風人日記 第三十五章
                                  TOPページへ
胡桃を食べる
  2010年10月1日~12月31日







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、4月下旬刊行、発売中。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、下記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


昨年六月に新刊を出しました 

『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2200円+税)。
 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


ウイグルとビルマ(ミャンマー)での人権尊重を求める

 昨年7月6日、中国領西部のいわゆる新疆ウイグル自治区ウルムチで起った騒乱は死者多数(200人以上といわれるが、はっきりしない)を出したが、それに対する中国司法による裁判結果は現在までで死刑30人余という過酷なものだった。うち多数がウイグル人である。執行猶予付きの死刑というものまであるそうだから、実態が把握しにくいが、ウイグル独立運動や中国政府への反発に対する見せしめ的刑罰であることは明らかである。

 また、昨年8月11日ミャンマー軍政は米人侵入事件を理由にアウン・サン・スー・チーさんに有罪判決を下したうえ、判決直後の法廷で白々しくも「恩赦」し、1年半の軟禁継続とした。これは今年予定の総選挙から彼女を排除するための専横措置である。
 最近になって選挙直前に彼女を解放しNLD(国民民主連盟)の選挙参加も認めるかのような報道もなされているが、選挙直前とは一体いつなのか。従来の軍政のやり口から見て、実質的選挙の自由は認めぬ、形だけの姑息な手段であることはまず間違いなかろう。

 これらの行為は人間の本質的権利である自由・人権・民主への重大な侵害であり、
私は中国政府、ミャンマー軍事政権に対し強く抗議するとともに、ただちに事態を改善するよう求める。
                              
                  2010年1月1日
                      日本ペンクラブ獄中作家・人権委員 
                                          夫馬 基彦


                        *これより日記                      
12月31日 食糧たっぷり、日記はまだ購入せず

昨日は街へ買い出しに出、車のガソリンも満タンにし、貰いものも若干あって、まずは食糧十分というところ。なんといっても食べ物が豊富というのは充足感安心感がある。

餅も酒も揃ったし、さあ正月である。別に何をしようとも、しかるべき客が来ようとも思わぬが、年が改まるのはやはりいい。時間はただ続いているだけでも、新しいページを繰るのは新鮮感がある。日記ならやはり新しいことを書きたくなるし、書物なら本自体を新しくしたくなる。

初詣にもどこか新しい所へ行きたい。同時に近くの一番馴染んだ小さなやしろ類にも参りたい。さて、どことどこにしようか。



12月29日 風花降るなか暮の大桑切り

だいぶ前から庭のなかほどに伸びてきた桑の枝が気になっていた。最初は初夏に甘い桑の実をいっぱい生らせて楽しみだったし、真夏には大きな葉で日差しを防いでくれてよかったのだが、あまりに成長がはやく葉が大きく茂り、近くの山法師などに日が当らなくなってしまった。

山法師の左側には梅か楓を一本植えたい気もしていたのだが、出入りの庭師さんに「梅は日当たりがよくないとだめ」と一蹴されてしまったこともある。

というわけで、年末になって枯れ木の庭を眺めているうち、よし、あれを切ろうと一念発起したわけだ。
そのためまず5メートルに伸ばした枝切り鋸を使い始めたのだが、これが長い柄を支えているだけでも重い上、その先端部でかなりの太枝を切るとなると、疲れること疲れること。

なにしろまさに手元不如意の上、日ごろ絶対使わぬ筋肉の使い方をかなりの時間持続せねばならぬから、すぐ腕が痛くなる。で、休み休みやるのだが、それでもくたびれ、冷たい風花の勢いが強くなったのを機に途中一度昼寝した。もちろん屋内のベッドでだ。

そして再挑戦してやっと直径7,8センチの枝をドサッと切り落とし、それを手鋸ともろば鋸(と言うのかどうか)を使ってさらに分解。このまま全部柴にしてしまうよりは大きなまま塀際に立てておけば目隠し兼用のオブジェになると判断して、そうした。

おかげで庭は見通しがよくなった上、落葉以降表の通りから丸見えだったリビングがだいぶ落ち着いた。
やれやれ、これで年も押し詰まって思いがけず納まりがよくなった次第である。あとは餅だが、これがまだない。



12月26日 ボブ・ディラン アレン・ギンズバーグ ジョーン・バエズ

NHKハイビジョンでのボブ・ディランの長篇ドキュメンタリー映画が面白かった。素材も吸引力があったし、懐かしかったし、知らぬことも多かった。

ボブを始め、出てきたみんなが歳とっていたのが何よりインパクトがあった。歳のとり方としては、バエズが一番知的で美しくよかった。ボブは何だか路上のアル中みたいに見えた。ギンズバーグはかつてのカリスマ性はまったくなく、痩せて身も精神も縮んだ片目の老人のようだった。

それにしてもボブはあんなに若かったのか。私は10歳くらい年長だとずっと思っていたのに、デビュー当時たったの21歳だったとは。それでは私と2歳しか違わない。

ジョーン・バエズもそのくらいだったのかしら?


12月24日 初雪。されど止んでしまった。火山岩のことなど。

起床時カーテンをあけたらうっすら雪化粧しており、その後改めて降りだし9時ごろまで降ったが、今は止んでしまった。
せっかく白かった世界が枯葉色や黒色に戻り、日が差すとともに暖かくなった。

陽の暖かさは夏の炎暑の憎らしかったことを思うと、人間とは勝手なものだと思いつつもやはり心安らぐ。青空との取り合わせは更に気持がいい。

そのここちよさに誘われ、庭というか敷地内の柴拾いや小石の整理なぞをした。ここらは浅間山の火山弾地だからどこにも火山性の石や軽石がごろごろ転がっている。すぐ向うには市立の火山庭園もあり、浅間各連峰や近在各地でとれた大きな火山岩が地名表示とともにざっと30ほど置いてある。一角には数年前までは「火山博物館」という名だった郷土博物館もある。

ということはつまり、浅間が爆発すると風向きや噴火場所次第ではここらにもまた火山岩が大量に降ってこないとも限らないわけだが、さいわいそうなったのはだいぶ久しく、ひょっとしたら江戸時代以来ないらしいので安心している。近来の噴火物はもっぱら群馬県側に降っている。

その浅間は半分以上が雲に隠れているが、左の方の三方ガ峰や烏帽子岳はだいぶ白く雪をかぶって頭を覗かせている。雲が晴れるようなら久しぶりに見晴らしのいい温泉にでも行こうかしら。


