彼が座れないと思って私たちは発車前に挨拶してホームを去った。


8月19日 草取りシジフォス

今日、頼んであった庭師が来てくれ、枯木3本、桑の太枝(幹に近い)3本、檪の太枝1本を伐ってくれた。おかげで庭の南西側が一気に明るくなり、これまで夏は使い物にならなかった畑が急に日当たりが良くなった。

さて、どうするか。嬉しいような、草臥れるような。今書いてみて苦笑したくなるくらいだが、この「草臥れる」って字、本当にリアルだな。日当たりが良くなれば草が次々と生え、草むしりだけで疲労するだろう。

とっては生えとっては生え、草取りシジフォスとなって、夜は9時ともなればもう眠くなるに違いない。

それにしても何を播くか、植えるか。



8月17日 新しい畑とばね指のその後

裏庭にも小さく2列畑を作った。1列にはほうれん草を播き、もう1列は思案中。何かちょっと面白いものにしたいのだが……。東側にはすでにわさび大根、ほうれん草、小かぶ、わけぎがある。

南と西側の一番広めの畑が樹木の茂りのせいで、全く日が当らないため、こういうことになる。3月、それらの畑を開墾して左親指がばね指にまでなったのに。

その親指は3,4月丸2カ月ほとんど使えなかったのち、7月以降ぐらいはほどほどに使っているが、まだ少し痛い。再発が怖いので、わが手ながらおっかなびっくりの日々である。



8月15日 蝉の鳴き声、終戦記念日

台湾の台北大学医学部助教授だった連れ合いの父親はこの日、台南の陸軍病院で軍医として終戦を迎え、そのまま台湾側の意向で台湾に留め置かれ、医師として1年働いた。引き揚げ後、同じく医師だった実兄が沖縄南部で軍医として野戦病院に勤務中戦死していたため、小諸の実家に帰って田村医院を継いだ。ゆえに連れ合いは、台南で生まれ小諸育ちとなった。

私の父は名古屋の陸軍病院で軍医として終戦を迎え、数日後、いわゆる戦後疎開として1歳半だった私と兄・母を三重県の山村に連れてゆく途中、病院で感染していたらしい腸チフスを発病。約2週間後、宇治山田(今の伊勢市)で死亡。37歳だった。

未亡人となった母は28歳、以降幼児2人を抱え和裁教師、歯科技工士として働き、長男を医師にした。

その兄は57歳で肺がんで死亡、その時小学6年生だった甥がいま医学生となっている。

医者嫌いだった私は文学部に行き、売れない純文学作家となって、どういうわけか本日只今、本来何の縁もなかった小諸で至極健康に生き、テレビの終戦記念日特番で天皇の敗戦の詔勅なぞを聞いている。

不思議かつ面白いものである。


8月14日 月遅れ盆の墓参り

といっても小諸でだから、連れ合いの墓参りに同行したのである。沢音が聞こえ眼下だいぶ下に田んぼが垣間見える崖の突端にある、2戸分だけの小さな墓地の半分がT家の墓地だ。

墓石は分りやすい字で父母夫婦の名前が仲良く刻まれた比較的新しい物(連れ合いたち姉弟建立)、祖父が建てたという「T家の墓」、連れ合いの義理の伯父(?)の「医学博士Uの墓」の3つのみである。

ひっそりと寂しいようでもあるが、北と西側にある道は近所に芦原中学が出来たとき、連れ合いの父(当時、校医だった)が中学生たちの通学路にと土地を提供して出来た、そのため墓の敷地はずいぶん小さくなった、などと話を聞くと、いい人物だったなと墓地の小ささが急に好ましく思えてきたりする。

それに3つの墓にはどれも戒名の類なぞ一切ない。私はかねがね生前ろくに仏教を信じてもいなかった人たちが訳のわからぬ戒名を高い金を出して付けてもらい、時間がたつとどれが誰の墓だか分らなくなるのは実にアホらしいと思っているので、これもすがすがしくて好もしく感じる。

で、蚊に刺され汗だくになりながらせっせと草をむしり掃除をし、連れ合いが供えたコスモスや赤まんまなど野の花の間に線香を立て、二人だけで気分良く穏やかに合掌した。この御両親とは、生前、父上には1回、母上に2回お会いしただけだ。

