風人日記 第三十六章
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蘇生の年
  2011年1月1日〜

2011年1月1日自宅近くの鹿島神社境内から撮影。
千曲川のダム。右が下流、布引方向。対岸の山は御牧ヶ原台地。





このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、2010年刊。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、下記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2009年刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


ミャンマー(ビルマ)、中国、北朝鮮での体制転換を望む

 昨年までこの欄には、ミャンマーやウイグル、チベットなどでの人権尊重を求める文章をずっと掲載してきたが、同種のものを続けることはもはや意味がない気がしてきた。それらの地域での人権侵害、抑圧、非民主の実態は何ら改善されないからである。

 ミャンマーにおいては形だけの選挙がおこなわれ、選挙から締め出したうえで終了後アウンサン・スー・チーさんを軟禁から解放したが、実態は軍事政権独裁そのものであり、自由や民主制が出来たわけでないことは誰の目にも明らかだろう。
 またウイグル、チベットでの中国官憲による暴虐も、ネットや外電で伝わるだけで枚挙にいとまがない。

 そして、それらの背後に「世界の大国」という中国政府の存在があることは明々白々の事実である。しかもその中国においては、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を機に「08憲章」署名者や周辺の民主派人士に対し軟禁等の抑圧が続いている。
 加えて中国においては、かねて「労働教養制度」なる不可解なものがある。これは政府や警察の意に沿わぬ人物を裁判や弁護士の弁護なしに最大4年間収容所で強制労働をさせるというもので、全国350か所で約16万人(08年現在)が収容されていると言われる。

 また不可思議な世襲金王朝による先軍(つまり軍事政権)国家北朝鮮では、政治犯20万人が強制収容所に収監されているとされる(2010年1月22日付読売新聞)。

 これらの事実を考えると、私はもはやこの国々では体制自体が根本的に変ることなくして事態の解決はないとしか思えない。
むろんそれは極めて困難で、おそらく多くの犠牲も生じる事柄だろうし、それぞれの国、体制権力の内部自身から大きなうねりが生じる必要があろうけれど、私は近隣アジア人の一人として切にそれを望む。

        
                  2011年1月1日
                      日本ペンクラブ獄中作家・人権委員 
                                          夫馬 基彦


                        *これより日記                      
3月31日 三月尽。原稿上がる。放射能値も上がる。

春かと思うと雪が降ったり、穏やかな春休みかと思ったら天下の一大事が起こったり、風ぬるんだと思ったら放射能が流れたり、しかしともかく締め切りを守れたのでホッとして、いま昼酒をそば屋で飲んできた。

いや、昨日、連れ合いが「末世だからこれからは遊び暮らそうか」と言ったせいである。「えっ、どうやって?」と聞いたら彼女しばらく間をおいてから自信なさげにいわく、「酒飲んで」。

御安い御用である。



3月28日 山国の春

予報と違ってだいぶあったかそうなので、先ほど少し近所を歩いてきた。遠景に北アルプスや白馬連峰が純白に見え、間近の木々は芽が膨らんでいる。辛夷の蕾はずいぶん大きくなった。東京ではもう咲いていたけど、こちらではこれからだ。

郵便物を出したついでに、近くの山王社に向って柏手を打った。我が家の近くには大きな鹿島神社もあるが、私はこの山王社の小さなやしろが好きで、近くへ行くたび道路際から横着して柏手を打つことにしている。夏の祇園まつりにはこの社から賑やかな神輿が出る。その姿がいつも頭の中でダブっている。

我が家の庭はいま芽吹きでいっぱいだ。水仙はもう10数むらになったし、クロッカスが2輪咲き、ジャーマンアイリスのナイフのようなすきっとした若葉は多分全部で50本はあるだろう。去年人から貰ったのを植え付けたのだが、ひょっとしたら多すぎたかもしれない。まあ、咲くまで待って対策を考えよう。

先週までに消石灰を撒いておいた畑は、気のせいかしっとりしてきた。ここらは酸性が強い土地が多いらしく、1,2回ではなかなかアルカリ性にならないと御近所衆に聞いたので、4月中にもう一度撒こうかと思っている。土中の酸性度を測定する機械がちゃんとあるそうで、ホームセンターで3,4千円で売っているという。買おうか買うまいか。ついでにガイガーカウンターもほしい気もするが、こっちは一桁高いらしい。ただし、ホームセンターには多分ないだろう。アメリカではスーパーで売っていたりするそうだけど。

でも、買わない方がいいかもしれない。あれば測るし、測れば気になる。気になってもせっかく家を造ったばかりのここを動く気はない。致死量級の放射能が流れてくれば話は別だが、10年後くらいに癌発生率が高くなる程度の量なら、私は避難する気などない。どのみち余命はそのくらいでいいと思っているから。

私は近来の日本のあまりの長寿社会ぶりはいいと思っていない。昔は77歳の喜寿を祝い、80を超えた人が出ると村じゅうで尊び敬愛したものだが、今は掃いて捨てるほどいる。高齢者自体が悪いわけではないが、こういうふうに高齢者がやたら増えた社会がいいとはどうも思えない。個人としても私はかねがね77歳から80歳くらいまで生きれば結構と思ってきた。

それまであと10年から13年だ。私は気に入った家と庭で、草木の芽吹きと花を見つめ、畑を耕し、雄大な山々の変化(へんげ)を楽しんで、それだけ生きられれば十分だ。

ありがたい春である。


3月26日 学科卒業式終る。いささか淋し。

25日は毎年の卒業式だが、今年は武道館での全学卒業式も江古田での学部「卒業生を送る会」も中止となり、ただ一つ午後1時からの学科ごとの学位授与式のみが行われた。

今年は日頃なじみの場所でということで、5階文芸科フロアのロビーに机椅子を入れて行った。部屋が横長すぎるし、真ん中に柱があったりで、正直使い勝手はかなり悪く、恒例の全員記念写真も外に出て北棟の野外階段で行ったため、移動の無駄な時間がかかったりでやや落ち着かなかった。

大ホールでのパーティーがないのもやはりさみしい。というかあのガヤガヤした場が例年は卒業生同士のみならず教員と学生との交流の場にもなっていたのだと改めて認識した。あそこでビールを飲みながらボウと立っていれば、文芸科生はもとより他学科生でも大学院生でも、知っている学生は「せんせい!」と任意に寄ってきて、挨拶し合ったり、写真を撮ったりできた。それで就職先や卒業後の行く先を知らされることも多かったのである。

つまり私は文芸科のみの教師ではなく、芸術学部の教師であり、大学院の教師であることを実感として感じられたわけだ。
それが今年はなかった。行われる年が多かったゼミ飲みも今年はなかったので、記念写真撮影後、外は寒いせいもあって研究室に戻ったら、そのまま卒業生たちとろくに顔を合わせることもないまま終ってしまった。

院進学者やマイミク諸君など何人かは今後も接しられるが、その他の多くの諸君とはもうめったに動向を知ることもなくなるだろう。何となく残念だ。せめてゼミ飲みをやるよう勧めておけばよかったと若干後悔した。
卒業生諸君、メールくらい時々寄こせよ。