12月22日 本日、冬至なり。意外に暖かし。

軽井沢、信濃追分辺から見た浅間はだいぶ下まで真っ白だったが、小諸へ来ると南側のせいで白より黒い所の方が多い。

今朝雨が降ったうえ、気温が意外に高い(6~7度)ので、あちこち湿ってはいるが冷たい感じがない。風もないし、ちょっと春みたいである。水曜日は入場無料なので懐古園を通って帰宅したけれど、動物園・遊園地も、藤村記念館、小山美術館などもすべて休園休館表示が出ており、なんだか冬休みムードである。

恵比寿ビール、タイ産冷凍ドリアン、鮎の昆布巻、台湾産黒豆ピーナッツ、それに作り置きの蠣のオイル漬けなどが揃ったので、早く晩酌をやりたい。ドリアンをスプーンですくっては舌に載せ、恵比寿ビールをぐいと飲むのは実にうまいのである。

いま赤ゲラが飛んでいった。さあ、冬休みだ。



12月20日 年末整理清掃第1弾、旅はなし

午前中は、
①銀行関係の金の出し入れ、
②最後のお歳暮発送、
を終え、

そばの昼食を経て帰宅後、午後、
①作動しなくなった体重計を治そうと試みたが、出来ず。廃棄処分とし、
②それに触発され、古新聞、古チラシ雑紙類、段ボール箱類、ハッポースチロール・プラスチック類、埋め立てゴミ、などを整理紐縛りした。二人がかりで汗ばむくらい力仕事でもあった。

おかげで今は掃除ロボットによる部屋掃除中。思いがけず年末の大掃除第1弾となった。

もう1回くらい第2弾が必要だろうけど、このくらいしておくと気が楽だ。食べ物もだいぶ揃ってきたし、明日最後の出校を済ませばもう年末年始休み体制である。

2年前まではたいていこの時期に沖縄琉球方面へ出かけたものだが、今年は旅の計画はさらさらない。この2年間ほぼ毎週、信州と東京を往復しているので、もう旅はいいという感じなのである。移動に疲れたのかもしれない。



12月17日 4年ゼミ飲み会盛況

昨夜、江古田の焼鳥屋で開かれたのだが、出席14名、欠席1名のみ。日ごろの授業の出席率からは信じられないほどの盛況だった。

ただし、6時開会のはずだったのにちゃんと来たのは小生一人。みんなパラパラとゆっくりお出ましになり、おまけに幹事は財布を忘れたとかで大幅遅刻。

最後まで本性はたがわなかったが、会は盛り上がった。会費2900円で飲み放題食い放題、飲む方はさほどじゃないが食うは食うは。しかもそれがなかなか旨い。さすが学生は割のいい店をよく知っている。

しかし酒の方は日本酒が1種類だけ、しかも燗を頼んだらガラスのワンカップ酒だった。ムムム。やむなくビールに切り替えようとしたが生ビールのジョッキしかない。寒くて冷えそうな気がしたので、なんだか知らんがマンゴービールとかいうものにしたら、まさになんだかよく分らん代物だった。さらにやむなく柚子焼酎のお湯割りに切り替えたら、これはなかなかいけた。よかったよかった。

私は一座を見渡しながら、2年前このゼミが発足した時はもう一人いたが途中で大学を中退してしまったことを思い浮べた。年長で他大学を経ての入学者、少々気むづかし屋だったため若い雰囲気になじめなかったみたいで気の毒だった。

でも、このクラスには30歳、25歳、24歳、なぞがおり、彼らは楽しげに過ごしていて、クラスの雰囲気を盛り上げていた。クラスにどこか大人の雰囲気があったのも彼らのせいだろう。変わり種が多い方がクラスは面白くなる。

あとはいよいよ卒業制作だけである。締め切りまで1カ月を切った。全員ちゃんとしたものを出してくれよ。ここまで来て落としたくはないから。


12月14日 紫の部屋

昨日は終日本を読みつづけた。雨がしとしと降り続いたなか、りんごを買い昼食にそばを食べるため街へ出た以外はほぼすべて読みつづけた。

そうして夜、連れ合いも寝てしまったあと、書斎にいてふと気付くと、部屋の西側の壁がかすかに発光しているように感じた。ピンクがかった紫である。思わず見とれ、ついで部屋中を見まわすと、隣の壁面は薄あお紫に、天井と東側壁面(本棚用に仕切ってあるが)はやや曇った紫に見える。

この書斎は2年前に色を決めるとき、全体を紫に、ただし東西側と天井はピンク紫、南北は薄あお紫にした。色の濃度に関しては最後まで迷った末、過ごす時間の多い書斎だから濃すぎると目も精神も疲れるかもしれないと考え、全体にかなり薄いというか淡い色にした。

その淡さに関してその後、淡すぎた、もっと濃く、いかにも紫の部屋にすべきだったとだいぶ悔んだ。ゆえに壁色については意識から遠ざけていた感もある。

それが昨夜初めて、自然に目と意識が壁色に行ったのだ。まんざら悪くない気もし、しかし薄あおの部分はちょっとクールな感じもするかな、やはり全体にもっと濃い紫の部屋にすれば聖なる感じになったかもしれない、などとしばらく考えた。

当初、紫の部屋にと考えた理由も、インドやチベット、それにどの宗教でも心理学でもたいてい紫は最高の色、聖なる色とされているからだったが、だからこそあまりに紫そのものにしてしまうのは、気遅れと気恥ずかしさ、それに先述したように一種の「疲れ」が出るのではという危惧を感じたのだったが、どうもそのへんが生来の気弱さ、引き心を表しているのかもしれない。

私は一方で突っ走るところ、強気のところもあり、色彩感覚はかなり色鮮やか派なのだが、おのれの性質、判断に関してはいまだに確信が持てない。聖なる紫はもっと濃くしておくべだったか否か……、さて。



12月11日 帰郷

昨日明け方までの小諸はずいぶん冷え込み雪もうっすら積もったというので、不安半分今日帰ってきたら、意外に暖かい。刻そばへ入ったら、「今日はあったかい、あったかい」とマスターも常連の山貞さんも一様に言う。

浅間は本峰だけでなく黒斑、高峰山、三方ガ峰、湯の丸と峰から肩にかけてはおおむね冠雪している。10日前出るときは本峰以外雪はなかったから、やはりかなりの変化だ。

車はどれを見てもスタッドレスタイヤになっており、刻そば情報では1週間前にみな終ったらしい。履き替え手数料は4本で2000円、2100円、2520円の3通りあるそうだ。つまり1本当たり500円か600円、それに消費税ありかサービス、という区分け。トヨペットとトヨタ、ホンダで違うそうだ。別に何の意味もないと思うけど、皆フーンと言った。

