風人日記 第三十八章
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合歓の木屋敷にて
  2011年7月3日〜9月29日







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、2010年刊。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、下記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2009年刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


脱原発を望む

 本年3月11日の東日本大震災とそれに伴って起った福島第一原発での大事故は、世界的に見てもチェルノブイリ原発事故と並ぶ大事である。
日本としてはまさに1945年の広島、長崎原爆以来三度目の国民的被爆体験といえる。

事態は1号機から2号機3号機と3機同時に起り、チェルノブイリの三倍以上の規模であるうえ、原因が活性化してきた地震列島上の地震である点も深刻にとらえざるを得ない。日本中の原発54基全部に同じ可能性がありうるのである。

加えて、この福島原発を含め日本の原発は絶対安全でありクリーンなエネルギーであると、東京電力始め各電力会社、政府、原子力学者の多く、そしてマスコミの大半が言い続けてきた。
だが、今回の事故においてメルトダウンはしていないと三ヶ月間も言い張ってきた東電や原子力保安院等の言が、すべてウソであり、事故の収束・被曝危険の無化には今後数十年の歳月をかけてもなお完全とは言えない事実が明白となった。

今、我々は本来、原子力というものが人間の力でコントロールできる類いのものではないことを深く認識すべきである。そうして我々が今後とるべき道は、すべての原子力からの撤退を目指し、ドイツが選んだと同じく20年程度のちには全原発の廃炉を目標とすることである。

しかるに目下の日本は、政治家も官僚も財界人もマスコミの半ばも、現状維持、産業・経済重視の曖昧な非理念的選択をする趨勢にある。

その中にあって、菅直人首相はひとり、「脱原発」の方針を鮮明にし、おのれの退陣と引き換えにその道筋をつけようとしている。菅総理の事績、行為、能力すべてを評価するわけではないが、私は上記の一点において菅氏を支持し、脱原発が国是として日本に定着していく契機になるよう心から切望する。

                               2011年7月15日
                                               夫馬 基彦


                        *これより日記                      
9月29日 15年ぶり? 故佐々木基一さん関係の集まり

昨日、故佐々木基一さんの全集解説に関する打ち合わせで、編集委員の人たちに会った。「文藝」元編集長福島紀幸さん、文芸評論家宮内豊さん、点の会魚の会の有馬弘純さん、の3人だ。

前に会ったのはいつだったかとお互いしばらく考えたがみな思い出せず、あれこれ話しているうちに有馬さん以外は少なくとも15年前ではとなった。佐々木さんが亡くなったのが18年前だったから、その3回忌が最後だったのではという訳だ。3回忌というのは正確には死後丸2年だから、ひょっとしたら16年前だ。

当然みな歳をとっており、3氏はすでに70代だった。有馬氏は脳梗塞を患ったらしく右半身がやや不随意、よちよち歩きで歯も抜けており、いかにも年寄りそのものだった。

むかし太っていた福島さんは体がだいぶ縮み、宮内氏は逆に顔が相当膨らんでいた。

他人が歳とって見えるということは向こうから見れば私も歳とっていることに他ならないが、自分にはその実感はなかなかわかない。自分だけは若く、相手が一方的に歳とったように感じる。

しかしまあ、外観をのぞけば全員殆ど変っていなかったのも不思議だった。喋り方から、話題、笑い方、やっていることもある意味では昔通りだ。現役のように忙しくはつらつとしていないだけで、編集をしたり、あれこれ本を読んだり、酒を飲んだり。会議のあと酒場に連れて行かれたが、そこも20年前と全く変らず、ママは80歳ぐらいになっていた。トイレに入ったら、そこまで全く記憶通りだったので真実懐かしかった。

時間、そして老いとは不思議なものだ。



9月26日 日大文芸賞授賞式 

今日は第27回日大文芸賞の授賞式だった。例年通りアルカディア市ヶ谷で式ののち、フランス料理の会食を行った。

今年の受賞者は:
 日大文芸賞(30万円) 藤野智士(大学院文芸専攻2年)
 優秀賞(10万円)   庄司 透(57歳、通信教育学部)
 佳作 1席(5万円) 大谷健児(経済学部本年卒)
  同 2席 (同)  綿田友恵(芸術学部文芸科08年卒)
  同 3席 (同)  大矢英貴(大学院文芸専攻2年)
の5氏だった。

57歳の通信生と経済学部出身者はこの賞としては変り種だが、それだけ幅広い応募者がいる証左でもあろう。大谷君は経済学部出身者というより、作品内容も外観印象も極めて文学青年的だった。

あとの3名はまたしても私の教え子で、藤野・大矢の二人は院の同級生でもある。藤野君の受賞作「イモリ」は、性的目覚めを感じつつある少女が祖父に腰を触られているうち、イモリに触れられているような感覚を妄想する内容で、妄想的虚構を巧みに使った幻想小説の趣があり、選考委員が一致して才能を認めた。

大矢君の「山茶花」は、この賞には珍しい時代小説で、30枚くらいの短いなかに設定ばかり詰め込みすぎの感はあったが、時代考証は比較的良くできており、熱心な勉強家であることと時代小説への熱意を感じさせた。

卒業生の綿田君とは卒業後3年ぶりの再会だった。出版社で契約社員をしながら小説を書き続けており、「めんない千鳥」は中学校を舞台にハイミス女教師と女子中学生たちのいじわるぶりを描いたもので、中学の雰囲気がよく出ていた。

去年もそうだったが、教え子の受賞は嬉しいものだが、あまり続きすぎるとどうも気にもなる。選考は決まるまで名前を伏せて行うし、誰らしいと分っても自分の教え子だなどとは口にしないし、十分客観的なはずだが、やはりあまり片寄るべきではないと思えるからだ。ひょっとしたら応募者の方に、知っている先生が選考委員だからとか、クラスが違ったり知らない学生だとかえって敬遠する、などの意識が働くのだろうか。

がまあ、これで3年目の選考はどうやら内実も飲みこめ、来年からは賞金も増額されそうだし、ポスターなどの宣伝も拡充しそうだ。
日大関係者、応募有資格者はどんどんチャレンジしてほしい。



9月25日 お勧め動画

http://www.youtube.com/watch?v=CEFt9p7-Dxo&feature=share via @youtube


9月24日 ウズベキスタンの土漠、タシケントの空虚

今、埼玉のマンション眼下の柳瀬川には水が透明に流れ、対岸には休耕田の緑があふれんばかりに繁茂している。それを見ていると、かなりの感慨が生じる。
ウズベキスタンにはこんな緑は絶対なかったのである。