3月23日 カダフィしぶとし、梅は咲く

カダフィ軍は地上ではまだ攻撃を続けているらしい。彼はもはや逃げることなど考えず、徹底抗戦、息子たちを司令官とする自軍と心中するつもりかもしれない。「十字軍に抵抗しての殉教」と異様な精神的高揚のさなかでさえあるかも知れぬ。面白い男だ。息子たちも体質を遺伝で受け継いでいるのか、それとも父への敬愛か。世の父親の模範である。

庭の枝垂れ梅は連日の寒さにもかかわらず、ついに3輪ほど咲いた。小さく、遠慮がちだが、鼻を近づけるとちゃんと梅の清潔な香がする。昨夜も夜なかにビニールをかぶせようかと一旦外に出たが、風が強くビニール袋の容量分かえって風圧が増し、苗全体が揺れそうなのでやめた。今朝、真っ先に見てみたら、判断は正しかった気がした。梅一本育てるのになかなか頭も体も使う。だが、放射能対策で使うよりよほど気分がいい。

今朝は東南側の一畝をおこし、消石灰を撒いた。土壌改良、放射能防止(?)、かき菜生産のためである。



3月22日 リビアと梅の若枝

リビアはたった一晩でカダフィ軍の空からの攻撃は止まったようだ。カダフィの邸宅近くも爆撃されたようだが、近くではなくそのものを粉砕すればよかった。そうしなかったのは警告としての「恐怖」を与え、停戦ないしカダフィの国外逃亡を促そうということか。逃亡先はジンバブエとかベネズエラなどいくつかあるだろう。

今朝起きたらまたしても一面の銀世界だった。おまけに雪は朝食後もまだ降り続いていたので、私はダウンコートを着込み、大きめのビニール袋を持って外へ出、数日前植えた枝垂れ梅のつぼみ付き若苗にかぶせた。ビニールハウスとは行かぬけれど簡易防寒策である。目下私は毎日この梅がいつ咲くか、寒さでしおれはせぬかが最大関心事である。梅に放射能が付くかなぞは全く考えていない。そんなものは梅のかぐわしい香が優雅に振り払ってくれるだろう。

さて、雪がやんだので土の乾き具合を見て農作業を始めるか。


3月20日 1、ややホッとする 2、かなりホッとする

1、@消防庁の放水成功。具体的数値等はまだ定かでないが、「命中を確信」という消防庁隊長の言は信じられる。あの人たちは嘘を言う顔ではない。
A電源が復活、本来の冷却開始のメドがついたらしい。

2、リビアでカダフィ軍への仏・英・米による空爆が始まった。欧・米による圧倒的軍事力の行使には今一つ複雑な気分だが、ベンガジへのカダフィ軍攻撃が間近だったことを思えば、とにかくほっとした。



3月18日 政府も東電もテレビニュースも消防庁も、どいつもこいつも…

昨日午前からずっと、おそらく数十回も自衛隊ヘリから原発3号機へのあの海水投下映像を見せられてきたが、アナウンスもコメントも自衛隊も政府関係者も誰一人「投下の大部分は外れて飛散、目的個所にはおそらく1,2割も到達せず」ということを言わない。それこそ誰が見ても明らかな事実をだ。

昨日午後4時ごろ、警視庁の対デモ用放水車が「放水開始の予定、周りの職員等に退去呼びかけ、準備中」などと言いながらついに3時間たっても何もせず、7時半ごろになって「放水が届かずすでに撤退していた」ことが判明した。しかもこれに関しても誰も見込み違いを認めもせず。

放水に関しては最初から、消防車の方がよくはないかという意見が一般人の間からさえ出ていた。私も過去の体験からいっても機動隊放水車より高層ビル用の消防車の方がはるかに良さそうに思っていた。そして、その通りだった。午後7時半ごろから始まってある程度成功したらしい放水は陸自消防隊によるものだったし、今日は消防庁の高層ビル用放水車が初めて投入されるらしい。そんなことを今まで「専門家」と称する連中の誰も気づかなかったのか。

またけさ、NHKニュースを見ていたらまだ昨日午前のヘリコプターからの投てき場面を繰り返した上、「ヘリの床にはタングステンが敷かれていました」と何食わぬ顔で述べていた。昨日までは何十回となく「鉛」と言っていたのに、変更に関する何の説明もエクスキューズもない。自衛隊が嘘を言っていたのか、関係者もマスコミも何の確認もウラもとっていなかったのか。

こういうふうだから、政府や東電やテレビの情報を信用できなくなってしまうのだ。避難民の人たちがインタビューに「正確で速い情報が一番ほしい。情報が一向わからない」と述べていたが、その通りである。世の中全体が何を信じていいか分らない。本当のことを言っていても怪しいような気がしてくる。

「外国メディアが日本と日本人を称賛している。日本人は秩序正しく、実に我慢強い」などと言ったことを日本のマスメディア自身が嬉しげに述べ立てているが、日本人は自立性に乏しく、自己主張もろくになく、他人任せ役所や権威(とされるもの)任せで、曖昧で無責任、とも言えよう。外国は一方では、アメリカは早々と爆心地から80キロ外へ退避、フランスなどいくつかの国は日本から自国民の出来るだけの退去を決め、韓国や中国からは「日本は地震国のくせになぜあんな場所に原発を造ったのか。近隣諸国にも迷惑だ」的な発言もあるという。

外国のみならず日本国内でもすでに何年も前から、「チリ地震津波級のものが起ったら、福島原発の冷却機能は破壊され重大事態が生じる。東電はその対策・防護処置を作れ」という指摘がなされてきたのに、東電はそれを拒否してきた事実もはっきりしている。今回それに対し東電責任者・政府原子力関係者から謝罪・自己批判がなされたこともないのではないか。

ニュースを見るたび苛立つのはこれらのことが次々に出てくるからだ。はっきり言うが、日本人、ことに組織の上層部にいる連中の多くは信用するに足りない。命がけで働いているのは前線の作業担当者たちであって、幹部はほぼ全員郡山(東電)や東京(政府等)など安全地帯にいるだけである。



3月16日 苛立たしいから畑を作る、そして…

テレビをつい見続けてしまうが、見れば見たで東京電力社員、東大教授の半ば以上、マスコミのありよう、等にいらだってくる。そりゃあ初めての事態だし、いろんな事情もあろうし、いつもいつも気のきいたことを言ってはいられないだろうが、しかし苛立つ。

ゆえに私は畑を耕し、土質改良のために消石灰を撒き、春の香りをかぐために枝垂れ梅とグミの小さな苗を買ってきて植え、夜中の寒さが心配で夜8時ごろ苗の根元に枯葉と藁を敷きに出、昨日の日中は強風が心配で支柱を立てた。

今日はここ小諸ではさっきから雪がぱらついたり風が吹いたり、お天気さまもいささか苛立っているようだが、それでも畑はやがて新しい野菜や食べ物を育んでくれるはずだし、木は葉と花を見せてくれるだろう。自然の猛威によって思わぬ災害が起ったけれど、再建・回復も自然と共にである。