さて、畑の点検である。


12月8日 秋山駿さん傘寿

今年も恒例の文芸評論家秋山さんを囲む秋山会が昨日、東京新宿で開かれた。

秋山さんは今年80歳になられたから、傘寿の祝いを兼ねることになった。参会者は作家、編集者、新聞記者など30名ほど。司会者から私が「最年長だから乾杯の音頭を」と依頼され、えっと思った。80歳の方の会で列席者最年長なんて信じられない。

驚いて眺めまわしてみると2歳年長者が一人、1歳上が一人いる。そう指摘すると、「まあいいじゃない、やってやって」となって、やむなく私がやった。

秋山さんは昨年から奥さんが体調をこわされ、一時は寝たきりになられた。しかも病名が定かでないという理由で入院を引き受ける病院がなく、自宅療養。しょっちゅう腹部などが激痛に襲われ、食べることもままならないという。点滴だけの日がしょっちゅうらしい。

今年の夏あたりはそのことを群像に連載中のエッセイに書いておられ、いったい秋山さん、狭い団地でそんな奥さんを抱えどうしておられるのかと読むだけで胸が痛んだ。失礼ながら秋山さんは台所仕事とか家事、介護などが円滑にできる人とは思えない。第一御当人自身手術をするなど数年来体調不可、5年前から酒も飲めず、療養中なのだ。

だが、昨日はむくんでいた顔もすっきりと締まり、かなりお元気そうだった。奥さんもこの頃は車いすとストレッチャーなら外出可でちょくちょく出かける、とのことだった。が、「食事などはどうされてます」と聞くと、「いやあ、近くに食べるところはいろいろあるから」と要領を得ぬ答だ。ならばと「介護の人は週何回ですか?」と問えば、「1回」との答。

これじゃ日常生活は成り立たない気がするし、風呂などどうするのだ、80歳の病人たる秋山さんが奥さんを抱きかかえて風呂に入れられるはずもないしと思えるが、秋山さんはあの個性的アフォリズムふう文章と同じく、短い断言調でぽつっぽつっと語られるだけだから、さっぱりリアルなことは分らない。

だが、秋山さんは元気であり、日々の世間の動きを見ているだけで面白いとおっしゃる。文章の方では、自分の人生は変った、価値観が変った、なぞともおっしゃるし、それらの一言一言が深い。

まさに文学者であり、「考える人」だと痛感させられる。このごろはほんとに年に1回だけのお会いする機会となったが、楽しく得難い一夕であった。



12月5日 志木の街を歩く

連れ合いと二人で隣の駅志木の街へ昼食に出た。気温は暖かいし、東京界隈の街というものが懐かしい思いがしていたからだ。

その実感は志木駅へ着いた途端から間違いなくわっと生じてくる。東京の池袋や新宿に比べたらあくまで郊外の街にすぎないことは分っているのに、それでも人は多く、改札の外には成城石井だのケーキのナニナニ、とんかつ何それだの、小奇麗な商店がずらりと並び、実に明るい。

これだけで信州小諸とはまるで違う。木造の小諸駅には人などろくにいないし、改札口を出ると近在の農家による簡易直売所がリンゴやきのこ、野菜類を並べているだけだ。駅前広場は閑散として日中でも10℃以下のピリッとした空気と風しかない。

人口密度と経済エネルギーが格段に違うことが、画然と感じられる。広い階段を降り、街へ出ていくとまた商店が続き、ホテルの地下和食店が団体予約ではちきれそうで、着物姿の若い仲居さんから実質的に断られる。2階の洋風レストランは「只今満席」の表示が出ている。連れ合いが「刻そばのF君に見せたらどう言うだろうねえ」と複雑な顔で言う。「刻そば」は小諸で一番うまい私たち贔屓の店だが、昼12時に入って他に客がいたことはめったにない。

やむなく他を探すと店はあれこれある。創作寿司屋にイタリアンレストランに沖縄食堂……。創作寿司屋に入ると、女性客中心に3組先客がある。
食事を済ませ、駅の反対側へ人ごみの中を移動、デパートへ入れば商品がいっぱいで、靴屋の品揃えなぞ小諸の5倍はある。

1階の食料品売場には出来上ったうまそうな物やにおいが充ち満ち、鮮魚コーナーには高級魚やフグまでよりどりだ。チーズなども豊富で安い。おせちの見本がずらりと並び、一番高いのは2段重ね8万円である。6万円と4万円の品のうち2種類は早くも予約完売御礼が出ている。

「みんな高いもの買うんだねえ」、論理的には決して「みんな」なぞではないことは分っているがついそう言ってしまうと、「そうよねえ。不景気なぞないみたいねえ」と連れ合いも答える。

「なんだか初めて上京した時みたいな気分」、連れ合いはそう言い、私も「都会は便利だよなあ。それに自由だ。何も気にしなくていい」と呟く。田舎ではどこかで誰かに見られていることが多い。「それに田舎では女の人はこんなに暇はないわね。奥様族なんていないもの」。確かにレストランにもデパートにも駅ビルの通りにも、女性の方がずっと目立つ。歩き方や風情も元気だ。

街の良さ、都会の良さは確かにある。これに芝居やコンサート、文化施設、そして東京界隈にしかいない人たちの存在が付け加われば、都会特に東京に人が集中するのはむべなるかなと思える。

そんなことはもともと分っているし、それこそ18歳で初めて上京したころから分っていたことなのだが、ほんとに改めてそう思ってしまう。

久々の街歩きはやはり楽しかった、と言うべきだろう。ちょっと疲れはしたけど。


12月3日 バースデイ

昨日がそうだった。その前日、1年ゼミの教室へ入って行ったら、ボードに「夫馬先生 お誕生日!!」と大書されており、すぐ「♬ハッピバースデイ ツウ ユウ……」の歌声が起った。

全く予期していなかったので一瞬戸惑い、次いで、アレ今日が誕生日だったか、うっかりしてたなあ、と思い、どら焼きとカップ酒のプレゼントをもらって2時間ほどはそのつもりでいた。
帰りの電車の中で、いや、誕生日は明日だ、学生たちは今日しか会わないので一日早めて祝ってくれたのだと気付いた。

教室で学生たちにはサバを読んで「57歳になりました」と言っておいたが、「アレッ」と少し声も上ったものの、例年通り誰も追及しない。20歳前の若者には大人の年齢は分らないのだ。30以上はみな「大人」だと思っており、50以上くらいになるとほとんど分らなくなる。

大人も「お若い」とか「全然そんなに見えません」などとお世辞交じりに言ってくれるから、どれを信じていいかなかなか判断できないが、エレベーターに乗って鏡を見ると「おや、年寄りが乗っているな」と思ったりするから、やっぱり年相応に老人顔になってきたに違いない。

顔だけじゃなくたぶん歩き方や姿勢、咳の仕方などもそうなのに違いない。たまにだが、電車で席を譲られたりすることも最近はある。

いやいや、歳をとるということはやはりいささか物悲しいものである。それでも誕生祝いはうれしいものだった。連れ合いも花束を飾ってくれた。


11月29日 兆し?