タシケントを少し外れれば、灌木がちょろちょろと生えている草原というより土漠が見渡す限り広がっていた。町近くだと綿畑、トウモロコシ畑が一面に続き、折から綿摘みシーズンらしかった。茶色の畑に白い綿の実がはるかに続き、そこで大勢の人が綿摘みをしている。木陰一つないなかでの炎天下の綿摘みは大変な重労働に見えた。

たまに川か灌漑水路があるが、たいてい半分は枯れている。かつてアフガニスタンへ行った時は地下式のカレーズという水路があったが、この辺りではどうか。表に水路が見えるということは地下にはないのではないか。

ゆえに枯れれば土漠そのものとなる。丘もところどころあるが、草木は全くない。遠方にわずかに山脈が見える時もあるが、それもすべて裸そのものだ。

人口200万人というタシケントは、ソ連時代に作られた広い道路と大きな橡や桑などの並木や緑地に包まれて一見さわやかに見える。が、草はやはり少なく、設置された間歇式散水栓がしばしば水撒きをするにも関わらず、わずかな草花ばかりで、日本のような雑草というものがほとんどない。

だから都心部から離れていくにつれ、だんだん散水栓が少なくなり草も減っていく。並木だけは茂ってやはり一見美しい街に見えるが、道はでこぼこで、車はしばしばバウンドし、歩くときは穴ぼこで足を挫かないよう注意深くせねばならない。

街とは言っても商店等はえらく少なく、あっても小さくひっそりしている。大統領府や駅、国立劇場、博物館、独立広場などは立派で、いずれも車で10分か15分も走れば行ける。空港ですら都心のホテルから15分ほどで行ける。メトロもあるし、便利は便利である。

だが、どこも人は少なく(列車が着いた時の駅は別)、一体これでほんとに200万人がいるのかと疑問に思えてきさえする。1966年のタシケント大地震後のソ連式新市街化のせいらしいが、いかにもソ連風で、中央アジアのオアシス都市的風情はすっかりなくなったのが残念だ。

私は40年前の1971年にここを訪れたのに、どうも記憶のある風景と行きあたらない。はっきり、あ、ここは見覚えがある、と思ったのは唯一アライ・バザールぐらいだった。あとは泊ったホテルさえ思い当たらない。都心部の国立大ホテルだったから、ないはずはないし、今回の滞在中も何回か車で前を通ったはずなのに、ここだったという思いが生じないのは、たぶん周辺の風景が大幅に変ったためだろう。あるいは外装を変えたか。ひょっとしたらその両方か。

おかげでタシケントは、1週間いながらどこか空虚感の伴う街だった。


9月22日 今日、ウズベキスタンから帰ってきました

向うは思っていた以上に異世界でした。別にみるもの聞くもの風変わりとか目を見張るといった意味ではなく、その意味では世界のあちこちを歩いてきた身にはさして新しい世界だったわけではないのですが、日本やアメリカやヨーロッパ、韓国、中国はもちろん、東南アジアとすら随分違うのです。

物価は日本の約10分の1、若手医師の月給が90ドル相当(医師の地位が低い)、道路はでこぼこ、プレジデント道路だけがやけに立派でそこを大統領の車列が市民を所払いしてサーッと走り抜ける、といった具合です。

また、1945年以降にラーゲリに収容された日本人抑留者たちが作った建物が、1つはソ連のKGBに使用され(現在は一般アパートになっている)、一つはタシケントで一番一流とされる大学ウエストミンスター大学に使われていたりもします。

サマルカンドは街自体が観光施設化し、かつて赤土の間にあった印象のモスクや廟群が石畳のピカピカ道路と緑の森に囲まれていたりもしました。

そして、列車のチケット一つのことに実にイライラする手間と腹立ちを要しもし、それらの窓口の多くは太ったロシア人女性がでんと構えているといった具合です。

都心にあるホテルではしばしば結婚披露宴が、中庭で夜11時まで体が浮くぐらいのすさまじい音量で音曲を響かせ、ウエディングドレス姿の新婦以下が踊りまくります。その間、中庭に面した部屋の宿泊客は眠れず、ホテルに抗議しても「結婚式だから」の一言でろくに取り合ってもらえない、といった具合です。

そして若い女性たちは美しく、かわいらしい。ナイススタイルで、初々しく、笑顔がいい。男たちも質朴で、親切で、すぐ「ヤーポン(日本)」などと声をかけてくる。子供たちは寄ってきて一緒に写真を撮らせたがり、デジカメの撮影済みショットを見せると、ニコッと笑って満足そうに引きあげる。

いやはや、とても簡単には感想を語れそうにないので、今日は時差と9時間の移動時間、成田から埼玉のマンションまでを入れれば12時間の所要時間でだいぶ疲れているので、まずは第一報だけとさせてもらいます。


9月12日 がらんとした学校

前回もそうだったが、夏休み中の学校へ来ると、ちょっと新鮮な気分になる。いつもは人、それも若い学生たちでいっぱいの空間がシンと静まり、こんなに広かったかと思えるからだ。

明るい日中はいいが、夕方になったり、天候が悪くて薄暗かったりすると、寂寥感すら漂ったりする。

これは小学校時代からそうで、一人で学校へ行くのが怖かったりしたものだ。「学校の怪談」の生じるゆえんだろう。中学や高校時代になると、今日はどこそこの部活か生徒会の会議があるはずだから、誰か思いがけぬ人、滅多に口をきく機会もないあの子がふっと現れぬかと思ったり、ちょっと胸ときめく感もあったりした。

立場が変って教師になるともうそんなときめきはあろうはずもないが、しかし日頃は仕事顔そのものしか見せない事務の女性が、思いがけぬゆったりした表情で歩いていたりするのに出会い、ほう、あの人は独身だろうか、家族持ちかしらなどとチラと思ったりする。

義務感のある授業がないし、会議が予想より早く終ったりすると、だいぶ解放感も生じる。学校っていい空間かもしれないな、と感じたりもする。

私はひょっとすると、学校好きなのかしら?