放射能だけは厄介至極だが、関東や東北5千万人が避難するなぞ事実上不可能だから、まあ飛散放射能量の情報と屋内退避などささやかな防護策を念頭に、言ってみれば一蓮托生、運を天に任せて、心静かに自然との共生を図ったほうがよろしかろう。

私はもう67歳、今更じたばたする気にはなれない。若い人はそうもいかぬだろうから、一緒にいると心安らぐ人と顔を合せ寄りあって、うまいものでも料理して食べるといいだろう。酒もいつもよりちょっと上等のものをゆっくり味わうといい。うまいものですよ。


3月14日 津波と放射能が一番怖い

今回の大震災の結果分った一番恐ろしいものは、1次的には津波で、2次的にはその結果不具合になった原発からの放射能拡散、であることがはっきりした。

津波に関しては南三陸町の1万人安否不明が象徴的だ。想像するだに恐ろしく、本当に本当に声も出ない。

原発の件は何やらあれこれ苛立たしい。「想定」の範囲を超えていたという説明も、いわゆる「理科バカ」か「逃げ」かと思われるような分りにくい説明も、結局今後どうなるか一向わからぬ予測も、もし放射能が東京方面まで拡散することになったらどうしたらいいか(多分何もなせぬのではと思える)ということも、万事が苛立ちの原因だ。関係者だけを責めてもしようがないことは分っているが、それにしてもものの言い方が不明確すぎないか。

これで民主党政権が延命したなとか、東京知事選や地方選なぞどうでもよくなったとか、春の到来を待つ本来心楽しい気分もどこかへ行っちゃったのも、すべてあの数分の大地震、人知を超えた自然現象のゆえだったわけだ。

ふーむ。嘆息あるのみ。



3月12日 日本列島は急に地震活性期に入ったのか

昨日の揺れは小諸にいても大きかった。机を抑え、電燈の傘を抑えてまわり、それでもまだ続いた。テレビをつけると、宮城の釜石だったか、津波で押し流されてゆく車や家がライブで見ている感じになり、これは地震後の方が怖いと思った。津波の中で火災が起り、炎が上っていくのが不思議にさえ思えた。

千葉・市原の石油基地火災は、小学生時代に起った四日市の大協石油火災を思い出させた。石油タンクが次々に爆発炎上していき、火は何日も止まらなかった。あれと似た状況の気がする。

一番危惧するのは原発だ。放射能漏れが既に通常の1000倍の報もある。
津波も原発もかねて予想されていた通りなのが、何か釈然としない。コンテナの管理や原発の対策など、もう少し可能だったんじゃないかしら。

それにしてもこういう大災害の時は、たいてい海辺や山間の住人が一番被害を受ける。沈黙せざるを得ない。

加えて今朝も長野発の地震が相次いだ。昨日のよりは軽かったが、太平洋岸だけかと思ったら内陸までとなると、日本列島全体が何か鳴動し始めたのかと不安になる。これで終りという感じがしないのだ。当分、次はどこかと思いながら暮さねばならぬ気がする。



3月9日 新聞なしにすっかり慣れた

私はこの1週間ずっと一人で埼玉のマンションおよび時には大学にいて、今日小諸に帰った。その途次、電車に乗っていて何か手持無沙汰なので、乗り換えの武蔵浦和駅で新聞を買った。そしてふと気付いた。

この1週間全く新聞というものを見ていなかったことに。小諸の家では朝刊だけはとっているが、埼玉のマンションでは2年前から配達の新聞はとっていない。ニュース源はもっぱらテレビとネットである。テレビはNHKとBSの海外ニュースが多く、ネットはmixiニュースとYahooニュース、つんどくニュース、信濃毎日ニュースなどである。

これで十分なのだ。殆ど不足は感じないし、ネットのニュースは朝・毎・読・産・共同・時事などからのピックアップだから、新聞1紙だけをとっているよりよほど間口が広い感さえある。テレビも地デジはコマーシャルがうるさいからもっぱらNHKにしてしまうが、BSの場合はABC,CNN,中国新聞、コリアなんとか、ドイツ、フランス、オーストラリア、スペイン、アルジャジーラ、アラビアなんとか、ロシアほかとまことに幅広くまさにインターナショナルに見ている。

両方見ていれば、ニュースに関してはまず十分な気がする。活字の新聞には文化欄があるのが特色ではという気もするが、たまに駅売りの新聞を買っても実はあまり大した記事もないことに気づく。かつて朝刊ばかりか夕刊までとり、1面から文化欄、夕刊の誰かの署名エッセイの類まで熱心に毎日読んでいたのは一体何だったのか、ひょっとしたらあれは単なる習慣で時間の無駄、しかもそれが特定の1紙だけだった場合、知らず知らずその新聞に相当影響されていたのではないか、なぞとも思えてくる。

まだにわかに新聞を否定する気もないが、とにかくたった2年で自分のニュース源、メディアへの感覚、新聞の重要度、特に朝日新聞への依存度は大幅に減ったと痛感した次第である。


3月7日 二温数寒だ

あったかかったのは二日だけで、もうみぞれの寒さとなった。ずっと降りしきっている。外へ出る気になれない。

明日は第2期の入試だ。受験生のためにも雪なぞ降らぬことを望む。



3月5日 三寒四温

今日から少し暖かくなりそうだ。南側の部屋は陽光で随分温度が上がっている。書斎からパソコンを持って移動した。



3月3日 寒い、実に寒い

東京界隈へ来れば暖かいかと思っていたが、昨日も今日も空っ風が吹き、寒い。晴れてだいぶ日が照っているのに、空気はピリッと冷たい。

明日の明け方前は零下の予報さえ出ている。一体どうなっているのか。小諸の方は終日零下、明日明け方は零下10度だそうだ。厳寒そのものである。せっかく出てきた草木の芽はどうなるのかと心配になる。


3月1日 いよいよ三月、春頭所感

一、カダフィは面白い。稀有の人間である。ヒトラーもあんなふうだったのかしらとチラと思う。違うような気もするが、彼を見るのがだんだん楽しみになってきた。むろん肯定的意味ではない。

二、小諸では昨日雪がだいぶ降ったけれど、すぐ融けた。やはり春である。木や土はかえって生気を得たようだ。

三、小諸在住も丸二年を過ぎ、色んな意味で落ち着いたので、何年ぶりかの新作シリーズに取り掛かる。信州を素材にした半エッセイ的小説。連作短篇として一回三〇枚ほど書いていくつもり。

四、午後、畑を耕すことにする。従来は午前中にすることが多かったが、午前は文章を耕す。どちらもカルチャアである。

五、気候も良くなるので、信州内でやや遠い所へも出かける。ゆるやかな取材を兼ねての楽しみである。


2月27日 天狗湯

昨日、浅間山5合目の天狗湯に入った。行くまでに無舗装道路を4キロも揺られるので、積雪具合を含め心配だったが、雪はちゃんと除雪されていた。ぬかるみは相当で、浅間山荘に着いたら車の脇側は泥はねでびっしりだった。

だが、標高1400メートル、一人きりの濃いオレンジ色の湯は、陽光にゆらゆらしていてきれいだった。湯温も熱からずぬるからずで実にいい気分。湯あがりに干し無花果をつまみにスポーツドリンクを飲んだ。

帰路は殆どアクセルを踏まずのんびりと坂を下った。夜はまたしても早寝となった。


2月24日 Facebookは効用ありや?