1週間前、ちょっと風邪気味のなか、右頬がこころもち腫れ痛くなった。あれこれ触ってみたが原因が分らず、バファリンを1錠だけのんだ。

翌日になっても引かないので、ひょっとしたら歯が原因かとこれも右上顎部の歯を1本づつ叩いてみたりした。前歴のある歯がちょっと怪しいような気もしたが、明確に痛くはない。首をひねりつつ今度はよく効く鎮痛消炎剤ロキソニンを1錠飲んだ。

それがどうにか収まったと思ったら、土曜日あたりから右目・瞼が痛くなり、昨日は眉毛近くまで痛い。目で目を覗き自己診断の結果、どうも見えぬ場所で物もらいの小さなものでも出来かかっているか結膜炎か、と思えた。で、買い置きの目薬を朝から寝る前まで6回ほどさした。

今朝起きたら、どうやら腫れも痛みも引いているのでほっとしたが、なんとなくどうも悪しきことが続くなと気になった。

というのは、頬痛のさなかの23日にも変事があったのだ。
この日、私は風邪がどうにか乗り切れたようなので更に温まろうと近くの温泉へ行った。村人中心の共同風呂で、地元特産の「朝鮮にんじん湯」なるものが香りも温まり具合も良く、かねて気に入っていた。

ところが、その小さめの湯船の中で86歳の老人から「餅草を乾かして風呂に入れるといいだよ。あれだとうちでも出来る。ワシは軽井沢からここまで来てるが、軽井沢の旅館のは川の水をあっためてるだけだ……」などと話しかけられ出るに出られない。私は高血圧気味だし、もともと長湯は出来ないたちだ。

が、途中で出ちゃ悪いような気がするし、向うの方が先に入っていたからそのうち、向うが先に出るだろうと我慢しているうち、ついに限界になって逃げ出した。

そして脱衣場で下着をつけ出した時点で目の前が半ば暗くなり、猛烈に肩が凝って来、冷汗が一斉に出てきた。のぼせなのか貧血なのか、たぶん2,30年ぶりのことだ。裸で倒れては大変と大慌てで下着上下を付け、便意を感じてトイレへ入って座り、間もなくどうにか昏迷から脱して外へ出たが、冷汗は出つづけた。

帰宅してベッドに横になると、まだ午後2時だったのにそのまま3時間寝続けた。5時になると連れ合いが入ってきて顔を覗きこみ「生きてる?」と言うので、「メシはまだか」と答えて起きた。

以上がこの1週間強の経過だが、何かの前兆ではないかと気になっている。思い当る人あったら、教えてください。


11月27日 川の変貌、渡り鳥

小諸ではもっぱら木や林、坂、浅間山などばかりに言及することになるが、柳瀬川(地名)へ来ると柳瀬川(川の名)のことが目に付く。

その柳瀬川は半年くらい前からやや上流地点で向こう岸を水流が乗り越え、水没しかかったコンクリート岸が川の中央に中の島の如く顔をのぞかせる状態になっている。当然水流もだいぶ変ったようで、余波はあちこちに生じ、わが書斎の真下にもかなり大きな砂州が出来かかっている。

いままでは長年─20年近くも左右まっすぐの護岸に守られ水もまっすぐただ左から右へと流れているだけだったのに、川中央から手前にかけて横10メートルほどの砂州が若干の高低を作りつつ二つの島みたいに形成されてきた。

そこへ渡りの鴨が3羽止まり、砂州に続く水中には鯉の魚影が10数尾見える。浅瀬は鳥にはやはり休息の場になるのだろうし、砂州の下流側は魚には水流が直接来ずやはり休息の場になるのだろう。

人間も多分知らず知らずそういう休息の場所を見つけては休んでいるのかもしれない、それはどこかしら、と考えつつ視線を動かすと、鴨は川の中央にも泳いでおり、さらによくよく見ると対岸の水際及び岸上に都合1ダース以上もいた。

全体に小ぶりなのが多いのはどういうことだろうか。北から渡ってきた鳥は力のある成鳥だからたいてい大きい印象があったのだが、子鳥も渡ってくるのかしら?

渡りの途中はどこで休むのか。陸地はともかく日本海の海上ではどうするのか。いや、水鳥だから海の水面でも休めるのだったか。それともやはり足と水かきだけは動かし続けているのだろうか。とすれば休めないことになるが……。

人間の私はこれから信州に渡る。南から北への逆流である。寒い地への温度差のある移動は高血圧によくないと昨日医師に言われたばかりなのだが。


11月23日 寒そうだ

雨はあがったが曇りぎみで寒そうである。昨日の肩凝りと顔の突っ張りはほぼ収まったと思ったのだが、やはり少し残っている。風邪をひかぬよう気をつけねば。

スタッドレスタイヤの履き替えについてぼつぼつ情報が集まってきた。斜め向かいのTさんはまだ思案中、裏のAさんは今日自分で軽自動車の分だけ履き替えるそうだ。

敷地内は大きな桑の葉が大量に落ちたため、西半分は桑の葉で地表が覆われた。葉はまだ緑のものもあるから、これから当分落ち続けるだろう。去年は黄色く黄葉してから落ちたが、今年は緑のまま落ちる。毎年の落葉紅葉だが、年によってだいぶ違うことがよく分った。木によっても違うから、庭の変化の具合はなかなか予測できない。

向うの林も朝からずっと葉が落ち続けている。欅が中心で、葉は上から下だけでなく、風の具合で横にも舞うからきれいだ。そして落ちた木の間から谷とその向こうに続く空間の気配が次第に広く感じられてゆく。下にはまず斜面林、ついで冬枯れの田んぼや畑があり、一番下には千曲川があるはずだ。川はどのみちここからは見えないが、姿が想い浮び、崖を下りてみたくなる。



11月21日 冬枯れ

幾分残っているとはいえ紅葉もほぼ終り、木々の葉は8割がた落ちて景色は明らかに冬枯れの様相を呈してきた。

表の通りを行く人も双方からすっかり見えるし、隠れていた近隣の建物や風景が見えてくる。山も北側の浅間はおおむね見えるようになったし、西側遠方の白馬山系なぞも空気が澄めば良く見える。
夜も木々の間からかなり遠くの灯火が見え、街が意外に近かったような気がしてくる。