だが、春の命日を含め、もうこれで数回はお墓参りをしている。不思議な縁である。



8月12日 肩すかし

台風は知らぬ間にはーるか彼方に行っていた。雨もろくに降らず、まあ涼しくはあったが。このまま夏が終ってほしい。


8月12日 台風4号に期待する

といっても誤解されては困るが、要するに雨がたっぷり降って涼しくなってほしい。畑や草木がみずみずしくなるだろうし、涼しいのは何と言っても有難いから。

朝顔がだいぶ咲いている。待望の西洋朝顔の青花もやっと2輪咲いた。

庭に御影石製のベンチが届いた。この家を施工した建築会社がくれたもので、両端に小狸の像が付いたちょっと保育園風の作りだが、自然一点張りだった庭にアクセントが付いた。


8月11日 東京は暑い

が、朝晩は意外に涼風が吹く。やっぱりこっちも秋立ちぬか。

でも、早く小諸に帰る。夏の校務(日大文芸賞選考)もやっとすべて済んだし、これからが完全な自分のための夏休みだ。名前は「休み」だが、大学教師にとっては、授業以外にもう一つの本来の仕事ー研究ーがあり、それは私にとっては創作である。

書きたい気持だけ先行しているが、実は構想がちっともできていない。ぼつぼつエンジンをかけなければ。


8月7日 ドカンショ祭りに見る地方小都市の現実

昨日の小諸ドカンショ祭は予想外の参加団体数、見物衆で盛り上った。夕方から気持のよい涼しさになったのが、連日の暑さからの脱却気分を呼び、そうさせたのかもしれない。

が、商工会議所や市役所関係、金融機関関係などの連の人数や表情を見ていると、いささか苦しい動員ぶりも窺えたし、一方で小中学生や幼稚園保育園児らの元気なさまがかわいらしくもあった。

そして一番圧巻だったのは、車椅子の障害者多数が参加した障害者福祉団体の連で、障害者・介護者それぞれの表情からは厳しい現実が垣間見え、強い印象を受けた。

いろんな意味で地方小都市の実態がよく分る祭だった。



8月6日 沖浦和光『天皇の国・賤民の国』(河出文庫)

まだ読んでいる最中だが、これも面白い。日本人の起源とその源流の一つである南方系の海民(あま)のことなどが書かれている。

海民や山民が後に被差別民化していく実証も面白い。私はだいぶ以前、網野善彦や井上鋭夫といった人の本を愛読したことがあるが、そこにつながり、かつそれ以降の新たな研究成果が表れていて肯ける。

学問や思想というものもちゃんと前進しているのだと実感できてうれしい。



8月3日 塩見鮮一郎『弾左衛門とその時代』(河出文庫)を読む

いま住んでいる小諸はいわば『破戒』の町なので、おのずとその種のことに関心を持たざるを得ないため、その流れの中でたまたま手に取ったのだが、ぐいぐい引き込まれて3日間ほどで一気に読み切った。

読み終ってから初版単行本はすでに19年前に出たものだと知ったが、第1章は新しく書かれているし、新情報もところどころ言及されていてまったく古さを感じなかった。

というより、この種のことは知らぬことの方が多い上、書き方があくまで事実と実証をもとに正確精緻、具体的に書かれているので、信頼度が高いのである。小説を読みなれた目には新鮮で、ピリッと締まった印象を受けた。

事実の重さ、社会・歴史の不可思議さ、同時にある種の合理がちゃんとある世の成り立ち、みたいなものがじわっと伝わってくる。だからどうといったナニカがすぐ出てくるわけもないものの、人間と社会に関するナニカを深度をもって考えざるを得ない。

小説とか文学はこういうものに比べると、どこか軽いというか勝手というか、だいぶ別種だなとも思う。
久々に面白い本だった。


7月30日 うぐいす、蝉、カナカナ

何を書こうかと思いつつこの画面を開いたら、折しもうぐいすが「ホーホケキョ」ときれいに鳴き出した。春から初夏のころは「ケキョ、ケキョ」という感じだったのに、随分うまくなったものだ。

うぐいすは森や山では春から夏いっぱい鳴く。ただし盛夏や日照りの強い所では鳴かず、涼しい日の森の中が多い。今そこへミンミン蝉の鳴き声が重なってきた。あぶら蝉も混じりだした。