しばらく前に友人の誘いでFacebookに登録した。まもなく複数の別の友人も入ってきた。一様に、世界とつながりたいから、といった理由だった。私も同様に思っていた。

だが、日本語で書き、勧められる履歴(出身校名、居住地、出身地、勤務先など)を書いても、「友人」申し込みがくるのはもともと知っている人が大半である。知らない人もいるが、出身校つながりなぞでは同窓会的になるだけであまり面白くもない。

それで気がついた。世界につながるには英語なり中国語、アラビア語などで書かなければ無理だ、履歴やプロフィールも世界につながるものでなければ意味がない、日本の出身校なぞ書いてもしようがない、等々。

だが、そうやって全く知らない外国人と「友人」とやらになったとしても、要するに少年時代はやったペンフレンドと同じだ。つながるとしたら、あるいは「革命」とつながるためには、理念・主義主張で連帯しなければなるまいが、それを外国語でいちいち見知らぬ相手と確かめあうのは極めて面倒な上、そもそもできるか否かもわからない。

実名主義と聞いていたが、それはあくまで建前で、ニックネームふうもいっぱいいるし、第一本名かどうか確かめようもない。

というわけで、Facebookなるもの、日本語中心の日本人にはあまり意味がない気がするがいかがかしら。


2月21日 萌え

近頃の流行語ではない。まさに伝統、自然そのものの萌えを今朝確認した。敷地内の雪がほぼ9割融けたので、雪の下だった場所を点検して歩いたところ、あったあった。

水仙の芽が30本ほどしっかと5ミリほどの緑の指を出し、その向こうにはもっと細い、だいぶ後で白い小さな花をつける草が群をなして芽吹いている。

半月ほど前から待望していた新春の芽ぶきである。いやあ、これで毎朝庭をまわるのが楽しくなった。


2月20日 朝鮮にんじん湯はほんとによく効く

昨日、久々にお隣の旧御牧村にある御牧の湯に行った。
ここには小さい湯船だけど地元特産の朝鮮にんじんをくぐらせた湯があって、これが香りよくポカポカ温まる。

あつ湯の時もあって長湯するとのぼせたりもするが、昨日は丁度よかった。湯船に一人だったからのんびり浸かって5時ごろ帰宅した。すぐビールを飲み始め、夕御飯を済ませて7時のニュースを見ていたら夫婦ともいつしかうつらうつら。

7時半に連れ合いが起ちあがり「あたしもう寝る」と言って、ほんとに引っ込んだ。私はさすがにまだ早かろうと書斎に上がってメールやネットなぞ点検し、若干書見をしたが、やはりうとうと、ついに9時前にダウンしてベッドにもぐりこんだ。

今朝目覚めたのは午前7時丁度。実に丸10時間の睡眠であった。温泉のせいとしか思えない次第である。



2月18日  雪かきをも一度したし春の雨  南斎

昨夕小諸へ帰ったら、案外暖かいと感じた。いつもなら駅に降り立った途端、ビンと全身が引き締まる感じが、なかったのである。

今朝、目覚めたら外は小雨で、だいぶ長く降ったらしく、雪がずいぶん融けていた。ウームと眺めていたら、連れ合い曰く「これで雪かきはしなくていいけど、景色は白い方がよかったわね」。全く同感というか、私個人に関しては雪かきもしたかった気がする。たまの雪かきは私には珍しく、かついい運動だったのだ。

なお、南斎は30年使っている俳号です。


2月14日  坂街の雪融けそむや昼の月  南斎

上五を「城町の」にしようかまだ迷っている。そうすると城が見えると想われがちな気がするから、坂街ぐらいがいいかなと思う次第なのだが……。

句想が出来たのは街場の坂道だったし、もともと小諸にはだいぶ以前から城はない。城跡の町なのである。昨日、家を出て雪解け模様の道を旧足柄町から北国街道へ向う折、真っ青な空にうっすら昼月が出ていたのが印象的だった。


2月12日 慶祝エジプト革命

ぼつぼつ限界点かなと思っているところへ、ムバラク辞任、暫定体制発足の報が入ってきた。2週間以上にわたる闘いの結果、大流血も起らず変革・解決に向ってよかった。

ただし、本当に革命が成るか否かは今後次第でもある。軍が権力を握っている間は、正確には民主体制ではない。軍事政権なのだ。ビルマ(ミャンマー)なぞも最初は国民的人気のある軍が輿望をになって政権を握り、だんだん軍事独裁化した。エジプトもその轍を踏まないよう、国民は心して見守るべきだろう。

さて、イスラエルとパレスチナ問題にこの結果がどう反映するか。それが今後の世界的大事である。


2月10日 やっぱり小諸の蕎麦はうまい!

今日、久しぶりに刻(とき)そばでざるを食べた。
このところ行くたび休みだったのは、マスターが四国まで求婚旅行に行っていたとか、埼玉の親戚が亡くなったとか色々あってのことだが、おかげで欲求不満がつのっていた。

今日こそはと零下の気温のなか出かけたら、さいわいやっており、ビールを一杯飲んだあと食べた北海道摩周産のざる中盛りは実にうまく、殆ど箸を休めることなく無言で食べ終えた。隣の連れ合いも全く同様だった。

帰りに山吹味噌本店に寄って茎茶のほうじ茶を買って帰った。味噌屋でなぜお茶がと思われるだろうが、どういうわけかこのほうじ茶だけが味噌に並んで置いてあり、これがまた甘味があってうまいのである。

今、この茶を飲みながらこれを書いている。


2月9日 入学試験中、眼鏡のつるポキリと折れる

昨日の文芸科入試の面接直前、試験官席でマスクを外そうとした折、ぽきっの音とともに眼鏡の左つるが折れた。ややっと下を見たら床に折れた先がコロリ。

しかし眼鏡は何事もなく顔に載っており、視界も何も変らず。はずしてしげしげとながむるに、弦の部分何やら劣化の気配あり。

で、今日、かつてこの眼鏡を買った(はずの)志木の店に行ってみたところ、求めに応じ電話番号を言うとパソコンに打ち込んで書類をプリントし、眼鏡フレームのメーカーらしきところへしきりに電話をしている。「折り返し返事が来るのでしばらくお待ちください」などと店員さんも丁寧だ。

が、そのしばらくがまた新たな電話となり更にしばらくとなり、結局30分ほども待たされた挙句、「あのT様、この眼鏡は当社の製品ではないようなのですが……」と言う。「えっ、T様?! ちょっとそれ見せてください」

見ればその書類はわが連れ合いが1昨年眼鏡を買った折のデータである。私のはそれより3年くらい前のはずだ。で、改めて私の名前やケータイ電話番号などで検索すれど、ついにデータは出ず。