今朝は周囲は真っ白に霜が降りており、車はフロントガラスがかなり厚めの氷で覆われていた。先週あたりからタイヤをスタッドレスに履き替えようか迷っている。近所の人に聞いてみてからと思っているうちにだんだん時間がたつ。浅間山の冠雪が目安の一つなのだが、それがまだだから決定が伸びるのである。


11月18日 二つの家

去年1月から信州小諸と埼玉南部の二つの家を行き来するようになったが、時の経過につれ気分が微妙に変化していった気がする。

当初は新しい場所の新鮮さが何と言っても大きく、東京界隈とは温度差が7,8度もある寒冷地であること、家が林の中にあること、従って土や緑がすぐ目の前にあること、どこへ行っても坂であり2千数百メートルの山が見えること、町が小さく人が少ないこと、家が一戸建てであること、など大半が珍しく、それらを見ているだけで日々が過ぎてゆく感があった。

一方、埼玉のマンションは関東平野のただ中にある鉄筋14階の集合住宅だから、視界はほぼ360度が見渡せ、基本的に平地ばかりであり、ベランダの小さなものを除いては目の高さに木が見えることはない。土もむろん見えない。周りには人がぎっしり住んでおり、駅には3分で、駅前スーパーにも駅にもいつも人がおり、電車は地下鉄乗り入れを含め数分おきに来て東京と直結している。

それぞれの差に驚き、面白がり、そして同時に二重生活にかなり戸惑い、くたびれる面もあった。面白いということは緊張することでもあり、疲れも生じるのだ。歳をとると慣れぬことが煩わしさともなる。それに昔から言う通り「かまどを分けるのは何かと不便で物要り」でもある。

だが、一年もするとそれらにも次第に慣れ、移動時に見る列車からの風景もチラと見ただけでどことすぐ分るようになり、時間のうまい使い方も見つけ、ロスや疲れは減っていった。言いかえると、多くが日常化し、その分新鮮さ・珍しさも減っていった。

そしてこのごろ、また少し違う感覚が出てきた。二つ家があることが、煩わしさより恵まれたよきことと感じられるようになってきたのである。小諸の家だけでは静かすぎ遠すぎて困るし、マンションだけにずっと死ぬまでいるのかと思うと、正直ごめんである。

相変らず少々くたびれはするが、二つの場所を行き来するのは丁度いい、面白いし、精神の新鮮さ保持に役立つ。そんな気がしてきた。移動のルートもちょっと変えてみたり、信州での行動半径も広げてみたりすると、まだまだ新鮮でもある。

いささか困るのは旅をする気がだんだん減ってきたことだ。若いころから一種の旅人間であったのに、これは大きな変化だ。さてどうするか、当分思案し続けることになろう。


11月16日 2日連続の焚き火

昨日、敷地内の整理第1弾として、この2年近く積みっ放しにしてあった柴の一部を燃やした。よく乾き、パチパチと音たててよく燃え、面白かった。

焚き火が楽しいものとは子供の時から知っていたから、これは今後週1回の行事にしようと思っていたのだが、今朝になったら庭掃除のついでにまたやりたくなった。

だんだん慣れたから、場所もちょっと移動させ、火付けの新聞紙の使い方も無駄なく手際よく、ライターで指を熱くすることもなく、うまく進行し、連れ合いも参加して早速焼いもを試み、という具合で、いい歳をした夫婦二人が午前の2時間近くを焚き火に費やした。

おそらく今後もちょくちょくすることになろう。柴はまだたっぷりある。


11月14日 スーチーさん解放、ホッとはしたが……

これからも闘い続けねばならないことを考えると、彼女もビルマ国民もつくづく大変だと思う。スーチーさん65歳、もう隠居したいだろうなあ。でも、同世代の私は20年前から彼女の顔を見てきたが、まだまだ若く感じる。キリリとしているのは負けじ魂だろう。

新聞写真などでスーチー家の門などを見ると、数年前のビルマ訪問時に、渋るタクシー運転手を口説いて2台目でやっと承諾してもらい、スーチー家の前を「まっすぐ前を向いていること」を条件に心もちゆっくり通るだけ通ってもらったことを思い出す。長い塀は厳重で門は脇に警備兵詰め所があって閉じられていたが、それでも塀の上にはNLDの旗や幕が掲げられ、屈していないと感じさせた。

ビルマはどこへ行っても日本の昭和20年代くらいの印象で、静かで牧歌的だった。ビルマのイギリスからの独立闘争には旧日本軍の存在が大きく、アウンサン将軍を始めビルマ軍創設メンバーの多くは日本軍の教育・訓練を受けているため、軍も国民も日本人には好意的だったが、同時にその後の軍政の幹部たちは旧日本軍を模範として軍国主義を進めてきたともいう。

しかも日本政府は今に至るまで表向きは「民主化を求める」としながら、相変らず経済援助を続けて来た二枚舌というかずるい対応をしている。日本人としては旅先で好意を示されるたび、複雑な気持であった。

スーチーさんよ、疲れないよう、体に気をつけながら、しかしやはり命をかけて闘ってほしい。


11月12日 ミャンマー軍政め

もう批判していてもどうにもならない。どうすれば倒せるかだが、これがまた悲しくなるほど難しい。旧日本軍に学んだやり方は要するに日本の戦前みたいな軍国主義状態なのである。ということは、外国軍によってしか倒れないかもしれない。

似た状態が北朝鮮の「先軍政治」とかいう奴だが、つまり軍国主義の言い換えだ。いま世界で最も軍国主義である国がこの二つだろうが(他にもあるかもしれないが私はよく知らない)、その後ろ盾は両方とも中国であることも何事かを語っている。

つまり、中国も本質においてそうなのだろう。共産党独裁、軍も共産党の「党の軍隊」である人民解放軍のみなのである。国の実態は資本主義そのものなのに。国家の基本が大ウソで成り立っている。

3カ国とも権力が倒れるためには軍の分裂あるいは反逆が必要であろう。自壊をじっと待つしかない。ビルマ人も北朝鮮人も、中国人の心ある人々も、みなそれをじっと待っているだろう。



11月8日 今日は菊を植えた。

粗朶も燃やそうかと思ったが、周りの木にまだ緑葉も多いし、どうせならもっと寒い日の方が焚き火は楽しかろうと、延期した。

懐古園の菊花展は昨日で終了。見納めておこうと3時半に行ったらもう一部の搬出が始まっていた。菊人形は「孔雀」が搬出され、「雷電」はまだあった。終るとなると名残惜しいので30分かけて一つ一つゆっくり見まわると、「長寿賞」というのが2点あり、いずれも88歳の方のものだった。おそらく菊作り何十年であろう。