9月10日 ウズベク行き準備ほぼ整う

13日ウズベキスタン行きの荷物を今日、成田空港に向け発送手配した。東京界隈だと前日でもよかった気がするが、小諸だと3日前に出してくれと言われるので。

あとは手荷物を持って空港に行くだけだが、12日は大学でAO入試会議があるので、11日中にマンションに移動する。

その前にメドをつけておきたかった短編も今日ほぼ出来た。締め切りは月末だから、あとは帰国後少し書き加えれば済む。これでだいぶホッとした。荷物よりこっちの方が精神的には重荷だった。

問題は帰国後の日程がややきついことと、ウズベクの気候が一日で最高32〜3度から最低12度くらいとなんと20度も違うことだ。ひょっとしたら体がびっくりして、どこかの段階でダウンしてしまうかもしれない。せめて帰国まではもってほしいものだが、何しろもう67歳だから自信がない。

というわけで、今日はせいぜい小諸界隈をウオーキングしておこうと思ったのだが、外は相当暑い。27度くらいあるらしい。ウオーキングは夕方遅めにしよう。

明後日以降、朝顔が見られないのが心残りである。

(というわけでこの日記はしばらく書けないと思いますが、ご了解ください。mixiやツイッターの方は向うでも書けるかもしれません)


9月6日 ホームドクター

昨日、日大健診センターから先だっての人間ドックの結果が届いたので、それを持って地元小諸の個人医院を初訪問した。

これまでは埼玉県志木市の医院に行っていたのだが、学校がある時は毎週東京方面へ行くからいいものの、夏休みや春休みなどは大半を小諸にいるので、ぼつぼつホームドクターを小諸に変更すべきと考えていたのである。

行った先は内科と皮膚科兼業の医院で、これも選択のさい考慮に入れた。志木では別々に通っていたのを一本化出来るので、まことに便利だ。しかも行きつけのスーパーのすぐ近くなので買物にも便利である。

心配だった医師もアドバイスが的確だったし、常用薬を確認しつつきちんと全部処方してもらえた。ありがたし。

住所の移転から始まって、車関係の移転手続き、そして今回の件でほぼ引っ越しが落着した気がする。持病を抱えている身は医療関係が安心できないと、気分が落ち着かないのである。

あと、もうひとつの持病・結石の泌尿器科も必要だが、衝撃波破砕法設備のある病院も調べ済みだ。歯医者だけが先ごろまで通った小諸厚生病院歯科口腔外科の主任医師が、どうにも横柄・殆ど説明なしで実に腹立たしかった。どこか丁寧な個人医院を探さなくては。



9月3日 連作「信州アカシア林住期」始める

以前、オキナワや島めぐりシリーズを連作連載した〈季刊文科〉(鳥影社)に、新たな連作連載を始めた。

この8月刊53号からの「信州アカシア林住期」で、タイトル通り信州でアカシアの多い林に住み始めて以降の日常を素材に、ほぼ事実に沿って、しかしそれなりに小説的味付けもしながら書いていくもので、当分続けるつもり。一度覗いてみてください。

 http://www.choeisha.com/bunka.html

大きな書店や図書館類にはありますし、むろん直接購読も可。

54号用の第2回原稿にもすでにとりかかっています。小さな雑誌でもこうして連作させてくれるところは有難いし、締め切りがあると精神も引き締まる。どうしたら面白く味わいのあるものに出来るか、あれこれ考えるのが楽しくもある。乞うご期待。



8月31日 ソ連邦は良かったか否か

今、ウズベキスタンに関する本を読んでいて一番あれこれ思うことの一つは、ソ連邦および共産主義の評価である。

1991年ソ連邦が崩壊してウズベキスタンが独立してから丁度20年だが、いい面もあれば悪い面もあるようだ。いや、簡単にいい悪いと黒白をはっきりさせられないけれど、一番は生活面が悪化したらしいことだ。計画経済がなくなってから経済は不安定化し、失業が増大、収入が減少。

就職先がないため大学進学者も減少、平均給料は月収にして1万円〜2万円(日本円換算)。ソ連時代は直接の給料額は少なかったものの、職や生活の保障は国家がしてくれ、生活に困ることはなかった。国家は信頼できるものだった。

また、ソ連というと自由経済圏から見ると閉鎖的印象があるが、ことソ連内に関しては旅行も自由、民族交流は活発で格差も少なく、ロシアやウクライナへもよく出かけ、あまり不満はなかったともいう。

加えて、あのころは労働はただ生活のためだけにするのではない、社会や国のためにするという理念があった、と懐かしむ人たちも多いそうだ。

かなり意外な実情だが、そういえば旧東ドイツなどでも社会主義体制下の方がよかったとする人たちが多くいるとも聞く。社会主義や共産主義体制の良さも確かにあったのだろう。あれは平等を目標とする一種の理想主義だったのだから。

そして、さらに面白いのは、いま述べたような事情から、現状をよしとする人々はあまり多くないにもかかわらず、反体制運動はあまり起らず、大統領は旧ソ連時代の共産党第1書記であるカリモフ氏がそのまま20年続けている独裁政権である事実だ。

これは一体何なのか、なぜなのか。しかもカリモフ氏の現在所属する政党名は自由民主党だという。共産党から自由民主党へ。むろん日本のそれとはだいぶ違うだろうが、それにしても不思議なことではある。

来月のウズベク行きがますます面白くなってきた。


8月28日 東京・台湾・小諸

連れ合いが1週間ばかり台湾に行ってきた。
行く前にちょっと用があったから3日ほど東京界隈にいてから、台北、台東、台南とまわった。

向うはいわば熱帯状態、暑かった東京とはまた一段格違いのボウっとした熱気に包まれたそうで、熱躁状態のまま1週間後の夜なかに東京帰着。寝るだけ寝て、翌日小諸に移動したら、気温は最高で24度、朝晩は20度前後である。

で、一気に体はラクになるかと思いきや、よほど疲れがたまっているらしく、早朝からマッサージ機をかけたり長い昼寝をしたり。それでも体調が悪そうで、全体に不機嫌だ。

帰った直後は「1カ月いたくらい楽しかった」と浮遊したような目で言っていたが、67歳で気温差10度以上の地を若い人と一緒に飛び歩いていれば、体もびっくりするだろう。まあ回復まで当分かかるに違いない。

私は涼しさの訪れと共に、畑をどうするか思案中である。今年の夏はナスは9割がたダメ、きうり、トマトもあまり芳しからず、今頃やっとオクラが伸び出したりしている。暑すぎたり時に寒かったりのせいか定かでないが、素人百姓としては、あとに何をすべきか、何を作付けすべきかよく分らぬのである。