「あの、このレンズに合いそうなフレームでよろしければ、それを選んで手作業でレンズを少し削ってはめた方がよいかと思えますが、いかがでしょう?」

むろんそれで結構結構、早く言いなって、と口元に出かかったが、相手は一生懸命やってくれているわけだから、私もにこやかに「ああ、それで結構です。よろしく」と肯った。

その結果はうまく行ったのだが、ただし1時間半待ちとなり、私は志木ダイエーのなかを1時間、ついで周りの町を30分徘徊して時間をつぶした。結果、私はiPodとはどういうものか、ガラパゴスとはどういうものでいくらするか、他の書店ではもう売っていない今年の手帳がここの本屋では大量に売っていること、靴の値段は今頃はひどく安いものであること(いわゆる2,8のせい?)、ウイークデイの昼間は1階から3階までろくに人がいず、女性店員が私が通るたび粘着力ある視線でじいーっと見つめること、外へ出ると広場には70代前後と思しき高齢者が何人も意味もなくベンチにたむろし、私をさも同類項のごとく視線を流すこと、近所にはパチンコ店が複数ありそこだけが賑やかなこと、などを知った。

貴重な1時間半だった。
なお、眼鏡は店に戻ったらとっくに出来ていた。金1万3千円であった。


2月6日 連合赤軍永田洋子の死

ついさっき知ったばかりだが、いわく言い難い感慨が生じる。
脳腫瘍による多臓器不全で寝たきりだったらしい。

享年65歳というのにも思いが生じる。私より2つ下。当時のリーダーだった獄中で自殺した森恒夫は確か1,2歳上だった。死刑囚で在監中の坂口弘は64歳、榛名山中で死んでいった10人以上の赤軍兵士、あさま山荘で機動隊と銃撃戦を展開したメンバーたちもいずれも同世代だった。

私は直接の知合いはいなかったが、名前くらいを知っていた者は複数いる。死んだ者はもとより獄中40年組も一体何という人生になってしまったのかと暗然たる思いがある。

私個人に関してはあの山岳リンチ事件と中核・革マル等の内ゲバを見て左翼とはっきり縁を切ったけれど、しかし参加した人たち個々が悪いとは未だに思えない。明らかに一時期は同志だった諸君なのだ。

痛切な思いだけが込み上げる。



2月4日 らくだ駆け抜けるエジプト

ここ数日のエジプト情勢はまさにドキドキハラハラの連続だが、一番目を引きつけたのは広場を駆け抜ける駱駝だった。政治的には軍の動向がポイントだけど一向動かないし、デモ隊の風景はある意味では東西古今よくある図である。

しかし、その政治的中心点の広場の占拠群衆の中を背の高い駱駝がパカパカッと駆け抜け、群衆がはじき飛ばされる図は初めて見た。ことの善悪は別にして「いよぉ、やるやる!」と一瞬あ然と、そしてどこか本能的に目を輝かせてしまったのは私だけではあるまい。いやあ、実際またとない、いかにもエジプトらしい光景だった。

なんでもギゼだかのピラミッド観光業者らが政府から金を貰ってやったそうだけど、世界にエジプトの名を高からしめたことは間違いない。

ただし、それが今後観光客増加につながるか否かははっきりしない。かねて、あそこの連中は金に汚い、ラクダに載せておいて法外な値段を吹っ掛ける、写真をとっただけで脅し混じりに金をとる、と言われていただけに、悪名は更に高まり、誰もあの駱駝に乗らないかもしれない。いや、かえってニュースで見たあの駱駝に乗りたがるかしら?

しかしまあ、チュニジアから始まったツイッター・フェイスブック革命なるものがあっという間にエジプト、イエーメンに波及、更に広がりそうという情勢には感慨深いものがある。かつて東欧革命が衛星テレビの発達によってもたらされた時同様の感慨でもあるが、ネットやケータイがついにこんな力まで持ち出したかという驚きは以前にまして大きい。

一方で、世界にはかくも独裁国家、非民主国が多いのかという改めての事実にもうならざるを得ない。事情はそれぞれ違うだろうが、この際、革命情勢はもっと広く波及し、独裁国家は「なるべく」倒れたほうがいい。

ここで「なるべく」としたのは、かつてイラクのサダム政権やアフガンのタリバーン政権をアメリカが無理やり倒したのが正しいとは言えないからだ。少なくともアメリカにそんなことをする権利なぞなかった。アメリカよ、おのれを世界の盟主だなぞと思いあがるなよ。決定はあくまでエジプト人たちがすることである。


2月2日 高速バス、関東を突っ走る

昨日は江古田での用が終ったあと、東京練馬区役所前から高速バスに乗った。新宿発小諸行きで、所要時間は列車とほぼ同じ、乗り換えがないからその意味では列車よりラクとも言える。

が、時間がどうしても不正確になる。小諸から乗る時は始発だから時間通りだが練馬には必ず10分以上時に20分くらい遅れて着く。練馬乗車でも時間通り来ることはない。やはり10分近くは遅れる。

高速道路での遅れはめったになく、要するに一般道での渋滞や信号待ちのせいだ。いや、渋滞というほどでなくいつも通りと思えても必ず遅くなるから、それならいっそ時刻表にそれを盛り込んでおけばいいのにとも思うが、多分スイスイといく最短時間を書くのは、ごく稀にはそういうこともあるせいなのだろうな。

おかげで練馬から乗る時は道端でいらいらと待つことになる。暑い時や寒い時はこたえるし、待つこと自体が不快でもある。列車はその点、時間はずっと正確だし、待つにせよ屋内で部屋も売店もありで、いらだつことはまずない。

よって普段は列車となるが、たまにバスに乗ると、見えるものが違って面白い。列車、ことに新幹線はなるべく平地を高架で突っ走ることになるから、2,3度見慣れてしまえば変哲もない。

バスだと埼玉県内でも丘陵地帯を通り、群馬県内では集落や人家近くも通るから、肌になじむ。特に夕方に通ると、だんだん暮れてともしびが灯っていく経過、山の姿の変容などがよく分り、おお、いよいよ峨峨たる妙義山だな、ついに碓井峠か、なぞと頭の中で言葉が湧く。

そしてトンネルをいくつも過ぎ、長野県側に入って一気に佐久の町の灯が見え出すと、ああ、もうじきだなと思う。その感じがいい。「故郷の灯」とはちょっと違うのだが、「我が家に近い灯」とでも言おうか。

でも、この高速を降りてからの一般道がまたあちこちにうろうろ寄って遅れていく感じで、いささかいらだつのだが。


1月29日 10年前の卒業生石井光太、後藤ゆうた君らと飲む

昨日は卒制面接を無事終えたあと、6時過ぎから江古田「おしどり」で古いゼミ生らと飲んだ。小林・佐藤夫妻プラス子供2人、山口麦子、鈴木直と私の計9名である。

歳を聞くと皆34歳という。飛び回る子供たちのはちきれそうな顔に比せば明らかに中年じみてきた顔々を見ていると、ああ時間がたったなあと思う。皆、私のことはちっとも変わらないと言ってくれたが、同時に「昔が老けてみえたのかな」とも言っていたから、まあ差引ゼロなのだろう。