日本には菊師ということばもある。上田秋成の『雨月物語』中には「菊花の約」もある。菊作りにかける者の生きざまと美学が伝わるいい作だ。

我が家の西側から斜面林を下りて千曲川の方へ向っていくと、森を抜けたところに見晴らしのいい段々畑や棚田があるが、そのうちの2割ほどが菊畑で、きれいな花つぼみと香りが広がる。

それらの影響もあって、我が家の庭にも少しづつ菊が増え、かなりの量が咲いている。いずれも近所でちょっと頂戴したりしたのを植えたり挿木にしたものがもとで、もう4種類になった。赤紫系が主である。



11月6日 やはり寒い、が美しい

今朝の小諸は車のフロンガラスが凍ったほか、庭や周辺も霜で真っ白。里芋の葉も半分枯れかけた。

代りに紅葉が一段と進んだ。昨夜通った懐古園の紅葉平は照明のなかでもみじが赤、黄と実に鮮やかだった。今朝の我が家周辺も桂が完全に黄色で美しい。今年植えたばかりのブナも黄葉、姫シャラは紅い。

遠い白馬連峰は真っ白である。



11月4日 夏物整理・クリーニング第1弾

今日、大学が学園祭後片付け休講なのを利用して、マンションで夏物整理に取り掛かった。暑く長かった夏のせいでアンダーシャツ類は汗で黄ばんでいる。これを漂白剤に浸ける。

夏のジャケット類やズボン、オープンシャツなどはクリーニング屋へ。むろん未整理のものもまだあるし、小諸の方にも同量程度がある。両方で整理し終るにはもう1、2日はかかるだろう。

寝具も前回毛布やタオルケット、シーツ類などを洗濯したが、もう1回は必要だろう。

替って下着から上ものその他まで冬物がいよいよ登場してくる。東京界隈はようやく秋本番の段階だが、小諸は今日明け方は零下3度、車のフロントガラスが凍ったそうだ。両方で秋・冬物を使い分けねばならない。体もそれに慣らさねばならない。

この前まで夏だったのに、今年はまことに転変が早い。血圧とか体調管理も難しい。皮膚科や内科のかかりつけ医院へも行かねばならないが、皮膚科は木曜定休だし、この時間調整がまた結構大変だ。

それでも明日は小諸へ帰ろうと思う。進んでいるらしい紅葉と冠雪した山景色を見たいからである。


11月1日 記憶なし

ノートに日記をつけていて気付いたが、1週間前何をしたかということが思い出せない。とりたてて言うほどのことがないからとも言えるけれど、それにしてもだいぶ考えてもろくに浮ばない。

明らかに老化のせいだろう。3日前には、玄関のカギをかけて出たかどうかが不安になった。出がけに鞄等のほかゴミ袋を提げて出たところ、廊下端に傘を干していたのに気付きあわてて取り入れたりしたため、どうも忘れたのではという気がしてきたのだ。こういうことは60歳を過ぎたころからちょくちょくあり、結局はちゃんとカギはかけてあったことが殆どなのに、気になりだすとやけに気になる。

で、学校に着いてからお向え宅に電話して「申し訳ないけどちょっとうちの玄関を見ていただけませんか」と頼んだ。結果はちゃんとカギはかかっていた。ホッとしつつ、他人様まで巻き添えにするのは初めてだなといささかおのれを悲しんだ。

さいわい仕事関係ではさすがにそういうことはまだないなと慰めかけたが、はっと気付いた。去年春ごろ、間もなく出す本の打ち合わせを編集者と決めた時間が、大学の授業時間だったことがあったのだ。まだ春休み明け2回目の授業だったからいわば体が忘れていた感じだったが、それにしてもだいぶ慌てた。

どっちも理由はそれなりにあるものの、若いころはそんなことはなかったから、やはり老化と考えざるを得ない。10日分ほどの日記のまとめ書きに「記憶なし」とする日の数が増すと、数年後ひょっとして自分の日記は大半が「記憶なし」という記述で埋まりはせぬかと、相当恐ろしい思いをした。


10月31日 里芋その後

10月25日の日記に収穫をどうするかと書いたが、今日、1株を掘ってみた。

1株だけにしたのは、この間の寒さにもかかわらず葉が少しも枯れず、なんだかまだ成長中みたいに見えるから、収穫すべきか迷ったのである。が、霜の直前に収穫すべし説もあるから、とりあえず一番葉が大きく育っているものを掘ることにした。

結果は子芋はだいぶ大きいが孫芋はかなり小さく、ちょっと早かったかなという印象だ。それでも全部で30個ほどはあるし、採りたてはきっとうまそうな気がするから、自家消費するには頃合かもしれない。

そうして、なくなったころ次のを掘ろう、という目算である。もちろんそれまでに霜枯れしてしまえば急いで掘るけれど、案外緑の葉はもちそうな気がする。

いずれにしろ今晩は新芋煮だ。柚子を添えるといいのだが、ここらには柑橘類は殆どないのが残念である。



10月30日 紅葉まつり

我が家の庭や周辺もだいぶ色づいたが、御近所の懐古園(小諸城跡)では〈紅葉まつり〉なるものが開かれている。馬場では大きなテントが何張も張られ、菊花展も開かれている。

昨夕帰宅する際、すっかり暗くなった園内を通ったが(夕5時以降は無料開放となる)、あちこちに照明がつき、紅葉平(正式には紅葉ガ丘だが、平たいので私たちは平と呼んでいる)には地上から上向きの照明までがぐるりとつけられていた。

菊のテントにも中で保温用の電球提灯がずらりと吊るされており、提灯の赤い柄が映って風情がある。途中、散歩中らしい知り合いの母娘とすれ違う際も、ほの暗さとまわりに気をとられていたせいで気づかなかったほどだ。「こんばんは」と声をかけられ初めて気がついた。

今日は台風のせいで一日かなりの風雨らしい。今も黄色のアカシアや桑、欅の葉などが音たててるように一面に飛んでいく(家は防寒用に壁も窓も厚い作りなので音もあまり聞こえない)。昨日は零下の気温だったそうだし、これで台風明けには視界はがらりと変っているだろう。


10月25日 里芋の収穫はいかがすべきや

1、時期:薄霜1,2回後葉が少し枯れたころ説と、霜直前説がある。温暖地と寒冷地で違うらしい。信州の場合どうすべきか。

2、鍬が必要か:どのサイトを見ても、「鍬を畝横から深く打ち込む」なぞと書いてある。が、小生は子供のころ鍬を使って危うく足指を切りかけたことがあるし、プロの百姓衆が足の親指をざっくり切ったのを見たことがあるため、鍬が怖くてまだ買ってない。スコップで出来ないかしら?