こうなるともうあたり一帯が真夏気分に変じ、うぐいすは鳴く頻度が目に見えて(ヘンな表現だな)減る。だが、止めはせず、蝉と声を競っている感じもある。犬が遠吠え出し、雉みたいな鳴き声も交じる。みんな刺激しあって競合するのだろう。

あと、涼しげな心地よい鳴き声は夕方のカナカナが一番だ。これは5時か6時、昨日おとついのような曇り空の日は4時ごろから鳴き出す。時間よりもっぱら明暗の具合によるらしい。

いま蝉の声が静まった、とたんにうぐいすのホケキョが勢いを増して鳴き高まる。いいものだ。あ、いや、また蝉が対抗して騒がしく鳴き出した。人間の思い通りにはなるべくもない。ホケキョ、じいじい、ホケキョ、じいじい……。


7月27日 昼食はどかんと、夕食は軽めに

昨日は土曜の丑なので鰻をと思ったが、旨い店が満員なので、代りにイタ飯屋に行った。18号線沿いの田舎ふう夫婦がやっている店だが、味はなかなかいい。

ピザにラザニアを頼みサラダ・ケーキつきセットにすると、サラダとケーキの量が実に多い。特にケーキはくるみ、ブドウ、松の実、カボチャの種などがたっぷり入った大きなもので、まことに満腹した。

日ごろ昼食はそばやうどん、茹でスパゲッティーくらいだから、腹にずっしり応えた。

おかげで夕食時間になっても連れ合いともども食欲はろくになく、晩酌も進まず、キウリの酢のものにごはんと味噌汁だけでOKとなった。

そして今朝、腹の具合がなんとなくいい。懐古園まで散歩に行ったせいか気分も至極いい。早朝の気温は20度以下なのでそれも爽やかだ。昼多く、夕食は軽くがいいと聞いてはいたが、どうやら本当らしい。

今、気づいたが、ひょっとしたら晩酌をきわめて少量しか飲まなかったせいかもしれない。うーむ。



7月24日 防火防災会議と人間ドック

一昨日は大学で防火会議だった。大学では専任教員はいろんな委員をやらされるが、去年までの研究委員に代わって今年は防火委員なるものを命じられたのである。

当初の話では暇な委員会だからということだったのだが、行ってみたら、今年は6年がかりの校舎改築が終り建物の高さも増したため防火プラス地震などの防災も付け加わり防火防災委員会となり、任務もその分拡大するとのこと。

えっ話が違う、と思ったが、時すでに遅く、あれこれかなり責任大の話のあと、学部自衛消防隊の文芸学科ナントカ隊隊長なるものに私の名が決定されていた。私は思わず目を見張った。だって、私は間もなく67歳になる身なのである。おまけに高血圧気味で胴回りはメタボがどうのこうのといわれろくに走れもしない。

ウームと思ったが、ほかに私より年長の人も別の隊長になっているし、えい、勝手にしやがれと黙って従うことにした。それにしてもほんとに火事や地震が起ったらどうなるだろうと不安にたえない。

そして昨日、日大病院健診センターで日帰り人間ドックを受けた。私はこの10年ほど他の健診機関で受けてきたので日大センターは実に久しぶりだった。こうなった理由はあれこれあるが、今はさておく。ともあれ毎年のドックはいわば教員としての義務なのである。

ドックでは聴力検査が新しい機械でどうも聞き取りにくく時間がかかり(例年の倍以上かかった。他の人も似た感想を漏らしていた)、視力検査では左目の視力が落ちていることが判明した。

前夜来猛烈な暑さのせいで血圧値は低く出てホッとしたが(血圧は暑いほど低くなる)、超音波は担当者が何やら首をかしげては肝臓や腎臓を繰り返し見ており気になった。だが聞いて心配になるのが嫌で、あえて何も聞かず黙ってやり過ごした。ここでも黙ってただハイハイとしたがっていたわけだ。

委細はのちほど郵送でとなり、2時間強で終了したが、外へ出るとフラッとするほど暑かった。なにしろ前夜9時以降水も栄養もとっていないから、急いでイタ飯屋に駆け込み、セルフの紅茶を2杯立てつづけに飲んだのがうまかった。ランチセットも若者並のスピードでがつがつ食べ終えた。

かくして今回東京での仕事はすべて終了、そのまま御茶ノ水駅から東京駅へ向かい、ここから始めて長野新幹線に乗った。いつもは大宮からだ。

初めて知ったが東京から上野まではまったく地下であり、かつたった数分だった。私は珍しい気がして、上野以降も大宮までずっと窓外の景色を眺めつづけた。途中窓外右手遠方に何やら刑務所の監視塔を想起させる窓の殆どない不気味な塔が見えたが、あれはなんだったのか。小菅かしら?