卒業生との飲み会は卒後3,4年くらいまではちょくちょくあるが、それ以上になっていくと急に減る。もう大学の思い出より社会人としての日常の方が比重を増していくし、女性は子育てなぞに手間がかかりすぎるからでもあろう。

聞けば今や売れっ子のノンフィクション作家石井君は今年はほぼ毎月新刊本を出す予定というし、私のmixiアイコンの似顔絵を書いてくれているマンガ家後藤君も自分が描いた漫画本を2冊持ってきてくれた。

かと思えば遅くやってきた鈴木君は、会の打ち上げ後、私を送って歩きながら、「実はどんな顔をして会おうかと悩んでしまって、他の店で一人で飲んでいました」なぞと言い、「卒業するとき先生が名前を挙げた作家の本をその後もずっと読み続け、自分も書こう書こうと思い続けています」なぞとも恥ずかしそうに付け加えるのだった。

また、佐藤君は懐石料理屋の板前という変わり種の方向を選んだが、昨日聞けば父親は理科系国立大の教授というから、日芸へ来たことを第1ステップに何とも意外な進路ではある。吉祥寺のホテルの懐石料理屋にいるそうだから、今度行ってみようと思う。昨日は来れなかったが、海上自衛隊の船乗りになっている者もいるし、実にバラエティーに富んだものだ。

3年後に迫った私の定年時最終講義には皆で駆けつけ、短いメッセージを一人づつ読んでくれるそうだ。


1月27日 卒制読み終わる

明日は卒制面接(正式には口頭試問)である。15人いるから丸3時間はかかる。



1月25日 飛び回る

いささか大げさな表現だが、日曜月曜と車で飛び回った。
連れ合いが古机の使い勝手が悪いので買い替えるために、まず御代田町のリサイクルショップへ。ついで同じく彼女のパソコンがクラッシュして修理に時間がかかりそうなので、新しいのを買いに佐久平駅近くのK'ズデンキへ。

どちらもさほどの距離ではないが、たいていのことは小諸市内で済ませている私どもには、選ぶ手間も入れるとなんだか大仕事をしたような気分になった。
ノートパソコンと一緒に帰宅して連れ合いはそのセットアップにかかりきりになり、新しいウィンドウズ7やらメールソフトになれぬせいもあって、深夜12時までかかった。

そして昨月曜日、古机の分解を開始し、それをを室外に出そうとして書斎入口幅が狭いため昨日買った机が入りそうにないことに気付いた。古机は組み立て型だったから入ったのだ。

で、大慌てで店に連絡一旦キャンセルしたが、古机は分解済みだし、やはり早く別のを買う必要ありで、昼食後急遽また店に車を飛ばし、分解型机と別売りのチェスト類を大わらわで探し買い替えてきた。

私はそれから学生の卒制読みに入ったが、連れ合いは分解机を2階から下に降ろし、処分するまで家裏に運ぶだけでまたしてもくたびれ果てた。そこで近所のキャッスル温泉に久しぶりに入りに行き、帰って夕食をすると、彼女は8時半に寝てしまった。

今日はその机類が配送されるはずだから、またしばらくは整理・配置などに彼女は大わらわとなるだろう。私もその余波は当然受けるし、卒制読みの時間もだんだん追い込まれてくるし、早くも肩が凝ってきた。外は小雪がちらついている。



1月20日 遺言書を書く

今日、2年振りに遺言書を書きなおした。私はだいぶ以前、たぶん10数年前から遺言書を書き、毎年大みそかにそれを書き直すのを常としてきたが、だんだん面倒になり、2,3年はほったらかしだったりもした。

が、この2年間には小諸に家が出来るなどだいぶ状況も変わったので、この際書き直しておこうと思い立ったわけだ。

最初、以前のものをいわば添削直し始めたのだが、どんどん削れる。前は密葬の場では正信偈の経、次に「タブラ・ラサ」を流せなぞと事細かに書いていたが、もうそんなことはどうでもよくなった。

というか、正信偈だけはやはり残すことにした。幼時から亡き父の仏前で祖母に教わってほとんど毎日聞き覚えで誦していたから、中身というより音調が懐かしいのだ。母の胎内にいるときのような、無明のかなたに帰っていくような得も言われぬ心地になるのだ。

あと、散骨の地もインドのブダガヤ、死にかけたゴア、伊勢神宮五十鈴川畔、八ヶ岳大沢、などあれこれあったが、遠い場所は皆削って、故郷やかつて長く住んだ住所地、現在地などだけにした。

おかげで随分すっきりした。時間もかからなかったし、気分もさっぱりした。早速、娘に遺言書のありかをメールで知らせ、さらにさっぱりした。


1月17日 土曜日の吉祥寺、青野聰と4時間半

彼と会うのも3年ぶりくらいの気がする。いや、もっとかな。確か彼がサバチカルでイギリスへ行って以来会っていなかったから、ひょっとしたら5年ぶりくらいかもしれない。メールが出来てからはどうもリアルにいつ会ったかが定かでなくなっていく傾向があるようだ。

とにかく久しぶりに会う場が吉祥寺になったのは、今の双方の家から比較的便利でかつ新宿・渋谷などの繁華街を通らずに済むからだったが、北口へ着いて駅前を眺めまわしているうち、そうだ、青野は青年時代ここに住んでいたんだった、そのころ自分もよく来た、と思い出した。

それで急に40年前くらいの駅前光景も浮かんできたが、いやあ、まるで変っている。あの頃はひっそりした静かな街で、北口前あたりはバラックの戦後市場みたいなものがあったのに、今はどこもかもネオンきらめく繁華街になっており、何より若者中心の人出がすごい。寒いのにわさわさ人でうずまり寒さも感じないほどだ。

青野とはケータイで連絡をとりつつその北口のバス停前あたりで落ち合ったが、この会い方も昔なら考えられない。そして会うなり「やあやあ、久しぶり。ええと埴谷雄高がいたのはどっちの方だったっけ?」と青野。「いや、埴谷じゃない、金子光晴だろう。彼んちはあっちだった。よくひょこひょこ歩いてたなあ」と私。これも今の若い人にはまず分らないやり取りかもしれない。

人波をかき分け昔は店なぞあるべくもなかった道を歩いて、ネットで探しておいた「スコータイ」というタイ料理屋へ5時10分くらいに入ったが、客は誰もいない。やや不安になったが、朴訥そうな男女のタイ人がいるので、まあいいかと一番奥に落着き、温かい春巻きなどを肴にシンハービールを飲みだしたら、結果的にそのまま4時間半いることになってしまった。

彼とは全く同い年、学生時代の同人仲間であり、一緒に中退してフランスへ行き、作家デビューも私が33歳、彼が35歳とだいたい似た時期、まあ若い時からの互いの女性関係なぞも大抵知っている仲だから、30分もすればほんとに時間はいろんな意味で忘れる。

話したいことは山ほどあるが、あまりダイレクトに聞くのは避けたい気も双方にあるようで、むしろウイグルなどの旅の話、小諸の畑の話、青野の幼い無垢な子供たちの話、などがもっぱら進んだ。互いに境遇はずいぶん変わっているが、あまり変化がないような気もする。少なくともやっていることはさほど意外でない。