御存じの方、アドバイスお願いします。


8月25日 久々の研究室

今、大学(江古田)の研究室にいる。午前中、お茶の水の日大健診センターで人間ドック(半日)を済ませたあとやってきたのである。前回ここにいたのは7月22日だったから、丸1ヶ月以上ぶりだ。

夏休みのさなかだから学生なぞいるまいと思っていたのに、入口の守衛所で出校チェックをしていたら、「先生、こんにちはー」といきなり女子学生から挨拶されたので驚いた。部活関係だろうか。

学科事務室も1階の学部事務所も人はぱらぱらである。でも、何人かづついることはいる。私は研究室の窓を開けて空気を入れ替えたあと、1階の庶務課にちょっとした書類を出し、学食へ行ってみた。ここも全くがら空きで、学生の4人組一組、器材関係の職人衆一組しか客はいない。

たった一人、冷やし中華を食べながら、えらくのんびりした。いつもの学食は混んでいるから席を探すのも大変だし、あとが来そうで早々に食べて席を立つのを常としていたからだ。

研究室へ戻ると、午後4時から新宿である日大文芸賞選考委員会用の候補作類に目を通した。既に読んであるからざっと全体をみていくだけだが、窓外からは西武池袋線の列車の音と工事中のビルの音、そしてクーラー音だけが響く。うるさいはずなのに、かえって静かさを感じさせる。

クーラーのない廊下なぞに出ると蒸し暑さが際立つ。東京は暑い。ネットで小諸と練馬区の温度を比べたら7度c違った。これで節電はつらかろう。やはり早く小諸へ帰りたい。



8月21日 ウズベキスタン関連書を読む

数日前からウズベック関係の本を積み上げて読んでいる。

すでに読んだのが『もう一つの抑留ーウズベキスタンの日本人捕虜』(藤野達善・文理閣)。戦後、スターリンの命令でソ連軍によって旧満州・朝鮮からシベリアに連行抑留されたいわゆるシベリア抑留者は総勢60万人以上いたが、そのうち2万5千人は実はシベリアではなくウズベキスタンに送られた。他にもカザフスタンやタジキスタンなぞにもいるが、中央アジアではウズベックが一番多い。

その2万5千人の事績─つまり強制労働でどんなものを作ったか、死者はどれだけ出てその墓はどうなっているか、などを書いたものだ。

被抑留者のうちには敗戦間近に日本軍に召集された50代以上の老兵や16,7歳の少年兵も多く、ダムや水路建設、砂漠の町づくりなど過酷な強制労働の結果1946,7年くらいに倒れ死んでいった人たちにもその年齢の人の比率が高い。日本政府は敗戦前から彼らを見捨てる〈棄民政策〉をとっていた。

読んでいても涙がにじむが、救われるのはそういう彼らが作った建築物などは丁寧できちんとしており、いまだに現地で役に立っていることが多い事実である。おかげで「日本人はまじめでよく働いた」との評価が今もウズベク界隈には広く伝わり、現在の親日ぶりにつながっているようだ。

そのあと読みだしているのは『社会主義後のウズベキスタン』(ティムール・ダダバエフ アジア経済研究所)で、これはスターリン治下はもとより、長かったソ連時代後、独立したウズベックがどんな歩みをしているかを書いたもので、この国の現在がよく分る。自由になった面もあるが、大統領は共産党時代の第1書記そのままでいまだに続いているというから、話は微妙である。

かつて玄奘三蔵が通ったシルクロードの仏教国は、共産主義、イスラーム国となり、なんとも変遷著しい。
まあ、慌てずゆっくり勉強していって、来月には現地を見よう。

おかげで、しばらく前まで読んでいた島崎藤村の『新生』後篇は前々回の日記以来全く頓挫している。男尊女卑時代の叔父と姪の暗く、えらく身勝手な男女関係話になぞ、どうにも食指が動かないのである。後篇に関する日記を待っていた方、申し訳ないけど多分それはありません。



8月18日 くしゃみを2度する、木を切る

このごろチョンガー暮らしなので昼食はたいがい外へ食べに出ている。今日は相生町のレストランで「ランチ御膳」というものを食べた後、近くのスーパーつるやで買い物(晩御飯用の食料も準備する必要がある)して外へ出たら、大きなくしゃみがたてつづけに2回も出た。鼻水まで出かかっている。

アレと思ったが、半そでTシャツから露出した上腕部は寒いぼが立ってもいる。つまり寒かったのである。理由はレストラン以降1時間くらい冷房の中にい続けたせいだろう。うちでは冷房など使わないからTシャツ1枚で丁度いいが、冷房の中となるとそれでは寒いということだろう。

帰宅してあわてて鼻をかんだが、のどが少し引っかかる。冷房は気持よくもあるけど、体にはあまりよくないと改めて思った。

きちんと上掛けをかけて昼寝ののち、庭の桑の中枝を長柄付き鋸で切った。桑は成長が実に早いので、気がつくとたった2年ほどでリビングからの眺めの半分近く(ちょっと大げさか)を桑の葉が占めている。それがうざったくて、扱いにくい約7メートルの長柄の鋸を使っていわば枝打ちをしたのである。

結果はたった2本の枝を切っただけで視界ががらりと変った。一面の桑変じて唐かえでの葉群となった。樹間から向うの桂や空も見える。昨日のリビング正面の桑の枝切りと合せ、たったこれだけのことでずいぶん景色が変り、気分も変った。

庭の樹というものは時に切るものなのだと痛感した次第である。



8月14日 島崎藤村『新生』のフシギ

このごろ藤村の『新生』を読んでいる。私は藤村は随筆は面白く、かつ自然への関心など共感する点も多くて、この間だいぶ読んできた。その延長で読みだしたのだが、どうも妙な気分である。

この作は知られる通り中年期藤村の自伝的作品で、妻亡きあと手伝いに来ていた実の姪を妊娠させてしまったため、罪の意識にさいなまれ当時としてははるかな地であるフランスに3年間も逃避行をする話だ。

重苦しそうな話だなとは思ったが、藤村は私がこの10年ほど委員として活動してきた日本ペンクラブの初代会長でもあるし、表現の自由・人権等を旗印とする組織のいわば創立者が、一体どういういきさつでそんなことをしたのか、それをどんなふうに自己消化したのかに関心があった。