小諸は明日あたり霜らしい。予想最低気温2度C。今日は朝まで雨少々。さて、どうするか?


10月23日 寒い

今日、小諸に帰ってきた。外気は今13度くらいか。明け方前は6度だったらしい。さっきまで畑や庭に水やりをしたり、トマトや椎茸を収穫したりしたが、夕食は鍋にでもしたいような気分だ。酒も燗酒にしたい。

徒歩3分の懐古園は今日から紅葉祭りだそうだが、さすがにもみじはまだいまいちである。赤や黄はそこここにあるが、鮮烈さがない。そうなるためにはもう一段階グンと冷え込みが必要だろう。霜まであと1週間か。

がまあ、今宵はともかく人肌燗でゆるゆるやろう。東京とか学校はやはり疲れる。林の中はいい。


10月19日 田村志津枝『初めて台湾語をパソコンで喋らせた男』(現代書館)

まだ読んでいる最中だが、今日の朝日新聞一面に書籍広告が載っていたので、途中感想を一言。

タイトルは専門的な感じがするが、内容は長年台湾に取り組んできた著者(戦時中の台南生まれ、台湾映画の紹介や台湾関係の著書7冊)と、台湾で一番親しい友人にして20数年たった一人で台湾語辞書(なんでも言葉を入力すると台湾語の喋りとなるらしい)を作った個性的な台湾人の交友記的物語である。

台湾は7割強の本省人(いわゆる台湾語を母語とする人々)と2割の外省人(第2次大戦後蒋介石の国民党軍とともに大陸から移住、占領者となった北京語を話す人々)によって主として構成されるが、本省人はかつては日本語、ついで標準中国語(ほぼ北京語)を国語とされたため、自分たちの言語による統一表記法を持たない不幸な状態にずっと置かれてきた。

つまり、家庭では台湾語を話し、学校(小学校以降全部)では標準中国語を使用、書き文字は標準中国語という宙ぶらりん状態だったのである。

ゆえに台湾語表記、そのための方法と辞書は台湾人たちの存在証明にかかわる悲願だったわけだが、それを成し遂げたのはまったく在野の、いささか変人にして愉快な台南人(南部は台北など北部とはだいぶ気質が違う。ヨーロッパに例えればラテン的なのである)だった。

その20年以上にわたるやりとり、交流、フシギな辞書の出来具合、そして日本・台湾の植民地第2世代による台湾とは何か、植民地時代とは何だったのか、国家とは、民族にとって言葉とは、といった問題を掘り下げるのがこの本だ。

私の連れ合いの最近刊です。皆さん、よろしく。



10月17日 コーヒーの淹れ方、ファッションショー

昨日、街へ昼食を食べに出たあと、界隈で出会った知人複数が相次いで「今日は相生町でコーヒーの淹れ方とファッションショーをやってますよ」とかなり熱心に勧めるのだった。

コーヒーの方は市内にある丸山珈琲店の社長(コーヒーの淹れ方関東大会?優勝者)が淹れ方教室をし、同じ場所で午後3時から5時まで20代から50代までの女性たちがファッションショーを行うとのことである。

教えてくれた人は楽しげに言うし、私はコーヒーはともかくファッションショーの方にちょっと気が動いたが、3時にはだいぶ間があったので、そのまま帰った。

が、帰ってから、やるのは素人衆だというし50代を含めた街のファッションショーとはどんなふうかとだんだん関心が湧いてきた。先だって地域の合唱団に知人の70代女性も加わっている話を当人から聞いたばかりだし、先週土曜にはゴスペル祭り、昨日はお寺でジャズコンサートがあったはずで、この辺りは実にいろんな催しがある。一つぐらいは実見しかばやと気が動くのである。

けれども、だんだん時間がたってもどうも体が動かない。失礼ながらなんだかアホらしい気分も漂い、わざわざ2度も街に出る気にならないのだ。

それで結局行かずじまいとなった。行った方がよかったかしら……。



10月14日 チリ鉱山事件

先ほどのニュースで、とうとう閉じこめられていた33人全員が地上へ生還と聞いた。実に嬉しいことで、いろんな意味で人間というものを信じていいような気になる事柄だった。

私は閉所恐怖症で、かつてトルコの地下教会跡カッパドキアに入っただけで体の奥底から恐怖感が湧いた記憶があるし、常磐炭坑の坑道入り口を覗いたときも、炭鉱労働者はすごいものだと思ったことがある。だから今回の件が起こってからも、テレビニュースで見るたびよく耐えていられるとつくづく感嘆していた。

そして中はいったいどんなふうか、尾籠な話だが、便所はどうしているのか、あふれ出て猛烈に臭くはないか、などと気になっていた。時間がたつにつれ、中の人の体が臭くなり、皮膚病も発生しているとの話も伝わり、さもありなん、自分なら風呂に入りたくて発狂しそうになるな、と思ったりしていた。

だから、救出が始まったときも、きっとふんぷんたるニオイと共に出てくるだろうと考えていたら、大勢の人や大統領夫妻までが平然と抱擁しあっているので、いい光景だと思いつつ、何か解せぬ感もあった。

あれは救出前に地下で体を拭くとか、防臭剤を振りかけるとか、衣類を全部換えるとかしたのかしら? 慶賀の念と共にやっぱり気になる。



10月11日 本拠地

昨日、小諸から諸へ歩いた。昔、東山道があり、すぐ上の飯綱山に富士見城があった地だ。小諸はいわばその子分格で、戦国時代以降主として近世に出来た城下町だ。小諸城も富士見城、鍋蓋城、乙女城に次ぐ4番目の城である。

その古い集落の銘水が弁天水で、滔々とわき出るそれは村内はもとよりあちこちから車で汲みに訪れる人が絶えない。酒造にも使われる。それを飲み、ついで近くの落ちた熟柿(関西ではずくしと言う)を拾って食べた。とろりと甘くうまい。

さらに少し歩き、道端のどう見ても誰も獲りそうにない(と思えた)柿を3個いただき(渋かもしれない)、りんご畑、キウイ畑、葡萄畑を眺め、南側彼方に広がる八ヶ岳、御牧ケ原等を一望しつつ、稲刈りのすんだ田んぼ道を下った。

棚田がうまく出来ているので、来年の田植え前にはここで田毎の月を是非見ようと思いながら、国道脇のマツヤでポカリスエットを買って飲み飲み帰宅した。都合2時間たっていた。いい散歩だった。