酒量も二人とも落ちていない。いや、あまりがぶがぶ飲んだりはしないからそれぞれほどを知ったか、体に何か問題は抱えているなという年相応の印象だ。食べる方も同様。結構よく食べるが、二人とも揚物とか塩味の濃いもの、強く辛いものはちゃんと避ける。

大学の話(これも同じ53歳で専任教員になった)をしても、対処の仕方がほとんど同じで二人で含み笑いをしてしまう。ただ、年金の話だけは違う。私は65歳から国民年金を通常よりはずっと小額支給されているが、彼は全くない。お互い若いころは赤貧な上に、海外を放浪したりで老後のことなぞろくに考えなかったからだ。私がわずかだがあるのは子供が出来たのが彼よりいささか早かったためと、放浪期間が彼より少なかったこと、そして性格の故だろう。

で、さすがに70歳の定年以降はどうするのだと私は心配したが、彼は「いや、全く考えてない。考えてない」と昔と同じく我関せずというように笑っている。が、暫くあとにはまずまずの貯金額なぞも自分から言ったから、やっぱり考えてはいるはずだった。

あと、最近読んでいる本のことなどを双方語った。私が『漂流するトルコ』(小島剛一)や『魔王の愛』(宮内勝典)、『チベット滞在記』(多田等観)について語り、彼はもっぱら小林一茶について語った。どういうわけかみな放浪的色彩のあるものばかりだ。

それで刺激されアマゾンに注文した一茶の本が、今日ついさっき早くも4冊届いた。私は当分それを読み続けるだろう。


1月16日 一昨日は新富町、赤坂、昨日は吉祥寺

一昨日、マイミクの陽虎さん、秋山祐徳太子と3人で飲んだ。陽虎さんとはmixiでの付き合いはほぼ3年になり、ほとんど毎日互いの文章を見ている仲なのに、会うのはこれが初めてだった。いわゆるオフ会ともいえるが、秋山さんはmixiなんて名前も知らない人だし、私とは45年来の知人だから面白い顔合わせである。

最初は御両人ゆかりの新富町煉瓦亭で会った。新富町はユートクさんの生まれだったか育ち故郷であり、陽虎さんの住居及び会社に近い縄張りである。マスターはユートクさんの小学校の同級生でもある。私は初めての場だったが、入るなりなるほど老舗の洋食屋という作り雰囲気の店で、私たちは名物カキフライをパクパク食べながら飲んだ。

その後、赤坂に移動、今度は打って変って今や盛りの灯りピカピカみすじ通りビル5階の「もも」だった。ここはかねて陽虎さんがmixi日記で「粋なママがいる、食べ物がうまい店」とちょくちょく書く、私もかねがね一度行ってみたいと思っていたバーの移設新装再開店だった。陽虎さんとユートクさんは実は旧「もも」で昨年出会ったばかり、この日が2回目という関係だった。私が共通の知人だと分り、それで今回3人会が実現、ここへ連れてきてもらったという次第なのである。

いわばネットが取り持つ縁でもあるわけで、面白いものだ。日ごろ出不精、人付き合いもあまりせず、信州の田舎で畑なぞ耕しているのが好きな身としては、極めて珍しいことである。ネット上で知り合った人と実際に会うのも札幌の古本屋詩人猫叉木鯖夫さん以来わずか二人目だ。

おまけに会ってみたら、陽虎さんは早稲田の仏文出身、つまり私の直系の後輩だったのには驚いた。そんなことはこれまで一言もなかったのだ。
ユートクさんとは2、3年前どこかの画廊でちらと顔を合わせたことはあったものの、ちゃんと話をするのは10年ぶりくらいだった。

だが、私が大学教師になり53歳で生まれて初めてもらったボーナスで買った彼の作品「ブリキの男爵ーバロンフマ」は、今も小諸の書斎にあって毎日顔を合わせているし、ネットでも私のこのHP「風人通信」の「小説」欄末尾に写真を掲載している。よかったらちょっと見てみてください。
これはまあ、私が美術家列伝小説『美しき月曜日の人々』(講談社)冒頭にに「ブリキの男爵」という短編を彼をモデルに書いているからでもある。

というわけで昔の学生運動のことなど話が弾み、11時まで飲み続けてしまった。私としてはこんなことは掛け値なくめったにないことで、帰宅後、夢も全く見ず熟睡してしまったのである。

(長くなってしまったので、昨日の吉祥寺については、項を改めます)


1月13日 4年生、卒制を出す

今日は卒論卒制提出日である。3年4年と2年間受け持った学生たちのいわば最終日だ。提出すればあとは月末頃に口述試験という名の面接となり、合格すれば大学での全日程が事実上終り、あとは卒業式だけとなる。

授業は12月で終っていたが、この時間はゼミ室にいるからと言っておいた(つもり)ので、1時からゼミ室に一人でいた。が、ドア外のロビーから高揚したにぎやかな声は聞えてくるものの、部屋には誰も現れない。我がゼミ生が一人もいないわけもないがと思いつつ、しかしこういう日は教師よりも学生同士であれこれわいわい言い合っていたいのかもしれないと考え、黙って本を読み待っていた。

30分たっても誰も現れぬので、さすがに諦めて外へ出た。と、一番熱心だったゼミ生3人がテーブルを囲んでいる。
「出した?」「出しました!」
さすがにみな目が輝いている。そうかそうか、それならいい。そう思いつつ学生を邪魔しないようにと歩き出すと、今度は廊下でまた別の3人に鉢合わせした。彼らもまた目が輝いている。

「先生、出しました!「どうやら卒業できそうです!」
「何枚書いたの?」
「120枚です」「ぼくは100ちょっと」「あたしは150枚くらい」

昼食時にエレベーターで会った学生は「削ったけど250枚になっちゃいました」と言っていたし、学食前で「先生」と声をかけてきた学生は「110枚です」と言っていた。

たぶん250枚が最高で、だいたい100枚から150枚というところなのだろう。これから15人分読まねばならない身としては正直できるだけ少な目にしてもらいたいのだが、学生はどうしても最後の馬力を出すから、まあ、ほぼ予想通りでもある。

「傑作を期待して楽しみに読むよ」
そう言うと、学生の一人が「先生、あの、これ、ゼミのみんなからです」と酒らしい長方形の箱を差し出す。ちらと見ると「焼酎」という字が読めたからそう言うと、
「いえ、酒です。新潟の酒屋で一番いい酒をと言って買ったから、大丈夫だと思います」

12月のゼミ飲みで私がガラスの1号瓶酒にうんざりしていたのを覚えていて、気を遣ったに違いない。私は嬉しく拝領して、研究室へひとり入った。学生たちとゼミ室へ戻ってダベリングをする手もあったと室内へ入ってから気付いたが、まあ今日は学生は学生でと考え、これを書いている。読む前にあまり学生と話してしまうと、審査に情が移りすぎてまずい面もあるからだ。