が、読みだしてしばらくしたところで、フシギな気になった。肝心の姪とのいきさつが何も書かれていず、幼い子供たちの世話役として来ていた姪の日常風景が描かれたあと、突如、その姪が「母になった」として、話は一挙に苦悩の内容となっていくのである。

あの時代そういうことが大変な社会的罪科であったろうことは分るが、藤村(作中では岸本)は姪を急きょ転宅させ秘かに子を生むようよう準備するとともに、自分は急いで異国へと旅立つのだ。

しかも、その後の姪との手紙のやり取りなどを見ると、二人はやはり男女の中であったには違いないと思われるのに、藤村・岸本側にそういう心情吐露は全くない。それは書きたくない気持も分らぬではないが、どうもよく分らない。

私は怪訝に思って以降は斜め読みをすることにしたが、話はフランスでの日常や折から勃発した第1次大戦下のことどもになっていき、懊悩を抱えた中年男の過ごし方としては面白くないこともなく、ともあれ読めてしまう。

そうして目下私は藤村というより岸本(やはり二人はイコールではあるまい。当然小説家としての脚色、取捨、設定がある)が3年のいわば自己遠島処分を終え帰国、という後篇にさしかかっているところだが、読みたい気分半分、鬱陶しい気分半分だ。

時代の違いも痛感するし、しかし自分はこれを告白することによって自己処罰と新生を図るという作家の気持も、覚悟のほどは分らぬではないし、微妙な気分である。たぶん今まで多くの読者、特に文学関係者は同じ思いで読んできたのだろうなと想像しつつ、後篇の数十ページ目にしおりを挟んだまま、私はいささか疲れて小休止している。


8月10日 猛暑と激甚ニュース

小諸ですら30度を超え、今日あたりは今夏最高の暑さの勢いだが、そういう時テレビニュースでロンドンの暴動、世界同時株安、史上最高の円高ドル安、といったホットな内容が次々映し出されると、なるほど世界は燃えているとわけもなく相乗効果的に感じる。

一方で高校野球や長崎原爆忌などにも同様に感じる面もあるから、人間というものは要するに暑いと頭脳の中まで何やら熱く反応するのかもしれない。

そしてクーラーも扇風機もない生活をしていると、窓からの風に少年時代の夏休みを思い出す。実際、あの頃はカンカン照りの中を麦わら帽に半ズボン、メリヤス半そでシャツ姿で、お八幡の森や川の近くを走りまわったものだ。

かぶと虫、くわがた虫、揚羽蝶、神社裏の暗がりの蛇の目蝶、姿と柄のいいあさぎまだら、川ではざりがに、鮒、泥鰌、そして鐘を鳴らして売りに来る1個5円のアイスキャンデー、井戸につけて冷やしたスイカ、黄石うり(字が正しいか自信がない)、などなど。

このうち、虫類は比較的今も健在、川魚類は激減ないしほとんど見当たらず、アイスキャンデーははるかに上等になり、黄石うりはなくなって上等かつ外来のメロンになった。

植物類は変らぬように思いがちだが、朝顔だって最近では大ぶりの花の西洋ものが増えている。葉が芋葉の形に似ているし日中まで咲いていたりするから、あれは多分昼顔の種類ではと思う。

うちでいろいろ作っているタイムや、ラベンダー、レモンシア、バジルなどのハーブ類も明らかに近来地中海地方あたりから来たもののはずだから、新旧の変遷は大きい。

何一つ同じものはない、万物は変転している意の諸行無常はますます顕著だ。といって無常は別に寂しい意ではない。そういう解釈は日本的無常観であって、本来の諸行無常は「あらゆる物質・現象は常(同一状態)ならず」の意味で、いわば万物流転の科学的法則なのである。

私も同様に歳をとっていく。もう67歳で、この頃では旅などだんだんしたくなくなってきた。じっと林と世の中を見ていたい。


8月6日 8月6日広島記念日に

先ほどツイッターおよびmixiのつぶやきに書いたことを、すぐ消えないよう残しておきたくなったので、この日記にも以下に書いておく。

ヒロシマ記念日がこれほど意味をもった年はこの66年間なかった。フクシマはやはり大きかった。あれはたんに原発事故というにとどまらず、日本社会の組成、農地や海と共にある地方の生活、日本人の生活様式、物言わず長いものに巻かれていく日本人の性格、そして流通や政治行政システムの現状、法律がなければ何事も動かぬありよう、明確に物を言う個人がいかに少ないか、等々を明らかにした。情けなくもあるし、いや、まだ即断はできない、こういう性質が日本というものを作ってきたのかもしれぬ、ある種の知恵と「あるがまま」があるのかもしれぬとも思える。

付記:私は以上のことを肯定的にも否定的にも思っているわけではなく、ともあれこれが目下の日本人の特徴なのかもしれないと、ある種の感慨と不思議さをもって考えている段階である。

実際、日本人とは不可解なものだ。


8月2日 植物とは不思議なものである

今年で3年目になるが田舎暮らしをしていると、毎日植物と接する。

東京周辺にいても接する人は接するだろうし、私自身マンション暮らしであってもベランダでプランターや鉢の草花を育て続けたし、毎日の散歩道は川の土手で樹も草もかなり豊富な所ではあった。

だが、今、ほぼ林の中といっていい敷地内に住み、三方の塀際に小さいながら畑を作っていると、木や草の生態や成長といったものに直接、生活的にかかわりが生じる。夏、今頃の季節なら木も草も実に成長著しく、ほおっておけば成長をこえ繁茂といった形勢になるから、見過ごせない。

春から初夏にかけては薄緑の新緑柔らかく、優しげでにおいやかだった合歓の枝葉なぞも、今では深緑に伸びてゆさゆさ揺れ、門から玄関までの径もふさがんばかりとなる。うち2本ほどはピンクの可憐な花を付けもするから、なるべくそのままにしておきたいとも思うが、しかし通行の不如意という現実の前にはなんとかせざるを得ない。

加えて昨日のごとき風強き日となれば自らも枝葉の重さにたえだえふうに枝を揺らすし、実際、枝ぶり次第では太枝の1,2本は折れそうな気がするから、いよいよ枝打ちというか剪定をせざるをえなくなる。