小諸へ着いたのは2時20分でこっちも暑かったが、ひんやりしたうちへ入ると、さあ、これで夏休みだと、実に解放感に包まれた。


7月20日 HPの不調治る

だいぶ前からHPの日記の古い部分が画面に表示されず困っていたが、今日メーカーに問い合わせやっと原因が分った。どうやら、小諸と埼玉のマンション間を移動するたびに使っていたUSBメモリーの使用が理由だったらしい。

パソコン本体のファイルを使って更新しないと、リンクが正常にならないというわけらしい。

この2週間ほどずいぶん悪戦苦闘したが、結局自分では解決できなかったことが、メーカー相談員に聞いたらすぐ分ったのだから、やはりプロは大したものだ。

というか、こちらは所詮何日に1回きまりきった形でしか使わないから、新たな事情が生じたとき判断が出来ないのだろう。こういうことは他にもありそうだから、心しておこう。

皆さんもよかったら御覧ください。過去8年ほどの小生のHPがクリックひとつで見られます。

それにしても面倒な修正をやる気になったのは、要するに実質夏休み入りしたせいだろう。余裕が出来たともいえる。


7月18日 恩師の机と椅子、平岡篤頼文庫

第8次早稲田文学のオーナーでフランス文学者兼作家だった故平岡篤頼さんの記念文庫(信濃追分)へ、今日午前、行ってきた。

昨年オ−プンした同文庫が今年は今日から開場。平岡夫人に電話で場所を確認し、車で行った。小諸からは30分足らず。旧別荘脇の新築文庫には、かつて贈った私のサイン入り著書も8冊あった。

平岡さんは私にとって大学2年時のクラス担任であり、その後早稲田文学の編集委員を数年、ついで早稲田文学新人賞選考委員を7〜8年一緒にやらせてもらった仲だ。

私にとって文学上の師と呼べる人は文芸評論家の佐々木基一さん、作家の森敦さんがいるが、それに次ぐ先生であり恩人だった。学生時代以来30年ぐらいずっとちょくちょく会い、「せんせい、せんせい」と言い続けた人は他にいないから、思えば貴重な縁だった。

3年前亡くなったときは、ついにわが師は一人もいなくなったか、そうだよな、オレが60歳代の「せんせい」なんだものな、と感慨を覚えたものだった。

その恩師の蔵書文庫が昨年つい30分足らずのところに出来ていたことを今年になって知り、すぐにでも行きたかったが、寒い間は閉鎖、7月18日から開くとのことで、やっと今日訪問できた次第である。

同年の奥さんは女医の仕事もあるせいか元気そのもの、おっしゃることも話も明晰、てきぱきしており、楽しかった。先生の元書斎、寝室なども入らせていただき、執筆机の椅子にも腰かけさせていただいた。

実に懐かしい気分だった。


7月16日 授業日もあと一日なり梅雨明けぬ  南斎

どうやらすっかり梅雨明けの気配である。青空に積乱雲がある。暑さも激しく、屋外へ出たくない。

が、授業は今週いっぱいで終わり、実質的夏休みが近い。小学校時代みたいな解放感が湧いてくる。

さて、明日までともあれ頑張るぞ。


7月14日 今日は埼玉も涼しかった

予定では小諸より平均8度は高いはずだったのに、所沢校舎に着いてみたら意外にも涼しかった。おまけに雨もない。

おかげで授業もスムーズに進行、4限のゼミはゼミ誌イベントのため超過授業となったが、学生たちは楽しそうであった。

マンションへ帰宅したら、ベランダの朝顔が水分切れでしおれかけていた。この間雨は降ったはずなのにどういうわけか。南側からは吹き込まなかったのか。夏は南風なのに解せないことである。