しかしまあ、今年のゼミ生は1年ゼミからずっと指導してきた者が多いせいもあって、馴染みが濃いので、ともあれ大体みなうまくいったようだとホッとした。


1月11日 農作業ゼロの日々、冬休み終る

12月以来3週間の冬休みを小諸で過ごしたが、畑仕事はほとんどしなかった。石取りとかブロッコリーの植えかえなど多少はしたが、畑仕事というほどではない。

理由は要するに寒すぎたからである。前年、開墾、畝づくりなどかなりやったのは、土もちゃんと起こせたからだ。今年はたいてい凍っていてスコップや鍬がカチンと撥ね返されるし、午後になっても寒風や曇り空でなかなか長く外にいる気自体になれなかった。雪はろくに降らなかったのに、乾いてビンと冷えるのである。

事情はウオーキングや散歩もそうで、好天の日、今日くらいはとかなり意識的に試みる以外は、屋内に閉じこもりがちとなった。
おかげで、どうも腹が出、血糖値も上がり気味である。そうそう、外にあまり出なかったのは屋内と外の温度差が大きすぎ、高血圧が心配なせいもあった。今日なぞも午前9時でマイナス8度くらいだったから、温度差実に30度である。門まで新聞をとりに行くのもためらってしまった。

そしていつの間にか明日出校日だから、大慌てで授業の予習開始だ。ゼミ1年のゼミ誌をこれから半分は読まねばならない。
が、同時に明日からは暖かい南の地方、東京界隈へ行ける、体がラクだろう、と歓迎の気分が生じているから我ながら変ったものだ。これまでの2年間は、何はあれ小諸第一の気分が続いていたのだったが。


1月9日 『チベット滞在記』多田等観(講談社学術文庫)を読む

暮からだいぶ時間がかかったがやっと読み終えた。
大正時代にチベットに潜入し、10年間もダライ・ラマ13世のもとで僧院生活を送った若き仏僧の見たチベット報告である。

私は今のダライ・ラマ14世にはかつてインドの仏蹟地ブダガヤで2回ほど会っているというか顔を見たことがあるし、チベット人テントに寝泊まりしたこともあるので、かねがねチベット人には親近感を持っている。敬虔な仏教徒である彼らの生活や文化にも好感を持ってきた。

近年の中国政府による自治弾圧はウイグルと並んで一種の植民地支配だとも感じてきた。

そのチベットのダライ・ラマ13世時代の様子を知りたくて読んだのだが、13世もまたきわめて難しい一生だったようだ。
すなわち初期にはイギリス軍の侵攻を受けてモンゴルのウランバートルに逃れ住み、その後ラサに戻ってのちは今度は清軍の侵攻や干渉をうけ、北京に行ったり、一転イギリスの保護を求めインド領ダージリンに亡命したりした。

その後はラサに戻って法王として仏教およびチベット国の最高権力者であったが、パンチェン・ラマとの争い、清(のち中国)イギリスとの関係と内外大変な実情だった。

多田等観はその状況下にあって顔つきも仏教徒たることもそっくりな日本人として厚遇され、僧院生活にいそしむ。彼の属した僧院だけでも数千人いるという僧院暮らしのあれこれ、しきりに世界情勢を知りたがるダライ・ラマにせっせと日本の新聞を翻訳して届けるさま、貴族や庶民の生活ぶりなど、どれも実に面白い。

10年後彼は日本に帰り、以降は望めども2度とチベットの地は踏めなかったのだけれど、私が一番感に堪えぬのは、13世死後、5歳で14世になった現ダライ・ラマも、24歳で中国解放軍から逃れインドに亡命、ヒマラヤ山中のダラムサラで亡命政府の長となり、以後一度もラサに帰れていない事実である。

チベットとは一体どういう運命の地であり、ラマ教やチベット人たちはどうなっていくのか。すぐれた仏教者であり、平和主義者としての指導者であり、数奇な運命を背負った14世ももはや75歳、最近では退位の希望を漏らしているとも言われる。

私はまだお互い若き日にまみえた彼の穏やかな微笑み顔を思い浮べ、人間世界の不可思議を痛感せざるを得ない。


1月7日 本日未明からマイナス9度、現在マイナス7度とか。ギョギョッ。

これくらいになるとさすがに世界が凍る感じになる。
カーテンをあけると窓ガラスの下方に水滴がびしっと付いているし、車は全体が白い霧氷のなかみたいだし、いつもは黒くしか見えない近めの低山も白い。

昨日も日中まで零下だったせいで、ちょっと外出して戻ったら右こめかみ上部が痛かった。すわ、温度差による軽度の脳出血かと警戒したが、風呂に入ったら収まったから、要するに寒さによるナニカに過ぎなかったのかも。だが、このナニカが問題だ。

心身の健康のためにとやってきた信州半分森の中暮らしだけれど、冬に関しては体に却ってこたえるかもと思えてきた。夏は汗をかかないし実に快適なのだが。

世のなか、すべてよしとは行かぬものである。


1月5日 大和神社と彫刻家Kさん、散歩の効用

一昨日、散歩の途次大和神社に出会ったことは「つぶやき」に書いた。正式には紀元会大和神社なる新興宗教で、その本部が小諸市にあるのだった。

金箔の巨大鳥居を始め、土や木がろくにない広大な境内、金ぴかの神殿に銭洗い弁天、周辺にはヨーロッパふう迎賓館みたいな教祖一族の住居、なぜかギリシャ神話のペガサスが玄関上に乗っかった信徒会館(?)、ウサギ小屋と称する、においもなく小さな窓が高所にあるだけの、つまりとても動物を飼う場とは思えぬ木造小屋、などが界隈一帯に散らばっている。

おまけにそれらの場で出会う人々(全体に人けは殆どないのだが、佇んでいるとどこからともなく人が現れる)の多くが黒ずんだ顔に異様な目つきをしており、実にフシギで、妖気が漂う場所だった。

昨日は厄払いのつもりで昔からの鄙びた八幡神社、熊野神社、ついで虚子の道などを歩いたのち、彫刻家Kさんのアトリエに遭遇した。自宅付近の敷地内にいろんな野外彫刻群が置いてあるので見ていたら、Kさんに話しかけられ、少し話しているうち、共通の知人(美術家)が何人もいることが分った。

で、それならちょっとお茶でもと自宅へ招じ入れられ、おいしいお茶と菓子を御馳走になり、気が付いたら1時間以上もお邪魔してしまった。美術好きの私は小諸でそういう話を出来る相手が従来なかったので、嬉しくなっていたのだ。

Kさんもウオーキングが好きそうだし、今後もいい話相手になりそうな気がする。


1月3日 最前線フォトジャーナリストたちのオンライン新雑誌

今一番元気なフォトジャーナリストたちが「フォトガゼット」というオンライン雑誌を立ち上げようとしています。ミャンマーやウイグル、ハイチ、チベットなどの最前線最新内容が写真と動画で年4回配信されます。

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1月1日 新年おめでとうございます

 今年はいよいよ書こうと思っています。信州を舞台に小説にするかエッセイ的なものにするか、まだ決定できていませんが、ともあれ書きます。お待ちあれ。