ところが、その加減というものがよく分らない。伐りすぎるのは可哀そうな、惜しい気がするし、しかも伐り出すと伐る快楽といったものも生じ、刈り込み鋏をパチンパチンと鳴らしそのつど枝がバサッと音たてて落ちるのが爽快にもなってくる。

で、汗を拭いて家へ上がってからゆっくり見渡してみると、あそこは伐りすぎたかな、ここは空間があき過ぎた、なぞとしばらく惑うことにもなる。見事にピタリと適合したということはなかなかない。

畑の作物となると、見るたび収穫するたび、不思議な気分にすらなる。なぜこんな真っ赤な塾したトマトが生るのか、なぜ毎日次々と緑のきうりが生じるのか、なぜ土の中でじゃがいもはあんなにゴロゴロと多数が出来るのか、一方で収穫の喜びを感じつつ、フシギでしょうがない。

うちにはないが、この頃連れ合いが手伝いだした近所の大きな畑へ行くと、早くも人間の頭くらいはあるカボチャが大きな葉がくれにごろっ、ごろっと生っているというより存在している。しかも硬いし、食べればホコホコといかにも滋養豊富だ。あの硬さと養分は一体どこから来るのか。ここらはもともと浅間の火山灰地で、どう考えても大した養分なぞなさそうに思えるのだが。

別にカボチャやトマトだけではない。そう思って見つめだすと、どの植物も一つ一つ皆違って、あるものはねばねばと粘液質をはらみ、あるものはとびあがるほどの辛さを凝縮させ、あるものは色も味も絶妙としか言いようのない仕立てに出来上がる。

なんたる不思議であろう。


7月30日 伊那市「伊澤修二展」、御代田町「龍神まつり」

7月29日は車で片道2時間半の伊那市創造館まで遠出した。中山道をずっと走り、標高1300メートルだったかの和田峠を越え、岡谷インターから中央自動車道に入り、やっと伊那市に着いた。

が、市内に入って肝心の創造館を探したがなかなか見つからない。電話番号をナビに入れると図書館と表示されるし、どうやら市の合同庁舎付近らしいと知りやっと尋ねあてたが、今度は駐車場がない。

展示自体もタイトルは「伊澤とアメリカ」みたいなのに、内容は要するに信州高遠出身の維新開明期の勉強家教育者の一代記であり、知識は得たがあまり面白いものではない。止むをえぬ気もしたが、御当地意識が優先しすぎの感がした。

昼食に名物馬刺しを探して食べた。何軒か馬刺し屋があったが、カナダ産馬肉、国産馬肉と並べられていたのにかなり驚いた。馬刺しまで輸入品なのか。

今日は隣町御代田町の「龍神まつり」を見にいった。前日の一日車に乗りづめと違って、しなの鉄道で二駅先まで行き、そこからはシャトルバスで真楽寺まで行く。車でない気楽さがあり、行く前の昼食に早くもビールを飲んで出た。

龍神云々は真楽寺の大沼(緑色の藻と水が美しい)に伝わる伝説民話をもとに近年創設された祭りで、長崎などの龍(蛇)踊りと似た大きな、40メートルもあるという龍を30人ほどの担ぎ手が棒の先に支えて練り歩くもので、開眼式によって両目に赤い電球がともり口からガスの炎を吐くようになるのだった。

どうもゴジラ以来の近代怪獣ふうであり多分にアニメ的であり、担ぎ手の長い番長ふう龍の法被(?)と合せ、落ち着きや神秘性に欠ける。きれいな沼の中をざぶざぶ歩くのもせっかくの水を汚すようでどうかと思われ、対になっている姫龍の女性担ぎ手たちの水商売的派手化粧と合せ、私も連れ合いも首をひねった。

長く伝統のある祭りだとどこかもっと味と質朴さがあるものだが、それがない気がした。

あとで駅前にしつらえられた仮設舞台で、地元の若い人たちによるバレエなぞが演じられたが、はっきり現代的なこちらの方がいっそ小さな町総出のまつりらしくて好もしかった。

期せずして2日続けてのイベントデイとなったが、疲労半ば夏休み気分半ばの時間となった。


7月27日 ウズベキスタンへ行く

9月にウズベキスタンへ行こうかと計画している。40年ほど前インドへ赴くとき、玄奘三蔵法師と同じ道を通って行こうと発願し、しかし当時は個人で中国の辺境地帯を通れず、やむなくソ連経由でシベリアのイルクーツクから飛行機でウズベキスタンへ入った。

まず首都タシケント、ついでシルクロードのオアシス都市サマルカンドに行った。文字通りユーラシア大陸のど真ん中、海なぞはるかに遠い内陸そのものの地で、確か季節も同じ9月だったと思う。

タシケントではイスラム圏らしいバザール、サマルカンドでは美しいブルーのモスクが記憶に残っている。

そのあと私は飛行機で隣国アフガニスタンのカブールに入り、ここでだいぶ滞在したのち(私は当時アフガンが世界で一番好きな国だった)、以降は陸路バスを乗り継ぎパキスタン、そしてインドに入り、さらにインド亜大陸を南周りで一周してシャカの地ブダガヤへと至った訳だが、今回はもうそんな大旅行は出来ない。

だんだん思いだしてきたが、あの時私は27歳、旅先のインドのゴアで死にかけて寝込み、折しも病が癒えかけたとき28歳の誕生日を迎えた。

私はいま67歳だからほんとに丸40年ぶりにその時の一部へ行くわけである。ただし今度はたった1週間ちょっと、場所もタシケントとブハラ(寺院とう意味のオアシス都市。サマルカンドに比較的近い)程度だけだ。かつては一人旅だったが、今度は連れ合いと二人、現地では日本語の達者なウズベク人に会ったり、かつて戦後シベリア経由この地に被抑留者として連れてこられた元日本兵らゆかりの地や日本人墓地を取材したりするつもりだ。
ブハラへ行く予定なのも仏教遺跡のほかに日本人墓地があるからだ。

つまり、往昔の玄奘三蔵法師の旅、それに魅かれての27歳の青年放浪の旅、第2次大戦直後の旧日本兵のソ連抑留者(いわゆるシベリア抑留が大半だったがこの中央アジアのウズベクに連れてこられた人たちがいたのである)とそこでの死者、そして今なぜかひどく親日的で日本語を学ぶ者が多いというこのトルコ系民族の人々、などを重ね合わせて、なにか書いてみたいという次第である。