10月10日 朝雑感

小諸はだいぶ紅葉が進んできた。桜はほぼ赤い。桂はだんだん黄色くなってきた。山法師、シャラも赤い。

ヤフーの天気予報はまたしてもでたらめである。今日は夜なかからずっと雨のはずなのに、今や明るく晴れている。一体どの地点で、どういう測り方をしているのか。小諸は高度差日本一だから、場所によってはだいぶ違うのだけれど、街のあたりはほぼ同じ天気のはずなのに、全くなぜ……。

しかし朝6時半ごろはわずかに雨が降っていたおかげで、恒例の区内清掃は中止となった。半ばはこのために昨日のうちに帰諸、6時15分に起床して門前へ出たら、向うの方で御近所衆が両手で大きくばってん(×)をしていた。いやあ、ラクチン、ラクチン。


10月8日 視点

柳瀬川対岸の病院に工事中の4階建てらしい建物の骨組ができ、そこを工事職人たちが歩き回っている。ヘルメットに作業衣、ブーツといった恰好で資材を運んだり、時々火花を散らせる溶接作業をしたりといった具合だ。

否応なく目に入ってくるうち、なにか妙な、不思議な気分がしてきた。

しばらく考えてみた結果、どうやらそれは普段まず見ない位置で人が動いているおかしさではと思えた。1階から2階までの部分は遮断ネットようのもので覆われているし、2階部分くらいまではさほど違和感はない。

が、3階4階、そしてその屋根部分は、かなりの高さなのに全く覆いも外壁もないうえ、区切りも何もない広い所をすたすた人が歩いたりしているのである。考えてみればこういう風景はまず見たことがない。しかもそれを大分離れた14階の高さから見ているわけだ。

不思議な視点、不思議な光景である。今、屋根部分の上を二人が歩き、何やらごく普通の、彼らとしては日常そのものふうに話をしている。あ、一人は今その端から下を覗き込んでいる。危なくないか。怖くはないのか!

けれど何事もなく、声も立たず、すべて当り前らしく進んでいく。
ふーむ、面白いものだ。ひょっとしたら一人ぐらい落っこちても誰も騒がず、ただ場面から一人消えるだけではないのかと思える。


10月5日 新しいケータイ

長年auのプリペイドケータイを使ってきたのだが、1年期限カードが切れたのを機にパケット型新機種に変えた。

といっても機械はToshibaT003とかいうもので、なんとタダである。私はメールやネット類はパソコンでやるから(その方が字も画面も大きくはるかに見易い)、要するに電話が出来、ついでにまあ写真くらい撮れればいい。

ところが、動画まで撮影できるし、テレビも見られる。グローバルパスポートもちゃんと付いている(国に限定があり、ヨーロッパはダメだが)。NET設定すれば更にあれこれ出来るようで、便利になったなあとつくづく思う。

若者たちが電車の中でも学校でも、時には歩きながらまで使っているのも分る気がする。そして必然的に経費はかさみ、月に1万円前後もかけたりするんだろう。学生の場合、支払いは親という人も多そうだから、親は子供が2,3人いると大変だ。

私はメール・ネット類にロックをかけ、メールはCメールしか使わないから、安くてすむ。プリペイドとさほど経費は変らない。これで機械がタダとはほんとに信じられないくらいだ。理由は型が古くもう売れないとか、加入者を増やせば使用料で儲かるとか、商売的にはちゃんと理由があるのだろうが、新しいのは何万円もするというからなんだか妙な気もする。

商売や資本主義というのはそういうものだとは分っているものの、若者がなんとなく乗せられてやしまいかと少し心配にもなる。でもまあ、そうやってどんどん使う若者たちがいるから、ケチな大人は安くすむのかもしれない。

「卵」とニックネ-ムをつけていた白く丸っこい旧型は一気に薄手のしゃれた新型に変り、自分も急に近代化、若返ったような気分になったが、使用頻度が少しは増えるかしら?


10月3日 椎茸のほだ木をたたく

今日いいことを聞いた。いつもの刻そばのマスター古屋君が、「椎茸のほだ木は刺激を与えるため時々ハンマーで両端をたたき、水をかけておくと発芽が多くなりますよ。雷の音がきくから、同じようにするわけです」と言うのだ。

最初は「え」と少し驚いたが、彼の自宅は山家の半農家で椎茸なぞはいっぱい作るらしいし、ごく常識だみたいな顔でさらりと言うので、本当に思えた。雷の音というのはよく分らぬ気もするものの、何らかの外的刺激を与えたあとでたっぷり雨に打たれるのは、いいかもしれぬと思えるのだ。

で、私はかえって早速やってみた。今、ほだ木は以前の裏木戸近くの薪置場北から、西側低地の我が家で一番の木の茂み=一番陽のあたらぬ場所に移動してある。そして、そこでつい一昨日、ほだ木の一つに丸っこい椎茸が3本、かわいらしく芽を出しているのに気づいたのである。

ほだ木を買ったのは今年の春で、水はせっせとかけたが、結局収穫できた椎茸は5,6本だった。ゆえに不完全燃焼というか、たぶんに物足りぬ気分のまま夏の間はまるで芽も出ずだったから、今度こそと気が入る。

で、私は土付きネギなどを植えたり、やっと蕾の付き始めた菊の根元に害虫除けの除虫菊粉剤を撒いたり、わざと他の用を先に済ませた後、満を持して金槌を持ち出し、「カーン、カーン」とやった。

音はなかなか心地よくあたりに響き、ということは木が乾燥しすぎているのではとやや気になりつつも、音の良さと、椎茸のために木をたたき音を出す、という行為に何やら気分がよく、たった3本のほだ木を上端、ついで下端と、計6か所たたき続けた。

終り頃、音を聞きつけた連れ合いが家から微妙な笑いをしながら現れ、「ははは、やっとるな。ほんとに芽が出るのかしら?」と言い、自分もカンカンと低音に叩いた。

私は芽が出ると思う。


10月1日 10月である

後期の授業も軌道に乗った。オナゴの出席率がいい。4年ゼミ:オナゴ4人、オトコ2人。連句:オナゴ15人、オトコ1人。

オナゴは真面目とも、ぼつぼつ単位確保の計算をちゃっかり、とも言える。オトコはボーっとしている。まだ夏ぼけから覚醒していない。ひょっとしたら永久にしないかもしれない。就職もほとんど決まっていない。

一体どうなるのか。いくつか言葉が浮ぶが私は考えないことにしている。考えるとお互い気分が憂鬱になるから。それに私は学生より学生の親の気持の方がよくわかる。ああ、親が気の毒だ。

私は明日は小諸に帰って畑を手入れしよう。辛味大根やホースラディッシュ、エシャーレットなどがもうだいぶ育っているだろう。どれも辛味が売りだ。ピリッとしないものは面倒をみる気がしない。