明日は朝から病院→大学(江古田)→大学(所沢)とダブルヘッダーどころかトリプルヘッダーだ。しんどいことである。


7月11日 なぜこんなに寒いのか、小諸祇園まつり

本日、小諸は最高20度、時折小雨のぱらつく寒い日だった。なぜそうなるのか。それはぎおんまつりは雨乞い神事なので、毎年雨が降るためだそうである。

昨日の市民みこし祭りはカンカン照りだったが、市役所脇での開会式中に突如ザーッとにわか雨が降り、神輿衆も見物の大半もずぶぬれになった。私は神事の意味を信じていたのでちゃんと小型傘を用意しており難を逃れた。

しかし、神輿衆はこの雨でかえって意気盛んとなり、練りがひときわ盛り上がった。ま、正直に言えばずぶぬれから早く衣装を乾かすためにも風邪をひかぬためにも、練るのが一番なのであろう。

その証拠にその後はほどよく晴れ曇りとなって丁度よかったが、今日は雨は大したことないのに寒すぎる。これでは担ぎ衆がほんとに風邪をひくのではないか。

健速神社の儀式は今年は石段上の間近で見、したがって勇壮な神輿の「石段落とし」も上側から見た。去年は下から見上げたので、両側から合わせて石段落としの実相がよく分った。大きな神輿は斜めにしないと鳥居を通過できないし、重さのゆえ急な石段を一気に駆け下りることになる。見るだに危険で勇壮なものだった。

それが正午少し前で、以降街を練りつづけ、夕方には水かけ神事となるが、担ぎ衆はまさにずぶぬれとなり、さらに寒かろう。私は家で一献やり体を温めてから、渡台神事なぞを見にいくことにしよう。これは健速神社の神輿を昔は天王社衆に渡していた名残だ。今は天王社も自前の神輿があるので、両者が出会うことはない。かなり明確な住みわけになっており、いわば祇園祭が大小二つある感じだ。

その小さい方が我が家から3分のところにあり、小ぢんまりしているだけに親近感がある。


7月8日 只今32度C真夏日

東京とはいえ、梅雨晴れにしては暑い。小諸から列車を乗り継いで出てきた校務は1時間ほどで早く終わったが、すぐは外へ出る気になれぬ。

だが、室内にいても、窓際は照り返しで暑く、レースのカーテンくらいでは防げない。

部屋の真ん中で書見をしかけたが、省エネ推奨下で冷房を使い続けるのも気がひける。

思い切って外へ出、参院選挙の期日前投票をするか。当日は信州小諸の祇園祭を寂寞と眺める予定なのである。


7月5日 ウイグルの独立、中国の解体を望む

しかし、実現は無理だろうな。タクラマカン砂漠の北側は天然ガス・石油の一大産地で、油田のすぐ近くには必ず中国軍の基地がある。

首都ウルムチはもはや漢族が70%になっているし、西部のオアシス都市カシュガルも中心部の風情ある旧市街が全面取り壊しの運命にある。あとには近代建築がたち、移住というより植民漢族が急増するだろう。

中国は今や世界でも珍しい植民地主義帝国主義国家なのだ。それが共産党政権によってなされているということが、根本的欺瞞である。

昨年のウイグル暴動の結果、多数が死んだ上、ウイグル人に数十名の死刑判決者が出たようだ(正確な数字がそもそも発表されない)。中国では年間3000人の死刑が執行されるというから、国内的には珍しくもないのだろうが、世界の死刑執行のうち70%以上を占める。まさに稀にみる強権・非人道国家である。

中華人民共和国なる国は出来るだけ早く解体され、少数民族は独立するべきであろう。出来れば漢民族も魏・呉・蜀の三国くらいに分割独立したらいい。


7月1日 初の女性課長誕生

わが日大芸術学部にはたぶん7,80名の事務職員がおり、課長職が確か11名あるが、今回初めて女性課長が誕生したと先ほどの教授会で報告された。

他学部はどういう現状か知らないが、全体としても女性管理職数は極めて少なそうな気がする。かなり典型的な男社会なのである。

教員もそうで、芸術学部なのに、教授会場をぐるりと見回しても女性教授はほんの数名だ。パーセンテージ的にはおそらく5%ちょっとというところであろう。

今時かなり時代遅れの感もするが、他の社会、企業、役所などでもそうなのか否か。少なくとも日本はまだまだ男女同権社会ではない実感が強い。閣僚も国会議員、地方議員も少ない。外国では女性議員、閣僚などずいぶん多いのに、日本ではなぜなのかしら?