このごろすっかり体力も知力も衰え、物忘れ多く、ボーっと緑ばかり眺めている前期高齢者、さて何をなしうるか。心もとないが、あまり信州に引きこもってばかりいるのも何なので、4年ぶりに外つ国へ出ようというわけだ。

なんと計画してから今回気付いたのだが、若い時から旅好きだった私が、4年も外国に出ていなかったのである。うーむ、かなりの感慨がある。


7月24日 やっと落着く

22日に前期最終授業を終え、学校から近い練馬からそのまま高速バスで小諸へ帰った。帰着が夕6時半、さすがにくたびれていて、この日は早々と寝た。

翌23日土曜日つまり昨日は、かねて約束の遠来の客が沖縄から到着(といっても長野へ行く途中寄るだけだが)したので、小諸駅へ出迎え、懐古園を案内して我が家へ。そのあと小山敬三美術館や連れ合いの実家の若山牧水の碑などを見せ、小諸で一番うまいそば屋「刻(とき)そば」で遅めの昼食をした。

食後は藤村旧居跡や高浜虚子記念館なぞをめぐりあるいたら4時になってしまった。空気自体はわりあい涼しかったが、日当たりは相当暑く、歩きまわるにはやや過剰だったかもしれない。
がまあ、年来の義理が果たせた感もあり、さっぱりした。

今日は日曜日だったが、たまっていた雑事を朝からコンビニ、銀行と片付け、一番の懸案だった畑仕事にかかった。なにしろ天候や東京行のせいで10日ばかり手つかずだった畑は驚くほど草が伸び、畝のありかも分らぬ場所さえある始末だった。

それを午前中かかって草をむしり、未収穫のままだった玉ねぎとらっきょうを掘りだした。いずれも2年物だから、玉は十分大きく、「収穫の喜び」が味わえた。

午後は昼寝後、やはり温泉に入りたくなった。なにしろこっちも2週間くらい御無沙汰していたのである。
で、3時過ぎ、1ヶ月半かけリニューアルしたはずの「あぐりの湯」へ行ったのだが、駐車場を見ただけで満員と分り、近くの布引温泉へ行く先を変更した。

こっちは比較的すいていて、露天風呂が涼しく気持よかった。私は高血圧なので寒い冬や秋・春は露天風呂に入らないけれど、夏だけは入る。対岸の浅間連峰が穏やかに横たわっていてのんびりした。

これでやっと小諸の夏休みらしくなった。


7月22日 研究室で日記を書く。マックである

殆どしたことがなかったが、今日はぽっかり時間が空いたので、研究室で日記を書き始めた。パソコンもここだけはマックなので、多少勝手が違う。

マックは、今年4月に前のパソコン(ウインドウズ)があまりに古くなったため学科で新調してもらうことになったとき、もう10年近く家でもどこでもウインドウズばかりだったので、時々評判を聞くマッキントッシュも一度使ってみたいと言ったところ、それではとパソコンルームにあるのと同じリースものを入れてくれたのだ。

従って、まだ使いだしてほんの3ヶ月である。最初は画面の出し方、使い方、キーボードの配置、キーの種類と少しづつ違うので相応に戸惑ったが、思ったほど違わない感じもした。構造はウインドウズより簡単なので、触っていればさして問題もなく使えた気がする。

が、誰に教わる訳でもないため、ドラッグ&ペーストといった単純なことのやり方がわからず、1ヶ月半ほど知らぬままになり、ついにパソコンルームの係に尋ねてやっと分った。

知ってしまえば簡単で、その頃からだんだんマックの性質みたいなものも飲み込めてきたので、知らぬことも少しいじってみているうちにどうにかなるようになってきた。

画面は自宅のパソコンよりだいぶ大きい上、色彩やデザインはきれいな気がする。学生たちや若い人にはマックの人気が高いが、デザインがかっこいいと思われているのかもしれない。

「あこがれのマック!」などという女子学生もいたりするのでヘーエとちょっと驚くけれど、少数派の孤高感といったものもあるのかもしれない。マックにはウイルスが少ないため、ウイルス対策にあまり神経を使わなくてもいいのも、少数派のメリットだろう。

いずれにせよ、ウインドウズ、マックを併用するのも別に難しくはないことが分り、何となく安心した。マックを全く知らないうちは過剰に特別視していたのである。知ってしまえば何ということもないものだ。


7月18日 朝の収穫、暑さの東京へ

今朝は6時に起き、塀の周りと畑を見まわった。塀には朝顔のつるがだいぶ伸び、すでに6,7輪は咲いている。密生して芽吹いた実生ものが大半なので、花はごく小さいが、元気そうだ。

途中、近所の畑に来ていたTさんからいんげん豆を貰う。私としては今年初物なり。我が家の畑からキウリ2本、オクラ初物たった1個、これも初物のモロヘイヤの葉を収穫。我が家は土のせいか手入れが悪いのか、出来が悪いが、初物はやはり気分がいい。これから食べるが、きっと味もいいだろう。

朝食後、9日ぶりに東京へ向う。今日は休日だが、オープンキャンパス・デイなので専任教員は顔を出さねばならない。以降、いつものように水曜から金曜日まで授業がある。それが終ればいよいよ本格夏休みのはずだが、ほかに何やら雑事が入る可能性もある。なかなか真の解放はない。

それにしても暑さが一番心配だ。私は暑さには本当に弱いから。



7月15日 夜8時過ぎ、やっと涼風が

2年半前小諸へ移転するころから、小諸は涼しい、夏でもクーラーはおろか扇風機さえ不要だ、朝晩は寒いくらいだ、と聞かされてきた。

1年目はほぼその通りだった。冷夏と言われた年のせいもあるが、夏でも本当に暑かったのは10日間くらいで、その時でもクーラーが欲しいとは思わなかった。

ところが去年から暑くなり、今年に至っては6月から真夏並みの暑さで、この2,3日なぞ朝も8時ごろから夜も8時まで窓をあけても涼しくならない。風があればわずかに涼気を感じるがろくに風が吹かぬし、窓をあけぬ方がいいくらいだ。

おかげで、数日前からかなり本気でクーラーを欲しいと感じるようになった。まだ踏み切らないが、2階の書斎は1階より3,4度も高くなり、今現在窓をあけていても30度ある。何かしていても頭がボウーッとして思考は働かず、こりゃあこの部屋だけでもクーラーがあったほうがいいかと考えだしている。

まあ、その前に扇風機を試す手もあるし(今は持っていない)、もともと昔の夏はこんなふうだったと少年時代の夏休みを思い出したりで、全部否定的に考えているわけではないけれど。

聞いてみると、周りの小諸人たちも一家に一部屋だけはクーラーがあり、暑い日はそこに逃げ込むのだそうだ。
さあ、どうするか。せっかくクーラーなしの良さも感じている折だし、迷う。来年以降もこの暑さが続くかどうかも重要事だ。



7月11日 猛暑の小諸祇園まつり

一昨日は市民祭り、昨日は祇園まつりと、小諸市では恒例の夏祭りが続いた。市民祭りは昼間は子供みこし、夕方から夜は大人神輿約40基が出て、一日中「よい、よい」の掛け声が町の各所で響いた。

1時半ごろからは雨が降り、3時ごろにはどしゃ降りとなったが、止むと猛烈な日差しの猛暑日だったから、関係者は降ったほうがよかったと言っている。さもなくば熱中症が出たかもしれないからだろう。

大人神輿もどしゃ降りに遭遇し、さすがに屋根付き駐車場などで休止したりしていたが、もともと雨乞い神事を兼ねる要素があり、水かけをしたりする祭りだから、丁度いいとも言える。

マイミクの鬼丸子氏が横浜から駆け付けたため、彼の旧友、地元出身の建築家林辺氏、それにわが連れ合いも一緒にビールを飲んでは見物した。馴染みの店がこの日だけ特番のロース焼を表でやっていたのでそれを肴に、店の中の席を借りて飲んだ。街は全市民が出てきたかと思うほどぎっしり人波でうずまった。

翌日の祇園祭は、午前11時の天王社神輿出しから始まって、12時の健速神社神起し、階段落しを見、昼どきは「火付け盗賊」なる名の蔵造りの店で焼き鳥と冷奴を肴にまたビールをだいぶ飲んだ。

そして3時に相生通りでの天王社神輿渡しを見た。これは市町のはずれにある小さな社の神輿を新興の商店街相生町の衆が一時借りて、商店街を練るというもので、祇園祭りの神輿は天王・健速の2神輿しか出ないため、他の町内がこういうことをするならわしらしい。私は去年までこのことを知らなかったため、今年初めて一部始終を見ることになった。

その渡しは天王社衆が担いできた神輿を道真ん中の木台に乗せるのに、わざと10回以上もやり直しを繰り返すのが見せ場である。際どく失敗が重ねられ、だんだん本番に近づくさまがなんとなく見物にも分るところがみそで、掛け声がそのつど高まる。

無事に渡しが済んだあとは、一転、路上の茣蓙うえで10代の巫女2人による「浦安の舞」が静々と舞われる。この対比が実に面白かった。

遠来の鬼丸子氏は列車の時刻の都合で「渡し」のすぐあと帰ってしまい、舞を見られなかったのは残念だ。祭は山場の「動」だけでなく、その後の「静」もあって成立する。

私たちも多分祇園祭り史上最高の暑さという炎天下に疲れ、4時前一旦帰宅、夕食後また健速神輿の仮宮納めを見に出るつもりだったが、いざその時刻になったら、もう出る気にならなかった。去年は寒いくらいの祇園だったが、今年は暑すぎて草臥れてしまったのである。



7月7日 下顎部の痛みその後とフシギ

6月15日付けで書いた下顎部の痛みは、7月に入って小諸市の病院口腔外科歯科で受診の結果、親知らずの伸びによる咬み合わせ不良と診断された。

そういえば昨年あたりの志木市の歯科医院定期検診の際、親知らずが伸びているのでちょっと削っておきます、咬み合わせが悪くなるから、みたいなことを言われた気もするが、そのときは実際に咬合不良とか痛みが発生した訳ではないので、その後全く忘れていた。

それに親知らずのことはよく人から痛いとか抜いたとか聞くものの、自分は長年全くそういうことはなかったし、67歳になってまだ歯が伸びるなぞ思ってもいなかったので、考えに入ってこなかった。

だが、歯科医にほんの1、2分親知らずを削られただけで、その日から顎の痛みと腫れが半減、歯の咬み合わせも明らかにかっちりした。そして1日経ったら更に痛みも腫れも引き、固いものを噛んでも痛まなくなった。

まだ完治という訳ではなく、来週にはマウスピースが出来、咬合具合も再調整の手順だが、いやあ、こんなことならもっと早くかかればよかったと悔やんだ。思えば丸2ヶ月ほど痛くて不快だったのだ。

早くかからなかったのは、一つには若い頃以来の歯ぎしりが原因だろうと思い込んだこと、前回の日記の直後、そのせいか否かはっきりしないが、何の前触れもなく「顎関節症専門治療医」を名乗るメールが舞い込み、「うかつに歯を削るな」「顎関節症は諸悪のもと」みたいな言説があったため、通常の歯科医に行くのをためらっていたためだ。

で、口腔外科のある病院を探したり、小諸にするか志木市にするかでも迷っているうち、時間が経ってしまったのである。

それにしてもあのメールは一体なんだったのか。ちゃんと名前も名乗っている歯科口腔外科医のようだったが、誰かから私のことを聞いたのか、あるいは全く偶然の宣伝メールだったのか、いまだに首を傾げる。不可解。



7月3日 クーラーなしの快楽

小諸も結構暑く、今朝も6時半から少し草取りや枝刈りをしたらもう汗だくになった。夜なかも窓をあけておかないと蒸し暑さがある。

が、クーラーはないし、扇風機もない。日中も早朝8時くらいまで窓をあけておいたあと全部閉めると、夕方まで外よりは涼しいし、格別何かをせぬ限り汗をかかない。

東京界隈にいるときは、どこにいても熱風(気)に包まれる感があり、クーラーが必需となることを思えば実に気持がいいし、身体的にラクというか安心感がある。体には確実にこの方がいいだろう。

しかし1昨年の冷夏に比べると去年今年の暑さはこの界隈でも特別らしく、会う人ごち暑い暑いという。緑も6月中旬からはずいぶん濃くなったし、蚊や虫類が多い。昨夕は顔や頭や手などあちこちにムヒをぬって過ごした。

合歓の木が庭にいっぱい茂り、間もなく花を咲かせそうだ。夏椿こと沙羅の花が咲いている。せっかく伸びた茄子の幹が根元から虫に食われて倒れそうだ。くやしいものである。